2003年10月30日木曜日

子供時代を忘れた大人

 子供が自分になつかず、父親や祖父母にばかりなつく、と悩む母親の投書をこのところ何度か目にした。逆に、子供とどう接していいのかわからない父親も大勢いるだろう。こういう人たちは、概して自分が子供だったころの記憶が乏しく、いかにも常識的な大人なのではないだろうか。大人の目で、自分より劣った存在として子供を見るから、子供の側もそれを敏感に感じとるのだ。  

 私の姪は、その昔、幼稚園の入園試験で「お名前は?」と聞かれて、「言いたかないもん」と答えた経歴の持ち主だ。名門幼稚園だったら、そのひと言で不合格だっただろう。でも、私にはそう答えた姪の気持ちがよくわかる。「お名前は?」「お年はいくつ?」なんて質問は、子供にしてみればうんざりするほど聞いている。そう話しかけてくる大人には、たいていの子供が顔をこわばらせている。  

 同じように、顔を見れば勉強しろとお説教する父親や、日常の動作ひとつひとつに小言を言う母親とも、子供は話をしたくない。親はつねに正しく、子供のやることはつねに間違っていると言わんばかりだからだ。 学校から帰ってきても何も言わない。食事のときも黙りこんでいる。うちの子はいったい学校でどんな様子なんでしょう? こういった話は、保護者会でもよく耳にする。子供から提供できる話題といえば、友達のことや学校であったことが大半だ。でも、友達のことを話すとやたらに詮索され、「そういう子とつきあうのをやめなさい」とか「○○ちゃんはすごいのに、あなたはどうして……」と言われるのがオチだ。だから自然とそういう話はしなくなる。そうかと言って、ほかに親と話す共通の話題がない。じつはそれがいちばん問題なのだ、と私は思う。 

 親のほうがアイドルやゲームやファッションに夢中な家庭は、それがいいかどうかは別として、親子関係はそれなりに良好であることが多い。むしろ問題は、親が古いまじめな世代で、子供はいわゆる今風の若者の家庭だ。親も子も、おたがい相手が理解できず、相手の好きなことにまるで関心がない。そのうえ、自分の関心事を相手が快く思っていないことがわかっているから、それについて話をする気になれない。やがて、親子の会話は途絶えていく。 

 そう考えると、親として大切なことは、たとえ子供がくだらない怪獣や人形に夢中でも、つまらないテレビばかり見ていても、奇抜なヘアスタイルづくりに時間を浪費していても、まずはそれに関心も示してやることだろう。頭ごなしにけなすのではなく、世の中で経験を積んだ人間の目から見た批評を聞かせてやることが肝心だ。それに関する新聞記事や本をさりげなく示してやるのもいい。親の冷静な意見は、そのときは賛成できなくても、頭の隅にかならず残る。親が自分の好きなことに関心を示し、対等の立場で意見を述べてくれたら、どんな子だってうれしいだろう。それは、ひとりの人間として、自分が認められたことを意味するからだ。 

 誰だって、かつては子供だったのだ。そのころ自分がどう感じていたのか思い出せば、おのずから子供にどう話しかければいいのか、何をすべきかわかるのではないか。大人になっても、子供だったときのことを忘れてはいけない。このことを子供時代に教えてくれたたくさんの児童書に、私は感謝したい。