2010年11月30日火曜日

ピアノ教室

 先月、我孫子へ行った折に、母のところに、2泊ほど泊めてもらった。夕方遅くに訪ねると、母はピアノのレッスン中で、食卓に私のためのお茶とお菓子が用意されていた。私の記憶にある限り、母はいつもこうして仕事をしていた。学校から帰ると、戸棚のなかにお皿に小分けされたおやつがかならず用意されていた。たいていは、お中元やお歳暮でいただいた泉屋のクッキーだった。  

 うちに初めてピアノがきた日のことはほとんど覚えていない。物心ついたときにはすでにピアノがあり、自分の意思とは関係なく朝夕2回練習することが、まるで3度の食事のように決められていたように思う。うちでは朝から晩まで、誰かが絶えずピアノを弾いていたから、ピアノの音は空気のようなものだった。私は門前の小僧のように、たいていの曲を自分が弾く前から耳で覚えていたので、楽譜を大して見なくても、音で確かめながら適当に弾いて、それらしく繕うことができた。そのせいか、結局、私のピアノ歴は物まねの域を超えることなく、小学校を卒業する前に終わっていた。私の勉強机は、長いあいだアップライトのピアノと襖1枚を隔てた裏側に置かれていたが、とくにうるさいと思った記憶もないから、自然に耳栓もできていたのかもしれない。  

 母がなぜそこまでピアノにこだわったのかは定かではない。母自身はとくに音大をでているわけでもない。それどころか、外科の開業医だった祖父を手伝っていた母は、本当は自分も医者になりたかったらしい。切断された脚は重いんだよ、などと言っていたから、高校生のころは手術の助手もやっていたようだ。ところが、医者は女のやる仕事ではない、と祖父に猛反対されたため、母は仕方なく心理学を専攻した。それも、ハトの心理学とやらで、その道には結局、それ以上は進まなかった。その後、2 人の幼児を抱えて生計を立てなければならず、途方に暮れた母に、子供のころから習っていた「ピアノを教えたらいい」とアドバイスしたのが、やはり祖父だったという。母にとって、ピアノは生き延びるための手段であり、決して疎かにしてはいけないものだったのだろう。  

 それから半世紀近く、母はピアノを教えつづけた。ほぼ毎年、お弟子さんのために「小さい鐘の会」と題した発表会を開きつづけ、それが今年で40回目を迎える。途中から姉が開いている教室と合同で開催するようになったので、いまでは姉の生徒が大半を占めるようだが、後期高齢者となったいまも、母はまだ自宅で細々とピアノを教えている。 

「40回を記念して、冊子をまとめたいから手伝ってもらえない?」と、姉から数ヵ月前に頼まれた。昔からの発表会の写真を集めて、生徒にも配布できるアルバムをつくりたいのだと言う。第1回目は1966年だった。近所の幼稚園の講堂で開いた発表会の写真には、たくさんの幼馴染みや着物姿のお母さんたち、そして亡くなってしまった方々が写っている。別の写真には、小学校時代の同級生や近所の子供たちなど、ピアノを習いにきて、うちの家計を支えてくれた人たちが並び、やがて母の孫の時代となる。その孫たちも次々に成人し、まだピアノをつづけているのはいちばん下の高校生のみとなった。  

 記念冊子を編集しながら、これほどの長い年月、母が元気でピアノを教えつづけられたことを、つくづくありがたく思った。これは長い平和の時代がつづいたおかげでもある。