2007年7月31日火曜日

イモムシ観察

 どこからやってきたのか、見たことのないイモムシが流しにいた。たぶん、母がもってきてくれたモロッコインゲンについてきたのだろう。とりあえず瓶のなかにインゲンとともに入れてラップに小さい穴を開け、輪ゴムで縛っておいた。  

 翌朝、目が覚めてから真っ先に瓶を見ると、イモムシの影も形もない。どうやって脱出したのか、信じられない思いだったが、床の上を這っているところを踏みつけないことを願いながら、忘れることにした。  

 数日後、そのままにしてあった瓶を何気なく見ると、なんとそこに件のイモムシがいるではないか。しかも、瓶の外でラップを葉の代わりにして蛹化の準備をしている。この暑いのに、ラップなんて全身にまとって窒息しないだろうか。私からは丸見えであることに気づきもせずに、イモムシは何度も上下の位置を変えながら、糸を吐いてラップの部屋を居心地よく整えている。ネットで調べたところ、コチャバネセセリに似ている。でも、コチャバネセセリの食餌は笹らしい。インゲンも食べるんだろうか? それともこれは別の幼虫?  

 生き物を捕獲して狭い容器に入れて飼うことには、いまだにちょっと抵抗がある。それでも、こうしてついイモムシに手をだしてしまうのは、どんなふうに変身するのかみたいという好奇心が半分と、ものの見方が変えられるという少々哲学的な理由からだ。 

 捕獲された虫は、囚われていることを知ってか知らずにか、狭い容器のなかをぐるぐると回り、ひどく滑稽で哀れに見える。虫はひたすら食べて、糞をし、そして眠る。わずか数週間で一ミリほどの卵から幼虫、蛹、蝶へと変身することも、当の虫は知らないのだろう。そんなことを考えていると、人間の営みだって空から見ている神さまの目には、同じくらい単純な繰り返しに映るちがいない、と思えてくるのだ。自分の世界から一歩離れて、神とは言わずとも、飼い主の冷めた視点でわが身を眺めれば、実際、たいていのことは悩むに値しないものに思える。人間の社会のなかで、人間の尺度で見れば、一大事であっても、少し視点を変えれば、大したことではないと思えるものだ。  

 虫や鳥の世界では、誰もがいまこの瞬間を懸命に生きている。うちの小さい柚子の木では、アゲハの幼虫が終齢になって緑色になったと思うと、いつもカマキリに食べられてしまう。隣家に巣をつくったムクドリの雛がカラスの餌になる事件も発生した。自然は残酷な一面も見せつけるけれど、与えられた短い生涯を精一杯生きる生物の姿も見せてくれる。狭いうちの庭でも、ふと目をやれば、蝶や蜘蛛がこんなドラマを繰り広げている。タバスコの瓶に挿してある抜け殻は、クロコノマチョウのものらしい。庭のススキがあまりにも繁茂したので、刈り取った際に見つけたものだが、昨年のナガサキアゲハと同様に、温暖化で北上中の蝶だ。 ラップのなかのイモムシは、昨夜、無事に蛹化したらしく、朝になったら、赤い色に変わっていた。いったいなかから何がでてくるのやら。冷蔵庫にしまってあったモロッコインゲンの残りを食べようと思ったら、なかからもう一匹、同じイモムシがでてきた。やっぱり、インゲンを食べていたのだ。冷蔵庫でも生きるのだから、結構、しぶとい。よし、こいつも育てよう、と私は大いに張り切っている。

 ラップにくるまるイモムシ

 Some like it hot...

 水晶屋

 クロコノマチョウの抜け殻