2016年6月30日木曜日

ブルック船長の日記

 豊田泰氏の『開国と攘夷』という本を、日ごろ参考書代わりに愛用している。さまざまな事件や出来事が簡潔に解説されたうえに、膨大な文献から重要な箇所が出典を明記のうえで引用されているので重宝している。先日たまたま咸臨丸の航海について読み、あまりにおもしろかったので、図書館からブルックの日記と書簡からなる『万延元年遣米使節史料集成』第五巻を借りてみた。  

 まともに外洋にでたこともなかった日本人が、「自力で」冬の北太平洋を越えたことで知られる航海だが、実態はやや違った。以前にも「コウモリ通信」に書いたが、日本人はジョン万次郎のほかはほぼ全員が船酔いで使いものにならず、乗り組んでもらった11人のアメリカ人に頼りきりだったという。そのアメリカ人のまとめ役が、深海測量器を発明した測量専門家でもある海軍将校ジョン・マーサー・ブルック大尉だった。1860年2月10日に出航したが、翌日には「日本人は全員船酔いだ」と、彼は書いた。「日本人は帆をたたむ事ができない」、「真夜中。暴風の中で船室にもぐっている日本人は、砂の中に頭だけをつっこんで、全身をかくしている積りの駝鳥とよく似ている」など、ブルックの日記には厳しい言葉がつづく。海にでて2週間以上を経てなお、「勝艦長は幾分気分がよさそうだったが、まだ寝たままである。彼にスープとブドー酒を少々与えた。提督〔木村芥舟〕は部屋に籠っている」有様だった。  後世の人間から見れば笑い話だが、長崎伝習所でわずか数年の訓練を受けただけで、オランダから購入したばかりの咸臨丸に乗り込んだことを考えれば、無理もない。

 『氷川清話』によれば、勝海舟は「ちやうどその頃、おれは熱病を煩って居たけれども、畳の上で犬死をするよりは、同じくなら軍艦の中で死ぬるがましだと思ったから……妻にはちよつと品川まで船を見に行くといひ残して、向ふ鉢巻で直ぐ咸臨丸へ乗りこんだ」。「およそこの頃遠洋航海をするには、石炭は焚かないで、帆ばかりでやるのだから」と、海舟が言うように、基本的には風任せであるから、往路はまず北上し、北緯40度付近を偏西風に乗ってサンフランシスコを目指した。スペインのガレオン船が16世紀から利用しつづけた航路だが、アメリカ人にとってはまださほど馴染みのある海域ではなかったようだ。ペリー艦隊は喜望峰回りで日本にやってきたし、遣米正使を乗せたポーハタン号も、当初は西回りをするつもりだったが、日時がかかり過ぎるという幕府の意向で北太平洋航路になったという。すでに北太平洋探検に加わってこの海域を測量してきたブルックにしてみれば、「〈パシフィック〉という名は、その海が普段静穏であるためにつけられた名前であり、従って〈アトランティック〉はもっと荒い」と思えたのだろうが、それでも2月の北太平洋はときおり南東や北東から激しい風も吹き、苦労が絶えなかった。「三日分の石炭しか持っていないので、午後三時には蒸気をとめよう。……もし米国の石炭を積んでいたら、順風の吹きはじめるまで六日か七日は蒸気で走れるのに」と、ブルックは嘆いた。無寄港でサンフランシスコまで行くには、水も節約しなければならない。同乗のアメリカ人水夫が水を無駄にしたためブルックに抗議したときのことを、福沢諭吉が『福翁自伝』に書いている。「その時に大いに人を感激させしめたことがある……カピテン〔ブルック〕の言うには『水を使うたら直に鉄砲で撃ち殺してくれ、これは共同の敵じゃから』」と答えたのだという。  

 前述の第五巻にはブルックの日記や書簡の原文もある。自分の乗り込むことになった船をブルックがCandémarと書き、のちに万次郎と一緒にCandin marruと綴ることに決めたと言いながら、Candinmarro、Candinmarruhなど、どんどん変わってしまうのがわかるのも楽しい。「艦長の名は、Kat-sha dring-tarro」と教えられたときのブルックの困惑ぶりが目に浮かぶ。その後、海舟本人がCats lin-taroと綴ってみせたらしい。  

 ブルックは航海中の日本人の無能ぶりをアメリカで言いふらすことなく、逆に日本人がいかに経験を積んで操船能力を高めたかを報告し、帰路については台風の季節の前に、北回帰線以南の穏やかな海域を貿易風に乗って進むよう助言してくれたようで、一行はハワイ経由で、今度こそ自力で帰国した。ブルックの日記はこの航海から100年後に、彼の孫が序文を書き、福沢諭吉の孫で慶応の教授だった清岡瑛一氏が訳すかたちで出版された。なお、咸臨丸はブルックの書簡から292トンとされていたらしいが、『海軍歴史』にある27間半×4間という寸法は帆船に蒸気機関搭載のコルベットでは最大級のようなので、排水量ではなく、純トン数で620トンであったかもしれない。咸臨丸は明治初期に北海道へ移住を余儀なくされた仙台藩の人びとを乗せた折に津軽海峡サラキ岬沖で座礁し、その後沈没した。錨だけが1984年に引き揚げられている。  遣米使節の正使を乗せたポーハタン号は、ペリー艦隊の旗艦として日米和親条約が調印された船であり、吉田松陰が密航を試みた船でもある。松陰は1859年11月に処刑された。この船は1858年の日米修好条約時にも利用され、その後、日本の小判を上海に運んで儲けたと言われている。正使に同行してこの船でアメリカへ渡った小栗忠順は、この不公平な交換比率を是正するために奮闘した。黒船ポーハタンは、南北戦争を経て1886年まで活躍したらしい!

ブルックが勝海舟のノートに描いたというスケッチ 『万延元年遣米使節史料集成 第五巻』より