2006年10月30日月曜日

恋愛小説の翻訳

 10月になって娘の大学が始まり、朝5時半に起きて弁当をつくる生活に戻った。早起きするせいで午前中が有効に使えるのはいいけれど、午後になるとさすがに集中力も切れてくる。しかも、このところ日がな一日、恋愛小説を訳しているので、唯一の楽しみは、あと何ミリ……と右側半分のページの厚みが減っていくのを確かめることだったりする。  

「おとぎ話のような恋」とか書かれていると、ついげんなりしてしまう私だが、どんな本にもそれなりに発見はある。見知らぬ著者が書いた話を1文1文訳していく作業のなかで、訳者は著者の視点に立って物事を見ざるをえない。ただ読むだけなら、気に入らなければ本を閉じてしまえばいいし、反論も批判も自由だ。でも、翻訳の場合は、最後まで著者に付き合い、その主張を文章にしなければならない。だから、思考回路が異なる著者や、価値観の違う書き手の作品は疲れる。でも、考えてみれば、そういう作業をすることで、自分とは違う理論で、違う常識で物事を眺める習慣はついたのかもしれない。  

 たとえば、今回のヒロインは望まない妊娠に気づいたとき、自分で産んで育てるか、養子にだすかで迷う。一瞬、abortion(中絶)の間違いかと思ったが、確かにadoption(養子縁組)だった。舞台がアリゾナ州という保守的な土地だからか、中絶は選択肢にものぼらなかった。女性の場合、妊娠・出産は多くの犠牲をともなうから、養子にだしても世間体を保つうえでは役立たない。それでも、産むか産まないかの選択はなく、あるのは自分で育てるか人に育ててもらうかの選択だけなのだ。中絶が合法で、水子供養という免罪符までそろっている日本とはずいぶん違う。結局、未婚の母や養子制度を受け入れる許容量が社会にあるからなのか。堕胎は殺人という倫理観の問題なのか。それとも、アリゾナでは単に中絶が基本的に違法だからか。  

 こうしたことを考えだすと、しだいに頭が煮詰まってきて、それ以上パソコンの画面と向き合っていられなくなる。そこで、小雨のぱらつく強風のなか、私は外へ飛びだした。別にどこでもいいのだが、数年前、精神的に辛かったころよく通った神社に久々に行ってみた。途中の山道は、いまやすっかり住宅街に変わっていて、その真ん中に、梨農家が、バージニア・リー・バートンの『ちいさいおうち』のように、所在なげに座っていた。あと何十年か経てば、この家も、私が存在した痕跡もどうせなくなるのだから、あれこれ思い煩っても仕方ないか、と妙に心が軽くなる。  

 神社でわずかな賽銭を入れ、盛りだくさんのお願いごとをしたあと、急な坂道を登る途中で子猫を見つけた。あとを追うと、合計3匹の子猫と親らしき猫が2匹いた。子猫のうちの1匹は三毛猫だ。そう言えば、先ほどの小説に雄のcalico catがでてくるけれど、確か三毛猫はかならず雌と聞いたような……。家に帰ってネットで調べてみると、3万分の1の確率で三毛の雄も産まれることがわかった。猫の毛の色が変化してきたのは、人間がペット化したせいで、野生の猫は自然に同化する色になることも知った。要するに、適者生存の原理がどちらでもはたらいているのだ。ペットではきれいな色が好まれ、自然界では目立たない色が生き延びる。  

 こんなことをあれこれ考え、調べ、あとはひたすらパソコンに文字を打ち込んで、私の1日はまた過ぎていく。よく耐えているね、と娘にしょっちゅう言われている。でも、自分で選んだんじゃない、とも。