2018年7月30日月曜日

インペリアルビル訪問

 先日、仕事が少し一段落した折に、横浜の山下町25番地にあるインペリアルビルを再び訪ねてきた。オーナーの方にお会いして貴重なお話を伺える機会だったので、私一人ではもったいないと思い、参加させていただいたばかりの地元の歴史研究会、 横浜歴史さろんの方々もお誘いして行った。  

 訪問前には少しだけ下調べもして行った。Meiji-Portraits (meiji-portraits.de/)のサイトからは、4月のコウモリ通信に書いたカルスト家の時代以降の居留地25番の歴史もいくらか判明した。本当にありがたいデータベースだ。デ・コーニングのビジネス・パートナーであった老カルスト船長の息子レントは、1864年にはデ・コーニングと袂を分かち、保険業と貿易会社のカルスト&レルズ商会を設立した。前回も書いたように、レントはやがて健康を害し、日本人女性とのあいだに生まれた当時6歳くらい娘ラウラを連れて1872年にオランダに帰国した。レントの兄のヤンは別会社を経営していたので、レントの帰国とともにカルスト&レルズ商会は撤退したと思われる。  

 居留地25番では、同社の従業員のJ・P・フォン・ヘーメルトが保険の代理店業を営むようになった。翌1873年からは、シモン・エヴァース商会もやはり保険の代理店業を25番で始めており、1886年発刊の『日本絵入商人録』にはこの両社が25番の入居者として書かれている。初代ヘーメルト氏は、1894年に箱根の奈良屋ホテルで急死し、息子が後を継いでいるが、その息子も1900年には廃業して、数年後に日本を去った。ヘーメルトのあとには、24番のマイヤー商会の従業員のR・シャフナーが自社を設立して25番に入り、少なくとも1908年までは営業していた。一方のシモン・エヴァース商会は、経営者がたびたび入れ替わりはしたが、1920年まで25番に横浜支店を構えていたようだ。同社はなんと、レイボルド株式会社として現在も日本に拠点をもっており、2005年に編纂された「レイボルド100年の歩み」には、この25番の当時の貴重な写真が掲載されていた!  1923年の関東震災で横浜は壊滅的な被害を受けた。地価が下落したのを機に、開港以来、居留地で外国人がもっていた永代借地権を政府が買収し始めたという事実を、この原稿を書きながら初めて知った。居留地そのものは1899年に廃止されたが、永代借地権が最終的に解消したのは1942年のようだ。横浜から外国商館がなくなったのは、震災と永代借地権の消滅の両方によるものだったのだ。  

 現在、この地にあるインペリアルビルは、1930年に上田屋ビルディング第2号館として建設された。長期滞在する外国人向けのアパートとして、現オーナーの祖父に当たる方が新たに始めた事業だったという。お祖父さまはジャーディン・マセソンに勤めたのち、弁天通で絹製品を製造販売する上田屋を開業なさったそうで、そちらが本業だった。アメリカのメイシーズから受注した1937年という日付入りの絹の婦人パジャマや下着などの型紙が、ガラス付き木箱のなかにまだ大切に保管されていた。見事なピンタックの入った絹のドレスシャツは、足踏みシンガーミシンで職人さんが縫製していたそうだが、太平洋戦争で徴兵されてほぼ全員が戦死してしまったという。つい数年前まで得意先であったアメリカを敵に回し、彼らはどんな思いで戦地に赴いたのだろうか。上田屋は、ホテルニューグランド裏手にあった1号館のほか、24番地の互楽荘を3号館とするはずだったが人手に渡った、という話をオーナーから伺った。私は昭和史には疎いので、そのまま聞き流していたのだが、あとで調べてみて驚いた。高級アパートとして建設されたこの建物は、太平洋戦争中に海軍に接収され、戦後は米軍に接収されて神奈川県で初の慰安所となったのだという。  インペリアルビルも、わずか一日の猶予を与えられただけで米軍に接収され、その翌日には屋上に小屋が建てられ、マッカーサーの将校用の部屋が増築されていたそうだ。川崎鉄三設計のモダニズム建築という割には、外観がいま一つ垢抜けて見えなかった理由は、屋上部に現存する占領軍による増築部分のせいだったのだ。横浜は空襲によって大被害を受けたが、インペリアルビルや隣の互楽荘は最初から接収しようと目を付けていたらしくほぼ無傷だったそうで、B29の焼夷弾攻撃はきわめて正確だったとオーナーは語っておられた。屋上の小屋はその歴史をいまに語る証人だ。  

 この日、私は川崎鉄三に敬意を表して、彼が設計した昭和ビルとジャパンエキスプレスビルも訪ねてみた。昭和ビルのほうはテナントの弁当屋がビルの雰囲気を台無しにしていたが、入り口にはインペリアルビルの一階とそっくりの八角形と正方形のタイルが敷かれていた。検索してみると、江戸東京たてもの園に移築された子宝湯にもよく似たタイルが使われていた。1929年に足立区に建てられたこの銭湯は、「施主が出身の石川県から気に入った職人をつれてきて造らせたという」。川崎鉄三は経歴がよく知られておらず、謎の建築家らしいが、石川県の出身と考えられている。何か関係があるだろうか? 東京高等工業学校(現在の東京工業大学)の建築科で欧米に留学経験のある前田松韻に学び、1912年に卒業。彼の顔写真入りの明治45年の卒業アルバムは高値で売られていた。いまも熱烈なファンがいるらしい。その後、台湾総統府に勤め、廈門、香港、海南島、広東など海外を転々としているが、西洋風の建築は、こうした東アジアの都市で学んだのだろうか。横浜へは1925年に若尾幾太郎商店の「若尾ビル」を新築するためにやってきた。幾太郎は、甲斐出身の生糸王若尾逸平の異母弟の(初代)幾造の孫に当たる。若尾家は横浜開港以来、甲州財閥として名を成し、銀行業から東京馬車鉄道、東京電燈(のちの東京電力)まで手広く経営していたようだ。まったくの偶然ながら、インペリアルビルを訪問した日に、私の先輩が送ってくださったクリスチャン・ポラック著『絹と光』(アシェット婦人画報社)には、『横浜諸会社諸商店之図』(1886年ごろ刊)に掲載された生糸賣込問屋若尾幾造の銅版画が転載されていた。上田屋も甲府の出身だそうで、川崎鉄三にビルの設計を依頼した経緯には、若尾家が何かしら関係していたのだろう。  

 ウィキペディアよると、若尾家は1930年の昭和恐慌の影響などで没落している。川崎鉄三自身も1932年にはおそらく43歳で没している。現存する彼の作品であるインペリアルビルとジャパンエキスプレスビル(ともに1930年)、昭和ビル(1931年)は、いずれも最晩年の作品ということになる。ジャパンエキスプレスビルの2階には、古い床板もそのままに、往時の雰囲気を活かした輸入雑貨・衣料店が入っている。少し暇になったら、1階でビールでも飲みながら、横浜の歴史に思いを馳せてみたい。

 インペリアルビル外観

インペリアルビル一階。 手すりの先端にあった大きな装飾物は、 戦時中、金属供出させられたという。

 インペリアルビルのモザイクの床

 ジャパンエキスプレスビル

 昭和ビル