2016年7月31日日曜日

多久を訪ねて

 またもや校正の合間を縫って旅行にでたため、旅先の長崎で夜の九時にカリヨンのようなものを聞きながら、このコウモリ通信を書き始めた。今回はほぼ40年ぶりに亡父の故郷である佐賀に叔父と叔母夫婦を妹と訪ね、ついでに長崎まで足を延ばした。父とは疎遠だったので、これまで佐賀の祖先のことや親戚の多くを知らないまま過ごしてしまったが、父のきょうだいも残りわずかになり、この機を逃したら永久にわからず仕舞いになると思い、一念発起したしだいだ。なにしろ、国内線に乗るのも20年以上ぶりと言えば、この旅が私にとっていかに特別なものだったかおわかりいただけるだろうか。  

 母方の祖先は出身地がばらばらなうえに、移動を重ねているので、故郷と呼べるものがどこにもないが、父方は少なくとも300年以上は佐賀の多久という土地に住んできて、一族のお墓は天神山という裏山にあることはこれまで何度か聞いてきた。妹は子供のころにここにお墓参りにきたことがあり、崩れかけた墓石が怖かったうえに、てっぺんにあるお堂で白髪のおばあさん(つまり祖母)が木魚を叩いている姿に震えあがったらしい。その裏山もどんどん裾野が削られて宅地化され、いまではわずかな木立となり、お堂も倒壊しかけて片づけてしまったとかで、陽の降り注ぐ空き地を見て妹は拍子抜けしていた。  

 この裏山のすぐそばの小料理屋で、お向かいに住むいとこ夫婦と食事をした際に、子供のころから私の祖母を知っていたという店主から、この裏山に入り込んでいたずらをしては、よく祖母に怒られたという話を聞かせてもらった。店主の奥さんは、長年、その裏山には入ったこともなく、天神山という名称も知らず、やはり木魚の音だけは不気味だと思っていたそうで、自分の子供が言うことを聞かないと、「ドンドン山に連れて行くよ」と脅していたというから、大笑いしてしまった。  

 一度しか会ったことのないこの祖母は、私にも無愛想で不機嫌なおばあさんに見えたが、若いころはテニスをするモダンガールで、祖父との出会いもテニスを通じてだったらしい。祖父は私が生まれる数カ月前に他界してしまったので会ったことはないが、長年、教員を務めたあと、炭鉱の町として急成長した多久の町長、および市長にもなり、無理がたたって任期中に病死した。曽祖父が炭鉱事業に手をだして多大な負債を残した話は、以前に叔父に教えてもらったが、多久そのものが炭鉱の町だったとはついぞ知らなかった。叔父の計らいで、歴代市長として多久市役所の応接室に飾られている祖父の写真を見せていただけることになり、そのうえ現職の横尾市長にもお目にかかることができた。六巻+別冊の人物編からなる『多久市史』の刊行を8年前に成し遂げた横尾市長のご紹介で、多久の郷土資料館の西村館長からも石器時代に始まる多久の長い歴史を、特別講義していただいた。館長のお母さまはなんと、「チョビ髭の東郷シェンシェイ」の教え子だったらしい! 佐賀弁はサ行がsh音になるのが特徴と、『多久市史』で読んだすぐあとだったので、これを聞いて思わずニヤリとしてしまった。  

 多久には東原庠舎という朱子学の学校が元禄時代からあり、1708年には全国でもわずか14カ所しか現存しない孔子廟の一つ、多久聖廟が建てられた。昔、父に連れてきてもらった記憶はあるが、どういう場所なのかはさっぱり理解していなかった。多久聖廟ではいまでも毎年4月と8月に釈菜という孔子と四配を祀る行事が行なわれ、孔子のような服を着て聖廟詣でをすることを館長から教わった。行列の先頭を行くのは水色の服を着た多久市長で、叔父によると、祖父もその行事を執り行なったことがあるらしい!

  関東に生まれ育った私にしてみれば、防人歌も元寇も秀吉の朝鮮出兵も、遥か遠い場所で起きた歴史の教科書の一文に過ぎなかったが、佐賀では歴史を通じて、それらすべてが目の前に迫る異国の存在として現実となっていたことを今回の旅で実感した。太宰府が中世まで日本の海外との窓口であったことは言うまでもないが、唐津で田舎暮らしを満喫する叔母夫婦の家に泊めていただいた際に寄った名護屋城址からは、うっすらではあったが壱岐の島影が見えた。その先には対馬が、そして朝鮮半島がある。朝鮮出兵を前に巨大な城まで築いて、戦国武将たちがこの山がちな半島に大集結した光景など想像もできない。叔母の家の近くにある鏡山の頂上や、多久の両子山など、目視できる40里ごとの高台に熢(ほうと読むそうだ)が設置され、異国船などが近づくとのろしを上げて知らせていたと、斜め読みした『多久市史』には書いてあった。まるで北米の先住民のようだ。こうした土地柄を反映してか、多久のような内陸部でも弥生時代以降、多くの青銅器や金細工品、馬具などが出土している。  

 多久は、日本の磁器の製造にも大きな役割を担った。陶祖の李参平は、「白磁の製造技術の移転を狙って、数多くの朝鮮の陶工が日本へ連れて行かれた」わけではないらしい。長くなるので、これについてはまた別の機会に書くことにするが、彼は最初、多久の地にやってきたのだ。じつに多くのことを学び、驚きの連続の充実した5日間になった。猛暑のなかを、詮索好きの姪に辛抱強く付き合ってあちこち案内してくれた叔父に、心から感謝している。

 名護屋城址からの玄界灘

 陶山神社

 多久聖廟

 多久の朝