2019年3月29日金曜日

『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』

 『明治の若き群像 森有礼旧蔵アルバム』(平凡社、2006)という本を図書館で借りたところ非常におもしろかったので、古本を購入してみた。犬塚孝明氏の書かれたものはいくつか読んだことがあり、いずれも示唆に富むおもしろい内容だったが、本書もその期待を裏切ることのないものだった。旧蔵アルバムというのは、共著者の石黒敬章氏の父上が古書市か古書店で入手した5冊のアルバムのことで、イギリス製革表紙の重厚なアルバムのなかに、カルト・ド・ヴィジット(cdvの略称で知られる)が約400枚ぎっしり詰まっていた。そのうちの3分の2 が肖像写真という。これは名刺サイズの厚紙に薄い鶏卵紙に焼きつけた写真を貼り合わせたもので、写真が普及しだした1860年代から名刺代わりに、あるいは有名人のブロマイドや絵葉書代わりに大量に生産され、ヴィクトリア朝時代のイギリスでは客間にかならずこうしたアルバムが置かれ、カルトマニアと呼ばれる蒐集家まで出現するほどだったそうだ。元祖ポケモンカードというよりは、むしろ元祖フェイスブックのようなもので、自分の交流範囲や渡航履歴をさりげなく示すものだったのだろう。
 
 名刺のように、数十枚単位で印刷されたはずのカルトだが、森有礼のアルバムに残されたものしか現存しないもののも多いと思われ、アルバムを最初に手にしたときのお父上の興奮ぶりが目に浮かぶようだ。裏面に森が名前をメモしていたり、当人の署名やメッセージが書かれていたりするものもかなりあるが、薩摩や長州からの留学生の研究をされた犬塚氏が、方々の記録と照らし合わせながら人物を特定したケースも多々ある。時代背景を説明しながら、膨大な数のカルトの人物を紹介する解説は、画像の助けを借りて大量の登場人物を頭に入れ込むには最適のものだ。  

 この本を手に取る直接のきっかけは、アメリカのラトガーズ大学に残された日本からの留学生写真に写る人物を特定したかったためだった。幕末の1866年に密航した横井小楠の二人の甥に始まり、同大学には明治初期にかけて大勢の日本人留学生が詰めかけた。それもこれも、開国後まもない日本に最初にやってきた宣教師たちの多くがアメリカ・オランダ改革派で、とりわけ長崎にあった佐賀藩の致遠館で教えていたフルベッキが、自分の属する宗派の学校に留学生を送る便宜を図ったからだ。同大学があるニュージャージー州ニューブランズウィックのD. Clark写真館撮影とわかるカルトを集めたページには8枚が並ぶ。海援隊にいた菅野覚兵衛や白峰駿馬、元薩摩藩士の最上五郎に井上良智、薩摩の支藩である佐土原からの平山太郎と推定される人物の横にいる華奢な若者は、まず間違いなく勝海舟の息子の小鹿だ。小松宮と推測されていた人物は、白峰、菅野と三人で撮影された写真や、ラトガーズの集合写真の一枚に写っている体格のいい男性に似ている気がする。小松宮であれば上野公園の騎馬像の人だが、この時期イギリスに数年間留学していたことしかわからなかった(後日、南部藩の奈良真志と判明した)。  

 私にとって気になるのは、南部英麿、14歳と書かれた一枚だ。盛岡藩主の次男に生まれ、のちに大隈重信の養嗣子となり、早稲田の前身の学校の初代校長となる人物で、華頂宮博経に嫁いだ姉とともに渡米している。その随行員であった元岡山藩士の土倉正彦のカルトも同じページにあるので、時期的にも、後年の写真と比較しても、このカルトの若者は南部英麿の可能性が高い。彼の名前は1872年のラトガーズの集合写真のなかの人物としてもよく挙げられている。悩ましいのは、南部英麿が面長の端正な顔に目立つ大きな耳をしていて、若い時分はとくに、上田藩の最後の藩主で、この年にラトガーズに留学した松平忠礼とよく似ていることだ。英麿のほうが二重のせいか表情が柔和であり、耳も忠礼ほど妖精のように突きだしてはない。集合写真から細部を判断するのは困難で、渡航時期や撮影時期を詳細に検討するしかない。  

 同書には同じ写真館で撮影されたカルトとしてほかにも、岩倉具定・具経兄弟や、二人に随行した折田彦市、山本重輔のカルトもある。鉄道技師となった山本重輔は、碓氷峠の列車逆走事故で息子とともに落命した人だが、彼の顔を見た途端、思わず声を上げた。1867年に福井藩からラトガーズ大学に留学し、卒業を前にして結核で客死した日下部太郎の墓前に写る4名の留学生のうち、跪いている人物とそっくりだからだ。小鹿に随行した高木三郎と薩摩の畠山義成の名前は判明している。残る1名は薩摩の吉田清成と私は見ている。森有礼のアルバムにはもちろん全員が含まれていた。  

 貴重な写真が惜しみなく掲載されているだけでなく、同書の記述もじつに興味深い。森有礼は、これまでも国語教育や木挽町の豪邸などに関連して、少しばかりその業績は知ってはいたが、1874年に『明六雑誌』に発表された彼の「妻妾論」に関する考察がとくにおもしろかった。その翌年、広瀬常と日本で最初に契約結婚をしたことで知られる彼の「妻妾論」は、「近代的婚姻観に基づく最初の一夫一婦論であったばかりでなく、男女の対等、女子教育の必要性を説いた斬新な女性論でもあった」。森有礼の「妻妾論」そのものは読んでいないので、犬塚氏の解説の受け売りだが、「女性も男性と同じく、優れた教育を受けねばならない。女性が妻として家を守り、母として子を育てるの責任は重い。一に国家の発展と文明の進歩に直接つながるものだからである」という趣旨のようだ。ウィキペディアの「明六雑誌」の項には、「森の眼には、日本における妻妾制・妻妾同居は不自然極まりないものとして映じた」と書かれている。この後、1882年には妾という存在は少なくとも法的には認められないものとなったそうだ。森夫婦は愛らしい子供たちに恵まれたが、11年後に離婚した。有礼はその後、岩倉具視の5女寛子と再婚したが、2年も経ずして暗殺された。  

 彼の「妻妾論」は、男女の平等、女子教育といった観点からは、大いに評価できるが、一夫一婦制そのものがブルジョワ階級の台頭と私有財産制と切り離せない制度であることは、一度じっくり考えてみる必要がありそうだ。翻訳中の科学と女性差別に関する本にも引用されていたフリードリヒ・エンゲルスの次の言葉が思いだされる。 「男性は家庭でも指導権を握った。女性は貶められ、隷属状態に陥らされ、男の欲望の奴隷となり、子供を産むための単なる道具となったのだ」。「私有財産をもつ家庭では、〈不貞を働く権利〉は一方的に男性の特権」であると、エンゲルスが指摘したとおり、表向きは文明化された日本の結婚制度下でも、権力者は愛人を何人も囲っていた。上田の松平忠礼も帰国後、最初の妻と離縁して後妻を迎えたうえに、側室もいたようだ。ヴィクトリア朝時代のイギリスも、実態はさほど変わらなかったのだろう。薩摩密航留学生として17歳で渡英した森有礼は、妻妾論の是非はともあれ、思考面で西洋化した、もしくはその理想に共感した最初の日本人と言えそうだ。