2000年6月29日木曜日

フェルメール展

 じつは、先日、大阪まで行ってフェルメール展を見てきた。この忙しいときに!と怒られそうだが、オランダはもっと遠いし、この機会を逃したら、次はいつになるやらと思い、意を決した次第だ。  

 久々に羽根を伸ばそうと出かけていったのに、天王寺に着いたところで、入るのに2時間半待ちであることが判明。ここまで来て引き返すわけにもいかず、しぶしぶ列の最後尾に着いた。前後左右はすべておばさん。おじさんと若者もわずかに交じっている。「こんなに並んだのは、万博以来やなあ」なんて会話が聞こえてくる。この人たち、ホンマにみぃーんな絵ぇに興味あるんやろか、とつい意地悪く考えてしまう。  

 そういえば子供のころ、「裸のマハ」と「着衣のマハ」が来たときも大騒ぎだった。ようやく絵が見えてきたと思ったら、もう押し出されていて、何がなんだかよくわからなかった。今回は入場規制をしていたので、そういうひどい事態にはならなかったが、延々と待たされたあげくに、大勢の人に囲まれて見ると、どんな名画でもやはり楽しむことはできない。作品が小さいうえに、窮屈そうな額縁に押し込められているのにも、少し失望した。  

 ところが、フェルメールの5点の作品を見終えて、次の部屋に移ったとたん、はっとした。そこには同時代の画家の作品が飾られていた。どれもフェルメールのように緻密に描かれた室内画だ。でも、何かが違う。窓からの光を見事に描いた作品もあるのに、どこか雑然とした印象を与える。フェルメールの絵にはある緊張感や、澄んだ空気が伝わってこないのだ。 

 何が違うんだろう。それが知りたくて、「青いターバンの少女」をパステルで模写してみた。シンプルな絵なので、形を真似るのはそう難しくない。でも、あの不思議な存在感は出せない。1晩置いてから、もう1度、絵をよく見くらべてみた。すると、模写したほうは、少女の顔の陰影が薄すぎることがわかった。美少女の顔にそんな濃い色を塗るのは気が引けたが、思いきって一番濃い茶色で影を入れてみた。それが正解だった。光は、影が濃いほどいっそう輝いて見えたのである。

 フェルメールの絵は、光の当たるわずかな部分に鮮やかな色を入れて、そのほかの部分を思いきって沈ませることで、あの空気を醸し出していたらしい。そう気づいたところで、ふと、鈴木先生にいつも言われていたことを思い出した。大げさな言いまわしは努めて避けること。そうしないと、ここぞという場面で言葉が生きてこない。うーん、本当にそうだ、と鈍い私はいまごろになってそれを実感したのである。

 それがわかっただけでも、わざわざ大阪まで行った甲斐があったのかもしれない。それに、あの大勢のおばさんたちだって、じつはありがたい存在なのかもしれない。ああいう人たちが文化を支えてくれるからこそ、私もその恩恵に預かれるのだから。

 このときのフェルメールの模写
(画像は2020年11月に追加)

 










『母が娘に語る人生のレシピ』 この本を一言で紹介するのはとても難しい。料理の本でもなければ、生活の知恵袋みたいなものでもなく、自伝もない。生活に潤いを与えてくれる本、とでも言おうか。これを読むと、人生の見方が少し変わる。料理が楽しくなる。彼女の思考の流れについていくのは、なかなか骨が折れたけど、この本に出会えてよかったと思う。

(牧人舎HPではエッセイには含まれていなかったが、原稿に含まれていたので2020年に追加)