2020年12月28日月曜日

モノが語る歴史

 数カ月前のことだが、ちょうど『埋もれた歴史:幕末に西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)が刊行されたこともあって、藩主の松平忠固(忠優)の名前で検索をかけたところ、ヤフオクに彼の書簡が出品されていることに気づいた。同じ出品者からもう1点、上田藩関連の珍しい史料もでていたので、すぐに『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)を執筆された関良基先生にご相談してみた。関先生はこれまでも上田の赤松小三郎ゆかりの史料や道具などの散逸を防ぐべく、資金集めや上田市立博物館との交渉などに関わってこられた。  

 同時に、すでに遅い時間だったが、これまで何度も崩し字を読んでくださった私のFB友のY氏がまだオンラインであるのに気づき、失礼とは思いつつメッセージを送ってみた。なにしろ、私に読めた文字は「公方様と右大将」くらいしかなく、買うに価する内容か判断がつかなかったのだ。すると、間髪をいれず、ネット上の画像から判読できる限りの内容を読み取って、宛名がないことは気なるが、「買うべきでしょう」と力強い一押しをくださった。宛名がないためか、1万円の即決価格という設定であるにもかかわらず、誰も入札していなかったのだ。お返事を頂戴してすぐさま落札したのは言うまでもない。170年ほどの歳月を経た書状が届いたときは、深い感動があった。  

 その後、Y氏の古文書教室のお仲間の方も判読に力を貸してくださり、ほぼ全文を読むことができた。さらにだいぶ経ってから、岩下哲典先生にも読んでいただく機会があり、以下のように釈文を書いてくださった。 

二月九日付松平忠優書状(宛所欠) 
(釈文:翻刻文) 
御状、令披閲候 
公方様 右大将様、益 
御機嫌能被成御座候 
之間、可被心易候、将又 
弥無夷儀、御遵行之由 
珍重之事候、随而 
小杉紙一箱、被懸芳意 
過分之至候、恐々不宣  
二月九日  
 松平伊賀守
     忠優(花押) 
(宛所欠)

  読み方も次のように教えていただき、「基本的には、老中のルーティン業務(将軍・継嗣と大名との取次)に関わって、小杉紙(鼻紙)一箱をもらったお礼の書状」で、「相手は比較的格下」だろうとも教えていただいた。 

御状(おんじょう= お手紙)、披閲(ひえつ)せしめ候。
公方様(12代将軍家慶)、右大将様(後の13代将軍家定) 益(ますます) 
御機嫌能(ごきげんよく)被成(なられ)御座候 
之間、可被心易候(こころやすかるべくそうろう)、将又(はたまた) 
弥(いよいよ)無夷儀(いぎなく)、御遵行之由(ごじゅんこうのよし) 
珍重之事候(ちんちょうのことにそうろう)、随而(したがって) 
小杉紙一箱、被懸芳意(芳意にかけられ) 
過分之至候(かぶんのいたりにそうろう)、恐々不宣

 忠優の名で老中だった嘉永元年10月から安政2年8月にかけての期間で、将軍(公方様)の世子(右大将)が定まっていた時代となると、家慶が嘉永6年6月に熱中症から心不全で死去するまでであり、書簡の日付から、嘉永2年から同6年のいずれかの年の2月に書かれたことはすぐにわかった。押印がなくて花押のみであることや、「恐々不宣」という結語からも宛先は「格下」なのだろうと、素人にも思われた。

 しかも、岩下先生は「左端(「奥」の方)に墨の後が残っており、「殿」の最後の一画と思われ」、「出所を秘匿するために、最近切断したもの」ではないか、と推測しておられた。左側は確かに、切れ味の悪い刃物で誰かが切ったと見えてガタガタしていたが、切断面はすでにその他の部分と変わらず茶色く変色していた。ただ、じっくり見た甲斐あって、右側の上下の隅には押しピンの跡らしきものが残っているのに、左側にはそれがないことが判明した。つまり、いずれかの所有者がしばらく、この書状を壁に貼っていて、その後、宛名部分が切断されたのだ。これぞ、モノが語る歴史だ!  

「御状」が将軍と世子に見せるようなものであったことや「ますます御機嫌能く成られ」、「御遵行の由」が「珍重の事候」などとあることから、取り次いだ手紙は好意的に受け取られていたことが察せられる。その労にたいしてもらったのが鼻紙というのが、現代的な感覚からは苦笑したくなるが、将軍から頂戴したならティッシュでも貴重だったのだろう。

 出品者の方から、もともと京都の古物商から入手したという経緯も伺い、個人的にはこの条件で思い当たる人物と出来事があり、かりに私の推理どおりだとすれば、貴重な発見物となるのだが、「慎重に検討する必要がある」という岩下先生のお言葉に従うことにしよう。いずれ上田の博物館に寄贈するつもりなので、それまでにもう少し解明できれば嬉しい。

2020年12月18日金曜日

再度、生麦事件

 幕末史の転換点とも言うべき生麦事件は、なぜか非常に誤解されつづけた事件だ。この事件が被害者であるチャールズ・L・リチャードソンの落ち度ゆえに生じたとする主張がいまだに多いのは、いったいどういうわけなのか。先日、オンラインで参加させていただいたシンポジウムの発表を聞きながら、新たに疑問が湧いたので、メモ書き程度に記しておく。  

 拙著『埋もれた歴史』のなかで、これまで歴史家が見逃してきた多くの事実を指摘し、リチャードソンへの非難がいずれも根拠の乏しい、事件当時を知らない人びとによる後年の主張であることを示したつもりだが、そのなかで私が取り上げるに値しないと判断した「証言」が、いまなお引き合いにだされていることに気づき、典拠とされる板野正高氏の論文、「駐清英国公使ブルースのみた生麦事件のリチャードソン──プライベート・レターのおもしろさ」(『学士会会報』723号、1974年)を入手してみた。これを根拠とする主張はいずれも、以下の部分を引用している。 

「私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分のやとっていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホーク(mohawks)〔一七世紀に、夜、ロンドンの街を荒らした貴族のごろつき〕であったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によって些かも抑制されることのないプロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持主である」(1864年4月15日付の外務大臣ジョン・ラッセル宛の書簡) 

『学士会会報』のこのバックナンバーは簡単には読めないので、大半の人は萩原延壽の『遠い崖 1』の引用を孫引きしたウィキペディアの「生麦事件」の項の記述を引用している。アーネスト・サトウを研究した萩原氏は、サトウがこの事件では傍観者であったために、事件そのものを深く研究することはなかった。そのためか、板野氏の論文の真意を伝えず、ブルースの手紙部分だけを引用している。だが、この半公信を入手して翻訳した板野氏は、こう書き添えているのだ。「注意すべきことは、ブルースは決してリチャードソン個人を罵倒しているのではなく、彼を一類型とするような中国在留英国人の行動傾向を、中国との友好関係を維持しながら貿易の順調なる発展をはかるべき英国公使としての立場から問題としているということである」。つまり、ブルースは一般論として論じていたのである。  

 ブルースが生麦事件についてよく知らなかったのは、その前段を見れば明らかだ。「リチャードソン氏は慰みに遠乗に出かけて、日本の大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に、彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか」  

 生麦事件は、薩摩の島津久光の行列と4人のイギリス人との遭遇で生じたが、当時の横浜居留地の人びとは、島津久光が薩摩藩主の父であって、大名ではないことはよく承知していた。大名行列が通るときはいつも通知がだされていたが、久光の一行は直前に予定を変えたたこともあって、この日の予定については何ら知らされていなかった。しかも、リチャードソンは、東海道の道幅の狭い箇所で、下馬しろと薩摩藩士に命じられたものの、その言葉が通じず、殺気だけは感じたため、馬首を返したところでいきなり斬りつけられたのだ。馬を並走させていた彼の行動が、一行のなかの唯一の女性で、気の動転していたボラデール夫人を守るものであった可能性すら高いことも、当時を知る人が数十年後に書いている。リチャードソンらが久光の行列にたいして無礼を働いたわけではないことは、久光の側近だった市来四郎や、彼を斬った一人である久木村治休ですら述べている。こうした史料はいずれも拙著で取り上げたので、ぜひお読みいただきたい。  

 リチャードソンは実際にはどういう人物だったのか。横浜市歴史博物館発行の図録『生麦事件と横浜の村々』によれば、彼は1833年4月16日にロンドンで生まれた。父親はジェントルマン階級に属し、リチャードソンは姉3人、妹1人に囲まれた1人息子だった。中学程度の教育を終えると、母方の叔父の個人商会に預けられたが、1853年初めに、20歳で上海に渡り、おもに生糸取引と不動産売買に携わった。宮永孝氏の『幕末異人殺傷録』は、リチャードソンが上海に渡った時期は間違って書いているが、「清国人相手に交易を開始し、蓄財すると借地を増やしてゆき、のち南京路の清国人密集地に家屋を建て、かれら相手に賃貸していた」などと、かなり詳しく書いている。当時、太平天国の乱によって大量の難民が上海になだれ込み、人口が急増していたので、その波に乗ったのだろう。  

 リチャードソンと家族のあいだには80通ほどの書簡が残されており、その何通かが訳されて先述の図録に掲載されている。1862年6月29日には、7月2日午前中にジャーディン商会のファイアリークロス号で日本に向けて出発する旨を書き送っている。この船は、生麦事件発生の2週間ほど前に、12万5000ドル(6万7000両)という高額で売却手続きが済んでいたため、事件後に同商会から薩摩側に引き渡された。薩摩とイギリスの関係は、この一件が象徴するように、攘夷の実行を訴えながら武器や艦船をイギリス商人から買うという、非常に矛盾した関係が当初からつづいていた。  

 事件直前の9月3日には、リチャードソンは日本の滞在を1カ月延ばし、10月にいったん上海に戻ってから月末には帰国の途に就く予定なので、しばらくは音沙汰がなくても心配しないようにと書き送っていた。彼の両親と姉妹たちは、11月21日に『タイムズ』紙に掲載された短い「電報」を読んで初めて事件のことを知ったのだった。「私が深く愛した1人息子が日本で殺害されたことを『タイムズ』紙の電報によって知り、私たちは深い悲しみに暮れています」と、父親がラッセル卿に書き送った手紙が、その他数通の切々とした内容の書簡とともにジョン・デニーの『Respect and Consideration』に引用されている。  

 事件当時の横浜の人びとの証言やリチャードソンの書簡を読む限り、彼がモウホークのような人物、つまり金持ちの粗暴などら息子だったというブルースの評価には、首を傾げたくなる。もちろん、だからと言って、リチャードソンが上海で実際に苦力にひどい仕打ちをしなかったという証拠にはならない。  

 だが、そう主張するブルースは、上海でどれだけリチャードソンを個人的に知っていたのだろうか。彼に関する記述は、ネット上にはごくわずかしかなく、その大半がリチャードソンに関する短いコメントであることは、なんとも皮肉である。少ない情報を集めてみると、F・ブルースはアロー戦争時に、兄のエルギン卿が中国への特命全権大使に任命された1857年4月に、その第一秘書官として同行し、不平等条約として知られる天津条約が翌年6月に締結されると、その批准のために帰国し、その年末に在清公使に任命されている。赴任した時期は不明だが、清国政府が批准を拒みつづけたため北京入りができず、その間、上海に足留めとなっていたようだ。この当時の上海領事はハリー・パークスだったが、現地に長らく滞在し、中国語が堪能だったパークスは同年7月にはエルギン卿の中国語秘書官となって戦争に携わるようになったため、トマス・メドウズという代理領事が任命された。モンゴル騎兵軍を率いるセンゲリンチンにパークスが逮捕され、随行者が虐待され拷問死したことへの報復で、エルギン卿が円明園を破壊させたことや、数度にわたる大沽砲台の戦い、モンゴル騎兵軍を全滅させた八里橋の戦いなどはよく知られる。英仏軍は、清朝とのこうした戦いに、広東などの苦力を大量に雇ってもいた。  

 1860年に太平天国の乱の指導者の1人、李秀成の率いる軍が、欧米の商人から武器を調達しようとして上海に近づいた際には、ブルースが条約港にいる居留民の防衛という名目で攻撃し、300人近い犠牲者がでたという。清朝と条約を結んだ英仏両国は、反乱軍がアヘン貿易に反対であったことから清朝と手を結ぶことに決めたのか、このころから義勇隊や、中国人傭兵を使った西洋式軍隊である常勝軍を使ってキリスト教を信奉する反乱軍を鎮圧する側に回った。1860年10月には北京条約が結ばれたが、ブルースはしばらく天津にいて、翌年3月に北京入りしている。リチャードソン自身も、1862年2月の母宛の手紙に、4–5日に1度は騎兵隊として租界の自衛に加わらなければならないことを書き送っている。幕府が高杉晋作や中牟田倉之助を千歳丸に乗せ、密航者の五代友厚を含めた視察団を送り込んだのは、ちょうどこの混沌とした時期の上海だった。  

 ブルースはこのように、確かにしばらく上海に滞在していたのだが、こんな時代に領事裁判の一件にすぎなかったはずの、「やとっていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた」件について、公使であった彼が深くかかわったとは考えにくいし、たとえそれが事実だとしても、後年、わざわざ言及した背景には別の意図があったとしか思えない。  

 板野氏は、ラッセル卿へのブルースの手紙は、「所謂ガンボート・ディプロマシイからの転換を意味していた」として、中国人を蔑視する同胞を批判するブルースをリベラルな外交官のように描く。だが、エルギン卿とブルースこそ、中国にアヘン貿易を強要し、中国人苦力や傭兵を雇って同胞に立ち向かわせ、殺傷力の高い武器を大量にもち込ませた張本人であり、この兄弟の父親がエルギン・マーブルで知られることは言うまでもない。かりにこの半公信の内容が事実だったとしても、日本でのリチャードソンの行動には非難すべき点はなかった。真偽や意図の定かでない証言を、ただ「エルギン卿の弟」の発言というだけで真に受けて引用・拡散することは避けるべきだと主張したい。

2020年12月10日木曜日

『パサージュ論 I:パリの原風景』

 じつに遅まきながら、ようやくヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論 Ⅰ:パリの原風景』(岩波書店)を図書館で借りてみた。これまで訳書のなかでたびたびパサージュ論について言及されていながら、その場しのぎでごまかしていたが、今回の仕事で再びかなり突っ込んで取り上げられていたため、ついに読んでみたのだ。  

 私が最初に出合ったのは、『「立入禁止」をゆく』(ブラッドリー・L・ギャレット、青土社)だったように思う。ただ、この著者の関心はむしろ、ベンヤミンが言及していたナダールの地下水道の写真などにあったので、日本語ではアーケード街としか訳しようのないパサージュの意味は、よくわからないままだった。アーケード街というと、いかにも戦後の日本各地につくられたショッピング街が思い浮かべてしまう。船橋の本町にもそんな一角があったし、中野サンモール商店街などはいまも健在だ。うちの近所でも、弘明寺や大通り公園のところの横浜橋商店街など、漬物屋や八百屋、洋装店などが並ぶ昭和的な光景がまだ見られる場所がある。  

 しかし、ベンヤミンの言うパサージュは、1822年以降の15年間に、織物取引が盛んになり、大量の商品在庫が店に常備されるようになった時代に、その大半がつくられたというパリの高級商店街なのだった。最初のガス灯はこうしたパサージュに登場したのだという。その発展には、ガラス天井を支える鉄骨建築の始まりが欠かせず、にわか雨に降られても安全な遊歩道に、天井から差し込む自然光が、ファンタスマゴリー(魔術幻灯、幻像空間)の効果を与えたというものだった。うちにも子供のころは幻灯機というスライド上映する装置があったが、本来はそれを使った幽霊ショーのようなものを指す言葉のようだ。  

 この時代に、ヨーロッパの主要都市でたびたび開かれ始めた万国博覧会について、ベンヤミンはこう書く。「万国博覧会は幻像空間を切り開き、そのなかに入るのは気晴らしのためとなる。娯楽産業のおかげで、この気晴らしが簡単にえられるようになる。娯楽産業は人間を商品の高みに引き上げるやり方をするのだから。人間は、自分自身から疎外され、他人から疎外され、しかもその状態を楽しむことによって、こうした娯楽産業の術に身をまかせている。商品を玉座につかせ、その商品を取り巻く輝きが気晴らしをもたらしてくれる」。立入禁止の本でギャレットが訴えていたのは、商品化された観光地への抵抗だったし、人間が商品化されることの疎外論については、トリストラム・ハントが『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)で書いていた。「疎外」という訳語は、どうも意味が伝わりにくく、理解されていないと思いながら訳した記憶がある。  

 この本では、オスマンのパリについても何度か言及されていた。「パリ発生[ママ]の地シテ島について、人々はこんなことを言った。オースマンの手にかかった後は、教会と病院と役所と兵営しか残っていない、と」。シテ島から立ち退きさせられた多くの住民のことだ。私たちがパリだと思っている光景は、オスマン以降につくられた顔なのだ。こうした現象は世界各地の都市でその後も繰り返され、スジックの『巨大建築という欲望』(紀伊国屋書店)でも上海の開発に多くのページが割かれていたし、いま取り組んでいる本でも、やはり上海の途方もない発展の話が語られる。 「エンゲルスは、バリケード戦における戦術の問題に取り組んだ。オースマンは二つの方法をつかって、バリケード戦の防止に努めた。道路の広さはバリケード建設を不可能にするだろうし、新しい道路は兵営と労働者街とを直線で結ぶことになる。同時代の人々は、彼の事業を〈戦略的美化〉と名づけた」。ベンヤミンのこの記述を読んで、私の脳裏に浮かんだのは青山通りや外苑東通り、靖国通りなどだ。スジックもベルリンやパリの都市計画について、同様のことを書いていた。  

 このように、ざっと一読した程度ではとうてい把握しきれないことが、この1巻だけでも書かれていたので、古本を入手してまた後日、読み返してみることにした。ベンヤミンの作品などは、充分に時間のあった学生時代に、せめてその概略だけでも知っておきたかった。ただ、体系的に書かれた書ではなく、彼の膨大なメモ書きが死後に編纂されたものなので、そこに書かれた断片の意味を理解できるようになるまでは、読んでもちんぷんかんぷんだっただろうか。

 弘明寺かんのん通り商店街

 横浜橋商店街

明治安田生命ビルと明治生命館のあいだを屋根で覆ってできたパサージュ「MY PLAZA」。2021年6月撮影。