2022年3月27日日曜日

『歴史修正主義』を読んで

 英語には「Words fail me.」という妙な表現があるが、この「言葉にならない」状態を、いままさに実感している。 1月の下旬、世界終末時計がまた一歩進んで、訳注を書き換えなければならないのではないかと今年の発表を気にしていたのだが、そのときはまだ昨年と変わらず、1分40秒前という戦後最も0時に近づいた状態を保っていた。だが、その後の2カ月間で、核戦争という言葉が日々聞かれるようになり、さらに進んだのは間違いない。 

 私を含め、大多数の人は、ものづくりだろうが商売だろうが、スポーツや芸術だろうが、学問や研究だろうが、平和な世の中だからこそ意味のあることに従事している。いざ戦争になって、身一つで逃げなければならなくなったら、これまでのあらゆる努力が水泡に帰してしまう。夫や父や息子を置いて、小さな鞄だけをかかえて隣国に逃げださなければならなかったウクライナ難民は、すでに350万人を超えるという。その大半を受け入れているポーランドは、いったいどうやりくりしているのか。  

 先行きが見えず、もやもやしたなかで、FB友の方に勧められて、武井彩佳氏の『歴史修正主義:ヒトラー賛美、ホロコースト否定論から法規制まで』(中央公論新社)を借りて読んでみた。歴史研究に少しばかり足を突っ込み、自分で一次史料を読んでみた結果、従来の通説にいくつもの疑念をいだかざるをえなくなった私としては、自分のそうした主張も、歴史修正主義と呼ばれるものなのか、ずっと気になっていた。本書を読んで歴史修正主義と非難されるものの定義がよく理解できたことは、その意味でも大きな収穫だった。 

「歴史家は誰もがその時代と環境が産み落とした子どもに過ぎず、自分が属する社会集団や文化によって規定される枠組みのなかでものを考えている。[……]これに加え、私たちの思考そのものが言語による制約を受ける」という、著者の歴史にたいする認識は、私がこれまで感じてきたことそのものだ。「歴史は単数ではなく、常に複数であり、また固定的な歴史像というものは存在しない。歴史は常に〈修正〉され続ける運命にある。また、歴史的〈事実〉はある程度確定できるが、歴史的〈真実〉がどこにあるかを知ることはできない」という説明も腑に落ちた。  

 ホロコースト否定論に大きな焦点を当てた本書の内容は、南京大虐殺を否定したり、東京裁判を批判したりする同種の主張の欠陥を炙りだすうえで役立つだろう。実際、パル判事が「事後法」だと主張した件については、いろいろ関連資料を読んでみたいと思っていたので、いまだに蒸し返される戦犯問題を考えるうえでじっくりと読み直してみたい。  

 しかしそれ以上に、いまの私には、ホロコースト否定論が極右の台頭とともに増え、とりわけユーゴスラヴィア内戦でドイツへ大量の難民流入があった1990年代初頭から盛んになったという指摘が印象に残った。その一方、東欧の旧ソ連衛星国が「ヨーロッパ人」のアイデンティティを確立するうえで、「共産主義体制へ抵抗した事実が、正統性の根拠とされた。[……]西側の自由主義的な価値観を進んで受け入れる意志が示され、その歴史観に大きく接近する。[……]旧共産圏の国々は二〇〇四年以降、順次EUへの加盟を果たしていくが、東欧諸国が西欧諸国とともにホロコーストの歴史を共有していることが、皮肉にも彼らがヨーロッパの一部であることの証となった」という指摘も興味深い。

 歴史はこのようにつねに政治と密接にかかわるが、国の歴史を国民に共有させ、国民であることを誇れる歴史を提示することは、どうしても歴史修正主義につながりやすい。しかし、「長期的に見ると、自国民のみが満足する歴史は、将来の選択肢をせばめている」と本書はその点を明確にし、ジョージ・オーウェルの『1984年』にも言及する。この小説のなかで、主人公のウィンストンは全体主義的な国で党の命令を受けて過去の改竄を行なっている。『1984年』は数十年前に読んだきりなので、また読み返さなくてはいけない。「現実に起こったことがビッグ・ブラザーによる予言と計画に合致するように、過去のニュースを日々書き替えている」と、武井氏は説明する。  

 折しも、「プーチンの意味不明な言説は『1984』で読み解ける」というマーク・サッタ氏の記事を読み、ニュースピークさながらに彼が戦争活動を「平和維持活動」と銘打っているという指摘に苦笑してしまったが、「ホロコースト生存者の孫でユダヤ系のゼレンスキー大統領について、政府転覆や彼の殺害さえ目論みながら、自身はウクライナの〈非ナチ化〉に尽力しているとのたまう」というくだりでは、ちょっと待てよと思った。  

 2014年のマイダン革命の前後からウクライナの極右組織が台頭し、かつてのウクライナ蜂起軍を想起させる赤と黒の旗を掲げる右派セクターや、ナチスの親衛隊などが使用したヴォルフスアンゲルのシンボルを掲げたアゾフ大隊(現在は連隊もしくは軍Forces)などが大きな勢力となっていたことは、BBCやガーディアン紙、ドイチェ・ヴェレ、カナダのデジタルメディアVICE、フランスのフリーのジャーナリストなど、いくつもの欧米のメディアによって報道されてきた。だが、その多くはウクライナ東部で2014年からつづく悲惨な内戦に関する2018年までの報道ばかりで、私が見つけた最新のものはタイム誌が2019年夏に取材した動画だった。 

 右派セクターが祖国の英雄視するステパン・バンデーラのウクライナ蜂起軍は1943年から45年にウクライナのヴォルィーニ州、ガリツィア州東部などで数万人のポーランド人虐殺に関与したという。2014年に書かれたキャノングローバル戦略研究所の研究主幹、小手川大助氏の「ウクライナ問題について その3」という驚くほど詳しい報告書には、このバンデーラが1948年4月に今度はイギリスのMI6に採用されて、ソ連邦内における破壊活動に携わり、1959年にKGBにより暗殺されたと書かれている。何やら映画『007』のようだが、事実は映画より奇なり、なのだろう。小手川氏のこの一連の報告書を読むと、海外のニュース動画で見た断片がよく理解できるようになる。 

 ロシアの脅威と蛮行を前に、ウクライナのネオ・ナチについて語ることはタブーになったのか、2019年にゼレンスキーが大統領に就任して以降、ウクライナの非ナチ化はすでに達成されたのか、まるでそんな勢力は存在しなかったことにされている。いまやマーク・サッタ氏が言うように、プーチンのこの発言は笑いの種にされているが、実際には、「現在の政治に合わせて過去が書き替えられてゆく」『1984年』さながらの作業は、言論の自由や民主主義を標榜する先進国の主流メディアでも盛大に行なわれているとしか言いようがない。 

 アゾフ大隊の創始者のアンドリー・ビレツキーは、2014—2019年までウクライナ議会議員だったが、2019年の選挙で議席を確保できず、現在は「アゾフ軍の最高司令官」としてマリウポリでロシア軍や親露分離主義者と死闘を繰り広げている。3月18日にYouTubeで公開された動画で彼自身が語るところによると、マリウポリは2014年のロシア侵攻時に奪われなかった、ウクライナ側のドンバスの象徴となり、死守しなければならない都市だったそうだ。人口43万人ほどという大都市のマリウポリを、ロシア軍があれほど破壊する必要がどこにあったのかと唖然としたが、その意味がいくらかわかった気がする。後世の歴史家は、この紛争をどう読み解くのだろうか。

最近のささやかな楽しみはこれ。孫と拾った種を一緒に蒔いたもの。結局、芽がでたのはフウセンカヅラだけだが、植え替えるときは、殻を潰せばいいらしい。

2022年3月7日月曜日

弘化2年の森山栄之助

 森山栄之助(1820-1871年)については、すでに何度か「コウモリ通信」でも書いてきたが、ラナルド・マクドナルドに出会う以前のことを少しばかり調べたところ、いくつもの意外な事実が見えてきたので、忙しくなる前に取り敢えず書いておく。  

 通詞として彼の名前が最初に知られるようになったのは、1845年4月、日本の漂流民22名を乗せてきたアメリカの捕鯨船マンハッタン号が浦賀に寄港した際のことだった。その2年前の天保14年6月2日に森山が長崎を出立して、出張扱いで浦賀に行ったことが、レファレンス共同データベースの調査サービスからわかる。浦賀に出張したのは、1842年に異国船打払令が老中真田幸貫の意見を水野忠邦が取り入れて廃止し、薪水給与令に変わったことと関係があるだろう。浦賀にオランダ通詞が詰め始めたのは1847年からのようだ。マンハッタン号が来航したとき、数えで25歳の森山は「浦賀奉行手附、和蘭陀小通詞並」と『通航一覧続輯』之百八に書かれているという(この史料は館内閲覧のみで、まだ調べに行けていない)。

 オランダ語が通じない相手だったため、アメリカ人の下船は許可されない旨を、カタコトの英語や抜き身の刀を首に当てて身振りで示したこと、別れに際して達筆で書かれたオランダ語の手紙を無署名でクーパー船長に渡したことなどが、『チャイニーズ・リポジトリー』誌に掲載されたマーケター・クーパー船長の航海日誌に書かれていた。当時はまだ『諳危利亜語林大成』という約6000語が収録された写本の英和辞書があるのみだったが、森山が生まれる前に、この辞書の編纂を指導したオランダ商館の助役ヤン・コック・ブロンホフが通詞たちに英語を教えていた。  

 この事件については平尾信子氏の『黒船前夜の出会い』(NHKブックス)などに書かれている。この年3月24日に突然、東京湾口に姿を現わしたマンハッタン号は、房総半島で4人の日本人をまず下船させ事前に交渉をさせてから、4月17日に浦賀に入港した。森山が活躍したのは、4月18日から21日(和暦:弘化2年3月12−15日)までのわずか4日間のことだが、このときの働きで、森山とほぼ同年齢で老中首座になったばかりの阿部正弘から褒美をもらっている。  

 マンハッタン号事件について調べたあとで、早稲田大学所蔵の「紅毛告密」に森山が父で大通詞だった森山源左衛門とともに翻訳者として名前を連ねており、そこに巳年四月、つまり同年4月と書かれていることに気づいた。この怪しげな題名の文書は、その前年1844年8月15日(弘化元年7月2日)に長崎に入港したオランダ船パレンバン号が運んできた、オランダ国王ウィレム2世から将軍宛の親書と、贈り物の目録の翻訳だった。 

「紅毛告密」には、「喎蘭告密」「紅毛告密」「和蘭告密」等のさまざまな名称で多数の写本があり、早稲田大学所蔵のものには、天文方の渋川六蔵訳、宇田川榕庵・杉田成卿訳とともに、森山親子の訳が三通り並ぶ。「大船庵」という古文書のサイトに掲載されていた「和蘭告密」や宮内庁宮内公文書館にある「喎蘭告密」を頼りに筆文字を読み取ると、以下のようなものだ。宇田川・杉田訳は、私では正確に読めない。 

【渋川訳の冒頭】 
「鍵箱之上書和解 渋川六蔵 この印封する箱には和蘭国王より日本国帝(征夷大将軍を指し奉るなり)に呈する書簡の箱の鍵を納む、この書簡の事を司るへき命を受る貴官のみ開封し給ふへし   
 暦数千八百四十四年二月十五日(天保十四癸卯の事、十二月十七日に当る)」 

【森山親子訳の冒頭】
 「横文字和解 森山源左衛門・森山栄之助/鍵箱之上書横文字 此封箱は日本国殿下へ和蘭国王より奉捧る書翰之鍵入有之候、此封御鮮明之儀は江戸表より其為被 仰付候高位之御役人様被為成度奉存候  
「スカラーヘンハーゲ」に於て、和蘭暦数一千八百四十四年第二月二十五日」

 「紅毛密告」では、同じ内容が3通りの訳で繰り返されたあと、贈り物の目録が一度だけ書かれ、その最後に森山親子の名前が並び、その上に「巳四月」と年月が入っている。目録の翻訳は森山親子によるものと考えてよさそうだ。冒頭を比較しただけだが、森山親子の訳は原文に忠実な直訳だったようだ。  

 3通りの翻訳はいつごろ、どの順番でなされたのだろうか。別段風説書は1840年の第1号から1847年の第8号までは長崎でオランダ通詞が行なっていたが、その後はしばらく江戸の天文方で訳し直し、長崎訳と江戸訳が比較されていた。ウィレム2世の国書は、まだ長崎訳のみの期間にもたらされたものだが、鍵付きの箱であり、長崎奉行に開封の権限はなかった。 

 弘化2年というこの年に、栄之助の父は参府休年出府大通詞、つまりオランダ商館長の江戸参府はないけれど、オランダ通詞だけが出府する役を担っていたことが、『和蘭陀宿海老屋の研究』史料篇(思文閣出版)からわかる。出典は「出府名簿」とあり、出府小通詞は植村作七郎だった。前述したように、栄之助は3月まで浦賀にいたので、この年に親子がともに関東にいたのであれば、マンハッタン号事件後に栄之助が江戸へ行き、そこで父とともに翻訳を命じられた、という可能性がありそうだ。  

 佐藤昌介の『洋学史の研究』(中央公論社)で親書問題が取りあげられていることを岩下哲典先生から教えていただき、読んでみたところ、翻訳の経緯は以下のようだった。幕府の訓令を仰いだ長崎奉行の伊澤政義が弘化2年8月20日に国書を受領し、国書は翌日長崎から江戸に与力の平田音三郎によって運ばれ、9月21日に到着、23日に勘定奉行石河政平が受領した。平田に随行したオランダ小通詞の西記志十(のちの西吉兵衛)にそこで翻訳させる予定だったものの、西が急病になったため、改めて天文方見習兼書物奉行の渋川六蔵(敬直、1815−1851年)に翻訳が命じられた。渋川がいつ翻訳したのか時期は不明だが、12月23日に国書翻訳の功を賞されており、伊澤らにも12月19日に黄金・時服が下賜されているので、それ以前と考えられている。佐藤氏によると、天文方山路弥左衛門名義の翻訳があり、これを実際に訳したのは天文方詰通詞として江戸に在勤していた品川梅次郎と、天文方の役員の杉田・宇田川らであり、山路が弘化2年5月19日に国書翻訳の功で称されているという。  

 興味深いことに、天文方見習兼書物奉行の渋川六蔵(敬直、1815−1851年)という人は、鳥居耀蔵、後藤三右衛門とともに天保の改革で頭角を現わした三羽烏の一人で、天保10(1839)年にオランダ風説書は通詞を通さず、長崎奉行より直接江戸へ送り、天文方で翻訳すべきだと意見書をだしていた。蛮社の獄に関与したとされる渋川は、水野忠邦が失脚した際に臼杵藩のお預けとなったまま病死、とウィキペディアには書かれている。三羽烏の一人、後藤は死罪となった。「渋川は、弘化二年三月十六日に罪を得て評定所に召喚され、揚屋敷入りを命ぜられている。そうすると当然、渋川の訳文が問題となったであろうから、森山父子および山路が国書の翻訳を命ぜられたのは、渋川の逮捕と関係あったものと想像される」と、佐藤氏は書く。  

 佐藤氏の著書には、驚くべきことも書かれていた。長崎から江戸に親書が届いたのち、通詞の西は9月24日に石河経由で林大学頭檉宇(皝、ひかる、1793−1847年)から直書を渡され、林家を訪ねたあと乱心し、その病状を26日に石河に報告したところ、その夕刻、国書和解御免願を提出するようにと石河の内意が伝えられたという。 「いうまでもなく林家は保守の本山であり、とくに大学頭皝の弟鳥居耀蔵や林式部韑は大の西洋嫌いとして知られていた。蛮社の獄をおこして渡辺崋山や高野長英らの洋学者を弾圧したのはかれらであり、さらに鳥居は長崎奉行井沢政義と共謀して長崎会所取調役で砲術家の高島四郎太夫(秋帆)を罪におとしいれた」とも、佐藤氏は書く。  

 佐藤氏が親書問題の項を書くに当たって参照した書の一つが、『幸田成友著作集』第4だったので、そちらも借りてみると、通詞の西記志十は「過言」におよび、「広言」を吐き、「林大學頭[皝]の面前で〈容易ならざる儀〉を言ったと、土佐守[石河]が塚越藤助[御勘定組頭]へ物語ったのを、藤助から又聞きしたと、音三郎が長崎へ帰ってから差出した手稿書にある」と書かれていた。西記志十だけは長崎へ帰ったのちに奉行の伊澤からの目通りはなかったとも。佐藤氏は、林大学頭が西記志十に「おそらくは薬物を用いて狂気の体におとしいれ、かれに国書翻訳の資格なしと認定させたうえで、渋川を西に代わって国書翻訳の任にあずからせようとした」とまで推測するが、開国をめぐる発言で林大学頭の逆鱗に触れたのではないだろうか。  

 佐賀大学地域学歴史文化研究センターなどがまとめた『天保十五年和蘭陀使節船渡来』によると、パレンバン号は5カ月間も海上に錨泊させられた挙句に、10月18日(陽暦11月27日)は返書を待たずに出航していた。長崎の警備を担当していた佐賀藩が江戸藩邸と連絡を取るのに「中十一日」かかっていたことなども、ここからわかった。当時、「水野の再入閣にさいして、堀[親寚、信濃飯田藩主]をのぞく閣老がこぞって反対してサボタージュ戦術に出た」と、佐藤氏の書にあり、そのためオランダ国書問題への対応は遅れ、7月18日になってようやく老中牧野忠雅が長崎奉行に下知状を下したほどだったという。  

 幕府からの返書は、老中から摂政大臣宛として弘化2年6月1日(1845年7月5日)に、つまり森山親子や天文方の山路らの翻訳後にようやく書かれた。オランダは「通信之国」ではないため、国王親書への返事はできず、今後はもう書翰を送らないようにという「諭書」で、これを伊澤からオランダ商館長に渡したと思われる。  

 この年の7月3日(陽暦8月5日)には、イギリスの測量船サマラン号も長崎に来航した。このときは栄之助を含むオランダ通詞では言葉が通じず、同船に乗り組んでいた広東出身の船員と長崎の唐通詞が話すことで、ようやく意思疎通ができたと言われる。父の源左衛門の名前がこの年8月に翻訳された別段風説書の翻訳者のリストに西記志十らとともにあるので、親子とも夏には長崎に戻っていたのだろう。 『Narrative of the voyage of H. M. S. Samarang(サマラン号の航海)』と題された本がネット上で読め、その解説書の扉の横に「日本の紳士」と書かれた挿絵がある。サマラン号の来航時、森山はまだ江戸にいたのではないかと考えていたのだが、妙な着物を着た二本差しの若者の絵を見たあと、「彼らの多くはオランダ語を話し、なかにはフランス語が少しばかりできる人もいた。[……]若干の英語の言葉を操る者すらいた」という箇所と、「これらの人びとのあいだでも、深く窪んだ細長い中国風の目は一般的だったが、なかにはヨーロッパ人の目と同じくらい大きな目の者も見た」という一節を読んで、栄之助のことかもしれないと思った。長崎奉行所や通詞たちの礼儀正しい振る舞いは総じて好印象を与えたようで、刀を抜いて見せることを嫌がり、切腹はどうやるのかと尋ねると、非常に不快感を示したが、それには脇差しを使い、太刀は戦うためだと示唆した、とある。それなりに会話は成り立ったようだった。  

 長崎奉行の伊澤政義は、佐藤氏の書によると、高島秋帆の証人を病死と偽っていたことが発覚して罷免され、同年12月3日に江戸城西の丸留守居に左遷され、翌年7月25日にはそれも御役御免、差し控えを申し渡されている。ところが、ペリー来航の年、嘉永6年12月15日になって、突然、将軍申渡しで浦賀奉行に任命され、12月晦日には応接掛の一員として扱われるようになったことが、『幕末外国関係史料』3からわかる。この間に何があったのか、説明するものがいまのところ見つからないが、こうして伊澤は、彼の罷免後に長崎奉行を務めた井戸対馬守覚弘や森山栄之助とペリーに応接することになった。ペリー艦隊が浦賀に再び現われた翌年正月11日になって応接掛のトップに据えられたのは、林大学頭皝や鳥居耀蔵の弟である林韑(復斎)だ。この間ずっと老中首座は阿部正弘だったほか、石河政平や松平近直などの面子も弘化年間から変わらない。何やら寄せ集めのように見えたペリー来航時の応接掛の人選と、蛮社の獄の時代との関連がどこにあるのかを探りたいところだが、水野忠邦という人を見直し、阿部正弘との関係をよく調べないと簡単にはわかりそうにない。  

 ついでながら、森山栄之助は嘉永6年には参府休年出府小通詞となり、2月にはオランダ人からの献上品をもって京都に行った(『和蘭陀宿海老屋の研究』)ほか、7月に来航したロシアのプチャーチン一行にも大通詞過人として翌年正月まで、大通詞の西吉兵衛(「乱心した」西記志十)とともに勤めていた。

Notes from a journal of research into the natural history of the countries visited during the voyage of H.M.S. Samarang 、扉横の口絵、Gentleman of Japan (スクリーンショット)

図書館から借りている貴重な本の数々。横浜市の市民・県民税は高いけれど、こういう蔵書のためなら喜んで払いたい。

『幕末外国関係文書』3に掲載されていた1853年の長崎西役所露国使節応接之絵図。通詞は西吉兵衛と森山栄之助で、森山は背中を向けて平伏しているほうかもしれない。
 ゴンチャロフの来日時の手記は未読なのだが、そのなかにこんな描写があるらしい。「全権達は話したいといふ合図をした。すると忽ち、どこからともなく栄之助と吉兵衛が蛇のやうにするすると、全権の足下に両方から這ひ寄ってきた」(徳永直『光をかかぐる人々』)