2019年1月30日水曜日

「稲荷堀」を訪ねる

「東京市日本橋蠣殻町のパン屋のおつねさん」

  これは子供のころに母から教わった手遊び歌で、一本指で、つづけて二本指で線を描いたあと、くすぐってからパンと叩き、つねって遊ぶ。母は神田小川町生まれの曾祖母から教わったようだが、検索しても、やや異なるバージョンのものが数件見つかるだけなので、ほんの一時期、ごく狭い地域で歌われたのだろうか。私にとってはこの歌のおかげで蠣殻町という名前は、物心がついたころから名前だけは知っている場所だった。勤めていたころは何かと東京シティエアターミナルやロイヤルパークホテルに行くことがあったので、頭上を走る首都高の陰になったような場所が蠣殻町で、がっかりした記憶がある。
 
 そんな蠣殻町一帯を、寒空の下に少しばかり歩いてみた。かつてここに、稲荷(とうかん)堀という細い堀割が日本橋川と並行してあり、その東側に姫路の酒井雅楽頭家の広大な中屋敷が江戸の初期から幕末まで存在したことを発見したからだ。稲荷堀跡は現在、とうかん堀通りとなっていて、そこに立つ説明板に転載された延宝年間(1673-1681)の古地図にも、この屋敷は描かれている。嘉永3年の地図を安政6年に再板した「日本橋北内神田両国浜町明細絵図」(東京都立図書館のページで見られる)では、この一帯は大名屋敷が立ち並ぶため蠣殻町の町名は見当たらないが、稲荷堀の文字の横にトウカンボリと書かれたすぐ上にカキガラ丁とある。この地図の最下部にある日本橋川に架かる湊橋だけは、いまも弁才船の浮き彫り付きのそれなりにお洒落な橋となって残るが、あとは見る影もなく、やや寂れた雑居ビル街が広がる。 
  
 現在は首都高の向島線が上を通る薄暗い通りには、かつて箱崎川が流れており、稲荷堀が箱崎川に注ぐ場所は行徳河岸と呼ばれていた。徳川家康は江戸に居城を定めてすぐに塩を確保するためのルートとしていまの江東区を東西に流れる小名木川を開削させ、行徳から塩を運ばせていた。小名木川は、現在の江戸川と結んで利根川舟運の重要な区間にもなっていた。その重要な水運の終点がこの行徳河岸だったのだ。  

 酒井雅楽頭家のこの中屋敷に興味をもった理由は、ここが上田藩主となった松平忠固の誕生の地だと思われるからだ。松平忠固は姫路藩主酒井忠実の十男として生まれ、上田の藤井松平家の婿養子となった。私が見つけた資料には、正確には「江戸浜町の藩邸に生まれる」と書かれていたのだが、前述の地図には、蠣殻町より少し東側の浜町には姫路藩邸は見当たらない。姫路藩主の子孫である酒井美意子の『姫路城物語』にも確かに、第6代藩主となった忠学が将軍家の姫を正室に迎えた際に、江戸浜町の中屋敷を増築したとある。姫路藩の史料である『姫陽秘艦』(一)をざっと目を通したところ、この喜代姫の輿入れに関連して、天保元(1830)年に浜町にある細川越中守の4,553坪の屋敷を借りたらしい旨が書かれており、これまで蠣殻町の中屋敷と呼んでいた場所を浜町中屋敷と呼ぶ云々とある。これらの情報を総合すると、一時期、浜町にも屋敷をもっていたのかもしれないが、忠固が生まれた文化9(1812)年はそれ以前なので、おそらく稲荷堀沿いの屋敷で生まれたのだと思う。  

 この中屋敷の広さを実感したのは、行徳河岸から500メートル以上は離れた場所にある日本橋小学校の入口にある西郷隆盛屋敷跡の説明板を先に見て、そこから歩いたからだ。中央区教育委員会の説明板によれば、明治維新後、酒井雅楽頭家の中屋敷の北側部分、2,633坪が金1,586円で払い下げられ、下野するまでの一時期ここに西郷隆盛が暮らしていたのだ。昨年の大河ドラマでも、この屋敷と思われる場所に軍服姿で出入りする西郷が描かれていた。西郷「吉兵衛」は一橋派として裏面工作に奔走するなかで、敵視する松平忠固の動向を懸命に探っていた一人だ。西郷はここで忠固が生まれたことなど知る由もなかっただろうが、忠固の生家に西郷が住んでいたとは、明治維新を象徴するようで興味深い。司馬遼太郎は払い下げ価格を250円だったと書いているようだが、説明板を信じるとすれば、現在のお金で約600万円になる。いずれにせよ破格値ではあっただろう。ちなみに、南側の敷地は、『川と堀割“20の跡”を辿る江戸東京歴史散歩』によれば、13,989坪あったという。  

 同書によれば、この一帯にはもともと陸奥磐城平藩安藤対馬守の広い屋敷があったそうで、蠣殻町の交差点付近にある銀杏八幡宮に合祀された銀杏稲荷は、安藤家の氏神だったらしい。安政6年の絵図に「安藤」とだけ書かれた対馬守の屋敷の隣に「イナリ」とあるのがこの神社だ。安政の大獄後に幕府を率いた安藤信正は、忠固の実家のお隣さんだったのだ。忠固同様、開国に舵を切った時代に老中を務め、安藤信正とともに混乱期を歩んだ関宿藩主久世広周の中屋敷も、埋め立てられてしまった箱崎川の「対岸」にあった。関宿は千葉県の北西の角部分の江戸川と利根川の分岐点にある。やはり老中仲間の佐倉藩主堀田正睦の上屋敷も浜町にあった。佐倉はやや離れているが、印旛沼を経由して利根川にでていたようだ。水運の要衝に屋敷を構えていた彼らが、無謀な戦を避け、開国して貿易をする道を選択したのは、無縁ではないだろう。  

 ところでこの日、蠣殻町に行く前に九段下の千代田区役所に立ち寄った。曾祖母の除籍謄本が取れるか試してみたのだ。だが案の定、旧神田区は関東大震災のときに大正3年以前の除籍簿・原戸籍簿等が焼失しており、曾祖母の記録は失われていた。ところが、1月の寒い土曜日の午後で区役所が空いていたおかげか、職員の方が熱心に調べてくださり、曾祖母の父親の名前が、長男の記録に付随して残っているのを発見してくださったのだ。その結果、弘化4(1848)年生まれの高祖父と、嘉永2(1849)年生まれの高祖母のことが少しばかり判明した。材木商だったと伝わるほかは、写真が一枚と葬儀の写真が残るだけだったこの高祖父は、なんと尾張国海東郡勝幡村の出身だった。

 調べてみると名古屋の西の郊外で、木曽川からさほど遠くない場所だった。木曽川はもちろん、江戸の材木の最大の供給地だ。幕末まで譜代大名や旗本の屋敷があった神田小川町に、高祖父は明治8(1875)年に移っており、それ以前は深川熊井町にいた。現在の江東区永代1丁目の永代橋のたもとから南にわずかに下った辺りの隅田川沿いだ。古地図では付近には木置場がたくさんあるので、材木商ならではの立地だ。明治になってこれらの大名屋敷が取り壊されると、跡地に細々とした建物をつくるために大量の材木を提供して儲け、自分も稲葉長門守の屋敷跡の一角に新居を構えたに違いない。明治維新は革命だったのだと、古地図を見るたびに思う。  

 ついでながら、靖国通りをもう少し淡路町方面に進んだ、現在はかんだやぶそばがある付近に、一時期、上田藩の昌平橋の上屋敷があったという。忠固の大叔父で江戸琳派の祖と言われる酒井抱一も、神田小川町の姫路藩別邸にいたようだが、正確にどこかはわからなかった。少し暇になったら、またあちこち歩いてみたい。
 
 とうかん通り
 
 湊橋
 
 銀杏八幡宮・銀杏稲荷
 
 日本橋小学校前の西郷隆盛屋敷跡

2019年1月2日水曜日

「明細」の解読

 年末年始、つかの間を母のところで過ごした。締め切りを年明けまで延ばしていただいた仕事がある手前、本来は寸暇を惜しんで見直しに励むべきところだが、正月くらいは息抜きさせてもらおうと、ずっとお預けにしていたことを楽しんだ。昨秋、上田市立博物館を訪ね、そこで閲覧させてもらった史料の解読だ。

 上田市立博物館に上田藩士の格禄賞罰の記録として「明細」という文書があることを、赤松小三郎研究会主催の尾崎行也先生の講演会で教わり、秋に仕事の合間を縫って日帰りで行って見せていただいたのだ。同館では閲覧できる史料は10点に限られるのだが、膨大なリストから必要な史料を探しだすのは容易ではない。遠方のため特別扱いということで20点選ばせていただいたが、現場で索引の巻を見たら巻が家ごとに分かれていることが判明し、結局、その場で入れ替えてもらった。

 石鹸で手を洗ったのち、腕時計もひっかからぬようはずしてから、事務室の片隅で寛文期の分限帳など、数百年は昔の古文書を恐る恐る開いた。和紙の保存状態はかなりよく、雁皮のような紙に書かれたものはとくに、虫食い一つ見当たらなかった。ページをめくって祖先と思しき人の名前を見つけるたびに、古いコンデジで撮影させてもらった。「明細」そのものは閲覧できたのは原本ではなく、マイクロフィルムの紙焼きを閉じた分厚いものだった。後日、撮影した大量の画像を多少整理はしたものの、パソコンの画面で拡大してみたところで、ミミズの這ったような筆文字から私が読み取れるのは年代と若干の固有名詞、それにいくつかの文字程度で、どれだけ眺めても肝心なことはわからない。

 ほんの150年までは、文字の読める人ならば基本的に読めたはずの崩し字だが、現代人にはある意味でヒエログリフよりも難解だ。そもそもどこに切れ目があるのかわからない。ネット上にあるくずし字解読ソフトや変体仮名の一覧などはそれなりに活用してみたものの、私がこの文書を読めるようになるには、シャンポリオンやジョージ・スミスのような才能と根気が必要だ。早々に諦め、フェイスブックで知り合い、まだお会いしたことすらないお友達で、以前にもいくつかの史料を解読してくださった方のご好意にすがることにした。

 今回、活字にしていただいたものを頼りに筆文字を一応はたどってみたが、よくまあこれを読んでくださったと、驚かされることばかりだった。「明細」に書かれた祖先の「初代」は分限帳でも同一人物らしき人が確認でき、そちらはかなり楷書に近い字だったので、てっきり「有右馮」かそれに近い名前だろうと思っていたが、「有右衛門」であったらしい。右衛門のような一般的な名前の崩し字は、独特のセットになっていたのだ。わずかな時間では全文の読みくらべは不可能なので、まずは活字にしていただいた内容の解読に専念した。それすら、理解できたのは半分くらいだろうか。 「明細」に記されたうちの祖先の項は元禄12(1699)年から始まっていたが、実際には宝暦4(1754)年生まれの4代目の時代に編纂が始まったと思われる。4代目のこの生年ですら、「戌三拾四歳」というわずかな文字を手掛かりに、FB友の方が編纂時から逆算して、干支から推測してくださったようだ。

「明細」には藩士に登用された年月は書かれているが、生年の記載はなく、藩士で亡くなった没年しか書かれていないからだ。古文書の解読には相当な推理力が必要だ。そのためか、初代から3代目までは記述が少なく、有右衛門は元禄12年に中小姓で召出され「馬術申立」であったことしかわからない。それでも、私が最初に見つけた幕末の祖先は上田藩の馬役であったし、「明細」に書かれた祖先はすべて馬関係だったので、この初代が馬術関連の専門職として登用されたのは間違いないだろう。門倉という名字や言い伝えから、元々の祖先は上田ではなく、北関東の出身だったと思われる。明治期に曽祖父が各地の墓を整理して、新たに下町のお寺につくったと伝わる墓には、天和から元禄13年までの古い墓石が数基あるので、これらは上田藩に入る前にいた土地にあったのだろう。

  記述が詳しくなる4代目以降は、「賞」より「罰」を食らうことのほうが多かったと思われ、たびたび「不埒」や「不身持」で「御叱り」を受けて「閉門」、「閉戸」の処分を受けていた。数日から数十日間の蟄居を命じられていたのだ。4代目は気の毒に、倅の不身持で家老に呼びだされた際に「途中より差塞」(ふさがり)、翌日病死していた。母に伝えると、「読んでくださった方はさぞかしおかしかっただろうね」と苦笑していた。私の祖父などもいたずら坊主だったらしく、小学校の貴重なピアノに自分の名前を彫り、曽祖母が学校から呼びだしを食らったそうだ。一生消えない汚点だと先生からさんざん叱られたのに、「関東大震災でそのピアノは燃えちまったんだ」と後年、わが子たちに自慢していたというから、これもDNAなのかもしれない。

 代々の祖先はおおむね八石三人扶持など、かなりの薄給取りで、中小姓止まりだったが、それとは別に家督として七拾石ほどが相続されていたようだ。幕末の6代目伝次郎も、15歳で組外御徒士格となってまもなく「猥に在町え打越、為酒食」したほか、「口論」や「御政治等批判」など「身分不相応」なことをしてお叱りを受けているが、後年は馬術の「教授骨折」の功で「御酒吸物被下」ことが多くなった。彼は徒士頭格になり獨礼席まで昇格したので、出世頭だったようだ。それにしても、御酒はともかく「吸物」とは、えらくささやかな褒美に思えるが、これはとくに上田藩だけの習慣ではないようだ。年末にプリントアウトした文章を娘にちらりと見せたところ、「あっ、伝次郎さん、骨折している!」と言うのには笑った。古文書は難しい。

 伝次郎が元治元(1864)年9月に「西洋馬具御買入并馬療為取調、折々横浜表え罷越、蘭人え問合候様被仰付」という記述は重要かもしれない。従来、上田関係の資料は『上田市史』の記載を引いて万延元(1860)年にイギリスの公使館付騎馬護衛隊長のアプリンから西洋馬術を学んだとしていたが、アプリンの来日は1861年11月で、それ以前に短期間来日したとしても馬術を学ぶ余裕はなかったはずなので、元治元年になってからおそらく上田の生糸商人のつてなども使って、伝次郎がアプリンに接近したという私の当初の推測のほうが、結局は正しかったかもしれない。 「明細」から判明した大きな収穫は、7代目とされる正体不明の庄次郎が養子で、私の曽祖父が生まれたと推測される明治2年に「不熟に付」という言い訳のような理由で離縁されていたことだ。このため、曽祖父は伝次郎の年取ってからの息子という可能性が高まった。私の先祖探しも、おかげさまでだいぶ進展した気がする。今年こそ、この記録をまとめる時間が欲しい。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 「明細」

 幕末の分限帳

 上田紬