2023年8月31日木曜日

祖先探しはつづく

 今朝、向島のお寺に行ってきた。この数カ月間、時間を見つけては母が残した雑多な写真を整理してきたのだが、少し前に一枚の古いお墓参りの写真に目が釘付けになったことがあった。祖母をはじめとする親戚の女性たちが記念撮影で並ぶ背後に、建て替えする前のお墓の墓碑がはっきりと写っていたのだ。しかも、別の写真からすでに文字を読み取っていた曾祖父の墓ではなく、隣にもう一基あったヒョロ長い墓碑だ。  

 昔の記憶を掘り起こせば、確かに隣にもう一基あったのに、誰も見向きもしていなかった。写真の戒名に「従七位」の文字を読み取った途端、私はこれが高祖父の門倉伝次郎の墓碑であり、隣に並ぶ戒名は妻のことさんに違いないと思った。明治8年6月に従七位に叙されたと、『上田郷友会月報』などに書かれており、そんな人はほかに思い当たらないからだ。昔の写真をあれこれ探すと、私自身が撮影した写真から墓碑の側面の文字もいくらか読め、その日付が高祖父の死亡日と同じだったので、これは間違いないと確信した。  

 母が迎えることのなかった88歳の誕生日の翌日のえらく暑い日に、姉とお墓参りに行った際に、私はあれこれ集めた古い写真の画像をA4サイズ1枚にまとめて、建て替え前のお墓の記録が、石屋さんなり、どこかに残っていないだろうかと、思い切ってご住職に相談してみた。すると、本堂まで焼けた関東大震災や東京大空襲の折に、過去帳を背負って逃げたという話を聞いているので、一応調べてみようと寛大にもおっしゃってくださった。このお墓は曾祖父が建てたことはわかっているので、その前の代について過去帳に何か書かれている可能性は非常に低い。しかし、高祖母は祖父が生まれたあとまで生きていた可能性が高いので、ご住職の調査に一縷の望みをかけてみた。

 というのも、私が小学校に入る前後のころ、祖父が姉の顔をまじまじと見て、「おこと婆さんに似ている」と唐突に言いだしたことがあったのだ。子ども時代の私は、婆さんに似ているなんて、ひどいこと言うなと思ったのだが、いまになって考えてみれば、「似ている」というからには、祖父はおこと婆さんの顔を知っていたはずで、その婆さんはおそらく姉のように色白だったのだろうとも推測できる。  

 その後、その件は忘れて翻訳の仕事を終えるのに没頭したのち、お盆明けには上田に再び調査に出かけた。歴史研究という意味では、今回の旅は大きな収穫がいくつもあったが、祖先探しという点では、祖先が藤井松平家に出仕したのが、3代忠周の関東の岩槻時代ではなく、なぜか兵庫県の出石時代(元禄2年から宝永3年)であったことがわかったほかは、上田図書館で拝見した嘉永年間の上田の城郭絵図に、伝次郎の父の門蔵の名前を見つけたことくらいだった。 

 これはこれで画期的なことで、何よりも、長屋が並ぶごちゃごちゃとしたその一角の隣人が、どうやら一年ほど前に「信州上田デジタルマップ」を通じて知り合いになった方のご先祖らしいことがわかるなど、まだお会いしたことのない子孫同士で、大いに盛り上がったりした。すでに上田の地図をいくつも調べていらしたその方から情報をもとに、門倉門蔵(まさに親の顔を見てみたいネーミング)がいた場所が、現上田市役所の道路を挟んで向かい側くらいの位置で、上田高校のある場所の外には馬場があったことなどもわかり、代々馬役の門倉さんにしてみれば、職住接近の立地であることなども教えていただいた。 

 上田から戻って、ようやく次の仕事にぼちぼち取り掛かったころに、何と、ご住職からお電話を頂戴したのだ。記録が見つかりました、と。 

 そんなわけで、今朝、相変わらずの猛暑のなか、お寺まで出かけてきた。熱心な檀家でもない私のために、ご高齢のご住職がお盆や法事で忙しい合間に、古い過去帳を繰ってくださったことや、私が口頭でお伝えした些細なこともよく記憶してくださったことに、そして何よりも、震災と戦災に苛まれたこの地域で、古い記録を守りつづけてくださったことに、私は深く感動した。 

 判明した事実はそう多くはない。高祖父母は、曾祖父がお墓を建てたと推測される1912年ごろより前に亡くなっており、2人の記録は過去帳の余白に追記されていたという。それでも、そこから2人の正確な戒名がわかったほか、おこと婆さんの死亡年月日が明治39(1906)年2月11日であったことが判明した。祖父が4歳のころだ。伝次郎の死後、曾祖父は老母を呼び寄せて一緒に暮らしていたのだろうと、私は思う。4歳のときの記憶が、面影のある色白の孫を見て、祖父の脳裡に甦ったのだろうか。それとも遺影を日々見ていたのだろうか。祖父の家は関東大震災で丸焼けになっているので、おこと婆さんの写真は残っていない。過去帳の余白には、俗名は書かれておらず、ただ「本所区緑町 門倉氏」とあるのみだったそうだ。しかし、戒名のなかに「壽」の字があり、その字と伝次郎の戒名の最初の「鶴」の字が、曾祖父の戒名になっているので、壽(こと)さんと書いたのではないかと想像している。緑町に移ったのは、菊川で開業していた曾祖父が早死にしたのちのことなので、曾祖父のお墓をもう一基建てた際に、6人の子をかかえて寡婦となった曾祖母がお寺にお願いしたのではないだろうか。そのうち1人は早逝している。 

 寺務所を辞して、墓前で今日の成果をご先祖さまたちに報告したあと、もう暑さでかなり参っていたが、八広まで行ってみることにした。十分に歩ける距離なのだが、どうも数日前に熱中症になったようで体調も思わしくなく、軟弱にも電車で移動した。八広の地名すら、恥ずかしながらこれまで知らなかったのだが、荒川沿いのこの場所が、関東大震災の折に朝鮮人虐殺事件があった場所であることを新聞で知ったためだ。明日は関東大震災の100周年記念だ。私の祖先もこの震災で散々な目に遭ったが、焼死した人はなく、こうして100年後でも先祖の生きた証をいくらかは探しだすことができる。震災後の集団ヒステリーで虐殺され、遺体がどうなったかすらわからない人たちのことや、その遺族のことを思った。追悼碑の横にある「ほうせんかの家」には、今年の追悼式は9月2日行なう旨の張り紙があった。 

 私は追悼碑の前で黙祷したあと、荒川の土手まで登ってみた。屋形船の乗り場があり、空には小さい秋のような鱗雲がうっすらと出ていた。100年前にこの場所でそんな惨劇が繰り広げられたことは想像できなかったが、時代はまたきな臭い方向に向かっている。

母の亡従姉妹が撮影してくれた奇跡の一枚。これがなければ調査はできなかった

 上田市立上田図書館で拝見した嘉永期の地図

 八広の土手から見た荒川河川敷

 ほうせんかの家の横にある追悼碑

2023年8月3日木曜日

悩ましい「ナラティヴ」

 最近、と言っても、この10年くらいのあいだに、ナラティヴ(narrative)という言葉に遭遇する機会が増え、そのたびに訳語に頭を悩ましている。ナラティヴを「物語」と訳してしまえばそれまでなのだろうが、ナラティヴとストーリーがいかに違うかを説明するサイトをあれこれ読むと、そう簡単には訳せないと思ってしまう。  

 これが多用されるようになった背景には、1960年代からのフランス構造主義者の文学理論やロシア・フォルマリズムから生まれた物語論があったようだ。が、そうした複雑な経緯は、ちらりと読んだくらいでは一向に理解できない。 ナラティヴとは何かをより端的に説明したものなどを読むと、人間の脳は個別の事実をいくら並べられても、そこからは何も理解できず、誰かがその点と点を結びつけて、意味の通る筋書きつくって初めて、そこに関心をもつようになり、それがナラティヴなのだという。 

「物語」という訳語に私が抵抗を感じてきた一因には、なぜかそう言うと架空の作り話のような気がすることもあった。英語のストーリーにも日本の物語にも、事実か創作かを区別する定義はないのに、事実であることがことさら重視される科学分野の説明にたいし「物語風」などと言うことにはどうも違和感がある。ただでさえ多くの疑念の目で見られがちな気候科学の分野などでは、「物語」とは書きたくないなと、つい思ってしまうのだった。 

 そんなナラティヴという手法が、近年ではとみに世論を操作する手段としても使われている。そのため、文脈からそれがよい意味で使われているのか、悪い意味で使われているのかも判断しなければならない。決して架空の話をでっち上げているわけではなくても、自分の主張に沿った事実だけを巧みに選んで、説得力のある「語り口」で、有利な「筋書き」を展開することも、やはりナラティヴだからだ。  

 このところ、毎日新聞の記者、大治朋子さんがナラティヴに関連した記事をいくつか書いていたので、とりあえず切り抜きだけして、適切な訳語を探るヒントがないかチェックしている。とくに7月11日付の紛争地で個人や社会のアイデンティティを形成する「集合的で支配的な物語」に関する記事などは面白かった。ご著書の『人を動かすナラティブ、なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』は図書館にリクエスト中で未読だが、この本の紹介で、養老孟司さんが「(ナラティブは)脳が持っているほとんど唯一の形式」と語っていることなどもわかり、ふむふむと思っている。 

 歴史小説や自己主張の強すぎる歴史書は総じて苦手なほうだが、それは一方的な視点の押し付けにあざとさを感じるからだ。歴史は運よく残された文字記録をつなぎ合わせて、大半は勝者の視点から語られることが多く、そのためにどうしても胡散臭さを感じてしまう。もっと客観的に多方面から史料を提示し、読者自身に物語を紡がせ、判断させるべきというのが持論だが、史料集を読んでそこから話をつなぎ合わせ、何かを読み取れるのは、実際にはごくわずかな人に限られるのかもしれない。  

 そんな話を、図鑑タイプでない科学絵本づくりにこだわっている娘にしたら、「そうだよ、ナラティヴな科学絵本をつくっているんだよ」とあっさり言われてしまった。娘の場合はもちろん、子どもに科学的な興味をもたせるためには、そこに物語が必要だという意味で使っている。  

 この数日間、少しばかり時間の余裕ができたので、重い腰を上げて亡母の写真整理を始めているが、考えてみればこれも、母の生涯を子孫に伝えるためのナラティヴをつくる作業なのだ。未整理の大量の古い写真をそのまま残せば、数十年後には誰かがただゴミとして処分してしまうのは目に見えている。  

 母が遺した写真をどうまとめるかはまだ検討中だが、87年の生涯のあいだにはいくつものドラマがあった。幼児期の写真がかなりあるのに、入学した年の暮れに太平洋戦争が始まったためか、長野師範付属小学校時代の写真は一枚も発見できなかった。戦争中に教科書を黒塗りさせた「青瓢箪」先生が、戦後にその行為を謝罪することなく、素知らぬ顔で正反対の授業を始めたことが許せなかったと、よく私たちに言っていた。開戦の朝、祖父が「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と言ったそうで、学校の作文にそう書いたところ訂正させられたと、後年、伯母が新聞に投書していた。母は小学校6年の暮れに松代小学校に転校しており、かろうじてその卒業式の写真だけが見つかった。 

 母のきょうだい6人は、横浜国大に行った叔母以外は全員が都内の私立に進学したため、祖父母は非常に苦労をしたようだ。母が大学3年次に祖母が遺産で保土ヶ谷に中古の家を買い、そこで姉妹で暮らすようになった。山道のような急坂を登った上にある月見台のこの家の跡地を、2年前に母と訪ねたことがある。女の子だけで住むのは物騒だというので、ドルフという名の番犬も祖母が買い与えていた。いとこによると、伯母は「番犬がこわかった。でも、もっと洵子[私の母]がこわかった」と、よく話していたそうだ。母の妹や弟たちからもよく同様の話を聞かされていたが、姉である伯母にも怖がられていたとは。  

 両親は創業したばかりの高輪プリンスホテルで1957年に結婚式を挙げた。当時何と呼ばれていたか定かでないが、写真に写る洋館は1911年築の旧竹田宮邸(あのお騒がせ親子のご先祖のお屋敷)で、グランドプリンスホテル高輪の敷地内に現存する。当日、母方の祖父は上機嫌だったようで、庭園で満面の笑みを浮かべる写真もあった。母方の祖母のほうは当初から父が気に入らず、父方の祖母も母が気に入らなかったと言われ、そのせいか双方の祖母の表情は対照的に硬い。

 母がお色直しに着た振袖は、祖母が張り込んで用意してくれたものだったが、結婚後、父と住みつづけた保土ヶ谷の家に空き巣が入り、盗まれてしまったらしい。番犬ドルフは何をしていたのやら。振袖はおそらく妹たちも着るはずのものだったのだろう。母は、父が酔っ払ってタクシーに乗った際に、運転手に不用意にその話をしたせいだと頑なに信じ、それが不和を招く一因になったと、父の死後に叔母から聞いたように思う。  

 私が幼かったころの写真は、自分の記憶違いを正してくれるものにもなった。母が近所のお母さんたちと保育の会をつくって幼児教室を開き、私も2歳のころしばらく通っていたことはうっすら覚えていたが、母がそこで先生をしていたことまでは認識していなかった。母がオルガンを弾き、そのすぐ隣で、姉がひな祭り用の妙な金色の冠をかぶって真剣な顔でお遊戯をし、私と思われる幼い子が、同じ冠をかぶって戸惑っている写真を見つけたときは、失笑してしまった。幼児教室では、私のピアノの先生や、幼馴染のお母さんも先生をしていたようで、当時はまさしく親たちによる手作りの教室だったようだ。  

 古い写真をスキャンし、拡大して眺めながら、そんなことをつらつらと考えるうちに、点と点がつながり、ああ、そういうわけだったかと納得しながら、なるほどこれがナラティヴの萌芽だな、などと考えている。87年の生涯からは膨大な数の写真が残されており、そのすべては残せないし、祖父母のアルバムのときのように冊子をつくるならば、かなりの取捨選択を強いられる。そこで私が選んでつなぎ合わせたものは、ナラティヴの力を借りて、あと数十年は伝えられるかもしれないが、私が選ばなかったものは、忘却されてしまうのだろう。

 こう理解できたからと言って、どの文脈にも合うナラティヴの訳語はやはり思いつかない。こうしてカタカナ語は増殖する一方となるに違いない。

「象山のあずまやにて」と、母のやや幼い字で裏書きがあった。松代中学1年時か

 保土ヶ谷の月見台の家で妹とドルフと

 高輪プリンスホテルで挙式後に

 高根台の幼児教室で