2026年10月15日木曜日

中居屋重兵衛その3

 唐突に中居屋重兵衛について調べ直すきっかけとなった本題について、今回はまとめてみる。長くなるがお読みいただけたら嬉しい。

 横浜は安政6年6月2日に開港した。西暦では1859年7月1日なのだが、横浜市の学校は毎年6月2日を開港記念日として休みにしている。開港前の数カ月間に、半農半漁の寒村であった横浜村が突貫工事で開港場につくり変えられていたころ、老中時代に開港を断行した藩主松平忠固のもと、貿易に活路を見出していた上田藩は、紀州藩、会津藩とともに輸出できる藩の産物のリストをつくり、藩専売の売込商として中居屋重兵衛を任命しており、幕府からも貿易の許可を得ていた。上田藩の産物としては、「白𥿻糸同織物類・木綿・真綿・麻苧[カラムシ]」などの繊維関連のほか、「うるし・紙類・生蝋・傘類・石炭あふら・松油・人参・麦粉・鉛・鋸並鉋・煙草」と多様な輸出品をリスト化していた(滝沢家文書、萩原進『炎の商人』に引用)。白𥿻糸は生糸であり、忠固は大坂城代時代に上田紬をみずから売り込んでもいたが、このリストにはのちに日本の主要な輸出品の一つになる蚕種、つまりカイコガの卵はまだ含まれていない。会津藩の産物にも「絹糸・同織物類」が含まれるが、紀州藩には木綿類以外の繊維製品はない。  

 上田藩では天保年間からあった産物改会所を刷新して、安政4年に上田と江戸に産物会所を設置して、着々と開港に備えていた。実際には文化年間(1804-18年)に上州から座繰り機を導入して製糸技術が向上していたことに、非常に重要な転換点があったと思われる。上田では古くから養蚕はしていたものの、繭は上州などに売り、製糸はしていなかったことを、遅まきながら『蚕都信州上田の近代』の井川克彦氏の論文「横浜開港前における上田小県地方の製糸業」を読んで知った。座繰り機にはベルトで駆動する奥州型と木製歯車を使う上州型があるらしく、どちらも開発の歴史を探ったら非常に面白そうなテーマだ。それまで品質がまちまちになる手繰りで行なわれていたものに、小さなものとはいえ機械が導入された過程には、きわめて重要な技術移転があったことになる。生糸の最大の産地は前橋であり、ここは酒井雅楽頭家の元領地であり、伊勢崎藩はその支藩だ。松平忠固が姫路の酒井家から上田藩に養子入りしたのは文政12年(1829)のことだが、経済活動まで積極的に目配りしていた姫路藩のことを考えれば、忠固の養子入りに先立って、何かしら政治力が働いてこの技術移転があった可能性も勘繰ってみたくなる。技術の伝播史は私の訳書の多くを占める分野なので、先祖探しを始める以前から、私の関心の的でもあった。  

 いずれにせよ、上田藩としては生糸と上田紬を柱に、城下町商人が運営する産物会所に出荷させて品質・量・形状等の統一を図り、「江戸産物会所へ差出、売捌ニ相成候金高ニ応じ、二分[2%]の割合を以て冥加可差出候事」となっていた(「江戸産物会所仕法触書」『長野県史 近世史料編 第1巻2』より)。  

 6月の開港に向けて準備を進めていた年の2月29日には、産物会所世話役を務める伊藤林之助と町田吉五郎が上田を発ち、横浜貿易交渉のために江戸上田藩邸(おそらく瓦町藩邸)の長屋に滞在していた。伊藤らは5月にいったん上田に報告に戻るが、開港前に再出府した(阿部勇「横浜開港期における小県上田の生糸輸出」『信濃』63-3-734)。  

 中居屋は豪華な店舗を建てたせいか、開港当日にはまだ準備ができておらず、6月19日に開店したことが伊藤林之助の「出府日記」から判明している。しかも、イギリス商人から取引をもちかけられ、やはり産物世話役を務めていた武蔵屋祐助がごく内々に中居屋から上田に向けて出立した旨が書かれていた。この経緯を解説した阿部勇氏の記事を『週間うえだ』で見つけ、イギリスのジャーディン・マセソンの記録にそれに明らかに該当する取引が言及されていたため、バーター取引とはいえ、これが実際には本邦初の生糸輸出と考え、拙著『埋もれた歴史』に書いた。現在は、こちらで上田側史料に関する阿部氏の解説は読める。  

 原町の『問屋日記』でも同じ取引の件は詳述されていた。「神奈川横浜貿易十九日相始、糸引合ニ相成候而、此方より御用掛りニ罷出居候武蔵屋祐助、廿二日暁海野宿まで罷越万屋平八江申遣対談致」。こちらは『長野県史 近世史料編』1-2に収録されているので、国会図書館デジタルコレクションで読める。上田の生糸貿易について詳しくないので、定かではないが、武蔵屋祐助は原町に店もつ人で、産物会所も原町にあったはずだが、秘密裏に上田に戻った産物世話役の武蔵屋祐助は、隣の海野町の万屋に相談に行ったと読めそうだ。「この行動は産物会所の許可を受けたものではなく、後日問題になり、処罰されている」と阿部勇氏は前述の解説で指摘する。  

 その後、7月1日の上田の城下町商人滝沢家の日記からもアメリカ人から45駄、オランダ人から7駄の生糸の注文があったことがわかり、かつ8月10日には「町田吉五郎、今未明、江戸より帰宅被致、右ニ付、産物会所へ罷越候処、此度ヲランタ人江糸四拾四箇売渡し、代金ハ壱歩銀ニて五百両受取候、外はトルラル銀壱ツ三分の通用と兼て厳重被仰出も有之義ニて受取候処」など、取引の様子が詳しく書かれている(「滝沢家文書」、西川武臣『横浜開港資料館紀要』9より)。  

 日本では天保期に財政難からそれまで重さで価値を決めていた銀を、額面で表わす表記貨幣に変えていたため、金銀比価が諸外国といちじるしく異なっていた。開港直前に安政二朱銀を発行して事態に対処しようとしたものの、外国人から猛反発を喰らい、6月23日に二朱銀の通用が停止されるというゴタゴタがあった。それゆえに通説では23日以前に生糸の取引はなかったとされてきた。その後も通貨をめぐる問題はすぐには解決しなかったと思われ、中居屋が洋銀(メキシコ・ドル、いわゆるピース・オヴ・エイト)で受け取り、交換できずに難儀していたことなどがライバルの三井の史料などからわかる。それでも、安政6年の半年間の生糸総輸出量は487,629斤とされ、1駄が150斤で90kgであることから考えると、開港後わずか数カ月間に驚くほどの量の生糸が輸出されていた。その大半を中居屋が扱っていると、三井側は苦々しい思いで見ていた(西川『横浜開港史料館紀要』9)。 

「その1」で触れた上田の飯沼村(岩村田藩領)の名主吉池家の記録からは、この年の10月6日に生糸集荷の第一報が入り、11日には20駄分を買い入れ、15日にも松代糸を10駄分買い取るなど、取引が始まっていたことが判明している(西川、『蚕都信州上田の近代』など)。ところが、11月16日の三井の書簡に「中居屋重兵衛と申方」に関して「先頃店預り支配人入牢被仰付、表〆切ニ相成、何共気之毒至」と書かれている(西川、『横浜開港資料館紀要』7、『蚕都信州上田の近代』)。おそらく、これが「その2」で触れた善助だろう。遅くともこの時点で中居屋には営業停止命令が下っていた。  

 これに呼応するように、翌万延元年(1860)4月に、上田藩が城下町商人の町田吉五郎と武蔵屋祐助を処罰し、産物世話役を罷免したうえで、押込を命じていた。上田市立博物館蔵の「宮下家文書」にあったという「抜け荷」に関する史料には、「彼是乗合ニて御用之合間ニ商内仕候」、「不正筋ニ付、御叱之上」といった言葉が並び、分析した西川武臣氏は、「処罰理由は、城下町商人が『産物会所』に集荷された生糸だけでなく、『御用』の合間に乗り合いで生糸を集荷し、多額の利益をあげたことであった」とする。上田藩は同年6月に、生糸出荷の窓口を中居屋から永喜屋に変更し、この店に城下町商人を常駐させて抜け荷を取り締まるようにしたという(『蚕都信州上田の近代』)。  

 実際には何が問題であったのか。幕末史をかじった人ならば、西陣織の関係者が開港による生糸価格の高騰に反発し、討幕を支援していたことはよくご存じだろう。錦の御旗に象徴されるものだ。中居屋のライバル三井はもともと呉服商だ。「織物を中心に扱った三井横浜店では、八月に入っても交易は極めて不調であり、中塚徳次郎は毎日二、三人の外国人が店に来るが、一日に六、七両の利益しか上らないと嘆いている」と状態だった。その状況下で、生糸ばかりが大量に売れていたのだ。この年、国内では蚕が凶作であるのに、「異人生糸被望候ニ付、益高直之品」など、価格が吊り上がっている様子も伺える(西川、『横浜開港資料館紀要』7)。  

 不満の声は江戸の生糸問屋からも上がった。江戸を素通りして生糸が横浜に向けて出荷されるため、江戸では生糸不足が問題になっていた。「取り締まろうとしても、『諸家様御差物之生糸荷物』(藩専売の生糸)には恐れ多くて手出しができないと記されている」と西川氏は解説する(『蚕都信州上田の近代』)。こうした国内の不満は、とくに「抜け荷」に向けられ、それが万延元年閏3月の「五品江戸廻送令」につながるのだが、本当の問題はそこにはない。というのも、前年7月22日の段階ですでに運上所から「外国人生糸ヲ多分相好候趣ニ在之、然ル処糸之侭ニて多分相渡候時ハ日本織物ニ差支、国々織元衰微之基ニ付、成丈ケ織物ニて相渡、生糸之方相渡ニ不申様」という命令が下っていたからだ(西川、『横浜開港資料館紀要』7)。  

 万延元年6月には、江戸町奉行の池田播磨守と石谷稲葉守から、全国の代官、大名、旗本に、領地で生産される生糸の量を調査し、輸出用にはその2、3割までを回し、生産地にて生糸に「荷印と送状」を添付して出荷先と数量を調査することなどを提案している(西川、『蚕都信州上田の近代』)。  

 つまり、中居屋が目をつけられた本当の理由は、銅瓦などではなく、生糸を大量に輸出していたことなのであり、上田藩や会津藩扱いの藩専売分については幕府の許可を得た行為であるため、問題視できない代わりに「抜け荷」が槍玉に挙げられたのではないか。上田藩にしてみれば、開港前に入念に準備していた販売ルートが、産物会所を通さない「抜け荷」も扱っていたことが判明し、関係者を処罰せざるをえなくなったのだ。中居屋の大番頭松田玄冲が飯沼村から集荷していた生糸も、岩村田藩が幕府の許可を得ていなかったとすれば、「抜け荷」だった言えるだろう。  

 欧米の列強が植民地とした地域から農産物や鉱物などの一次産品を大量に買いつけることが、その地域の経済を大きく撹乱してきたことは周知の事実だ。石油、ダイヤモンド、ウラン鉱石、綿花、サトウキビ、タバコ、トウモロコシ、南洋材、レアアース、アブラヤシなど、天然資源に恵まれた地域ほど、貧富の差が大きく、社会としては歪な形で発展するか、低開発のまま取り残されている。反物として輸出できれば、生糸の生産者のほか織物産業に携わる人も潤うので、経済的にはより広い恩恵がある。各農家で蚕を飼い、座繰り機で製糸して出荷した生糸であれば、それなりに大勢の人の懐を潤すものになったとは思う。だが、開港から数年後に始まった蚕種となると事情はだいぶ変わってくるし、富岡製糸場のような大資本による機械生産となれば、富は一握りの事業主のもとに集中する。開港と同時に、帝国主義のまっただ中の世界経済に巻き込まれて直面したこの事実こそが、より正確には、それに抵抗しようとした幕府の動きこそが、生糸貿易の創始者と言っても過言ではない中居屋重兵衛を、早々に廃業に追い込んだ真の原因ではないだろうか。  

 中居屋重兵衛にとって、幕府の役人や諸藩の対応はひたすら理不尽な締め付けに思えただろう。営業停止を命じられて身動きが取れなかった数カ月間に、彼が開港当初に現金を受け取れない代わりに入手した20丁の拳銃を水戸浪士に提供して、現状打破を画策したとすれば、十分な動機といえる。それが、当時の幕府を象徴した人物である井伊直弼に向かったことも、ある意味、当然の成り行きではなかったのか。後世の歴史家の多くは、明治政府側から歴史を振り返るか、少なくとも古臭い武士の世が終わり文明開花した自由貿易の時代を歓迎する視点から見てきたので、明治から戦前にいたるまで日本最大の輸出品でありつづけた輝かしい生糸を最初に世界に売りだしながら、非業の死を遂げた中居屋を、勤王の志士として描きつづけたのだろう。  

 日本を開国させ、開港前から着々と貿易の準備を進めていた上田藩主松平忠固は、安政6年9月12日に死去している。老中を罷免されたのち、貿易に賭けていたと思われる忠固は、体調を崩すなか、開港後のこうした展開の報告をどの程度受けていたのだろうか。生糸が藩の一押し産品であることは忠固もよく承知していただろうが、上田藩の産物リストは飽くまで「白𥿻糸同織物類」とし、会津藩も「絹糸・同織物類」と織物とセットにしていた。そこに大きな意味はなかったのだろうか。幕府がどう制限しようと、生糸の輸出量は伸びつづけ、一時的に横浜鎖港で落ち込んだものの、慶応3年(1867)には二倍以上の1,000,117 斤にもなった。その間に幕藩体制は崩れ、上田の産物会所も過去の遺物となり、以後は大商人や実業家が力をもつ世の中になった。  

 たまたま本業でアイルランドのジャガイモ飢饉の本に取り組んでいるところで、イギリスが保護貿易(重商主義)から自由貿易に変わる過程でたいへんな葛藤があり、それを一挙に推し進めたのがこの大飢饉のさなかに緊急措置としてアメリカから大量輸入されたトウモロコシの挽き粉であったことを知った。時期としては横浜開港とたいして変わらない時代の話だ。アメリカのモンロー主義は20世紀に入ってもつづいていた。封建時代からいきなり自由貿易の時代に入ったような日本の明治維新は、はたして望ましい展開だったのか。拙著『埋もれた歴史』を執筆したときに抱いたこうした疑問が、いままた沸々と湧き上がっている。

中居屋重兵衛の店の跡地に立つ看板(2016年撮影)

一分銀3枚を洋銀1枚と交換することになったと再読し、昔買った一分銀を計ってみた!

赤レンガ倉庫も、もとは主として輸出用の生糸の倉庫だったことをようやく知った。汽車道もおもに生糸を運ぶために引かれた線路だったとのこと(2018年撮影)

2026年10月13日火曜日

中居屋重兵衛その2

「中居屋重兵衛その1」で触れた佐佐木杜太郎の『中居屋重兵衛:開国の先覚者』(新人物往来社、1972)を、久々に本棚の奥から引っ張りだしたところ、2014年におそらく「日本の古本屋」のサイトから1,299円で購入したときの納品書が出てきた。祖先探しを始めて間もないころに神奈川県立図書館で見つけ、その後、古書が入手できることに気づいて購入したのだと思う。入手した当時は知らないことだらけで面食らって、半分も理解できなかったが、いま改めて読み直すと、幕末明治初期の生糸の輸出量統計数値なども詳しく出ていて、中居屋の大番頭だった松田玄冲の「日下恵」と「万日下恵帳面」の翻刻史料も収録されており、この書をいくつかの間違いをもとに切り捨てるのはもったいないと思う。今回は、本書を含むいくつかの中居屋関連の著作・論文をもとに、当時から私が疑問に思っていた件、「銅(あかがね)御殿」について再考してみる。

 横浜の本町4丁目に開港当初あった中居屋重兵衛の店は間口30間という大店舗で、屋根が銅瓦葺きであったことから「銅御殿」と呼ばれた、とどの歴史書にも書かれている。また、その記述とともにかならず、銅瓦が華美であることを神奈川奉行から咎められて、五日間閉店したとか、手代が入牢したとかいったエピソードが語られる。

 中居屋の店が豪華な造りであったことは間違いなく、すでに開店休業状態となって久しい1861年6月11日のフランシス・ホールの日記にも、店正面に間口の3分の2を占める、幅1.5mほどの石造りの池があって金魚が泳いでいることなどが描写されるとともに、「The building is conspicuous to one passing in the street by its dark heavy tiles, roof timbers…」(この建物は、その濃色で重厚な瓦、屋根の木材[中略]ゆえに、通りを行く者にもよく目につく)と書かれていた。F・ホールは神奈川の成仏寺にいた。ここで留意すべき点は、中居屋の店の屋根が黒っぽい色で、木材であるとホールが書いていることだ。  

 安政6年8月下旬、開港から2カ月あまりが経った時点で、中居屋のライバルであった三井の横浜店手代も「四丁目ニ中居屋重兵衛と申方、表間口三十間も有之、チャン流し之板屋根にて一際目立候普請」と書簡で書き送っていた。チャン流しとは、防水用に瀝青が塗られていることを意味する(三井文庫蔵『永書』、西川武臣『横浜開港資料館紀要』7に引用)。

 1889年に『横浜貿易新報』に野沢枕城という人が連載した記事(「原伝三郎伝」として『横浜どんたく』下巻に収録)には、横浜の古老の話として、「然れども銅を剥がしたる後なるか、銅にはあらずブリツキか、または板の上をコールタール様の物にて黒く塗り」と描写されていた。

 その1でも触れた中居屋の元手代の小林七郎次は談話のなかで、「邸宅は高壮で屋根は一寸板[厚さ3cm]を用い、麻を張り、その上にチャンで黒塗りされた。生麦の宿から眺められ、世人は〈浜の門跡様〉とよんでいた」と語っている。この談話は大正2年に小林が重兵衛の郷里の生家を訪れたときの思い出話だと、萩原進は『炎の生糸商』に書いている。  

 荻原氏、佐佐木氏双方の著者のカバーや函に使われた二代広重の「横浜風景一覧」は文久元年(1861)の作で、「同四丁目」に「中井」と書かれた立派なお屋敷を描いているが、屋根は黒々とし、むしろ壁がベンガラ壁のような赤茶色である。銅葺きなら緑青で薄緑色になるのではないかと思ったが、綺麗な緑青になるには10年以上はかかるようなので、開港から2年を経たころなら当初のあかがねの光沢は消え、目立たない茶褐色になっていたはずだ。銅瓦にはほぼ純銅が使われたようなので、合金である10円玉とは多少異なるだろうが、色味は似ているはずだ。  

 翌文久2年に刊行された横浜のガイドブック『横浜開港見聞誌』では、「また本町四丁目には中居という見世あり。座敷は異人のこのみにまかせ、中庭へ小鳥をはなち、金あみをもて天井四方をかこい、風流なるはびいどろにて壁の内をはりて、水をいれて金魚のここかしこに遊びてめずらかなり。この座敷に二尺余の四足台に横一尺七八寸、竪六七寸の箱をおきてあり。これはヲルゴルの大なる物にして、最もその音色美にして高し」と書くが、なぜか銅瓦については一切触れていない。  

 こうした傍証にたいし、銅瓦を葺いたために罰せられたとする記述も散見する。野史台隠士著『中居屋尊皇驚異記』は、西川武臣氏が問題視しておられた作品で、原文を読めていないが、ここに神奈川奉行の赤松左衛門尉範忠が「銅瓦で屋根を葺くなど分を越えた奢りである。五日間の閉店謹慎と早々に銅瓦を土瓦に改めることを申付け」たと書かれていた(荻原進『炎の商人』に引用)。萩原氏は1949年に群馬文化協会から刊行した『中居屋重兵衛:横浜開港の先駆者』で、この一件が安政6年7月27日だとするほか、『炎の商人』では銅製品が禁制の輸出品となったのは同年9月4日だったとする。野史台隠士の著書では、5日間の閉店の命令に中居屋が毅然と抗議したことも記されているようだ。ただし、問題は赤松左衛門尉のこの記録の出所が不確かで、赤松自身が神奈川奉行になったのは同年8月28日であるという齟齬があることだ。 

 佐佐木氏は、このとき主人の重兵衛の代わりに番頭の善助が入牢したと「日下恵」の記述から判断している。もっとも、「日下恵」は綴じる際に順番が滅茶苦茶になっているのか、日付順に並んでいないので何ともわかりづらい史料だ。表紙は「安政六年未六月吉日」で始まるのに、すぐに「二月五日六時半 和蘭陀五はんの人 弍人変死」と、安政7年のこの日に横浜居留地で起こったオランダ人船長殺害事件のことが記されている。そのあと12月27日夜と書かれた一連の記述があり、干鰯、銅、魚油、昆布、中物、水晶といった商品のあとに、「上田家中 長谷川宗次様 溝口喜三郎様/上田産物会所 江戸南新堀 支配人山崎由兵衛」と書かれている。長谷川と溝口の名前は、江戸詰めの上田藩士であることは、『上田藩松平家物語』から確認できる。南新堀におそらく何らかの事務所があったのだろう。 

「日下恵」では、そのあと一行置いて「中居親類之由 一 佐治治助様(悠輔) 二月四日御懸り」と書かれたあと、合原猪三郎と推定される人物を含む奉行所の役人が取り調べにきた記録があり、さらに一行おいてから「紀州御産物方」として人名および諸々の費用が並び、そこに「金壱分 牢屋小遣」「金壱両 善助 小遣ニ渡ス」などの記述が見られる。そのあとの日付は3月15日だ。ところが、しばらく行くと「安政七年正月四日」戻ってしまう。それでも、その先の3月4日にも「弍百文 牢屋小遣」、11日にも「金壱朱 牢屋」などとあり、さらに極月(12月)廿一日にまた「善助え牢見舞」と書かれている。諸々の情報を総合すると、安政6年12月27日に上田藩の産物会所の担当者が中居屋に赴き、同日、神奈川奉行所の役人もきて、善助が入牢し、牢屋で年を越して翌7年3月4日もまだ牢屋にいた、と考えると筋が通るが、どんなものだろうか。  

 中居屋の店の屋根に話を戻すが、屋根のほうも同じくらい情報は錯綜している。銅瓦だったのかチャン流しだったのか、横浜の歴史家たちは頭を悩ませたようで、『横浜市史』第2巻には「中居屋の建築は銅瓦の屋根で、『凡日本にはあるまじく』とうわさされたが、銅瓦はその筋から禁止され、檐口へのみ銅を張り、『其外はチャンを流し候由』」という折衷案を、大日本維新史料稿本が引用する『雑記』20からまた引きする。この『雑記』は見つけられていない。  

 悩ましいことに、万延元年(1860)正月5日に大番頭の松田玄冲が故郷の飯沼村名主、吉池文之助に書き送った書簡にも、「旧冬中ハ由之助様御出府之処、長々之御滞留御案事可被遊と存奉候、中居屋重兵衛義も張銅一条ニ付、閉店被仰付、夫故ニ由之助様江御勘定不埒ニ相成」などと書かれている。その1で言及した『蚕都信州上田の近代』のなかの西川氏の論文にこの書簡の全文が翻刻され、「手紙には、営業停止の理由が『張銅一条』にあったと記され、店の屋根を銅葺きにした店の普請が、あまりに華美であったことが幕府の怒りに触れたとある」と解説されている。  

 しかし、その他の史料から判断すると、中居屋は前年10月、遅くとも11月には営業停止命令を受けていた可能性が高く、重要な取引先である飯沼村に生糸代が未払いの状態のなか、とりあえず現状報告した書簡だという事情を考えると、なぜいまだに銅瓦なのかという疑問が湧く。銅瓦は葺き直したか、檐口だけではなかったのか。  

 一世紀以上にわたって、代々の歴史家が頭を悩ましてきたに違いない銅瓦問題だが、中居屋重兵衛が実際に幕府から咎められていた根本の問題を、関係者がひた隠しにし、「張銅一条」と誤魔化したための混乱だった可能性はないのだろうか。つまり、中居屋の店の屋根は、当初から三井の手代が書いたように、あるいは中居屋の手代が晩年に語ったように、3cm厚の板の上に麻を張ったチャン流しだったのであり、開店から数カ月で閉店させられるあいだに、屋根を張り替えるような大工事をする余裕はなかったのではないか、というのが私の素朴な疑問である。次回は中居屋が営業停止になった状況を整理し、中居屋をめぐる謎の本質にいくらかでも迫れれば、と思っている。

(左)『開国の先駆者:中居屋重兵衛』(佐佐木杜太郎著、新人物往来社、1972年)この本の表紙は、中居屋の紋である丸内に三本立算木という変わった紋と、実家の黒岩家の剣花菱の家紋がエンボスされた布貼りであることに、いまさらながら気づいた。
(右)『新版 炎の生糸商 中居屋重兵衛』(萩原進著、有隣新書、1994年)

2026年10月10日土曜日

中居屋重兵衛その1

 ようやく本業に専念できる状況になったはずなのに、少し前に横浜の歴史を見直したことをきっかけに、思いがけない発見や、ずっと引きずってきた疑問等が多々あり、結局、幕末史からなかなか抜け切れずにいる。先日、近所の歴史を調べるために久々に中央図書館に行った折に、ヨコハマ資料の書棚で『蚕都信州上田の近代』(阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年)を借りてしまったのが運の尽きで、そこから中居屋重兵衛について再々度調べ直したりしている。きちんと一つにまとめる余裕も気力もないので、頭のなかのメモリーを食っている問題を小出しに備忘録代わりにブログに書いておく。

  取り敢えずは、以前にブログに書いた桜田門外の変と中居屋重兵衛のかかわりについて。この問題について西川武臣氏が、中居屋が水戸浪士と一緒になって事件に深くかかわったとするのは、昭和初めに野史台隠士と中里機庵が書いた俗説に過ぎず、「確かな資料が新たに発見されない限り」事実ではないと断定しておられることへのささやかな反論だ。西川氏は、私がこの件について最初に読んだ佐佐木杜太郎の『開国の先覚者 中居屋重兵衛』(新人物往来社、1972年)を、「俗説に基づき記された部分も多く、間違いも多い」と評価しておられない。確かにこの時代に書かれた歴史書の多くは、出典が記されておらず、読者は真偽を確かめようがない。それでも、中居屋については当時日本にいた外国人も多く書き残しており、傍証はいくらでもあると私は考え、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも多少触れたほか、残った疑問点は何度かブログにも書いた。

  また、近年、ネット上の情報も増えたし、国会図書館デジタルコレクションが拡充したおかげで、古い多くの史料を誰もが家にいながら検索できるようになったために、数日間調べただけでも、じつに多くのことが判明した。まず、西川氏が問題視した野史台隠士と中里機庵は同一人物であり、本名は中里右吉郎であることだ。明治29年の官報などで同名の人物が大分県士族としてヒットするので、中津藩士またはその子孫の可能性が高い。佐佐木氏の著書から私が信憑性の高い証拠と思った林鶴梁(1806-1878)と福井藩の村田氏寿(1821-1899)の対話は、明治10年までに両者が接する機会があれば不可能ではなく、中津藩士の中里氏が横浜開港期の福沢諭吉の足跡を調べるなかで中居屋に出会ったとすれば、村田氏寿から当時の秘話を聞きだすこともまったくありえない話ではないだろう。

  今回、中居屋について調べ直すなかで、上田市飯沼地区についての論考や史料を多数読むことができた。飯沼村は実際には上田藩領ではなく、岩村田藩領(藩主内藤正縄)であり、そこの名主である吉池家は、嘉永4年から信州糸を集荷し、上州商人に販売していたという。中居屋の大番頭だった松田玄冲は飯沼村の出身で、焔硝(硝石)の商売を通じて中居屋と知り合ったと考えられている(阿部勇『信濃』63-3-734、2011年)。

 吉池家当主、文之助の息子、由之助が父親宛に安政7年3月10日に桜田門外の変について実行犯をはじめ、事件の詳細を書き送っていることが、上田の歴史家阿部勇氏によって明らかになっている(詳しくはこちらで)。 3月3日に生じた事件については、閏3月晦日まで公表されずにいたことを考えれば、由之助がこれだけの情報を得ていたということは、中居屋が事前に水戸浪士と深い関係にあったことの十分な証左となる。

  佐佐木氏の著書には、桜田門外の変の知らせを受けて中居屋が歓喜した一件が綴られている。一人娘たかの初節句の祝いの席だったという描写で、肝心の情報源が書かれないまま、ドラマ仕立てになっていたが、これは長野県小県郡祢津村新張出身の中居屋の番頭、小林七次郎が昭和4年の『群馬県吾妻郡誌』で語っていたことは、萩原進の『炎の生糸商 中居屋重兵衛』からわかる。中居屋は前年10月中旬には幕府によって閉店させられたと思われ、上田藩が11月下旬には産物世話役を処罰していることは、本書および横浜開港資料館紀要9の西川氏論文から判明している。翌安政7年に、手持ち無沙汰の中居屋は雇人7、8人を連れて郷里の中居村に帰り、その後草津温泉でも数泊している。3月3日のお祝いの席に江戸から知らせが入ったのだとすれば、横浜で聞いた可能性が高いと思われる。ただし、『群馬県吾妻郡誌』は読めておらず、萩原氏の引用文からは、それ以上に詳しいことはわからない。 

 ついでに、『NHK歴史ドキュメント3』(1986)という書が国会図書館デジコレでヒットし、ざっと読んでみたところ、桜田門外の変で使われた拳銃、コルトM1851についての一応の分析が出ており、中居屋重兵衛の子孫の手元にある銃はそれをもとに日本でつくられた青銅製のもので、施条(ライフリング)されていないとしている。近年も桜の花が刻まれた日本製の拳銃が使われたという説をテレビ番組で報じていたようだが、私はこの説には懐疑的だ。中居屋に銃を売ったのはアメリカ人ホールと言われており、なかには「エッチ・ホール」とする記述もあったが、開港当初から横浜にいて、ウォルシュ商会にいたジョージ・ホール医師(ミドルネームはロジャース)と私は考えている。日記を残したことで有名なフランシス・ホール(ミドルネームはフランク)は、ジョージとも懇意だったが、神奈川に住んでおり、彼の日記も桜田門外の変について3月26日には書かれているが、拳銃の提供者とは考えにくい。

  取り止めのない記事になってしまったが、中居屋と桜田門外の変は関係があるはず、という私の従来の主張の裏付けとなれば幸いだ。中居屋に関する西川氏の論文には多くの貴重な情報が含まれており、それらを参考に、中居屋が拳銃を提供することになった動機という、より重要な点についても、追々まとめてみたい。

『蚕都信州上田の近代』
阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年

2026年9月15日火曜日

『現代日本の庭園100年』

「日本庭園はお好きですか?」  
 そんな問いから、この仕事は始まったと記憶している。私は風流とは程遠い人間で、庭園よりは自然の野山を歩き回るほうが好きなタイプなので、正直言いえば、答えに窮した。しかし、原書の概要を読んでみると、何やら不思議な作品ではあった。外国人が書く現代に息づく日本庭園の豪華ヴィジュアル本なのだ。著者スティーヴン・マンスフィールドは、日本に長らく住み、日本文化に造詣が深く、『ニッケイ・アジア』の定期寄稿者とのことなので、ご存じの方も多いかと思う。  

 古くはラフカディオ・ハーンのように、あるいは故ドナルド・キーンのように、日本人以上に日本文化の本質を捉えていた外国人もいたし、近年は日本のアニメや漫画、ゲーム、小説などが海外でも幅広く親しまれたおかげか、ウィアブー(Weeaboo)とかウィーブ(Weeb)などと呼ばれる日本オタクのなかには、若い外国人でも驚くほど日本をよく知る人が増えている。  

 日本庭園の知識など皆無に等しかったし、学生時代に造園学の授業を受けた娘が、夢窓疎石がどうのこうのと言っていた記憶はあっても、当時の私には馬の耳に念仏で、頭には何も残っていなかった。たまたま、スケジュール的に待ち時間ができてしまったときでもあり、腹を括って引き受けてみることにした。したがって私にとってこの仕事は、紙上で日本各地の庭めぐりをしながら、日本の庭園文化を猛勉強する機会となった。著者がたびたび言及する平安時代の庭園書『作庭記』や『後楽園記事』なども少しばかり読んでみたし、大名庭園や小川治兵衛の本などは図書館で借り、谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』や、アレックス・カーの『もうひとつの京都』も読んでみた。 

 もちろん、読めば自分の目で確かめたくなる。のんびり休暇を取って本書で言及される津々浦々の庭園を訪ねる余裕はなかったので、近場ばかりだが、柴又の山本邸、小石川後楽園、湘南台文化センター、根津美術館などを訪ねたほか、用事のついでに安田庭園や向島百花園、国立博物館の庭園をぶらつき、長野に行った折にはホテル犀北館に重森三玲の孫、青作氏が作庭した庭があるのを地図で見つけて訪ね、なかに入らせてもいただいた。

  少しばかり勉強したくらいでは、「石の乞はんに従ひて」などという奥深いことはまるでわからない。別に有名な庭園に巨石を見に行かなくとも、八ヶ岳の登山道には見上げるような巨石がいくらでもあるのに、とつい考えたくもなる。遠方から水を引いて遣水などつくらなくとも、苔むした岩のあいだをせせらぎが流れる場所もそこかしこにある。巨石のあいだを通り抜けるときなどは、その岩がそこまで転がり落ちた時代を想像せずにはいられないし、汗だくの体を冷やしてくれる水に手を浸せば、自然の恵みに感謝したくなる。

  しかし、日常的に山を歩くことは、山小屋の番人や歩荷にでもならない限り不可能だ。日本の庭の起源を、平安の寝殿造の庭どころか、磐座や賽の河原(と思われるもの)、斎庭や佐庭、結界などにまでたどる本書の説明を読みながら、日本の庭園は自然界の驚異を身近な空間に、いわば作庭家が神に成り代わって再現したミクロコスモスなのかと考え直すようになった。西洋やイスラームの庭園の多くが、人間が自然を支配した象徴として幾何学的で秩序や規則性を感じさせるのにたいし、日本の庭園は不規則な曲線だらけだ。一見すると適当に石を転がし、植栽を配置しただけに見える庭もある。砂利に箒目をつけた、ミニマリズムの抽象画のような石庭ですら、左右対称であったりはしない。「道教の非対称のバランス概念に則した奇数」が、日本の庭には随所に見られるようだ。収まりのいい、割り切れる偶数でなく、危ういバランスを保つ奇数は、所詮、人間のやることは自然には敵わず、諸行無常という感覚に通ずるのかもしれない。落ち葉を掃き終えた庭に、千利休がわざと数枚の葉を散らし、不完全さと自然の揺るぎなさを思いださせたという、本書で紹介されるエピソードには、庭園の美学だけでなく、自然にたいする日本人の哲学が凝縮されている。 

 飛び石の配置にも意味があることはそれなりにわかったし、庭園内をめぐる「延段」の通路が、来園者に決まった経路を歩かせ、草木や築山による「見え隠れ」の技や、目の錯覚も利用して、さながら遊園地のアトラクションのように、実際よりも広い場所に感じさせていることなどは、なるほど!と納得するものがあった。庭園という世界で、古代から人びとが再現しようと思ってきたものや、決まり事がわかり、作庭家の意図や遊び心が見えてくると、近所を歩いていても、この家の石垣の青石はどこのものだろうとか、お隣の家の車庫前のあれが光悦垣かとか、小石を固めた雷おこしのような敷石部分も一種の延段かとか、このお寺の裏山斜面の植栽は本書の表紙にも使われた林昌寺の坂道の庭そっくりだとか、いろいろ見えてきて楽しくなる。都内ですらなかなか行けないので、「垂直」の庭がある丸の内オアゾやGINZA SIXの屋上庭園もまだ拝見していないのだが、似たような「垂直」の庭なら根津美術館に行く途中でも見たし、そもそも近所の駅の入り口や、地下通路にすらある。何気ない意匠や工夫に込められた意図がわかり、それもまた古来脈々と受け継がれてきた文化の一端なのだと思えば、凡庸に見えた日常の光景が違う目で眺められるようになる。 

 伝統の様式を安易に踏襲することには、著者は批判的だ。傑出した作庭家には斬新な創意工夫が見られ、そこから新たな伝統が生まれてきたことも本書は伝える。表面的な様式にこだわるのではなく、根底に流れる精神や哲学ということだろうか。幾何学的な形状だけでなく、自然素材でないものを庭の景物として採用した事例や、極端な例では豊島の横尾忠則の原色の庭などにも本書は紹介する。個人的には那須にあるアートビオトープ那須の「水庭」に心を惹かれたが、ここは維持管理費の問題か何かでいったん閉鎖され、いまは「無垢の音」として一部改修して公開されているようだ。まるでナルニア国の『魔術師のおい』に出てくる「世界と世界の間の林」が目の前に広がったような光景だが、かつてそこにあった水田の取水口の仕組みを利用したものという。庭園の多くは、水という最大の資源の管理のわざを見せているのだと思う。

 明治維新後、接収された武家屋敷の敷地が解体され、桑畑や茶畑となったという一文は、訳しながら複雑な心境になった。生糸と茶は、開国した日本が世界に売ることのできた二大品目であり、こうした動きは桑茶政策と呼ばれる。広大な大名庭園の維持管理は、それだけの財政基盤がなければできない。明治期に土地利用がどう変わったかは長年の私の関心事の一つでもある。 

 本書に寄稿する禅僧の作庭家、枡野俊明氏は、心に庭をもつように、小さくてもいいから自分の庭をつくりなさいと助言していることで知られる。うちのアパートの草ぼうぼうの庭を何とかするだけの気力はなかったので、昔バードバスに使っていた大きな鉢皿にミニチュア苔庭をつくることにした。道端や庭のコケなどを集め、そこにあちこちで拾った石を少し置いただけのものだ。東福寺の重森三玲の市松模様の庭を真似て、山で孫が拾ってくれた四角い平らな石も並べてみた。『鬼滅の刃』の炭治郎だ!などとも言われているようだが、幾何学的な四角い石と苔の配置は西洋的なモダンさを感じさせながら、不規則であるために動きがあり、どこかエッシャーの「昼と夜」をも思わせる不思議な魅力がある。古い茶筅を引っ張りだしてきてお茶を点てて、ミニチュア「苔庭」の前でしばし無心のひとときを過ごし、眠気もなくなったところでまた仕事に戻ったりもしてみた。 

 植物が大好きな孫はこの苔庭が好きで、うちにくるたびに真っ先に寄って霧吹きでシュッシュッと水やりをしてくれているのだが、コケは暑さにも日差しにも弱く、どんどん勢いがなくなった。じつは本書の仕事は昨年末には終わっていたのだが、発売が今月下旬となったため、次に取り組んだ『回転の科学』のほうが先に刊行されることになった。苦手な物理に頭を悩ましているあいだに、うちの「苔庭」では下に敷いたテラリウム最適用土なるものに入っていたと思われる胞子から、いつのまにか前葉体が出現し、シダが生えてきた。画像検索からすると、ヒメカナワラビとイノモトソウかその近縁種だろうか。まだ胞子はできていないので、取り敢えずこのまま様子を見るつもりだが、「苔庭」ならぬ「羊歯庭」があまりにもジャングルになったら庭に移すつもりだ。  

 画像ではよくわからないだろうが、本書は手に取るとずっしりと重い。コーヒーテーブルも、見栄えのする本棚もないわが家では置き場に困るほどだ。それでも、くつろぎのひとときにパラパラとめくっていただければ、次の休暇に訪ねてみたくなる場所がいくらでも見つかることを請け合おう。退職して悠々自適の身となられた方であれば、ぜひお手元に一冊置いていただきたい。本年になって出版業界を取り巻く事情は厳しさを増しているという。紙代、インク代、運送費、いずれもが値上げとなるなか、こんな豪華本を刊行してもらえたことを感謝している。

『現代日本の庭園100年』(スティーヴン・マンスフィールド著、河出書房新社)
左:原書 右:邦訳版

柴又の山本邸。昭和初期の建造だが、庭の造りは明治初期に尾張の徳川慶勝が撮影した瓦町の屋敷の庭とよく似ていた

小石川後楽園。庭園内の「見え隠れ」を楽しんだあと、現代の「借景」となってしまった文京区シビックセンターの研究会に参加した。東京ドームは曇り空では思いの外目立たないが、騒音がひどい

湘南台文化センター。水は流れていなかったが、平成初期の近未来の不思議な空間はまだ結構楽しめた

根津美術館の庭。カキツバタの時期に尾形光琳の屏風とともに見てきた。丹南藩下屋敷跡の庭は都心とは思えない空間だったが、あいにく隣が大工事中でここも騒音がひどかった

2026年9月12日土曜日

『老中松平忠固史料集』

 昨年7月に刊行された論文集に次いで、「老中松平忠固と生糸貿易研究会」からこのたび『老中松平忠固史料集』(岩下哲典編、吉川弘文館)から刊行された。史料集は、研究会メンバーが4年にわたる活動のなかで掘りだした、これぞと思う史料を集めた第I部と、忠固の老中日記からの抜粋である第II部、および水戸・越前・彦根という雄藩の史料に描かれた忠固の比較検討表で構成されている。

 第II部の忠固日記は、この史料集の目玉と言ってよい部分で、これは鈴木乙都氏が中心となって実現した。東大史料編纂所データベースで写本の画像が見られるとはいえ、一コマずつ細切れに見ていく作業は見やすいとは言い難い。『昨夢紀事』の饒舌さとは対照的な忠固日記だが、そこに書かれたことも、書かれなかったことも、日本の開国史の重要な時期に忠固が幕政の中心にいたことを考えれば、重要な意味をもってくるはずだ。老中日記の翻刻という試み自体が、ほとんど類を見ないものだそうだ。

 第I・II部の多くは、史学者も知らない、またはよく調べたことのない史料であり、雄藩の公刊史料のほうは逆に、史学者なら一度は目にしているはずのものだ。ところが、そこでは忠固は「敵」や「悪者」や「無能な老中」とされていたために、史学者も彼の存在に気づかないか、興味が湧かないままに、歴史の脚注に葬り去っていたに違いないものだ。この比較表は、関良基先生の労作だ。論文集に輪をかけて高額の本となってしまったが、研究者の方々や全国の図書館が購入してくださることを願っている。

  研究会は通算47回にわたったとのことで、基本的には毎月1度のオンライン会議だった。メンバーはそれぞれ独自の仕事や研究をかかえた人ばかりで、皆勤賞は、なかでもとりわけご多忙な会長の岩下先生くらいだったのではないだろうか。この間、たいへんなご苦労があったと思う。

   研究会の活動で何よりも貴重な体験となったのは、上田市立博物館と上田市立上田図書館で史料調査をさせていただいたことだった。上田にはかなり大量の史料が残されている。なかには虫食いのひどい分厚い史料もあったが、細い筆で書き込まれた墨の文字は200年近く前のものとは思えないほど黒々とし、和紙はまだ十分に形状を保っていた。博物館に収蔵されるまでに、誰によってどこで保管されて、今日まで残ったのだろうかと、ページをめくるたびに、包み紙を開くたびに、どきどきした。そんな体験を少しでも伝えられたら、という思いもあって、私自身は史料集に3点(掲載した画像としては4枚)の絵図を選んだ。 

 そのうち2点は京都のもので、上田藩と京都とのかかわりが何かしら見えてくるのではと期待してのことだった。1枚は上田藩の京都藩邸、もう1点は黒谷金戒光明寺の塔頭、歓寿院の絵図で、どちらも現存はしない。しかし、いずれも上田の領主となった藤井松平家が、上田に移る以前から、幕末まで維持しつづけていたものだった。他藩と比較することはできないが、それなりに特殊なかかわりだったのではないだろうか。 

 残る1点は、江戸の中屋敷で、忠固の没後に上屋敷となった隅田川沿いの瓦町藩邸の複数の絵図だ。瓦町藩邸は、私の高祖父がいた場所でもあったため、これまでに何度かコウモリ通信にも書いている。今回、史料集に掲載するために改めて調べたところ、すぐ近くが浅草御蔵で、藩邸の敷地内に入り込む形で入っているのが、その関連の御書替役場であること、藩邸のある場所が富士見の渡し場であり、南隣りの茅町には浅草代地河岸があり、柳橋芸者でも知られた繁華街であったことなどがいろいろわかってきた。要は交通の要衝であり、浮世絵にもこの一帯は数多く描かれていた。 

 絵図といっても、通りに面した狭い2箇所の入り口の複数の門の図や、内部の居住空間の大まかな平面図しかない。だが、そこに書かれた細かい文字を読み取ると、門の間口が12メートルほどであることや、見張りが常駐していたはずの番所や、非常口と書かれたくぐり戸があること、表通りとのあいだには下水が流れていたことなどがわかる。平面図には長屋がずらりと並ぶ様子が描かれている。江戸詰めの藩士は「家族を国元に残し、江戸の藩邸内の割屋・長屋に住んでいました」という『上田市誌歴史編 城下町上田』に書かれていた説明どおりなのだ。少し小ぶりの建物があったので、共同の「厠」かと思い、写真を拡大してみたら、「厩」であることがわかり、嬉しかった。 

 あれこれ眺めるうちに、いつもの悪い癖で、その門をつくってみたくなった。紙工作に始まり、少し進化してアイスの棒細工に、最後はレゴにまで手を出して、タン色のブロックやタイルをいくつも購入してしまった。1作目では門を開け閉めてしては、番所の兵士との会話を楽しんでいた孫も、レゴの門ができたころには「好きだね」と呆れていた。紙細工の門の前に立つ菅笠に野袴姿のおじさんは「大坂入城行列図」の絵巻のなかに見つけた高祖父を模したものだ。これも、3年前の史料調査で閲覧させていただいた。今回の史料集では、忠固が大坂城代に就任した弘化2年の同じ行列のものだが、絵巻とは別の行列帳の史料が、宮崎航平氏によって翻刻・解説されている。 

 私は絵図のほかに、短い老中書簡も2通、掲載していただいた。1通は、私が忠固について調査を始めた当初、『幕末外国関係文書』で見つけたハリスへの見舞い状で、卵300個を贈ったという目録が強烈で覚えていたものだった。冷蔵庫のない時代に、300個の卵を一度にもらったのか? 毎食、巨大オムレツをヒュースケンと2人で食べても、食べきれないぞ、などと想像して笑ってしまったものだ。ハリスがアメリカにもち帰った老中書簡の現物が、彼が設立したニューヨーク市立大学シティ・カレッジに残っていることがわかり、研究会に決して安くはない費用を負担していただいて、海を渡った老中連署の書簡の画像を史料集に含めることができた。残念ながら、卵の目録のほうは見つからないようだった。いつか誰かが現地でもう一度、探してくれることを願っている。 

 もう1通の書簡は、堀田正睦宛の老中書簡で、国会図書館のマイクロフィルムで明治期の写本は確認できたが、現物はあいにく見つからなかった。それでも、将軍継嗣問題に言及した重要な内容のものなので、忠固の立場を理解するうえで、いま一度、しっかりと読み返していただきたいと思い、敢えて加えてもらった。この問題に関しては、4年を経たいまも、研究会のメンバー内で意見の一致を見ていない。お互い、「推し」の歴史上人物があり、どの立場に偏って眺めるかで、結局、「藪の中」状態になるのが歴史という学問の宿命なのかもしれない。 

  昨日、史料集の刊行を記念して、研究会の活動の集大成となるお披露目会があり、私も参加してきた。昨年刊行の論文集にたいする佐藤隆一先生による詳細にわたる書評会があったあと、忠固のご子孫の方や上田の方々、関係の深かった地方からの方々、史学者など、大勢の方が参加してくださった史料集の記念講演会があり、そのあと丸ビルの高層階にある高級フランス料理屋に場所を移して、コース料理をご馳走になった。松平忠固の研究会が発足するきっかけをつくり、研究資金をご提供くださった東方商館の本野敦彦社長の奢りだった。上田藩は忠固の老中時代は西の丸下の役宅を上屋敷としており、36階のレストランからは、皇居一帯が見下ろせるという粋な計らいだった。これまで上屋敷の正確な場所を確認したことがなかったが、嘉永5-6年の大名小路の絵図によると、いちばん坂下門寄りが松平伊賀守だったようだ。左手に見えるのが桜田門だ。私の高祖父は幕臣とトラブルになって馬で逃げた際に、「桜田門内に駆け付け役屋敷を三匝して塀を乗り超えて邸内に」入ったらしいので、その光景も想像してにやりとしてしまった。 

 本野氏は20年前に、歴史の闇に完全に埋もれていた松平忠固を貨幣史の研究中に見出し、それ以来、忠固を世に知らしめるためにドラマ化を目指して奮闘されてこられた。その熱い思いがついに映画化のプロジェクトとなり、来年末公開を目指して動きだしているという。昨日は映画の関係者の方も何人もこられて、夕食会も大盛会となった。  

 本業だけでもいつも締切りに追われているので、慣れないことばかりのこの4年間は私にとっても本当に苦しい日々だったが、途中で投げだすことなく、ひどく足手まといになることもなく、何とか役目をはたすことができて肩の荷が下りた気がする。研究会の活動を通じて学んだ多くのことを、今後は気ままに、自分の好きな研究活動に応用していきたい。
 
上田藩瓦町藩邸の表門外取締門の①紙工作物

②アイスクリームの棒工作物、冠木門に屋根を付けた図

③レゴ・バージョン

丸ビル高層階からの眺め
「
大名小路内桜田神田橋内京橋南北図」東京都都立図書館 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042225

2026年7月31日金曜日

『回転の科学』

   昨秋から取り組んできた拙訳書『回転の科学』(ローランド・エノス著、河出書房新社)の見本が送られてきた。この数年、何やかんや二年越しになる仕事が多かったなか、この作品はありがたいことに比較的順調に進んだ。原題はThe Science of Spin:How Rotational Forces Affect Everything from Your Body to Jet Engines to the Weatherという。著者は生体力学を学び、マンチェスター大学とハル大学で教えてきた人だが、邦訳出版された前著『「木」から辿る人類史』(水谷 淳訳、NHK出版)からもわかるように、研究範囲は驚くほど広い。 

   リーディングを依頼された際に、これは面白いかも!と直感したのだが、じつを言えば、本書のテーマである物理は私の苦手科目の一つだった。長らく、翻訳の仕事を引き受けるときも「数学と物理以外であれば」と、いつも条件をつけていたほどで、それが少しずつ変わったのはフェイガンの『水と人類の1万年史』(河出書房新社、2012)で水車の魅力を知り、ダートルネルの『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(同、2015)で回転機械の仕組みをいくらか理解したころからだろうか。気象学、気候科学や物理学史の著作に携わった経験も、「物理は苦手」という私の意識を少しずつ変えてくれたかもしれない。幸い、本書の著者は、物理が過度に数学に依存してきた弊害があると考え、数式を避けて読者に直感でわかる物理的な説明を心がけてくれている。 

   とはいうものの、本書が扱う分野は工学分野にとどまらず、第1部は宇宙物理学、第3部はスポーツ科学という、私の未経験分野も含まれている。内向きの向心力のような目に見えない力や、歳差運動のような方向がどんどん変わる運動を、三次元空間で思い描く能力が私にはいちじるしく欠けており、宇宙空間の事象ともなれば、どっちを向いて、どの方向に回っているのかわからなくなる。 

 ありがたいことに、今回はChat GPTという強力な味方がいたので、何度も質問を繰り返し、図示してもらい、どうしてもわからない疑問点を一つひとつ解決していった。インターネットすらろくに使えなかった時代から考えれば、翻訳を取り巻く事情も何と変わったことか。AIのデータ処理に大量のエネルギーと水が使われ、それが人類の新たな深刻な脅威となっていることをこれまでいくつもの訳書で学んでいたので、少なからず後ろめたさはあった。それでも、私に可能な限り正確に訳し、本書を世に送りだすことには意義があると、自分を納得させることにした。はたしてうまく訳せたのかどうか自信はないが、通常はお茶を濁した説明で終わっているという猫捻り問題などもしつこく質問したので、AIも呆れたのか、「そこまで理解していれば、大学の物理学科に入学できます」と、最後にはお墨付き(?)を頂戴した。高校時代に本書を読む機会があったならば、私の人生の進路は変わっていたかもしれない。 

   回転技術・機械を扱った第2部は、多少馴染みがあったせいもあって、楽しく訳すことができた。ガーンディーがインドの独立運動の象徴として使いつづけた紡ぎ車チャルカが、産業革命前の時代の人力で動く装置の頂点だという本書の指摘を読んだあと、その簡易版のようなブック・チャルカを自作してみたほどだ。実際、人間がつくった機械の多くは繊維製品をつくるためのものであり、なかでも綿や絨毛のような短い繊維を撚り合わせて糸をつくる製糸技術に、人の知恵が凝縮されていることを本書でたびたび実感した。 

 綿花から種を取り除くために日本で古くから使われている綿繰り機は、本書で言及されている12世紀インドの発明品と同種のものであることを発見して驚いた。しかも、ペリー艦隊の再来航時、横浜に下見のための上陸した際に、通訳として同行したサミュエル・ウィリアムズがそれに注目していたのである。1854年1月21日(嘉永7年1月21日)、午後の3時15分になって突如、香山栄左衛門が応接場として横浜はどうかと言いだしたときのことだ。「木枠に二個のローラーを組み合わせ、それぞれの先端に短いスクリューを取り付けて、これを相接して回転させることにより、種子から綿をはじき出す機械を見つけた」と、『ペリー日本遠征随行記』には書かれていた(洞富雄訳)。二つのワームギアを組み合わせると、どういう動きになるのか実際に試してみたいのだが、これはまだ実行できていない。 綿の繊維を揃える作業では、日本では綿打ち弓が使われていたが、欧米の羊毛産業ではカーダーが長らく使われ、やがてこの作業も回転装置で機械化された。私は100均でペット用の毛梳き器を買って試してみたが、糸がスムーズに紡げるほどには上達していない。 

   本書を訳しながら、レゴで多数の作品をつくってみたことは、すでに「コウモリ通信」でも何度か書いた(たとえばこの回 やこちらの回)。ごく最近になって、レゴのボッチは定間隔なので、織機もつくれそうだと試してみたものの、綜絖(そうこう、ヘドル)にする手頃なパーツが思い当たらず、取り敢えず片道だけは綜絖を滑車で上下し、シャトルを許せる速度で動かせるものが出来上がった。せっかくタイルをはめて杼摺(ひずり)にしたのに、「飛び杼」ならぬ「這い杼」くらいの速度ではあるが、子どもが織物の原理を知るにはよさそうなものだ。 

 最も単純な作品は、世界初の機械だというはね釣瓶、シャドゥーフだ。このごくシンプルな装置でも、ピボットにどのパーツを使えばよいのか意外に悩まされた。しかも天秤となる短いほうの軸の先端に、汲み上げる水と同程度の錘をつけることが肝心であることは、つくってみてから理解した。 

 いちばん試行錯誤したのは、水車場と通常、私は訳している水力利用の工場、millだろうか。上斜式にすれば少量の水を流すだけで水車を回せるのではないかと思ったのだが、水の重力エネルギーが無駄な抵抗を受けずに推進力に使われるような仕組みをレゴで再現するのは、私には難しかった。かなり高い位置からそれなりの水量を流せば回るには回るのだが、水がもったいなので、諦めて手回しすることに。それでも、大きさの異なる歯車を組み合わせて回転速度を変え、ベベルギアやワームギアで回転方向を変え、カムやクランクで往復運動に変換させることなどは挑戦でき、若干のパーツをつけて石臼や蜂蜜用の遠心分離機、製材所、縮絨器(というより餅つき器)のようなものもつくった。 

「指南」という言葉の語源が、古代中国の指南車にあったことを本書で知り、差動歯車の仕組を理解しようとネット検索中にレゴで指南車をつくった人を見つけ、それを参考にして、上に仙人のようなミニフィグを乗せて、同じ方向を指しつづける装置をつくったこともある。

 人間の動きは歩く、走るを含め、多くが回転運動であるという本書の指摘から、坂道を自重でカタカタ歩く玩具なるものも挑戦してみたのだが、適度な重さが必要らしくレゴではうまく再現できず、ハンドルを回して歩くオウサマペンギンのようなものに改造した。ところが、足が回るだけで「歩いているようには見えない」と孫に一蹴され、上体を揺らす工夫をしてみたが、このプロジェクトはそこで頓挫している。

 ブーメラン、スリング、コース・フィッシング用の投げ棒、ブンブン独楽など、本書で言及されている道具も、その関連で思いついたヌンチャクや竹トンボとともに、紙工作などでお試し品をつくってみた。私もブルース・リーの真似をして遊んだ一人だったが、小学生のころにこうした遊びをもっと実体験していたら、違う世界が広がっていたのだろう。学生時代に一年ほどお遊びで通ったテニススクールで教わったことは、投げる、打つなど、私のあまり得意でないスポーツを訳すうえで、それなりに役立った。スポーツの専門家は、本書をどう読むだろうか。 

 だいぶ背伸びをして引き受けた仕事ではあったが、高校時代よりよほど勉強して取り組んだおかげで、多少は視野も広がった気がする。本書を手に取ってくださる方々が、私と同じくらい、いや、それ以上に、本書を活用してくださることを願ってやまない。

『回転の科学:宇宙・気象・エンジン・人体』ローランド・エノス著、河出書房新社、2026年 ペーパーバックのコンパクトな本です! 
自作のブック・チャルカ 実用性があるとは言えませんが……


レゴでつくってみた指南車


どんどん「機械」を付け足し、広がってしまった水車場

2026年7月11日土曜日

『英語病にご用心!』を読んで

 明け方、蒸し暑くて暗いうちに目が覚めてしまい、どうにも眠りに戻れないので、諦めて読みかけの弟の近刊、『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(東郷公德著、開文社出版)を最後まで読み通した。インタビュー本なので、すらすらと読めるのだが、何しろ合計13人もの、各界の第一線で活躍する人たちが登場する。厚さ2cm強の軽そうな見た目のペーパーバック版ながら、実際には480ページ近くあるのだ。その分、読み応えは十分にあった。  

 もとはコロナ禍で、新入生向けにオンライン配信したガイダンス動画がきっかけだったそうで、本を執筆中という話をだいぶ前に聞きながら、いつまで経っても刊行されないと思っていたところ、当初の企画がいったん完全に潰れて、大量の原稿を抱えて飛び込み営業した末に、5年の歳月を経てめでたく出版に漕ぎ着けた、という汗と涙の結晶らしい。インタビューに応じてくださった方々や、あいだを取りもってくださった方々など、大勢の人を巻き込んでの企画なので、その間、さぞかし胃の痛い思いをしたことと思う。  

 弟は上智大学の外国学部英語学科で教えているので、インタビューした人の多くは上智の関係者であり、なかでも英語学科というやや特殊な環境が背景にある。弟は日本で教育を受け、県立浦和高校から英語学科に入ったため、帰国子女がやたらと多く、「休み時間に周りでみんな英語で話している!」状況に怖気づいた一人だったらしい。 私が出たフランス語学科も、帰国子女が多いという点では似たり寄ったりかもしれないが、入学前からフランス語がペラペラの数人は「スペシアル」組になり、フランス語の初歩の発音練習や会話練習は免除されていた。私たちその他大勢は、幼稚園のお遊戯さながらに身振り付きで、フランス語特有のリズムを習う訓練を延々とやらされたので、「r」の発音をなかなか習得できない人など、多少の優劣はあったにせよ、どんぐりの背比べ状態だった。 

 弟はのちに一年間、家族連れでイギリスに留学しているが、オーラルな英語力にはいまだに劣等感をもっているらしい。それなのに、シェイクスピアの研究者となり、よりによって古巣の英語学科で、日本語より英語のほうが得意な学生を相手に教えている。英文学科で教えれば、もう少しましだったのでは、とひそかに思っている。そんな英語学科の学生のあいだに「英語病」と彼がみなす症状が散見されることにたいし、長年、違和感、危惧感を抱いたあげくの作品のようだ。 

 もっとも、「英語病」の命名者は弟ではなく、本書最後に登場する精神科医の山下悠毅氏なのだという。山下医師は2012年12月に自身のブログで、英語も仕事もできる人に劣等感を抱き、「自分だって〝英語さえ〟できれば」と信じて疑わない人がいることへの警鐘を鳴らしていた。こうした人びとは被害者意識が強く、自分が報われないのは「親の育て方が駄目だったから」、「英語ができないから」だと思い込むのだそうだ。それどころか、「英語病」になると、英語を学ぶことが宗教の教義のようになり、むしろ「英語教」に近いのだと。山下医師と弟の「英語病」の定義が若干異なるように思うのは、弟がその進化系の症例を見ていて、山下医師はより一般的な挫折組の患者を診ているからなのかもしれない。

   いずれにせよ、うちの近所でも、小学校の下校時に校門前で英語塾のバスが子どもを迎えにきていたりするので、私の子ども時代はもちろん、子育て時代とも異なる英語学習熱の背景は見えてきた。英語で何かしらのコンプレックスを抱いた親世代が、自分の苦労や失敗を繰り返させたくないから、または子どもに恨まれたくないからと、英語塾通いを何よりも優先させているのだろう。だが、実際には、本書で多くの方が指摘するように、英語は道具に過ぎず、目的にはならない。まして信仰対象にはなりえない。 

 本書は英語教育だけでなく、日本の国語教育の問題にも多く触れている。古文・漢文はわりと好きだったのに、現代国語はちっとも興味をもてず、最後まで苦手教科の一つだった私にとっては、「言語技術教育」の普及に尽力されている三森ゆりか氏のお話には、共感するものが多々あった。「主人公はどう思いましたか?」とか、「感動したところを書きなさい」などと試験で問われるのが、とにかく嫌いだった。日本では「なぜ?」が軽視されているという件では、孫が「なんで?」「どーして?」を連発していた時期を思いだした。答えに窮して、帰宅後に理由をググって調べたこともあった。うちの娘夫婦はどちらも辛抱強く教えるタイプだが、弟もそうであったことを知り、だから「この子はこんなに理屈っぽくなってしまった」と奥さんに怒られたと読んで、光景を思い浮かべて笑ってしまった。ちなみに弟のところは英語学科の同級生同士の夫婦だ。

  ついでながら、「言語技術教育」の専門家でおられる三森氏に、一読した程度でこんなことを書くのは非常におこがましいのだが、Language Artsの訳語と思われる「言語技術」は、人の脳のなかで言語化される前の世界共通の部分とのことらしいので、「技術」以外の訳語を当てはめたほうがよかったのではないかと思った。実際、「言語技術」は、近年のAIの大進化を裏で支えるlanguage technologyの訳語として、ウィキペディアではまず検索される。両者に共通する面もあるのだろうが、こちらはコンピューター関連の用語だ。そもそも、「技術」という訳語は定義がやたら広い。日本語はそれだけこの手の語彙が不足しているわけで、私はいつも訳し分けるのに苦労している。じつは、scienceとtechnologyを混同する日本人があまりにも多いため、私は最近、後者の定訳だった「科学技術」から「科学」を省いて、「技術」をもっぱらtechnologyの訳語に充てている。そうなると、skillやtechnique、artsをどう訳すかという問題になり、さらにはそれに近い言葉としてabilityやcapabilityとどう区別するかなど、考えればきりがなくなる。三森氏の「言語技術」に関しては、インタビューを読む限り、「技術」よりも「能力」が近いように思い、「能力」を使いたくなければ、「言語術」でもよかったのでは、などと読みながら感じた。

   もう一つ、ついでながら、critical readingやcritical thinkingに関する考察もたいへん興味深く拝読したのだが、「批判的読解」とか「批判的思考」と訳すことの弊害を恐れて、横文字やカタカナ語のまま使っていては、おそらくいつまで経っても日本社会には浸透しないだろうと思う。大半の人は批判を非難と混同しているので、まずはその区別をつける必要がある。文章を批判的に、客観的に、さまざまな角度から読む訓練ができていないからこそ、好きか嫌いか、敵か味方かの二項対立になって終わるのだ。

   NHKニュースキャスターの有馬嘉男氏との対談では、村井吉敬先生の話題が出てきた。私も一年のときに一般教養で履修したはずと思い、成績表を探したのだが、卒業証書もろともどこかにしまい込んだらしく、見当たらない。経歴詐称と言われないように、暇になったら家探しをせねば! 弟の奥さんが村井ゼミだったことも本書で初めて知った。それまで欧米に向いていた目をアジアに向けさせてくれた濃い内容の授業だった記憶はある。感化されて、東南アジアに関連の活動で赴いた同級生も何人もいたが、当時、私の関心はもっぱらスキーに向いていたので、授業に出る以上の成果はなかった。

   弟の教え子で、ダンサーや国際交流イベント企画運営で活躍している知夏七未氏が、ミス・コンテストとNGOという異なる体験をつづけるなかで、救世主としてではなく、対等な友達として支援することの重要性を語っていたのも、どこか村井先生に通ずるものを感じた。

   弟がシェイクスピア研究者になったのは、確か安西徹雄先生の影響が大きかったはずだ。ほぼ同時期に同じ四ツ谷のキャンパスにいたのだが、異母弟で一緒に育っておらず、会うとぎこちなく挨拶する程度の間柄だったので、学生時代のことはよく知らない。私は小6か中学に入りたてのころ、ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』のサントラ盤LPを買って、わからないなりに何度も聴いていたので、やはり同じ授業を受けていた。その後、こんにゃく座のお芝居などではシェイクスピア作品をいくつか観たが、翻訳のなかの引用文としてシェイクスピアを訳さなければならなくなると、その場凌ぎで対応するしかない。演出家で翻訳家の小川絵梨子氏との対談で、バルコニーのシーンの会話がいかに訳しにくいか、弟が力説していたのも印象的だった。「ひとつの作品に対して色々な人の訳があると補完される」という小川氏の言葉に、こういう考え方は素敵だなと思った。 

  英語の落語で日本文化を海外に発信している立川志の春氏との対談で、シェイクスピアの『冬物語』の話で盛り上がっているのを読むと、いつかこの作品に限らず、英語落語なるものを聴いてみたいと思った。ただし、落語の世界は師匠との同化が求められるそうだ! 

  同世代に近い人が多いせいか、FEN(米軍のラジオ極東放送網)に言及している人も散見された。私は中学生から高校初めまでの数年間、毎週土曜の夜の『全米トップ40』を聴いていた一人だし、FENもそれなりにBGMで聴いていた。先日、亡くなったボニー・タイラーのヒット曲「It’s a Heartache」などがヒットしていた時代だ。 

『J-MELO』のチーフ・プロデューサーだったという原田悦志氏との対談で、音楽は歌詞を聴くのか、サウンドとして聴いているのかという議論は、うちでもよくするので面白かった。私は圧倒的に後者で、音楽のほうは間奏や低音までよく覚えていたりするのに、歌詞の意味はずいぶんしてから気づくことが多い。娘と孫は歌詞派だ。孫にいたっては、『メトード・ローズ』というピアノ教本で出てくるフランスの曲(Marie trempe ton pain)の歌詞を教えると、意味もわからないのに、驚くほどの記憶力でそれらしく覚えて歌う。ときどき「パン・マリ」が「たまり」醤油のようになっているが、フランス語っぽいリズムで歌えるのだ。こうした言語脳が発達する時期の外国語教育に関する考察は、残念ながら本書にはない。

「トリ」はやはり、弟の高校時代の同級生という宇宙飛行士の若田光一さんだろうか。私は若田さんが搭乗したISSを眺めていたので、余計そう思うのかもしれない。インタビューはヒューストンに滞在中の若田さんと2021年4月にオンラインで行なわれた。ソユーズ宇宙船はいまもISSに向かい、カザフスタンの草原に帰還しているので、言われてみれば当然なのだが、「ロシア語は宇宙飛行士の必須言語」なのだそうだ。若田さんのロシア語習得までの涙ぐましい努力を読んだあと、インタビュー後に始まったロシアによるウクライ侵攻は、究極の国際空間である宇宙ステーション内にどんな影響をおよぼしているのか、ISSはこの先どうなるのか、気にせずにはいられなかった。
 
 本書のためのインタビューが実施された2021年から現在までに、世界情勢はコロナ禍の残響なのか、温暖化が一段と進んだためか、確実に悪化した。いまや世界はどこも危険そうに見え、円安ですべてが高くなり、オンライン情報だけが格段に豊富になった。「大部分の日本人が生きて行くのに、英語はほぼ不必要です」という弟の主張は、この時代に即しているのかもしれない。日本の若者は狭い日本を飛びだす代わりに、自分たちの居場所を奪いそうな在日外国人のみならず、訪日外国人客まで敵視し始めている。英語だけでなく、多様な言語を学ぶ機会を小学生に与えるという弟の提言は、どれもこれも中途半端になって終わりそうな予感がする。遊びの一環で少しばかり覚えるならいいけれど、外国語はある程度、継続して時間を割かない限り身にはつかない。あまりにも多くの選択肢を与えるのではなく、数カ国語のなかから一つ、または二つを自分で選ぶ、くらいが関の山ではなかろうか。

   日々、英語を使って儲からない仕事をつづけ、いまや瞬時に答えが出る機械翻訳に教えられることも増えた一翻訳者が、英語を学ぶ意味を付け加えるとすれば、英語というインターフェイスは、その他どの言語よりもそれによって得られる情報が多いことだ。それはビジネスで役立つとかいう実際的な側面以上に、批判的読解をするうえで重要なものになる。戦犯として絞首刑になった広田弘毅が巣鴨プリズンに面会にきた孫に、「自分に恥じない人間になりなさい。そして何か他国語を一つ覚えなさい」と言った言葉が忘れられない。外国語は自分を外から見つめ直す鏡なのだと思っている。

東郷公德著『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(開文社出版、2026年)