2006年11月29日水曜日

「キング 罪の王」

 久しぶりに映画を観てきた。ガエル・ガルシア・ベルナルというメキシコの俳優が主演する「キング 罪の王」というアメリカ映画だ。テキサス南部に住むキリスト教原理主義の牧師一家に、ある日、突然、隠し子が訪ねてくることから始まる悲劇、という内容に興味をひかれて、わざわざ渋谷まででかけた。  

 精油所が建ち並ぶ湿地帯も田舎町も、小ぎれいな住宅街も、この夏に私が訪れた場所とよく似ていたし、ドリー・パートンやボブ・ディランの音楽はなんともやるせない。ロックバンドが「ジーザス、ジーザス」と叫ぶキリスト教原理主義の教会の場面は、いかにもアメリカ的で興味深かった。しかし、なんと言っても、ストーリーの展開があまりにも衝撃的だった。クレジットが流れ終わるまで、放心したように席を立てなかったのは、私だけではなかったようだ。  

 ベルナルが演じる貧しい生い立ちの小柄なメキシコ美青年エルビスが、ウィリアム・ハートの演ずる、いかにもテキサス人風の大男の父親と対峙する場面では、おそらく誰もがエルビスに共感するだろう。美しい異母妹との禁じられた恋あたりまでは、偽善的なアメリカ社会との対比で、圧倒的にエルビスのほうが有利だ。ところが、しだいに彼の突飛な行動に観客はついていけなくなり、苦悩する牧師一家のほうに共感しはじめ、やがて衝撃的なラストでは、いったいなぜこんな結果になったのかと呆然とさせられる。主人公が途中から共感できない人物に変わるのだから、当然、観終わった後味は悪い。  

 エルビスが初めて父と対面したとき、父親は一応の礼儀はつくしながらも、内心のうろたえを隠し切れない。あのとき、もう少しエルビスを温かく迎えていれば、悲劇は防げたのだろうか。それとも、中途半端に受け入れたりせず、きっぱりと拒絶すべきだったのか。 『なぜノーマ・ジーンはマリリン・モンローを殺したか』という本に、モンローが実父を捜し当てて電話をかけた際に、冷たくあしらわれるエピソードがでている。生まれる前から父親に捨てられ、ほぼ養育を放棄した母親ものちに精神病院入りする、という境遇のモンローは、36年の短い生涯のあいだずっと、自分は親からも見捨てられた存在だという劣等感に悩まされた。女優としてどれだけ成功し、数知れない恋をしても、彼女の心の空虚感を埋めることはできず、最終的にやり場のない怒りを自らに向けることになったという。  

 親との関係は、人間の根幹をなすものだ。親の愛という生得権を奪われた子は、それを得ようと空しい努力をする。早くに親に死なれた子は、運命を呪うしかない。自分から親を奪った相手がいると思えば、その相手に嫉妬する。子供にとって欲しいのは親の愛情だから、捨てられたことに憎しみを覚えながらも、その一方でまだ愛情を求めずにはいられない。エルビス青年の不可解な行動は、こんな相反する気持ちからくるのではないか。 

 幼少時に心の傷を負った人は、成長してから情緒面や人格面に問題が生じるともいう。知能的にはなんら問題もないし、傍からはごく普通の人に見えるのに、極端に自尊心が低かったり、自己中心的だったりし、感情の起伏がやたらに激しかったりするのだ。そこに生活苦や人種的偏見などが加われば、怒りを外に向けて犯罪者となる人間は容易につくられる。離婚や日本人の父の認知・養育拒否などによって極貧の生活を強いられる「新日系人」が、フィリピンには2万人以上いるという。この映画が理解できないのではなく、実は現実の社会のほうが理解できないのかもしれない。