2014年12月31日水曜日

伊藤博文の千円札

 何年か前にアメリカの友人が、自分はもう使わないからと言って日本円とアジアの他国の紙幣を普通郵便で送ってきてくれたことがあった。開けてみると旧札だった。沖縄に駐留していた夫のもとで新婚時代を送ったときの記念として、何十年間も手元に置いてあったものらしい。このところ時間を見つけては片手間に幕末関連の本を読んでおり、伊藤博文や井上馨など明治の元勲の経歴を調べた際にふと昔の千円札を思いだし、この友人からもらった旧札を引っ張りだしてみた。そこには板垣退助の百円札も同封されていた。

  大英博物館のニール・マクレガー館長によると、「あらゆるイメージのなかで最も効果的なのは、あまりにもよく目にするためにほとんど気づかなくなっているもの、コインである。そのため、野心的な支配者は通貨をつくる」(『100のモノが語る世界の歴史』)。しかし、一万円の聖徳太子は別として、お札に刷られていたあとの人たちが誰なのか、子供のころはあまり気に留めたこともなく、両目のところで折り目をつけ、見る角度を変えて笑わせたり、泣き顔にしたりして楽しんだ記憶しかない。ウィキペディアで確認してみたところ、1951年に岩倉具視(五百円札)と高橋是清(五十円札)が、53年に板垣退助、63年に伊藤博文と、元勲たちが日本を象徴するイメージとして選ばれていた。明治以来、日本銀行券に選ばれたそれ以外のシンボルは、大黒様や菅原道真、藤原鎌足、武内宿禰など、神や伝説的な人物である。戦後、次々に元勲が選ばれたのは、当時すでに彼らが英雄としていわば神格化されていたからだろうか。

  伊藤博文と井上馨はともに、江戸末期に横浜居留地一番地にあった英一番館、ジャーディン・マセソンの支店長サミュエル・ガワーの手引きで1863年5月にイギリスへ密航し、長州五傑として知られるようになった。犬飼孝明氏(『密航留学生たちの明治維新』)などによると、長州藩がこのロスチャイルド系貿易商社から鉄製蒸気船ランスフィールド(壬戌丸)を購入した際に、井上が横浜で資金工面をしているので、そのときの縁故を頼ったようだ。伊藤と井上の二人はイギリスで薩英戦争や長州の外国船砲撃事件の報道を見て驚愕し、翌年6月に先に日本へ戻った。アーネスト・サトウは、「伊藤と井上はラザフォード卿に面会して、帰国の目的を知らせた。そこで卿は、この好機を直ちに捕らえ、長州の大名と文書による直接の交渉に入ると同時、一方では最後の通牒ともいうべきものを突きつけ、敵対行動をやめて再び条約に従う機会を相手にあたえようと考えた。……二人を便宜の地点に上陸させようと、二隻の軍艦を下関の付近へ急派した」((『一外交官の見た明治維新』)と書いている。

  ところが、この二人は渡航数カ月前の1863年1月まで、御殿山に建設中のイギリス公使館に放火するなど、過激な攘夷活動に走っていたのだ。犬塚氏によれば、井上はその直前には高杉晋作や久坂玄瑞らとともに、横浜の金沢まで遠出した外国公使暗殺計画を立てたものの未然に阻止されたため、「百折屈せず」と御楯組の盟約書に花押血判している。伊藤にいたっては、同年2月にも山尾庸三とともに塙忠宝と知人の二人を暗殺している。山尾庸三も長州五傑の一人で、のちに法制局初代長官を務めた。塙忠宝は塙保己一の四男で、幕命によって外国人待遇の式典について調査していたところ、孝明帝を廃位させようと企んでいると邪推されたあげくのことだった。 

 要するに、外国人や自分と異なる意見の人を短絡的に敵と決めつけ、放火や殺人も厭わなかった人びとが、当の外国人を頼って渡航し、あまりの国力の差に肝をつぶして前言を撤回し、外国の力を借りて政権の座に就いたのだ。君子は本当に豹変するらしい。その背景には、英公使館焼き討ち事件後に佐久間象山を訪ねた久坂玄瑞らが、象山から開国の必然性を説かれたことがあるようだ。井上は象山の海軍興隆論だけを聞きかじり、突然、「外国へ遊学して、海軍の学術を研究する必要がある」(「懐旧談」、犬塚氏の書に引用)と目覚めたという。 

 ハルビンで伊藤博文を暗殺したとされる安重根がテロリストか抗日義士かをめぐって、少し前にいろいろ騒がれていたが、当の伊藤は自身の非業の死を当然の報いと思っていたかもしれない。いずれにせよ、国を象徴する人物としてはあまりふさわしくないと判断されたためか、1984年にもう少し当たり障りのない夏目漱石に取って代わられた。件の旧札を送ってくれた友人は、かならずしも恵まれた人生を送っているわけではないので、円安で辛いが、せめて同額をドルに変えて、遅まきながら郵便で送ろう。このエピソードも添えて。 年末、仕事や雑事に忙殺されて引きこもっていたため、新年にふさわしくない話題で申し訳ありません。本年もどうぞよろしくお願いいたします。