2018年10月30日火曜日

『岩瀬忠震』を読んで

 遅まきながら、『岩瀬忠震』(小野寺龍太著、ミネルヴァ書房)を読んだ。扇子に覚えたての英単語をさらさらと書きつけ、「日本で出会ったなかで最も愛想がよく、聡明な人物」とオリファントに絶賛された幕府の役人が、幕末関連書の端々に登場する初代の外国奉行の一人、岩瀬忠震であることを認識してから、横浜の本覚寺に昭和の後半に建てられた「開港の恩人」の顕彰碑や、東向島白鬚神社の明治初めの「墓碑」を見に行った。だが、彼の生涯についてまとまった本を読むのは、これが初めてだった。 

 わずか2カ月半のあいだに5カ国との条約に署名し、その直後に左遷され、開港後は蟄居を言い渡され、失意のうちに病死した岩瀬は、近年、その評価が大きく上がった。「日本の将来、すなわち開国、貿易、外国文明の移入、産業振興、富国強兵を安政の始めにはっきりと見通し、断固としてその道を推し進めたのは岩瀬を措いて他に見られない」と、著者の小野寺氏は書く。だが、その岩瀬は、安政2(1855)年に下田でロシアのプチャーチンとの再交渉に臨んだころはまだ、「攘夷的気分に浸っていた」らしい。彼は蛮社の獄の「妖怪」鳥居耀蔵の甥で、昌平黌出の儒者なので、無理もないかもしれない。本書によると、アメリカ領事のハリスとの初対面では反感をいだいた岩瀬が開国へと一気に傾いたのは、オランダ船将ファビウスとの安政3(1856)年9月下田での対談だという。オランダの医師ポンペが「トロイの木馬」と呼んだスームビング号、つまりのちの観光丸を回航してきた海軍士官だ。

  ところが、「開国の立役者・岩瀬忠震」は、安政5(1858)年6月18日、ポーハタン号で神奈川小柴まで乗り込んできたハリスのもとへ出張を命じられた日に、越前藩の松平慶永に「梧桐を洗する事方今之緊要」(『橋本景岳全集』2)と書き送っているのだ。この部分を小野寺氏は「松平忠固を辞職させることは日本の為になる」と訳している。梧桐は、桐が家紋の松平伊賀守忠固を意味する隠語らしい。上田藩主の松平忠固は積極的開港を主張しつづけた老中なのに、岩瀬はなぜ辞めさせようとしたのか。  

 ハリスはその数日前、英仏の軍艦数十艘が日本に向かってくると幕府に報告して、揺さぶりをかけていた。岩瀬らは英仏の武力に屈して調印に追い込まれる前に、談判を重ねてきたハリスの助言にしたがってアメリカと条約を結ぶ必要があると考えていた。開港を目指す点では忠固と一致していたはずだが、岩瀬は幕府の独断での調印に懸念をいだいており、その点で両者はぶつかっていた。  

 じつはこの年の1月、堀田正睦と川路聖謨とともに条約勅許をもらいに上京したものの、手ぶらで帰るはめになった岩瀬は、京都を去る前夜に越前藩の橋本左内に会って意気投合していた。「江戸に戻ってからの忠震は条約問題ではなくむしろ世子問題に熱中し」ていた、と小野寺氏は書く。橋下左内は安政4年ごろ開国派に変わっていたが、彼の目下の関心事は一橋慶喜を将軍継嗣にするための裏工作だった。水戸の徳川斉昭というカリスマを父にもつ慶喜を、病弱な将軍家定の後継者とし、外様大名や朝廷も巻き込んで国難を乗り切ろうとする考えだ。当時、人びとを二分していたのは開国か攘夷かではなく、むしろ一橋派か南紀派かであったのだ。後者は、従来どおり将軍はいわばお飾りとして譜代大名の閣老が政治を担うものだった。  

 誰もが将軍継嗣問題に夢中になっていたこの時期に、老中職にあった松平忠固だけは手遅れにならないうちに列強と条約を結ぶことに専念しており、継嗣問題は二の次と考えていた。「長袖[公卿]の望ミニ適ふやうにと議するとも果てしなき事なれハ、此表限りに取計らハすしては覇府の権もなく時機を失ひ天下の事を誤る」(『昨夢紀事』4)というのは、条約調印の当日、6月19日の城中の評議で、勅許など待たずに調印すべきだと強く主張した際の忠固の弁だ。調印をなるべく延期するようにと井伊大老に指示され、では交渉が行き詰まった場合はどうするかと下田奉行の井上清直が問うと、「其節ハ致方無之」だが、でもなるべくと井伊は言い淀んだ(『史料 公用方秘録』2007)。忠固の生涯を描いた『あらしの江戸城』(猪坂直一、1958)という小説では、このあと忠固が井上・岩瀬両人に「『大老の仰せは、最後は貴殿等両人に任せるという事じゃ』と言って、暗に勇断あるのみという意を示した」とされる。この裏づけ史料はまだ見つけていないが、このときの会議を忠固が押し切ったのは疑いない。  

 忠固の日記はまだ読めていないが、政敵が残した記録を読む限りでは、忖度とは無縁の、潔癖でとっつきにくい性格であったようだ。国難に際して、大政は関東に委任されているという幕府の伝統を主張した忠固は、「京を軽蔑せらるゝハ以の外」と慶永には言われ、堀田政睦にまで「旧套固執」と決めつけられ、宇和島の伊達宗城には「伊賀といへる奸物」扱いされ、井伊直弼からは「伊賀抔ハ小身者の分際として」と蔑まされた。将軍家定の前で条約をめぐって井伊と「台前大議論」となり、岩瀬は左内に「愛牛(井伊)之逆鱗は定て條傳(忠固)と相觸候事に相察候」と書き送った。  忠固はもともと姫路城主の酒井家の出で、通商・交易による富国政策への転換をいち早く理解し、ペリー来航時には無謀な攘夷を唱える水戸の斉昭に対抗している。『昨夢紀事』を書いた中根雪江は、開港やむなしの立場ではあったが、斉昭の信奉者であり、忠固が老中に再任した当初から、「元來姦詐にして僻見ある人」として忠固を警戒し、買収工作に失敗したのちは、「伊賀殿、殊に横柄を振はれ余抔をハ廃立を謀る不忠者の様に罵り辱しめらるゝこそ口惜けれ」と、嫌悪をあらわにした。

「伊賀殿ハ衆人の嫌悪する處にて」と中根が書くように、忠固を共通の敵とすることで、本来対立していた井伊、慶永、堀田間が味方同士になるような、いじめの構図すら感じられる。  
 
 大老就任早々、井伊が忠固の罷免を画策するなか、継嗣問題が片づくまではと将軍家定が罷免を先延ばしにしているのを察知したのか、忠固は登城しない、「異存申立」るなど抵抗を試み、京都の武家伝奏からの答書の到着を隠して公式発表を先延ばしにし、その間にハリスとの条約を締結させた可能性もあるらしい。わずか数カ月間、越前藩の裏工作に加担するうちに、煙たい上司のような忠固に敵意をいだくようになったのか、岩瀬は日米修好通商条約の調印という一大事すら、「事後に枢機の責任が問われることも予見して」強行突破し、まずは「梧桐を洗する事」が肝心と考えたと、北海学園大学の菊池久教授は「井伊直弼試論〜幕末政争の一断面」(2018)で示唆する。  

 一方の南紀派も、意のままにならない忠固を罷免しようと盛んに工作していた。東京大学史料編纂所の『大日本維新史料』の井伊家史料にもその一端が見られるが、将軍家定や側用人が忠固の罷免を拒みつづけた箇所は省かれている。この史料の原典となった「公用方秘録」は、明治政府の修史館へ提出された際に大幅な改変がなされていたのだ。条約調印の当日、6月19日の記事では、「公用方秘録」の改竄箇所は先の引用につづく部分で、井伊は実際には「事態の深刻さに後悔し、成す術を失っていた」(母利美和氏の解題)のに、明治政府に迎合して「平常、天朝を御尊敬被遊候御前」という言葉が加えられ、「勅許を待ざる重罪ハ甘じて我等壱人受候」という決意表明に書き換えられていたことが研究によって判明している(『史料 公用方秘録』に詳しい)。  

 小野寺氏はこうした事実に目をつぶったのか、福地源一郎や徳富蘇峰以来の路線を踏襲したのか、このときの井伊を「最高責任者として当然ではあるが立派な態度であった」ともちあげる一方で、忠固については「諸悪の根源」、「表裏のある」、「隠れアンチ一橋派」と酷評する。井上と並んで岩瀬が外国奉行として尽力したことは疑いないが、『昨夢紀事』や左内との書状などを読むと、「天性の陰謀家」は忠固ではなく、岩瀬や左内のほうだろうと思う。国政の機密を漏らしつづけたのは岩瀬なのだ。彼を英雄視するあまり、開国に向けて幕閣として孤軍奮闘した松平忠固を不当に貶める書き方はいただけない。罷免された翌年9月、忠固はおそらく水戸の関係者に拳銃で暗殺されたと猪坂直一氏は書いた。岩瀬は訃報を聞いて溜飲を下げたのだろうか。

『岩瀬忠震』 小野寺龍太著(ミネルヴァ書房)

 本覚寺にある岩瀬忠震の顕彰碑

 東向島白鬚神社にある「墓碑」

『史料 公用方秘録』 佐々木克編(彦根城博物館叢書)

『あらしの江戸城』 猪坂直一著(上田市立博物館)