2021年4月26日月曜日

桜田門外の変異聞その2

 前回に引きつづき、桜田門外の変の謎について書いておく。

 じつは井伊大老の首級は、実行犯の1人である広木松之介の手でひそかに水戸へ運ばれ、徳川斉昭に見せられていた可能性が高い。茨城県郷土文化研究会の『郷土文化』第45号(2004年)に掲載された水戸史学会副会長の久野勝弥氏の「井伊大老首級始末異聞」という論文は、水戸藩の関係者遺族たちが伝える話と、事件に関連して過去に刊行されてきた重要な史料をつぶさに検証する。この論文を読むために、4年ほど前につくば市立中央図書館まででかけて行ったのだが、それをじっくり読む暇もなく今日に至っていた。  

 この論文は手に入りにくいため、概略だけここに書いておくが、かなり説得力のある論旨なので、これを読まずに桜田門外の変を語るなと言いたくなるほどだ。結論から言うと、桜田門外の変の実行犯として薩摩藩からただ1人加わった有村次左衛門が、「井伊掃部頭」と声高に呼ばわり、人目につく方法で日比谷御門のほうへ走ったのは、井伊直弼の首級を無事に水戸へ運ぶための芝居、つまり囮作戦で、これは別人の首だったと久野氏は、オールコックと同じ主張をする。  

 久野氏がとくに重視するのは、『安政雑記』に収録された「或人松平大隈守外桜田屋敷留守居役奥沢何某か咄を直接聞致其侭写」と題された4カ条の聞き書からなる記録と、この暗殺事件に関する裁判記録だ。松平大隈守は杵築(きつき)藩主で、この事件は桜田門のすぐ前にあった同藩邸前で起きた。彦根藩の屋敷はその西隣りにあった。

『安政雑記』は沼田藩の藤川整斎(1791-1862年)の自筆稿本と推定され、明治9年に関係者から太政官修史局に寄贈されたものを、1983年になって汲古書院から、目次だけつけて、翻刻はせずに筆文字の写真版として刊行された。その第12冊から14冊は桜田門外の変に関する記録というが、私には読めないため、久野氏の論文に頼るしかない。留守居役から聞いた話の第1条は、明治21年に島田三郎が書いた『開国始末』に引用された杵築藩の留守居役「輿(奥)津何某」の話と当然ながら似ているが、こちらのほうがずっと古く、異なる点もかなりある。  

 留守居役の話の第4条には、「右之内供頭の首を持ち、龍之口の方へ駈走り、『掃部頭殿御首』と高声に呼び申し候に付、御家来多勢追駈け、龍之口にて其首取り申し候。又御近習のもの首打ち取り、是も外方へ駈走申し候。此方へも多勢追いかけ申し候。其内に誠の御首は窃に取隠し、何方へ持参致し候哉」と書かれている。「これを見る限り、井伊方の首級は三つ持ち去られている」と久野氏は考える。すなわち、もち去られたものの龍之口で取り返された供頭の首と、取り戻したとは書かれていない御近習の首と、井伊直弼の首である「誠の首」である。  

 しかし、その他の情報と突き合わせると、「三つの首級」説には首を傾げざるをえない。久野氏は「供頭の首となれば加田九郎太の首であることは間違いあるまい」としているが、供頭は加田ではなく、日下部三郎右衛門だった。日下部もこの事件で殺されたが、即死ではなく、藩邸に運び込まれてから死亡しているので、彼の首がもち去られた可能性はない。事件の目撃者は、杵築藩邸の二階から見ていたので、見誤ったのだろう。即死者は4名いて、供目付の沢村軍六と河西忠左衛門、永田太郎兵衞と加田だった。深手を負い当日死亡したのが小河原秀之丞、越石源次郎、日下部三郎右衛門、岩崎徳兵衞(または徳之進)である。  

 負傷した有村が和田倉門の辰の口にあった三上藩の遠藤胤統邸(現、パレスホテル東京)までたどり付き、その前で自刃したあと、横にあった首級は三上藩邸に収容され、のちに彦根藩が何度も返却を求めた際に、加田九郎太の頭と称して貰い受け、それを藩医が縫接した云々と『開国始末』に書かれていることから、加田は架空の人物だとする記述もネット上には散見される。だが、明治初期に作成されたという「桜田事変絵巻」の上巻詞書にも、明治19年建立の世田谷豪徳寺の桜田殉難派八士の碑にも、彼の名前は見られるので、実在した人物だ。加田は槍持ちだったと言われ、ならば行列の先頭のほうにいて、供頭と見間違えられたのかもしれない。  

 裁判記録からは、氏名不詳の被告人が、これは深慮のうえの計画で、「現にそれさえも追手等用心の為め替首をも設置」と供述しており、「誠の首」と「替玉の首」の2つが水戸に運ばれたと久野氏は推測する。首級が水戸に運ばれたとする説には、岡部三十郎が道三橋の下にある芥船に隠れて待っていて、関鉄之助が運んできた首級を受け取って、逃げてきた増子、海後の2人とともに隅田川を遡って千住大橋まで運び、そこから陸路で水戸へ行ったという説もあり、久野氏はどちらが「誠の首」を運んだかは不明とする。  

 しかし、「替玉の首」が実際、「御近習のもの首打ち取り」と書かれた即死者の誰かのものだったとした場合、水戸の遺族などに伝わる話に岡部らが運んだはずの首の後日談がないのは気になる。「供頭」の首は、有村が自刃した龍之口で「取りもどし候」とある。事件発生時に取り戻したのではなく、事件後、何度も三上藩邸を訪ねた挙句に取り返したという意味であれば、それが加田の首であったとも考えられ、それが本人の遺体に藩医の手で縫接されたのであれば、より筋は通る。前述したように、事件当時の情報を聞いたオールコックは、「2つの首」がなかったと書いているのだ。  

 衝撃的な事件が目の前で展開するのを目撃しても、40人以上もの人びとが乱闘した一部始終を正確に見てとるのは難しいだろうし、まして「誠の首」が密かに運ばれたことなど気づくだろうか。「留守居役奥沢何某か咄を直聞致其侭写」すと言っても、録音機のなかった時代、この雑記の筆者が話を聞いて書くあいだにも情報は不正確になっただろうし、奥沢某の憶測も含まれているはずだ。  

 留守居役の話の第1条は、「大兵の男壱人、中背の男壱人、切って懸り、短筒をどんと放すや、否(や)、刀を籠の中に指入れ、主人を引出して、二三太刀たたみかけてうち候。其音、鞠をける様成る音致し、手早く首打落とし剣に貫き、大音に『井伊掃部頭』と迄は聞こえけれども」と描く。一般には、関鉄之介が襲撃の合図に鉄砲を撃ったと言われるが、実際には銃弾は黒沢忠三郎によって駕籠のなかの大老に向けて打たれたと、前述の中居屋の伝記では推測されていた。しかも、「近年になって、井伊家文書史料を克明に研究せられた吉田常吉博士が、その著『井伊直弼』伝中に、──井伊家藩医、岡島玄達が、主君直弼の遺骸を検診した時、『太股から腰に抜ける貫通銃創があった』と、報告書に記している──と、発表」されているという。ちなみに、この本(『開国の先覚者 中居屋十兵衛』)では、中居屋が購入したのは「五連発短銃二十挺」となっており、明治になって林鶴梁が旧福井藩士の村田氏寿に語ったこととする。  

 拳銃で撃たれ、駕籠の外から突かれ、すでに事切れていたか、地面に瀕死の状態で崩れ落ちた大老の首は脇差しで「二三太刀たたみかけて」斬る必要があったのかもしれないが、これは複数の首が斬られた音だったとも考えうる。「御近習のもの首打ち取り、是も外方へ駈走申し候」という、有村次左衛門につづいて首を運んだ人こそ、実際には「誠の首」をもっていたという可能性もあるのではないか。  

 久野氏の論文には、甘酒屋に化けた水戸の侍が江戸を脱出し、利根川の大森河岸から水戸まで船で運んだとする船頭の子孫の話も引用されている。水戸まで船で運んだのだとすれば、大森河岸は千葉県の木下街道近くの六軒町のことと思われる。そこからは利根川、霞ヶ浦などを経由すれば水戸付近まで行けそうだ。となると、隅田川をそのまま遡ったのではなく、小名木川を通っただろう。実際には3つ目の首は存在せず、「誠の首」だけが岡部や広木らによって水戸まで運ばれたのではないだろうか。  

 広木については、1968年の明治維新百年を記念して水戸市美川町の妙雲寺境内に建てられた「大老井伊掃部頭直弼台霊塔」に書かれた「供養塔由来」に、その大半がまとめられている。同論文から一部を引用させてもらうと、こんな内容だ。 「烈士の申し合わせにより 大老の御首級を携えて水戸に持ち帰り これを烈公[徳川斉昭]の御覧に入れる事が松之介の役目でありました 自宅に戻った松之介は御首級の危険を察し 姉花がその役に代りました 烈公様は御一見の後 これは浪士のなしたること 御首級は其の方へ預けおく 懇に御供養申し上ぐべしとの仰せ 松之介には墨染の衣を用意して 今死んではならん 命存えよとの仰せでありました」。このあと、事件後潜伏をつづけた広木松之助が、同志が相次いで処刑されるのを聞いて、文久2年の3月3日、事件からちょうど2年目に鎌倉の日蓮宗上行寺で自刃した旨がつづく。  

 台霊塔が建てられた妙雲寺には広木家の墓があり、1965年ごろに広木家とは関係のない骨壺が見つかった。三木敬次郎という檀家の1人が、井伊大老の首級に間違いないと考え、井伊家に返還を試みたが丁重に断られたという。論文に引用されていた遺族の談話によると、斉昭による首級の検分後、首台に納められ、三の丸の土堤の榎の大木の根元に埋められていたものが、大正2年に公会堂を建てるために土堤を崩した際に出土した。論文の文脈から、それを広木家の墓に埋葬し直したと読めそうだ。  

 その後、首級は台霊塔で供養されたわけではなく、その建立を請け負った高橋石材商店の人びとと三木敬次郎氏が、夜間にこっそりと豪徳寺の「井伊直弼の墓の前の合わせ石の下に埋葬した」のだという。この三木氏は、水戸家の3代藩主光圀の生母を助け、胎児が水子として葬られるのを救った仁兵衛之次の子孫なのだそうだ。戦後、大阪の四天王寺でこの事件の首謀者の1人である高橋多一郎の供養に訪れた折に、三木氏は偶然、松下幸之助に出会い、すっかり意気投合して出資を申しでた。それが現在のパナソニックが誕生した経緯であり、その後、この2人のあいだで水戸黄門のドラマ化の話がもちあがり、松下電器がずっとスポンサーとなったのだという驚くべき話も、久野氏は『これが水戸黄門だ!』(日之出出版、2003年)という雑誌に、高橋石材の高橋三郎聞き書きとして書いている。この石材店の高橋氏と多一郎との関係は言明されていない。  

 ところが、2009年に世田谷区教育文化財係が豪徳寺の井伊直弼の墓の傾きを直すために改修した際に、地表から1.5メートルの範囲には石室がないことを確認しており、その後、東京工業大学によるレーダー調査でも、地下3メートル以内に石室は見つからなかったと、2012年6月8日付の滋賀彦根新聞が報じている。記事では、豪徳寺のほかの場所に埋葬されている可能性が示唆されていたが、遺骨がなければ、首級の有無も確かめようがない。  

 井伊直弼の首級を取って走ったとされる有村次左衛門という21歳の若者は、生麦事件でリチャードソンにとどめを刺した海江田信義の2番目の弟である。連絡役となって事件を藩に報告したすぐ下の弟の有村雄助は、藩命によって両親と兄弟の前で自刃させられた。介錯したのは、奈良原繁、つまりリチャードソンを最初に斬りつけた喜左衛門の弟の喜八郎だった。桜田門外の変にかかわった犯人たちは、高橋多一郎や有村兄弟をはじめ大半が、明治35(1902)年までにばらばらと贈位されて靖国神社に合祀されている。鎌倉の上行事にある広木の顕彰碑も、贈位を受けて大正5年に建立された。その背景には、祖先の名誉を回復したい遺族や地元関係者の思惑があったかもしれない。それが、事件現場から逃げた数名が首級を水戸へ運ぶ任務を負ったという伝説を生んだ可能性も検証すべきだろう。この事件について書く人は、襲撃の様子ばかりを詳細に語るが、いま一度、事件全容の解明にもう少し努めるべきはないだろうか。

豪徳寺にある井伊直弼の墓(2018年11月撮影)。後方左手に見えるのが、正室の昌子(松平忠固姪)の墓で、私は彼女の墓詣でに行ったため、桜田殉難八士の碑は見損なってしまった。よって、ネット上の他の墓マイラーの方々の画像より、情報は確認した。近年、豪徳寺は招き猫の寺として有名になっている

鎌倉日上行寺にある広木松之介の顕彰碑。碑には「墓」と刻まれている(2017年10月撮影)

2021年4月23日金曜日

桜田門外の変異聞その1

 昨年、『埋もれた歴史』を自費出版した際に、大幅に削らざるをえなかった原稿の一部を、うちの紙の山のなかに再び埋もれてしまう前に、時間を見つけてもう一度調べ直して少しずつブログに掲載しておこうと思う。手始めに、桜田門外の変から。入り組んだ事件であるため、使われた拳銃と井伊直弼の首級という2回に分けるので、お時間のあるときにお読みいただければ嬉しい。  

 祖先探しとは直接関係がないのに、この歴史的事件に関心をもった発端は、調査を始めてすぐに読んだ佐佐木杜地太郎の『開国の先覚者 中居屋十兵衛』(新人物往来社)で、非常に気になる記述を見つけたからだった。  

 桜田門外の変の2カ月ほど前の安政7(1860)年1月10日、神田見附の筋違御門にさしかかったところで、井伊直弼の駕籠めがけて弾丸が撃ち込まれた。たまたま刀の柄に当たって止まったため、大老は無傷だった。証拠の弾丸は幕府の蕃書調所で調べたが見慣れない代物であり、「内々で東禅寺の英国公使館に持って行って鑑定してもらった。それは西洋製最新式の短銃の弾丸で、おそらくアメリカ製の連発短銃より発射されたものであろうということであった」。この事件で水戸生まれの宇和島浪人、飯田一郎が逮捕され、隠れ家から外国製短銃1挺と100発ほどの弾丸が発見された。拷問の末、「中居──」と口走った飯田は舌を噛み切って自殺した。「藤田長鎮が鉄砲方与力であるから、短銃所持を咎められても申しわけは立つであろう、と細心の配慮をして」、中居屋重兵衛が「アメリカ商館のホールに多額の金を支払って購いもとめた五連発短銃二十挺を、長鎮の手を経て、水戸烈士たちに渡したのである」と、同書には書かれていた。

 桜田門外の変で使用された銃は、ペリー来航時に贈呈された拳銃を水戸藩で模造したものが使われたという説をよく聞く。神奈川県歴史博物館所蔵の「ペリー来航絵巻」には、老中首座の阿部正弘に贈られた「六響手銃」(37.3m)を模写した正確な絵図があり、コルトM1851という当時の最新鋭の6連発銃の2番目のモデルとじつによく似ている。このときペリーは老中5人全員に「六響炮」も贈っており、こちらは全長74.6cmの6連発の小銃だったと思われ、その分解図もこの絵巻には掲載されている。しかし、拳銃は1挺しかなかったようだ。阿部正弘がそれを水戸藩に提供した可能性はあるのだろうか。水戸で製造されたと言われる高度な旋条が施された銃の現物も残っているようだが、安政7年の水戸藩に、いや日本のどこにもそんな技術があったとは信じがたい。明治以降につくられたものと考えるべきではないだろうか。  

 桜田門外の変は、横浜が開港してから9カ月ものちに起きた事件だ。その2年前に条約勅許を得るために上洛した岩瀬忠震は「連発銃(連響六響銃)を所持していて、これを川路聖謨や堀田正睦に貸している」と、小野寺隆太の『岩瀬忠震』には書かれていた。事件のころには外国製の拳銃を手に入れる機会は充分にあったはずだ。 「桜田門外の変斬奸趣意書」には「天誅に替り候心得にて斬戮せしめ候」と書かれていた。もし、暗殺に外国製の拳銃が使われたのだとしたら、なんとも皮肉な話だ。被害者の大老は、少なくとも建前上は開国を成し遂げ、当の拳銃の輸入を可能にした人なのだから。  

 同時代に神奈川にいたフランシス・ホールの1860年3月25日(安政7年3月4日)、つまり事件の翌日の日記にも驚くほど克明に事件の詳細が綴られている。「ピストルから2発、ノリモン[乗物]に向けて銃弾が発せられたが、激しい抗争ののち、襲撃者は抑え込まれた。ハリス宛のヒュースケンの手紙では、リージェント[大老]側は10人が殺され、襲撃者の2人が捕らえられたが、即座にハラキリをしたと報告されている。[……]襲撃者は水戸の従者と判明している」。日本人通詞とオランダ語で話し、それを英語に通訳・翻訳していたヒュースケンが、事件直後に詳しい情報を集めてハリス弁理公使に報告していたことになる。出どころは、ヒュースケンと親しく、英語も話せた通詞の森山栄之助だろうか。神奈川にいたホールに、大老の死は翌々日の3月26日に確実な情報として伝わっていたが、国内では5月20(閏3月晦日)にようやく公表された。  

 佐佐木氏が言及したアメリカ商館のホールは、詳細な日記を残したフランシス・ホールではなく、ウォルシュ商会にいた医師のジョージ・ホールのことと思われる。神奈川宿から横浜に移住した最初の外国商人と言われる重要人物で、同姓のフランシスの日記にもたびたび登場する。彼については拙著でもかなり触れたので、興味のある方はぜひお読みいただきたい。  

 プラント・ハンターとして知られるロバート・フォーチュンは『幕末日本探訪記』に『エディンバラ・レヴュー』紙の記事をもとに桜田門外の変について詳しく書いている。しかし、同書で述べているように、フォーチュン自身は事件後に来日した。本国に詳細にわたる報告をしたのは、事件当時、品川の東禅寺にいたイギリス公使のオールコック自身と思われる。 

 井伊直弼が襲われたという知らせを聞いて、オールコックはすぐに外科医として援助を申しでたが、幕府からは援助にはおよばないと丁重に断られ、容体は「悪化していない」と言われつづけた。彼の著書『大君の都』(1863年刊)には、大老の行列の近くに「油紙の外套[桐油合羽]に身を包んでばらばらに歩く若干の集団だけがいた」ことや、護衛側も雨具を着て不意を突かれたために反撃できなかったこと、負傷して逃げ切れないと覚悟を決めた浪士がその場で切腹し、仲間がそれを介錯したこと、実際には「2つの首がもち去られており、逃亡者が手にしていたのは、追っ手を誘き寄せるためだけのもので、本物の戦利品は別の人物の手でひそかに運ばれた」ことなどが詳しく綴られている。なお、オールコックなどイギリス側の報告には拳銃が使用された旨は見当たらない。  

 次回は、オールコックが言及していた「2つの首」に関して書くことにする。

F, G, Notehelfer 編・校註、Japan Through American Eyes: The Journal of Francis Hall, Kanagawa and Yokohama, 1859-1866, Princeton University Press, 1992


ペリー来航絵巻の図は、ネット上に公開されている嶋村元宏「ペリー来航絵巻について(二)」『神奈川県立博物館研究報告─人文科学─』第 32号、p. 53のスクリーンショット。この論文には「六響炮」と思われる小銃の分解図も載っている。コルトM1851はウィキペディアより。ペリー来航時に贈呈されたもののリストは、『大日本古文書幕末外国関係文書の5』を参照

2021年4月19日月曜日

象山の桜賦

 先日も書いたように、この春はやたら桜について調べ、葉桜となってからも、近所の桜をときどき回っては、八重の関山や一葉の雌しべの葉化を確認したり、実のなり具合をチェックしたりしている。娘の夫が貸してくれた山田孝雄の『櫻史』(講談社文庫)も、とにかく読み終えてしまわねばと思い、近世に入ったところで、佐久間象山の桜賦に関する項があることに気づいた。象山が50歳の万延元(1860)年春につくった長い漢詩のことだ。イングラムの本で桜と軍国主義の関連について論じられているのを読み、長年気になっていたこの作品を解読してみたいと思っていた矢先だった。

 象山はもともと桜を好み、桜をテーマにした詩歌を多くつくったそうだ。「自ら櫻に擬したればこそ櫻賦の大篇も成りたるなれ」と、『櫻史』には書かれていた。桜が日本人のナショナル・アイデンティティとなった端緒が、この作品ではないかと私が漠然と感じていたことを裏づけるような言葉だ。 

「明治の初め象山の門人勝安房[勝海舟]その蔵する所の象山の遺墨を宮中に献ぜしが、天覧御覧あって金若干を恩賜せらる。安房感激已まず、恩典を不朽に伝えんと欲し、同門の人小松彰、牧野毅、北沢正誠と謀りて、象山の真蹟の櫻賦を石に勒して、東京飛鳥山に建てたり。而してその篆額は清人楊守敬の手に出でたるものなりという。かくて櫻賦はその所を得て、永世に伝わらん」とも書く。飛鳥山で私が見た桜賦の碑はこういう経緯で建てられたわけだが、いまではその碑文は読めないほど風化している。 

『櫻史』には全文が翻刻され、読み下し文も載っていたが、いかんせん言葉が難解で意味がさっぱりわからない。ほかに解説などがないかと探したところ、『櫻賦・望岳賦講義』(市川文庫、1964年)という文学博士の市川本太郎の講義録のようなものが見つかった。図書館の蔵書にはなかったため、仕方なく古本屋で購入したところ、開けてみてびっくり。ガリ版印刷されていたのだ。自序によると、長野市狐池にお住まいの市川氏ご本人が、象山の自注をはじめ、何人かの先学の研究を参考に20年前につくった学生用の講義ノートを、象山の百年忌に再び修正を加え、みずから謄写して印刷したものという。たくさんの部数を刷ったとは思えないので、貴重な1冊を入手したようだ。  

 象山には10篇の賦があり、そのうちで最も傑作とされる桜賦と望岳賦の2作を解説したのが、この冊子だった。この解説書によると、「賦」というのは、「中国文学の一分野であって、一の題目下にそれに関する多方面の資料を網羅して、これを美辞麗句・難字句を以て綴る有韻の長歌である」。「賦を作ることはきわめて困難であって、詩を作る比ではない」そうだ。象山は天保10(1839)年、28歳のときに、松代にきた長崎の僧、末山から賦の作法を習ったという説が紹介されている。桜賦をつくった万延元年春には、観桜賦という作品もつくっている。この賦が孝明天皇の天覧に入ったと聞いて、象山は感激して七言絶句5首と長句1首をつくって義兄に当たる勝海舟に送った。「陪臣の作が天覧の栄光に浴することは、江戸時代には極めて稀なこと」だったという。  

 桜賦は、2年後の文久2年に、象山の門弟の松田直友の手で京都に運ばれ、三条実愛を経て天覧に供されたと、作家の松本健一が『佐久間象山』のなかで書いていた。梁川星巌という有力な伝を失ってから失っていた朝廷との細い糸が、それによって再びつながったとも推測していた。 

「有皇国之名華、鍾九陽之霊龢、翳列樹之苯尊、嚲樛枝之交加」
「皇国の名華有り、九陽の霊龢(れいか)を鍾(あつ)む。列樹の苯尊(ほんそん)を翳(かざ)し、樛枝(きゅうし)の交加するを嚲(た)る」(読み下し文)
 
漢文はおろか、読み下し文でも意味がわからないどころか、これだけの「難字」をワープロで打つことがまず難しい。「苯尊」の尊の字には、実際には草冠がつく。市川氏の説明と解説を参照すると、この冒頭部分は次のような意味だ。「皇国日本には桜という名花があり、春の霊妙な和気を集める。桜並木は生い茂って覆い、曲がって入り組む枝を垂らす」。このあと延々とコノハナサクヤ姫や、平安初期の藤原良房の娘明子や在原業平などの故事や、桜そのものをたたえる、まさしく美辞麗句が並び、後半になってようやく思想史的に重視される箇所がでてくる。 

 問題の部分は以下のとおりだ。 
「更有慷慨之志士、倜儻之豪俊、睎芳野而大息、哀皇業之不振、臨奥関而彷徨、欽上将之烈駿、嘉高徳之刑幹、題片言而暗進、雖忠誠之未報、永無慚乎王盡 」
「更に慷慨(こうがい)の志士、倜儻(てきとう)の豪俊あり。芳野を睎(のぞ)みて而して大息し、皇業の振わざるを哀しむ。奥関(おうかん)に臨んで而して彷徨し、上将の列駿を欽す。高徳の幹を刑(けず)り、片言(へんげん)を題して暗に進むるを嘉(よみ)す。忠誠の未だ報いられずと雖も、永く王盡(おうじん)に慚(は)ずることなし。」(読み下し文) 
 こんな内容のようだ。 「さらに嘆き憤る志士や、優れた知恵をもつ人びともいた。吉野の桜を望んで大息し、皇業の振るわなかったことを哀しむ者もいた。奥州勿来(なこそ)の関に臨んで去るに忍びず[源義家の奥州征伐の故事]、上将の烈駿さを慕う。児島高徳[南朝の忠臣]が桜樹の幹を削り、一片の句を書いて暗示したことをたたえる。いまだ忠誠が報いられることはないが、永く王の忠臣と言われても恥ずかしくない」  

 ここで市川氏は、通釈に「名高い吉野の桜をのぞみ、桜花のすぐれていることを賞するよりは吉野朝時代を思い、懐旧の感に堪えず嘆息し」と書く。また、児島高徳が「天勾践(こうせん)を空しくすることなし、時に范蠡(はんれい)なきにしもあらず」(原漢文)の詩を書きつけて、勤皇の志を表わした故事を示すのだとも書き添える。この天勾践の部分は、尋常小学校の第5学年用唱歌となっていた。老眼にはとても読めない范蠡さんは、中国春秋時代の越の人らしい(歌詞では「空しうすること莫れ」となっている)。戦前の教育には、幕末の尊王攘夷派の思想が色濃く反映されていた。  

 象山も「楠公像題詩」など、いくつか南朝の忠臣をテーマにした作品を書いているが、倒幕の志士たちのように、南北朝という国内の権力が二分された時代をことさら想起させる意図がはたしてあっただろうか。彼は公武合体策を推して、迫りくる列強を前にして国内の統一を強く主張した人だった。諸藩が対立して内戦になった隙に外国につけ入れられる危険を、アヘン戦争当時から強く危惧して、注意を喚起しつづけたのが象山なのだ。ペリー来航時にも横浜警備でかかわり、日本という国を真っ先に意識した人だからこそ、万延元年という早い時期にすでに皇国と表現していたのだ。  

 桜賦のこのあとにつづく部分は、明治以降の桜と軍国主義が結びつく発端として利用された可能性がありそうだ。
「方華蘂之盛時、知物候之流運、対落英之繽紛、増感慨而自奮」 
「華蘂(かずい)の盛時に方(あた)って、物候(ぶっこう)の流運を知る。落英(らくえい)の繽紛(ひんぷん)に対して、感慨を増して自ら奮う」(読み下し文)  

 文字どおりには、こんな意味である。「花の盛りに当たって、事物は流れ巡ることを知る。散る花びらが交じり乱れるさまにたいし、感慨を増してみずから奮い立たせる」。市川氏は、「桜花の繽紛としていさぎよく散るを見れば、志士たる者は『死は鴻毛より軽く』とあるが如く、また『志士仁人は身を殺して以て仁を成すことあり』とあるが如く、意気は感動して自ら奮発する。故に我も感慨を増し、当に死を決して国に尽くすべきの道を知り、以て自ら奮発するのである」と、拡大解釈する。  

 桜と軍国主義の関連でよく引き合いにだされる本居宣長の「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」の和歌は、散る桜ではなく、朝日に照らされ輝くヤマザクラに、大和心をたとえたものなのだという。特攻隊にもタバコにも戦艦にも、大和、敷島、朝日、山桜という名前がつけられていた(戦艦の山桜はない)。まあ、「落英」などと命名したい人はいないだろうし、桜賦に使われる言葉はいまも当時も、凡人には理解できないし、読めない言葉だったのだろう。ある意味では、それが幸いしたと言える。それでも、散る桜に自分の行く末を予見していたかのようなこの箇所は、明治になってようやく、象山が長年主張してきたことの意味を理解した政敵たちの心を、揺り動かしたのかもしれない。 

『櫻史』の近世のページには、ほかにもいくつか興味深いことが書かれていた。江戸の桜の名所である上野や隅田堤などは、寛永年間の3代将軍家光の時代にヤマザクラや里桜が植えられ、のちに8代将軍吉宗の時代である享保年間にさらに名所が増えたのだという。これらの桜の多くは吉野の桜や、吹上の桜、左近の桜の種から育てた苗とあるので、ヤマザクラが主だったと思われる。象山が詠んだ桜も白っぽい花が咲くと同時に赤い若芽がでるヤマザクラだっただろうか。  

 初版が1941(昭和16年)という『櫻史』には、「外つ国の櫻」という小見出しのあとにポトマック河畔の桜について述べたあと、「英国ケント州の紳士コリンウッド・イングラム氏は大正十五年に来朝せしが、氏は二十年以前よりわが国の櫻を集め、その邸内には百種以上の品種を植ゑ、なほ盛んに培養せりといふ」などとも書かれていた。  

 その少しあとには「櫻の会」という小見出しも設けられていたが、もともと桜を調べる発端となった鷹司信輔の名前は見出せなかった。イングラムの本を勧めてくれた娘の絵本『さくらがさくと』は、この春、韓国語にも翻訳されて、数日前に無事に刊行されたようだ。歴史的な背景を考えると、韓国での出版はじつに大きな意味がある。

 近所の公園のヤマザクラ

『櫻賦・望岳賦講義』市川本太郎著、市川文庫
 なかはご覧のとおりのガリ版印刷!

象山自筆の『櫻賦』 
7年ほど前に図書館から借りた巨大な資料集より

2021年4月16日金曜日

今太閤か、元祖渋沢栄一か

 鈴木藤吉郎と聞いて、おっ、と思う人は、森鴎外の全作品を読破するほどのファンか、よほどの講談通か、『昨夢紀事』を読み込んだ歴史家か、はたまた関良基教授の『日本を開国させた男、松平忠固』を熟読した人に違いない。歴史上の人物としてはかなりマイナーなこの名前を見て、私がピンときたのは、ひとえに菊地久教授が『井伊直弼試論』という大論文のなかで、この人物と上田の松平忠固との関係についてたびたび言及しておられたからである。  

 拙著『埋もれた歴史』は、松平忠固に一つの章を割いただけなので、調べかけて放置した件や、重要でないと思われたため省いた出来事が多々あった。「藤吉一条」として、菊地教授がかなり詳しく論じておられた一件は、大論文のなかに凝縮されていたあまりにも膨大な情報のなかで、私が勝手に淘汰してしまったものの一つだった。  

 ところが、ペリー来航時の応接委員の1人、伊澤政義について調べる必要があり、あれこれ検索しているなかで引っかかってきたのが、鴎外の「鈴木藤吉郎」という作品を「梅雨空文庫」がネット上で公開してくれていたページだった。文豪がかなり念入りに調査したうえでこの作品を書いたのは、松林伯圓が講談「安政三組盃」で悪役として登場させた藤吉郎の名誉回復を、藤吉郎の遠縁の人から依頼されたためだった。この作品を読むとともに、藤吉郎について調べてみると、安政期の幕閣が交易開始を前に経済改革に乗りだしていた事実にいまさらながら気づかされた。貧農から立身出世した人物として秀吉になぞらえ、今太閤と呼ばれた藤吉郎は、頭角を現わすのが10年遅ければ、むしろ渋沢栄一になれたような人だった。 

 森鴎外は藤吉郎を「有爲の人材」と書き、「江戸市のために物価を調節する機関を設けむと欲して成らず、これがために禍を買ひ身を滅した。我市のブウルス[証券取引所、Bourse]の沿革を窮めむと欲するものは、此等の人物に泝(さかのぼ)り及ばなくてはならない」とまで書いている。それなのに、「藤吉一条」はなぜ歴史の闇に葬り去られたのか。こういう人物を潰したのは誰であったのか。重要な問題と思うので、以下に概要だけ記しておく。 

『昨夢紀事』では、安政5(1858)年5月1日に岩瀬忠震から橋本左内にもたらされた情報が初出と思われる。「鈴木藤吉郎だに鞠問せば、好党の悪事は露頭すべければ、伊賀殿[忠固]も落職になるべけれど、彼は大和殿[久世広周]の腹心なれば」などと書かれていた。以前にも書いたように、このころ岩瀬は忠固をひたすら敵視し、彼を失脚させるべく画策していた。藤吉郎の素性として著者の中根雪江は「元房州の百姓より出て浪人の体をなし、一橋殿小普請組鈴木某の養子となれり」とし、その後、「水戸殿御家人の名目を買得し」、「近来、御家人に御抱入れとなり格式を定められす。与力の上席に在りて町方御用聞の役名を汚し」などと詳しく書く。そして、「関閣[久世]の金主なるを以て邸内に出入して言聡かれ謀行わる。上閣[忠固]も亦金融を依頼し」と、忘れずに付け足す。  

 一橋家や水戸家に召し抱えられた藤吉郎が、どういう経緯か老中首座の阿部正弘からの指示で「追々御用の品もこれ有り候に付」として、町奉行「直支配」となったのは、岩瀬らに問題視されるより2年前の安政3年5月だったようだ。彼には阿部、久世という老中2人に加え、北町奉行跡部良弼という、3人の後ろ盾がいた。「藤吉は大和を掛けて伊勢参り使ひ果して跡部どうなる」という当時の狂歌を鴎外が紹介している。早くに両親を亡くした百姓の倅がこれほどの大出世を遂げたのは、米相場で儲けて大名や旗本にも金を貸し付けるほどになったためと言われる。藤吉郎はその数カ月後には、鴎外が「異様な職名」と評した潤沢掛に任命され、米油の取引所の創設を企てたが、それに反対した南町奉行所与力の東條八太夫から反対の声が上がった。  

 私がこの一件に興味をもった当初のきっかけである伊澤政義は、安政4年12月に大目付から南町奉行に転任になり、藤吉郎に反対したこの八太夫を長崎に転任させていた。「藤吉郎が最後の上役は伊澤であった」が、翌年6月には今度は「潤澤掛り与力上席共差免るさる旨、伊澤美作守申渡」となった。「差免」は「さしゆるす」と読み、本来は許可するという意味だが、お役御免、罷免の意味に変わったらしい。つまり、藤吉郎は伊澤に罷免されたのだ。彼の運命はこうして一気に暗転し、同年7月に入牢、翌年5月5日に「口書拇印」を取られたうえで獄死した。享年59歳だった。 

「藤吉一条」がスキャンダルとなったころには、阿部正弘はすでに他界しており、跡部良弼も安政5年5月23日に左遷され、後任に「大老腹心」とされる石谷因幡守が決まると、残された久世広周は苦境に立たされ、早速、「今日より久世大和守殿御不快にて御登城なし。鈴木藤吉郎の波及と聞こえたり」と、『昨夢紀事』は書いた。 

 同年5月27日には土佐藩主の山内容堂が、久世が風邪だの腹痛だのと病名をころころ替えて欠勤する旨を揶揄し、中根の主君である松平慶永宛と思われる書を送ったことも同書からわかる。久世の仮病の原因は、「羽柴にはあらで荒川戸の藤也。近々落花に及ぶべく申し候。是も愉快なれど、瑣々たる[微々たる]一と。唯願う桐の落花耳(僕吉兆を案し申し候。桐は即ち藤吉秀吉の紋。此度、藤吉退けられ候得ば、桐は自然退くの道理なるべし)」だと、隠語を多用してあざ笑う。荒川はいまの隅田川のことだ。「荒川戸の藤」は、羽柴(浅草橋場とかけて)秀吉ではなく、それより少し下流の花川戸に住んでいた藤吉郎という意味か。桐は、上田の松平家の紋で、忠固は桐閣と陰で呼ばれていた。  

 これらの噂話で盛り上がっていた人びとは岩瀬や左内を含め、みな一橋派であり、彼らの共通の敵は当初、慶喜を将軍継嗣にするうえで邪魔になると思われた松平忠固だったのである。鈴木藤吉郎に関する「密告」を忠固が受けると、なぜかそれが忠固を失脚させる好機になると見た一橋派と、大老に就任して以来、開国路線を強硬に主張する忠固が邪魔で仕方がなかった井伊直弼の双方が飛びつき、藤吉郎はそのとばっちりを受けた、というのが真相ではないだろうか。  

 藤吉郎の論告・求刑には、「米油を始め、所色会所を取立て、国々へ前金相廻延商の仕法」を目論んだなどと書かれた。だが、菊地教授によれば、江戸に「諸国産物会所」を創設して「究極的には幕府による商権の掌握を目指したこの構想」は、久世と堀田が月番で勝手掛を分掌しながら推し進めていたものだった。阿部正弘は安政2年の大地震に見舞われた翌10月に老中首座を堀田正睦に譲り、同4年なかばに病死するまで勝手掛の老中を務めており、その後任となったのが義弟の久世だった。奉行所関係者が「潤沢の新法」と呼んだこの経済改革は、「外国と貿易するに先だって、江戸に諸色取引所を設け、諸色を潤沢ならしめ、剰余を以て輸出品に充てよう」とする試みだったという。当時はまた天候不順のために江戸の市中米価が高騰しており、「幕府当局は需給対策を進める中で先物相場の創設へと踏み出した」。それこそがこの仕法の試行であり、藤吉郎が勝手に不正を働いたわけではないと、菊地教授は推測する。  

 もちろん、だからと言って藤吉郎にまったく落ち度がなかったわけではなく、上田の郷土史家の小林利道は、安政4年に忠固が老中に再任した折に、藤吉郎が5千両という大金や馬を贈り届けて、忠固から返された記録があると書いている。この件は、忠固が賄賂を受け取らない性格だったという文脈で語られていた。だが、中根雪江こそ、忠固が再任直後の9月13日に「五千金」で買収しようと画策していたではないか。菊地教授によれば、翌5年6月1日に、久々に登場してきた久世から上田の「在所川徐普請の儀に付、拝借金相願い置き候」一件につき、「金四千両」で許可された旨の「書付が」送られたことが忠固日記からわかるという。財政難に苦しむ上田藩は、この当時、安政の大地震で江戸屋敷が被害を受け、千曲川の治水工事費なども捻出できずにいた。何かしら藤吉郎を介した融資があったか、その話がもちあがった可能性はありそうだ。  

 藤吉郎が町奉行所に採用された安政3年5月という時期は、忠固が老中を罷免され、役職に就いていなかった時期だった。藤吉郎を水戸藩から引き抜いて御家人にした阿部正弘ら当時の閣老の動機が、交易開始のための準備という以上に、安政の大地震からの復興や不作への対処だったとしても、老中たちは経済改革の必要性をひしひしと感じていたのであり、そのためには身分を問わず、藤吉郎のような人材の活用を試みたのだろう。上田藩が諸藩に先駆けて上田と江戸に産物会所を設けたのは安政4年4月のことなので、忠固も同じ認識をもっていたと言える。老中に再任してからは、忠固が勝手掛になっていた。拙著でも触れたように、忠固は「算盤を採って実業界に活動す、殿様としては異例の人物」だったし、堀田正睦や久世広周も利根川の水運の要衝に領地をもっていた。  

 彼らが経済改革を着実に推し進められていれば、横浜開港時に日本が見舞われた衝撃をいくらかは緩和できていたかもしれない。あいにく、一橋慶喜という「英名・年長」の人物を将軍にすることですべてが解決するかのように思い込んだ一橋派と、同じくらい頑迷で猜疑心の強い南紀派の争いが、その機会を台無しにしたのではなかったのか。鈴木藤吉郎が入牢する1カ月前に堀田と忠固は罷免され、同年10月には久世も罷免させられた。こうして、江戸の「ブウルス」開設は頓挫したまま、翌年6月2日(西暦1859年7月1日)に横浜が開港したころには、藤吉郎は獄死していたのである。「牢熱に侵されて死んだ」という説を鴎外は紹介し、死後、「存命ならば遠島」と罪案には書かれていたとする。

図書館にリクエストしていた『鴎外全集』第18巻(岩波書店)がようやく届いたので、確認してみると、鴎外が参照した佐久間長敬という元町奉行所与力が書いたものの抜粋が、「鈴木傳考え異二」として、その他の史料とともに転載されていた。いくつか重要な訂正と追加があったので、書いておく。

北町奉行跡部良弼は水野忠邦の弟だった。当時、東條八太夫が関与した可能性のある2つの事件の捜査に、跡部や藤吉郎が乗りだし、東條を左遷させたしっぺ返しに、藤吉郎の罪状を密告した者があり、「此密告を受けたのは老中松平伊賀守忠固である」。忠固は密告を受けた側だった。「伊賀守は公事方勘定奉行石谷因幡守穆清に取調を命じ[……]北町奉行跡部に依怙のある事を発見して、これを伊賀守に上申した」とつづく。

2021年4月6日火曜日

平山謙二郎と岩瀬忠震

 2週間ほど前、図書館に行く機会があったので、館内閲覧しかできない史料の調べものをしてきた。英照皇太后に関する記事を書いた際に、九条関白の女癖について橋本左内が噂話をした相手が、平山謙二郎であったことにいまさらながら気づき、左内側の史料に何か残されていないか気になっていたのだ。平山謙二郎(敬忠・省斎)という人は、驚くほどあちこちの重要な場面に顔をだしているのに、その平凡な名前のせいかどうも見落とされがちだ。

 『平山省斎と明治の神道』(鎌田東二著、春秋社)と、『平山省斎と岩瀬忠震:開国初期の海外事情探索者たち(Ⅱ)』(陶徳民編著、関西学院大学出版部)という、平山に関して見つかる限りの本は少し前に図書館から借りていた。だが、前者は題名からもわかるように、明治以降の彼の後半生に焦点があるため、日米和親条約条文に関連した平山の驚くべき活躍に関しては、「この時、命を受け、鵜殿長鋭に随行し、ペリー一行の応接を担当した」とあるだけだった。  

 後者も力点は海外事情の探索にあり、ペリー関連ではウィリアムズと羅森という、アメリカ側の中国語通訳との文明論のようなやりとりのみが言及され、イェール大学のS・W・ウィリアムズ文書に残る史料や、羅森から贈呈された扇の画像などが掲載されているだけだった。資料集であるこの本には、平山の墓表の拓本と翻刻、和訳が掲載されており、ペリー関連では、「嘉永四年辛亥、徒目付に擢[ぬきん]でらる。六年、癸丑五月、米利堅国使節彼理[ペリー]浦賀港に入り、物情騒然たり。先生命を受け、房総相武沿海の地形を巡視す。安政元年甲寅春、米使再び金川港に到り、二年又下田港に来る。先生往いて応接の事に参ず。又目付堀利煕等と蝦夷を巡視し、樺太島を窮め、遂に東北沿海を巡って帰る」(和訳)とのみ記されていた。平山の縁故者も、彼を研究したわずかな歴史家たちも、日米和親条約で彼がはたした役割にはなぜか気づいていなかったようだ。  

 平山と岩瀬をペアで取りあげた理由として、関西学院大学教授の著者は自序に、二人の関係は「一般的な上司と部下の関係をはるかに超えた同志間の信頼関係がありました。その端的な証拠として、将軍継嗣問題で一橋慶喜擁立運動を展開する際、岩瀬は情報伝達と意思疎通のために度々秘密裏に平山を福井藩主松平春嶽のブレーン橋本左内のもとに遣わしたのでありました」と、書いている。平山は確かに岩瀬よりはるかに経験豊富であり、従者というよりは、むしろ参謀だったのだろう。  

 岩瀬は近年、開国の立役者として高く評価され、とりわけ横浜開港主唱者などと言われているが、拙著『埋もれた歴史』で指摘したように、横浜開港を主張したとされる岩瀬の上書は、当時まだ寒村にすぎなかった横浜と神奈川宿の関係を把握しないままに書かれたとしか思えない。一方、平山であれば、ペリー来航時に実際に横浜にいたわけであり、横浜警備に駆りだされた松代藩の軍議役だった佐久間象山が、下田に代わる開港地として横浜を推してもらえるよう、旧知の水戸藩参謀である藤田東湖に働きかけていたことを知っていた可能性すらある。彼の上司であった目付の鵜殿長鋭は、ペリー来航時に水戸の徳川斉昭に閣老や応接掛のあいだの情報を漏らしていたと思われるからだ。 

『昨夢紀事』から、安政5(1858)年5月25日の夕べに「平山謙二郎、左内か許へ来りて関白殿、兼ねて好色の癖座しに」と話したことはわかっていたので、『橋本景岳全集』からその時期の文書を探すと、5月24日付の岩瀬から左内宛の書簡(501)があった。ただし、書簡そのものは「姦党」と岩瀬が自虐的に呼ぶ一橋派の左遷に関することなど、ごく短い文面しかない。重要な内容は、平山謙二郎が口頭で伝えた、と解釈するしかない。

 だが、その前後を見てみると、「某公より京都某公(鷹司太閤ならん)への書翰案」(467)が「安政五年四・五月頃」として掲載されていた。発信者の某公は、左内の主君である松平慶永なのだろうか。この書翰案は、私が『昨夢紀事』で見つけた一文と合致すると思われる、かなり唖然とする内容だった。 

「関白殿下の義は、恐れ乍ら色々風説もこれ有り候」と始まり、関白九条尚忠に関するあらゆる悪い噂が並べられ、賄賂の件を「高貴の御人には御不似合の最上」と断罪し、その説を裏付けするかのように、こう書く。「閨幃中の義は、外人の知るべくにも御座無く候えども、六十有余の御年には似合わず、十六、七の艶妾御幸御の趣、其上○○に於いても嬪娥を御褺*し成され候抔、醜声申す者もこれ有り候よし承り申し候」(*なべぶたがつく)。政府高官の下ネタを探して、何としても辞任に追い込もうとする週刊誌の記者のような文章だが、「先生[左内]の手書、前編者はこの書を三月中としているが、四月以後のものであらう」と編者の注がある。開国派のはずの彼らが、幕府のために開国に協力してきた関白を失脚させようと目論んでいたわけだ。  

 英照皇太后の記事で先述したように、『昨夢紀事』には「御女なる女御の御方へ御入の折柄、其れか女房の内と猥りかはしき御事ありしか」とあった。左内が書いた某公宛の書翰案が、尚忠の娘の夙子が入内した10年前の話をしているのか、生母について言及しているのか、それとも、九条家にどんどん男子が生まれている現状について話しているのかは不明だ。しかし、安政5年には50歳近くの菅山についての噂でなかったことだけは、確かに言えそうだ。 

『平山省斎と岩瀬忠震』には、墨田区の白髭神社で私も見たことのある岩瀬鷗所君之墓碑に関する資料も掲載されていた。墓碑と言ってもこの神社に岩瀬のお墓があるわけではないので、顕彰碑と言うべきものだ。  

 どちらも上部は横書きの篆書体で大書され、その下にびっしりと漢文の碑文が彫られている。明治になってこのタイプの石碑が急に増えた背景には、新しい加工技術の導入があるのだろうか。拓本というのは、魚拓のようなものだろうとずっと思い込んでいたが、画仙紙を水で濡らして碑文の細かい溝のなかまで密着させ、綿を布で包んだタンポに墨を万遍なく含ませ、ステンシルのように上から何度も薄く叩くことを、今回初めて知った。だからこそ、拓本は鏡文字にならず、彫った文字が白くなっていたのだ! 

 碑文そのものはすでに風化してとても読めなかったので、この資料を見て、ようやく内容がわかった。全文を読んだわけではないが、次の箇所が目に留まった。「癸卯及第為教授。阿部閣老薦其才。擢徒頭」。巻末に岩瀬の略年譜がついていたので参照すると、嘉永3年1月に甲府へ出張した際に、阿部政弘より時服(衣服)を拝領していた。同7年6月、異国船渡来の際はいつでも応接に出張できるように阿部から申し渡され、11月には巻物5本を拝領。安政2年1月、日露和親条約修正交渉のために下田への出張命令が阿部より下る、などとも書かれている。  

 しかし、この略年譜にはまた、嘉永4年3月、甲府の徽典館学頭としての功績が認められ、松平伊賀守、つまり松平忠固より白銀15枚を拝領、4月に昌平黌教授となる、とも書かれている。岩瀬は同6年10月に徒頭となり、12月には教授として優秀であったため、松平伊賀守より巻物3本を拝領した。嘉永6年は癸卯ではなく癸丑だ。撰文した永井尚志は、岩瀬の経歴をよく見直さなかったらしい。さらに安政2年5月、御台場普請などの功績により松平伊賀守より重などを拝領ともある。忠固からもかなりの回数で褒美をもらい、引き立ててもらったにもかかわらず、岩瀬がのちに忠固を失脚させようと執拗に画策したことは、岩瀬忠震の記事で書いたとおりだ。  

 岩瀬は安政3年10月に、従五位下伊賀守となり、同月、伊達宗城に海外渡航の夢を語っている。翌4年10月21日、肥後守となる。老中と同一の名乗りは禁止されていたそうで、忠固が老中に再任されたのはこの年の9月13日のことだった。官名を名乗るようになって1年で名前を変えなければならなかったのは、自信家の岩瀬にとってはおもしろくない経験だったに違いない。  

 安政4(1857)年に忠固が老中再任後は、同僚である久世広周や内藤信親が岩瀬に褒賞を与えているが、忠固からの褒美は少なくとも略歴にはない。忠固にしてみれば、このころには飼い犬に噛まれた気分だったかもしれない。森山栄之助の記事で書いたように、平山謙二郎はペリー来航時に、水戸の斉昭の意向を無視して条約締結を推し進めた忠固に少なからず疑問をもっていた。岩瀬は平山からも何かと吹き込まれていたに違いない。

 関連しそうなパズルのピースが少しばかり見つかった程度で、全体像はまだまだ見えてこないが、平山謙二郎が幕末史にはたした役割はもっと調べるに値すると思う。

2021年4月4日日曜日

4刷!

 2年前に刊行された『科学の女性差別とたたかう』(作品社)が、このたびありがたいことに4刷になった。少しずつ読者層が広がっているのだとすれば、訳者としてたいへん嬉しい。著者アンジェラ・サイニーは、才能豊かなインド系イギリス人の若手女性ジャーナリストで、家族の協力のもとに、子育てをしながら取材や執筆の時間を捻出している。  

 最近、時代が変わったと思うことが何度かあった。駅前に停車している市営バスの運転手が若い女性だったり、足場を組んでリフォーム中の近所の家から、ハーネスを付けたおばさん鳶職人がでてきたり、ひと昔前の日本では考えられないような職種にも、女性が入り込んでいるのだ。  

 私が勤めていたころは、母性保護という名目で男女異なる残業時間が設定されており、深夜残業せざるをえない状況でも、女性だけそれを申告できないという、矛盾だらけの事態になっていた。勤め人を辞めて久しいため、労働基準法の「女子保護規定」が1999年に撤廃され、女性も男性と変わりなく、休日出勤も、時間外・深夜労働もできるようになったことをよく認識していなかった。いまでは危険を伴う職場での就労も、妊産婦を除いておおむね可能になっているのだそうだ。  

 それでも、2021年の日本のジェンダーギャップ指数はまたもや156カ国中120位という、かなり不名誉な順位となった。医療(65位)、教育(92位)の面では、少しは面目が立つ位置にランク付けされているのに、総合点でこれほど低かったのは、政治参画、正確にはpolitical empowermentの分野で147位と、底辺をさまよったためだ。エンパワーメントとよくカタカナ書きされるこの言葉は、意味がわかりにくいが、パワーを与えるという意味で、権限付与または権限委譲と訳される。要は、女性の意見を代表する議員や閣僚が少なすぎるのだ。汚職と失言を繰り返しながら辞職もしない大勢の「先生」方を一掃すれば、韓国(102位)、中国(107位)くらいまでは上昇できるかもしれない。  

 しかし、男尊女卑の儒教文化のなかで何百年ものあいだ染み付いてきた既成概念を克服するのは容易ではない。そもそも、日本の何が問題なのか理解できない人があまりにも多く、世界経済フォーラムによるこの指数のほうに問題があるという声さえある。バブル世代くらいまでの中高年層では、家庭でも職場でも飲み屋でも何人もの女性に侍らせることが自分のアイデンティティだと信じている人がいくらでもいるし、女性の側も、いちいち目くじらを立てず、甘えとおだてを武器に権力者に取り入るのができる女だと言わんばかりだ。  

 子供のころから刷り込まれた先入観は、一朝一夕ではなくならない。子供に与える玩具や服なども、知らず知らずのうちにジェンダー(社会的性差)意識を植えつけていることを、私はサイニーのこの本から学んだ。本人が性別を自覚していない年齢の子にはとくにユニセックスなものを、少なくとも男女で色分けしないものを与えるべきだ。社会全体の意識を変えるためには、まずは子育て世代や教育に携わる人たち、子供服や玩具をつくるメーカーなどが現状をよく把握し、日々当たり前のようにやってきたことに疑問をもつなど、地道な積み重ねが必要ではないだろうか。

2021年4月2日金曜日

イングラム桜編

 先月初めに『チェリー・イングラム』の記事で書いたように、この春はにわかに桜観察に精をだしている。観察対象はいくらでもある。 

 染井吉野が栽培品種でクローンであることや、ヤマザクラやオオシマザクラが野生種であること、それに八重桜があることくらいは私でも知っていたが、桜についてそれ以上に考えたことはなかった。 

「いにしへの奈良の都の八重桜、けふ九重に匂ひぬるかな」は、百人一首にもなっている伊勢大輔の有名な句だが、この八重桜は興福寺東円堂にあった栽培品種と考えられている。八重桜は雄しべや雌しべが花弁に変化することで八重咲きになり、実がほとんどならないため、遅くとも鎌倉時代初期には接ぎ木によって盛んに増やされていたことが確認できるという。近所の並木で咲きだした八重桜をまじまじと見てみたら、確かに花弁に変わりかけた雄しべが並んでいた。  

 接ぎ木というのは、増やしたい原木から穂木となる枝を切り取り、実生から育てた苗か、挿し木で根を生やさせた台木に切り込みを入れて、双方の切断面を密着させることで1本の木にして、原木のクローンをつくる移植技術だ。興福寺に隋や唐の影響を強く感じさせる仏像があることなどを考えると、接ぎ木の技術はこのころ伝わったのかもしれない。  

 桜は同じ遺伝子をもつ花粉からは受粉しても結実しない自家不和合性の植物とのことで、野生種の場合は、近くに何本か同種の木があれば、自然に結実し、その実生が育てば同種の新しい木となる。八重桜は結実すること自体が難しいが、染井吉野は近くにオオシマザクラなどがあれば実がなる。染井吉野は遺伝子からオオシマとエドヒガンの雑種と考えられているが、日本は歴史的に家畜化も栽培品種化もほとんど行なってこなかったので、実生からの選択や人工交配がいつごろ誰によってなされたのか、詳細は解明されていないらしい。「戻し交配」などによって染井吉野に実がなった場合、その実を植えても、当然ながら染井吉野にはならないが、試しに植えてどんな花が咲くか観察した報告もネット上にいくつかある。これはなかなか楽しそうだが、巨木になる可能性が高いので、うまく育った場合に植える場所を考えなければならない。近くに染井吉野ばかりある場所では、別の木から受粉してまったく同じ遺伝子をもつクローン同士であるため結実しないのだという。 

『徒然草』には、「花はひとへなるよし、八重桜は奈良の都にのみありけるを、このごろぞ世におほく成り侍るなる。吉野の花、左近の桜、皆ひとへにてこそあれ。八重桜はことやうのものなり。いとこちたくねぢけたり、植えずともありなむ」と、書かれている。日本人が総じて一重の桜を好むのは、兼好法師のこの桜花観が反映されているようだ。左近の桜は、京都御所の紫辰殿南庭にある桜のことで、歴史上何度か植え替えられており、現在のものは純粋なヤマザクラではなく、オオシマの特徴が見られるという。ひな壇の下に飾る桜のモデルである。  

 八重桜には、確かにどこか人工的につくられた感じがあるうえに、花の時期が遅めでかつ長くドラマに欠けるためか、日本ではあまり人気がないが、和菓子のように美味しそうに見えて、そう嫌いではない。私がそう思うのは、祖父が八重桜のほうを好んだと母からよく聞かされていたからかもしれない。そのことが頭の片隅にあったせいか、イングラムの本で荒川堤の五色桜について読んだ際に、その多くが関山、一葉、手毬、鬱金、御衣黄などの八重桜であったことを知って俄然、興味が湧いた。  

 じつは祖先探しを始めてから何年ものあいだ、曾祖父について得られた墓石や戸籍以外の唯一の情報が、すみだ郷土文化資料館で見つけた1910(明治43)年5月の荒川并綾瀬川堤塘植付桜樹代として弐円寄付していた記録だけだったのだ。  

 ところが、荒川土手について調べているうちに、曾祖父が桜に寄付をした同じ年の8月に東京で生じた洪水としては明治最大と言われる大災害が荒川と綾瀬川で生じていたことを知った。当時の荒川の下流がいまの隅田川で、この大災害を契機に、荒川放水路の掘削工事が20年にわたって行なわれ、現在の荒川下流となっている。しかも、260カ所におよんだという堤防の決壊・越水箇所の一つが、荒川と綾瀬川の合流地点にある綾瀬橋の下左岸だった。鐘ヶ淵と呼ばれる一帯で、曾祖父は1899年からこの地にあった鐘淵紡績会社の医員となって、字古河川敷と呼ばれる区画に建てられた社宅に住んでいた。綾瀬橋からは200メートルほどの距離だ。  

 この年の8月11日午後3時に、8間(約15m)にわたって堤防が決壊した様子を、当時の新聞が「怒号して」と書いたことなどを、「濁浪の海と化す、明治43年の大洪水」という国土交通省関東地方整備局作成のパンフレットから知った。アメリカのポトマック川沿いの有名な桜並木は、この土手からの苗木を植えたものだそうだし、イングラムも荒川堤で江戸時代から受け継がれた多様な里桜を守りつづけた船津静作らと交流して、送ってもらった穂木を大切に育てていた。しかし、荒川堤の桜は、荒川放水路の大工事のなかでどんどん伐採され、戦後は蒔にされてしまい、1947年に消滅してしまったのだそうだ。  

 この大水害で鐘淵紡績がどれだけ被害を受けたのかは不明だが、鐘ヶ淵付近で撮影された写真には、軒まで水没した民家の横で船を漕ぐ人の姿が写っている。過去帳すら子孫に伝わっていなかったのは、祖先からの記録が関東大震災を待たずして、このときすでに失われていたからだろう。曾祖父は1912年3月には少し南の菊川に移り、そこで自分の医院を開業した。少しは水害のない場所に移りたかったのかもしれない。  

 あれこれ読むうちに、近年、再生された荒川土手の五色桜を見てみたくなった。八重桜の代名詞のようになっている濃いピンクの関山(かんざん、但し学名はSekiyama)は、荒川堤から広まったものという。うちの近所の並木はすべて関山だったし、横浜の馬車道も関山だ。イングラム自身は関山が大嫌いだったそうで、品がないと言って苗を引き抜いたほどという。桜湯や桜あんぱんに使用される桜花の塩漬けは、関山の蕾だということを、彼は知らなかったに違いない。ちなみに、桜餅の葉っぱには、オオシマザクラの若い葉が使われるそうだ。  

 新宿御苑が開園されたことを知って、この日はまずイングラムが日本に里帰りさせた太白を見に行った。事前予約制で入場制限をしているおかげで、都心とは思えない静かな広い公園を邪魔されることなく堪能し、珍しい桜を見つけてはそちらに向かい、一時間ほど歩き回った。ひっそりと立つ太白を見つけたときは嬉しかった。少し満開を過ぎていたためか、中心部の赤みが強くなり、思っていたほど白くはなかったが、地面に散った花弁の大きさは隣の桜のものと比べて格段に大きかった。御苑の八重は圧倒的に薄ピンクの一葉と関山が多かったが、ところどころに長州緋桜、福禄寿などの印象的な大木もあった。  

 荒川堤を歩く前に足立区都市農業公園にも立ち寄って、覚えきれないほどたくさんの品種を見て回った。この一帯は高速下の寂れた通りの街路樹にも惜しげもなく白妙、御衣黄、鬱金、さらには太白まで並んでいた。堤防の上にでると、若い苗木が等間隔に植えられており、平成25年度のふるさと桜オーナー制度で寄付した人たちの名前が品種や番号とともに記された看板がところどころにあった。私の曾祖父が寄付した2円は、こうした苗木になることなく荒川放水路の工事に使われてしまったのだろうか。土手からはスカイツリーがよく見えた。川筋は変わってしまったが、いまでも鐘ヶ淵から隅田川沿いか荒川沿いにさかのぼることは可能だ。  

 天気もよく、川からの風に吹かれながら贅沢なほど多様な桜が並ぶ五色桜の散歩道は、河川敷側を眺める限りは快適だった。あいにく反対側は頭上高くを首都高速中央環状線が通っていて、大型車がひっきりなしに通過する。ふだん静かなところにいるので、私にはその騒音がなんとも気になった。高速側の桜の写真を撮ろうと思えば、シャッターを押すタイミングを間違えると背景にトラックが写り込む。おまけに壁面はやたら目立つ赤色だ。ドライバーにとっては、この区間は狭苦しい遮音壁のない首都高速では例外的に開放的眺望の得られる場所だそうが、東側一帯は住宅地だ。失われてしまった五色桜を再現しても、曾祖父や祖父が愛でた光景はもはや取り戻せない。堤防上の広い土地が、苗木を育てる場所を提供してくれていると思うしかない。  

 帰りは扇大橋駅まで歩いて、発車間際の日暮里・舎人ライナーに飛び乗った。親切な運転士でよかったと安堵して、何駅か過ぎたところで乗客が大勢下車したため、前方がよく見えるようになった。すると、ビルの谷間を縫うように走るモノレールのような乗り物で(ゴムタイヤで走る高架の案内軌条式鉄道)、しかも自動運転であることに気づいて唖然とした。イングラムの本を読んだおかげで、なんともいろんな発見があった。

 荒川堤の五色桜の散歩道

京成堀切駅近くの水門。向こうに見えるのが荒川(2016年3月撮影)

鐘ヶ淵を訪ねた際に歩いて渡った橋が綾瀬橋だったようだ(2016年3月撮影)

 明治44年発行の東京府南葛飾郡の地図

 太白 新宿御苑にて

 荒川堤の散歩道は実際にはこう見える

 にわか勉強で覚えた栽培品種