2008年1月31日木曜日

娘の成人式

 1人の子供を育てるには、1つの村が必要だ。 

 10年ほど前、ヒラリー・クリントンがこんなアフリカのことわざを引用して、保守派からさんざん叩かれたことがある。子供を育てるのはそれぞれの家の責任、という理由からだ。泣き言を言わず、福祉に頼らず、自力で成功を勝ち取ることを美徳とするアメリカ社会を考えれば、当然のことだろう。  

 当時、幼い娘を抱えながら深夜残業を繰り返し、心身ともにくたびれはてた私は、長年勤めた会社を辞めて失業中だった。産後8週間から会社復帰し、私の母をはじめ、ベビーシッターをしてくれた高校生たちや、娘を預かって夕食、入浴まで面倒を見てくれた隣人に助けられながらどうにかそこまでやってきたものの、子供の寝顔しか見られない日がつづき、喘息の発作で苦しむときもそばにいてやれない現実に、行き場のない怒りを感じていた。家庭を顧みずに仕事をする人間以外は、会社にとって結局、お荷物でしかない。病院の小児ベッドで添い寝をした翌朝も、家に寄って着替えだけしてまた出勤した。時間をやりくりして見舞いに行ってくれた母から、点滴で動けない娘はトイレが間に合わなかったらしく、冷たいままベッドで寝かされていたとあとから聞かされ、我慢の限界に達した。  

 誰にも迷惑をかけまいとして、1人でしゃかりきになって子育てをしてもどうにもならない。誰もが同じ条件のもとに生まれるのなら、自助努力しろと突き放されても仕方ない。でも、普通の人が当然のように与えられるものすらなく、生まれる子供もいる。娘だって、好き好んでこんな境遇に生まれたわけではない。そのハンディは埋め合わせてやらなければならない。私がつまらないプライドを捨てて、多くの人の好意を素直に受ければ、そのほうが結果的に周囲の特定の人たちへの負担が減り、娘はもちろん、誰もが幸せになれる。つまるところ、子供は生物学的な親の所有物ではなく、天からの授かりものであり、生まれた瞬間から親とは別個の存在であって、「村」の一員なのだから。失業保険で暮らし、この先どうなるかわからない不安な時期に聞いたこの言葉に、私はどれだけ救われただろう。 

 私と娘はこれまであまりにも多くの人にお世話になってきたため、いったいどの方角なら足を向けて寝られるのかわからないほどだ。娘の成長に合わせて、着なくなったブランド子供服をダンボールで送りつづけてくれた友人もいた。今晩のおかずから、田舎からの野菜のおすそ分けまで、たくさんの差し入れもいただいた。いつも「どっかへ行きたい病」の娘を、休みが取れない私に代わってドライブや旅行に連れだしてくれた人も、宿を提供してくれた人も大勢いた。パソコンやスコープなどの貴重品も無償で貸与してもらっている。わが家のオンボロPCがなんとか動きつづけているのも、故障するたびに時間の都合をつけて駆けつけ、カンフル剤注入やら臓器移植を試みてくれる奇特な友人がいるからだ。  

 そうやって大勢の人の善意に支えられて育った娘が、今年、めでたく成人式を迎えた。このきれいな振袖は、娘が近所の川で知り合った鳥仲間が、大切なお着物なのに、ご好意で貸して下さったものだ。写真は中学・高校時代の親友とお姉さんが早朝にもかかわらず撮りにきてくれた。娘が頭に挿している髪飾りの羽は、鳥の羽を収集している娘のために、友人たちが各地で拾い集めてくれたものから選んだ。これぞまさしく、Fine feathers make fine birds、馬子にも衣装。  

 娘はまだ学生だが、鳥見と絵描きの趣味を合わせてBIRDERという雑誌に記事を描いたり、鳥の調査を手伝ったりして、自分の小遣いくらいは稼げるまでに成長した。お世話になった「村」に、なんらかのかたちで恩返しができるといい、と願っている。これまで私たち親子を支えてきてくださったみなさん、本当に、本当にありがとう。

 Photo by まちこ

 Photo by まちこ

2008年1月4日金曜日

『2012地球大異変』

 2007年は仕事に追われているうちに、いつの間にか終わっていた。 年末、上智大学管弦楽団の定期演奏会の招待状を弟からもらったので、翌日締め切りの原稿を放りだして、数時間でかけてきた。上智オケの公演など、在学中は一度も聴きに行ったことがなかったが、学生オケにしては本格的な演奏会で、充分に楽しめるものだった。  

 会場で思いがけず、管弦楽団の名誉顧問をされているアルフォンス・デーケン先生にお会いすることができた。デーケン先生の「死の哲学」は確か半年だけの一般教養の科目だったが、講義の内容は卒業後も忘れられないものだった。当時はまだ癌などの病気は患者本人に告知しないことが一般的だった。突然の死を宣告された人はその不条理に怒り、反発し、落ち込むが、やがて徐々にそれを受け入れて、残された日々を豊かに生きられるようになると学んだ私は、癌になったらすぐに教えてほしいと家族に頼んだ覚えがある。 

 死は誰にでもかならず訪れるものだが、人は往々にして死を考えまいとして、いまの生活が永遠につづくかのように錯覚している。でも、死をはっきりと意識して、人生は限られた短いものだと考えることで、人はより充実した生を送れるようになる。大学1年でこうして死を身近に意識させられたおかげで、私は日々を漫然と過ごすような人生は送らずにすんでいるのだと思う。 先を見通す力を英語ではvisionという。人生の果てにある死を意識することも、visionをもつことだ。visionという言葉には視野や視力のような意味もあるし、幻覚という悪い意味もある。平和な世の中では、visionaryは夢想家として笑われる。現に、デーケン先生も1977年に死の哲学の講義を始めた当初は、縁起でもないと周囲から猛反対されたそうだ。高齢化が進んだ現在は、先生が力説されていたターミナル・ケアの考え方が日本でも浸透してきているが、当時はまだ「誰もが若くて永遠に生きており、死に関する話は差別的発言にも等しい」時代だったのかもしれない。 

 実はこの言葉は、暮れに出版された私の訳書『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』のなかで、著者のローレンス・E.ジョセフが書いていたものだ。 “太陽”と呼ばれる一つの時代が2012年12月21日に終わるとするマヤの長期暦を、科学ジャーナリストである著者がさまざまな角度から検証するという、一見、かなり怪しげな本だ。 

 一般にこの世の春を謳歌している人は、近い将来、地球全体に危機が訪れる可能性などまずないと考え、かりにあったとしても、はるか未来の出来事だろうと高を括っている。だが、現代のような状況がこの先もつづく保証は実はどこにもない。変化の時代には、広い視野と長期にわたる見通しをもって、この先に起こりうる事態に備える必要がある。死を意識することでより有意義な人生を送れるようになるのと同様に、文明の終焉を多数の人が予期すれば、人間社会全体はもう少し高尚なものに変化できるのかもしれない。もっとも、そう意識したからといって、現実に大惨事が起きた場合に自分が助かるかどうかは、どうやら別問題らしい。 新しい年が始まって、マヤの予言の日までまた一歩近づいた。現実的な私は、その年に大惨事が起こるとは思っていないが、万一、そこで人生が終わっても悔いが残らないように、これからはなるべく毎日を楽しむことにしよう。 みなさま、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 行徳での初日の出

『2012地球大異変:科学が予言する文明の終焉』
 ローレンス・E・ジョセフ( NHK出版)