2020年10月24日土曜日

古狐か穴馬か

 先日、ペリー来航時の森山栄之助に関連して言及した平山謙二郎について、気になって調べてみたところ、意外な事実が多々発見された。彼はハリー・パークスやアーネスト・サトウが古狐と呼んでいた幕吏であり、明治維新後は神道大成教の創始者となった。ペリー来航から明治初めまで、激動の15年余りを政治の第一線で生き抜いたのに、萩原延壽でさえ『遠い崖』のなかで幾度となく彼について言及しながら、そのたびに注を入れなければならないほど、読者の記憶に残らない、その他の登場人物としてしか描いていなかった。  

 平山謙二郎(諱は敬忠、号は省斎、1815-1890年)は、陸奥国三春藩士の次男として生まれた。20歳で江戸にでて叔父の家に居候し、28歳で桑原北林と安積艮斎に漢学を学ぶ。桑原北林が没した際に、34歳でその次女を娶り、嘉永3年、36歳で小普請平山源太郎の養嗣子となり家督を継ぎ、翌4年に徒目付となった。徒目付は目付の配下にあって、60人から80人はいたと言われ、封禄は100俵5人扶持ほどだった。  

 ペリー再来航時には40歳という、決して若くはない年齢の徒目付が、どういう経緯で応接掛の一員のごとく振る舞うようになったのかは不明だ。『省斎年譜草案』によると、その前後に遠藤但馬守や本多越中守、戸川安鎮などから褒美をもらっている。「正月十三日、浦賀表え亜墨利加船渡来に付、御用を為し出立、(鵜殿民部少輔随行)」。鵜殿民部(長鋭、号は鳩翁)は目付であり、徒目付はその配下にある。林復斎ら4人が応接掛として選ばれた嘉永7年正月11日(発表は16日か)の翌日、小人目付の山本文之助と吉岡元平とともに「今十二日出立致し候旨、御達しこれ有り」と「川越藩日諜」(『大日本維新史料』第2編第1、pp. 663-667)に書かれており、当初は井戸弘道と鵜殿長鋭の二人に随行する予定だったようだ。  

 先述したように、2月初めの老中と応接掛の内密のやりとりを、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安政記事』(p. 60、1888年刊)のなかで書いているので、水戸側に鵜殿を通じて情報が漏れていた可能性もありそうだ。応接掛の第五委員に儒者の旗本である松崎満太郎(純倹)がいながら、アメリカ側の中国語通訳であるウィリアムズと羅森とのやりとりを徒目付の平山が担ったのは、漢文の筆談能力の差だったのか、オランダ語のやりとりが通詞任せなので、漢文の筆記対談も徒目付に任せたのか、あるいは諜報活動の一環だったのか、いずれにせよ、これを機に平山は頭角を表わす。  

 ちなみに、三谷博の『ペリー来航』(吉川弘文館)では、オランダ通詞の森山栄之助は町人身分と書かれていたが、森山は前年のプチャーチン来航後に小通詞から大通詞過人になっており、二本差しが許され、扶持が給される武士の身分であった。オランダ通詞は世襲であり、彼の父親も大通詞である。したがって、森山が一人でウィリアムズらと交渉をつづけるなか、沈黙を守りつづけた平山がその日の記録に、「天下の大事、象胥[通弁]一人の舌に決す。その危うきこと累卵のごとし。官吏環視してしかも一辞も容ること能わず」と書いたとき、三谷氏は象胥(しょうしょ)に「通訳の小役人」と注を入れているが、両者に大きな身分の違いはなかったと思われる。森山はこの年の10月に普請役になった(森悟「森山栄之助の研究」、『英学史研究』21号、1989)。 

 平山については、アメリカ側の中国語通訳だったウィリアムズと、広東人の羅森が多くの記録を残している。なかでも条約締結の最後の詰めをした3月1日(西暦3月29日)の午後に、羅森から借りた太平天国の乱に関する手記を返却する際に、長文の漢文書簡を手渡した一件は印象深い(羅森著、野原四郎訳、「ペリー随伴記」『外国人の見た日本 2』、pp. 65-66)。ウィリアムズも引用しているのは以下の部分だ。

 「地球全体が礼節信義をもって相交われば、陰陽の調和が行きわたり、天地の慈しみの情があらわれます。反対に、貿易の利を競って交わりをすれば、そこからいがみ合いがおこります。むしろ交わりをしないにこしたことはありません」(「全地球之中、礼譲信義以相交焉、即大和流行、天地恵然之心矣、見若夫貿易競レ利以交焉、即争狼獄訴所二由起一、寧不レ如レ無焉」。原文は『幕末外国関係文書』付録1、pp. 637-8)。

  開国することで、利潤の追求を第一とする資本主義経済に組み込まれることへの嫌悪の情と解釈できそうだ。このあと、万年にわたって太平を保つには国防力が必要だと述べ、「我が国はその点に深く省みて、近ごろ兵を訓練し武備を計っています。砲術訓練や造艦事業が日ましに発展しています」と書く。幕末に剣術や槍術の道場が盛んになったことは確かだが、ペリーの初来航後に大船建造の禁はようやく解除され、日本の砲術の祖である高島秋帆は赦免されて出獄したばかりで、平山も初来航の前年から鉄砲稽古の取り扱いを始めて褒美をもらったところだった。

 ペリー艦隊がまだ滞在中の嘉永7年4月に、目付の堀利煕が勘定吟味役の村垣範正とともに樺太・蝦夷地の視察を命じられた折には、平山も随行して松前に向かい、松前藩からの要請で、箱館に赴いたペリーとの折衝に再び当たったほか、堀と村垣のために蝦夷地上知に関する上書を起草した。ペリー帰国後は、堀のいとこで、同年1月22日に海防掛の目付に昇進した岩瀬忠震に見込まれ、従者となった。その2年後、岩瀬が下田へ出張してオランダ船将ファビウスに感化され、開国貿易の信念を固めた際にも平山は同席し、翌安政4年には水野忠徳と岩瀬とともに長崎へ行き、事実上の自由貿易の開始となった日蘭および日露追加条約を独断調印した際にも居合わせた。貿易の利をあれほど嫌悪していたはずの平山は、ものの数年で日本の誰よりも先駆けて自由貿易を推進するようになっていたのだ。安政5年に岩瀬が堀田正睦らと条約勅許を求めに上京した折も同行し、失意の岩瀬が橋下左内に会って一橋派として再出発することで意気投合した会談にも居合わせた。平山はこの年、書物奉行に昇進するが、安政の大獄で左遷され、数年間は、甲府勝手小普請組にいた。

 文久2、3年ごろには返り咲いて、慶応元年には目付に昇進し、同3年には若年寄並兼外国惣奉行となり、フランスのロッシュ公使に軍事支援を求めたり、イカロス事件に関連してイギリス側との折衝窓口となったりして、サトウには「やや低い身分の出の鋭い狡猾な顔つきの小柄な老人で、近年になって昇進していた。われわれは彼に狐とあだ名をつけており、その名のとおりの人物だった」と、評された。一橋派として活躍した人の多くは当時すでに死去するか、慶喜を見限っていたが、平山は慶喜の側近でありつづけ、鳥羽伏見の戦い後に、慶喜が海陽丸で脱出してしまったのちは、「平山老人は天保山の要塞にいたが、身を隠そうと懸命に努めていた」と、書かれた。実際には、朝鮮に使節として赴く途上に大坂に立ち寄ったところだったらしい。慶喜とともに上野の寛永寺にまで行ったが、「慶喜が謹慎を命じていた顧問の一部は、ひそかに脱出した」と、サトウが書いたメンバーのなかに、小笠原長行や小栗忠順などとともに含まれていた(原書、pp. 252、315、366、『一外交官の見た明治維新』下巻 pp. 38、124、193)。

  明治以降は、日枝神社や氷川神社の祠官として余生を送ったようだが、養子の平山成信は、「明治期の官僚で、内閣書記官長(今の官房長官)、赤十字社社長などを務め」、その傍らで幕臣の功績の顕彰に務めたと、小野寺龍太が『岩瀬忠震』(ミネルヴァ書房)に書いている。平山敬忠を共感できない主人公にして大河ドラマを制作したら、幕末史が一気に見えてきそうだが、視聴率は保証できないし、1年では終わりそうにない。

『外国人の見た日本 2:幕末・維新』
 岡本章雄編(筑摩書房、1961年)

2020年10月21日水曜日

人形の家

 9月初めに福音館から刊行されたアリソン・アトリーの『はりねずみともぐらのぼうけんりょこう』という児童書に、娘のなりさが挿絵を描かせてもらった。このたび岸野衣里子さんが描いた『クリスマスの小屋』の挿絵とともに、銀座の教文館ナルニア国で原画展が開催されることになったのだが、娘がモデルにした古い人形の家も展示したいと言われ、しばらく修理・洗濯に追われていた。娘や友達、あるいは母のピアノ教室の教え子たちが遊んだ結果、人形たちは脱毛症になり、家具は壊れ、乾電池ケースは完全に錆びつき、そのまま展示するには忍びない状態だったもので。  

 この人形の家は、会社勤めをしていたころ、毎週末に少しずつ半年かけてつくったもので、私が子供のころに読んだルーマー・ゴッデンの『人形の家』の見返しについていた挿絵をモデルにしたものだった。物語の家の電灯はつかなかったと思うが、私はどうしてもつけたくて、会社の昼休みに抜けだしてラジオ会館で、豆電球やソケット、ケース、トグルスイッチを買い、店員に配線図を描いてもらって、どうにか完成させた。いまや豆電球を買うのも一苦労で、電灯は諦めようかと思ったのだが、娘の残念そうな顔に思い直し、スタビードライバーを買って試したところ、錆びついたケースが外れたので、頑張ることに。ただ、難しい配線はやめて、単3電池1本で1.5Vの豆電球がつくセットなるものをネットで買い、四半世紀前に買ったのとほぼ同じトグルスイッチを追加で2つ買い、老眼でハンダ付けに初挑戦して、なんとか灯りがついたときは、久々に達成感があった!  

 こんな玩具で遊んで子供時代を過ごし、イギリスで過ごした3年間に田舎の光景や動物をたくさん見てきた娘が、消しゴム判子とリノリウム版画で作成した白黒の挿絵だ。これから年末にかけて、銀座までおでかけの折に、覗いていただけると嬉しい。 この本に関する娘のブログ記事はこちら。  教文館の原画展の案内はこちら

 このアトリーの仕事と並行して、娘はもう一冊、フランスのラ・マルティニエール・ジュネス社からフランスの鳥類学者フィリップ・J・デュボワ著、『Oiseaux: Des Alliés à Protéger』(鳥、守るべき仲間)の挿絵の仕事も請け負っていた。こちらは本そのものも日本から購入するのは難しそうだが、先日、ようやく届いた見本はじつにきれいな仕上がりになっていた。

 たくさん遊んでもらい、くたびれた人形たち

 この奥に錆びついた電池ケースがあった

 修理後

 久々に灯った明かり

2020年10月13日火曜日

森山栄之助の弁護を試みる

  祖先の足跡をたどって多様な文献に当たるなかで、強く印象に残った人が何人かいる。そのうちの1人が、通詞の森山栄之助だとメールでお伝えしたところ、岩下哲典先生が2005年に書かれた「日米和親条約の締結前後における領事駐在権をめぐって──オランダ通詞森山栄之助の関与とハリス駐在問題の発生と解決──」(『明海大学大学院応用言語学研究科紀要』「応用言語学研究」No.7)のコピーを、後日再びお送り下さった。この論考のなかで多く引用されていた三谷博東大名誉教授の『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)を図書館で借りて読んだうえで、私なりに考えたことを以下にまとめてみた。条約問題は、素人が論じるにはあまりに複雑で、拙著『埋もれた歴史』でもほとんど触れなかったので、今回、史料を再び読み直すよい機会になった。図書館では館内閲覧しかできない『大日本維新史料』が、古いものは国会図書館デジタルコレクションで公開されていることに気づいたのも収穫だった。膨大な史料のどこを読めばいいか、ピンポイントで教えてもらえることが、こうした専門家の研究のありがたさだ。

 手短に言えば、「日米和親条約」の第11条の問題で、英語の条文と日本語の条文が異なっているために、2年後にハリスが赴任した当初トラブルが生じた一件は、森山が通訳を誤ったために生じた、と三谷氏は主張しておられ、それを受けて岩下先生はその間の経緯を詳しく論じておられる。
 
第十一條 兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣により、合衆國官吏のもの下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候ては不及其儀候事 

 Article Ⅺ There shall be appointed by the government of the United States consuls or agents to reside in Simoda at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty; provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.  

 問題の箇所は、「両国政府に於いて據無(よんどころな)き義これ有り候時は」と、「provided that either of the two governments deem such arrangement necessary」の部分である。双方を読む限り、意味に大差はなく思えるのだが、日本語版は両国が一致して必要と認めた場合、英語はどちらか一方が必要と考えた場合、と解釈しうるのだという。当時は英語を解する日本人がほとんどいなかったため、条約文は日米双方が理解できるオランダ語と漢文をあいだに介して内容の擦り合わせがなされた。交渉のあらましは以下のようなものだった。

●嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 第1回目交渉 
アメリカ側の要求は①漂流民の保護、②寄港地の開港、③通信・通商で、最大の目的は太平洋航路を開くために石炭補給ができる寄港地を確保することだったので、通商は無理強いしなかった。ただし、日本が外国船の打ち払いや漂流民の入国拒否をつづける「寇讎」の国(敵国)となるのであれば、20日以内に100隻の軍艦を集結して戦争におよぶことも可能だとペリーは脅した。「彼国の者どもは強硬不撓の性質にて、一度申出し候事をば、如何様繰り返し」と、ペリー来航後に応接掛は老中に報告している(『幕末外国関係文書5、244号)  

●2月19・26日(陽暦3月17・24日) 第2・3回目交渉 
日本側からは、長崎で欠乏品を代金と引き換えに供給、5年後にもう1港を開くことなどを提案したのにたいし、ペリーは日本の東南(往路)と北部(復路)で5、6カ所開港するよう要求する。前年のフィルモア大統領の書簡は日本の南部に1港開港を求めていた。結局、日本側が下田を提案し、最終的に下田と箱館の開港が決まる。 

●2月30日(陽暦3月28日) 第4回目交渉 
日本側が用意した書面は用いられず、アメリカ側が用意したオランダ語の条約案を森山栄之助にその場で訳させて協議した。同日のペリー側の記録にはこうある。(『ペリー艦隊日本遠征記』原書p. 377、邦訳書、下巻、p. 215) 
「日本国内に領事代理を居住させる提案は、明らかに委員[応接掛]たちの不安を最も掻き立てたものだった。[……]代将[ペリー]はそのような代理人は、アメリカの自国民のためであるのと同じくらい、日本人自身のためにも置かねばならないと断固として主張した。最終的にそのような官吏が下田に滞在することで譲歩され、ただし条約締結後、1年もしくは18カ月は任命しないことになった。議論された新たな点を含めてさらに2つの条項が議論され、条約案の写しに加えられ、日本人は条約に関して合意した限りのことで彼らが理解したことをオランダ語でまとめ、翌日、ポーハタン号まで届けることを約束したため、代将はその場を離れた」

 前述の応接掛から老中への報告でも、「すべて條約の文は、異人より蘭文の草稿を持参仕り、且、彼方日本通詞にて漢文を心得居候者も、応接の席に出、互いに論議致し」行なった、つまりオランダ語版をまず作成したとする。このとき老中から、「下田へ亜墨利加人差置き候と申す義、十八ヶ月後、有無の答致すべく事か、如何や」と確認されて、応接掛は「来春より下田港へ館舎を建て、吏人を置く事を乞う事度々[……]ヘルリ申し聞き候は、段々御断の趣、某は得と承伏[承服]致し候へども」としたあとで、ペリーが言ったのと同様のことを述べ、「此後再び此相談に及ぶ事も有るべし、但し、それとても十八ヶ月後の事に致すベくと申し候意を認めたる事」と答えている。

 『大日本維新史料』(第2編第5 p. 377以降)では、急にもちだされた領事駐在の件に、「政府に於いて、とても相許し申すべき義にこれ無き」と、林復斎がまず強く拒絶すると、ペリーは「左候はば、先ず其の儘に成し置かれ、もしまたお差支えの義、出来候節は、一人指し置き候ように成られしかるベく存じ候、猶又十八ヶ月の後、使節参り申すべく候間、其の節此事はご談判に及び申すべく候」と、即答は求めなかった。 

●3月1・2日(陽暦3月29・30日) 
3日の調印式を前に日米の事務方が最後の作業に追われた。ペリーの遠征記は「アメリカの通訳官らは日本人と協力しながら、条約を漢文、オランダ語、日本語でそれぞれ作成するのに追われた」と、先ほどの続きに書く。1日の午後、条文作成のために森山と徒目付で漢学者の平山謙二郎、および浦賀奉行与力2人がポーハタン号に派遣された際には森山がすべてを取り仕切っていて、平山らは黙り込んでいたとアメリカの中国語通訳ウィリアムズは『ペリー日本遠征随行記』に書く。

 だが、平山は2日の夜8時に「日本語版から作成した漢文版の条約をもってきて、若干の変更と、下田の遊歩の距離に関する重要な間違いを訂正した」(原書、pp.150-52、邦訳書、pp. 252-3)。平山は当日のメモに、「合衆国の官吏を置く、約條にいたし候、一、十八月の後、両官府の一にて余儀無き筋有らば官吏を置くべし」(同維新史料 p. 462)と書いている。ところが、先に合意を見たオランダ語版をもとに作成され、平山が確認した漢文版では条約の第11条は「倘両国政府均有不得已之事情」(もし両国の政府、均しく已むを得ざる事情あらば)と、両国の意味が強調されていた。オランダ語版そのものは現存していないようだが、和解(和訳)はあり、「両国政府之内一方より貴官を設けんと要する時至らば」、つまりeitherの意味になっていた。

 思うに、ペリーにとって領事を置くことはしごく当然の手続きであり、応接掛がこれ以上、態度を硬化させないうちに条約を締結してしまえば、あとは1年半後に領事が赴任したときに何とかなるという思いがあったのではないだろうか。交渉全体の通訳だけでなく、オランダ語版の作成にも責任を負った森山栄之助は、日米のどちらかの政府が必要と認めれば、という意味だと正確に理解していたのであり、それに関しては平山謙二郎も、たとえその成り行きが不服だったとしても、理解はしていたのだ。三谷氏の書では、森山が「領事在住問題を継続交渉に委ねようという日本全権の言葉をアメリカ側に通訳せず、逆に日本側に対してはペリーの断固たる意向を将来の予想のように訳した」と推論し、森山は日米の「両者の強い意志に挟み打ちされた時、これを糊塗する道を選んだのである。森山の始めた作為は交渉妥結まで続けられ、交渉関係者全員を加担者に巻き込んだ」(『ペリー来航』、p. 179)とまで書くが、はたしてそうだろうか。むしろ、先に合意したオランダ語の内容を書き換えて漢文版を作成・承認した平山に作為があったのではないのか。三谷氏も「これは明らかに日本側の欺瞞行為である」とするのだが、それにつづいて「日本全権はアメリカ側だけでなく、公儀の老中も欺こうとした。交渉に使ったオランダ語版ではなく、漢文版を条約の正文とし、日本語版はそれからの翻訳として報告したのである」と書く(同、p. 181)。これはウィリアムズの説明とは異なり、応接掛から老中への説明にも、私が読む限りでは「全権が条約本書と称する漢文版」(同、p. 198)に相当する部分は見つからず、老中は交渉がまずオランダ語版で作成された経緯は理解していたと思われる。

 実際には、拙著にも書いたように、ペリー来航時、林復斎ら応接掛は、交渉前の2月2日に、月番老中の松平忠優(のちに忠固と改名)から「応接の事一々旨を老中に請うなかれ。[……]後日の咎は老中、これに任せんと」送りだされており、6日に水戸の斉昭が和親交易は決して許してはならないと応接掛や老中に言い含めたにもかかわらず、この日「老中等大学[林復斎]等に諭して前納言[斉昭]の命に従わざらしむ」と、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安紀事』に書いているのだ。福井藩の中根雪江の『昨夢紀事』にもこの間の出来事に関連して随所に老中間の意見の違いがあったことが示唆されている。「一説、林・井戸二氏、下田の事を申出せしは、両氏杜撰の意見にはあらで、内実は閣老衆の両人へ被命し時、為ん方なくは下田位はと何となく申されたる事あれば」(第1巻、p.165)。この箇所を引用した『水戸藩史料』は、「此の時月番の閣老は松平伊賀守忠優なり。其の人の阿部正弘と一致せざりしは前後の事情に明なり」と注を入れている(上巻乾、p. 286)。下田・箱館の開港が決まった2月26日は、老中首座の阿部正弘がひそかに辞表を書いた日だが、交渉が自分の手に負えなくなったことを苦にしたのかもしれない。平山謙二郎(省斎)はのちに一橋派として岩瀬忠震や橋本左内らとともに忠固に敵対した人物だ。 

 『水戸藩史料』には下田に関連した松平忠優のかなり驚くべき発言も残されている。これは水戸の斉昭から息子の川越藩主松平直宛の私信と思われるものに書かれた内容であり(上巻乾、p.632-636)、私は忠優の真意を測りかねて拙著では引用しなかったのだが、関良基氏の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で詳しく取り上げられている(pp. 62-64)ので、ぜひお読みいただきたい。「殊に松平忠優の如きは戦を忌むこと尤も甚だしく区々たる下田一港の如きはしばらく委棄するも可なりと発言」と、水戸の史料はこの一件を解説する。このあと、忠優は老中を解任された。

 四カ国語で作成された条約の各版間に齟齬あることは、翌年初めに下田にアダムズ艦長が再来した際に、箕作阮甫と宇田川興齋が確認作業を命じられ、第11条を含め、数カ条に問題を見つけたようだ(『水戸藩史料』上巻乾、pp. 519-527)。この年の正月に書かれた阿部正弘から水戸の斉昭宛の書簡は長文で私には充分に理解できないが、ロシアとの条約調印を担当していた筒井政憲と川路聖謨がアメリカとの条約で「漢文には倘両国政府均不得已之事情云々と御座候て、両国均と申す三字、後日此方より彼是と口出し相成り候」、あるいは「墨夷條約蘭文和解の方は漢文の両国均と申す字に符合仕らず[……]彼よりは是を差出し、此方よりは漢文を持出し終に所謂水掛にて論定仕りまじきか」などと書かれている(同、pp. 533-537)。条約に問題があったことは当事者のあいだでは周知の事実だったが、事前に誰かが再度交渉に現われるはずで、そのとき再度談判できると思い込んでいたのではなかろうか。

 1856年にハリスが突然来日した際に、幕府は確かに慌てふためいた。ハリスのオランダ語通訳ヒュースケンの日記の英訳版(原文はフランス語)には、8月21日の条(27日の読み違いか)に、日本側はアメリカの領事をこの地に置く必要性を感じておらず、その理由は条約で在日本領事が任命されるのは、「either [sic] of the two governments deemed it necessary」と書かれているからだと彼は記していた。その箇所に英訳者・編者が、「ヒュースケンはここで誤解していた。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合に(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と、注を入れている(pp. 85, 235)。英語のeitherは、ヒュースケンが気づかなかったように、「どちらか」ではなく、「どちらでも」と解釈できる言葉なのだ。オックスフォード英語辞典の定義を借りれば、「one or the other of the two people or things」という意味だ。その点で言えば、日本語の「両国政府に於いて」も解釈の余地がある言葉だ。

 ハリスの日記では8月27日の条に、上級の通訳(つまり森山)が前日にやってきて、「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなってはいない。[……]条約では領事は両国が派遣を望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた」と書かれている。この箇所の脚注では英語版の第11条が引用され、「日本語版はあいにく、両国政府が領事を任命する必要があると見なした場合にとしていた」とする(原書、pp. 208-209、邦訳書、中巻、p. 26)。安政の大地震から10カ月後でまだ復興していない日本に来日したハリスは、当初、困惑した幕吏に迎えられたが、29日には下田の柿崎の玉泉寺に入った。

 岩下先生は「後で一部の人々が、齟齬に気が付きながら、目をつぶった」食い違いを、再び現場に立たされた森山が臨機応変に対処したとする(p. 85)。諸々の背景を考えれば、私には応接掛が勝手に交渉を進めたわけでもなければ、森山栄之助が条約締結時に通訳を間違えたわけでもないと思われる。ハリスが突然やってきた当初、老中首座を退いたものの、なんとか開国を取りやめにしたい阿部正弘のもとで、森山はウィリアムズが署名している漢文版条約を盾に、領事駐在は両国が「均しく」已むをえない事情になれば、という意味なのだと主張するよう言い含められて、交渉に当たったと解釈することは可能であり、その方がより自然ではないだろうか。外国事務はその10月から老中首座の堀田正睦の担当となり、ハリスにとってはよい結果になった。

 蛇足ながら、ペリー再来の際に松代藩の軍議として横浜警備に就いた佐久間象山の「横浜陣中日記」の2月13日の条にある「例の謀る事」が、歴史学者の松浦玲の推測どおり、「横浜を以てこれに仮すの愈(まさ)れり」と『省諐録』にある下田開港阻止運動のことだとすれば、応接掛が19日に下田を提案する前の情報入手ということになる。象山が同月21日に出府して下田開港に反対し、「已むことなくば寧ろ横浜を開くに如かず」と建言したことは『水戸藩史料』(上巻乾、pp. 294-296)からもわかる。これは交渉の成り行きを見越して幕府内で事前に下田で根回しが進んでいた証拠であり、またこの時点ですでに横浜を代案として主張していた象山の慧眼には、驚かされるばかりだ。
 

森山栄之助(多吉郎と改名)の墓所は長崎の本蓮寺だけでなく、巣鴨の本妙寺にもあること岩下先生から教えていただき、先日、訪ねてみた。「日本最初の通詞」という案内標識は誤解の多い表現だが、この寺は参拝者の便宜を図ってくれており、ほかにも遠山の金さんや、剣術家の千葉周作など著名人が埋葬されていた。

2020年10月11日日曜日

追補その6:谷中墓地と本郷弓町

 1年以上前から、確かめに行かねばと思いながら、本業があまりにも忙しくでかけられずにいた。ようやく仕事も一段落したので、多少小雨もぱらついていたが、昨日は思い切って都内の各地を歩き回ってきた。

 優先順位の高い場所の1つは谷中墓地だった。ネット上に墓マイラーの方々があれこれ有益な情報を載せてくださっているので、松平忠固の娘で、須坂藩主の堀直虎に嫁ぎ、夫の死後、実業家で、のちに政治家にも転身した中澤彦吉と再婚した俊(しゅん)姫の墓があり、墓碑にいろいろ刻まれていることは知っていた。墓碑銘が松平俊子となっていることがずっと気になっていたと、以前にご子孫の方が話しておられたので、いつか訪ねようと思っていた場所だ。

 墓所には夫婦それぞれの巨大な墓碑が並び、その一方に松平俊子と大書されていた。側面にはおそらくこう彫られている。「諱俊子松平氏考曰忠固三女妣井上氏/弘化四年十一月十六日生明治七年七月/嫁中澤彦吉産男二女一明治十六年四月/二十七日罹病而歿享年三十有七歳葬于/東京谷中公塋内」。俊子は1864年に16歳で須坂藩に嫁ぎ、1868年に最初の夫と死別後、1874年に26歳で再婚し、実際には35歳で幼い子供3人を残して亡くなったようだ。時代に翻弄された俊姫が短い人生の終わりに、自分は松平の人間なのだと夫婦別姓を主張し、それを夫が受け入れたのだろうか。

 私がこの墓碑で知りたかったのは、最初の1文だ。忠固は正室を早くに亡くし、子供はいずれも側室の子なのだが、上田に残る史料には食い違いがあった。いろいろ照らし合わせた結果、娘2人と最後の藩主の忠礼と末弟の忠孝の母としは、忠固が大坂城代だった時期に、「呉服問屋大丸の裁縫を引受くる職人の娘なりという」という説に分があると私は判断していた。もう一方の説は、上田藩士の井上氏の娘というものなのだが、家臣には井上家は一軒しかなく、その家の息子と思われる人物が「般若面」の「アバレ野郎」だと書かれていたからだ。俊子の写真は少なくとも3枚は残っており、忠礼とよく似た細面の美人であり、母としと思われる女性もほっそりしたきれいな人だった。ところが、この墓石に「井上氏」とあるのだ。「井上説」の根拠となっていた松野喜太郎氏の一連の記事は昭和初めのもので、おそらくこの墓標を確認して書かれたのだろう。ただしよく読むと、「松平氏考曰」となっており、「妣」に見える字が確かにそうであれば、母としもこの時分には故人となり、妻に先立たれた中澤彦吉氏は、「松平氏考」に頼らざるをえなかったのかもしれない。
 










 中澤彦吉夫妻の墓、谷中墓地(甲3号7側)

 墓地のこの区画には、もう一基「及川松野之墓」と書かれた墓碑があった。側面の碑文は薄れかけていてよく読めないが、「故上田藩士笈川玖太女」であることや、「姆」の字が読め、俊子の死後、「婦人悲傷[……]遂得病明治十七年四月十三日歿年六十有七」と書かれているので、俊子の乳母ではないかと思う。上田藩士には笈川久太という名前が見つかるが、その娘だとすると年齢が合わない。その妻だろうか。俊姫が大坂で生まれたときから側で仕え、おそらくは須坂藩にもついてゆき、最愛の姫の急死後は生きる気力を失ったに違いない。内田九一撮影の一家の写真の右端で床に正座している人だろうか。中澤氏のほうは、衆議院議員31年、並行して京橋区会議長40年、銀行重役などを務め、明治の大立者の1人として1912年まで長生きしたようだ。













 及川松野の墓  


 谷中に行く前に、本郷の弓町にも寄ってきた。岩下哲典先生の「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」(『金鯱叢書』第21輯)から、ここにあった上田藩の中屋敷がもともと唐津藩の中屋敷だったことを知ったおかげで、ネット情報から正確な場所が簡単にわかったからだ。この跡地には、1886年から日本基督教団の弓町本郷教会があり、現在の建物は1920年代のものとのこと。創設者の海老名弾正は横井小楠の娘と結婚した熊本バンドの一員だった。上田藩にもキリスト関係者が多いので、何らかの関係があるかもしれない。唐津藩時代は春日通りにいたるまでの広い敷地だったが、上田の最後の藩主忠礼時代の中屋敷は、現在の教会とほぼ同面積だったと思われる。忠固が失脚して西の丸下の役宅を追われた上田藩に瓦町藩邸しかなくなって、さすがに気の毒だと思われたのだろうか。この土地は長らく唐津藩のものだったらしく、前の細道は「壱岐殿坂」と呼ばれていた。教会の斜向かいには、そうした歴史の一部始終を見ていたような文京区一というクスの古木が、いまなお若い枝をあちこちから伸ばして立っていた。









 弓町本郷教会









 地上1.5mの幹廻りが8.5というクスノキ

2020年10月9日金曜日

追補その5:白旗問題

 先述の本野敦彦さんの「松平忠固史」のサイトのヘッダーにはもう1つ驚かされたことがあった。『ペリー艦隊日本遠征記』の挿絵に使われたヴィルヘルム・ハイネの石版画「ルビコン河を渡る」にも、白旗が描かれていたのだ。画面上で拡大されるまで白旗の存在には気づかなかった。私が拙著『埋もれた歴史』に掲載した「江戸湾、浦賀の光景」とともに、アメリカ側が白旗を平和目的の意味で使っていたことは、これらの絵を見れば一目瞭然ではないだろうか。

 「白旗問題」と称される一連の論争に私が関心をもったのは、この問題がつねにペリー来航時の幕府の弱腰を批判される文脈で使われてきたからだ。ペリーの砲艦外交を象徴的に語るエピソードとして、日本側に開国と通商を迫り、いざ戦争になって降伏した場合に掲げる白旗まで2本渡したとする説で、それを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだでつづいている論争のことだ。私が調査の初めに読んだ佐久間象山の評伝を書いた作家の松本健一が何度も言及していたので、のちにどういう意味だったのかと疑問に思い、ペリー関連の書物をあれこれ読んでみた。そうした経緯を拙著『埋もれた歴史』で簡単に触れたため、岩下哲典先生からご著書『江戸の海外情報ネットワーク』(吉川弘文館)のなかで論じられていることを教えていただいた。

 簡単に説明できる内容ではないため、詳しくは同書をお読みいただきたいが、かいつまんで説明すると、ペリーの来航は前年からオランダ商館長による「和蘭別段風説書」で幕府上層部は知らされており、浦賀奉行所でも「奉行だけは老中から情報をリークされて知っていた。しかし、与力、同心たちには正式に話していなかったのである。それ故に中島[三郎助]は必死になってうわさのアメリカ船なのかどうか確かめた」(p. 122)のだという。

『ペリー艦隊日本遠征記』では、1853年7月8日に通詞の堀辰之助が「I can speak Dutch」と言ったあと、「彼の英語は最初の一文で尽きてしまったようなので」、オランダ語通訳のポートマンとオランダ語で会話が始まり、まずアメリカ船かと質問されたことなどが書かれている。ペリー艦隊に同行した中国語通訳のウィリアムズの随行記では、翌朝7時に香山栄左衛門がやってきた折に、乗船する前から次のようなやりとりがあったと書いている。「『アメリカ人ですか?』──『ええ、いかにもそのとおりです』と、その質問への多少の驚きをにおわせる口調で私が答えたところ、一斉に笑いが起きた」

 「ペリー側がなんども〈通達済み〉を主張したため、次第に香山はアメリカと幕府上層部が通じているのではないかと疑いを持つようになったという」(同)と岩下先生は書く。確かに、香山栄左衛門は後日、老中宛に提出した長文の上申書のなかで、ペリー側が「此度浦賀表に渡来致すべく義は、書面を以て昨年中、政府に通達及び置き候事にて」(『幕末外交関係文書』 第1巻〔15〕)、浦賀奉行所から長崎へ回れと言われてもそれはできないと主張したと書いている。しかし、アメリカ側の資料には、アメリカ人かどうか確かめた前述のやりとりしかなく、来航する旨を事前に日本側に通達したなどとはどこにも書かれていない。拙著でも指摘したように、当時の状況を考えれば、オランダがペリーの便宜を図るような紹介を日本側にするはずもないので、これは香山の誤解だろう。

 浦賀奉行所では白旗の意味はすでに弘化年代に知られていたことも同書で知った。「夷狄に白旗の使い方を教えられるとは……。しかし、日本側の火器が到底アメリカの敵ではないことを知っていた香山は、耐えるしかなかったのである」(p. 143)と当時の心情が分析されている。「白旗書簡」に関連した「与力聞書」の成立の過程まで探った岩下先生のご著書から、フェイクニュースが広まった舞台裏がよくわかった。



「ルビコン河を渡る」の絵は、神奈川県立歴史博物館の「ペリーの顔・貌・カオ──「黒船」の死者の虚像と実像」展(2012年)の図録ではなぜか、こう書かれていた。「『遠征記』によれば、実際はこのような状況はなく、蒸気軍艦の威力を背景に小艇を進めている[……]勇敢なベント大尉をイメージさせる虚構であるといえよう」。記録を読む限りまさにこういう状況であり、ハイネの描写は正確だと思われる。

2020年10月7日水曜日

追補その4:「幕府陸軍」の指揮官は松平定敬か

 調査を始めた当初は、一次資料どころか、昭和初期の資料の古めかしい文体を読むのにすら苦労したので、古写真や横浜絵を調べることに多くの時間を費やした。早い段階で私が見つけた写真の1枚が、幕府陸軍の写真を言われてきた和洋折衷のこの一団の写真だ。『甦る幕末:ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社)に掲載されているので、おそらく現物はライデン・コレクションにあるのだと思う。

 中央に立つ洋装の指揮官が、どことなく上田藩の最後の藩主松平忠礼に似ているため、長らく頭の片隅に残っていた写真だった。忠礼は拙著の表紙に使わせていただいた写真で黒馬にまたがっている若者である。その後、『幕末維新秘録』という昭和40年ごろに出版された写真集(私が購入した古本は横浜新聞社刊)に、この同じ指揮官の騎乗姿と思われる写真を見つけた。ところがキャプションには「伏見稲荷山へ巡視の将軍慶喜」とあった。確かに双方の写真の背景には伏見稲荷のように鳥居が連なっているのだが、白黒の古写真から素人が判断する限りでは、鳥居は朱色ではなさそうだ。徳川慶喜はナポレオン3世から贈られたアラブ馬に、ナポレオン・ハットをかぶってまたがる写真が残っているが、この古い写真集の騎乗者は慶喜より明らかに細めで、黒っぽいスタンドカラーに燕尾付きの軍服のウエストに太いベルトを締めているところは、幕府陸軍写真の指揮官とそっくりだ。

 この2枚の写真に写る若者は誰なのか。馬は鹿毛か栗毛に見え、たてがみや尾の様子からも、忠礼が乗る飛雲という黒馬とは違って見える。たまたまこの2枚目の写真を見つけたころ、先述の『写真集 尾張徳川家の幕末維新』を図書館から借りて見ていたので、はたと思い当たったのが、高須4兄弟の末弟、桑名藩の松平定敬だった。この4兄弟はいずれもかなり面長だが、定敬はなかでも面長で細身であり、戊辰戦争時にはしばらく抵抗をつづけ、別の洋装姿の写真が残っている。定敬は明治に入ってから、養嗣子の定教と家臣の駒井重格とともに横浜のS・R・ブラウンの塾に通った。彼自身は日本に残ったが、定教と駒井がアメリカのラトガーズに留学したため、やはりラトガーズへ留学した上田の松平忠礼・忠厚兄弟と、多くの文献で混同されていた。名前も似ていれば、姿形も、境遇も似ているとあれば、間違われるのは無理もない。

 そんな経緯はあらかた拙著のなかに書いたのだが、入稿後に別件で検索をかけていた際に、Afloという写真素材を提供する会社のサイトで新たな情報を見つけてしまったのだ。サムネイルが小さく、報道関係者でないと登録して拡大画像を見られない規定になっていたが、無理をお願いしてウォーターマーク付きながら大きな画像を見せていただいたところ、幕府陸軍の指揮官と「伏見稲荷」の騎乗者と、同じ人物であることは間違いなかった。この写真は幕府陸軍の写真とほぼ同じ位置から撮られており、指揮官の後ろ姿が見えたために、ベルトが上着の後ろまでぐるりと回っていることもわかった。こちらの写真のキャプションは、一緒に並ぶ上田の松平兄弟の留学直前に撮影された写真と混同されたようで、「松平忠礼と鼓笛隊」(RM33318529)となっていた。

 上田の人にとっては、これはやや残念な結果となったが、桑名の関係者にとっては画期的な発見ではないだろうか。この3枚はいずれも、最後の京都所司代となった松平定敬の鳥羽伏見の戦いの前後の写真である可能性が高いと推測している。
写真:(上)Wikipedia 「幕府陸軍」より 
   (下)『幕末維新秘録』より

2020年10月5日月曜日

追補その3:ペリー来航時の鉄道模型

  拙著では佐久間象山と松平忠固に多くのページを割いたため、必然的にペリー来航について調べることになった。ペリーに関しては整理する必要のある重要なことがいくつかあるが、そのうちの簡単なものから、とりあえず書いておきたい。 『ペリー提督日本遠征記』には驚くようなことがたくさん書かれており、ペリー一行が土産にもってきた鉄道模型に関しては、「小さなもので六歳児がようやく乗れるほどだった。それでも日本人たちは、乗車はできないなどと言いくるめられることなく、かと言って客車内に入れるほど身体は縮められなかったので、屋根へと向かった。もったいぶった役人が丸い軌道上を時速三二キロで、緩く羽織った衣服を風になびかせながらぐるぐる回る様子は、少なからず滑稽な見世物だった」と、ユーモアたっぷりに記されていた。あいにく同書の挿絵「横浜蒸気車の図」には試乗する侍の姿がなかったので、私はこの件は確認できないままとなった。

 ところが、松平忠固のドラマ脚本をお書きになり、私も講演会でお会いしたことのある本野敦彦さんが運営しておられる「松平忠固史」というサイトを拝見して、それこそ目が点になった。模型機関車の屋根に乗る侍の姿が描かれた絵がヘッダーになっていたのだ。出典が書かれていなかったので、画像検索をしてみたところ、アメリカのブラウン大学が12枚の絵からなる作者不明の「ペリー巻物」の1枚としてこの絵を公開していることがわかった。巻物自体は、1965年にアン・S・K・ブラウンという歴史学者がロサンゼルスの古本屋から購入したという。同大学の研究者が、この巻物の絵の元となった墨絵も発見して対比させていたので、それを手がかり少々調べてみた。 

 このとき汽車の屋根に乗る大冒険をした人は、斎藤一斎の娘婿で、ペリーとの交渉に立った林復斎のところで塾頭をしていた河田八之助(迪斎、てきさい)であり、日米和親条約の条約文の起草にも携わった人だった。河田はこのときの様子を「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し」などと日記に残しており、日本財団図書館のサイトにその経緯がよくまとめられていた。

 墨絵(ペン画に見える)を描いたのは、榊令輔(綽、ゆたか)という蘭学者であったことがわかり、「代戯館(沼津兵学校付属小学校生徒)」(http://daigikan.daa.jp/seito.html)によれば、杉田玄端・杉田成卿の弟子だったという。福岡藩士の家に生まれたが浪人となり、のちに津藩に召し抱えられ、安政年間に『火技全書図』というセッセレル(Sesseler)の蘭書を訳したほか、『魯西亜字筌』というロシア語入門書も書いている。榊令輔のこの絵は、大宮の鉄道博物館にパネル展示されていたことが、ブラウン大学の研究者の報告からわかったが、原画を同館を所蔵するのか、もしくはどこか別にあるのかは判明しなかった。『沼津兵学校と其人材』にある「杉田玄端略歴」も図書館で読んでみたが、多くは書かれていなかった。

  河田八之助は、鉄道ファンのあいだでは、初めて汽車に「乗った」日本人としてよく知られる存在らしい。しかし、彼が条約文の起草にもかかわったのであれば、そこで彼がはたした役割のほうももっと注目されてよさそうだ。















 画像はブラウン大学のサイトからのスクリーンキャプチャ。

2020年10月2日金曜日

追補その2:徳川慶勝の古写真と上田藩瓦町藩邸

 拙著『埋もれた歴史』の調査に当たっては多くの方々にご協力をいただいた。調査を始めてまもない時期に国会図書館のデジタルコレクションに「門倉伝二郎」宛の杉田玄端の書簡を見つけたのに、何年間もその「乱筆」のくずし字が読めずにいたところ、関良基先生が見かねてお知り合いの研究者に頼んで、重要な部分を解読してくださったことがあった。のちにその研究者が、幕末維新史を専門とされる岩下哲典先生であったことを教えていただいた。本が出来上がってから、関先生にお願いして岩下先生にお礼代わりに献本させていただいたところ、逆に多数のご著書や論文のコピーを頂戴したうえに、いくつもの資料をご教示くださった。まだそのごく一部しか目を通せていないが、たいへん重要なものが多いので、拙著と関連するものを中心に追補として、このブログに書いていきたい。 

 なかでも驚いたのは、拙著で長々と取りあげた『写真集 尾張徳川家の幕末維新──徳川林政史研究所所蔵写真』(吉川弘文館)のなかの慶勝写真資料を整理なさったのが、大学院時代の岩下先生ご自身だったということだ。教えていただいた『金鯱叢書』第21輯(1994年)は図書館で借りられたので、「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」という先生の論考を読むことができた。

  上田藩の上屋敷だった浅草の瓦町藩邸が、明治になって尾張の徳川慶勝の手に渡り、写真愛好家だった慶勝が瓦町藩邸の写真を何枚も残していたために、私はこの写真集に大いに興味をそそられたのだった。藩邸に関して、私は上田藩の記録しかたどらなかったが、先生の論考から、慶応4年8月の段階で江戸の「郭内・外を決定し、郭内の旗本屋敷はすべて上地、大名屋敷は郭内一カ所、郭外は拾万石以上は二カ所、以下は一カ所」と定められたことなどがわかった。江戸の古地図と明治初期の地図を見比べながら、明治維新は革命だとつくづく思ったが、その発端はこの年の8月にすでに始まっていたのだ。  

 上田藩は「なぜ上屋敷をわざわざ江戸城から遠い浅草瓦町にしたのか」と、岩下先生が問うたとおり、この藩邸はJR浅草橋駅に近い場所にある。ここはもともと中屋敷で、上屋敷は中山道の終点のような筋違橋内にあり、藩主の松平忠固が老中であった時期は西ノ丸下の役宅が上屋敷になっていた。先生の論考では、唐津藩から引き継いだ本郷弓町の中屋敷が5083坪の屋敷だったはずだと指摘されていたが、最後の藩主忠礼の時代にもっていた弓町の屋敷は、万延2年の尾張屋板切り絵図では、神田上水懸樋近くの小ぶりな屋敷に見える。

 「おそらくそこには、傷心の忠優(忠固)を慰めるに足りる歴代の居住者が営んだ汐入りの庭園があったと考えられる」という論考のなかの一文を読んだときには、思わず声を上げた。徳川慶勝の写真を整理された研究者も、瓦町藩邸の庭園を上田藩時代からのものと考えておられたのだ! 植木の茂り具合から、これは慶勝が新たに造園したものではないと私も考えていた。私の高祖父はこの藩邸にいたので、その光景を見ていたはずなのだ。江戸城からは遠いが、ここは中山道には近く、隅田川の感潮区間に位置するということは、川を容易にさかのぼれる場所ということだ。瓦町藩邸には上田の生糸商人も出入りし、長屋を貸し渡されていたので、忠固にしてみれば、江戸の中心街を通らずに横浜と船で行き来できる最高の立地だったのかもしれない。

上田藩瓦町藩邸があった付近の隅田川(2019年3月撮影)

付近にあった喫茶店の2階から眺める。すぐそばの鉄橋は私が通学・通勤に長年使った総武線隅田川橋梁

対岸から(2020年10月撮影)