まったく難しい年頃だ。自分の中学生時代を振り返っても、特に部活動を通じての友達関係はかなり厄介だった。練習に出なければ白い目で見られる。鞄から靴下までなんでもそろえたがる。退部した人とは口をきかない、などお決まりのパターンだ。平日および土曜日は毎朝夕トレーニング、日曜日もよく試合があり、おたがいうんざりするほど一緒に時間を過ごした。クラスにはいろいろな人がいたので、さいわい中学時代の思い出はさほど暗くないが、こういう拘束的で濃厚な友人関係はもうこりごりだった。
小学校の高学年から中学にかけては、ただでさえ派閥争いやいじめが盛んになる年頃だ。そうしたなかで子供は親から離れて、自分たちの世界をつくりあげ、やがて自己を確立していくのだろう。だが、気になるのは、最近はそれにともなう陰湿さがいっそう増したのではないかということだ。テレビやゲーム浸けで育ってきた子供は、強烈な刺激を受けすぎていて、往々にして自分が何をしたいのかすらよくわかっていない。そういう感化されやすい子供が、携帯のメールで文字どおり四六時中、友達と接していれば、どうなるだろう。誕生日のケーキを前にして楽しんでいる時間にも、友達からの悩み事のメールがどんどん入る。こんなことが毎日つづいたら、思春期の難しい人間関係が、いっそう抜けられない耐え難いものにならないだろうか。
子供時代から携帯電話をもちはじめるいまの小中学生の世代は、いまの大学生くらいの若者から見ても違う世代に見えるらしい。ジェネレーションYどころかZくらいか。この子供たちが大人になるころには、世の中はどう変わっているだろうか。確固たる自分のない人間が、つねに似たもの同士で群れ、その時々の流行に合わせて右往左往し、その流れに乗らない人間は排除する。どうもそんな世界になりそうな気がする。イオネスコの『犀』はナチスの恐怖を皮肉った話だが、あの物語のように、いつの間にか犀に変身した人間が巷にあふれ、しまいには自分の身体もめりめりと犀に変身していくという日が、そのうち来るかもしれない。思いきって犀に変身してしまえば、案外、怖くないのか。
いや、どんな生物でも、同種のものだけが大量に群生すると、やがては生態系を崩すことになる。いろいろな種類が適度に交ざっていてこそ、バランスがとれるのだ。サラダだって、味も食感も異なる食材を交ぜたほうがおいしいに決まっている。味付けだって、複数の調味料や香辛料を適度に入れるのがコツではないか。食べるのが大好きな姪は、こう説明すれば少しはわかってくれるだろうか。友達との関係は大切だ。でも、友達との距離も大切なのだ。四六時中、拘束し監視し合わなくても、何ヵ月ぶりかに会っても、相手を信用でき、意気投合できる関係こそ望ましい。それは友達にかぎらず、人間関係すべてにおいて言えることだと思う。