2021年3月21日日曜日

英照皇太后

 孝明天皇の女御で、慶応四年三月になって皇太后として冊立され、死後、英照皇太后と追号された女性のことを知る人はいまでは少ない。しかし、1897(明治30)年1月11日に亡くなったときは、目を見張るほど盛大な葬儀が営まれていた。日本ではこの皇太后の大喪以降、黒が喪の色になったのだという。国会図書館のデジタルコレクションで、青山練兵場や京都御苑などで撮影された数十騎もの騎兵、金モール刺繍の軍服にナポレオンハットをかぶった士官たち、時代祭のような装束を着込んだ華族たちが行列をなす大喪の写真を見たあとで、早稲田の古典籍総合データベースで、皇太后という称号からは想像もできない若々しい遺影を目にしたときは、かなりの衝撃を受けた。面長で鼻筋の通った端正な顔立ち、下唇に意志の強さを感じさせるふっくらした口、太くはっきりした眉、左右に突きだし気味の大きな耳。  

 皇室関係はタブーも多く、あまり触れたくない領域ではあるが、英照皇太后と九条家に関することは日本の近代史にとって重要であるにもかかわらず、うやむやにされ忘却されたと思われるので、判明した限りのことを一度整理しておきたい。  

 孝明天皇の肖像画と並ぶ下のポストカードは、明治40年に大喪から10周年を記念してつくられたものだ。皇太后の写真は、遺影に使われたものと同じで、小川一眞撮影という。だとすれば、小川がアメリカから帰国後の1884年以降の写真である可能性が高い。40代後半か50代でこの美貌ということは、まさしく美魔女だ。逝去した年に発行された『御大喪図会』にある写真にも小川一眞撮影と書かれていた。  

 英照皇太后の肖像として比較的知られているのは、絵画館に飾られている荒井寛方画の「富岡製糸場行啓」だろう。髪はおすべらかしで袴を穿き、足元は靴という斬新な装いで、前年に創業したばかりの工場を美子(はるこ)明治天皇妃、つまりのちの昭憲皇太后とともに視察する様子を描いた作品だ。どちらが皇太后か迷うほど、2人とも女学生のように溌剌とした姿で描かれている。孝明天皇が2度の攘夷祈願の行幸を除けば、おそらく宮中から一歩もでなかったことを考えれば、このときの行啓は驚くべき時代の変化と言える。この2人は馬車に「御同車」して各地を訪れ、横浜や横須賀の軍艦の視察にまででかけた。開通したばかりの汽車にもたびたび乗車し、京都に戻るときは船も利用している。こうした行啓は周囲からの要請あってのことだったのだろうか。  

 英照皇太后は、右大臣九条尚忠(1798–1871年)の娘、基(のり)君として生まれたが、生母も生年月日も諸説あって定かではない。煕宮、つまりのちの孝明天皇の御息所に選ばれてから夙子(あさこ)と名前が変わった。先代の仁孝天皇の女御は鷹司家の娘が相次いで選ばれたが、孝明天皇の御息所選びでは、30年以上にわたって関白を務めた鷹司政通が「堅く御断り申し上げ」、近衛家の娘は早生していたため、有栖川家と九条家の娘が候補として残った。どちらも「思し召に叶わず」だったが、お目見えしたところ、年長という理由で基君に決まったという説を『孝明天皇紀』(1906年刊)は引用する。  

 九条尚忠には対馬藩主宗義功の娘、貞姫(千鶴子)という正室がいたが、1828年に亡くなり、側室だった唐橋在煕の養女、唐橋娙子(たけこ、1796–1847年)が継室となった。1845年に夙子が御息所として選ばれたときには、唐橋家の出のこの女性が養母となった。実母は別の側室である鴨社氏人南大路大和守の娘、壽葉だと、『孝明天皇実録』第三巻(2019年刊行、ゆまに書房、実録の脱稿は1936年)は書く。「袖浦[老女の名]より此度於壽葉南大路守へ御預け御産所万端」とか、「[天保5年]九月十六日、於壽葉南大路へ下宿之事」などと「九條家番所日次記」に書かれていた。出産後、南大路大和守夫妻などにはそれぞれ鳥子餅と金200疋が贈られ、「鳥子餅一重御たる代金百疋お壽葉へ下さる」と同じ史料は書く。「於」は「お」と読むようだ。  

 しかし、同時に、この女性は南大路大和守の娘、染野だとする史料や、南大路長尹の娘、菅山だとする史料も引用されており、転載された南大路家の系図には菅山の名前だけが見つかる。『孝明天皇紀』は染野としていた。どんどん名前が変わったのか、別人なのかは不明だ。菅山(1809–1881年)は晩年、東京へ移ったと見え、1875年以降、夙子がそれなりの頻度で訪ね、見舞う様子が記され、亡くなった際には皇太后は「五十箇日間、御心葬」と『孝明天皇実録』には書かれた。お墓も青山霊園の立山墓地の九条家の墓所付近に残っているが、3年ほど前に私が訪ねた際には、墓石が低木や蔓に埋まってしまい、かろうじて文字が読みとれる程度だった。  

 五摂家の一つである九条家の娘でありながら、当初「思し召に叶わず」だったのは、生母がこのように不確かであったためかもしれない。養母とされた唐橋家も公家の下の半家の家格という。唐橋在煕の妹文子の嫁ぎ先が北野天満宮社僧・松梅院禅泰で、その娘を在煕の養女としていた。『孝明天皇紀』はこの養母の名前を梅園とする。御息所の母として公表するには、鴨社氏人の娘よりはふさわしいと判断されたのだろうか。唐橋家のこの女性は、夙子が1848年に入内する以前に死去してしまうので、1881年まで生きた菅山がのちに実母として公表されたのだと思われる。  

 生年月日については、天保5年12月13日(1835年1月11日)で、数えで12歳、満10歳で御息所に選ばれた、というのが正しいようだ。東宮との年齢差が4歳であってよろしくなく、日にちも忌日に当たるとされ、天保4年12月14日(1834年1月23日)に変えたのだと、『孝明天皇紀』は詳しく書く。明治になってからは、1月23日に「皇太后御誕辰に付」として、明治天皇夫妻が毎年お祝いをしていたことが『昭憲皇太后実録』(1957-66年刊)からわかる。しかし、実際には彼女は62歳のちょうど誕生日に波乱の生涯を終えたようだ。 

 夙子は、孝明天皇が即位した際に皇后となるはずだったが、幕府の反対で准三宮(または准三后)となったという説明をよく見るが、1846年の即位時に、具体的に幕府の誰がどういう経緯で反対したのかはわからない。江戸時代に中宮ではなく、皇后という称号が生前に使われた人はいたのだろうか。夙子は准后と呼ばれ、孝明天皇の急逝後は大宮と称されていたので、皇太后と称されるようになったのは明治以降と思われる。  

 夙子は孝明天皇とのあいだに女一宮(死後、順子内親王と呼ばれる、1850–52年)と富貴宮(1858–59年)を九条家に里帰りして産んだが、どちらも1歳と数カ月で引きつけを起こすなどして短い生涯を閉じ、泉涌寺雲龍院に葬られた。富貴宮は、公武合体のために将軍家に嫁ぐ候補に挙げられたことで知られる。この時期はペリー来航から開国までで国中が揺れた時代でもあり、夙子の父、九条尚忠は左大臣に昇進したあと、安政3(1856)年8月には関白という公家の頂点に立ち、文久2(1862)6月まで開国に向けて幕府と協調路線を歩んだため、攘夷派の孝明天皇の不興を買い、過激な尊王攘夷を主張する浪士や下級武士、公家を敵に回すことになった。  

 安政5(1858)年3月12日には、関白・九条尚忠にたいする抗議として、廷臣八十八卿列参事件が起きた。その首謀者が、唐橋家の娘を母にもつ大原重徳であり、岩倉具視や中山忠能だった。跡見花蹊に関する記事で触れた姉小路公知や沢宣嘉も加わっていたし、唐橋在煕のひ孫に当たる唐橋在光の名前もリストにある。

 同年7月には、九条家に仕えた島田左近と彦根藩の長野主膳のあいだで、富貴宮出産のために「准后がお里に御下り中に、どうにでもして関白の御職を取り上げなくては」と画策する敵対勢力の動きが牽制されていたことが『井伊家史料』からわかる。それに先立つ同年5月には、平山謙二郎と越前藩の橋本左内のあいだで「関白殿かねて好色の癖坐せしに、御女なる女御の御方へ御入の折柄、其れか女房の内と猥りかわしき御事ありしか。近き此発覚して一の人のあるべき筋ならねば、其罪によりて遠からず褫職[免職]にもなるべきとの沙汰ある由を密語せり」と『昨夢紀事』に書かれた。  

 九条家は当時、安政6年8月1日に富貴宮を亡くしたわずか2日後に、尚忠の養嗣子として鷹司家から迎えていた九条幸経が36歳で他界するという不幸にも見舞われた。幸経の元服式が1834年に九条家で開かれているので、養子入りしたのはそれ以前だろう。幸経は、姫路の酒井雅楽頭家から銉(いつ)姫が嫁いだ相手であり、『孝明天皇実録』には、銉の名前も一度だけ、夙子が女御として入内する前に従三位に叙せられた折に、「銉君様、御まゼ肴三種一折、御所様・女御様へ進ぜられ候」と書かれていた。幸経には実子がなかったが、九条家では夙子以降、九条道孝(1839年生)、松園尚嘉(1840年生)、鶴殿忠善(1853年生)鷹司煕通(1855年生)、二条基弘(1859年生)と、男子が次々に生まれ育ち、九条家の家督は、道孝を幸経の養子にする形で継がれることになった。九条関白の女癖と揶揄され、警戒されたのは、こうした事情ゆえだろうか。  

 2人目の子を亡くして1年も経たない万延元(1860)年7月に、夙子は「儲君祐宮を実子と為」した。中山忠能の娘、慶子を生母とする、のちの明治天皇のことである。当時、岩倉具視の妹の堀河紀子も後宮に入っていて、皇女を2人産み、どちらも早世した。江戸時代に子供を亡くすことは何ら稀ではなかったが、ようやく授かった2人目の娘を失った悲しみが癒える間もなく、すでに8歳の祐宮の嫡母となることは、当時まだ25歳の夙子にとっては辛い経験だったのではないか。  

 現存する大宮御所は、明治元(1868)年に新しく建てられたもので、その暮れに「方違の為」という理由から、弟で左大臣の九条道孝が当主となっていた実家にしばらく滞在したのち翌年2月に新殿に入った。明治天皇はこの年の3月に、美子皇后は10月に東京へ移ったが、夙子は京都に残り、明治3年後半にはしばらく体調を崩していた。翌明治4年8月には父、九条尚忠が死去しているが、『孝明天皇実録』にその旨の記載はない。その後、明治5(1872)年になると心機一転したのか、3月22日「御機嫌よく」京都をでて4月12日に東京に着いて赤坂離宮に入り、のちに隣接した青山御所に移った。  

 この年の9月3日に内田九一が撮影した、『御大喪図会』の写真とほぼ同一の衣装とポーズの37歳の夙子の写真も、ボードイン・コレクション等に残っている。眉が細めのこの肖像写真は、カルト・ド・ヴィジットという名刺サイズのカードにもなって使われたことが、ネット上の画像からわかる。  

 英照皇太后の写真としてウィキペディアで使われているものは、『天皇四代の肖像』(毎日新聞社)に転載された撮影年・撮影者不明の写真で、不鮮明であり、異なった印象を与える。唐衣を着て頭に釵子(さいし)または平額(ひらびたい)と呼ばれる、現代のお雛様が付ける冠のようなものを髪に挿し、眉を剃ってお歯黒をした口を開き気味にしているようにも見える。絨毯の上に敷かれているジュートのラグのようなものは、束帯姿の若い明治天皇の肖像写真に写る敷物と同じと思われる。  

 明治天皇のこの写真は、明治5年4月12・13日に内田九一が撮影したもので、撮影時はまだ天皇髷を結い、淡く白粉をさしていたと、神奈川県立歴史博物館の図録『王家の肖像:明治皇室アルバムの始まり』は書く。明治天皇が断髪したのは、翌年3月のことだった。お歯黒は1870年3月に禁止されたが、1873年に昭憲皇太后と英照皇太后が「率先して」やめることでようやく廃れたのだと言われる。夙子が東京にでてきたのは、ちょうど明治天皇夫妻の肖像写真が撮影された4月12日なので、到着後すぐに撮影に応じた可能性も皆無でないが、釵子を付けたこの若い女性は、皇后と考えたほうが自然ではなかろうか。1872年9月に内田九一が撮影した夙子には、細いとはいえすでに眉があり、翌年10月14日に同じく九一が撮影した皇后の写真には、くっきりとした眉が見える。明治天皇の軍服姿の写真は同年10月8日に撮影された。  

 明治天皇と夙子の親子関係は、建前だけのものではなかったようだ。14歳で即位し、想像もつかないほど新しい時代を生きることを余儀なくされた明治天皇と、3歳年長で、実子がなく病弱だった皇后を精神的に支えたのは、夫妻より一回りほど年上なだけで活動的な夙子だったのかもしれない。富岡製糸場を視察した年の11月、高輪の毛利元徳邸を皇后と2人で訪ねたときには、馬車が溝渠に転落するという事故が起きた。すぐに救出されはしたが、服が濡れたため、「供奉の女官著衣を脱して之を奉る」事態になったという。皇后は左肩を打撲し、微熱も発して10日間ほど寝込んだが、夙子のほうは「差而(さして)御動じもこれ無し由」だった。  

 宮中での養蚕に夙子が非常に熱心だったことは『埋もれた歴史』でも触れたが、彼女は維新直後に壊滅状態になった能狂言の保護にも一役買っていた。1878年7月には、能を愛好した夙子のために明治天皇が青山御所に能舞台を設置させ、並んで鑑賞する姿が描かれた。1881年には芝公園内に「英照皇太后の鑑賞に供する」ことを目的の一つとした能楽堂が建設され、夙子は37回も行啓したという。彼女の死後、この能楽堂は靖国神社に移築され現存する。孝明天皇十年式年祭で京都に戻った1877年2月には、皇后と一緒に女学校・女紅場・舎密局などを視察している。女紅場は、跡見花蹊の記事で先述したように、丸太町通りの九条家の別邸に建てられていた。  

 夙子は1885年に麻疹を患い、1カ月ほど養生したほかは、総じて「御機嫌よく」と書かれ、各地に頻繁にでかけていたが、1896年暮れから体調を崩し、翌年正月からカタル性肺炎になり寝込んだ。11日は朝から明治天皇夫妻が見舞いに訪れ、皇后は「流涕して存慰したまう。天皇亦一言も発したまうことを得ず、唯涕泣黙礼したまうのみ」と『昭憲皇太后実録』には書かれた。この日、「九条公父子、鷹司・二條両公詰切り」と、『孝明天皇実録』にはある。『御大喪図会』には雑録として、「皇太后陛下の御実弟なる二條基弘公」が以前に素梅の盆栽を献納したところ、「故陛下には夙に梅花を愛でさせたまうを以て其花の早く春風に綻びんことを待ちわび給いし甲斐もなく忽焉崩御」したことを悲しみ、「両眼に涙を湛え」たとする。激動の時代を、重荷を背負って見事に生き抜いた女性を間近に見てきた人びとならではの、哀悼の涙だったのではないだろうか。  

 実家の九条邸にあって、夙子が愛でていたという黒木の梅が、京都御苑に移植されており、一度は枯れたものの接木したものがいまも花を咲かせているという。画像検索したところ、華やかな紅梅だった。いつか機会があったら、梅の季節に見てみたい。

明治40年1月11日の英照皇太后の十周忌につくられたポストカード

『御大喪図会』に掲載された小川一眞撮影の写真

絵画館で購入した荒井寛方画「富岡製糸場行啓」のポストカード

 立山墓地にある菅山の墓(2018年11月撮影)

昭憲皇太后の崩御時に発行された絵葉書なのだが、使われている肖像写真はなぜか明治5年9月に内田九一が撮影した夙子の写真。「御眞筆」のほうは昭憲皇太后によるものと思われる。絵葉書なので小袿や絨毯の模様は不鮮明だが、眉ははっきりと見える

『天皇四代の肖像』(毎日新聞社、1990年)に掲載された「英照皇太后」の写真と、同じときの撮影と思われる明治天皇の写真

 靖国神社に移築された能楽堂
 2022年2月撮影

2021年3月15日月曜日

チェリー・イングラム

 鳥の公爵と呼ばれた鷹司信輔に相当するようで、まるで異なる設定の登場人物が、小野不由美の『東亰異聞』にでてきたという話を娘にしたところ、『チェリー・イングラム:日本の桜を救ったイギリス人』(岩波書店)を読んではどうかと勧められた。日本では絶滅してしまった大輪の白い桜をイングラムが里帰りさせた際に、鷹司信輔が「太白」と名づけたエピソードなどが書かれていた。著者の阿部菜穂子さんは、娘がイギリスでお世話になった方の知り合いで、『さくらがさくと』(とうごうなりさ作、福音館書店)という絵本をつくるに当たって、参考文献として読んだのだという。 

 コリングウッド・「チェリー」・イングラム(1880–1981年)は、イギリスの桜の研究家で、明治以降、染井吉野が日本全国に大量に植えられるにつれて、江戸時代まで各地にあった多様な里桜が失われていった現状を危惧し、日本から穂木を送ってもらって品種の保存に努め、多様性の意義を主張した人だった。彼は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の創刊者を祖父にもつイングラム家の御曹司でもあった。

 木口木版のイラストを大量に使用したこの週刊誌は、『埋もれた歴史』の調査で私が横浜の中央図書館の地下の書庫から大型の復刻版を何度もだしてもらって調べた史料なのだが、年代からすると、チャールズ・ワーグマンをその特派員として採用したのは、祖父のハーバートだっただろう。祖父ハーバートは働き盛りに事故で亡くなり、その後、彼の父が会社を継いでいた。コリングウッド自身は虚弱体質であったため報道関連の仕事には就かず、代わりにケント州の田舎で育ち、当初は鳥類学者を目指していた。  

 1902年に初来日して日本の魅力にとりつかれた彼は、1907年に新婚旅行で日本を再訪したのち、1919年「ザ・グレンジ」と呼ばれる敷地面積4.5ヘクタールの邸宅を購入し、そこに桜園をつくろうと思い立ったのだという。桜は総じて大木に生長するので、彼のように広大な屋敷をもてる富裕層か、そこで雇われた庭師でもなければ、独自研究は難しい。金持ちの趣味と言ってしまえば、それまでだが、おかげで江戸時代まで武家屋敷や寺社、公家の屋敷などで「桜守」たちが大切に育ててきた品種が、そして何よりもそうした多様な桜を愛でる文化が絶えずに済んだのだろう。  

 イングラムが鷹司信輔と出会ったのは、鷹司が日本鳥学会の2代目会頭になってから数年後の、おそらく1925年春に、ザ・グレンジを訪ねてきたときのことだった。その翌年、イングラムは新しい品種を手に入れようと再来日するが、関東大震災から3年後というタイミングで、その間の20年ほどのあいだに日本は様変わりしていた。イギリスに多くの苗木を輸出していた横浜植木商会を訪ねたイングラムは、日本人の関心は花が一重か八重かだけになってしまった現実をそこで知り、愕然とする。いまの大方の日本人の桜にたいする認識も、まさに同じではないだろうか。1890年創業という横浜植木商会は、南区にいまも存在し、『はまれぽ』の記事によると、百合根の輸出から始まった会社だという。なるほど! 

 イングラムのこの3度目の来日時に、鷹司は彼を方々に案内したようで、「日本鳥学の父」黒田長礼や、1917年発足の「桜の会」の本部が置かれた帝国ホテルの支配人、林愛作を交えた料亭での会食の際に、日本人同士が「全員よつんばいになって、相互に何度も額を床にこすりつけるあいさつを交わした」ことに、イングラムは衝撃を受けていた。黒田長礼は旧福岡藩黒田家当主で、祖父は津藩主藤堂高猷3男、母は島津忠義次女という侯爵だ。たとえ欧米で暮らす経験をし、洋装で流暢に英語を話すようになっても、大正時代ならばこうした旧習は色濃く残っていただろう。「桜の会」の初代会長は、いまをときめく渋沢栄一で、鷹司もその会員だった。  

 イングラムが京都を訪れた際も鷹司は日程の一部を同行し、手配した宿泊先は蹴上の都ホテルだった。旅行会社時代お馴染みだったこのホテルが、1900年創業の「京都の迎賓館」であったことを、恥ずかしながら認識していなかった。いつの間にか、ウェスティン都ホテル京都という名称になっていた。  

 桜はその後、軍国主義のイデオロギーと強く結びつき、「ぱっと咲いてぱっと散る」染井吉野のみがもてはやされるようになった。桜と大和心を結びつける総元締めとなったのは、当時の東京帝国大学史学科助教授の平泉澄だとする教育学者の斎藤正二氏の論考が引用されていた。本居宣長が生の象徴として「朝日に匂ふ 山桜花」と詠んだのはヤマザクラだったと、著者の阿部さんは指摘する。  

 軍国主義と桜を結びつけたのは確かに平泉澄かもしれない。だが、圧倒的な国力を見せつけて迫る列強を前に、分裂寸前になった国をまとめようと公武合体を主張し、日本のナショナル・アイデンティティの象徴に桜のイメージを使ったのは佐久間象山が最初ではないかと思う。松代で蟄居していた1860年に書かれ、2年後には孝明天皇の天覧にも供されたという「桜賦」を、一度しっかり読んでみたいと思いつつ、如何せん長い漢詩で、簡単な解説しか読んだことがない。飛鳥山に勝海舟が建てた桜賦の碑を見に行ったこともあるが、すでに文字がほとんど読みとれない状態だった。この漢詩は、象山が皇国という言葉を使った最も早い事例でもあるかもしれない。  

 宮中行事としての「観桜会」は、1881年に吹上御苑で始まり、その後しばらく浜離宮で開催されたのち、奇しくも「桜の会」が発足した1917年から新宿御苑に移ったようだ。幕末に締結した不平等条約の撤廃を目指した、国際親善と社交の場としての催しだったらしい。それを復活させたのが、不名誉な中止だか終わりだかを遂げた「桜を見る会」だった。どちらも八重桜の咲く4月なかばに催されていたのは、社交に主眼があって、ポカポカ陽気が重視されたからだろう。  

 軍国主義に塗りつぶされるなかで、桜の会は1943年に最後の会報をだしたあと自然消滅したが、その前年に発行された「桜」22号では鷹司も「進軍桜」という時代に染まった論文を掲載していたという。「屑(いさぎよ)く散り去る高潔なる性質が古来大和心の象徴として武士精神に通じてゐるが為に、櫻は今次の大東亜戦争完遂下の皇国に無くてはならぬものゝ一つに考へられてゐるのである」と、彼は書いた。 

 イングラムの本にはもう一つ、戦争にまつわるきまり悪いエピソードが書かれていた。イングラムの三男の妻となったダフニーが、香港の軍事病院に赴任していたときに日本軍の捕虜となり、3年以上も捕虜収容所暮らしを強いられたうえに、1941年12月25日の早朝、200人ほどの日本軍兵士が病院を襲撃し、傷病兵を惨殺したあと、看護師たちを強姦し殺害した事件の生き残りの1人で、心身に深い傷を負った女性を間近に見ていたのだ。三男夫妻はザ・グレンジの裏手に住んで、農場の管理を引き継いだが、ダフニーは日本に関係するあらゆるものを拒絶し、義父が愛した日本の桜の苗も決して受け取らなかったという。  

 著者の阿部さんは、イングラムを研究した人だけあって、染井吉野が日本の桜の代名詞となって久しい現実に厳しい目を向けるが、この本を教えてくれた娘は、そもそも園芸種に興味がないので、多様な生物種ではなく、品種を守ることの意義はあまり感じなかったようだ。染井吉野に染まった日本の春は、それでもふだんは自然など見向きもしない人たちが、ふと足を止め、顔を上げて季節を感じる唯一の機会でもあると思ったことが、『さくらがさくと』という絵本になった。暗い過去のある染井吉野の春を描いたこの作品の英語版が、この春、オーストラリアのBarbay Booksから刊行される。オーストラリアも日本の軍国主義の犠牲になった国の1つであることを考えれば、作品を受け入れてもらえたことは非常にありがたいのだと、イングラムの本を読んで改めて感じた。  

 当初、鷹司信輔に関する情報を少しでも知りたいと思って読んだ本書だったが、読み進めるうちに桜そのものにもずいぶん興味が湧いてきた。口絵に掲載されていたオカメ、クルサルという、イングラムがつくりだした品種の写真を見て、濃いピンクの花をつける近所の謎の木の正体がわかり、それ以来、早咲きの桜を探して歩くようになった。クルサルと思った濃色のほうは、実際にはその親となったカンヒザクラだったが、桜の品種をにわか勉強して春を楽しんでいる。

 飛鳥山の桜賦の碑(2016年3月撮影)

 近所のオカメ

2021年3月7日日曜日

古いアルバム

 正月以来、細々とつづけていた祖父母のアルバム整理がようやく終わった。セピア色の写真に写る人びとが誰なのか、いつどこで撮影されたのか、いまとなっては解明しようのないものも多かったが、存命の親族や高齢の母にメールや電話でたびたび聞き取り調査をして情報を搔き集めて、アルバムにメモを書き込んだ。もっとも、親族が集まる機会はめっきり減ってしまい、アルバムそのものを回覧することは難しい。そこで、せめてスキャン画像だけでも見られるようにと、小冊子を親族の世帯数だけつくり、配布することにした。すでに使い方をすっかり忘れていたインデザインを久々に開き、何度もやり直した挙句に、昨夜なんとか無事に入稿することができた。 

『埋もれた歴史』の調査過程で古写真の研究のイロハを学んだので、祖父母のアルバムを解読するうえではそうした知識が大いに役立った。写真の裏面に書かれたメモは重要な手掛かりになるので、アルバムの台紙に糊付けされた写真はまず注意深く剝がさなければならなかった。  

 古い写真には、往々にして撮影した写真館の名前が下の隅にエンボスされている。幼い伯母や赤ん坊の母が写る3枚の写真には、すべて大石寫眞館というエンボスが入っていた。祖父が朝鮮窒素肥料の勤務医となったため、一家は一時期、いまの北朝鮮の興南に移り住んでいた。当時そこは、世界最大規模と言われた化学コンビナートだった。雪がたくさん降ったのでズボンを穿いてスキーをしたところ、女がそんなことをするのは珍しいと新聞に載ったのだという自慢話を、子供のころ祖母から聞かされ、写真を見せてもらったように思うのだが、その記念すべき写真は見つからなかった。  

 曾祖父が朝鮮に送ったと伝わる段飾りの横に伯母が座る写真は、床の間のある古びた日本家屋で撮影されている。そのため、実際には帰国後の写真ではないのかと、ずっと疑っていた。祖父母が結婚直後に住んでいた中野に昭和初期創業という同名の写真館も見つかったので訪ねてみたが、昔のことはよくわからなかった。最終的に、段飾りの横にいる伯母の両足を投げだした座り方から1歳の春に撮影されたと判断し、それならば母が生まれる前、つまりまだ朝鮮にいた時代だとわかり、これら3枚が朝鮮にあった大石寫眞館によるものと結論づけることができた。  

 朝鮮からいつ帰国したのかもわからなかったが、母が1歳の誕生日に撮影されたことが裏面メモからわかった写真に、J. Moriとエンボスされていて、帰国後に祖父が勤めた鳥取陸軍赤十字病院での記念撮影写真が、やはり同じ写真家のものだったので、母が1歳になる前に帰国していたことも確認できた。  

 写真に写り込んでいる家具・調度からも、面白い事実がいろいろ見えてきた。朝鮮での家族写真で祖父母が座る肘掛椅子2脚が、母の1歳の写真にも写り、揃いのソファがあって応接セットであったことが、のちの長野時代の写真からわかった。おそらく朝鮮で張り切って購入した応接セットを日本までもち帰ったのだろう。お雛様が海を越えた話は語り継がれていたが、祖父母はどうやら応接セットまで運んだらしい。姉が祖母から聞いた話によると、帰国した際の船はひどく揺れて、船中で酔わなかったのは船長と祖父と、赤ん坊の母だけだったそうだ。祖父は船長と食事までしていたという。  

 応接セットはその後も引越しを重ねるなかで使われつづけ、屋代の家の応接間にもあったことがピアノが写り込んだ写真から判明した。じつは、私の両親が結婚するに当たって、父方の父母が挨拶にきたときの逸話がある。メモが残っていないので記憶のみなのだが、父が他界した折に、昨年、故人となった叔母から教えてもらったのかもしれない。  

 父方の祖母は熱心な仏教徒で、まずはご仏壇に挨拶したいと申し送ってきたのだという。母の実家は誰も信心深くなく、仏壇がなかったので、慌てて申し訳程度の小さな仏壇を購入したのだそうだ。このときの小さな仏壇は、いまも亡叔父の家にあるはずだ。さらに当日、応接間に通して椅子を勧めたとき、座布団が裏返しだと思ったのか、ふだんは決してそんなことをしない祖父がそれをひっくり返したため、破れていた表側を隠してあったのがバレてしまった、という笑い話だ。父の両親に勧めた椅子は、かなりの可能性で朝鮮からもち帰った黄色いソファだろう。  

 ソファの物語には続きがある。私が小学校に上がる前に、母がピアノ教室を開くために祖父母の家から運んできたソファが、この黄色ソファだったのだ。当時、母が運転していた中古の日産ブルーバードのステーションワゴンの後部座席を倒してソファを積み、旧碓氷峠を越えてたいへんな思いで運んだことは、私もぼんやりと記憶している。娘の高校時代の聞き取り調査ノートによると、その車を運転したのは別居中の父だったようだ。幼児2人連れで大荷物を運ぶのはさすがに無理と思ったのだろう。  

 このソファには、母が近所の人に習って、丁寧に刺繍を施した座布団カバーと背もたれカバーが掛けてあった。2種類あったカバーの色や模様を私はじつによく覚えているのに、ピアノの部屋ではるかに長い時間を過ごしたはずの姉は、ちっともそれを記憶していなかった。姉は真剣にピアノに向かっていたのに、私はソファに寝そべって本を読み、ピアノの練習はサボっていたためだろうか。渋い黄色の、だいぶくたびれたビロード生地もよく覚えているが、肘掛部分はどんな形状だったのかはっきりと思いだせない。そこを乗り越えたりくぐったりして遊んだはずなのに、人の記憶は本当にまだらだ。一連の写真を眺めることで、思いがけずうちにあったソファの来歴を知り、遠い記憶を呼び戻すことになった。母によると、その後ソファは、ピアノをグランドピアノに買い換えた際に置き場がなくなって、児童ホームに寄付したものの、すぐに壊れて廃棄されたそうだ。  

 長野の家の応接間で撮った写真の背景には、曾祖母が朝鮮を訪ねた折に土産に購入し、自分でかかえて帰ってきたという巨大な石炭製カラスの彫像が写っていた。ワタリガラスだろうか。このカラスの置物は、祖母がケアハウスに移るまではあったので、『カラスの科学』を訳した際に私はよく思いだした。目にはオレンジ色のメノウが入っていた。  

 石炭のカラスをもち帰った曾祖母は、末っ子(私にとっては大叔母)が出産した際には、その手伝いで満州にも渡った。満鉄に勤めていたという大叔母の結婚相手の写真も何枚か見つかった。満州で生まれた子は1歳前後で亡くなってしまい、大叔母はその後離婚して定年まで勤め、92歳で亡くなるまで自分のお金で施設での生活費を賄った。遺品から、亡くなった子の写真が見つかったと聞いた。  

 何度も海を渡ったこの曾祖母が、長女一家とともに写る色褪せた写真は、私のお気に入りの1枚だ。断崖を背に和服姿の曾祖母がレンズを睨むようにして立つ様子は、困難に立ち向かう難民一家を思わせる。場所は鎮守府のあった横須賀か呉と思われるので、小冊子を配る際に聞いてみたい。嫁である祖母とは仲が悪く、うちの母からもあまり好かれていなかったこの曾祖母は、早くに夫を亡くした苦労人だった。この写真に逞しく生きた姿を見るような気がする。  

 祖母方の曾祖母のほうは少しばかり長生きし、晩年はつねに母たちの近くで暮らしていたのだが、下関出身ということ以外にほとんど情報がない。姉に当たる人の写真や、その子孫の写真が残されている程度で、実家についてはまるでわからない。祖母が晩年に、子供のころ田舎からよく送ってもらったと言って、江戸金の亀の甲せんべいの缶を大事そうにかかえていたのを思いだし、つい取り寄せてみた。缶に印刷されているのは、曾祖母の出生地の阿弥陀寺町にある赤間神宮ではなく、隣接した亀山八幡宮で、久々に食べてみると、なんということのない、よくある味だった。  

 昔、見たときには関心がなかった、こうした「おばあさん」たちの写真に興味が湧くようになったのは、自分自身が同じような年齢に近づいたからだろうか。作成中の小冊子は完璧とは程遠い代物にしかならないが、世代が大きく交代しようとしているいま、何かしらはまとめることができたので、ちょっと達成感がある。出来上がりと親族からのフィードバックが楽しみだ。

大石寫眞館のエンボス入りの写真

長野の家で黄色い応接セットに座る一家。背後に石炭カラスの置物

大叔母一家と曾祖母
この写真を見た知人が、背景から阿蘇山で撮られたものと推測しておられ、実際そのとおりであったことが、このたび判明した!

 江戸金の亀の甲せんべい

完成した小冊子。表紙には、祖母が子供のころもっていて、孫たちに切り分けてくれたリボンを使った。すでに繊維がボロボロで、スキャンをする隙から崩れそうだった。