2013年3月31日日曜日

浦賀散策

 昨年、徳川家康の時計を調査した大英博物館が「16世紀最高傑作」だと発表したニュースが話題を呼んだ。1607年に房総沖で座礁したスペイン船サンフランシスコ号の乗組員317人を石和田村民が救助したことへのお礼に、来日したビスカイノから家康が贈られた品である。記事を読んで、私は時計そのもの以上に、江戸初期に1000トン級のガレオン船が房総沖でいったい何をしていたのかに興味を覚えた。少し調べてみると意外な事実が次々にわかってきた。  

 スペインはそれに先立つこと1565年には、アメリカ大陸に建設したヌエバ・エスパーニャのアカプルコから太平洋を横断して香料貿易の拠点であるマニラへ向かう貿易ルートを開発していた。アカプルコとマニラはほぼ同緯度にあるので、往路は北東からの貿易風に乗って、途中マーシャル諸島やグアムに寄航しつつ西へ向かえばよい。復路は北緯38度付近までいったん北上し、そこから偏西風に乗って島一つない太平洋のこの海域を横断し、サンフランシスコ沿岸に達したあと南下したと考えられている。スペイン船はその少し前の1596年にも土佐沖に漂着しているので、フィリピンから黒潮に乗って日本沿岸を航行していた可能性が高い。日本が鎖国しているあいだも、スペインのガレオン船は1815年にメキシコが独立するまで近海を定期的に行き交っていたのだ。  

 それどころか、家康はこの貿易の途中でスペイン船に日本に寄航してもらうことを考え、その拠点として浦賀にフランシスコ会修道院の建設を許可していたという。スペインは旧教だが、一連の交渉にはウィリアム・アダムズが通訳として幕府とのあいだに入った。浦賀については、幕末にペリー艦隊が沖合に来航したことくらいしか知らなかったが、江戸初期にアダムズが乗ってきたリーフデ号もここへ廻航されてきたし、徳川水軍の将で、巨大な安宅丸を建設した向井忠勝の本拠地でもあり、重要な湊だったらしい。そこで先日、ようやく春らしくなった日に浦賀湊と灯台や砲台跡のある観音崎を歩いてみた。  

 いちばんの目的はフランシスコ会修道院跡を探すことだった。ところが、地元の人たちに聞いてみても、「そう言えば昔は大きな墓のようなものがあった」とわかっただけで、古そうな石垣の先は行き止まりになっていた。近くにあったはずのアダムズの浦賀邸も、井戸と江戸末期の祠が残るばかりだった。三浦半島のこの一帯は関東大震災のときの震源地でもあり、江戸時代の痕跡はかき消されてしまったようだ。川幅ほどしかない浦賀湊には、桧皮葺の屋根を模した遣明船のような渡し船がいまも行き来するが、ペリー艦隊はとても入れそうにない。やはり久里浜沖に投錨してボートで上陸したようだ。海岸まで丘陵が迫り、あちこちにワカメが干してある浦賀はあまりにものどかで、マニラ・ガレオンが寄航する一大貿易港に発展したかもしれない場所とは想像もできなかった。  

 造船所で12年間、徒弟として働いた経験のあるアダムズは、家康に懇願されて80トンと120トンの小型ガレオン船を伊東で建造している。サンフランシスコ号に乗っていたドン・ロドリゴ総督らスペイン人は、後者の「サン・ブエナ・ベントゥーラ」号を家康から譲り受けて無事に太平洋を横断し、アカプルコに帰還した。ちなみに日本ではこの時代にもう二隻ガレオン船が建造されており、いずれにも向井忠勝がかかわっている。四度の貴重な実習体験を積んだ船大工たちが、江戸時代に和船の造船技術を大きく進歩させた可能性も大いにありそうだ。

 観音崎灯台からの浦賀水道

 浦賀の渡し

 フランシスコ修道院の跡地