2023年12月31日日曜日

除夜の鐘

 横浜に住むようになって20年あまりになるが、毎年暮れから正月にかけて、船橋の母のところで過ごしていたので、横浜でお正月を迎えるのはじつは初めてだ。娘のなりさが絵本『じょやのかね』(福音館)で描いたお寺で孫に除夜の鐘を撞く機会をとうとう与えてやれなかったというのが、昨春、船橋の借家を退去するに当たって大きな心残りとなっていた。年末が近づき、諦めきれずに調べてみたら、自転車で行ける範囲に、除夜の鐘を撞くことのできるお寺がそれなりにあることがわかった。  

 うちの近所の品濃町は旗本の新見氏の知行地だったところで、近くの白旗神社の由緒書きにも、新見家の何人かの当主がかつて神社の脇に埋葬されていたと書かれている。昭和になって東戸塚一帯が開発された際にお墓は移設されたそうで、自治会の街歩きニュースか何かを見て、その共同墓地も訪ねてみたこともある。10代目の新見正興は立ち居振る舞いが立派な美男だという理由で遣米使節団の正使に抜擢され、村垣範正や小栗忠順とパウアタン号に乗って太平洋を横断して、日米修好通商条約の批准書を交換した人としてよく知られる。正興は明治に入ってまもなく病死し、あとに残された娘たちは柳橋の芸者として売られたと言われる。そのうちの一人が公家の柳原前光に妾として囲われ、二人のあいだに生まれた娘が歌人で、大正三美人の一人、柳原白蓮となった。  

 江戸住まいだった正興の墓所は中野区の願正寺にあるそうだが、新見家祖先の位牌は近所の北天院が預かっているという。このお寺は何度か訪ねたことがあり、境内の奥にシュロの幹を撞木にした梵鐘があるのを知っていたので、せっかくならそこに行こうということになり、大晦日の晩に、すっかり寝入っている5歳児を揺り起こして出かけた。静まり返った街に、すでに鐘の音が聞こえてくるなか、自転車を漕いだ。  

 山寺と呼べるようなお寺の長い石段には明かりが灯って幻想的な雰囲気になっており、雲間から顔を出す月の下に近所の檀家さんと思われる人たちがちらほら集まり、ご住職がお経をあげていた。お経が終わると、一人ずつ順番に鐘を撞き、終わると数を数えるためか、銀杏を筒のなかに入れて交代する。孫は間近に聞く鐘の音に怯え気味だったが、娘と一緒に上手に撞いていた。私は勢いをつけ過ぎて、やたら大きい近所迷惑な音になってしまった。甘酒は熱々に温めた缶入りのものが振る舞われ、飲んでいるうちに幸せな気分になった。そのころには近所の人たちが次々に列に並んでおり、小学生もそれなりに見られた。  

 頑張って夜中に自転車を漕いだ甲斐は十分にあった。遠くから別のお寺の、違う音色の鐘も聞こえるなか、「かねのおとが だんだんとおざかる」と、孫が絵本のなかの一節をつぶやいていた。こうして平和に大晦日が迎えられることのありがたさを噛み締めた。

 近所にある新見氏の墓所
(2022年10月撮影)

2023年12月26日火曜日

年末のニュースから

 書きたいこと、書いておかねばと思うことは山ほどあれど、そのためには頭のなかを整理するだけの時間と気持ちのゆとりが必要だ。このブログもしばらく放置してしまったので、年末を前に備忘録にしかならないが、『毎日新聞』の有料記事ばかりだが、最近気になったいくつかの新聞記事を挙げておく。 

 12月19日朝刊の世界人口考「若者流出 少子化追い打ち」「反移民 欧州のジレンマ」は、人口流出と移民問題に悩むポーランドからの非常に考えさせられる記事だった。1989年の東欧革命で旧共産圏から脱し、EU加盟、シェンゲン協定を経て、欧州有数の移民送りだし国となって若者の国外流出、人口減少がつづく現状を報告するものだ。若者がいなくなることについて「そりゃ寂しいですよ。だけど、高い給料がもらえるほかの国で働きたいと思うのは当たり前のこと。それが資本主義の自由だから」と語る時計家の言葉が、強く印象に残った。移民を送りだす国が、入ってくる移民に寛容かというと、そうではない。ポーランドはウクライナ侵攻後に100万人以上の避難民を受け入れたが、その直前にシリアやイラクからの難民の流入を固く拒んだことは記憶に新しい。実際、この記事によると、国内で反イスラーム感情は高まっているという。労働者不足を補うためには、文化的に近いウクライナやベラルーシの人びとが好まれるようだ。若者が出て行ってしまう国に、彼らが就きたくないと思った仕事を求めて移民や出稼ぎ労働者が入ってくるという構図は悲しい。それがはたしてポーランド人が憧れた自由だったのだろうか。  

 ポーランドからの記事から数日後の23日に読んだ「神戸、京都 危機感あらわ」という、日本国内の「消滅可能性都市」の問題をまとめた短い記事も悩ましいものだった。コロナ禍で若干進んだ地方への人口移動はすでに落ち着いてしまい、東京圏にますます人口が集中しているのだという。65歳以上が人口の65%以上を占める群馬県南牧村では、介護施設を整備して雇用を生みだして対策を取っているそうだ。南牧村は、八ヶ岳の赤岳から天狗岳にかけての稜線の東側に広がる、船橋市と八千代市を足したほどの面積130㎢の広大な村だが、人口は3200人強しかいない。野辺山の滝沢牧場は、昔、何度か訪ねたことがある。野辺山には世界最大級の電波望遠鏡がある観測所もあるのに、近年は研究費が減らされる一方で、村の活性化には役立っていないようだ。南牧村は移住者を募っており、総務省がまとめ役となっている地域おこし協力隊として、任期3年でこの村で活動する外国人もいる。地元にうまく溶け込める少数の優秀な移住者が徐々に増えていけば、過疎の自治体にとってはありがたいことだろう。ただし、成り手のいない3Kの仕事に、技能実習生を安い労働力として雇って二級市民をつくるような発想はいただけない。 

 クリスマスの朝には、朝刊の一面が「朝鮮人虐殺 新公文書」という見出しで、関東大震災後から数カ月後に熊谷市内で、警察が保護した朝鮮人のうち、夜間に護送した40数人が殺気だった群衆に殺された件に関する熊谷連隊司令部作成の報告書が発見されたと報じていた。関連記事の「民衆心理 慎重解明を」 では、「とっぴな流言が広く信じられ、自警団が進んで『不逞鮮人』を探し歩き、広範囲で虐殺が多発したのはなぜか」と問いかける。「国家ぐるみ 隠蔽か」と題された記事も興味深かった。 

 この記事を読みながら脳裡に浮かんだのは、「パクストン・ボーイズ」のことだった。スコットランドとアイルランドの長老派教会の武装集団がアメリカ先住民のコネストーガ族の村を襲い、襲撃後に連れてこられ監獄に避難していた生き残りの村人まで一人残らず虐殺された事件だ。これは1763年にJ・メイソンとC・ディクソンがペンシルヴェニアとメリーランドの両植民地の境界線を定める測量任務に乗りだした時代に起こった事件で、来年一月に刊行予定の訳書『人類と国境』(ジェイムズ・クロフォード著、河出書房新社)で、人類が初めて地球上に直線を引くようになった出来事として取り上げられていた。定規で引いたような四角形が並ぶアメリカやアフリカの地図を見て子どものころ不思議に思ったものだが、それが意味するものを改めて認識させられることになった。 

 25日の朝刊には、同じくらい考えさせられる「ガザ『正義』の綱引き」という記事もあった。「自分たちが掲げる『正義』の戦いに参戦を呼びかける綱引き」に関するものだ。記事のなかで「幼少期に繰り返し強い心身の危険にさらされると、その3割が複雑性PTSDを発症する」という指摘が印象に残った。このストレス障害をかかえる人は、怒りや恐怖の感情を制御しにくく、リスクを伴う自虐的な行動を取る、復讐心や不信感が強くなるなどの傾向が見られるという。一方、ホロコースト生存者の親がかかえるトラウマが、子どもの精神衛生に影響をおよぼすことも判明している。この記事はエルサレム特派員だった2014年に、イスラエル軍幹部とハマース司令官の双方を取材した専門記者、大治朋子氏の記事で、双方が「敵」を「非人間化」し、暴力をもって「正義」を教えてやるしかないと考えていたことに驚かされたそうだ。 

 子どもにたいする性犯罪やネグレクトが、生涯にわたって精神に深い傷を残すことを考えれば、75年にわたって占領され、縮小する一方のパレスチナ自治区で生まれ育ち、10歳児ですらすでに3度の大規模戦闘を経験しているというガザの子どもたちの将来に悲観的にならざるをえない。2000年から2倍になって222万人になったというガザの人口の約半数は子どもなのだ。(https://en.wikipedia.org/wiki/Gaza_Strip )

 コロナも一段落して、少しは明るい話題が増えてくることを期待していたが、何やら世の中はいっそう先行き不透明になっている。UNHCRによれば、80億を超える人口のうち、1億以上が紛争や迫害によって故郷を追われている。国際移民数は2021年の段階で2億8100万人という。 日本はいまのところまだ蚊帳の外にいる感があるが、この波はいずれこの島国にも到達するだろう。少子化、過疎化の問題と併せて、各自治体が真剣に考えねばならない時期にきている。 

 喪中のため、年始のご挨拶は失礼させていただきます。
 どうぞ皆さまよい新年をお迎えください。
 
年末に娘一家に誘われて三浦の海岸でバーベキューを楽しんだ。遠くに大島が見える穏やかな海辺で、平和なひとときを実感した。

2023年11月9日木曜日

絶望感

 昨春にリーディングをし、今年初めから翻訳に取り組んできた国境問題を広く扱った本については、これまでも何度か関連の記事を思いつくままに書いてきた。この9月からその本の校正に入ったところ、10月7日にガザ地区を実行支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃したために、本に書かれていたパレスチナ人の惨状が急に現実として迫ってくるようになった。本作には、「ウォールド・オフ、壁を築く」という章がある。ガザ地区ではなく、ヨルダン川西岸地区の歴史と現状に焦点を当てたものだが、この一世紀ほどのあいだパレスチナ人が置かれてきた状況を知るうえでは、非常に有意義な章だと思う。章題そのものは、ベツレヘムにあるバンクシー経営のホテル名を借用しており、このホテル名そのものも、ニューヨークの老舗ウォルドーフホテルをもじったものである。 

 私自身は恥ずかしながら、パレスチナ問題はかなり疎い。日々の報道を適当に追うだけでは、とうてい理解できないことだからだ。中東に行った経験も、学生時代にパキスタン航空でヨーロッパに旅をした際に、ドバイを経由した数時間しかない。タラップから降り立った地面が、目玉焼きができそうなほど熱かったことや、民族衣装を着て黒いコウモリ傘を日傘にする男性たちの奇妙な光景くらいしか覚えていない。  

 パレスチナ問題を多少なりとも知るようになったのは、学生時代に緒方貞子先生の講義を受けたときのことだった。当時はまだ難民高等弁務官に就任される前だったが、ゴラン高原について語っておられたことだけを記憶している。その後、チョムスキーの『覇権か、生存か』という本の下訳をすることがあり、「憎悪の大釜」という章で2002年以降に建てられた分離壁について知り、その唖然とする実態に驚いた。だが、当時の私には知らないことだらけで、翻訳するのに精一杯で終わってしまった。  

 今回の作品でも、パレスチナ人が置かれた惨状はよく理解できたものの、地図で詳しく図解されるような作品ではないため、あまりにも複雑な経緯をたどった歴史や、いたるところに分離壁がぐねぐねと立ち並ぶ地理は、文章からはどうにも理解できなかった。再校正に入って、翻訳上の直しが減って読めるようになったゲラを前に、少しばかり背景を整理してみた。  

 まずは高校時代の世界史で覚えさせられたバルフォア宣言が、イギリスの「国王陛下の政府はユダヤ人のためのナショナル・ホーム(民族的郷土)をパレスチナに創設することを好意的に見ている」という、非常に両儀的な表現で書かれていたことをようやく知った。当初、私はこれを安易に「祖国」と訳していたのだが、バルフォア宣言の現物画像をウィキペディアで見て、待てよと考え直し、それについて言及しておられた「世界史の窓」というサイトを参考にさせていただいた。

 その後、1948年に地図上に緑の色鉛筆で引かれたグリーンラインでヨルダン領に編入されたヨルダン川西岸地区が、1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルに実効支配された「占領地」となり、戦争は公式には終わっていないので、いまもその状態なのだという。1993年のオスロ合意のときにはすでに、その土地の60%以上は「C地区」として区分され、そこからパレスチナ人は一掃されていることを、遅まきながら理解した。よく見聞きする「パレスチナ自治区」という名称は、残りの「A地区」(17.2%)と「B地区」(23.8%)、およびガザ地区をかき集めたものだったのだ。「B地区」は、行政はパレスチナ人によるが、治安はイスラエルという混合の地区だ。したがって西岸地区では、残りの3割強の虫食いのような場所だけが「パレスチナ自治区」ということになる。国連は2012年からそれらの寄せ集めにたいし「パレスチナ国」という呼称を使い、EUは「占領されたパレスチナ地域」などと呼んでいるという。パレスチナ自治政府を率いるアッバース大統領は、「私にとって(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸とガザがパレスチナであり、それ以外はイスラエルだ」と2012年に主張しているそうだ(彼のウィキペディアのページより)。グリーンラインが引かれた当時、エジプト領となったところがガザ地区で、ここも1967年以降、イスラエルが実効支配し、2007年からは軍事封鎖されていた。ガザの状況は、この10月以前も西岸地区に輪をかけて悲惨であったわけだ。  

 グリーンラインで東西に真っ二つに分断されたエルサレムは、現在も基本的にはそのままで、旧市街は東エルサレム側にある。旧市街の51%はムスリム地区で、21%がキリスト教徒地区、残りはアルメニア人とユダヤ人が14%ずつ住むという。しかし、旧市街を含む東エルサレムは、西岸地区のなかでも特殊な位置付けとされ、イスラエルはここを西岸地区とは見なしていないのだそうだ。こうなると、たとえ地図で示されても、誰がその土地を支配しているのかもさっぱりわからない。  

 こうした背景が頭に入ると、強引に、なし崩し的に土地を買収し、法律を変えて入植地を広げていったイスラエルに、住んでいた村を追われて移住させられ、周囲を高い壁で囲まれた暮らしを強いられてきたパレスチナ人の状況がより切実に感じられる。  

 西岸地区について書いたこの章を訳して何よりも強く印象に残ったのは、いまや70年以上にわたって、世代を超えて抑圧されてきた人びとのあいだにある圧倒的な絶望感だった。引用されているパレスチナ人作家の作品の一つは、10代の若者が自分を殺すことでしか、本物の世界には到達できないと思いつめ、どんどん自死する近未来を描くものだった。  

 同様の絶望感は、中南米からアメリカへ密入国する移民を描いた章や、サハラ以南の国々から地中海沿岸にあるスペインの飛び地メリリャへの侵入を試みたり、地中海を小船で横断したりする移民や難民の章でもひしひしと感じられた。分離壁の向こうで贅沢に自由に暮らすイスラエル人がかいま見え、インターネットを使えば豊かな国の情報がいくらでも入ってくる現代において、自分たちの日常とのあまりの格差を見せつけられたとき、人は何を思うのか。もちろん、ネットにも接続できず、明日の食べ物もないほど困窮していれば、その行動にすら出られないだろう。でも、ジリ貧となり、この先も決して展望は開けないと悟ったとき、座して死を待つよりは、もはや失うものは何もないと、一か八かの賭けに出る人も出てくる。「靖国で会おう」は戦後のつくり話という説も出てきているようだが、死後の世界を信じる人びとにとっては、討ち死にはどうしても美化されがちだ。そこまで追い詰められた人びとには、自分の刃の矛先が「敵側」の幼い子どもに向けられたとしても、その子が敵の子であるという理由だけで、正当化されてしまうのかもしれない。  

 平和な日本から見れば理解不能な行動に出るこれらの人びとの、こうした底知れぬ絶望感を知ると、一連の事態を単に善悪で語る政治家たちの言葉は虚しく響く。誰が彼らをそこまで追い詰めたのか、歴史を振り返り、胸に手を当てて自問してから発言してくれよと言いたくなるのだ。

Wikipedia「ベツレヘム県」のページより。この地図はUnited Nations OCHA oPtをもとに作成されている。 
ベツレヘムは拡大したエルサレムの郊外と接する南に位置するパレスチナ自治区で、その境界には分離壁(地図の赤い線)が立ちはだかる。1949年のグリーンライン(緑の線)と分離壁のあいだの地帯には、1970年以降に増えたギロなどのイスラエルの入植地がある。

2023年9月29日金曜日

またもや先祖探し

木曜日の朝、仕事を放りだして新木場まで行ってきた。 神田小川町で材木問屋の娘として生まれの曾祖母については、コウモリ通信でも何度か書いたことがあるが、このタケさんの異母兄のご子孫が見つかったのだ。しかも、いまも型枠資材の卸売りを中心とした木材関連の会社を経営しているという!   

 神田小川町は、私の学生時代はスキー用具や登山用品の量販店がひしめく一帯だったが、江戸時代には小栗忠順などの旗本屋敷や譜代大名の屋敷が立ち並んでいた。上田藩も昌平橋の手前の、現在はかんだやぶそばがある辺りに150年近くにわたって上屋敷をもっていた。少し歩けば日本橋川にも神田川にも出られる立地とはいえ、こんな街中で材木問屋が営めたのかと長らく疑問に思っていたが、4年ほど前、タケさんの父である大宮萬吉が、1875年に深川熊井町から神田に転居したことが判明して、謎が一つ解けていた。

 1862年の本所深川絵図から、熊井町は大横川が隅田川に注ぐ河口にあって、すぐ前に佃島が見える合流点の町であることもわかった。材木問屋にはうってつけの場所だ。コロナ禍で電車に乗るのもためらわれた2020年の秋、本郷弓町や谷中墓地を訪ねた日に、この一帯から両国の先までも歩いたことがある。  

 タケさんの調査はその後、あまり進んでいなかったが、母の納骨時に、大宮さんの子孫が新木場で大一木材という会社を経営しているらしいという貴重な情報を親戚から頂戴し、7月下旬のふと空いた時間に、アポも取らずにその会社を訪ねてみた。多忙な若い社長さんは当然ながらご不在だったので、経緯がわかる簡単な手紙と遠い親戚であることがわかる書類コピー、何枚かの写真のコピー、および拙著『埋もれた歴史』をお預けして帰ってきた。  

 その後、私もあれこれ多忙ですっかり忘れていたところに、大宮さんから嬉しいお電話が入った。青年実業家として野心的に事業を展開されていることは会社のHPから拝察していたが、お電話の声はとても誠実そうで、気さくな印象だった。ちょうど大部の校正も始まっており、気持ちの余裕はないに等しかったが、9月前半不調つづきだった体調は戻っていたので、この機を逃してはと思い、お会いしてきたしだいだ。 

 大一木材の代表取締役である大宮匡統さんは、正確には祖父に当たる精一さん(徳太郎さん長男)が興した会社を継いだ父上が、早くに亡くなられたために、若干24歳で家業を継がれたのだそうだ。精一さんの祖父に当たる萬吉さん(私の高祖父、1848年生)は、深川の材木屋に丁稚奉公にきて、暖簾分けしてもらったことが今回初めてわかった。除籍謄本から、萬吉さんが「尾張國海東郡勝幡村」の大宮弥兵衞次男であることはすでに判明していた。江戸の材木の最大の供給地であった木曽川に近いこの出身地を考えると、父親の弥兵衛さんも材木屋で、萬吉さんは次男坊のために江戸に出されたのだろうかと、匡統さんと推理してみた。小川町に移ったのは27歳ごろなので、十代で江戸に出てきたのではなかろうか。応接室で暖簾分けしてもらったという家紋を見せていただき、帰宅後に、私の祖父母のアルバムにあった萬吉さんの写真と推定されるものをパソコンで拡大してみたら、紋付の紋が同じであるようだった。 大宮家には萬吉さんの写真は残っていないようだった。

 どういう経緯か、4枚の古写真が祖父母のアルバムに残っていたのは、関東大震災の被害に遭った地域であることを考えれば、奇跡だったに違いない。そのうち2枚は、小川町、神田交友会などと書かれた花輪が写る葬儀の写真で、そのなかの遺影と、残る1枚の少し若いころの萬吉さんと後妻の志げさん(タケさん母)らしき写真を見比べた結果、白髭のおじいさんは萬吉さんだろうと私が結論づけたものだった。今回、家紋でも確認できたことで、萬吉さんと確定できたと思う。 

 画期的だったのは、大宮さんのご親戚の何人かがまだ深川に在住しておられるのがわかったことだ。神田小川町に住居を移したのちも、萬吉さんの実際の事業所は熊井町に残っていたのかもしれない。もしくは、徳太郎さんか精一さんの代で、大宮家の最初の拠点である深川に再び戻っていた可能性もある。除籍謄本では、1928年に志げさんの死亡時の住所は中野になっており、その届出を萬吉さんが出していた。 タケさんの嫁ぎ先である門倉の家も、関東大震災で焼けだされたあと、中野に移っている。このあたりの事情は、お父上が早くに他界されたこともあって匡統さんはご存じなかったが、伯父さまがまだご健在とのことなので、機会があればお会いしたいとお願いしてきた。何しろ、門倉の親戚にも大宮家にも、正体不明の岸さんに関する話が伝わっており、私は最近になって娘の高校時代のノートから、亡叔母がその人を「野方の岸さん」と呼んでいた事実を発見というか、再発見していたのだ。下町で焼けだされた祖先たちは、この人を頼って一時的に中野に移り住んだのではないかと、当面、私は推測している。  

 ほんの30分ほどお邪魔するつもりが、つい長々と話し込んでお仕事の邪魔をしてしまったのに、帰り際には会社の前で玄孫同士の記念撮影にまで気前よく応じてくださり、ファミリー・ヒストリアンである私としては、本当に大収穫の一日となった。突然現われた、わけのわからない遠縁のおばさんに、親身に対応してくださった匡統さんには本当に感謝している。 

 会社の倉庫から見つかったという昭和17年刊行の『木場』という東京木材問屋同業組合の貴重な資料もお貸しいただき、帰宅後、ざっと目を通してみたが、第15班まである組合員の集合写真に、精一さんは見当たらなかった。精一さんは昭和16年に、木材統制により一度廃業して、2年ほど満州に渡っていたので、おそらくちょうどその時期に発行されたものなのだろう。それでも、当時の木場の状況がわかる写真が満載された資料であり、「慶長から明治維新まで」と題された吉田正氏の論考などはとても面白かった。なにしろ、「小名木川筋南側は大川から算へて松平三河、松平右京、立花主膳、秋元但馬、松平丹羽、松平伊賀の屋敷が並び」と書かれていたのだ。松平伊賀は上田藩主であり、この扇橋の抱屋敷に馬場を築いて、私の別の高祖父の門倉伝次郎を「主任として汎く西洋馬術を練習せしめ」ていたことを、『上田郷友会月報』から知っていたからだ。伝次郎の息子とタケさんがいったいどこで知り合ったのか興味はつきない。 

 この9月は、仕事の合間に数カ月かけて整理して編集し、印刷にかけた母のアルバムも、ちょうどお彼岸に出来上がってきた。古いパソコンにしか入っていないInDesignを2年ぶりに立ち上げて制作したものだ。よし、完成だと思ってから入稿規程を読み、写真の保存の仕方を間違えていたことに気づいたときは、放りだしたくなった。小さい写真を拡大するには解像度が足りないこともわかったが、スキャンし直す元気はなかったので、貴重な休日をつぶして数百枚の写真を保存し直し、置換した。 

 表紙の背景には、唯一残っていたまともなアルバムの実際の表紙と裏表紙を活用した。よく見れば切り張りした跡もわかるが、ちょうど意図したように刷り上がって嬉しい。母のお宮参りの写真から小学校入学までは、以前に作成した祖父母のアルバムに収録したので、今回は小学校以降から最晩年までの写真を入れた。基本的には母に育ててもらった私たち娘から、ひ孫たちにまで配るつもりで、あとはごく一部の親戚などに渡そうかと。あとから読み返したら、最後に入れ替えた箇所の誤字・脱字がいくつも見つかったし、未整理写真もまだまだ大量にあるが、記憶の整理はついた気がする。

 りんかい線に乗って新木場へ

かつての熊井町付近から佃島を望む(2020年10月撮影)

 高祖父の大宮萬吉
 
 タケさん異母兄の大宮徳太郎さん

大一木材の事務所前で玄孫同士のツーショット

 今回制作した母のアルバム

2023年8月31日木曜日

祖先探しはつづく

 今朝、向島のお寺に行ってきた。この数カ月間、時間を見つけては母が残した雑多な写真を整理してきたのだが、少し前に一枚の古いお墓参りの写真に目が釘付けになったことがあった。祖母をはじめとする親戚の女性たちが記念撮影で並ぶ背後に、建て替えする前のお墓の墓碑がはっきりと写っていたのだ。しかも、別の写真からすでに文字を読み取っていた曾祖父の墓ではなく、隣にもう一基あったヒョロ長い墓碑だ。  

 昔の記憶を掘り起こせば、確かに隣にもう一基あったのに、誰も見向きもしていなかった。写真の戒名に「従七位」の文字を読み取った途端、私はこれが高祖父の門倉伝次郎の墓碑であり、隣に並ぶ戒名は妻のことさんに違いないと思った。明治8年6月に従七位に叙されたと、『上田郷友会月報』などに書かれており、そんな人はほかに思い当たらないからだ。昔の写真をあれこれ探すと、私自身が撮影した写真から墓碑の側面の文字もいくらか読め、その日付が高祖父の死亡日と同じだったので、これは間違いないと確信した。  

 母が迎えることのなかった88歳の誕生日の翌日のえらく暑い日に、姉とお墓参りに行った際に、私はあれこれ集めた古い写真の画像をA4サイズ1枚にまとめて、建て替え前のお墓の記録が、石屋さんなり、どこかに残っていないだろうかと、思い切ってご住職に相談してみた。すると、本堂まで焼けた関東大震災や東京大空襲の折に、過去帳を背負って逃げたという話を聞いているので、一応調べてみようと寛大にもおっしゃってくださった。このお墓は曾祖父が建てたことはわかっているので、その前の代について過去帳に何か書かれている可能性は非常に低い。しかし、高祖母は祖父が生まれたあとまで生きていた可能性が高いので、ご住職の調査に一縷の望みをかけてみた。

 というのも、私が小学校に入る前後のころ、祖父が姉の顔をまじまじと見て、「おこと婆さんに似ている」と唐突に言いだしたことがあったのだ。子ども時代の私は、婆さんに似ているなんて、ひどいこと言うなと思ったのだが、いまになって考えてみれば、「似ている」というからには、祖父はおこと婆さんの顔を知っていたはずで、その婆さんはおそらく姉のように色白だったのだろうとも推測できる。  

 その後、その件は忘れて翻訳の仕事を終えるのに没頭したのち、お盆明けには上田に再び調査に出かけた。歴史研究という意味では、今回の旅は大きな収穫がいくつもあったが、祖先探しという点では、祖先が藤井松平家に出仕したのが、3代忠周の関東の岩槻時代ではなく、なぜか兵庫県の出石時代(元禄2年から宝永3年)であったことがわかったほかは、上田図書館で拝見した嘉永年間の上田の城郭絵図に、伝次郎の父の門蔵の名前を見つけたことくらいだった。 

 これはこれで画期的なことで、何よりも、長屋が並ぶごちゃごちゃとしたその一角の隣人が、どうやら一年ほど前に「信州上田デジタルマップ」を通じて知り合いになった方のご先祖らしいことがわかるなど、まだお会いしたことのない子孫同士で、大いに盛り上がったりした。すでに上田の地図をいくつも調べていらしたその方から情報をもとに、門倉門蔵(まさに親の顔を見てみたいネーミング)がいた場所が、現上田市役所の道路を挟んで向かい側くらいの位置で、上田高校のある場所の外には馬場があったことなどもわかり、代々馬役の門倉さんにしてみれば、職住接近の立地であることなども教えていただいた。 

 上田から戻って、ようやく次の仕事にぼちぼち取り掛かったころに、何と、ご住職からお電話を頂戴したのだ。記録が見つかりました、と。 

 そんなわけで、今朝、相変わらずの猛暑のなか、お寺まで出かけてきた。熱心な檀家でもない私のために、ご高齢のご住職がお盆や法事で忙しい合間に、古い過去帳を繰ってくださったことや、私が口頭でお伝えした些細なこともよく記憶してくださったことに、そして何よりも、震災と戦災に苛まれたこの地域で、古い記録を守りつづけてくださったことに、私は深く感動した。 

 判明した事実はそう多くはない。高祖父母は、曾祖父がお墓を建てたと推測される1912年ごろより前に亡くなっており、2人の記録は過去帳の余白に追記されていたという。それでも、そこから2人の正確な戒名がわかったほか、おこと婆さんの死亡年月日が明治39(1906)年2月11日であったことが判明した。祖父が4歳のころだ。伝次郎の死後、曾祖父は老母を呼び寄せて一緒に暮らしていたのだろうと、私は思う。4歳のときの記憶が、面影のある色白の孫を見て、祖父の脳裡に甦ったのだろうか。それとも遺影を日々見ていたのだろうか。祖父の家は関東大震災で丸焼けになっているので、おこと婆さんの写真は残っていない。過去帳の余白には、俗名は書かれておらず、ただ「本所区緑町 門倉氏」とあるのみだったそうだ。しかし、戒名のなかに「壽」の字があり、その字と伝次郎の戒名の最初の「鶴」の字が、曾祖父の戒名になっているので、壽(こと)さんと書いたのではないかと想像している。緑町に移ったのは、菊川で開業していた曾祖父が早死にしたのちのことなので、曾祖父のお墓をもう一基建てた際に、6人の子をかかえて寡婦となった曾祖母がお寺にお願いしたのではないだろうか。そのうち1人は早逝している。 

 寺務所を辞して、墓前で今日の成果をご先祖さまたちに報告したあと、もう暑さでかなり参っていたが、八広まで行ってみることにした。十分に歩ける距離なのだが、どうも数日前に熱中症になったようで体調も思わしくなく、軟弱にも電車で移動した。八広の地名すら、恥ずかしながらこれまで知らなかったのだが、荒川沿いのこの場所が、関東大震災の折に朝鮮人虐殺事件があった場所であることを新聞で知ったためだ。明日は関東大震災の100周年記念だ。私の祖先もこの震災で散々な目に遭ったが、焼死した人はなく、こうして100年後でも先祖の生きた証をいくらかは探しだすことができる。震災後の集団ヒステリーで虐殺され、遺体がどうなったかすらわからない人たちのことや、その遺族のことを思った。追悼碑の横にある「ほうせんかの家」には、今年の追悼式は9月2日行なう旨の張り紙があった。 

 私は追悼碑の前で黙祷したあと、荒川の土手まで登ってみた。屋形船の乗り場があり、空には小さい秋のような鱗雲がうっすらと出ていた。100年前にこの場所でそんな惨劇が繰り広げられたことは想像できなかったが、時代はまたきな臭い方向に向かっている。

母の亡従姉妹が撮影してくれた奇跡の一枚。これがなければ調査はできなかった

 上田市立上田図書館で拝見した嘉永期の地図

 八広の土手から見た荒川河川敷

 ほうせんかの家の横にある追悼碑

2023年8月3日木曜日

悩ましい「ナラティヴ」

 最近、と言っても、この10年くらいのあいだに、ナラティヴ(narrative)という言葉に遭遇する機会が増え、そのたびに訳語に頭を悩ましている。ナラティヴを「物語」と訳してしまえばそれまでなのだろうが、ナラティヴとストーリーがいかに違うかを説明するサイトをあれこれ読むと、そう簡単には訳せないと思ってしまう。  

 これが多用されるようになった背景には、1960年代からのフランス構造主義者の文学理論やロシア・フォルマリズムから生まれた物語論があったようだ。が、そうした複雑な経緯は、ちらりと読んだくらいでは一向に理解できない。 ナラティヴとは何かをより端的に説明したものなどを読むと、人間の脳は個別の事実をいくら並べられても、そこからは何も理解できず、誰かがその点と点を結びつけて、意味の通る筋書きつくって初めて、そこに関心をもつようになり、それがナラティヴなのだという。 

「物語」という訳語に私が抵抗を感じてきた一因には、なぜかそう言うと架空の作り話のような気がすることもあった。英語のストーリーにも日本の物語にも、事実か創作かを区別する定義はないのに、事実であることがことさら重視される科学分野の説明にたいし「物語風」などと言うことにはどうも違和感がある。ただでさえ多くの疑念の目で見られがちな気候科学の分野などでは、「物語」とは書きたくないなと、つい思ってしまうのだった。 

 そんなナラティヴという手法が、近年ではとみに世論を操作する手段としても使われている。そのため、文脈からそれがよい意味で使われているのか、悪い意味で使われているのかも判断しなければならない。決して架空の話をでっち上げているわけではなくても、自分の主張に沿った事実だけを巧みに選んで、説得力のある「語り口」で、有利な「筋書き」を展開することも、やはりナラティヴだからだ。  

 このところ、毎日新聞の記者、大治朋子さんがナラティヴに関連した記事をいくつか書いていたので、とりあえず切り抜きだけして、適切な訳語を探るヒントがないかチェックしている。とくに7月11日付の紛争地で個人や社会のアイデンティティを形成する「集合的で支配的な物語」に関する記事などは面白かった。ご著書の『人を動かすナラティブ、なぜ、あの「語り」に惑わされるのか』は図書館にリクエスト中で未読だが、この本の紹介で、養老孟司さんが「(ナラティブは)脳が持っているほとんど唯一の形式」と語っていることなどもわかり、ふむふむと思っている。 

 歴史小説や自己主張の強すぎる歴史書は総じて苦手なほうだが、それは一方的な視点の押し付けにあざとさを感じるからだ。歴史は運よく残された文字記録をつなぎ合わせて、大半は勝者の視点から語られることが多く、そのためにどうしても胡散臭さを感じてしまう。もっと客観的に多方面から史料を提示し、読者自身に物語を紡がせ、判断させるべきというのが持論だが、史料集を読んでそこから話をつなぎ合わせ、何かを読み取れるのは、実際にはごくわずかな人に限られるのかもしれない。  

 そんな話を、図鑑タイプでない科学絵本づくりにこだわっている娘にしたら、「そうだよ、ナラティヴな科学絵本をつくっているんだよ」とあっさり言われてしまった。娘の場合はもちろん、子どもに科学的な興味をもたせるためには、そこに物語が必要だという意味で使っている。  

 この数日間、少しばかり時間の余裕ができたので、重い腰を上げて亡母の写真整理を始めているが、考えてみればこれも、母の生涯を子孫に伝えるためのナラティヴをつくる作業なのだ。未整理の大量の古い写真をそのまま残せば、数十年後には誰かがただゴミとして処分してしまうのは目に見えている。  

 母が遺した写真をどうまとめるかはまだ検討中だが、87年の生涯のあいだにはいくつものドラマがあった。幼児期の写真がかなりあるのに、入学した年の暮れに太平洋戦争が始まったためか、長野師範付属小学校時代の写真は一枚も発見できなかった。戦争中に教科書を黒塗りさせた「青瓢箪」先生が、戦後にその行為を謝罪することなく、素知らぬ顔で正反対の授業を始めたことが許せなかったと、よく私たちに言っていた。開戦の朝、祖父が「この戦争は大変なんだよ。アメリカという国は日本の何倍も力がある国だし」と言ったそうで、学校の作文にそう書いたところ訂正させられたと、後年、伯母が新聞に投書していた。母は小学校6年の暮れに松代小学校に転校しており、かろうじてその卒業式の写真だけが見つかった。 

 母のきょうだい6人は、横浜国大に行った叔母以外は全員が都内の私立に進学したため、祖父母は非常に苦労をしたようだ。母が大学3年次に祖母が遺産で保土ヶ谷に中古の家を買い、そこで姉妹で暮らすようになった。山道のような急坂を登った上にある月見台のこの家の跡地を、2年前に母と訪ねたことがある。女の子だけで住むのは物騒だというので、ドルフという名の番犬も祖母が買い与えていた。いとこによると、伯母は「番犬がこわかった。でも、もっと洵子[私の母]がこわかった」と、よく話していたそうだ。母の妹や弟たちからもよく同様の話を聞かされていたが、姉である伯母にも怖がられていたとは。  

 両親は創業したばかりの高輪プリンスホテルで1957年に結婚式を挙げた。当時何と呼ばれていたか定かでないが、写真に写る洋館は1911年築の旧竹田宮邸(あのお騒がせ親子のご先祖のお屋敷)で、グランドプリンスホテル高輪の敷地内に現存する。当日、母方の祖父は上機嫌だったようで、庭園で満面の笑みを浮かべる写真もあった。母方の祖母のほうは当初から父が気に入らず、父方の祖母も母が気に入らなかったと言われ、そのせいか双方の祖母の表情は対照的に硬い。

 母がお色直しに着た振袖は、祖母が張り込んで用意してくれたものだったが、結婚後、父と住みつづけた保土ヶ谷の家に空き巣が入り、盗まれてしまったらしい。番犬ドルフは何をしていたのやら。振袖はおそらく妹たちも着るはずのものだったのだろう。母は、父が酔っ払ってタクシーに乗った際に、運転手に不用意にその話をしたせいだと頑なに信じ、それが不和を招く一因になったと、父の死後に叔母から聞いたように思う。  

 私が幼かったころの写真は、自分の記憶違いを正してくれるものにもなった。母が近所のお母さんたちと保育の会をつくって幼児教室を開き、私も2歳のころしばらく通っていたことはうっすら覚えていたが、母がそこで先生をしていたことまでは認識していなかった。母がオルガンを弾き、そのすぐ隣で、姉がひな祭り用の妙な金色の冠をかぶって真剣な顔でお遊戯をし、私と思われる幼い子が、同じ冠をかぶって戸惑っている写真を見つけたときは、失笑してしまった。幼児教室では、私のピアノの先生や、幼馴染のお母さんも先生をしていたようで、当時はまさしく親たちによる手作りの教室だったようだ。  

 古い写真をスキャンし、拡大して眺めながら、そんなことをつらつらと考えるうちに、点と点がつながり、ああ、そういうわけだったかと納得しながら、なるほどこれがナラティヴの萌芽だな、などと考えている。87年の生涯からは膨大な数の写真が残されており、そのすべては残せないし、祖父母のアルバムのときのように冊子をつくるならば、かなりの取捨選択を強いられる。そこで私が選んでつなぎ合わせたものは、ナラティヴの力を借りて、あと数十年は伝えられるかもしれないが、私が選ばなかったものは、忘却されてしまうのだろう。

 こう理解できたからと言って、どの文脈にも合うナラティヴの訳語はやはり思いつかない。こうしてカタカナ語は増殖する一方となるに違いない。

「象山のあずまやにて」と、母のやや幼い字で裏書きがあった。松代中学1年時か

 保土ヶ谷の月見台の家で妹とドルフと

 高輪プリンスホテルで挙式後に

 高根台の幼児教室で

2023年7月14日金曜日

新刊紹介

 昨秋から年始にかけて、私にしてはかなり無理をして翻訳に取り組んだ仕事が、何とか無事に本になった。ノンフィクションの翻訳者として、多様なジャンルの本に挑戦をして自分の幅を広げてきたつもりだったが、実際には長年、仕事を引き受けるうえで一つだけ条件を付けていた。「数学と物理以外」、と。数学は、高校3年の夏にアメリカから帰国して、受験には不要な数3の授業で落ちこぼれて以来、苦手意識をもつようになった。物理にいたっては、そもそも授業の回数も少なく、教科書が説明する概念と、実験の結果があまりにも乖離していて、何をやろうとしているのかも理解できないまま、興味がもてなくなっていた。

 そんな私が、よりによって『私たちの生活をガラッと変えた物理学の10の日』(ブライアン・クレッグ著、作品社)という本を訳したのだ。もっとも、この本は240ページほどとかなり薄く、内容も半分くらいは物理学者の伝記なので、何とかなるに違いないと、いつもながら楽観的に、無謀にも、引き受けたのだった。原書のコンパクトさに大いに励まされながら、頑張った甲斐あって、年始にはほぼ訳し終えていた。  

 ところが、校正作業が始まった4月下旬には母が危篤状態になっており、姉と交代で病室に泊まり込まなければならなくなった。病室にゲラをもち込み、常時聞こえてくる苦しげな呼吸音や機械音、ナースステーションから聞こえてくるアラーム音など、気の滅入る音を必死にシャットアウトしながら、睡眠不足の朦朧とした頭で、ニュートンの運動法則について読んだりするのだから、われながらかなり異様な状況だったと思う。  

 病室には看護師や介護士、掃除係などが入れ替わり立ち替わり入ってくるほか、ときおりレントゲン技師もやってきた。本書でキュリー夫人がX線の医療利用を広めたことを学んだばかりだったので、いまでは病室内まで運び込めるポータブルな機械があることに驚いた。ちらりと見ると島津製作所の機械らしく、しかも丸に十文字のロゴマークであことに気づき、二度びっくりした。撮影時は被爆しないよう病室を出なければならないので、その間はデイルームが仕事場となった。校正作業は遅々としてはかどらなかったが、母を看取って納骨するまでの心身ともにきつかった期間も、校正の短い締め切りに合わせて仕事をつづけたおかげで、自分を見失わずに済んだように思う。 
 
 後日調べてみたら、島津製作所はコロナ禍でさらに小型の移動式レントゲンも開発したようだった。創業者が薩摩の島津家と血縁関係にあるわけではないが、16世紀に島津家から島津姓と家紋の使用を許可されたという。明治8年に仏具職人として木屋町二条にいた同社の初代が、この地の長州藩邸跡につくられた舎密局で学んで創業したらしい。木屋町と言えば、佐久間象山が晩年に住み、暗殺された場所だ。ただし、暗殺事件の背後にいたと言われる長州の品川弥二郎は、禁門の変の直前でその藩邸にはいなかったようだ。天王山で報告を受けて大喜びしたと、本人が後年、「つまらぬことをやったものです」という反省とともに述懐している。 

 物理学はもともと不得意な分野であるうえに、このように集中して仕事に取り組めない事情があったため、再校時には、NTTにお勤めだった電気通信の専門家と、物理を専攻した娘の夫にもゲラに目を通していただいた。画面でゲラを読むのはかなりつらい作業なので、お二方には本当に感謝している。おかげでどうにかスケジュールどおりに刊行できる運びとなった。 

 この仕事を終えたからといって、物理にたいする苦手意識は簡単に克服できそうにないが、少しでも知って理解したことには、自然とアンテナが立つようだ。アップルの拡張現実(AR)のゴーグル型端末や、常温で高速計算が可能な光量子に関するニュースなど、以前ならきっと読み飛ばしていたような記事にも目が行くようになった。せめて、日々の暮らしの基盤となる諸々の技術の根本原理くらいは理解できるよう、今後も関心をもちつづけたい。来月初めには書店に並ぶ予定なので、ぜひ多くの方にお読みいただきたい。  

 もう1冊、こちらはすでに発売されている『信州から考える世界史』(えにし書房)という本もご紹介したい。編者の一人である岩下哲典先生からお誘いを受け、私は見開き1ページの短いコラムを「横浜英人から馬術を学ぶ 上田藩士門倉伝次郎」という題名で書かせていただいた。執筆陣には、私が祖先探しの調査でお世話になった大橋敦夫先生、関良基先生、和根崎剛氏をはじめ、岩下先生はもちろん、先生の研究会に参加されている研究者の方々が名前を連ねている。 

 信州は海のない地域でありながら、古代から不思議と異国情緒を感じさせるものが残る地域だ。私自身は信州で育ったことがないので、部外者としての感想でしかないが、これぞ信州という文化はなく、むしろ山に隔てられて気風から方言、建築まで異なる多様な文化が共存しているように感じる。多分に相互の行き来が容易でなかった地理的な要因によるのだろう。32人の執筆者が古代から現代まで、じつに多様なテーマで書いたものなので、1冊の本としてまとまるのだろうかと少々疑問に思っていたのだが、蓋を開けてみると、多方面から光を当てることで、多様性を保ちつづける信州の本質をうまく炙りだした作品になっていた。一強となる支配的な文化で均質化されずに、相互に違いを認め合いながら共存できる地域、というところか。 

 目下まだ別の仕事の締め切りに追われているため、私もまだパラパラと拾い読みしただけだが、たとえば柳沢遺跡の銅戈の写真には目が釘付けになった。遼寧省から朝鮮半島北部で出土していたものとよく似ており、日本列島でこの手の青銅器が出土する地域は限られているからだ。「諏訪御神渡りと気候変動」と題された論考もあるし、私が取り上げた「横浜英人」が来日直後に遭遇した第二次東禅寺事件と松本藩を取り上げたものもある。母と一緒の祖先探しの旅で訪ねた松代大本営の地下壕など、太平洋戦争絡みのものも多い。自分が書いたコラムの再校ゲラだけは見せていたが、母なら大いに楽しんで全編を読んだだろうと思うと残念だ。 

 余談ながら、遺品からいまは母も眠る門倉家の墓の古い写真が見つかり、20年ほど前この墓を建て替えるまでは、この敷地に私の高祖父母に当たる伝次郎と妻のことの墓標があったことがわかり、戒名がほぼ判明した。親族には歴史に興味のある人が少なく、誰も古い墓標の文字を読もうとしなかったようだ。おこと婆さんとしか伝わっていない高祖母は色白だったと推測され、子孫の一部にも日焼けすると真っ赤になるタイプの色白の人がいる。彼女のルーツをたどることはまず不可能だろうが、いろいろ想像して楽しむことはできる。新盆でもあり、母の誕生日も近いので、そこに眠るご先祖の皆さんに、新たに判明したこの事実は報告しておこう。余談ついでに、「ヒーバーの新盆だから回り燈籠をつくろう」と、私の孫に言ったら、怪訝そうに膝の骨を指して「ニーボーン?」と言うので娘と爆笑してしまった。CDかYouTubeで聴いたDem Bonesの歌と、焼き場で見たひい婆さんの姿が、幼い頭のなかでごちゃ混ぜになったに違いない。

『私たちの生活ガラッと変えた物理学の10の日』(ブライアン・クレッグ著、作品社) 
インパクトのあるこの装丁は、サイニーの本を手掛けてくださった加藤愛子さん。

私の仮オフィスとなった病室の一角

島津製作所のポータブルなレントゲン。このおかげで母の容体を正確に知ることができた

『信州から考える世界史』(岩下哲典/中澤克昭/竹内良男/市川尚智編、えにし書房)

2023年6月14日水曜日

ドゥーリットル空襲

 土曜日に母の納骨を何とか無事に終えることができた。母の遺品を整理するなかで、いろいろなことが新たに判明していたため、集まってくれた親族に途中経過の報告はしたのだが、まだ調べがつかないものもたくさんある。

 その一つが、以前に別件で少しばかり調べたドゥーリットル空襲のことだった。西大久保にあった祖母の実家が1945年4月13日の空襲で全焼したことは知っていたが、この日付を再確認するためにネット検索をした際に、この一帯が1942年4月18日のドゥーリットル空襲でも被害に遭っていたらしいことがわかったのだ。  

 祖母の実家があった場所は、2年前に母から聞きだして訪ねたことがあった。東京府淀橋区西大久保3丁目30番地という住所と、戦前の地図画像をメールで送って、どこだか具体的にわかるかと質問してみたら、「西大久保3丁目の西の字の下当たりかな? 少し上が32番だからね。四つ角の家だったよ」と即座に返事が返ってきた。母自身は子ども時代の大半を長野で過ごしているので、この家を訪ねた機会はわずかだったに違いないが、娘が高校生のころ家の間取りまで描いて説明してくれたこともあった。家の前で撮影された古い写真からも、少なくとも角地の家らしいことは確認できたので、私はその2カ月後に、いまはコリアンタウンになっている新大久保駅前を抜けた住宅街をうろついて、その場所を突き止めたつもりだった。 

 今回、『地図で見る新宿区の移り変わり』(東京都新宿区教育委員会発行、1984年)で1932年の地図が国会図書館デジコレの個人向け送信サービスで閲覧可能になっていることを発見し、改めて確認すると、30番地は私がこのとき訪ねた場所より180メートルほど北側だったようだ。もう一度、訪ねてみなければ。 

 その曾祖父母の家からわずか数十メートル南西の場所に焼夷弾が落とされていたことを、2021年4月18日の東京新聞のこの記事に掲載されていた地図から知った。記事からは詳しい状況がわからなかったので、『日米全調査ドーリットル空襲秘録』(柴田武彦・原勝洋著、PHP研究所)も入手して少しばかり読んでみた。  

 同書によると、この日、早稲田・大久保の住宅街を襲ったのは、16機からなるドゥーリットル隊の隊長で、フロリダ−カリフォルニア間を20時間30分無着陸飛行の新記録を達成していた操縦士ジェームズ・H・ドゥーリットル中佐を機長とする1番機だった。本来の目標は後楽園にある陸軍造兵廠東京工廠だったようだが、ここは関東大震災後に移転していたため、「軍に関係する施設がまったく無い地域を爆撃する結果となった」。午後12時25分ごろに早稲田鶴巻町や西大久保周辺の住宅街へ、「搭載していた焼夷弾四発のすべてを連続して投下した」。この焼夷弾は1発につき128発の焼夷弾子が束ねられており、この地域には合計で512発が投下され、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂君と鶴巻町にいた通行人1名が死亡したほか、負傷者が15名、全焼家屋36棟44戸(1178坪)と、半焼家屋6棟20戸(125坪)の被害があったという。 

「南西から西向きに飛んでいた機は、下妻の北方で南へ針路を変え、江戸川上空から東京府内に達すると再び西方へと向きを変えた」という同書の説明と飛行ルート図、および早稲田鶴巻町が最初に空襲されたことから考えると、祖母の実家はほぼ飛行ルートの真下にあったものの、焼夷弾が投下されるのが1秒ほど遅れたおかげで、辛くも難を免れたことがわかった。祖母が幼児期までを過ごした長崎の家も、中島川にかかる眼鏡橋の袂付近にあり、長崎の原爆は当初そこから100メートル弱南の常盤橋と賑橋に投下するはずだったが、上空が曇っていたために急遽、変更になっていた。戦禍を免れるかどうかは、まったくの運でしかない。  

 1942年のこの空襲に興味をもったのは、その3年後の空襲で西大久保一帯が焼け野原となったにもかかわらず、拓殖大学で教えていたこの曾祖父、山口虎雄の遺品が、生活必需品でない大きなものまで、いくつか残されていたからだ。関東大震災で丸焼けになった祖父方の家では、金槌一本しか残らなかったのとは対照的だ。戦争早期にドゥーリットル空襲に遭ったために、曾祖父は貴重品を娘一家がいた信州へ早めに移動させていたのかもしれない。当時、祖父母一家は長野市内の南県町徳永町に住んでいたが、曾祖父母は焼けだされたあと、須坂の奥の仁礼村に間借りして疎開していた。 

 1945年8月13日、長野市内も空襲を受けたため、母たちは迎えにきてくれたこの曾祖父と一緒に徒歩で仁礼へ逃げたのだという。小学校5年生だった伯母は9カ月の弟を背負い、4年生だった母は、祖父が昼間につぶした鶏2羽を背負って行ったと、10年近く前に伯母に教えてもらった。仁礼にたどり着く前に「栃倉で皆へばって、そこで休み、虎雄さんが仁礼に行って大八車を借りてきて、そこに皆の荷物を積んで仁礼(湯河原温泉)まで行った」と、母からはメールで教えてもらった。学生時代、菅平にスキーに行ったきりのこの地域も、いつか訪ねてみたい。  

 ところで、ドゥーリットル隊のこの1番機は、強風の吹いた当日朝7時20分に、東京都心まで1200キロ弱の距離に位置していた空母ホーネットを発艦していた。正午に水戸市北東20キロ付近の監視哨に発見されたが、味方機と誤認され、その2分後に敵機として報告された。午後12時4分には、たまたま宇都宮から水戸へ視察で飛行途中だった東條英機首相の乗った飛行機の真正面を、わずか30キロほどの距離で横切ったのだという。ドゥーリットル機につづいて、東京まで同じルートを飛行した2番機が5分後に飛び立っており、東條機はこの両機とニアミスしていた。 

 ドゥーリットル隊は「日本の工業地区を爆撃する」ことを目的とし、「民間目標(特に寺院)への攻撃を避ける」よう指示されていたが、葛飾区の水本国民学校を軍事施設と見間違えたのか、機銃掃射して高等科1年の石出巳之助君を死亡させるなど、500人を超える非戦闘員の犠牲者(内死者88人)を出し、全壊・全焼家屋は112棟におよんだ。 

 爆撃を終えたドゥーリットル機は、九機からなる九七式戦闘機に追われたものの逃げ切り、12時40分ごろには茅ヶ崎から海上へ脱出し、着陸予定地だった中国浙江省内の衢州(くしゅう)北110キロほどの地点に午後8時15分ごろに疲労困憊して達し、乗員はパラシュートで脱出したらしい。日本側は一機も迎撃できなかったにもかかわらず「9機撃墜」と東部軍が速報したため、その辻褄合わせで、中国に不時着したB-25の残骸を運んで4月25日から靖国神社に展示したというのが、以前に私が調べたことの真相だった。中国で日本軍の捕虜となった6番機と16番機の生存者を日本側が処刑した顛末などは、いつかもう少しじっくり『秘録』を読んで勉強しておこう。

 1941年、西大久保の祖母の実家で

『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』(PHP研究所)

 母がその昔、娘に描いてやった祖母の実家の見取り図

2023年5月28日日曜日

遺品整理

 母が急逝して1カ月余りで、UR都市機構の賃貸を引き払ってきた。週末ごとに都合をつけて何人かで集まって片付け作業をして、16年間、母が工夫を凝らして独り暮らしをしていた痕跡を一つひとつ消していった。最終日の昨日は業者をお願いし、エアコンの撤去や、冷蔵庫や食器棚など大きなものの運びだしをしてもらい、あっと言う間にもぬけの殻となった。

 遺品整理をするなかで、いくつもの発見があった。母は最後まで地域の活動をいろいろやっていたので、資料や帳簿類、現金、鍵などをあちこちに引き継がなければならなかった。生協の脱退手続きをした際に見つけた組合員証の加入日は1973年11月28日だった。母は生協が始まる以前の卵の共同購入のころから、長年にわたって生協の会員だった。私が子どものころは近所の本屋さんが何種類かの月刊誌を配達してくれていたが、母は晩年になっても岩波の『図書』だけは購読をつづけており、何年間分もを処分しなければならなかった。  

 ベランダにはたくさんの鉢が残されており、その一部は大叔母か祖母の友人から株分けしてもらったクンシランやコモチオーニソガラムだった。玉ねぎにしか見えず、やたら増える後者は引き取り手がなかったが、高校生のころに描いた戯画を長いこと祖父母宅に飾ってもらっていた思い出深い植物なので、小さいものを一鉢引き取ることにした。ネット検索してみたらどちらも南アフリカ産の蘭で、玉ねぎのほうも花が咲くらしい。そう言えば、地味な薹が立っているのを見たことがあるかもしれない。  

 大きな発見の一つは、祖母が『十年会会誌』という祖父の同窓会誌に寄稿した追悼記と、推敲の跡がよくわかる手書き原稿だった。「二女[うちの母]が小学校の頃に、学校の代表でピアノを放送(まだテレビはなく)した事がありましたが、私などはミスをしたらと、ドキドキして聞いておりましたが、主人は、ラジオの前にすわって涙をボロボロと流しておりました[……祖父は]それまでピアノなどさわった事もないのにバイエルを練習しはじめました」などと、書かれていたのだ。ピアノで生計を立て、75歳まで教えつづけた母の源泉はここにあったかと、読んでこみあげるものがあった。 

 几帳面な母は確定申告のために細かく帳簿を付けており、最後の生徒がやめたときは「3月で終了」と一言書き、そこで帳簿は終わっていた。その生徒のお母さんが私の高校の同級生で、その後も何かと母の面倒を見てくださり、葬儀にもお嬢さんときていただいたうえに、金杉小学校の「ひまわり憩いの広場の会」の手作りひまわり油を、母の死後に5本も届けてくださった。母は毎年、この油や梨を頂戴していたようだ。彼女の友人で、やはり私の高校同級生夫婦のお二人が、今年正月に母のために買い換えたばかりの安物の洗濯機を活用してくださる方を見つけ、週末に引き取りにきてくださったときには驚いた。 

 母がまだ入院中に、戦後すぐに曾祖母の親戚が書いたと思われる手紙や、古めかしい黒い手帳も見つけていた。手帳のほうは母の字ではなさそうだと思ってよく見たら、「関西修学旅行記(大正十四年十月五日−十日)」とあり、どうやら祖母の高校時代のものらしい。奈良・京都・琵琶湖周辺の地図とともに、各訪問地の説明が細かく書き込まれていた。その手帳の後ろのほうの1ページが、これは母の字だとわかる筆跡で小遣い帳に使われていた。「12. 11、 6円50銭、ルース台風義援金」にという項目から察するに、1951年、母が16歳の1カ月の小遣い帳らしい。1カ月に2回も「キャラメル二ヶ」を40円で買っているほか、本代(たけくらべ、50円、解析Ⅰの研究、220円)、新聞代5円、レントゲン代10円など、高校生にしては不思議な出費もあった。

 緩和剤で昏睡していた母の病床には、数日おきに島津製作所の簡易のレントゲンの機械が運ばれてきていたし、病室にもち込んで校正していたゲラには、キュリー夫人がレントゲンを医療用に実用化させたことなどが書かれていたので、何やら不思議な因縁を感じた(余談ながら、島津製作所のロゴマークの丸に十文字は薩摩の島津家から使用を許可されたものだが、血縁ではないらしい)。 

 母の家がなくなると、私や娘にとって生まれ故郷の高根台に行くことも少なくなるだろう。母が新聞記事を見つけたことをきっかけに、大晦日の晩には近所の飯山満の光明寺まで除夜の鐘をつきに行っており、娘はその体験をもとに絵本『じょやのかね』(福音館)を制作していた。孫はまだ幼く、真夜中に30分近く歩くのは厳しいと判断して去年の大晦日のお参りも見送ったのだが、そのことが心残りだと娘が嘆いていた。母は数年ほど前から、くたびれるので行かないと二年参りには参加しなくなっており、この正月はやはり徒歩30分ほどの滝不動への初詣にも行かなかった。 

 大量の食器や調理器具を整理するなかで、母が栗きんとんをつくるのに使っていた鍋やお重は、みんなにとってとりわけ思い出深いものだったようだ。食事には人一倍こだわる母だったので、どの食器もそこに盛り付けられていた母の料理を思いだすため、捨てにくかった。 

 葬儀屋さんに頼んであった位牌を受け取りに行きながら、四叉路にある地元では有名な高根木戸道標の脇を通った。「中 大穴みち」(大穴道)、「右 大もりみち」(古和釜)、「左 じんぼう新田道」(神保道)、正面上部には弘法大師が刻まれているらしく、文化5年の道標だ。この道標の先、北側が幕府の牧だったというから、私はそこで育ったことになる。 

 小学校からの通知表とともに見つかった私の母子手帳には、船橋の海神町5丁目と読める産婦人科の住所が記載されていた。私が生まれる直前に中野区鷺宮から高根台団地に越したようで、当時は家に電話もなく、高根木戸の駅まで電話をかけに行ってタクシーを呼び、未舗装だった道標の立つ道路を揺られながらいちばん近い産院まで行ったのだと聞かされていた。 

 死後の諸々の手続きや引越し作業、校正に加えて、頭の痛い問題もあり、母の死を悲しむ間もなくこの1カ月は過ぎてしまった気がする。管理事務所まで歩いて行く道すがら、昔の団地のように小さいシロツメクサが一面に咲く草地を歩いた。建て替え時に大きく土を入れ替えたと思われる場所では、ブタナやユウゲショウなど丈の高い外来種が咲き乱れており、娘が子どものころから見かけるようになった丈の低い外来種のオキザリスやニワゼキショウは、隅に追いやられていた。団地がまだ残る一画も、外壁が見慣れない色に塗られており、外国人居住者にわかり易いようにするためか、TAKANEDAI DANCHIの何号棟と書き込まれていた。

 再校正や納骨を終え、お知らせをし損ねている母の友人・知人に連絡を終えるころには、母のいない新しい日常に慣れているのだろうか。

母の追悼アルバムをつくるために写真探しをしたなかで、この1枚がいちばん堪えた。八ヶ岳の山を一緒によく登り、原村のカナディアンファームでみんなでよく食事をした

母の大学の卒業アルバムにあった写真

私が描いたコモチオーニソガラムの絵

 祖母の修学旅行時の手帳

 母の小遣い帳

 高根木戸道標

 高根台の草地

 高根台団地(2023年5月撮影)

2023年4月29日土曜日

母の死

 火曜日の晩に、母が1カ月余りの入院の末、逝ってしまった。入院当初は、誤嚥性肺炎と診断され、それなら1、2週間もすれば退院できるだろうと、誰もが思っていた。実際、母も数日後にはかなり回復して、デイルームまで自分で歩いて面会にきては、病院の食事がまずいので、姪っ子が庭の梅でつくった梅干しをもってきてくれとか、新聞を読んでいると痛みを忘れるから届けてくれとか、見舞いに行く前日にはメールを送ってきた。

 ところが、入院3週間を過ぎたころに病棟を移って主治医が呼吸器科の先生に代わる旨の連絡があり、その後、母と一緒にその主治医に初めて面談することになった。そろそろ退院の話かと思って意気揚々と出かけたのだが、そこで見せられたレントゲンやCTの画像は、入院当初よりも状態が悪化しているという衝撃的なものだった。たくさん投与された抗生剤は効いておらず、現代の医学では決定的な治療法のない自己免疫疾患の間質性肺炎だろうとの診断だった。対処療法としてステロイドを使うしかないと言われ、回復の見込みがないときはどうするかと質問された。予想外の展開に私は大いに動揺したが、母は「もうこの年まで生きたから十分です」と自分で医師に告げ、延命治療の同意書にはすべて「希望しない」にチェックを入れ、自筆できちんと署名していた。  

 面談後は容体がどんどん悪化し、酸素マスクに導尿管になってしまったと自分でメールを打って知らせてきた。病院からも連絡があり、姉と一緒に船橋まで駆けつけた。その日はもともと姉が面会に行く予定で、前夜遅くにつくったという雪の下ニンジンでポタージュを持参しており、酸素マスク姿の母に絶句していた。だが、母はまだ少しばかり元気があったのか、酸素マスクをさっさと外して、姉手製のポタージュを何口も飲んで、おいしいと喜んでくれた。母が口にした食べ物は、それが最後となった。  

 その日、母の家の玄関先に、近所の人からオミナエシの苗が届いていたので、その旨をメールであとから知らせると、「花の会」でつくっている花壇のいちばん右側に植えてくれと返事が返ってきた。いまメールを読み返してみると、その翌朝、もう一通、夜明けから息苦しくほとんど眠れなかったという旨の返信があり、それが母からの最後のメールになった。  

 その真夜中過ぎ、姉のところに病院から電話があり、翌日は面会時間にかかわらず、早めにきてくれと言われたため、私が横浜から始発で駆けつけた。母はナースステーション前の部屋に移され、人工呼吸器を付けられていた。主治医との面談で、ステロイド以外の免疫抑制剤も使えないかと質問してみたが、すでに良好だった左の肺にも症状が広がっていて手遅れで、あと2、3日もてばよいだろうと宣告されてしまった。非常に苦しんでいるので、一両日中に緩和剤を投与せざるをえず、そうなれば意識がなくなるので話はできなくなると伝えられた。  

 あまりの急展開に、すぐに姉や娘、甥・姪に一斉メールしたところ、その午後早くに全員が仕事を切り上げて駆けつけてくれた。コロナ期間中のような厳格さはないとはいえ、まだ病院の面会は制限されており、本来は1日1組、3名まで、12歳以下は面会禁止となっている。だが、最後の機会ということで、母が入院直前まで面倒を見ていた4歳のひ孫は特別に従業員通用口から入れてもらえることになった。籠原に住む姪がさらに幼い息子2人を連れて車を飛ばしてやってくると、病院のスタッフも諦め顔で、目をつぶってやはり面会させてくれた。今年2月下旬に生まれたばかりのひ孫だけは、動画での対面になった。ベッドの周囲に全員集合したのを眺めて、母は「何だかお葬式みたいだねえ」とぽつり。笑うべきか、泣くべきか、困ってしまった。その後、母の弟夫婦がきてくれたときも、まだ意識はあったが、ひどく苦しんだその夜から緩和剤の投与を始め、付き添えるように個室に移った。  

 姉と交代で横浜から通い、個室で付き添う日々が始まり、簡易ベッドで母の苦しそうな呼吸音と方々から聞こえてくるさまざまな電子音に聞き耳を立てながら、細切れの睡眠を取った。夜間に何度も痰の吸引はしてもらったものの、母は酸素の流量を減らしても、取り込み量は安定した数値を保ち、血圧その他も正常値でありつづけた。しかし、これでは母の意思とは裏腹に、意識のないままチューブにつながれた状態が何カ月もつづくのではないかと逆に心配になり、その旨を主治医に伝えると、じつは悪かった右肺の症状に改善が見られるのだという。ただし、血小板の値は下がっているので、多臓器不全になる可能性も高いと。回復の見込みは数%と言われたが、それに望みを託して長期戦を覚悟した。個室で付き添いつづけたら、こちらの身も懐ももたないと考えて、ナースステーション前の部屋に戻すことにした。  

 その翌日、通常の面会時間に母に会いに行ってみると、呼吸数が減り、酸素の取り込み量が大幅に下がっていた。看護師にその旨を伝え、血圧を測ってもらったが、手足で4回測ってもエラーになった。面会時間は20分なので、いったん母の家に戻って早めに夕食を済ませて待機していたところ、案の定、容体が思わしくないからきてくれと電話があった。付き添いたいのであれば、個室に移るようにと言われ、またもや慌ただしく部屋を移った。横浜から姉と姪が到着するまで、母が生きていてくれと念じながら、どんどん数値の下がる母を見守った。一度、大きくむせながら痰を吐きだしたほか、心臓発作が3度もあり、そのたびに私は慌てふためいてナースコールをした。入院期間を通じて、看護師や介護士の方々はじつにこまめに母の世話をしてくれ、緊急時にも冷静に手際よく対応してくれた。

 夜になって姉と姪が到着し、その後、仕事帰りの私のいとこも3度目の見舞いにきてくれ、4人で見守るなか、母の心拍数はどんどん下がり、ついに0となったが、それでも呼吸はつづき、逆に呼吸が止まっても心拍数が復活するなどしていたが、最後はついにどちらの数値もなくなった。ナースステーションでモニターを見ていた看護師たちはその後すぐにきてくれたが、臨終のときを私たち家族だけにしてくれた配慮はとてもありがたかった。  

 余命2、3日と宣告されたときに、近所の葬儀屋に連絡を入れてあったので、母の亡骸は個室代が新たに追加される真夜中ちょうどに、病院から搬送されていった。湯灌・美症は頼まなかったので、化粧の得意な姪が、その前に母のやつれた顔をごく自然な形できれいにしてくれた。孫に死化粧してもらえた母は幸せ者だ。私も母の口を懸命に閉じて少しは手伝い、髪を整えてやり、そうする過程で死がさほど怖いものではなくなった。  

 子育て真っ最中で、臨終の場に駆けつけられなかったほかの孫たちは、この間ずっと、母の古い写真から近影までを使って、毎晩、子どもを寝かしつけたあとの時間を使って母の生涯を動画にまとめてくれた。会葬者に手渡す挨拶文も、母らしい自由な形式のものを自分たちで製作したので、この2週間ほどの私たちのメールは膨大なものとなった。 

 母はお墓も決めていなかったので、並行して疎遠になっていた親戚と散々やりとりをした結果、実家である門倉家のお寺に入れてもらうことになった。祖父母や叔父など近親者だけでなく、私がこの10年近く調べてきた門倉伝次郎も眠る墓なので、私としてはそこが母の墓所にもなることはたいへん嬉しい。 

 葬儀には、親族が、はるばる大阪からも駆けつけてくれたほか、母が長年お世話になった高根台近隣の人びとが30人ほど集まってくださり、87歳のお婆さんにしては、盛大なお葬式となった。娘が体調不良のなか制作してくれた挨拶文が、印刷屋から当日夕方まで届かず、会葬者には姪っ子が原稿をコンビニのコピー機で両面コピーしたものを最後にお渡しするというハプニングはあったものの、電子ピアノを運び込んで姉が伴奏をし、会葬者一同で歌を歌って、母を見送ることができた。BGMは姉が弾いたピアノ演奏のCDを、異母弟が上手に操作して流してくれ、お棺には、母が咲くのを楽しみにしていたベランダのレモンの一枝と、花壇で育てていたネモフィラを一株入れてやり、母の長年の友人が庭の花を切ってもってきてくれた大きな花束を蓋の上に載せた。

 頭骨が丸々出てきた祖父ほどではなかったが、母も顔面の骨がしっかりそれとわかる形で出てきた。私の孫はそれをしげしげと眺め、すぐさま「絵描く!」と言いだしたが、姪っ子の長男は怖くて抱っこされたまま後ろを振り返れなかった。私たちそれぞれに貴重な体験をさせてくれ、母は旅立っていった。母には生き方も、死に方も学んだ。本当にありがとう。 

 最晩年に『アマルティア・セン回顧録』を喜んで読んでくれたことが、私にはよい思い出となった。

母が他界した翌朝、ようやく一輪の花が咲いたベランダのレモン

最初は恐々だったが、頰に手を当てて、「ヒーバー冷たいね」という言う私の孫

習志野の茜浜の斎場からは海が見えた

2023年3月31日金曜日

下田駆け足旅行

 春休み気分にはなれなかったが、予定どおり下田行きを決行してきた。なにしろ、一カ月前にサフィール踊り子号が大好きな孫のたっての願いを叶えるために、数室しかない個室を娘が発売日の10時にみどりの窓口まで行って予約してあったのだ。日米和親条約や日米修好通商条約の歴史を調べた身としては、下田は一度見ておかねばと何年も前から思っていた場所なので、私も娘一家の旅行に途中まで便乗させてもらうことにした。そんな話を関良基先生にしたところ、玉泉寺のご住職はお友達なので、連絡してあげましょうといつもの気軽さで、即座にアポを取りつけて下さったのだ! よく伺ってみると、同寺の村上文樹和尚は、『不平等ではなかった幕末の安政条約』(勉誠出版)を関先生、鈴木壮一氏とともに共著なさった歴史通のご住職なのだった。

 そんなわけで、学生時代以来のコンパートメントの旅を、はしゃぐ孫と一緒に楽しんだあと、桜が満開で新緑と相まってパステルカラーに染まる山をハイキングする娘一家と別れて、私は一路、柿崎の玉泉寺まで一キロ半ほどの道のりを急いだ。当時は豊福寺にあった下田奉行所まで、「道が未整備で満潮時には舟で渡るしかない」(前述書)と、ハリスが危惧した海岸通りであり、吉田松陰と金子重輔も「下田踏海」を企てるために歩いたはずの道だ。嘉永7/安政元(1854)年11月4日に安政東海地震の大津波が3段目まで押し寄せたという山門の石段を登って寺務所に行くと、すぐに村上和尚さまが出てきてくださった。15分ほどお話を伺えればとお願いしてあったのに、広い境内をあちこちご案内いただき、結局のところ2時間もお邪魔してしまった。 

 このお寺は幕末史の非常に重要な舞台であっただけでない。現ご住職のお祖父さまが玉泉寺の住職となられた大正期には、かつてハリスやヒュースケンが滞在した本堂も軒は傾き、根太が折れた状態になっていたそうだ。思い余った26歳の若い和尚が渋沢栄一に窮状を訴えたことがきっかけで、大修復に漕ぎ着けることができ、いまに至ったのだという。石段を登ってすぐのところに立つ渋沢栄一による巨大な碑は、太平洋戦争時に一時期、敵国との交流を称えたものでけしからんとして引き倒され、危うく破壊されそうになったのを、お祖母さまが身を投げだして守ったものなのだそうだ。当時、40代のご住職自身は徴兵されて戦死されたとのこと。 

 玉泉寺を訪ねたかった理由はいくつもあるのだが、いちばんのきっかけは、和親条約が批准されるまでに少なくとも1年はかかるので、下田港が利用されるのはそれ以降だとペリーが応接掛に請け合ったにもかかわらず、条約調印から1年も経たないうちにアメリカ商船キャロライン・E・フート号が来航したうえに、3人の女性と5歳と9歳の子どもの一行が玉泉寺に2カ月ほど滞在していたことを知ったからだった。日本人絵師が描いた絵(アメリカの議会図書館蔵なのでリンクを参照)によると、ワース船長の24歳の妻、商人のH・H・ドティの妻、ウィリアム・C・リードの32歳の妻と5歳の娘ルイーザが含まれていた(この船にはトマス・ドアティとH・H・ドティが乗船していたようだ)。

 ドアティとリードは安政2年にすでに交易としか言いようのない事業に乗りだしていた。このリードなる人物を、数年後に横浜で活躍したユージーン・ヴァン・リードと私は混同していたが、まったくの別人であったことが、今回少しばかり調べ直してわかった。いずれにせよ、日米和親条約の抜け穴と言われる「欠乏品」のやりとりを定めた条項は、ペリー帰国後の翌年には少なくとも大いに活用されていたことになる。 

 ペリー艦隊が最終的に日本を離れたあと、ロシアのプチャーチン一行が下田にきており、日露和親条約の締結に向けた交渉に入った途端、大津波に見舞われるという事態も発生していた。乗ってきたディアナ号は500人乗りの大型船だったが、30分間に42回転もして大きく損傷してしまった。下田では875戸中、841戸が全壊流亡、85人が溺死したという。修理のために戸田村に曳航されたものの、ディアナ号は11月19日に沈没した。この間の死者は3人だけで、残りは帰国する手段を失って伊豆半島にしばらく滞在することになった。玉泉寺には少なくともロシア将兵数名が滞在していたと考えられている。残り数百人のロシア人はどこに寝泊まりしていたのだろうか? 

 安政2年前半の下田のこうした事情に私が強く関心をもったのは、水戸藩の徳川斉昭がこの年の5月に老中にたいし、このままでは下田はキリスト教に支配されるし、将軍家との縁組だの、自分の娘の縁組だのと言いだされたら、どうするつもりなのかと詰め寄った一件があり、その当時の背景を知りたかったためだった。

 プチャーチンはこの災難にもめげずに日露和親条約の交渉を続行し、船を建造して帰国すると言いだして川路聖謨を感服させている。このときの船ヘダ号は実際、翌2年3月22日にはプチャーチンら48人を乗せて戸田村を出帆し、帰国したことなども、村上和尚のご著書からわかった。 

 しかし、ディアナ号の大半の乗組員はまだ下田に取り残されていた。そこへ下田開港の噂を聞きつけてハワイから早々にやってきたキャロライン・E・フート号が傭船契約結び、船長の家族らを下田に残して、ロシア将兵159人をカムチャッカまで送り届けたのだという。だが、それでもまだ250人が残されており、この第3陣は日本側からの要請でプロイセンの商人リュードルフが、その名もグレタ号という船で送り届けることになったが、クリミア戦争のさなかであったため、グレタ号は拿捕されてしまったようだ。リュードルフ自身はこの年の5月から11月まで8カ月、玉泉寺に滞在していたことが、ご住職から頂戴した山田千秋氏の『フランクフルトのビスマルクと下田のリュードルフ』という本や、山本有造氏の論考などからわかった。 

 玉泉寺にはペリー艦隊からの死者などアメリカ人の墓5基と、ディアナ号関係者のロシア人の墓3基が現存しており(もう1名の新しい追悼碑がある)、アメリカとロシアの外交官や政治家や、多くの研究者や観光客が訪れるという。ジミー・カーター元大統領も来訪したし、ウクライナ戦争が始まる前まではガルージン元駐日大使もたびたび訪れたとか。下田について勉強しようと買い込んだものの、まだほとんど積読状態の『下田物語』の著者スタットラーは、渋沢栄一の碑を守ったご住職のお祖母さまから多くのことを聞き取り、あの長編を書いたのだそうだ。 

 一般には航海中の死者は水葬が基本だったはずで、薩英戦争中に水葬に付されたイギリス人が鹿児島の海岸に流れついたことなども知られている。だが、ペリーは和親条約の交渉に先立って艦隊での最初の死者である海兵隊員ロバート・ウィリアムズの埋葬にこだわり、第1回目の交渉がその件でほぼ費やされていた。ウィリアムズはいったん横浜の増徳院で盛大に葬られたが、玉泉寺に改葬された。これは死者を日本の地に葬ることで、そこを何かしらの聖地または拠点とすることを意図したものだろうかと、私はご住職に伺ってみた。開港直後に横浜で殺されたロシア人のために「聖堂」を建てることをロシア側が強く主張したことなども知っていたからだ。玉泉寺の外国人の墓は大名クラスの仕様だそうで、ペリーの意図を知ってか知らでか、日本側は異国の地で死んでいった若者を悼む純粋な気持ちと、両国関係の今後を期待して誠意をもって尽くした結果と思われた。ご住職はすぐにその意味を察してくださったが、これまでそのように考えたことはなかったとのことだった。

 アメリカ人の墓は下田湾とはるか太平洋を望む場所にあるが、そのため風化が激しく、近年、屋根が構築されたため見た目が変わってしまったが、じつは1855年から1858年に撮影されたと考えられるダゲレオタイプの古写真がロチェスターのジョージ・イーストマン博物館に残されているとご住職から教えられた。年代が特定できるのは、その古写真には1858年に埋葬された5基目の墓がまだないことと、西洋人の子ども(おそらくルイーザ)と犬と思われる姿が写っているためなのだという。境内のハリス記念館でコピーを拝見したとき、どこかで見た写真だと思ったら、案の定、テリー・ベネットの『Photography in Japan1853-1912』に大きく掲載されていて、確かに犬の目まで光ってよく見えた。 

 下田開国博物館で、ディアナ号に乗り組んでいて津波のスケッチを残したモジャイスキーのカメラが展示されているのを見たので、撮影者は彼かとも思ったが、ヘダ号建設を指揮した彼は、第1陣ですでに帰国していた可能性が高いだろう。一般には当時、下田に来航していて、のちに咸臨丸に乗り組んだエドワード・メイヤー・カーン撮影とされるそうだが、ベネットはキャロライン・E・フート号に乗ってきたエドワード・E・エジャートンの可能性が高いと考えていた。ベネットの書には、モジャイスキーが1854年4月に玉泉寺の住職を撮影していて、そのダゲレオタイプは現存するとも書かれていた。どこにあるんだろうか?!(ご住職から頂戴した「玉泉寺」という冊子をようやく開封してみたら、この写真は同寺に現存と書かれていた!)

 ロシア人墓地のほうは、裏山の大木がよい木陰をつくっているために保存状態がよかった。見たことすらなかったであろうロシア文字を、一字の間違いもなく彫ってあったという碑文はまだ鮮明に残っていた。なぜか3基の墓にはロシア正教の八端十字架ではなく、普通の十字架が彫られていた。安政年間に、これほど堂々と十字架を示すものが彫られていた事実にも驚かされた。 

 墓地のあと、嘉永元年に柱や梁に硬材であるケヤキをふんだんに使って再建されたという本堂も見せていただいた。ご本尊を祀る両脇に和室があり、向かって左手が、ハリスが長い闘病生活を送った8畳間で、右手がヒュースケンの部屋だった。ヒュースケンの日記にあったベッドの置かれたあの部屋だ。彼は床間に座ってあのスケッチを描いたのだろう。ヒュースケンは、星がまだ31個の星条旗が玉泉寺境内に翻る、アメリカにとっては画期的な一枚も残している。下田の女性が羽二重で丁寧に縫ってつくった星条旗もアメリカに残されているのだという。 

 玉泉寺を失礼したあとは、了仙寺、泰平寺(何やら近代的な建物になっていた)や博物館などを回り、復路は普通列車を乗り継いで帰った。単線区間の下田から伊東まではいまでも時間がかかり、幕府が当初、開港場を下田ことで外国人をここにとどめておきたかったという地理的条件を再認識したような旅だった。いざこの日帰り旅行の記録を投稿する段になって、上田の次に下田に旅をしたことにようやく気づいて、われながら笑ってしまった。別に意図したわけではないのだが。

 いざサフィール踊り子号へ

時間が足らず下田踏海の現場までは行けなかったが、遠目に彫像は眺めた

玉泉寺の山門。この3段目まで波が押し寄せたという

玉泉寺本堂。渋沢栄一のおかげで銅葺きになった

下田湾を望むアメリカ人の墓所

ダゲレオタイプなので左右が反転している。
Terry Bennet, Photography in Japan 1853-1912より

ロシア人の墓所。側面の目立つところにも十字が刻まれていた

本堂内のケヤキの柱。左奥がハリスの部屋だったところ

ヒュースケンの部屋だった和室

ヒュースケンのスケッチ、
Henry Heusken, Japan Journal 1855-1861

2023年3月23日木曜日

上田旅行ほか

 先週初め、上田で史料調査に参加することがあり、現地の方から市内各所もご案内いただき、この旅行について書いておきたいと思いつつ、その後、多忙で今日にいたっている。大きな原因は、船橋で一人暮らしをしている高齢の母が入院してしまったことだ。母の長年の友人からの電話で、「お母さんが昨夜、誤嚥性肺炎で入院した」と知らされ、朝食もそこそこに駆けつけた。  

 上田に旅行中も、母はひ孫の面倒を見に横浜にきてくれていたので、まさに青天の霹靂だったが、この一年ほどいろいろな意味で衰えが目立ってはきていた。『気候変動と環境危機』の印税を、一部前払いしていただいていたため、いざというときに母宅に泊まり込めるようにと年末にラップトップを購入していたので、今回も一応それを持参した。ラップトップをもつのは20数年ぶりだ。翻訳のよい点は、何と言ってもどこでも仕事ができることだ。母のところはインターネット回線がないので、年末はテザリングする方法を娘から教わって凌いだが、今後の状況しだいで、モバイルWi-Fiを買うか、回線を引くか考えなければならない。

 上田で過ごした3日間はじつに多くの発見があったが、とりあえず簡単なものだけ、いくつかメモしておく。ちょうど「蔵出し! 新収蔵資料展」という企画展が上田市立博物館で開催されていて、そこに最後の上田藩主松平忠礼とともに、私の高祖父が写る写真も展示されていたので、ガラス越しながら初めて現物を見ることができた。上田藩関連の古写真のなかでも最も古い一枚だと思うのだが、画像は驚くほど鮮明だった。ただし、いかにも現代の写真らしい光沢が表面に見られた。今回、同じ幔幕前で撮影されたと思われる忠礼と鼓笛隊の写真は現物を手に取ることができたので、よく見てみたところ、やはり表面に光沢があり、素人目には鶏卵紙には見えなかった。アンブロタイプの古写真を写したものではないだろうか。この2枚は、東京都写真美術館が若林勅滋氏から買い取らなかった写真であり、当時もそう判断されたのではないだろうか。1975年刊の『庶民のアルバム明治・大正・昭和』にこの写真が初めて掲載されたときから、この写しが使用されており、オリジナルは行方不明なのだと思われた。 

 以前、「明細」という家別の記録の高祖父の項に「弘化四未七月御在坂中 大坂勝手被二仰付一」と書かれているのを、FB友の方に読んでいただいたことがあり、そのとき以来、見たかった「大坂入城行列図」という3巻ものの絵巻物を、今回、念願叶って閲覧することができた。想像していたよりはるかに小型で、ごく薄い和紙に描かれていたが、その長いこと、長いこと。調査の終了間際にトイレットペーパーのようなその巻物の1巻目を繰りつづけ、そのほぼ最後に徒歩で行列に加わる「馬役 門倉傳次郎」の小さな姿を発見したときは「あっ、いた!」と思わず声をあげた。巻物の3巻目は進み方が逆方向なので、ことによると復路かもしれないが、史料名どおりに入城時の様子だとすれば、25歳の高祖父だ。  

 今回は、上田藩の関係者がつくる明倫会や赤松小三郎顕彰会など、現地の方々とも交流する機会があった。小三郎記念館は以前も訪ねていたが、今回、説明を受けながら小三郎が島津久光に提出した建白書に、軍馬の改良とともに、畜産を奨励して「往々国民皆牛・豚・鶏等之美食を常とし、羊毛にて織り候美服を着候様改め候えば、器量も従て相増し、身体も健強に相成り、富国強兵の基にこれ有るべく候」と書かれていることに気づき、苦笑してしまった。何しろ、グレタ・トゥーンベリ編著の本で、畜産業がいかに地球の環境破壊の大きな一因となってきたかを昨年ずっと翻訳していたからだ。  

 明倫会の方々などが上田の主要産業だった養蚕の関係施設の訪問を手配してくださったおかげで、江戸時代に上田の蚕種業が始まった上塩尻の藤本養蚕歴史館から、現代の日本に残るわずか3社という蚕種会社の一つである上田蚕種株式会社や、信州大学繊維学部キャンパス、重要文化財に指定されている常田館製糸場まで、たいへん貴重な施設を見学させていただいた。詳しい説明を受けたおかげで、ようやく蚕種の仕組みを理解したのだが、狭いスペースで大量の蚕を孵化し飼育するためには、入念な温度調節から消毒、細菌検査、人工交配など、まさに産業としての畜産技術がなければ成り立たないことがよくわかった。養蚕はシルクロード文化の根幹にあり、日本では明治維新の原動力となった基幹産業であり、幕末から上田の養蚕業を支え、開国に結びつけたのが忠礼の父である松平忠固だった。養蚕業の衰退ぶりに、忠固が忘れ去られた一因を見る一方で、絹織物という人類の文化遺産の将来は、その他の畜産文化と同様に、厳しいものになりそうな予感がした。 

 個人的な収穫としてはほかにも、帰りの新幹線の時間間際に上田市立図書館まで走って行ったおかげで、以前に撮り損ねていた『上田郷友会月報』の何枚かの写真を資料室で撮影させていただくことができた。その1枚の、曾祖父の晩年の大正2(1913)年の郷友会の会合での集合写真には、山極勝三郎博士と忠礼の養子である松平忠正、それに5年後に没した曾祖父の追悼文を書いてくださった宮下釚太郎氏(無濁というペンネームでしかわからなかった方)が一緒に写っていた。 

 本業と孫守りの傍らで、ない時間を捻出してつづけてきた祖先探しと、関連の歴史調査だが、母が退院後にまた自立した生活に戻れるかどうかで、先行き不透明になってきた。連絡を受けて駆けつけても、横浜からではかれこれ2時間近くかかってしまう。 

 今回は数日前から頭痛がするという母を心配して、友人がお粥とおひたしをもって玄関先に「置き配」してくださり、連絡が取れないのを案じて夜間に助っ人を頼んで知人たちに行ってもらったところ、容体がかなり悪いことが判明して、なかば強引に入院させたのだそうだ。しかも、いろいろな話を総合すると、どうやら皆さん高齢者で、車ではなく、手持ちのショッピングカートに母を座らせて(見てみたかった!)、徒歩数分の場所にある病院まで夜中に連れて行ってくださったうえに、耳の遠い母と病院スタッフのあいだの「通訳」もしてくださったらしい。いまはもう完全に建て替えられて新しい街になっているが、昭和の団地仲間の、いまもつづく村の社会のような人の絆には、ただただ感謝するしかない。 

 駆けつけた病院では、まだコロナ禍の規制最終日であるうえ、母のPCRの結果が出ていないとのことで面会はできなかった。母が家に置き忘れた携帯・補聴器その他を取りに留守宅に入ったところ、差し入れとわかるお弁当箱や、自分でつくったと思われる土鍋のお粥、煮物等が食べかけのまま放置され、乱れたままの布団も敷きっぱなしで驚いた。母は極端に綺麗好きなので、入院した夜の慌しさが想像できた。  

 いずれこういう日がくることは覚悟していたとはいえ、あともう少しだけ時間が欲しい。母がまた煮物をもって横浜まできてくることはもうないのだろうか。せめて、近所をゆっくりとでも散歩をし、自宅で自分の食べたいものを料理できる日々が戻ってくることを願っている。食べるために生きているような母にとって、点滴と一日一食の重湯の食事は耐え難いようだ。

ようやく見ることができた高祖父と松平忠礼の写真

上田市立博物館で開催されていた企画展のチラシ

弘化2(1845)年、「大坂入城行列図」のなかにいた高祖父

赤松小三郎記念館にあった建白書のレプリカ

上塩尻の藤本養蚕歴史館の旧佐藤邸

信州大学繊維学部の旧貯繭庫に展示されていた繭のサンプル。建物はイギリス積みの古いレンガ造りだった。

上田城址公園の山極勝三郎の像

『上田郷友会月報』大正2年。曾祖父は扁額の右下。左隣りが宮下氏、山極勝三郎は後列左から7人目、その右隣りが忠正氏。