横浜の本町4丁目に開港当初あった中居屋重兵衛の店は間口30間という大店舗で、屋根が銅瓦葺きであったことから「銅御殿」と呼ばれた、とどの歴史書にも書かれている。また、その記述とともにかならず、銅瓦が華美であることを神奈川奉行から咎められて、五日間閉店したとか、手代が入牢したとかいったエピソードが語られる。
中居屋の店が豪華な造りであったことは間違いなく、すでに開店休業状態となって久しい1861年6月11日のフランシス・ホールの日記にも、店正面に間口の3分の2を占める、幅1.5mほどの石造りの池があって金魚が泳いでいることなどが描写されるとともに、「The building is conspicuous to one passing in the street by its dark heavy tiles, roof timbers…」(この建物は、その濃色で重厚な瓦、屋根の木材[中略]ゆえに、通りを行く者にもよく目につく)と書かれていた。F・ホールは神奈川の成仏寺にいた。ここで留意すべき点は、中居屋の店の屋根が黒っぽい色で、木材であるとホールが書いていることだ。
安政6年8月下旬、開港から2カ月あまりが経った時点で、中居屋のライバルであった三井の横浜店手代も「四丁目ニ中居屋重兵衛と申方、表間口三十間も有之、チャン流し之板屋根にて一際目立候普請」と書簡で書き送っていた。チャン流しとは、防水用に瀝青が塗られていることを意味する(三井文庫蔵『永書』、西川武臣『横浜開港資料館紀要』7に引用)。
1889年に『横浜貿易新報』に野沢枕城という人が連載した記事(「原伝三郎伝」として『横浜どんたく』下巻に収録)には、横浜の古老の話として、「然れども銅を剥がしたる後なるか、銅にはあらずブリツキか、または板の上をコールタール様の物にて黒く塗り」と描写されていた。
その1でも触れた中居屋の元手代の小林七郎次は談話のなかで、「邸宅は高壮で屋根は一寸板[厚さ3cm]を用い、麻を張り、その上にチャンで黒塗りされた。生麦の宿から眺められ、世人は〈浜の門跡様〉とよんでいた」と語っている。この談話は大正2年に小林が重兵衛の郷里の生家を訪れたときの思い出話だと、萩原進は『炎の生糸商』に書いている。
荻原氏、佐佐木氏双方の著者のカバーや函に使われた二代広重の「横浜風景一覧」は文久元年(1861)の作で、「同四丁目」に「中井」と書かれた立派なお屋敷を描いているが、屋根は黒々とし、むしろ壁がベンガラ壁のような赤茶色である。銅葺きなら緑青で薄緑色になるのではないかと思ったが、綺麗な緑青になるには10年以上はかかるようなので、開港から2年を経たころなら当初のあかがねの光沢は消え、目立たない茶褐色になっていたはずだ。銅瓦にはほぼ純銅が使われたようなので、合金である10円玉とは多少異なるだろうが、色味は似ているはずだ。
翌文久2年に刊行された横浜のガイドブック『横浜開港見聞誌』では、「また本町四丁目には中居という見世あり。座敷は異人のこのみにまかせ、中庭へ小鳥をはなち、金あみをもて天井四方をかこい、風流なるはびいどろにて壁の内をはりて、水をいれて金魚のここかしこに遊びてめずらかなり。この座敷に二尺余の四足台に横一尺七八寸、竪六七寸の箱をおきてあり。これはヲルゴルの大なる物にして、最もその音色美にして高し」と書くが、なぜか銅瓦については一切触れていない。
こうした傍証にたいし、銅瓦を葺いたために罰せられたとする記述も散見する。野史台隠士著『中居屋尊皇驚異記』は、西川武臣氏が問題視しておられた作品で、原文を読めていないが、ここに神奈川奉行の赤松左衛門尉範忠が「銅瓦で屋根を葺くなど分を越えた奢りである。五日間の閉店謹慎と早々に銅瓦を土瓦に改めることを申付け」たと書かれていた(荻原進『炎の商人』に引用)。萩原氏は1949年に群馬文化協会から刊行した『中居屋重兵衛:横浜開港の先駆者』で、この一件が安政6年7月27日だとするほか、『炎の商人』では銅製品が禁制の輸出品となったのは同年9月4日だったとする。野史台隠士の著書では、5日間の閉店の命令に中居屋が毅然と抗議したことも記されているようだ。ただし、問題は赤松左衛門尉のこの記録の出所が不確かで、赤松自身が神奈川奉行になったのは同年8月28日であるという齟齬があることだ。
佐佐木氏は、このとき主人の重兵衛の代わりに番頭の善助が入牢したと「日下恵」の記述から判断している。もっとも、「日下恵」は綴じる際に順番が滅茶苦茶になっているのか、日付順に並んでいないので何ともわかりづらい史料だ。表紙は「安政六年未六月吉日」で始まるのに、すぐに「二月五日六時半 和蘭陀五はんの人 弍人変死」と、安政7年のこの日に横浜居留地で起こったオランダ人船長殺害事件のことが記されている。そのあと12月27日夜と書かれた一連の記述があり、干鰯、銅、魚油、昆布、中物、水晶といった商品のあとに、「上田家中 長谷川宗次様 溝口喜三郎様/上田産物会所 江戸南新堀 支配人山崎由兵衛」と書かれている。長谷川と溝口の名前は、江戸詰めの上田藩士であることは、『上田藩松平家物語』から確認できる。南新堀におそらく何らかの事務所があったのだろう。
「日下恵」では、そのあと一行置いて「中居親類之由 一 佐治治助様(悠輔) 二月四日御懸り」と書かれたあと、合原猪三郎と推定される人物を含む奉行所の役人が取り調べにきた記録があり、さらに一行おいてから「紀州御産物方」として人名および諸々の費用が並び、そこに「金壱分 牢屋小遣」「金壱両 善助 小遣ニ渡ス」などの記述が見られる。そのあとの日付は3月15日だ。ところが、しばらく行くと「安政七年正月四日」戻ってしまう。それでも、その先の3月4日にも「弍百文 牢屋小遣」、11日にも「金壱朱 牢屋」などとあり、さらに極月(12月)廿一日にまた「善助え牢見舞」と書かれている。諸々の情報を総合すると、安政6年12月27日に上田藩の産物会所の担当者が中居屋に赴き、同日、神奈川奉行所の役人もきて、善助が入牢し、牢屋で年を越して翌7年3月4日もまだ牢屋にいた、と考えると筋が通るが、どんなものだろうか。
中居屋の店の屋根に話を戻すが、屋根のほうも同じくらい情報は錯綜している。銅瓦だったのかチャン流しだったのか、横浜の歴史家たちは頭を悩ませたようで、『横浜市史』第2巻には「中居屋の建築は銅瓦の屋根で、『凡日本にはあるまじく』とうわさされたが、銅瓦はその筋から禁止され、檐口へのみ銅を張り、『其外はチャンを流し候由』」という折衷案を、大日本維新史料稿本が引用する『雑記』20からまた引きする。この『雑記』は見つけられていない。
悩ましいことに、万延元年(1860)正月5日に大番頭の松田玄冲が故郷の飯沼村名主、吉池文之助に書き送った書簡にも、「旧冬中ハ由之助様御出府之処、長々之御滞留御案事可被遊と存奉候、中居屋重兵衛義も張銅一条ニ付、閉店被仰付、夫故ニ由之助様江御勘定不埒ニ相成」などと書かれている。その1で言及した『蚕都信州上田の近代』のなかの西川氏の論文にこの書簡の全文が翻刻され、「手紙には、営業停止の理由が『張銅一条』にあったと記され、店の屋根を銅葺きにした店の普請が、あまりに華美であったことが幕府の怒りに触れたとある」と解説されている。
しかし、その他の史料から判断すると、中居屋は前年10月、遅くとも11月には営業停止命令を受けていた可能性が高く、重要な取引先である飯沼村に生糸代が未払いの状態のなか、とりあえず現状報告した書簡だという事情を考えると、なぜいまだに銅瓦なのかという疑問が湧く。銅瓦は葺き直したか、檐口だけではなかったのか。
一世紀以上にわたって、代々の歴史家が頭を悩ましてきたに違いない銅瓦問題だが、中居屋重兵衛が実際に幕府から咎められていた根本の問題を、関係者がひた隠しにし、「張銅一条」と誤魔化したための混乱だった可能性はないのだろうか。つまり、中居屋の店の屋根は、当初から三井の手代が書いたように、あるいは中居屋の手代が晩年に語ったように、3cm厚の板の上に麻を張ったチャン流しだったのであり、開店から数カ月で閉店させられるあいだに、屋根を張り替えるような大工事をする余裕はなかったのではないか、というのが私の素朴な疑問である。次回は中居屋が営業停止になった状況を整理し、中居屋をめぐる謎の本質にいくらかでも迫れれば、と思っている。
(右)『新版 炎の生糸商 中居屋重兵衛』(萩原進著、有隣新書、1994年)





