2020年12月28日月曜日

モノが語る歴史

 数カ月前のことだが、ちょうど『埋もれた歴史:幕末に西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)が刊行されたこともあって、藩主の松平忠固(忠優)の名前で検索をかけたところ、ヤフオクに彼の書簡が出品されていることに気づいた。同じ出品者からもう1点、上田藩関連の珍しい史料もでていたので、すぐに『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)を執筆された関良基先生にご相談してみた。関先生はこれまでも上田の赤松小三郎ゆかりの史料や道具などの散逸を防ぐべく、資金集めや上田市立博物館との交渉などに関わってこられた。  

 同時に、すでに遅い時間だったが、これまで何度も崩し字を読んでくださった私のFB友のY氏がまだオンラインであるのに気づき、失礼とは思いつつメッセージを送ってみた。なにしろ、私に読めた文字は「公方様と右大将」くらいしかなく、買うに価する内容か判断がつかなかったのだ。すると、間髪をいれず、ネット上の画像から判読できる限りの内容を読み取って、宛名がないことは気なるが、「買うべきでしょう」と力強い一押しをくださった。宛名がないためか、1万円の即決価格という設定であるにもかかわらず、誰も入札していなかったのだ。お返事を頂戴してすぐさま落札したのは言うまでもない。170年ほどの歳月を経た書状が届いたときは、深い感動があった。  

 その後、Y氏の古文書教室のお仲間の方も判読に力を貸してくださり、ほぼ全文を読むことができた。さらにだいぶ経ってから、岩下哲典先生にも読んでいただく機会があり、以下のように釈文を書いてくださった。 

二月九日付松平忠優書状(宛所欠) 
(釈文:翻刻文) 
御状、令披閲候 
公方様 右大将様、益 
御機嫌能被成御座候 
之間、可被心易候、将又 
弥無夷儀、御遵行之由 
珍重之事候、随而 
小杉紙一箱、被懸芳意 
過分之至候、恐々不宣  
二月九日  
 松平伊賀守
     忠優(花押) 
(宛所欠)

  読み方も次のように教えていただき、「基本的には、老中のルーティン業務(将軍・継嗣と大名との取次)に関わって、小杉紙(鼻紙)一箱をもらったお礼の書状」で、「相手は比較的格下」だろうとも教えていただいた。 

御状(おんじょう= お手紙)、披閲(ひえつ)せしめ候。
公方様(12代将軍家慶)、右大将様(後の13代将軍家定) 益(ますます) 
御機嫌能(ごきげんよく)被成(なられ)御座候 
之間、可被心易候(こころやすかるべくそうろう)、将又(はたまた) 
弥(いよいよ)無夷儀(いぎなく)、御遵行之由(ごじゅんこうのよし) 
珍重之事候(ちんちょうのことにそうろう)、随而(したがって) 
小杉紙一箱、被懸芳意(芳意にかけられ) 
過分之至候(かぶんのいたりにそうろう)、恐々不宣

 忠優の名で老中だった嘉永元年10月から安政2年8月にかけての期間で、将軍(公方様)の世子(右大将)が定まっていた時代となると、家慶が嘉永6年6月に熱中症から心不全で死去するまでであり、書簡の日付から、嘉永2年から同6年のいずれかの年の2月に書かれたことはすぐにわかった。押印がなくて花押のみであることや、「恐々不宣」という結語からも宛先は「格下」なのだろうと、素人にも思われた。

 しかも、岩下先生は「左端(「奥」の方)に墨の後が残っており、「殿」の最後の一画と思われ」、「出所を秘匿するために、最近切断したもの」ではないか、と推測しておられた。左側は確かに、切れ味の悪い刃物で誰かが切ったと見えてガタガタしていたが、切断面はすでにその他の部分と変わらず茶色く変色していた。ただ、じっくり見た甲斐あって、右側の上下の隅には押しピンの跡らしきものが残っているのに、左側にはそれがないことが判明した。つまり、いずれかの所有者がしばらく、この書状を壁に貼っていて、その後、宛名部分が切断されたのだ。これぞ、モノが語る歴史だ!  

「御状」が将軍と世子に見せるようなものであったことや「ますます御機嫌能く成られ」、「御遵行の由」が「珍重の事候」などとあることから、取り次いだ手紙は好意的に受け取られていたことが察せられる。その労にたいしてもらったのが鼻紙というのが、現代的な感覚からは苦笑したくなるが、将軍から頂戴したならティッシュでも貴重だったのだろう。

 出品者の方から、もともと京都の古物商から入手したという経緯も伺い、個人的にはこの条件で思い当たる人物と出来事があり、かりに私の推理どおりだとすれば、貴重な発見物となるのだが、「慎重に検討する必要がある」という岩下先生のお言葉に従うことにしよう。いずれ上田の博物館に寄贈するつもりなので、それまでにもう少し解明できれば嬉しい。

2020年12月18日金曜日

再度、生麦事件

 幕末史の転換点とも言うべき生麦事件は、なぜか非常に誤解されつづけた事件だ。この事件が被害者であるチャールズ・L・リチャードソンの落ち度ゆえに生じたとする主張がいまだに多いのは、いったいどういうわけなのか。先日、オンラインで参加させていただいたシンポジウムの発表を聞きながら、新たに疑問が湧いたので、メモ書き程度に記しておく。  

 拙著『埋もれた歴史』のなかで、これまで歴史家が見逃してきた多くの事実を指摘し、リチャードソンへの非難がいずれも根拠の乏しい、事件当時を知らない人びとによる後年の主張であることを示したつもりだが、そのなかで私が取り上げるに値しないと判断した「証言」が、いまなお引き合いにだされていることに気づき、典拠とされる板野正高氏の論文、「駐清英国公使ブルースのみた生麦事件のリチャードソン──プライベート・レターのおもしろさ」(『学士会会報』723号、1974年)を入手してみた。これを根拠とする主張はいずれも、以下の部分を引用している。 

「私はこの気の毒な男を知っていた。というのは、彼が自分のやとっていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた科で重い罰金刑を課した上海領事の措置を支持しなければならなかったことがあるからである。彼はスウィフトの時代ならばモウホーク(mohawks)〔一七世紀に、夜、ロンドンの街を荒らした貴族のごろつき〕であったような連中の一人である。わが国のミドル・クラスの中にきわめてしばしばあるタイプで、騎士道的な本能によって些かも抑制されることのないプロ・ボクサーにみられるような蛮勇の持主である」(1864年4月15日付の外務大臣ジョン・ラッセル宛の書簡) 

『学士会会報』のこのバックナンバーは簡単には読めないので、大半の人は萩原延壽の『遠い崖 1』の引用を孫引きしたウィキペディアの「生麦事件」の項の記述を引用している。アーネスト・サトウを研究した萩原氏は、サトウがこの事件では傍観者であったために、事件そのものを深く研究することはなかった。そのためか、板野氏の論文の真意を伝えず、ブルースの手紙部分だけを引用している。だが、この半公信を入手して翻訳した板野氏は、こう書き添えているのだ。「注意すべきことは、ブルースは決してリチャードソン個人を罵倒しているのではなく、彼を一類型とするような中国在留英国人の行動傾向を、中国との友好関係を維持しながら貿易の順調なる発展をはかるべき英国公使としての立場から問題としているということである」。つまり、ブルースは一般論として論じていたのである。  

 ブルースが生麦事件についてよく知らなかったのは、その前段を見れば明らかだ。「リチャードソン氏は慰みに遠乗に出かけて、日本の大名の行列に行きあった。大名というものは子供のときから他人に敬意を表せられつけている。もしリチャードソン氏が敬意を表することに反対であったのならば、何故に、彼よりも分別のある同行の人々から強く言われたようにして、引き返すか、道路のわきによけるかしなかったのであろうか」  

 生麦事件は、薩摩の島津久光の行列と4人のイギリス人との遭遇で生じたが、当時の横浜居留地の人びとは、島津久光が薩摩藩主の父であって、大名ではないことはよく承知していた。大名行列が通るときはいつも通知がだされていたが、久光の一行は直前に予定を変えたたこともあって、この日の予定については何ら知らされていなかった。しかも、リチャードソンは、東海道の道幅の狭い箇所で、下馬しろと薩摩藩士に命じられたものの、その言葉が通じず、殺気だけは感じたため、馬首を返したところでいきなり斬りつけられたのだ。馬を並走させていた彼の行動が、一行のなかの唯一の女性で、気の動転していたボラデール夫人を守るものであった可能性すら高いことも、当時を知る人が数十年後に書いている。リチャードソンらが久光の行列にたいして無礼を働いたわけではないことは、久光の側近だった市来四郎や、彼を斬った一人である久木村治休ですら述べている。こうした史料はいずれも拙著で取り上げたので、ぜひお読みいただきたい。  

 リチャードソンは実際にはどういう人物だったのか。横浜市歴史博物館発行の図録『生麦事件と横浜の村々』によれば、彼は1833年4月16日にロンドンで生まれた。父親はジェントルマン階級に属し、リチャードソンは姉3人、妹1人に囲まれた1人息子だった。中学程度の教育を終えると、母方の叔父の個人商会に預けられたが、1853年初めに、20歳で上海に渡り、おもに生糸取引と不動産売買に携わった。宮永孝氏の『幕末異人殺傷録』は、リチャードソンが上海に渡った時期は間違って書いているが、「清国人相手に交易を開始し、蓄財すると借地を増やしてゆき、のち南京路の清国人密集地に家屋を建て、かれら相手に賃貸していた」などと、かなり詳しく書いている。当時、太平天国の乱によって大量の難民が上海になだれ込み、人口が急増していたので、その波に乗ったのだろう。  

 リチャードソンと家族のあいだには80通ほどの書簡が残されており、その何通かが訳されて先述の図録に掲載されている。1862年6月29日には、7月2日午前中にジャーディン商会のファイアリークロス号で日本に向けて出発する旨を書き送っている。この船は、生麦事件発生の2週間ほど前に、12万5000ドル(6万7000両)という高額で売却手続きが済んでいたため、事件後に同商会から薩摩側に引き渡された。薩摩とイギリスの関係は、この一件が象徴するように、攘夷の実行を訴えながら武器や艦船をイギリス商人から買うという、非常に矛盾した関係が当初からつづいていた。  

 事件直前の9月3日には、リチャードソンは日本の滞在を1カ月延ばし、10月にいったん上海に戻ってから月末には帰国の途に就く予定なので、しばらくは音沙汰がなくても心配しないようにと書き送っていた。彼の両親と姉妹たちは、11月21日に『タイムズ』紙に掲載された短い「電報」を読んで初めて事件のことを知ったのだった。「私が深く愛した1人息子が日本で殺害されたことを『タイムズ』紙の電報によって知り、私たちは深い悲しみに暮れています」と、父親がラッセル卿に書き送った手紙が、その他数通の切々とした内容の書簡とともにジョン・デニーの『Respect and Consideration』に引用されている。  

 事件当時の横浜の人びとの証言やリチャードソンの書簡を読む限り、彼がモウホークのような人物、つまり金持ちの粗暴などら息子だったというブルースの評価には、首を傾げたくなる。もちろん、だからと言って、リチャードソンが上海で実際に苦力にひどい仕打ちをしなかったという証拠にはならない。  

 だが、そう主張するブルースは、上海でどれだけリチャードソンを個人的に知っていたのだろうか。彼に関する記述は、ネット上にはごくわずかしかなく、その大半がリチャードソンに関する短いコメントであることは、なんとも皮肉である。少ない情報を集めてみると、F・ブルースはアロー戦争時に、兄のエルギン卿が中国への特命全権大使に任命された1857年4月に、その第一秘書官として同行し、不平等条約として知られる天津条約が翌年6月に締結されると、その批准のために帰国し、その年末に在清公使に任命されている。赴任した時期は不明だが、清国政府が批准を拒みつづけたため北京入りができず、その間、上海に足留めとなっていたようだ。この当時の上海領事はハリー・パークスだったが、現地に長らく滞在し、中国語が堪能だったパークスは同年7月にはエルギン卿の中国語秘書官となって戦争に携わるようになったため、トマス・メドウズという代理領事が任命された。モンゴル騎兵軍を率いるセンゲリンチンにパークスが逮捕され、随行者が虐待され拷問死したことへの報復で、エルギン卿が円明園を破壊させたことや、数度にわたる大沽砲台の戦い、モンゴル騎兵軍を全滅させた八里橋の戦いなどはよく知られる。英仏軍は、清朝とのこうした戦いに、広東などの苦力を大量に雇ってもいた。  

 1860年に太平天国の乱の指導者の1人、李秀成の率いる軍が、欧米の商人から武器を調達しようとして上海に近づいた際には、ブルースが条約港にいる居留民の防衛という名目で攻撃し、300人近い犠牲者がでたという。清朝と条約を結んだ英仏両国は、反乱軍がアヘン貿易に反対であったことから清朝と手を結ぶことに決めたのか、このころから義勇隊や、中国人傭兵を使った西洋式軍隊である常勝軍を使ってキリスト教を信奉する反乱軍を鎮圧する側に回った。1860年10月には北京条約が結ばれたが、ブルースはしばらく天津にいて、翌年3月に北京入りしている。リチャードソン自身も、1862年2月の母宛の手紙に、4–5日に1度は騎兵隊として租界の自衛に加わらなければならないことを書き送っている。幕府が高杉晋作や中牟田倉之助を千歳丸に乗せ、密航者の五代友厚を含めた視察団を送り込んだのは、ちょうどこの混沌とした時期の上海だった。  

 ブルースはこのように、確かにしばらく上海に滞在していたのだが、こんな時代に領事裁判の一件にすぎなかったはずの、「やとっていた罪のない苦力に対して何の理由もないのにきわめて残虐なる暴行を加えた」件について、公使であった彼が深くかかわったとは考えにくいし、たとえそれが事実だとしても、後年、わざわざ言及した背景には別の意図があったとしか思えない。  

 板野氏は、ラッセル卿へのブルースの手紙は、「所謂ガンボート・ディプロマシイからの転換を意味していた」として、中国人を蔑視する同胞を批判するブルースをリベラルな外交官のように描く。だが、エルギン卿とブルースこそ、中国にアヘン貿易を強要し、中国人苦力や傭兵を雇って同胞に立ち向かわせ、殺傷力の高い武器を大量にもち込ませた張本人であり、この兄弟の父親がエルギン・マーブルで知られることは言うまでもない。かりにこの半公信の内容が事実だったとしても、日本でのリチャードソンの行動には非難すべき点はなかった。真偽や意図の定かでない証言を、ただ「エルギン卿の弟」の発言というだけで真に受けて引用・拡散することは避けるべきだと主張したい。

2020年12月10日木曜日

『パサージュ論 I:パリの原風景』

 じつに遅まきながら、ようやくヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論 Ⅰ:パリの原風景』(岩波書店)を図書館で借りてみた。これまで訳書のなかでたびたびパサージュ論について言及されていながら、その場しのぎでごまかしていたが、今回の仕事で再びかなり突っ込んで取り上げられていたため、ついに読んでみたのだ。  

 私が最初に出合ったのは、『「立入禁止」をゆく』(ブラッドリー・L・ギャレット、青土社)だったように思う。ただ、この著者の関心はむしろ、ベンヤミンが言及していたナダールの地下水道の写真などにあったので、日本語ではアーケード街としか訳しようのないパサージュの意味は、よくわからないままだった。アーケード街というと、いかにも戦後の日本各地につくられたショッピング街が思い浮かべてしまう。船橋の本町にもそんな一角があったし、中野サンモール商店街などはいまも健在だ。うちの近所でも、弘明寺や大通り公園のところの横浜橋商店街など、漬物屋や八百屋、洋装店などが並ぶ昭和的な光景がまだ見られる場所がある。  

 しかし、ベンヤミンの言うパサージュは、1822年以降の15年間に、織物取引が盛んになり、大量の商品在庫が店に常備されるようになった時代に、その大半がつくられたというパリの高級商店街なのだった。最初のガス灯はこうしたパサージュに登場したのだという。その発展には、ガラス天井を支える鉄骨建築の始まりが欠かせず、にわか雨に降られても安全な遊歩道に、天井から差し込む自然光が、ファンタスマゴリー(魔術幻灯、幻像空間)の効果を与えたというものだった。うちにも子供のころは幻灯機というスライド上映する装置があったが、本来はそれを使った幽霊ショーのようなものを指す言葉のようだ。  

 この時代に、ヨーロッパの主要都市でたびたび開かれ始めた万国博覧会について、ベンヤミンはこう書く。「万国博覧会は幻像空間を切り開き、そのなかに入るのは気晴らしのためとなる。娯楽産業のおかげで、この気晴らしが簡単にえられるようになる。娯楽産業は人間を商品の高みに引き上げるやり方をするのだから。人間は、自分自身から疎外され、他人から疎外され、しかもその状態を楽しむことによって、こうした娯楽産業の術に身をまかせている。商品を玉座につかせ、その商品を取り巻く輝きが気晴らしをもたらしてくれる」。立入禁止の本でギャレットが訴えていたのは、商品化された観光地への抵抗だったし、人間が商品化されることの疎外論については、トリストラム・ハントが『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)で書いていた。「疎外」という訳語は、どうも意味が伝わりにくく、理解されていないと思いながら訳した記憶がある。  

 この本では、オスマンのパリについても何度か言及されていた。「パリ発生[ママ]の地シテ島について、人々はこんなことを言った。オースマンの手にかかった後は、教会と病院と役所と兵営しか残っていない、と」。シテ島から立ち退きさせられた多くの住民のことだ。私たちがパリだと思っている光景は、オスマン以降につくられた顔なのだ。こうした現象は世界各地の都市でその後も繰り返され、スジックの『巨大建築という欲望』(紀伊国屋書店)でも上海の開発に多くのページが割かれていたし、いま取り組んでいる本でも、やはり上海の途方もない発展の話が語られる。 「エンゲルスは、バリケード戦における戦術の問題に取り組んだ。オースマンは二つの方法をつかって、バリケード戦の防止に努めた。道路の広さはバリケード建設を不可能にするだろうし、新しい道路は兵営と労働者街とを直線で結ぶことになる。同時代の人々は、彼の事業を〈戦略的美化〉と名づけた」。ベンヤミンのこの記述を読んで、私の脳裏に浮かんだのは青山通りや外苑東通り、靖国通りなどだ。スジックもベルリンやパリの都市計画について、同様のことを書いていた。  

 このように、ざっと一読した程度ではとうてい把握しきれないことが、この1巻だけでも書かれていたので、古本を入手してまた後日、読み返してみることにした。ベンヤミンの作品などは、充分に時間のあった学生時代に、せめてその概略だけでも知っておきたかった。ただ、体系的に書かれた書ではなく、彼の膨大なメモ書きが死後に編纂されたものなので、そこに書かれた断片の意味を理解できるようになるまでは、読んでもちんぷんかんぷんだっただろうか。

 弘明寺かんのん通り商店街

 横浜橋商店街

明治安田生命ビルと明治生命館のあいだを屋根で覆ってできたパサージュ「MY PLAZA」。2021年6月撮影。

2020年11月27日金曜日

虎雄さん調査再開

 先日、1週間ほどまとまった時間が取れたので、以前に購入した熊本県の『玉名市史 通史編上下』と『岱明町地方史』を読み返し始めた。牧人舎のコウモリ通信に何度か触れたことがある、長崎出身の曾祖父山口虎雄の調査を再開したのだ。すでに貴重な自由時間は終わってしまい、これからは片手間に細々とつづけるしかないので、何年がかりになるかわからないが、ともかく再開したことだけは記しておきたい。  

 この曾祖父の訳書『嗚呼 此の一戦』については以前に書いたことがあったが、この訳書と同年の明治45年に同じ博文館から刊行され、数年後に重版された『新式実用 露語独習』増訂版も古書店で見つけて購入した。数年前から国会図書館のデジタルコレクションで公開されていて、実用とするにはあまりも古めかしいことは知っていたが、開いてみたら以前の所有者があちこちに丁寧な書き込みをしていて、学習に使ってくれていたらしいことがわかった。  

 4年前の九州旅行の際に長崎の市役所の人が2時間もかけて調べてくださった除籍謄本から、養子に行ったこの曾祖父の実家が玉名郡大野村大字野口だったことが、番地にいたるまで判明していた。通常ならそれで終わるところだが、曾祖父の旧姓は大野なのだ。大野村だから大野さんだったのかと、軽い気持ちで調べ始めたところ、『姓氏家系大辞典』に玉名郡大野荘や大野別府に関する長い記述があり、資産家だったのに、一家を離散させた放蕩親父として子孫には伝わっていた虎雄の実父は、調べるに価する興味深い人物であった可能性がでてきたのだ。そこで、玉名の地元史の本を大枚をはたいて購入してみたものの、長いこと本棚に鎮座したままになっていた。  

 この1週間余り、これらの地元史を読んで知ったことは驚きの連続だった。大野という名が記された最古の記録は、『肥前国風土記』の高来郡の項に、景行天皇が肥後国玉名郡長渚浜の行宮に滞在していたとき、「神大野宿祢」に島原方面を視察させたという記述らしいが、玉名には江田船山古墳をはじめ多数の古墳があり、大野氏の故地と考えられている築地の南から、長さ6m超と5m超の巨大木棺が二基出土しているほか、菊池川の対岸ではあるが、やはり玉名市の斎藤山遺跡からは、日本最古といわれる弥生時代の鉄斧が出土していることを、『歴史玉名』に掲載された講演録から知った。ネット上で読めた論文から、この鉄斧が中国北東部にあった燕国の鋳造品と考えられていることなどもわかり、船山古墳から私が想像したことが的中したようなのだ。この古墳から出土した金銅製飾履には亀甲繋ぎ文が刻まれているが、大野氏一族には幕紋として亀甲を使用していた家や、のちに亀甲氏を名乗った家があり、何らかの関連がありそうだ。なにしろ、『玉名市史』はかつてここに吉野ヶ里のような「大野国」が存在したに違いないと推察しているのだ。「野口という大字名は大野の入口という意味であろう」とも。大野別府と呼ばれていた時代は250町だった領地が、どんどん失われ、大野氏が最後までいた場所の一つが野口らしい。  

 驚くべきは古代史だけではない。高瀬はおそらく自由港津のような発展を遂げたと考えられており、歴史を通じて近隣諸国の人びとが出入りしてきた場所だった。元寇、日明貿易、ポルトガルの宣教師による布教活動など、地方史とは思えないほど国際色豊かな歴史が繰り広げられたあと、この地も戦国時代に突入し、大野氏は小代氏によって滅亡させられたのだという。悲運の大野氏を慰霊した四十九池神社まであるようだが、大野一族は死に絶えたわけではなく、歴史の舞台からは姿を消した、ということらしい。祖先が滅亡してしまっては、私にはちょっと都合が悪い。  

 もちろん、私の高祖父に当たる「放蕩親父」が明治になって適当に大野と名乗ることにした可能性は皆無ではないが、これだけの歴史的背景のある大野村で、まるで関係もなくその名字を名乗ることは、通常では考えにくい。コロナ禍でなければ、1週間の調査旅行にでかけたいところだが、こんなときにひょっこり訪ねてくるよそ者が歓迎されることはないと思い、とにかくまずは下調べをすることにした。滅亡の年も、説によって30年の隔たりがあるようなので、小代氏文書などが収載されている『玉名市史 資料編5』をさらに古本で買ってしまった。玉名に行ったこともないのに、これほど市史を読んでいるのは私くらいではないだろうか。  

 一方、曾祖父の虎雄自身については、拓殖大学の百年史関連の書物からいくらか情報が得られた。名称も教育機関として位置づけもたびたび変わっているので当時何と呼ばれていたか、まだ確かめていないが、のちに拓大となった学校でロシア語が開講されたのは、ロシア革命の年、1917年で、曾祖父がロシア語の講師として雇われたのはその3年後にロシア語が同大の主要3言語に認定された年だった。同僚の多くは学士や博士であるなか、曾祖父の学歴欄は空白になっていたが、「出身地長崎県の長崎露語研究会、後には清国旅順でロシア語を学んだ。桜井[又男]と同じく陸軍通訳を経て、大正4年には参謀本部の嘱託としてロシア語業務を担当した」と『拓殖大学百年史 大正編』に書かれていた。どこでロシア語を学んだのか、ずっと疑問に思っていたが、私が想像したとおり大陸に渡っていたのだ! 娘が昔、叔父から聞いたところでは、曾祖父は1906年4月、まだ21歳のときに勲六等単光旭日章をもらっているので、おそらく旅順にいたころに日露戦争が勃発して現地採用の通訳として雇われ、何らかの功績があったのだろう。第一次世界大戦が大正3年に始まっているので、そのころ再び陸軍で仕事をしたのだろうか。拓大には、似たような経歴の同僚が何人かいるので、正規の大学教育は受けていなかったが、教員として採用してもらえたようだ。拓大関連の論文には「明治45年二松学舎卒業」とも書かれていた。二松学舎は当時まだ大学ではなく、漢学塾だったようだ。  

 1924年から1943年にかけて書かれた論文が数本確認されたほか、『レーニンの帝国』という訳書が1924年にでているようだが、これは未確認だ。百年史の昭和編には、拓大のロシア語研究会の会長を務め、昼休み時間に作文、翻訳の課外授業を行なったほか、週一回の研究論文発表会の指導にも当たったと書かれていた。1933年7月には満州産業建設学徒研究団の団長に、拓大の永田秀次郎学長が団長として就任し、そのころには教授になっていた曾祖父が研究団員として参加した写真が、100周年記念のアルバム『雄飛』のなかにあった。1938年ごろには学生主事を務めていたこと、1944年に鉱山科新設の申請がだされた際には、専任の教授として70時間の受持時間となっていたことなども、いくつかの論文からわかった。  

 百年史には「1947年まで、実に27年にわたり本学でロシア語を教えた」と書かれていたが、叔父からは48年6月24日に在職中、肺炎で死亡したと聞いていた。ペニシリンが手に入っていたら助かったと言われ、娘は高校時代にペニシリンについてあれこれ調べたようだ。東京大空襲で西大久保の家が全焼し、長野県の仁礼村に疎開していたが、曾祖父は単身、東京に戻り、学内の一室に寝泊まりしていたという。母の一家が戦後、松代に引っ越したのが1947年秋以降で、引っ越してすぐに虎雄と孫たちだけで象山に登ったそうなので、本当に急死だったのだろう。電話連絡を受けて動転した祖母が、たまたまその場にいた実母に向かって「お母さん」と呼んだことが子供にとって印象深かったことや、病弱な赤ん坊だった末っ子の世話で、葬儀にでられなかった祖母の代わりに、母たち姉妹が3人だけで汽車に乗って上京したこと、葬儀の場で虎雄の弟に会い、そこでコッペパンをたくさんもらったことなどは、私が何度も母から聞かされた話だった。この弟はコッペパンを土産にもってきたばかりに、本名は忘れられ、「コッペパンの叔父さん」としてしか記憶されていない。伯母によると、その後に学葬があったのか、参列した祖母が泣き崩れていたという。  

 一人っ子だった祖母は父親に甘やかされて育ったのだろう。晩年になるまで子供のころに買ってもらった幅広のリボンを大切にもっていて、まるで形見分けのように、すでにボロボロになったその一部を切って私にくれたことがあった。当時の私に、祖母の話をもっと聞いてあげる気持ちの余裕がなかったことが惜しまれる。

西大久保の家で盆栽を育て、九官鳥を飼っていた虎雄

 祖母からもらったリボンの切れ端

2020年11月16日月曜日

横浜市中央図書館

「宇宙(人はこれを図書館と呼ぶ)は、不定数の、おそらくは無限の数の六角形の閲覧室で成り立っている。真ん中には巨大な通風孔があり、ごく低い手すりで囲まれている。どの六角形からも、上のほうの階や下のほうの階がはてしなく見える。閲覧室の造りはつねに同じだ。書棚は20段あり、2辺を除いた各辺に5段ずつ長い棚が並ぶ。書棚の高さは、各階の天井高に等しく、平均的な司書の背丈とほとんど変わらない。書棚のない空いている辺の一方は狭い出入り口に面し、別の閲覧室へとつづいている。最初の閲覧室や、その他すべての閲覧室とそっくりの部屋だ。出入り口の左右には二つの小部屋がある。一方は立ったまま眠るための部屋で、もう一方は生理的欲求を満たすためのものだ。この部分は螺旋階段に通じており、下は奈落の底まで、上は高みにまでつづいている」(アンソニー・ケリンガン英訳から重訳)  

 これはアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』の冒頭部分で、現在、取り組んでいる本のなかで言及されていた。建築物の描写の翻訳は非常に厄介で、文面から正確にその光景を頭に描けることはまずない。実在する建物であれば、私はひたすら画像を探し、著者が何を言わんとしているのかを確かめる。だが、ボルヘスのこの図書館は架空のものであり、しかもスペイン語の原文からの英訳は何種類かあるようで、少しずつ内容が異なる。岩波文庫の『伝奇集』にある鼓直氏による邦訳も読んでみたのだが、どんな構造かまるで思い描けない。  

 六角形が無限につづくと言えば、誰もがハニカム構造なり、亀甲繋ぎなりを連想するだろう。この文様を多用していた鮮卑について調べたことがあったので、その意味でも興味を引かれたのだが、ボルヘスはこれを際限なく広がりうるパターンとして思いついたに違いない。だが、八角形と四角形でやはり連綿とつながる蜀江文や、タイルによくあるその変形版ならば、隣の閲覧室とのあいだの「出入り口」(英訳ではentrance way)の両側に小部屋を配することもできるが、亀甲繋ぎの場合、一つの六角形の辺は隣り合う六角形の一辺と完全に接していなければならない。壁の厚みがかなりあると考えれば、不可能ではないとしても、螺旋階段はいったいどこにあるのか。などと、あれこれ頭を悩ませながら画像検索をすると、この図書館を描こうと試みた人が大勢いることがわかったが、当然ながらすべての条件を満たした作品は見つからなかった。  

 私がとくに悩んだのは、英語では複数になっていた通風孔だ。中央に位置する通風孔の周囲に六角形の部屋が6つ配置されたある想像図を見て、これを1ユニットと考えるのかなどと納得した。そこでふと思い浮かんだものがあった。実際にそんな光景を見たことがあるのだ。しかも図書館で。そう、横浜市の中央図書館だ。それまであまり意識したことがなかったが、建物の中央に吹き抜け部分がある。そのなかで、かなりの重量と思われる金属の塊がガラス越しにゆらゆらと揺れている。私は館内閲覧の本のコピーを取るために、その光景をぼんやり眺めながらコピー機の前でこれまでかなりの時間を過ごしてきた。  

 次に図書館に行った際に確かめてみたら、「光庭」と呼ばれているこの吹き抜けは実際に六角形だった。司書に教えてもらった図書館建設に関する資料にあったフロアプランからは、この建物が亀甲繋ぎのように、「六角形を基調としたユニットを組み合わせた」ものであったことがわかった。この図書館には、螺旋階段すらある! 地下3階、地上5階なので、バベルの図書館とは比べものにならないが、最上階から見下ろせばそれなりに迫力がある。「光庭」は地下3階までつづいていた。書庫の本の貸し出しや閲覧をお願いしても、それを取りに行く係員は穴倉のような倉庫を這い回るのではなく、自然光の入る閲覧室のようなところで本を捜す作業ができるようだ。  

 設計は前川建築設計事務所ということしかわからない。このアイデアを思いついた人が、ボルヘスの作品を読んだことがあるのかどうかもわからなかった。1987年に中央図書館の基本構想が立てられた時代は、横浜もいろいろな意味で文化的に豊かだった、ということだろうか。決して広いとは言えないこの図書館はいまでも大勢の市民に日々利用されている。小さな子供から老人まで、館内でそれぞれ自分の世界に浸っている。

「光庭」

 オブジェ「光のまい」は望月菊麿作

 中央図書館のフロアプラン

 螺旋階段

 横浜市中央図書館外観

2020年11月11日水曜日

井戸対馬守覚弘

 相変わらず調べ物がつづいている。オランダ通詞の森山栄之助に関連して、井戸対馬守覚弘(さとひろ)について意外な事実を知ったので、書き留めておきたい。井戸覚弘は、私にとってはペリー来航時の応接掛の一人であり、吉田松陰や佐久間象山を収監した人だったが、彼は江戸の北町奉行になる前は、長崎奉行であり、そこでアメリカ人ラナルド・マクドナルドから森山らが英語を学ぶ機会をつくった人物なのだった。しかも、長崎奉行としての彼の前任者は高島秋帆を逮捕した伊澤政義で、鳥居耀蔵の姻戚というこの伊澤は、井戸とともに応接掛の5人のメンバーの1人となっていたのだ。なんとも込み入った狭い世界で、どういう人間関係なのか、私の頭のなかではまだ整理がつかないが、ラナルド・マクドナルドの手記を斜め読みして、井戸の人物像は朧げながらわかった気がする。  

 この手記は『マクドナルド「日本回想録」:インディアンの見た幕末の日本』という邦題で、立教大学文学部教授の富田虎男訳訂で1979年に刀水書房から邦訳出版されている。原書も村山直次郎という「近世日本対外関係史研究の草わけ」の人が編集に加わっているが、邦訳版はさらに訳者が研究を重ねて長い解説を書いたものになっていた。マクドナルドの手記そのものは、本人の生前には出版が叶わず、1923年にようやく1000部限定で出版された。私がワシントン州立図書館のサイトで見つけてダウンロードした原書には、461番と連番が振られており、訳者の富田氏が刊行から50年後にオレンゴン州アストリアの市立図書館を訪ねた際に、まだ数冊残っているからと言われて買い取ったのが、460番だったという。

 マクドナルドが捕鯨船プリマス号に乗り込んで日本への密航を企てた顛末は、地図を広げてたどりたくなる冒険物語なのだが、ここでは幕末の長崎での日々について書きたい。彼は1848年10月11日に、北前船天神丸で長崎に護送されてきて森山に会った。「彼は、私が日本で出会った人のなかで群を抜いて知能の高い人だった。[……]その眼は、魂のなかまで探り出し、あらゆる感情の動きを読みとるように思われた」と、マクドナルドは森山について書く。  

 印象的な場面は、マクドナルドが長崎奉行の井戸対馬守の前に連れだされるところだ。森山は事前にやってきて自分が通訳するからと励まし、お白州に入る前に「前戸のところにある金属板の上の像(イメージ)」を足で踏まなければならないと教える。プロテスタントの彼は、偶像など信じていないので踏み絵をためらうことはなかった。だが、お白州で粗末なゴザに座らされると、その扱いに腹を立て、奉行の井戸が入ってきて、森山が頭を下げろと何度伝えても、叩頭などするものかと顔をまっすぐ上げて井戸を直視する。その他の人びとがみな平伏し、静まり返ったなかで、マクドナルドと井戸は10秒か15秒か互いを見つめ合った。しまいに井戸は身を乗りだすようにして、太く低い声で何やら話しかけた。彼はあとから森山に「奉行様は、肝っ玉が太い奴だとおっしゃられた」と教えられる。原文ではこの場所は「you must have a big heart」となっていた。実際には井戸はなんと言ったのだろうか。その後、奉行は「どうやら森山に堅く誓わせているようだった」とも書かれていた。 

 この初対面のあとで、信仰についての尋問がつづいた。質問の一つは、天の神を信じているかで、イエスと答えると、天の神に関して何を信じているのかと森山が質問を重ねた。そこで、マクドナルドが自分の監督派教会の祈祷書の「使徒信条」を唱え始めて、「処女メアリーから生まれた神の唯一の息子ジーザス・クライスト」と言った途端、「森山は突然私の言葉をさえぎり、口早に『それで結構、もうたくさん』とささやいた。そのあと、私の答えを、少なくとも彼が必要と考えただけに限って、奉行に通訳しつづけ、私が思うに『処女メアリー』ないし『クライスト』という言葉にはまったくふれなかったようだ。その点、彼は本当に私の友だった!」と、マクドナルドは回想した。その後、奉行とその他の役人、森山のあいだで話し合いが行なわれ、最終的に住まいが用意され、問題を起こさなければ、待遇は改善されるという、井戸の言葉が伝えられる。  

 こうして、以前にも書いたような、森山をはじめとするオランダ通詞たち14人に、座敷牢のなかから英語を教える日々が始まったのだった。「奉行が約束したように、外出の自由を除き、欲しいものはなんでも、ほんとうに手に入った。彼らは私の聖書をかえしてくれさえした」と、マクドナルドは書く。日曜日の食事には豚肉とパン、バターも供され、それはマクドナルドだけでなく、監禁されていた外国人はみな同様の待遇であったと富田氏が書いている。 「なぜ国法を犯した罪人が、教師になれたのか、あるいは罪人を教師にしたのか」と、富田氏は問いかけるが、実際、目付から長崎奉行になった当時30代なかばとされる井戸覚弘と、28歳の小通詞助であった森山栄之助の2人による、この時代の日本では考えにくい、臨機応変な対応によって実現したことだったのである。それはまた、古代から大陸との行き来が盛んで、江戸時代も門戸が閉じられることのなかった長崎という土地柄ゆえでもあったかもしれない。森山らがマクドナルドから英語を学んでいなかったら、ペリー来航に始まるその後の外交交渉ははるかに困難なものになっただろう。  

 マクドナルドは長崎で7カ月間、監禁生活を送ったのち、ラゴダ号の漂流者15人を引き取りにきたアメリカの軍艦プレブル号に同乗して帰国したのだが、その際にも仲介役に立ったオランダ商館長と、井戸と森山が柔軟な対応を見せたようだ。1849年4月17日(嘉永2年3月25日)にプレブル号が長崎沖に現われた日は、ちょうど井戸と交代する新しい奉行、大屋遠江戸守明啓が着任した日だったが、お膳立ては井戸によるようだ。プレブル号艦長から書面で「自国のもの一五人なお追って一人都合一六人」と書いた漂流民引き渡しの要請をもらい、「漂流の者ども始末箇条書」を作成し、体裁も整えた形で送りだしたのである。ラゴダ号の漂流者は仲間割れして1人が縊死し、もう1人が病死していたため、帰国したのはマクドナルドを含め14人だったという。  

 井戸覚弘はその後、江戸北町奉行に栄転し、5年後にはペリーの応接掛に選ばれ、再び森山と仕事をすることになった。森山がペリーの再来航時に長崎から呼び寄せられたのは、井戸の発案だろうか。井戸の転任は、前述のように、プレブル号来航時にはすでに決まっていたので、「これらの覚弘の手腕を買われ、時の老中阿部正弘の推挙により」というウィキペディアの彼の項目の説明は、もう少し調べる必要がありそうだ。むしろ、外国人を杓子定規に取り締まるのではなく、適切に処遇し、英語を学ぶ機会までつくったことへの評価だったのではないか。井戸も森山も、相手の目をまっすぐ見つめ、お互いの信頼関係を築くことのできる人だったのではないかと思う。  

 先日書いた森山の誤訳説が生まれた背景には、森山が信教の自由を尊重したこの一件があったのだろうか。当時の日本に、忠実に通訳することを誓わせる習慣があったかどうかはわからないが、森山が処罰を受けることを覚悟のうえで自分の信念を貫き、マクドナルドを救ったことは間違いない。長崎で生まれ育ち、外国人と接してきた彼は、より広い世界があることを知っていたはずであり、日本という島国の狭量な国法を厳守すべきか、それとも良心の赴くままに行動すべきか葛藤したのだろう。  

 ペリー艦隊とともに中国語通訳として来日した宣教師ウィリアムズは、1858年に行なった講演で森山のこんな言葉を引用している。「もっと猶予をいただかねばなりません。あなた方にはすべてが明白でしょうが、われわれは暗室からまばゆい太陽のもとにでてきた人間のようなものであり、まだどの方向に物事があるのかはっきりわからないのです」(『ペリー日本遠征随行記』息子のF. W. ウィリアムズによる序文。拙訳)。圧倒的な力で迫る外国人に迎合するのではなく、当時の日本の苦しい状況を代弁しながらこうして切々と訴えた通詞がいて、対外交渉が心の通うものになったことは、日本が中国の二の舞を演じることなく済んだ大きな要因だったのではないか。

2020年10月24日土曜日

古狐か穴馬か

 先日、ペリー来航時の森山栄之助に関連して言及した平山謙二郎について、気になって調べてみたところ、意外な事実が多々発見された。彼はハリー・パークスやアーネスト・サトウが古狐と呼んでいた幕吏であり、明治維新後は神道大成教の創始者となった。ペリー来航から明治初めまで、激動の15年余りを政治の第一線で生き抜いたのに、萩原延壽でさえ『遠い崖』のなかで幾度となく彼について言及しながら、そのたびに注を入れなければならないほど、読者の記憶に残らない、その他の登場人物としてしか描いていなかった。  

 平山謙二郎(諱は敬忠、号は省斎、1815-1890年)は、陸奥国三春藩士の次男として生まれた。20歳で江戸にでて叔父の家に居候し、28歳で桑原北林と安積艮斎に漢学を学ぶ。桑原北林が没した際に、34歳でその次女を娶り、嘉永3年、36歳で小普請平山源太郎の養嗣子となり家督を継ぎ、翌4年に徒目付となった。徒目付は目付の配下にあって、60人から80人はいたと言われ、封禄は100俵5人扶持ほどだった。  

 ペリー再来航時には40歳という、決して若くはない年齢の徒目付が、どういう経緯で応接掛の一員のごとく振る舞うようになったのかは不明だ。『省斎年譜草案』によると、その前後に遠藤但馬守や本多越中守、戸川安鎮などから褒美をもらっている。「正月十三日、浦賀表え亜墨利加船渡来に付、御用を為し出立、(鵜殿民部少輔随行)」。鵜殿民部(長鋭、号は鳩翁)は目付であり、徒目付はその配下にある。林復斎ら4人が応接掛として選ばれた嘉永7年正月11日(発表は16日か)の翌日、小人目付の山本文之助と吉岡元平とともに「今十二日出立致し候旨、御達しこれ有り」と「川越藩日諜」(『大日本維新史料』第2編第1、pp. 663-667)に書かれており、当初は井戸弘道と鵜殿長鋭の二人に随行する予定だったようだ。  

 先述したように、2月初めの老中と応接掛の内密のやりとりを、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安政記事』(p. 60、1888年刊)のなかで書いているので、水戸側に鵜殿を通じて情報が漏れていた可能性もありそうだ。応接掛の第五委員に儒者の旗本である松崎満太郎(純倹)がいながら、アメリカ側の中国語通訳であるウィリアムズと羅森とのやりとりを徒目付の平山が担ったのは、漢文の筆談能力の差だったのか、オランダ語のやりとりが通詞任せなので、漢文の筆記対談も徒目付に任せたのか、あるいは諜報活動の一環だったのか、いずれにせよ、これを機に平山は頭角を表わす。  

 ちなみに、三谷博の『ペリー来航』(吉川弘文館)では、オランダ通詞の森山栄之助は町人身分と書かれていたが、森山は前年のプチャーチン来航後に小通詞から大通詞過人になっており、二本差しが許され、扶持が給される武士の身分であった。オランダ通詞は世襲であり、彼の父親も大通詞である。したがって、森山が一人でウィリアムズらと交渉をつづけるなか、沈黙を守りつづけた平山がその日の記録に、「天下の大事、象胥[通弁]一人の舌に決す。その危うきこと累卵のごとし。官吏環視してしかも一辞も容ること能わず」と書いたとき、三谷氏は象胥(しょうしょ)に「通訳の小役人」と注を入れているが、両者に大きな身分の違いはなかったと思われる。森山はこの年の10月に普請役になった(森悟「森山栄之助の研究」、『英学史研究』21号、1989)。 

 平山については、アメリカ側の中国語通訳だったウィリアムズと、広東人の羅森が多くの記録を残している。なかでも条約締結の最後の詰めをした3月1日(西暦3月29日)の午後に、羅森から借りた太平天国の乱に関する手記を返却する際に、長文の漢文書簡を手渡した一件は印象深い(羅森著、野原四郎訳、「ペリー随伴記」『外国人の見た日本 2』、pp. 65-66)。ウィリアムズも引用しているのは以下の部分だ。

 「地球全体が礼節信義をもって相交われば、陰陽の調和が行きわたり、天地の慈しみの情があらわれます。反対に、貿易の利を競って交わりをすれば、そこからいがみ合いがおこります。むしろ交わりをしないにこしたことはありません」(「全地球之中、礼譲信義以相交焉、即大和流行、天地恵然之心矣、見若夫貿易競レ利以交焉、即争狼獄訴所二由起一、寧不レ如レ無焉」。原文は『幕末外国関係文書』付録1、pp. 637-8)。

  開国することで、利潤の追求を第一とする資本主義経済に組み込まれることへの嫌悪の情と解釈できそうだ。このあと、万年にわたって太平を保つには国防力が必要だと述べ、「我が国はその点に深く省みて、近ごろ兵を訓練し武備を計っています。砲術訓練や造艦事業が日ましに発展しています」と書く。幕末に剣術や槍術の道場が盛んになったことは確かだが、ペリーの初来航後に大船建造の禁はようやく解除され、日本の砲術の祖である高島秋帆は赦免されて出獄したばかりで、平山も初来航の前年から鉄砲稽古の取り扱いを始めて褒美をもらったところだった。

 ペリー艦隊がまだ滞在中の嘉永7年4月に、目付の堀利煕が勘定吟味役の村垣範正とともに樺太・蝦夷地の視察を命じられた折には、平山も随行して松前に向かい、松前藩からの要請で、箱館に赴いたペリーとの折衝に再び当たったほか、堀と村垣のために蝦夷地上知に関する上書を起草した。ペリー帰国後は、堀のいとこで、同年1月22日に海防掛の目付に昇進した岩瀬忠震に見込まれ、従者となった。その2年後、岩瀬が下田へ出張してオランダ船将ファビウスに感化され、開国貿易の信念を固めた際にも平山は同席し、翌安政4年には水野忠徳と岩瀬とともに長崎へ行き、事実上の自由貿易の開始となった日蘭および日露追加条約を独断調印した際にも居合わせた。貿易の利をあれほど嫌悪していたはずの平山は、ものの数年で日本の誰よりも先駆けて自由貿易を推進するようになっていたのだ。安政5年に岩瀬が堀田正睦らと条約勅許を求めに上京した折も同行し、失意の岩瀬が橋下左内に会って一橋派として再出発することで意気投合した会談にも居合わせた。平山はこの年、書物奉行に昇進するが、安政の大獄で左遷され、数年間は、甲府勝手小普請組にいた。

 文久2、3年ごろには返り咲いて、慶応元年には目付に昇進し、同3年には若年寄並兼外国惣奉行となり、フランスのロッシュ公使に軍事支援を求めたり、イカロス事件に関連してイギリス側との折衝窓口となったりして、サトウには「やや低い身分の出の鋭い狡猾な顔つきの小柄な老人で、近年になって昇進していた。われわれは彼に狐とあだ名をつけており、その名のとおりの人物だった」と、評された。一橋派として活躍した人の多くは当時すでに死去するか、慶喜を見限っていたが、平山は慶喜の側近でありつづけ、鳥羽伏見の戦い後に、慶喜が海陽丸で脱出してしまったのちは、「平山老人は天保山の要塞にいたが、身を隠そうと懸命に努めていた」と、書かれた。実際には、朝鮮に使節として赴く途上に大坂に立ち寄ったところだったらしい。慶喜とともに上野の寛永寺にまで行ったが、「慶喜が謹慎を命じていた顧問の一部は、ひそかに脱出した」と、サトウが書いたメンバーのなかに、小笠原長行や小栗忠順などとともに含まれていた(原書、pp. 252、315、366、『一外交官の見た明治維新』下巻 pp. 38、124、193)。

  明治以降は、日枝神社や氷川神社の祠官として余生を送ったようだが、養子の平山成信は、「明治期の官僚で、内閣書記官長(今の官房長官)、赤十字社社長などを務め」、その傍らで幕臣の功績の顕彰に務めたと、小野寺龍太が『岩瀬忠震』(ミネルヴァ書房)に書いている。平山敬忠を共感できない主人公にして大河ドラマを制作したら、幕末史が一気に見えてきそうだが、視聴率は保証できないし、1年では終わりそうにない。

『外国人の見た日本 2:幕末・維新』
 岡本章雄編(筑摩書房、1961年)

2020年10月21日水曜日

人形の家

 9月初めに福音館から刊行されたアリソン・アトリーの『はりねずみともぐらのぼうけんりょこう』という児童書に、娘のなりさが挿絵を描かせてもらった。このたび岸野衣里子さんが描いた『クリスマスの小屋』の挿絵とともに、銀座の教文館ナルニア国で原画展が開催されることになったのだが、娘がモデルにした古い人形の家も展示したいと言われ、しばらく修理・洗濯に追われていた。娘や友達、あるいは母のピアノ教室の教え子たちが遊んだ結果、人形たちは脱毛症になり、家具は壊れ、乾電池ケースは完全に錆びつき、そのまま展示するには忍びない状態だったもので。  

 この人形の家は、会社勤めをしていたころ、毎週末に少しずつ半年かけてつくったもので、私が子供のころに読んだルーマー・ゴッデンの『人形の家』の見返しについていた挿絵をモデルにしたものだった。物語の家の電灯はつかなかったと思うが、私はどうしてもつけたくて、会社の昼休みに抜けだしてラジオ会館で、豆電球やソケット、ケース、トグルスイッチを買い、店員に配線図を描いてもらって、どうにか完成させた。いまや豆電球を買うのも一苦労で、電灯は諦めようかと思ったのだが、娘の残念そうな顔に思い直し、スタビードライバーを買って試したところ、錆びついたケースが外れたので、頑張ることに。ただ、難しい配線はやめて、単3電池1本で1.5Vの豆電球がつくセットなるものをネットで買い、四半世紀前に買ったのとほぼ同じトグルスイッチを追加で2つ買い、老眼でハンダ付けに初挑戦して、なんとか灯りがついたときは、久々に達成感があった!  

 こんな玩具で遊んで子供時代を過ごし、イギリスで過ごした3年間に田舎の光景や動物をたくさん見てきた娘が、消しゴム判子とリノリウム版画で作成した白黒の挿絵だ。これから年末にかけて、銀座までおでかけの折に、覗いていただけると嬉しい。 この本に関する娘のブログ記事はこちら。  教文館の原画展の案内はこちら

 このアトリーの仕事と並行して、娘はもう一冊、フランスのラ・マルティニエール・ジュネス社からフランスの鳥類学者フィリップ・J・デュボワ著、『Oiseaux: Des Alliés à Protéger』(鳥、守るべき仲間)の挿絵の仕事も請け負っていた。こちらは本そのものも日本から購入するのは難しそうだが、先日、ようやく届いた見本はじつにきれいな仕上がりになっていた。

 たくさん遊んでもらい、くたびれた人形たち

 この奥に錆びついた電池ケースがあった

 修理後

 久々に灯った明かり

2020年10月13日火曜日

森山栄之助の弁護を試みる

  祖先の足跡をたどって多様な文献に当たるなかで、強く印象に残った人が何人かいる。そのうちの1人が、通詞の森山栄之助だとメールでお伝えしたところ、岩下哲典先生が2005年に書かれた「日米和親条約の締結前後における領事駐在権をめぐって──オランダ通詞森山栄之助の関与とハリス駐在問題の発生と解決──」(『明海大学大学院応用言語学研究科紀要』「応用言語学研究」No.7)のコピーを、後日再びお送り下さった。この論考のなかで多く引用されていた三谷博東大名誉教授の『ペリー来航』(吉川弘文館、2003年)を図書館で借りて読んだうえで、私なりに考えたことを以下にまとめてみた。条約問題は、素人が論じるにはあまりに複雑で、拙著『埋もれた歴史』でもほとんど触れなかったので、今回、史料を再び読み直すよい機会になった。図書館では館内閲覧しかできない『大日本維新史料』が、古いものは国会図書館デジタルコレクションで公開されていることに気づいたのも収穫だった。膨大な史料のどこを読めばいいか、ピンポイントで教えてもらえることが、こうした専門家の研究のありがたさだ。

 手短に言えば、「日米和親条約」の第11条の問題で、英語の条文と日本語の条文が異なっているために、2年後にハリスが赴任した当初トラブルが生じた一件は、森山が通訳を誤ったために生じた、と三谷氏は主張しておられ、それを受けて岩下先生はその間の経緯を詳しく論じておられる。
 
第十一條 兩國政府に於て無據儀有之候時は模樣により、合衆國官吏のもの下田に差置候儀も可有之、尤約定調印より十八ヶ月後に無之候ては不及其儀候事 

 Article Ⅺ There shall be appointed by the government of the United States consuls or agents to reside in Simoda at any time after the expiration of eighteen months from the date of the signing of this treaty; provided that either of the two governments deem such arrangement necessary.  

 問題の箇所は、「両国政府に於いて據無(よんどころな)き義これ有り候時は」と、「provided that either of the two governments deem such arrangement necessary」の部分である。双方を読む限り、意味に大差はなく思えるのだが、日本語版は両国が一致して必要と認めた場合、英語はどちらか一方が必要と考えた場合、と解釈しうるのだという。当時は英語を解する日本人がほとんどいなかったため、条約文は日米双方が理解できるオランダ語と漢文をあいだに介して内容の擦り合わせがなされた。交渉のあらましは以下のようなものだった。

●嘉永7年2月10日(1854年3月8日) 第1回目交渉 
アメリカ側の要求は①漂流民の保護、②寄港地の開港、③通信・通商で、最大の目的は太平洋航路を開くために石炭補給ができる寄港地を確保することだったので、通商は無理強いしなかった。ただし、日本が外国船の打ち払いや漂流民の入国拒否をつづける「寇讎」の国(敵国)となるのであれば、20日以内に100隻の軍艦を集結して戦争におよぶことも可能だとペリーは脅した。「彼国の者どもは強硬不撓の性質にて、一度申出し候事をば、如何様繰り返し」と、ペリー来航後に応接掛は老中に報告している(『幕末外国関係文書5、244号)  

●2月19・26日(陽暦3月17・24日) 第2・3回目交渉 
日本側からは、長崎で欠乏品を代金と引き換えに供給、5年後にもう1港を開くことなどを提案したのにたいし、ペリーは日本の東南(往路)と北部(復路)で5、6カ所開港するよう要求する。前年のフィルモア大統領の書簡は日本の南部に1港開港を求めていた。結局、日本側が下田を提案し、最終的に下田と箱館の開港が決まる。 

●2月30日(陽暦3月28日) 第4回目交渉 
日本側が用意した書面は用いられず、アメリカ側が用意したオランダ語の条約案を森山栄之助にその場で訳させて協議した。同日のペリー側の記録にはこうある。(『ペリー艦隊日本遠征記』原書p. 377、邦訳書、下巻、p. 215) 
「日本国内に領事代理を居住させる提案は、明らかに委員[応接掛]たちの不安を最も掻き立てたものだった。[……]代将[ペリー]はそのような代理人は、アメリカの自国民のためであるのと同じくらい、日本人自身のためにも置かねばならないと断固として主張した。最終的にそのような官吏が下田に滞在することで譲歩され、ただし条約締結後、1年もしくは18カ月は任命しないことになった。議論された新たな点を含めてさらに2つの条項が議論され、条約案の写しに加えられ、日本人は条約に関して合意した限りのことで彼らが理解したことをオランダ語でまとめ、翌日、ポーハタン号まで届けることを約束したため、代将はその場を離れた」

 前述の応接掛から老中への報告でも、「すべて條約の文は、異人より蘭文の草稿を持参仕り、且、彼方日本通詞にて漢文を心得居候者も、応接の席に出、互いに論議致し」行なった、つまりオランダ語版をまず作成したとする。このとき老中から、「下田へ亜墨利加人差置き候と申す義、十八ヶ月後、有無の答致すべく事か、如何や」と確認されて、応接掛は「来春より下田港へ館舎を建て、吏人を置く事を乞う事度々[……]ヘルリ申し聞き候は、段々御断の趣、某は得と承伏[承服]致し候へども」としたあとで、ペリーが言ったのと同様のことを述べ、「此後再び此相談に及ぶ事も有るべし、但し、それとても十八ヶ月後の事に致すベくと申し候意を認めたる事」と答えている。

 『大日本維新史料』(第2編第5 p. 377以降)では、急にもちだされた領事駐在の件に、「政府に於いて、とても相許し申すべき義にこれ無き」と、林復斎がまず強く拒絶すると、ペリーは「左候はば、先ず其の儘に成し置かれ、もしまたお差支えの義、出来候節は、一人指し置き候ように成られしかるベく存じ候、猶又十八ヶ月の後、使節参り申すべく候間、其の節此事はご談判に及び申すべく候」と、即答は求めなかった。 

●3月1・2日(陽暦3月29・30日) 
3日の調印式を前に日米の事務方が最後の作業に追われた。ペリーの遠征記は「アメリカの通訳官らは日本人と協力しながら、条約を漢文、オランダ語、日本語でそれぞれ作成するのに追われた」と、先ほどの続きに書く。1日の午後、条文作成のために森山と徒目付で漢学者の平山謙二郎、および浦賀奉行与力2人がポーハタン号に派遣された際には森山がすべてを取り仕切っていて、平山らは黙り込んでいたとアメリカの中国語通訳ウィリアムズは『ペリー日本遠征随行記』に書く。

 だが、平山は2日の夜8時に「日本語版から作成した漢文版の条約をもってきて、若干の変更と、下田の遊歩の距離に関する重要な間違いを訂正した」(原書、pp.150-52、邦訳書、pp. 252-3)。平山は当日のメモに、「合衆国の官吏を置く、約條にいたし候、一、十八月の後、両官府の一にて余儀無き筋有らば官吏を置くべし」(同維新史料 p. 462)と書いている。ところが、先に合意を見たオランダ語版をもとに作成され、平山が確認した漢文版では条約の第11条は「倘両国政府均有不得已之事情」(もし両国の政府、均しく已むを得ざる事情あらば)と、両国の意味が強調されていた。オランダ語版そのものは現存していないようだが、和解(和訳)はあり、「両国政府之内一方より貴官を設けんと要する時至らば」、つまりeitherの意味になっていた。

 思うに、ペリーにとって領事を置くことはしごく当然の手続きであり、応接掛がこれ以上、態度を硬化させないうちに条約を締結してしまえば、あとは1年半後に領事が赴任したときに何とかなるという思いがあったのではないだろうか。交渉全体の通訳だけでなく、オランダ語版の作成にも責任を負った森山栄之助は、日米のどちらかの政府が必要と認めれば、という意味だと正確に理解していたのであり、それに関しては平山謙二郎も、たとえその成り行きが不服だったとしても、理解はしていたのだ。三谷氏の書では、森山が「領事在住問題を継続交渉に委ねようという日本全権の言葉をアメリカ側に通訳せず、逆に日本側に対してはペリーの断固たる意向を将来の予想のように訳した」と推論し、森山は日米の「両者の強い意志に挟み打ちされた時、これを糊塗する道を選んだのである。森山の始めた作為は交渉妥結まで続けられ、交渉関係者全員を加担者に巻き込んだ」(『ペリー来航』、p. 179)とまで書くが、はたしてそうだろうか。むしろ、先に合意したオランダ語の内容を書き換えて漢文版を作成・承認した平山に作為があったのではないのか。三谷氏も「これは明らかに日本側の欺瞞行為である」とするのだが、それにつづいて「日本全権はアメリカ側だけでなく、公儀の老中も欺こうとした。交渉に使ったオランダ語版ではなく、漢文版を条約の正文とし、日本語版はそれからの翻訳として報告したのである」と書く(同、p. 181)。これはウィリアムズの説明とは異なり、応接掛から老中への説明にも、私が読む限りでは「全権が条約本書と称する漢文版」(同、p. 198)に相当する部分は見つからず、老中は交渉がまずオランダ語版で作成された経緯は理解していたと思われる。

 実際には、拙著にも書いたように、ペリー来航時、林復斎ら応接掛は、交渉前の2月2日に、月番老中の松平忠優(のちに忠固と改名)から「応接の事一々旨を老中に請うなかれ。[……]後日の咎は老中、これに任せんと」送りだされており、6日に水戸の斉昭が和親交易は決して許してはならないと応接掛や老中に言い含めたにもかかわらず、この日「老中等大学[林復斎]等に諭して前納言[斉昭]の命に従わざらしむ」と、水戸藩士だった内藤耻叟が『開国起源安紀事』に書いているのだ。福井藩の中根雪江の『昨夢紀事』にもこの間の出来事に関連して随所に老中間の意見の違いがあったことが示唆されている。「一説、林・井戸二氏、下田の事を申出せしは、両氏杜撰の意見にはあらで、内実は閣老衆の両人へ被命し時、為ん方なくは下田位はと何となく申されたる事あれば」(第1巻、p.165)。この箇所を引用した『水戸藩史料』は、「此の時月番の閣老は松平伊賀守忠優なり。其の人の阿部正弘と一致せざりしは前後の事情に明なり」と注を入れている(上巻乾、p. 286)。下田・箱館の開港が決まった2月26日は、老中首座の阿部正弘がひそかに辞表を書いた日だが、交渉が自分の手に負えなくなったことを苦にしたのかもしれない。平山謙二郎(省斎)はのちに一橋派として岩瀬忠震や橋本左内らとともに忠固に敵対した人物だ。 

 『水戸藩史料』には下田に関連した松平忠優のかなり驚くべき発言も残されている。これは水戸の斉昭から息子の川越藩主松平直宛の私信と思われるものに書かれた内容であり(上巻乾、p.632-636)、私は忠優の真意を測りかねて拙著では引用しなかったのだが、関良基氏の『日本を開国させた男、松平忠固』(作品社)で詳しく取り上げられている(pp. 62-64)ので、ぜひお読みいただきたい。「殊に松平忠優の如きは戦を忌むこと尤も甚だしく区々たる下田一港の如きはしばらく委棄するも可なりと発言」と、水戸の史料はこの一件を解説する。このあと、忠優は老中を解任された。

 四カ国語で作成された条約の各版間に齟齬あることは、翌年初めに下田にアダムズ艦長が再来した際に、箕作阮甫と宇田川興齋が確認作業を命じられ、第11条を含め、数カ条に問題を見つけたようだ(『水戸藩史料』上巻乾、pp. 519-527)。この年の正月に書かれた阿部正弘から水戸の斉昭宛の書簡は長文で私には充分に理解できないが、ロシアとの条約調印を担当していた筒井政憲と川路聖謨がアメリカとの条約で「漢文には倘両国政府均不得已之事情云々と御座候て、両国均と申す三字、後日此方より彼是と口出し相成り候」、あるいは「墨夷條約蘭文和解の方は漢文の両国均と申す字に符合仕らず[……]彼よりは是を差出し、此方よりは漢文を持出し終に所謂水掛にて論定仕りまじきか」などと書かれている(同、pp. 533-537)。条約に問題があったことは当事者のあいだでは周知の事実だったが、事前に誰かが再度交渉に現われるはずで、そのとき再度談判できると思い込んでいたのではなかろうか。

 1856年にハリスが突然来日した際に、幕府は確かに慌てふためいた。ハリスのオランダ語通訳ヒュースケンの日記の英訳版(原文はフランス語)には、8月21日の条(27日の読み違いか)に、日本側はアメリカの領事をこの地に置く必要性を感じておらず、その理由は条約で在日本領事が任命されるのは、「either [sic] of the two governments deemed it necessary」と書かれているからだと彼は記していた。その箇所に英訳者・編者が、「ヒュースケンはここで誤解していた。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合に(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と、注を入れている(pp. 85, 235)。英語のeitherは、ヒュースケンが気づかなかったように、「どちらか」ではなく、「どちらでも」と解釈できる言葉なのだ。オックスフォード英語辞典の定義を借りれば、「one or the other of the two people or things」という意味だ。その点で言えば、日本語の「両国政府に於いて」も解釈の余地がある言葉だ。

 ハリスの日記では8月27日の条に、上級の通訳(つまり森山)が前日にやってきて、「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなってはいない。[……]条約では領事は両国が派遣を望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた」と書かれている。この箇所の脚注では英語版の第11条が引用され、「日本語版はあいにく、両国政府が領事を任命する必要があると見なした場合にとしていた」とする(原書、pp. 208-209、邦訳書、中巻、p. 26)。安政の大地震から10カ月後でまだ復興していない日本に来日したハリスは、当初、困惑した幕吏に迎えられたが、29日には下田の柿崎の玉泉寺に入った。

 岩下先生は「後で一部の人々が、齟齬に気が付きながら、目をつぶった」食い違いを、再び現場に立たされた森山が臨機応変に対処したとする(p. 85)。諸々の背景を考えれば、私には応接掛が勝手に交渉を進めたわけでもなければ、森山栄之助が条約締結時に通訳を間違えたわけでもないと思われる。ハリスが突然やってきた当初、老中首座を退いたものの、なんとか開国を取りやめにしたい阿部正弘のもとで、森山はウィリアムズが署名している漢文版条約を盾に、領事駐在は両国が「均しく」已むをえない事情になれば、という意味なのだと主張するよう言い含められて、交渉に当たったと解釈することは可能であり、その方がより自然ではないだろうか。外国事務はその10月から老中首座の堀田正睦の担当となり、ハリスにとってはよい結果になった。

 蛇足ながら、ペリー再来の際に松代藩の軍議として横浜警備に就いた佐久間象山の「横浜陣中日記」の2月13日の条にある「例の謀る事」が、歴史学者の松浦玲の推測どおり、「横浜を以てこれに仮すの愈(まさ)れり」と『省諐録』にある下田開港阻止運動のことだとすれば、応接掛が19日に下田を提案する前の情報入手ということになる。象山が同月21日に出府して下田開港に反対し、「已むことなくば寧ろ横浜を開くに如かず」と建言したことは『水戸藩史料』(上巻乾、pp. 294-296)からもわかる。これは交渉の成り行きを見越して幕府内で事前に下田で根回しが進んでいた証拠であり、またこの時点ですでに横浜を代案として主張していた象山の慧眼には、驚かされるばかりだ。
 

森山栄之助(多吉郎と改名)の墓所は長崎の本蓮寺だけでなく、巣鴨の本妙寺にもあること岩下先生から教えていただき、先日、訪ねてみた。「日本最初の通詞」という案内標識は誤解の多い表現だが、この寺は参拝者の便宜を図ってくれており、ほかにも遠山の金さんや、剣術家の千葉周作など著名人が埋葬されていた。

2020年10月11日日曜日

追補その6:谷中墓地と本郷弓町

 1年以上前から、確かめに行かねばと思いながら、本業があまりにも忙しくでかけられずにいた。ようやく仕事も一段落したので、多少小雨もぱらついていたが、昨日は思い切って都内の各地を歩き回ってきた。

 優先順位の高い場所の1つは谷中墓地だった。ネット上に墓マイラーの方々があれこれ有益な情報を載せてくださっているので、松平忠固の娘で、須坂藩主の堀直虎に嫁ぎ、夫の死後、実業家で、のちに政治家にも転身した中澤彦吉と再婚した俊(しゅん)姫の墓があり、墓碑にいろいろ刻まれていることは知っていた。墓碑銘が松平俊子となっていることがずっと気になっていたと、以前にご子孫の方が話しておられたので、いつか訪ねようと思っていた場所だ。

 墓所には夫婦それぞれの巨大な墓碑が並び、その一方に松平俊子と大書されていた。側面にはおそらくこう彫られている。「諱俊子松平氏考曰忠固三女妣井上氏/弘化四年十一月十六日生明治七年七月/嫁中澤彦吉産男二女一明治十六年四月/二十七日罹病而歿享年三十有七歳葬于/東京谷中公塋内」。俊子は1864年に16歳で須坂藩に嫁ぎ、1868年に最初の夫と死別後、1874年に26歳で再婚し、実際には35歳で幼い子供3人を残して亡くなったようだ。時代に翻弄された俊姫が短い人生の終わりに、自分は松平の人間なのだと夫婦別姓を主張し、それを夫が受け入れたのだろうか。

 私がこの墓碑で知りたかったのは、最初の1文だ。忠固は正室を早くに亡くし、子供はいずれも側室の子なのだが、上田に残る史料には食い違いがあった。いろいろ照らし合わせた結果、娘2人と最後の藩主の忠礼と末弟の忠孝の母としは、忠固が大坂城代だった時期に、「呉服問屋大丸の裁縫を引受くる職人の娘なりという」という説に分があると私は判断していた。もう一方の説は、上田藩士の井上氏の娘というものなのだが、家臣には井上家は一軒しかなく、その家の息子と思われる人物が「般若面」の「アバレ野郎」だと書かれていたからだ。俊子の写真は少なくとも3枚は残っており、忠礼とよく似た細面の美人であり、母としと思われる女性もほっそりしたきれいな人だった。ところが、この墓石に「井上氏」とあるのだ。「井上説」の根拠となっていた松野喜太郎氏の一連の記事は昭和初めのもので、おそらくこの墓標を確認して書かれたのだろう。ただしよく読むと、「松平氏考曰」となっており、「妣」に見える字が確かにそうであれば、母としもこの時分には故人となり、妻に先立たれた中澤彦吉氏は、「松平氏考」に頼らざるをえなかったのかもしれない。
 










 中澤彦吉夫妻の墓、谷中墓地(甲3号7側)

 墓地のこの区画には、もう一基「及川松野之墓」と書かれた墓碑があった。側面の碑文は薄れかけていてよく読めないが、「故上田藩士笈川玖太女」であることや、「姆」の字が読め、俊子の死後、「婦人悲傷[……]遂得病明治十七年四月十三日歿年六十有七」と書かれているので、俊子の乳母ではないかと思う。上田藩士には笈川久太という名前が見つかるが、その娘だとすると年齢が合わない。その妻だろうか。俊姫が大坂で生まれたときから側で仕え、おそらくは須坂藩にもついてゆき、最愛の姫の急死後は生きる気力を失ったに違いない。内田九一撮影の一家の写真の右端で床に正座している人だろうか。中澤氏のほうは、衆議院議員31年、並行して京橋区会議長40年、銀行重役などを務め、明治の大立者の1人として1912年まで長生きしたようだ。













 及川松野の墓  


 谷中に行く前に、本郷の弓町にも寄ってきた。岩下哲典先生の「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」(『金鯱叢書』第21輯)から、ここにあった上田藩の中屋敷がもともと唐津藩の中屋敷だったことを知ったおかげで、ネット情報から正確な場所が簡単にわかったからだ。この跡地には、1886年から日本基督教団の弓町本郷教会があり、現在の建物は1920年代のものとのこと。創設者の海老名弾正は横井小楠の娘と結婚した熊本バンドの一員だった。上田藩にもキリスト関係者が多いので、何らかの関係があるかもしれない。唐津藩時代は春日通りにいたるまでの広い敷地だったが、上田の最後の藩主忠礼時代の中屋敷は、現在の教会とほぼ同面積だったと思われる。忠固が失脚して西の丸下の役宅を追われた上田藩に瓦町藩邸しかなくなって、さすがに気の毒だと思われたのだろうか。この土地は長らく唐津藩のものだったらしく、前の細道は「壱岐殿坂」と呼ばれていた。教会の斜向かいには、そうした歴史の一部始終を見ていたような文京区一というクスの古木が、いまなお若い枝をあちこちから伸ばして立っていた。









 弓町本郷教会









 地上1.5mの幹廻りが8.5というクスノキ

2020年10月9日金曜日

追補その5:白旗問題

 先述の本野敦彦さんの「松平忠固史」のサイトのヘッダーにはもう1つ驚かされたことがあった。『ペリー艦隊日本遠征記』の挿絵に使われたヴィルヘルム・ハイネの石版画「ルビコン河を渡る」にも、白旗が描かれていたのだ。画面上で拡大されるまで白旗の存在には気づかなかった。私が拙著『埋もれた歴史』に掲載した「江戸湾、浦賀の光景」とともに、アメリカ側が白旗を平和目的の意味で使っていたことは、これらの絵を見れば一目瞭然ではないだろうか。

 「白旗問題」と称される一連の論争に私が関心をもったのは、この問題がつねにペリー来航時の幕府の弱腰を批判される文脈で使われてきたからだ。ペリーの砲艦外交を象徴的に語るエピソードとして、日本側に開国と通商を迫り、いざ戦争になって降伏した場合に掲げる白旗まで2本渡したとする説で、それを記した「白旗書簡」が偽書かどうかをめぐって歴史家のあいだでつづいている論争のことだ。私が調査の初めに読んだ佐久間象山の評伝を書いた作家の松本健一が何度も言及していたので、のちにどういう意味だったのかと疑問に思い、ペリー関連の書物をあれこれ読んでみた。そうした経緯を拙著『埋もれた歴史』で簡単に触れたため、岩下哲典先生からご著書『江戸の海外情報ネットワーク』(吉川弘文館)のなかで論じられていることを教えていただいた。

 簡単に説明できる内容ではないため、詳しくは同書をお読みいただきたいが、かいつまんで説明すると、ペリーの来航は前年からオランダ商館長による「和蘭別段風説書」で幕府上層部は知らされており、浦賀奉行所でも「奉行だけは老中から情報をリークされて知っていた。しかし、与力、同心たちには正式に話していなかったのである。それ故に中島[三郎助]は必死になってうわさのアメリカ船なのかどうか確かめた」(p. 122)のだという。

『ペリー艦隊日本遠征記』では、1853年7月8日に通詞の堀辰之助が「I can speak Dutch」と言ったあと、「彼の英語は最初の一文で尽きてしまったようなので」、オランダ語通訳のポートマンとオランダ語で会話が始まり、まずアメリカ船かと質問されたことなどが書かれている。ペリー艦隊に同行した中国語通訳のウィリアムズの随行記では、翌朝7時に香山栄左衛門がやってきた折に、乗船する前から次のようなやりとりがあったと書いている。「『アメリカ人ですか?』──『ええ、いかにもそのとおりです』と、その質問への多少の驚きをにおわせる口調で私が答えたところ、一斉に笑いが起きた」

 「ペリー側がなんども〈通達済み〉を主張したため、次第に香山はアメリカと幕府上層部が通じているのではないかと疑いを持つようになったという」(同)と岩下先生は書く。確かに、香山栄左衛門は後日、老中宛に提出した長文の上申書のなかで、ペリー側が「此度浦賀表に渡来致すべく義は、書面を以て昨年中、政府に通達及び置き候事にて」(『幕末外交関係文書』 第1巻〔15〕)、浦賀奉行所から長崎へ回れと言われてもそれはできないと主張したと書いている。しかし、アメリカ側の資料には、アメリカ人かどうか確かめた前述のやりとりしかなく、来航する旨を事前に日本側に通達したなどとはどこにも書かれていない。拙著でも指摘したように、当時の状況を考えれば、オランダがペリーの便宜を図るような紹介を日本側にするはずもないので、これは香山の誤解だろう。

 浦賀奉行所では白旗の意味はすでに弘化年代に知られていたことも同書で知った。「夷狄に白旗の使い方を教えられるとは……。しかし、日本側の火器が到底アメリカの敵ではないことを知っていた香山は、耐えるしかなかったのである」(p. 143)と当時の心情が分析されている。「白旗書簡」に関連した「与力聞書」の成立の過程まで探った岩下先生のご著書から、フェイクニュースが広まった舞台裏がよくわかった。



「ルビコン河を渡る」の絵は、神奈川県立歴史博物館の「ペリーの顔・貌・カオ──「黒船」の死者の虚像と実像」展(2012年)の図録ではなぜか、こう書かれていた。「『遠征記』によれば、実際はこのような状況はなく、蒸気軍艦の威力を背景に小艇を進めている[……]勇敢なベント大尉をイメージさせる虚構であるといえよう」。記録を読む限りまさにこういう状況であり、ハイネの描写は正確だと思われる。

2020年10月7日水曜日

追補その4:「幕府陸軍」の指揮官は松平定敬か

 調査を始めた当初は、一次資料どころか、昭和初期の資料の古めかしい文体を読むのにすら苦労したので、古写真や横浜絵を調べることに多くの時間を費やした。早い段階で私が見つけた写真の1枚が、幕府陸軍の写真を言われてきた和洋折衷のこの一団の写真だ。『甦る幕末:ライデン大学写真コレクションより』(朝日新聞社)に掲載されているので、おそらく現物はライデン・コレクションにあるのだと思う。

 中央に立つ洋装の指揮官が、どことなく上田藩の最後の藩主松平忠礼に似ているため、長らく頭の片隅に残っていた写真だった。忠礼は拙著の表紙に使わせていただいた写真で黒馬にまたがっている若者である。その後、『幕末維新秘録』という昭和40年ごろに出版された写真集(私が購入した古本は横浜新聞社刊)に、この同じ指揮官の騎乗姿と思われる写真を見つけた。ところがキャプションには「伏見稲荷山へ巡視の将軍慶喜」とあった。確かに双方の写真の背景には伏見稲荷のように鳥居が連なっているのだが、白黒の古写真から素人が判断する限りでは、鳥居は朱色ではなさそうだ。徳川慶喜はナポレオン3世から贈られたアラブ馬に、ナポレオン・ハットをかぶってまたがる写真が残っているが、この古い写真集の騎乗者は慶喜より明らかに細めで、黒っぽいスタンドカラーに燕尾付きの軍服のウエストに太いベルトを締めているところは、幕府陸軍写真の指揮官とそっくりだ。

 この2枚の写真に写る若者は誰なのか。馬は鹿毛か栗毛に見え、たてがみや尾の様子からも、忠礼が乗る飛雲という黒馬とは違って見える。たまたまこの2枚目の写真を見つけたころ、先述の『写真集 尾張徳川家の幕末維新』を図書館から借りて見ていたので、はたと思い当たったのが、高須4兄弟の末弟、桑名藩の松平定敬だった。この4兄弟はいずれもかなり面長だが、定敬はなかでも面長で細身であり、戊辰戦争時にはしばらく抵抗をつづけ、別の洋装姿の写真が残っている。定敬は明治に入ってから、養嗣子の定教と家臣の駒井重格とともに横浜のS・R・ブラウンの塾に通った。彼自身は日本に残ったが、定教と駒井がアメリカのラトガーズに留学したため、やはりラトガーズへ留学した上田の松平忠礼・忠厚兄弟と、多くの文献で混同されていた。名前も似ていれば、姿形も、境遇も似ているとあれば、間違われるのは無理もない。

 そんな経緯はあらかた拙著のなかに書いたのだが、入稿後に別件で検索をかけていた際に、Afloという写真素材を提供する会社のサイトで新たな情報を見つけてしまったのだ。サムネイルが小さく、報道関係者でないと登録して拡大画像を見られない規定になっていたが、無理をお願いしてウォーターマーク付きながら大きな画像を見せていただいたところ、幕府陸軍の指揮官と「伏見稲荷」の騎乗者と、同じ人物であることは間違いなかった。この写真は幕府陸軍の写真とほぼ同じ位置から撮られており、指揮官の後ろ姿が見えたために、ベルトが上着の後ろまでぐるりと回っていることもわかった。こちらの写真のキャプションは、一緒に並ぶ上田の松平兄弟の留学直前に撮影された写真と混同されたようで、「松平忠礼と鼓笛隊」(RM33318529)となっていた。

 上田の人にとっては、これはやや残念な結果となったが、桑名の関係者にとっては画期的な発見ではないだろうか。この3枚はいずれも、最後の京都所司代となった松平定敬の鳥羽伏見の戦いの前後の写真である可能性が高いと推測している。
写真:(上)Wikipedia 「幕府陸軍」より 
   (下)『幕末維新秘録』より

2020年10月5日月曜日

追補その3:ペリー来航時の鉄道模型

  拙著では佐久間象山と松平忠固に多くのページを割いたため、必然的にペリー来航について調べることになった。ペリーに関しては整理する必要のある重要なことがいくつかあるが、そのうちの簡単なものから、とりあえず書いておきたい。 『ペリー提督日本遠征記』には驚くようなことがたくさん書かれており、ペリー一行が土産にもってきた鉄道模型に関しては、「小さなもので六歳児がようやく乗れるほどだった。それでも日本人たちは、乗車はできないなどと言いくるめられることなく、かと言って客車内に入れるほど身体は縮められなかったので、屋根へと向かった。もったいぶった役人が丸い軌道上を時速三二キロで、緩く羽織った衣服を風になびかせながらぐるぐる回る様子は、少なからず滑稽な見世物だった」と、ユーモアたっぷりに記されていた。あいにく同書の挿絵「横浜蒸気車の図」には試乗する侍の姿がなかったので、私はこの件は確認できないままとなった。

 ところが、松平忠固のドラマ脚本をお書きになり、私も講演会でお会いしたことのある本野敦彦さんが運営しておられる「松平忠固史」というサイトを拝見して、それこそ目が点になった。模型機関車の屋根に乗る侍の姿が描かれた絵がヘッダーになっていたのだ。出典が書かれていなかったので、画像検索をしてみたところ、アメリカのブラウン大学が12枚の絵からなる作者不明の「ペリー巻物」の1枚としてこの絵を公開していることがわかった。巻物自体は、1965年にアン・S・K・ブラウンという歴史学者がロサンゼルスの古本屋から購入したという。同大学の研究者が、この巻物の絵の元となった墨絵も発見して対比させていたので、それを手がかり少々調べてみた。 

 このとき汽車の屋根に乗る大冒険をした人は、斎藤一斎の娘婿で、ペリーとの交渉に立った林復斎のところで塾頭をしていた河田八之助(迪斎、てきさい)であり、日米和親条約の条約文の起草にも携わった人だった。河田はこのときの様子を「火発して機活き、筒、煙を噴き、輪、皆転じ、迅速飛ぶが如く、旋転数匝極めて快し」などと日記に残しており、日本財団図書館のサイトにその経緯がよくまとめられていた。

 墨絵(ペン画に見える)を描いたのは、榊令輔(綽、ゆたか)という蘭学者であったことがわかり、「代戯館(沼津兵学校付属小学校生徒)」(http://daigikan.daa.jp/seito.html)によれば、杉田玄端・杉田成卿の弟子だったという。福岡藩士の家に生まれたが浪人となり、のちに津藩に召し抱えられ、安政年間に『火技全書図』というセッセレル(Sesseler)の蘭書を訳したほか、『魯西亜字筌』というロシア語入門書も書いている。榊令輔のこの絵は、大宮の鉄道博物館にパネル展示されていたことが、ブラウン大学の研究者の報告からわかったが、原画を同館を所蔵するのか、もしくはどこか別にあるのかは判明しなかった。『沼津兵学校と其人材』にある「杉田玄端略歴」も図書館で読んでみたが、多くは書かれていなかった。

  河田八之助は、鉄道ファンのあいだでは、初めて汽車に「乗った」日本人としてよく知られる存在らしい。しかし、彼が条約文の起草にもかかわったのであれば、そこで彼がはたした役割のほうももっと注目されてよさそうだ。















 画像はブラウン大学のサイトからのスクリーンキャプチャ。

2020年10月2日金曜日

追補その2:徳川慶勝の古写真と上田藩瓦町藩邸

 拙著『埋もれた歴史』の調査に当たっては多くの方々にご協力をいただいた。調査を始めてまもない時期に国会図書館のデジタルコレクションに「門倉伝二郎」宛の杉田玄端の書簡を見つけたのに、何年間もその「乱筆」のくずし字が読めずにいたところ、関良基先生が見かねてお知り合いの研究者に頼んで、重要な部分を解読してくださったことがあった。のちにその研究者が、幕末維新史を専門とされる岩下哲典先生であったことを教えていただいた。本が出来上がってから、関先生にお願いして岩下先生にお礼代わりに献本させていただいたところ、逆に多数のご著書や論文のコピーを頂戴したうえに、いくつもの資料をご教示くださった。まだそのごく一部しか目を通せていないが、たいへん重要なものが多いので、拙著と関連するものを中心に追補として、このブログに書いていきたい。 

 なかでも驚いたのは、拙著で長々と取りあげた『写真集 尾張徳川家の幕末維新──徳川林政史研究所所蔵写真』(吉川弘文館)のなかの慶勝写真資料を整理なさったのが、大学院時代の岩下先生ご自身だったということだ。教えていただいた『金鯱叢書』第21輯(1994年)は図書館で借りられたので、「研究ノート 尾張徳川家の江戸屋敷・東京邸とその写真」という先生の論考を読むことができた。

  上田藩の上屋敷だった浅草の瓦町藩邸が、明治になって尾張の徳川慶勝の手に渡り、写真愛好家だった慶勝が瓦町藩邸の写真を何枚も残していたために、私はこの写真集に大いに興味をそそられたのだった。藩邸に関して、私は上田藩の記録しかたどらなかったが、先生の論考から、慶応4年8月の段階で江戸の「郭内・外を決定し、郭内の旗本屋敷はすべて上地、大名屋敷は郭内一カ所、郭外は拾万石以上は二カ所、以下は一カ所」と定められたことなどがわかった。江戸の古地図と明治初期の地図を見比べながら、明治維新は革命だとつくづく思ったが、その発端はこの年の8月にすでに始まっていたのだ。  

 上田藩は「なぜ上屋敷をわざわざ江戸城から遠い浅草瓦町にしたのか」と、岩下先生が問うたとおり、この藩邸はJR浅草橋駅に近い場所にある。ここはもともと中屋敷で、上屋敷は中山道の終点のような筋違橋内にあり、藩主の松平忠固が老中であった時期は西ノ丸下の役宅が上屋敷になっていた。先生の論考では、唐津藩から引き継いだ本郷弓町の中屋敷が5083坪の屋敷だったはずだと指摘されていたが、最後の藩主忠礼の時代にもっていた弓町の屋敷は、万延2年の尾張屋板切り絵図では、神田上水懸樋近くの小ぶりな屋敷に見える。

 「おそらくそこには、傷心の忠優(忠固)を慰めるに足りる歴代の居住者が営んだ汐入りの庭園があったと考えられる」という論考のなかの一文を読んだときには、思わず声を上げた。徳川慶勝の写真を整理された研究者も、瓦町藩邸の庭園を上田藩時代からのものと考えておられたのだ! 植木の茂り具合から、これは慶勝が新たに造園したものではないと私も考えていた。私の高祖父はこの藩邸にいたので、その光景を見ていたはずなのだ。江戸城からは遠いが、ここは中山道には近く、隅田川の感潮区間に位置するということは、川を容易にさかのぼれる場所ということだ。瓦町藩邸には上田の生糸商人も出入りし、長屋を貸し渡されていたので、忠固にしてみれば、江戸の中心街を通らずに横浜と船で行き来できる最高の立地だったのかもしれない。

上田藩瓦町藩邸があった付近の隅田川(2019年3月撮影)

付近にあった喫茶店の2階から眺める。すぐそばの鉄橋は私が通学・通勤に長年使った総武線隅田川橋梁

対岸から(2020年10月撮影)

2020年9月19日土曜日

追補その1:勝海舟と堀直虎

 どんな本でも、間違いの1つや2つはかならず見つかるものだが、先日、発売された拙著『埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』は、本来ならば歴史学者に監修を頼みたいほどの内容なのに、校正をお願いする費用すら捻出できなかったため、入稿後に間違いがいくつも見つかった。いずれ正誤表でもだしたいところだが、 取り急ぎ恥ずかしい漢字の間違いを訂正させていただきたい。勝海舟の伯父の名前は正しくは男谷彦四郎(拙著p. 123は彦太郎になっている)であり、田原藩の砲術家は村上範致(同p. 166は範到になっている)だった。

 勝海舟の伯父さんなど、私の興味の対象でなかったのが大きな原因だが、つい最近読んだ『将軍慶喜を叱った男 堀直虎』(江宮隆之著、祥伝社)から、この人の婿養子である男谷信友が、幕末の三大道場を開いていた斎藤弥九郎、桃井春蔵、千葉周作のさらに上をゆく人物で、竹刀試合を奨励した直心影流を名乗る「剣聖」であったことを知り、調べ直して誤記を発見したのだ。信州の須坂藩主となる堀直虎は、この信友の道場に通ったという。信友は生まれが1798年なので、1823年生まれの勝海舟とは世代がずれているが、系図上では従兄弟、血縁でも又従兄弟の間柄らしい。

  勝海舟は墨田区の木母寺で剣の修行に励んだという記述をどこかで読んだ記憶がある程度で、あまり剣士のイメージはなかったが、信友の弟子のもとで学んだようだ。こうした道場は私塾と同様、藩などの垣根を超えて若者を結びつけていたので、勝の幅広い人脈には剣術の世界も一役買ったかもしれないとふと思った。調査の過程で陰惨なテロ事件について知ったのち、何が人をテロに駆り立てるのかに興味をもち、水戸や薩摩だけでなく、浪士関連の書物をいくつか読んだ。千葉周作に学び、清川八郎の虎尾の会にもいた山岡鉄舟と、やはりその会のメンバーでヒュースケン暗殺犯の一人である薩摩の益満休之助を勝が再会させ、それが江戸城無血開城を実現させたといくつかの本に書かれていた。実際に勝がそうした離れ業をやってのけたのだとしたら、剣術の世界での彼の地位のようなものが役立ったのかもしれない。勝の妹で、佐久間象山の妻だった順子が、象山が暗殺されたのちに、虎尾の会メンバーだった村上俊五郎と再婚というかなり不可解な行動を取ったことも、こういう背景を考えればわからなくもない。もっとも、剣の達人で知られた山岡鉄舟は、一度も人を斬ったことはなかったと言われる。彼の知行地であった埼玉県小川町には、小川和紙を売っているその名も門倉商店という店があり、そこを訪ねがてら鉄舟が好んだという「忠七めし」を姪たちと食べたことがある。

  堀直虎のこの小説には、直虎の親友だった土佐新田藩の山内豊福についても詳しく書かれていた。幕府と本藩の板挟みとなって豊福と妻が自害し、あとに娘二人が残されたことは知っていたが、この本を読んでその経緯がよくわかった。堀直虎も「慶喜を叱った」あと、江戸城内で自害した人であり、その妻は上田の松平忠固の娘の俊子だった。後年、俊子の弟の忠礼がアメリカから帰国後に先妻と別れて、再婚した相手が、山内豊福の遺児の豊子だった。山内家と縁組した理由がようやく理解できた気がする。ただし直虎に関しては、以前に『維新の信州人』で読んだ青木孝寿氏の短い論考のほうが、小説仕立てでない分、私には参考になった。どちらにも、須坂藩の丸山という家老が登場し、佐久間象山に馬を手配した人が確か「須坂の丸山という人」だったなあ、などと思いだす。

『庶民のアルバム 明治・大正・昭和「わが家のこの一枚」総集編』に掲載されていた山内豊子

2020年9月14日月曜日

埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って

 ある日、グーグル検索で見つけた一文の謎を解こうと、元来飽きっぽい性質の私が足掛け6年間、調べ、書き、やっとの思いで本の形にしたものを、このたび『埋もれた歴史:幕末横浜で西洋馬術を学んだ上田藩士を追って』(パレードブックス)として、わずかばかりの部数ながら自費出版した。
  
 その一文は、幕末に信州上田を訪れたウィリアム・ウィリス医師が、偶然そこで出会った高祖父の名前を書き留めておいてくれたもので、これを手がかりに元禄時代まで祖先をたどり、幕末に生きた高祖父に関しては写真まで探り当てた。上田藩の馬役だった高祖父は、佐久間象山のもとで学び、幕末の転換期に老中を務めた上田藩主松平忠固に仕え、イギリス公使館付騎馬護衛隊長アプリン大尉のもとに通って西洋馬術を学んでいた。

  筆文字の古文書から当時の新聞記事や日記まで、国内外の多数の文献や古写真に当たり、足で歩いて現場を確かめた結果、歴史の定説がいかに間違っていたかがわかり、増えつづける疑問が原動力となった。一次史料を多く用いた考察で、すらすら読める内容ではないが、専門の研究者だけでなく、歴史散歩の愛好者や、祖先探し、古写真、馬・馬術に関心のある方にも読んでいただきたい。

 経費を切り詰めるため、インデザインを独学し、自前の校正による完全データ入稿という形をとったため、完璧とは程遠い仕上がりとなった。カバーには、江戸時代に上田藩の財源となっていた伝統的な上田縞紬の画像と、最後の藩主松平忠礼と筆者の高祖父の写真を使わせていただいた。カバーデザインは、娘で絵本作家の東郷なりさが、本書が少しでも「埋もれないように」、題字のなかに高祖父が打っていたはずの蹄鉄と、馬の尾、および上田の生糸を入れてくれた。(娘のブログ記事はこちら。)江戸時代まで日本の馬はわらじを履いていたので、西洋馬術を始めるには蹄鉄を打つ必要があった。

 歴史家は通常、過去のおもだった事件をつなぎ合わせるため、歴史全般を勝者の視点から語りがちになる。さもなければ敗者を悲劇の英雄として、人の琴線に訴えるドラマを描く歴史小説的なアプローチとなる。翻訳の仕事を通じて考古学や人類学、生物学、地理学、経済学など、歴史以外の分野に触れることが多い私からすれば、勝者であれ敗者であれ、歴史は少数の人間だけが動かしたものではない。歴史とは、偉人や英雄だけが活躍した物語ではなく、自分たちの無名の祖先たちもその時代を生きて、何かしらは考え、そこに関係していたはずのものなのだ。祖先や郷土史を調べ、忘れられた大勢の人びとについて調べることが、ひいては国の歴史だけでなく、世界の歴史も知ることにつながるはずだということを本書は微力ながら提言する。

  祖先探しをしたい一般の読者には、研究機関に所属しない一般人であっても、現在はインターネットや図書館などを通じて多くの史料が公開されていて、素人でも博物館や資料館の所蔵品の閲覧は可能であることを示し、どうやって調査を進めたかを伝えたい。

2020年9月13日日曜日

地球を支配する水の力

 8月下旬には、セアラ・ドライ著、『地球を支配する水の力:気象予測の謎に挑んだ科学者たち』(河出書房新社、原題はWaters of the World)が刊行された。コロナ禍のストレスの多い日々のなかで、締め切りと闘いながら仕上げた。

 水がテーマの本だが、これまで私が訳したフェイガンの『水と人類の1万年史』やC. バーネットの『雨の自然誌』(いずれも河出書房新社)よりは、水蒸気や海流としての水であり、気候科学の歴史に近い本だ。ただし、著者は科学者でもジャーナリストでもなく、科学史を専門とする歴史学者であり、19世紀から20世紀にかけての主として6人の科学者の伝記に近い形で構成されている。気象学と海洋学に関するものが多く、もちろん数式はでてこないが、物理にめっぽう弱い私は、太陽スペクトルだの、積乱雲、海洋渦のエネルギーに関する部分はかなり苦労した。

  カート・ヴォネガットの『猫のゆりかご』の背景にあった雲への種まき実験については、以前に訳したことがあったが、広島と長崎への原爆投下のあと、人間が自然に甚大な影響を与えうることが明らかになり、こうした大気圏実験が不可能になり、それがコンピューターによる模擬実験に取って代わった経緯を本書で知ると、今年になって大きく取り上げられている「黒い雨」の問題との関連を思わずにはいられない。ただし、1963年に部分的核実験禁止条約が締結されるまでに、合計で500回もの大気圏実験が行なわれたのちのことであるのを、現在取り組んでいる仕事から知った。

  個々の科学者たちの苦労話や功績はそれぞれ感動を呼ぶものだが、気候科学の直面する難題はあまりにも大きく、多分野にまたがる巨大な国際組織となったIPCCのなかで、一人ひとりの科学者の存在は埋もれつつあるという時代の変遷を知ったことが、個人的には本書からいちばん学んだことだった。科学とは何か、科学には答えがだせるのか、といった究極的な問いかけが心に残る。

  原書はご覧のとおり、ギリシャ神話の世界を思わせる素敵なイラストだったが、邦訳書はちょっと既視感のあるブルー・マーブルだ。でも、私たちが球体としての地球を意識するようになったのは、アポロが月に行って以来のことであり、本書ではグローバルという、いまではありふれた言葉になった英単語の意味をもう一度考えてもらうために、敢えて「全球的」という重たい訳語を使ってみたりもした。

  たとえ一時的に豪雨や酷暑に見舞われても、しばらくすると快適な日々が戻ってくる日本では、どうも一般人は気候問題を突き詰めて考えたりしないようだが、科学者たちが何を考え、どうやって地球温暖化の事実を突き止めたのか、本書を読んで考えてくれる方が増えたらと願う。この問題の入門書というよりは、多少は気候科学について読んだことのある方向けかもしれない。

 
    8月30日の夕方に見たかなとこ雲
本書に登場する唯一の女性科学者のジョアン・シンプソンが積雲の研究をするために、みずから雲のなかに飛行機で入ってしまう人だったので、雲を見る目がすっかり変わった。いわゆる大気の大循環に積乱雲がとてつもない量の熱のエスカレーターの役目をはたし、赤道の熱を極地に運んでいるのだとか。

2020年9月12日土曜日

書評:『日本を開国させた男、松平忠固』

 ペリー来航時とハリスとの条約締結時に、二度にわたって老中を務め、日本をいわば強引に開国させた上田藩主、松平忠固について書かれた事実上初めての歴史書だ。著者は上田藩士だった赤松小三郎を研究してきた拓殖大学の関良基教授。ご専門は歴史ではなく環境問題だが、上田のご出身で、上田高校OBとして幕末史の研究をつづけておられる。

『日本を開国させた男、松平忠固:近代日本の礎を築いた老中』(作品社)という本書のタイトルはかなり刺激的だが、当時の政敵が書き残した多数の史料を読みあさった結果、私も同じ結論に達した。現代の日本の政治を見ていて、なぜこうも意思決定が明快でなく、リーダーがちっとも指導力を発揮していないのかと歯がゆい思いをしている方は、幕末からよく似た状況であったことに妙に納得するものがあるかもしれない。譜代大名の老中は、明治維新を推進した側からすれば、倒したい敵の筆頭だ。老中はみな似たような名前の、顔の見えない無能の権力者集団のように描かれて、不平等条約から金貨流出問題まで、幕末史の汚点のすべての責任を負わされてきたが、本当にそうだったのか。井伊直弼や岩瀬忠震が本当に開国の功労者なのか、本当に不平等条約だったのか、松平慶永は本当に開明的な大名だったのか。少しでも史料を読めば、誰にでも浮かんでくるはずの諸々の疑問を、本書はこれでもかと読者に突きつける。

  関先生とは研究会で知り合い、3年前に上田で開かれた忠固のシンポジウム以降、忠固に関する史料についてたびたび情報交換をさせていただいた。上田に残る「忠固日記」の画像データも頂戴しながら、読めない筆文字に加えて、画面いっぱいに広がる虫食いの跡に、私は解読を諦めざるをえなかったが、本書にはその一端が紹介されている。研究者の伝をたどって協力を仰がれたとのこと。

  祖先探しから始まった私の調査記録を本にまとめるに当たっても、関先生からはひとかたならぬご助力をいただき、拙稿を読んでいただくことから、この新著を原稿段階で読ませていただくことまでお世話になった。しかも、あとがきに当時まだ未刊の拙書まで、長い書名を明記して宣伝してくださるというありがたさ。本書で松平忠固の名が少しでも社会に浸透すれば、私が自費出版する本が、無名の君主に仕えた無名の祖先の話にならずに済む。そのことだけでも、充分にありがたかった。

 ちなみに、忠固は「ただかた」と読む。私の原稿を読んでくれた母は、いつまでも「ちゅうこ」と呼びつづけていたが(苦笑)。忠固の容貌は知られていないので、表紙の肖像画は近親者の写真等からの想像図とのこと。彼の息子・娘たち、異母兄、姪、甥の息子等は写真や肖像画が残っており、その誰もが細面で高い鼻、左右に突きだし気味の大きな薄い耳の持ち主で、揃いも揃って美形なので、17歳で姫路藩から上田藩に養子入りして藩主になったころは彼もこんな顔だったかもしれない。 多数の史料画像や写真を盛り込み、本来の理系研究者らしく図表も使った作りになっているので、本格的な歴史書だが、幕末史に興味のある方には刺激的な内容になると思う。ぜひお読みいただきたい。 


  気が抜けて仕事にならなかった日に、封筒の裏につい描いて見た私なりの忠固想像図。「癇癖の強そうなやや蒼白な顔、右眼は故障があって少し鈍いが、そのぶんまで左眼は鋭く光り、体躯は頑丈とは云えぬが精悍の気あふれている」と、『あらしの江戸城』には書かれていた。

科学の人種主義とたたかう

 長らく拙訳書について書ける媒体がフェイスブックしかなく、このブログを開設したことでようやく、本年5月末に刊行されたアンジェラ・サイニーの『科学の人種主義とたたかう:人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社、原題:Superior: The Return of Race Science))について、一般向けに発信することができるようになった。

  前作のフェミニズムの本、『科学の女性差別とたたかう』の原題がInferiorだったので、対のような題名だが、内容的にはこちらのほうがさらに突っ込んだものと言えるかもしれない。インド人移民の子としてロンドンで生まれ、石を投げられこともある著者が、「10歳のときから書きたいと思っていた本」だったことを最後に知ったときには、思わず胸が熱くなった。


  すでに7月26日付の赤旗日曜版では早稲田大学の塩田勉名誉教授が、8月1日付の日経新聞では東京大学の進化学者の佐倉統教授が、それぞれによい書評を書いてくださったが、このたび9月12日付の朝日新聞でも、同じく東京大学の社会学者である本田由紀教授が、本書の論点を簡潔にまとめてくださった。

  この作品が問いかける問題の甚大さが日本でも徐々に理解されてきたのか、少し前にめでたく重版になった。しかし、ジェンダー問題を扱った前作と比べて、本作への世間の反応は鈍いように思う。ブラック・ライヴズ・マター(BLM)に象徴されるような人種問題は、日本では他人事なのだ。社会のなかにいる異質な人の数がごくわずかなときは、珍鳥のごとく、好奇の対象になるか、ちやほやされるからだ。「彼ら」の数が増えて目立ってくるようになり、「われわれ」の利害とぶつかり合うようになって初めて、人種問題は生じてくる。だから、日本では人種主義者が黄色人種として一括りにする人間同士のあいだで類似の社会問題が生じ、二言目には国籍の話になって終わり、かたや他国の話になると「人種差別はいけない」という道徳の話にすり替わる。

  だが、レイシズムは人種差別主義なのだろうか? 著者サイニーによれば、raceという言葉の起源は確認される最古の使用例でも16世紀で、人種を形質のように記した最初の書は1758年刊行のリンネの『自然の体系』だとする。明治初めに西洋文明を吸収するなかで、確立された事実として西洋人から教えられた人種の概念を鵜呑みにしてきた私たちにとっては信じ難いことだが、人種の定義は科学的には少しも定まっていない。レイシズムとは、人種という科学的根拠のない概念を後生大事に掲げて、人間を何かとカテゴリにーに分類し、それによって階層化を図る主義、という意味ではないのか。そう考えるにいたって、あまり馴染みのない訳語ではあるが、人種主義という言葉を本書では採用した。

  議論の前提に含まれた多くの偏見を見抜く著者の鋭さは格別で、インタビューを受けた偏屈な人種主義者だけでなく、デイヴィッド・ライクのような超一流の遺伝学者もたじたじとなっていた。人種科学が復活の兆しを見せている現在の風潮に、資金源を追及しながら立ち向かう彼女の姿勢には、ジャーナリストとしての気迫を感じた。

2020年9月10日木曜日

ブログ開設のお知らせ

 20年近く、翻訳グループ牧人舎のホームページに「コウモリ通信」として月に一度エッセイを書いて参りましたが、2019年10月にグループが解散しまったため、ようやく重い腰を上げて自分のブログをつくることにいたしました。

 今後は不定期の発信になりますが、拙訳書のご案内や、このたび自費出版しました初めての著作に関連した記事をはじめ、これまでどおり多岐にわたる雑多なテーマで備忘録代わりに書いてゆくつもりです。ときおり覗いていただければ幸いです。