2021年10月15日金曜日

カタカナ表記、再び

 こんなことを書いている暇があれば、1ページでも多く校正に精をだして、チャッチャッと仕事を片づけるべきなのだろうか、つい気になってあれこれ調べたりしてしまう。今回、つまずいたのは、またもやと言うべきか、カタカナ表記のことだ。  

 発端は、少し前の歴史の研究会で聞いた「カムチャツカ」だった。この表記を目で見ることはあっても、耳では「カムチャッカ」以外に聞いたことがなかったので驚いた。改めて調べてみたら、昨今は「ツ」表記が一般的に変わったのだという。舌を噛みそうな名称のほうが優勢になっていたのだ。ロシア語Камча́ткаの発音を聞いても、この地名の語尾はtkaであって、決してtskaではなく、大半の日本人の耳には小さなtの音は聞こえないので、促音で表記したほうが断然近い。  

 通常「ウォッカ」と表記されるводкаの語尾も発音は同じくtkaである。この飲み物を「ヴォトカ」と書く人はかなりいるが、「ウォツカ」や「ヴォツカ」は個人的には見たことも聞いたこともない。発音しづらいため、つい力が入る「ツ」よりは「ト」のほうが小さく聞こえ、そのためロシア語の発音にはこのほうが近い。ついでながら、語頭のв音は英語のvと同じ音なので、ウォではなくヴォが正しい。 

「カムチャツカ・ウォッカ」という飲み物も実在するようだが、これなどは耳で聞くと「カムチャーッカ・ヴォッカ」または「カムチャートゥカ・ヴォトゥカ」と聞こえる。同じ発音にたいし、違うカタカナ表記を普及させ、しかもわざわざ不自然なほうの表記に変えるというのは、いったいどういうわけなのか。  

 カムチャツカ/カムチャッカは頻出度の高い地名なので、これで決定と言われれば、「ベトナム」や「ロサンゼルス」や「ツバル」のように、たとえ変だと思っても従わざるをえない。そう思って諦めかけたところ、今度はラテン語名でつまずいた。Marcus Terentius Varroという古代ローマの学者だ。この人の苗字はウァロ、またはウァッロが一般的だというのだ。「ウァ」などというカタカナ表記は、通常は見かけない。なぜ「ワロ」や「ワッロ」ではいけないのか。古典ラテン語のv音は英語のw音と同じだが、英語のwhatやWashingtonを「ウァット」、「ウァシントン」と書く人はいない。古典ラテン語の発音を聞いても、「ウア」と二重母音に聞こえる訳でもない。「ウィ」、「ウェ」、「ウォ」は日常的に使われるが、「ウァ」は普段は決して見ないだけに抵抗がある。なぜ古典ラテン語の表記だけそれほどこだわるのか。  

 以前にロシア語の音写でも「ズィ」や「スィ」、「ルィ」などという表記をよく見て、ここまで言いだしたら「ケンズィントン」とか「スィンガポール」などと書かなければならなくなると思い、却下した覚えがある。  

 そんなことをブツクサ言いながら検索したら、ジャパンナレッジのページに、原則としてウ濁は使わないが、ラテン語の「ウァ」、およびドイツ語等の「ウィ」「ウェ」「ウォ」は使う旨が書かれていた。昨今の傾向は、この辺りに起因しそうだ。それもこれも、「ヰ」「ゑ」「を」の音を明治期になくしてしまったツケと思うが、「ワ」は残っているのになぜそれをわざわざと、つい思ってしまう。  

 今回、westの表記も「ウエスト」と「ウェスト」で揺れていると指摘された。これなども改めて考えてみると、二重母音ではないのだから「ウェスト」とすべきだろう。しかし、胴まわりのほうのwaistはどうすればよいのか。発音からすれば、本来ならウェイストと表記すべきなのに、これはもう絶対に「ウエスト」が定着している。しかも昨今は廃棄物のwasteの表記として「ウェイスト」が多用されているようだ。となればなおさら、西は「ウェスト」で統一するしかない。 

「クオーツ」、「クォーツ」でも悩まされた。英語のquartzの音からすると、「クウォーツ」と書きたいところだが、この表記は好まれないようだ。語頭のkwの二重子音はわずかながら二音に聞こえるので、「クオーツ」のほうがよさそうだ。そもそも「クォ」などという例外的な表記は使わないほうがいい。 

「ヱ」つまり「イェ」も、明治期に迫害された音の一つだ。そのせいで、イェール大学にすべきか、イエール大学か、エール大学なのかと、つまらないことに時間を使わされる。エール大学は、ビールのaleのように聞こえるので避けたい。小さい「ェ」を表示したくない人は「イエール」と書きたがるが、「イエ」と二重母音であるわけではないのため、これも好ましくない。やはり「イェール」がよさそうだ。  

 とりあえず、あれこれグタグタと考えたおかげで、自分の頭のなかだけは整理された。大原則は現地音に近い音を、アクセントや音節にも留意して表記するよう心がけ、かつやたら例外的な表記は避けることだ。カムチャツカとウァロは覆したいところだが、どうなることやら。

「カムチャツカ・ウォッカ」の画像でもあればよかったのだが、これは近所で見つけたミシオネス産グリーン・マテ茶。

2021年10月3日日曜日

サン・イグナシオ

 図書館から借りたアルゼンチン移民史の本の参考文献にあった書籍を、いくつか拾い読みするうちに、かなり意外な事実がわかったので書いておく。  

 1960年に当時、日本海外協会連合会(JICAの前身)が発行した『アルゼンチンは招く:ミシオーネス州と日本人』という冊子がPDFで公開されていたため読んでみたところ、私の大叔父が入植したミシオネス州サン・イグナシオは、「サンタ・アナより十五キロ離れ、国道十二番線に沿った歴史上有名なヘスイータ教徒の伝道の旧跡〈ルイナ〉のあるところである。ルイナとはサン・イグナシオの廃墟のことである」と書かれていたのだ。  

 ミシオネス(布教地域)という名前からも、イグアスの滝があるアルゼンチンの最北部にあってブラジルとパラグアイと国境を接していることからもある程度は想像がついていたが、この一帯は植民地時代を通じてポルトガルとスペインのあいだの紛争がつづいた場所で、1610年にイエズス会が「この係争地帯の土人の教化をスペイン王の名において委任を受け、大いに布教に務めた」土地だったという。レドゥクシオン(reduccíon)またはミシオン(ミシオネスの単数形)と呼ばれる先住民教化集落が、この数カ国にまたがる国境地帯のラ・プラタ地域に30カ所築かれ、サン・イグナシオに残る廃墟、サン・イグナシオ・ミニはその1つだった。この遺跡は保存状態のよさで抜きんでており、1984年にミシオネス州のサンタ・アナなど数カ所の遺跡とともに「グアラニーのイエズス会伝道所群」としてユネスコの世界遺産に登録されている。  

 いくつかの動画を見ると、広大な敷地に赤っぽい砂岩のブロックを積んで建てた教会と、修道院の回廊のような遺構が残っていた。興味深かったのは開口部の上部がアーチではなく、まぐさ石が使われていることだ。イペのような太い木材で代用されているところすらあった。設計者はイタリア人だが、恒久的な拠点にはならないと、どこか予期していたのかもしれない。 

「ラテンアメリカの先住民のキリスト教化のプロセスとその帰結を探る」(2015年)という早稲田大学の武田和久氏のインタビュー記事を参照させてもらうと、グアラニー族はラ・プラタ地域の先住民で、イエズス会士が17世紀初頭から150年にわたってこの現地民を教化する過程で、ブラジルのサンパウロ在住のポルトガル人の遠征部隊に対抗するために、グアラニー族にヨーロッパ式の軍事教練を施したのだそうだ! 

 グアラニー族はやがて、ポルトガルとスペイン双方の支配にたいする反乱を画策し始め、1756年にはグアラニー戦争と呼ばれる武力衝突が、ブラジル内の7つのレドゥクシオンと、ポルトガル–スペインの連合軍とのあいだに生じた。「一七五〇年に、ポルトガルとの紛争事件解決の条件として、その教化区域の一部を、スペイン政府がポルトガルに譲渡したことによって土人の反感を買い、その協定の実行を阻止せんとしてグヮラニー戦争となり」と、JICA(正確には海協連)の冊子は書く。 

「イエズス会士は、反乱の影の首謀者とみなされ、厳しい批判にさらされました。[……]こうしてついに1767-68年にかけて、スペイン領全域からのイエズス会士の追放令が、時のスペイン国王から公にされました。この時すでに、イエズス会士は、ポルトガルやフランスならびに両国の海外領土からも追放されていました」と、武田氏の記事は説明する。  

 イエズス会はもちろん、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルによって1534年に創設されたカトリック教会の男子修道会で、サン・イグナシオも、私の母校上智大学の隣にある(但し別組織の)聖イグナチオ教会もこの創始者の名前を冠している。1549年にザビエルが鹿児島にきて以来、イエズス会を意味する耶蘇教が、日本では長いあいだキリスト教の代名詞だった。長崎などで幅広く布教活動をし、織田信長や豊臣秀吉に謁見したルイス・フロイスも、天正遣欧使節を送ったアレッサンドロ・ヴァリニャーノも、イエズス会士だった。ヴァリニャーノは「武力による日本・明国の征服を主張する」考えで、「九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする考えであった」と、ウィキペディアの「イエズス会」の項には書かれている。鉄砲の伝来が正確にいつだったのか、従来の定説が揺らいでいるようだが、日本で鉄砲が本格的に使われたのは1575年の長篠の合戦と言われるので、イエズス会がそこにどうかかわっていたのかは、調べてみたくなる問題だ。  

 ミシオネス州にあるサン・イグナシオ・ミニには、最盛期の1733年ごろには3000から4000人が暮らしており、その大半はキリスト教徒となったグアラニー族だった。イエズス会士が去ったのちも、現地民はここで暮らしつづけたという。まるで天草四郎の島原の乱のようだ。ここは1817年にポルトガル–ブラジル軍に破壊され、1897年に再発見されるまで、亜熱帯の密林のなかに埋もれて忘れられていた。1903年にアルゼンチンの詩人レオポルド・ルゴーネスが率いる探検隊がここを訪れたことで有名になったが、修復工事が始まったのは1940年代からという。何やらボロブドゥールの遺跡を発見したラッフルズのようだが、私の大叔父が入植した1927年にはまだこの遺跡は密林のなかにあったことになる。  

 ミシオネス州に最初に入植した日本人である帰山徳治について書かれた『原生林に賭けた生涯:ミシオネス移住の先駆者、帰山徳治』(帰山利子著、智書房、2002年)によると、1921年9月「当時、ミシオネスはまだ州ではなく、連邦政府が統括する直轄領」だったという。ちなみに私の大叔父の名前は、この書では間違って「不二夫」と記載され、JICAの冊子には「二夫」と正しく書かれており、どちらも1927年入植としていた。私の叔母は昭和2年に日本を発ったと記憶しており、叔父は昭和元年と聞いたそうだ。1926年末に出発して2カ月ほどかけてインド洋・大西洋経由でアルゼンチンまでたどり着いたのかもしれない。  

 JICAの冊子では、ミシオネス州ガルアペーに日本海外移住振興株式会社が3100ヘクタールの土地を買い、「八十家族を入植せしめる計画でありますが、現在僅かに二十六家族百三十九人が入植しているに過ぎない次第であります」と、外務省移住局長の高木公一氏が「序に代えて」として書いていた。『アルゼンチンは招く』というこの小冊子は、いわば宅地造成した不動産会社の入居者募集広告のようなものだったわけだ。私が生まれるわずか数年前の発行であることに驚かされる。  

 最後に、ウィキぺディアの「イエズス会」の項目によると、ナショナリズムのもとに王権が強化されたヨーロッパ諸国にとって、「教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在は目障り」となり、最終的に諸国と教皇庁の力関係から、教皇クレメンス14世が1773年にイエズス会を禁止し、1814年にピウス7世によって復興が許可されたそうだ。  

 上智大学は1913年にイエズス会本部から215,000ドルを得て、これを元手に紀尾井町の校地を購入して創設された。ここは幕末まで尾張藩が中屋敷としてもっていた場所だ。私はイエズス会の神父さんたちから多くを学んだし、ピタウ学長がのちにイエズス会本部へ栄転になったこともよく覚えている。いまも上智大学に勤める弟からは、アルゼンチン出身の現在のフランシスコ・ローマ教皇がイエズス会出身であることを教えられた。史上初のイエズス会出身の教皇という。いろいろめぐりめぐって調べるべきことがまた山ほど増えた気がする。

サン・イグナシオ・ミニの遺跡
画像はウィキぺディアSan Ignacio Miníより拝借。