2011年3月30日水曜日

東日本大震災

 のちに現在のこの状況を振り返ったとき、東日本大震災を境にすべてが変わったと誰もが思うようになるのだろうか? 津波で町ごと流された人たちにとっては、3月11日はまさに運命の日だっただろう。首都圏に暮らす者にとっては、テレビの画面で見る映像は、濁流にのまれる家であれ、雪の降る被災地の悲惨な光景であれ、あまりにも非現実的で自分の身に迫りくる危機だとは実感しにくい。  

 あの日、私の住む横浜でも異様な揺れを感じ、近隣一帯は夜中まで停電になった。震源は宮城県沖だと伝え聞いて、すぐさま脳裏に浮かんだのは福島の原発だった。二十代のころ読んだ広瀬隆の本に、福島原発で事故が起きた場合、風に乗って放射性物質が何時間後に首都圏に到達するかを示す同心円の図があったのを思いだしたのだ。  

 その後、スーパーの棚から食料がどんどん消え、計画停電によってあらゆるものの営業時間が短くなり、一時は殺気だっていた人びとも、いまではほぼ平常に戻っている。暗い照明や、動かないエレベーターを見なければ、震災などなかったかのようだ。目に見えず、異臭もせず、「ただちに人体に影響はない」微量の放射性物質など、花粉のようなもので、気にしなければ日常生活に差し障りがないと信じて、たいていの人は呑気に構えているのだろうか。それとも、景気が悪化して社会不安が増すのを恐れているのだろうか。身に危険がおよぶような急性ストレスはエネルギーを与えるけれども、漠然とした先行き不安のような慢性ストレスが長期にわたると、うつ病や認知症になりやすいと言われるから、ニュースを見つづけず、外へでて気分転換をはかることは重要だ。  

 震災にたいする反応は人それぞれだろうが、私はこれを機に、今後のエネルギー政策や、国土の開発、防災について真剣に考え直すときがきているのだと思う。文明の存亡は、そこに住む人間の英知や努力、道徳心以上に、環境収容力に見合った規模を保ちつづけられるかどうかに左右される。どんなに万全を期しても、日本が不安定な四つのプレートの上に乗った国である事実は変えようがなく、地震や火山が活動期に入り、気候変動が始まっていると言われるいまは、1000年に1度の規模の大災害は充分に起こりうるのだ。  

 石油資源のない日本が原子力発電に夢を託し、そのおかげでいまの繁栄があるのは確かだ。でもそれは日本全国の原発が最低は0.7m、最高でも9.8m(福島第一は5.7m)という根拠のない低い津波数値を想定して、収支に見合う安全対策しかとらず、たまたま数十年間は大きな自然災害がなかったという幸運に支えられていたことを忘れてはいけない。同じことは、防潮堤を築くことで低地に広がりすぎていた町にも言えるのだろう。  

 原発事故や津波災害が引き起こした環境汚染の規模はどれほどなのだろうか? 少なくとも風評被害は近隣の自治体に留まらず、日本全体におよんでいる。ただでさえ廃棄物の処理に莫大な費用がかかる原発が、あらゆる自然災害に備える(そんなことができればだが)とすれば、化石燃料による火力発電でCO2を除去する費用もはるかに超えるだろう。  

 今回の事故における東電の実態や対応は情けない限りだが、これは東電だけを責めて解決する問題ではない。蓄電が難しい電力を、風呂を炊く三助のように、需要が増えればそれに応え、余れば減らすという具合に昼夜調節しているのが電力会社であり、電気がどのように供給されているかも忘れて、「火を炊け、火を炊け」と莫大な需要を生みだしてきたのは私たち一人ひとりなのだ。  

 一昨年、購入した中国からの輸入品のソーラーランタンは、計画停電の夜に私の唯一の明かりとして活躍している。太陽光発電はもともと日本が先駆けていたはずだ。スマートグリッドの整備、自治体や各戸単位の分散発電、蓄電技術の開発など、一部の国ではすでにかなり取り組みが進んでいる。多少の犠牲は覚悟のうえで、大きな方向転換が必要だ。

 青白い小さい光だけれど、真っ暗闇よりはいい

 富士山の前を横切る幾重もの電線――まさに日本の象徴だ