2013年2月27日水曜日

江戸の水道

 江戸初期の史料『慶長見聞集』の「江戸町の水道の事」の項にこう書かれている。「見しは昔。江戸町の跡は今大名町に、今の江戸町は、十二年以前まで、大海原なりしを、当君の御威勢にて、南海を埋め陸地と為し、町を立て給ふ。然るに、町豊かに栄ゆるといへども、井の水へ塩さし入り、万民これを嘆く。君聞し召し、民を哀れび給ひ、神田明神山岸の水を、北東の町へ流し、山王山本の流れを西南の町へ流し、この二水を、江戸町へ遍く与え給ふ」。十二年以前までは海だったというのは、先月のコウモリ通信で書いた日比谷入江の埋め立てを指す。同じ史料によれば、この工事は慶長8年から行なわれたそうなので、4年間で成し遂げたということだろうか。人力も侮れない。  

 一昨年、ブライアン・フェイガンの『水と人類の1万年史』を訳して以来、水道や運河の存在が気になる。水源から一定の量の水を自然流下させ、途中で両岸を浸食したり氾濫したりすることなく遠隔地まで水を運ぶには、綿密な測量にもとづく微妙な勾配の調整が必要であることを知ったからだ。人類の多くは遠くの水源から水を引いてくることで、どうにか共同体を維持してきた。灌漑用水路や水道とともに文明は発達したのであり、測量術や水理学は生きるための知恵だった。一方、世界でも稀なほど雨量の多い日本では、湧水も地下水も容易に手に入ったため、立地条件の悪い場所に許容量を超える人口が集中した江戸の建設時まで、飲料水を供給するための本格的な上水道は必要とされなかった。  

 江戸時代の水道について知ろうと、本郷にある東京都水道歴史館に行ってみた。クレタ島ではテラコッタのパイプが、ローマでは石樋や鉛管が使われており、タイでは17世紀後半に西洋人技師がやはり素焼きの水道管を導入していたが、江戸の水道管の多くは木樋だった。大半は厚板を組み合わせた、およそ水道管には見えない構造物だったが、日本では古墳時代から下水、トイレ、近距離の導水管などに同様のものが使われていたし、木材も豊富なので、当然の選択だったのかもしれない。一本だけ丸太をくり抜いた木樋も展示されていた。江戸時代にどんなドリルでこれを製造したのか想像もつかないが、イングランドでは12世紀ごろすでに中空の丸太の排水管が使われていたとフェイガンの本に書かれていたのを思いだす。画像検索で見た16~18世紀のロンドンの水道管も、これとそっくりだった。江戸時代のこの丸太の水道管は、日本で独自に発明されたものなのだろうか? 
 
 『慶長見聞集』に書かれた水道は実際にはごく限定的なもので、寛永6年(1629)ごろ水戸藩邸に上水が引かれているため、神田、日本橋方面に給水していた神田上水は、それ以降に懸樋で神田川を越え、地面に木樋を埋設するかたちで整備されたと考えられている。  

 稲作をするには田んぼを水平につくり、近くの川から水を引いてこなければならないし、巨大古墳を建造するには相当な土木技術が必要だ。ギリシャ人が発明したコロスバトス(コロバテス)と思われる水準器は、鎌倉時代にすでに日本にもあったようだ。夜間に提灯をもった人びとを立たせ、灯から灯の高さを離れた場所から測って勾配を知る提灯測量の記録も江戸時代にはかなりある。多摩川から全長43キロ、標高差92メートルで水を引いた玉川上水でも、こうした測量が実施されたとも言われるが、実際はどうだったのだろう?  

 この時代にはイエズス会士から航海術や天文測量術を学んだ人もいたし、明の数学書も入ってきている。さらに1643年のオランダ船ブレスケンス号事件の埋め合わせに、1649年から51年までオランダ商館に外科医カスパル・シャムベルゲルや臼砲射撃専門のユリアン・スヘーデルらが派遣され、このスヘーデル伍長が家光の家臣に三角測量を伝授したようだ。玉川上水は1652年に計画され、翌年4月に着工した。偶然の一致だろうか? 「当君の御威勢」の陰には、諸般の事情による技術の伝播と、試行錯誤があったに違いない。

 東京都水道歴史館の木樋

 神田上水懸樋跡