2026年5月21日木曜日

『上田郷友会月報』

 先月から、校正に次ぐ校正で、なかなか自分のペースで仕事ができない。数日ばかり本来の翻訳作業に戻ったのを機に、原稿やレジュメ、企画書などに着手する傍ら、久々にグーグルで祖先探しにつながる新しい情報がないか検索したところ、珍しく曽祖父門倉安栗の名前で2件ヒットした。よく見るとどちらも同じネットオークション関係で、曽祖父の訃報記事が掲載された大正7年の『上田郷友会月報』の古本が売りにだされていた。出品者がその号の主要項目を書きだしてくれていたおかげで、検索エンジンに引っかかったようだ。

 記事そのものは何年も前に上田市立上田図書館で閲覧した際に見つけており、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも触れているが、現物の雑誌はもっていなかった。それどころか、これまでたびたび活用させてもらったこの雑誌を一冊も所有してなかったので、ゴミを増やすことになるかと迷いつつ入札し、めでたく落札した。せっかくの機会なので、すでにゲラ刷りも届いてしまったが、この数カ月間、見つけてはデスクトップのフォルダーに放り込んでいたいくつかの情報とともに、忘れないうちにまとめておく。 

 明治18年創刊の『上田郷友会月報』は現在もつづく長寿雑誌で、実質的には明治20年創刊の『中央公論』を超える雑誌と思うが、これまで広く公開されていなかったせいか、昭和23年6月から平成8年2月まで『郷友信濃』と名前が変わったせいか、世間の認知度は低い。現在は国会図書館デジタルコレクションで平成23年分まで読むことができ、このサイトにリンクがまとめられている。 

 郷友会の活動はよく知らないし、この雑誌の歴史もざっと読んだ限りだが、もともと上田藩の藩医の子どもなど、医学関係者が発起人となって始まった会とのことで、創設者の一人とされる山極勝三郎は世界で初めてがんを人工的に生成して原因究明に寄与し、日本人でノーベル賞候補となった最初の人だ。多分に政治絡みで受賞できなかったものの、著名な医学博士である。

 勝三郎氏に私の祖父がお世話になったことは親戚から聞いていたが、曽祖父のこの訃報記事を読んで初めて、曽祖父安栗が「十四、五歳の頃、医師山極吉哉氏(山極博士の養父)の書生として厄介になったのであるが当時は中々の腕白ものであった」ことがわかった。しかも、上田藩の藩医だった養父の「山極氏の意見で獣の医者よりは人間の医者の方がよかろうと云ふ説に伝次郎氏の未亡人も同意されたので、山極氏の薬局生となって始めて医者のいろはの手解きをして貰い傍ら、本郷の済生学舎へ通うて前期試験には山極氏の宅に居る頃に及第したのである」とも書かれていた。祖先は数百年にわたって馬役を務めてきたが、このとき馬との暮らしと決別したことになる。 

 曽祖父が日本医科大の前身となった済生学舎出身であることは叔母たちから聞いていたが、いつ医師免許を取得したのかは長らくわからなかった。当時はデジコレもなかの文字の検索機能がなかったため、何年分もの官報のケシ粒のような文字をひたすら追ってみたが諦めた経緯がある。この訃報記事に明治32年に医師になったと書かれていたので、格段に便利になったデジコレで検索すると、明治33年(1900)1月26日の官報の「医籍登録者」のリストに名前がすぐに見つかった。 
 
 山極吉哉が、私の高祖父の死後まもない明治22年の月報に「故門倉伝次郎先生小伝」と題した記事を寄稿してもいたことも、最近になってデジコレから判明した。高祖父は明治21年10月に没している。しかもそこには「門人 山極吉哉謹辞」と書かれていた。藩医であった吉哉氏に、馬役から馬医になっていた伝次郎が何を教えたのか思いつかないが、親しい間柄であったことは想像がついた。だからこそ、伝次郎の遺児が医者として独り立ちするまで面倒を見てくれたのだろう。 

 明治43年になって再度、伝次郎の略伝が月報に掲載されたが、その情報源の多くは吉哉氏のこの記事だった。吉哉氏の記事で新たな情報としてすぐに目に留まったのは、安政6年9月に藩主であった松平忠固が亡くなった際に「御遺物トシテ御紋付上下拝領」となっていたことと、横浜にいたイギリス公使館付き騎馬護衛隊隊長のアプリンに西洋馬術を習い始めたのが元治元年10月と明確に年月がわかったことなどだった。 

 今回私が入手した曽祖父安栗の訃報記事を書いてくれた「無濁生」が、郷友会の創設時から多年にわたって幹事を務めた宮下釚太郎であったことものちに判明した。この追悼文には、高祖父の伝次郎が幕臣とトラブルになって追われ、「桜田門内に駆け付け役屋敷(老中邸)を三匝して塀を乗り超えて邸内にはいられたと云う」というエピソードが紹介されていた。だが、さほど広くもない西の丸下の上屋敷に高祖父がいた可能性は少ないと思ったため、図書館で読んだときは半信半疑だった。少し前のコウモリ通信に書いたように、『象山全集』の頭注から佐久間象山が松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、象山の甥から「松平伊賀守様 御上屋敷」の上田藩の弟子である伝次郎と桜井純蔵宛に、中山道に向かう途中の白山付近でひそかに会えればという内容の手紙が送られてきたことが判明したため、上屋敷のこの一件もまんざら嘘でもないかもしれないと思い直した。西の丸下からであれば、銀座の木挽町の象山塾まで通うのは訳なかっただろう。 

 宮下釚太郎はじつに多くの記事を書いているが、昭和3年の月報にも「名馬高砂に就て」というエッセイを寄稿している。当時、松平家の家令を務めていた宮下は、谷中の天王寺にあった松平家の墓地に行った帰りに立ち寄った古本屋で、『天下古今文苑奇観』に塩谷宕院の「記名馬今高砂」が収録されているのを見つけ、それが松平忠固の栗毛の愛馬のことだとわかったため、帝国図書館(いまの国会図書館)でその書を借りて読んでみた、という内容だ。 

 引用の原文は漢文で、「今高砂者奥之鍛澤所産也、其色栗毛、筋骨剛脛、眼清気深、胸下有施毛」と始まり、宮城県鍛沢産の栗毛の名馬を「嘉永三年、上田侯獲之」、つまり松平忠固が獲得したとする。「昔吾自姫路来先君賜良馬名高砂者」とつづき、姫路藩から養子にきた際に、当時の上田藩主松平忠学が高砂という良馬を与えてくれたようだ。「今此馬其流亜也、宜呼為今高砂、愛撫弗惜、出必従之」とあるので、おそらく新しい馬も仙台馬で似ているため、今高砂と呼ぶことにし、大切に飼いいつもこれに騎乗していたという。この今高砂もすでに老齢になりと書かれたあと、「如禄官吏乞骸骨者然、御藩士門倉信敏、介石野恒卿、請余為之記」とつづく。 

 古文は仮名交じり文でもなかなか読めないが、漢文となるとかなりお手上げ状態で、グーグル翻訳で中国語→日本語で変換してもよくはわからない。ただし、ここに名前の出てくる門倉信敏が高祖父伝次郎(諱が信敏)であることは間違いない。塩谷宕院(1809〜1867年)は遠江掛川藩に仕え、のちに昌平黌の教授となった儒学者とのことなので、石野恒卿を介して、伝次郎がこの馬について何か書いてくれと頼んだ、と推測してみた。うんと暇になったら、後半部分も頑張って読んでみるつもりだ。

 少なくともこの史料から、忠固は文政12年(1829)に養子入りした当初から仙台馬に乗っていて、最初の老中時代で西の丸下の上屋敷にいた嘉永3年時には新しい仙台馬を愛用していたことはわかり、伝次郎はその面倒を見る役目もあって上屋敷にいたとすれば、一応辻褄は合う。宮下釚太郎が借りたと思われる『天下古今文苑奇観』(2巻、明治12年)も、いまではデジコレで簡単に読める。便利な世の中になったものだ。この文章そのものは塩谷宕院が没する慶応3年以前に書かれたはずで、明治3年刊の『宕陰存稿』にも収録されていた。上田藩以外の古い文献に伝次郎(信敏)の名前が翻刻されていたのは、私としては画期的なことだった。 

 明治以降の伝次郎の経歴については、明治初期のものは動乱期のため史料が乏しく、私の知識がそれに輪をかけて乏しいため、長らく調べあぐねていた。だが、デジコレが進化したことと郷友会月報が公開されたおかげで、新たにいくつかのことがわかった。明治3年に伝次郎が「馬術局教頭」に任命されたなどと吉哉氏が書いているのは、明治維新後の上田藩内の組織改革に伴う組織のことで、曽祖父が生まれた翌年まで、一家は少なくとも上田に留まっていたようだ。明治5年9月に「軍医寮八等出仕拝命」、同6年3月に「允請軍医寮九等出仕拝命」、同7年1月「陸軍馬医副ニ任ス。同年三月横浜在勤被申付」とつづくので、明治5年以降は明治政府に出仕するようになったと考えられ、実際、官報などにも多少の記録が見つかる。明治8年6月には「叙従七位」ともあった。明治10年12月には、すでに57歳と当時にしては高齢だったのに、西南戦争に駆りだされた。その後も再び鹿児島へ「軍馬買弁」のために送られたりしていたため、鹿児島の馬関連でも多少の記録が残っている。  

 月報が『郷友信濃』と名称を変えていた時期の昭和35年の号には、これまた驚くべきことが書かれていた。時代もかなり経ているので、信憑性はかなり低そうだが、こう記されている。「明治天皇は乗馬が御好で馬をいたはられた。前に申上げた身長六尺余、体重三十貫の御身であるので馬に重みのかからぬ様かがみ腰でのられている天皇に、馬術の教官は馬政局長官、上田藩の門倉伝次郎先生である」。馬政局が設けられたのは伝次郎の死後の明治39(1906)年なので、長官云々は間違っているし、明治天皇も身長も167cm、体重92kg程度と考えられているので、やや大袈裟である。  

 明治天皇は、東京奠都後まもない明治5年(1872)に西洋式の出たちと馬具の騎乗姿を内田九一が撮った写真が残っている。幕末までは御所から外に出ることもままならなかったはずなので、多少の乗馬の心得はあったとしても、本格的に馬術を始めたのは東京に移ってからと思われる。『日本馬術史』(1941 年)等を参考にすると、明治天皇は西洋馬術を日本騎兵の開祖とされる大高坂正元(1850〜1924年)から学んだと言われているようだ。大高坂は土佐藩が明治初年に招聘したフランス人アントワンに西洋馬術を学んだ人らしく、明治4年に土佐藩からの御親兵のうち騎兵を率いたという。明治5年に明治天皇の馬術御指南役として宮内省出仕、6年、少尉に進み近衛騎兵隊付になるが、武技御教育をつづける等々が、ネット情報としてわかった。その後、明治10年にやはり西南戦争に行っている。明治天皇と年齢も近い現役将校なので、大高坂が実際の教官であった可能性は高い。

 もっとも、伝次郎が明治政府に出仕することになったのは、代々馬役の家で、嘉永4年に象山塾に入門して、そこである程度の西洋馬術を学び、その後、元治元年から少なくとも1年以上は横浜でアプリンから実際に訓練を受け、馬医としても活動していた経歴ゆえだろう。明治政府に出仕してまもなく叙位されたのも、明治天皇の西洋馬術と何かしら関係があるかもしれない。高祖父の戒名に「従七位」の文字が入っていたことは、最近になって一枚の古い写真から判明していた。となると、唐沢勇という人が昭和35年になって『郷友信濃』に書いた記事にも、何かしらの真実は含まれていたのかもしれない。  

 この記事は、伝次郎が「幕末東京愛宕山の石段を上り下りをして日本一の額を掲げられた人である」という、宮下釚太郎が曽祖父への追悼文に書いていたエピソードにも触れていた。上田の図書館でこの件を読んだあと、4年前に現場にも行ってみたが、女坂ならともかく、男坂はめまいがするような急坂で、この階段を馬で駆け上がったら、いまなら動物虐待と非難されること間違いなしの場所だった。神社でも「将軍梅」や「〈出世の石段〉のいわれ」も見ていたが、写真も古いPCに入れっぱなしで忘れかけていたが、本年1月に毎日新聞で講談「寛永三馬術の出世の春駒」の記事を読んだことで、この逸話を思いだした。寛永11年(1864)1月28日に将軍家光がお供の者たちに、愛宕山の急な石段を馬で駆け上がって梅の一枝を手折ってくるよう命じたところ、四国丸亀藩の曲垣平九郎が「馬を信じ、馬の気持ちを思いやりながら見事成功させ」たという内容だ。ついでにテリー・ベネットの写真集で、フェリーチェ・ベアトが1867年に撮影した愛宕神社の階段写真も見つけていた。  

 講談で長く語り継がれた話を真に受けて、高祖父がこの急階段に挑戦したのかどうかわからないが、宮下釚太郎が大正年に伝次郎の息子の訃報記事を書いたころまでは、少なくとも上田でそう語り継がれていたのだろう。愛宕山は、桜田門外の変の決起前の集合場所とも言われる。「愛宕山に参って、松坂下りて〜」という遊び歌を母が子どものころに歌って聞かせたのは誰だったのだろう。気になるところだ。

 今回入手した『上田郷友会月報』第385号 
 大正7年11月25日発行

宕陰存稿』に収録された「記名馬今高砂」 
 画像は国会図書館デジタルコレクションより

 愛宕神社 2022年2月撮影

2026年4月20日月曜日

物理本から学ぶこと

 横浜の関内駅の近くに吉田橋というかつて関門が置かれていた橋、もしくはその名残がある。そこから港に向かってつづく大きな通りは馬車道と呼ばれる。幕末に横浜が開港してまもなく、この道を多くの馬車が行き交うようになったためと言われ、この通り沿いに最初に設置されたガス灯とともに、馬車はいわば、西洋の進んだ文明を象徴するものとなった。

 幕末の日本では、乗り物といえば駕籠、または馬しかなかった。当時、日本に滞在していたアメリカの弁理公使ハリスなどが、「ノリモン」がいかに窮屈で乗り心地の悪い代物であるか書いていたので、彼らの目には日本はさぞかし後進的な国に映っただろうと読みながら思っていた。だが、実際には、西洋でも19世紀にはまだセダンチェアという従僕が担ぐ一種の駕籠が使われていたことが、目下、校正中の回転をテーマにした物理本に書かれていた。日本でも床に座り慣れていない外国人用に、のちに椅子駕籠が開発され、人力車が普及するまでのあいだ短期間ながら使われたようだ。  

 この物理本には、車輪付きの乗り物の歴史を論じた章がある。車好きの人にしてみればいずれも当然のことなのかもしれないが、私などは、そうなのか!と驚くことがそこには多々書かれていた。その一つは、四輪の荷車や馬車が長らく角を曲がれない代物であったという事実だ。二輪馬車の場合、角を曲がることで内輪のスピードが自然に抑えられれば、何とか無事に曲がれたようだが、四輪ではそうはいかない。江戸時代までの日本で使用された数少ない車付き乗り物である牛車や大八車が不安定な二輪車であった理由が、ようやくわかった。  

 四輪の馬車が本当の意味で実用化されたのは、チャールズ・ダーウィンの祖父に当たる医師エラズマス・ダーウィンが、太り過ぎて馬に乗って診療に行けなくなり、操縦メカニズムを考案して以降のことなのだ。彼の没後の1818年にその特許がドイツ人によって取られ、アッカーマン式リンク機構として特許知られるようになったのだという。

 ということは、1866年1月(慶応元年12月)に、横浜に駐在していたイギリス公使館員のジョン・マクドナルドが自家用の馬車に老中松平伯耆守宗秀を乗せて東海道を走り、川崎の六郷の渡しまで送った一件は、イギリス人にとっても当時の最新技術を見せつけるチャンスだったに違いない。この馬車の後ろから、アプリン大尉率いる騎馬護衛隊が警護でついて行く様子を描いたワーグマンの絵を、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で見つけたときも驚いたが、いろいろ考えると本当に画期的な出来事だったわけだ。  

 この挿絵はあまりに印象的だったので、横浜開港資料館にある現物の新聞を撮影していただき、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス、2020年)で使わせてもらった。当時は、この馬車がそれほど最新鋭の乗り物とは思いもしなかったので、それ以上深く調べず、馬車のほうはおざなりに見て「老中一行を乗せた二輪馬車を御するマクドナルドや、その後ろにつづくアプリンら護衛隊の様子を」などと書いてしまったが、実際にはこれは四輪馬車だった。私が誤解したのは、大きな後輪に比べてステアリング機能のある前輪は車体の下に収まる小ぶりなサイズで、沿道で興奮する村人や子どもたちの陰になっていたためだった。当時の馬車には現代の自動車のように、型式によって名前がついていたこともわかったため、画像検索したところ、おそらくこれは大型のブレークではないかと思う。  

 今回の本で、アッカーマン式リンク機構も多少は理解したので、レゴでもそれらしきものを再現してみた。前輪を小さくしたいばかりに、古い型の車輪までヤフオクで入手したのだが、小さめのサイズでつくったこともあり、内輪と外輪がカーブに沿って別の角度になるような精巧なものではない。馬車の後ろには、当時の日本人が憧れたらしい紺地に白い一本線入りのズボンを履いたアプリン大尉も、アーネスト・サトウが揶揄した金ピカ帽を被らせて添えてみた。  

 この馬車の御者席に座っていたマクドナルドは、この数カ月後に医師ウィリスの治療の甲斐もなく、29歳で脳軟化症と卒中で亡くなり、横浜外国人墓地に埋葬された。彼が取り寄せたというこの馬車がその後どうなったのかは不明だが、明治2年、本町通りから神奈川宿まで通じる馬車道が開通し、2月ごろには乗合馬車が始まり、5月には下岡蓮杖らもその事業に乗りだしているので、ひょっとすると乗合馬車として使われていたかもしれない。実際、三代広重の「横浜海岸異人館之図」(明治3年)には、ブリジェンス設計のイギリス領事館の前に、よく似た馬車が描かれている。 

 馬車は曲がり角で横転しやすかったなどと訳していたせいなのか、だんじり(地車)祭りなどで、山車が横転する事故の映像が翻訳中たびたびフェイスブックのタイムラインに出てきた。気になってつい横転した画像を見てみると、岸和田の山車の車輪には、ステアリング機能は何もついていないようだった。梃子の原理で後輪を浮かせて、などという説明も見受けられ、ひたすらコース取りを人力で調整するものと思われる。ただでさえ高い重心の山車の上部に大勢が乗り込んでいるのも気になった。坂道で暴走し横転したという伊豆の国市の山車は、前輪が小さく、方向を変えられるようだった。この事故は曲がれなかったわけではなく、ブレーキ代わりの綱を後方で引く人がいなかったことによるらしい。 

 物理にも車にも疎い私が、車輪付きの乗り物についてこんなことを考えるようになっただけでも、ちょっとした進歩だと自分では思っている。いつもに増して、初校ゲラはかなり赤が入ってしまったが、通して見直したことでだいぶ頭のなかは整理された。ほかにも書きたいことは山ほどあるし、訳しながら「勉強」と称してつくったレゴ作品もまだまだあるので、追々また書くことにしよう。何はともあれ、まずは索引を終わらせねば!

レゴで再現してみた東海道を初めて馬車が通ったときの光景

拙著で使わせてもらった『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵

1885年のブレークの写真
By Thomas, John, The National Library of Wales Catalogue ウィキペディアより

一応、前輪が曲がれるようになっている。

横浜外国人墓地のマクドナルドの墓(右端)2016年4月撮影

孫が私の誕生日につくってくれた駕籠。雪の日に桜田門外の変を再現すべく外に出してみたものの……八甲田山のように。

2026年3月2日月曜日

レゴによるストレス発散

 6年ほど前、「コウモリ通信」をブログに移行するに当たって、1カ月に1本は最低投稿しようと思っていたのに、先月はあまりに多忙で、ついに一度も書く余裕がなかった。昨秋あたりから締め切りのオンパレードで、ベルトコンベアーを前にした作業員のごとく目の前の仕事を終わらせることに必死になってきた。昨日、本来の締め切りより2カ月以上遅れでようやく苦手な物理分野の本の翻訳原稿を提出した。一息つく間もなく、ようやく確定申告に取り掛かった。ところが、昨年まではマイナンバーカードを手動で入力する抜け道があったはずなのに、今年のe-tax画面ではどうにも見つからず、マイナポータルとやらを使用せざるをえなくなり、昨夜はそれを使って本人確認ができるまでにやたら手間取って終わってしまった。今朝、多少は頭の冴えた状態で、数年分の自分の乱筆メモとネット情報を頼りに難関の入力作業に取り組んだが、今年も同じところを何度もぐるぐる回るはめになった。それでも何とか迷路を抜けだしたのは、この先もいろいろ詰まっており、少しでも自由時間を確保したいからだ。  

 本来ならば、この数カ月間、少なくとも私のささやかなストレス発散の場となってくれたレゴについて、何かしらまとまったことを書きたかったのだが、頭が疲れ過ぎているので、取り敢えずひな祭りに関係するものだけ少しばかり書いておく。何しろ、今日は3月3日なので。  

 自分でもなぜこれほどお雛さまにこだわるのか不思議だが、たぶんそこに凝縮された職人のわざに惹かれるからであり、またこの数年、公家社会についていろいろ調べたためでもあるかもしれない。子どものころ家にあった古い段飾りのうち、私が何よりも好きだったのは、さほど大きくない木箱にすべてが収まっていて、箱そのものも使って七段飾りを魔法のようにつくれる仕組みだった。後年、何種類ものお雛さまをつくったが、そのたびに階段作りにいちばん工夫を凝らした。そのためか、フェイスブックのタイムラインに流れてくるさまざまなレゴサイトの投稿で、わずかなピースでつくった階段や、1×1の細かいピースを積み重ねた香水やお酒のボトル作品を見た瞬間から、頭のなかに小さな雛壇が浮かんでいた。  

 実際につくってみると、袖や裾などを側面につけると、たとえ1×1を基本としたものでもスペースが足らず、階段は当初予定した二倍の幅でつくらざるをえず、いろいろ失敗はあったが、おおむね頭に描いたとおりに、欄干と階のあるミニチュア段飾りが出来上がった。昨年3月に書いたように、「平等」の本を訳しながら、階段づくり励んでいる自分に苦笑せざるをえなかったが、「殿上人」の意味を知るうえでは階は欠かせない。  

 出来上がった段飾りを見せると、孫は「仕丁がいないから嫌」と言うし、姉は「うちのお雛さまでいちばん好きだったのは御殿だった」と言う。いまは姉宅にある昭和初めのうちの段飾りには、「源氏枠」という屋根のない「御殿飾り」が最上段にある。ネット情報による天保期ごろに始まり、その後、檜皮葺などの屋根がついた形に移行したらしく、実際、伯母の1歳時の写真と思われるものには、この段飾りの横に、屋根のついた別のセットも写っていた。どこで制作されたものなのか、調べてみたら面白そうだが、御簾のある御殿らしき頭上の飾りくらいなら、レゴで簡単につくれる。というわけで、まずそれを付け加えることにした。  

 階がある場合、地下人以下と思われる仕丁は、その下の砂利敷きにいたはずだ。真ん中に階があるので、その両側に並べざるをえないが、仕丁は3人が定番で、「十五人飾り」がフルセットらしい。そのうちの1人は下足番なので、その人を階の脇に置いて、あとの2人を両脇にするか、などと考え、仕丁も加えることにした。それによって本来、庭にあるはずの桜・橘も下に降りて、何とか五段飾りに見えるようになる点が何よりも重要だった。日本文化の奇数へのこだわりは、日本庭園の本で何度も読んでいたからだ。ちなみに、孫は、私が青いタイシルクの端切れでつくった布製の仕丁がツルツルしているため、赤ん坊のころから気に入っていた。私自身も子どものころから、足が見えて、血色のよい仕丁には親しみを覚えていた。よって、レゴでもクリップで足をつけてやった。  

 こうして入れ替えると、右大臣・左大臣の段が寂しくなるので、最後に菱餅も加えてみた。平安時代には三公として太政大臣に次ぐ地位にあったはずの大臣たちが、なぜ弓矢までもち番兵のような恰好をしているのか長年、疑問だった。今回、ちらりと調べてみた限りだが、実際にはこの2人は実際の大臣ではないとする記述も散見され、階の下に置かれているお雛さまの画像も見つかった。江戸時代には関白が朝廷を仕切るようになり、三公は位ばかり高く、実権のない役職であったことの名残なのかもしれない。 あとになって、ライトヌガー(いわゆる肌色)の1×1のオープンスタッドならあることに気づき、左大臣と仕丁のうちの2 人は赤い顔にした。レゴのピンクは、素敵な色がないので、この淡い色をもっぱら使い、御殿の桜はヤマザクラなので、中心部分が濃いオレンジ色なるようにして白い花にした。ヤマザクラの芽吹いたばかりの葉は、実際そのような色をしている。  

 段飾りとほぼ同時に、レゴで牛車もつくっていた。うちのお雛さまには残念ながら牛車はなく、娘にはフィルムケースの蓋を車輪にした牛車をつくってやったことがある。レゴでは、あの巨大な車輪をうまく再現できず、ずっと諦めていたのだが、馬車用の車輪を丸いプレートにバーで取りつけることを思いついたのだ。それでも、覗き窓のようなものを引き戸にするアイデアがなかなか浮かばず、溝付きブロックが使えることがわかってようやく乗りだすことができた。牛は、ネット上で見た黒い雄牛のアイデアを基本に、黒毛和牛のようなものを適当につくった。牛車のなかには、ちゃんと長い黒髪にミニフィグも乗っているが、簾はうまく上にめくれないので、出入りするときは取り外すしかない。  

 この数カ月、実際にはこのほかにも自作レゴが随分と増え、娘が使っていた机の上を占領するようになっている。飽きるまでもうしばらく飾って、いずれはバラバラにしてまた何かをつくり直すつもりだ。レゴのいいところは、完成しないところかもしれない。

 改良版がこちら

 当初の段飾り

 側面から見たところ

レゴの牛車ともに。後ろにあるのは、曽祖父から母がもらった内裏雛。木箱に「寶印けし親王」と書かれており、芥子親王は15-20cmほどの小さい雛人形のことらしい。宝印は久月の可能性もありそうだ。

2026年1月21日水曜日

『〈平等〉の人類史』

 2年越しで取り組んできた仕事がようやく形になった。本文が450ページほど、膨大な原注を入れると結局500ページを超える分量となり、私の得意ではない思想史の本であったことや、出版社側の都合等で、なかなか刊行に漕ぎつけられなかった。  

 この間、ウクライナ戦争はつづき、ガザ侵攻も悪化の一途をたどり、第2次トランプ政権が発足して、世界中が振り回されてきた。長年、自由貿易を主張してきた民主主義国のアメリカが、幕末の「不平等条約」の関税率が穏当に見えるほどの高関税を一方的に課すようにもなったのだ。今年に入ってからは、年始よりベネズエラの大統領夫妻を拘束したうえに、石油利権を獲得して内政に干渉するという事件に次いで、トランプ政権は中国・ロシアに対抗するという名目でグリーンランドにも食指を伸ばし、国内では移民・関税執行局ICEがナチスのゲシュタポや戦前日本の特高警察まがいの一斉検挙や家宅捜査を強行している。 

 予測不能なこの2年余りを、それなりに心穏やかに客観視しながら過ごせたのは、『〈平等〉の人類史』(作品社)を訳す機会に恵まれたことが大きい。これまでの常識では考えられないこうした展開が、戦後の民主主義社会の当然の帰結ではないとしても、十分に予測しえた結果であることを理解したからだ。 本書の原題はEquality: The History of an Elusive Idea(『平等——捉えどころのない理念の歴史』)という。著者のダリン・M・マクマホンはダートマス大学の歴史学の教授である。書名を見ても、多くの人はさほどピンとこないだろうし、かく言う私もリーディングを依頼されたときはそうだった。近年は単なる平等(equality)ではなく、結果の平等を実現させるべく、ハンディキャップを考慮した衡平(equity)が主流ではなかったのか。そんなことを考えながら、500ページ以上におよぶPDFを読み始めたのだが、いつのまにか引き込まれていった。レジュメにはこう書いた。「平等という考えは想像上のもので、絶対的な平等など矛盾した言葉だという著者の主張は、とりわけ示唆に富む。しっかり読み込んだら、視野が一気に開けそうな気がする」 

 大和言葉は極端に抽象名詞の少ない言語であるため、哲学や思想関連の翻訳は、まるで辞書をつくる作業のように、一つひとつ言葉の定義を確かめながら、漢語やカタカナ語を織り交ぜた訳語を選ばなければならない。本書のテーマ「平等」にいたっては、著者によるequalityの説明と日本語の「平等」の意味がどうにも食い違う。本来は「同等」のほうが近かったのかもしれない。「平等」は最澄が唐で学び伝えた概念と言われ、日本人なら10円玉の裏側にある宇治の平等院鳳凰堂が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。 

 私などは平等と言えば、漫画『ベルサイユのばら』で学んだ「自由・平等・博愛」や、「男女平等」や「四民平等」が思い浮かぶが、後者は「士農工商」とともに、最近の歴史の教科書からは消えているらしい。後世の歴史家が明治維新を美化するためにつくった用語だったのだろうか。「博愛」はいまはもっぱら「友愛」と訳される。もっとも、この言葉の本来の意味は兄弟愛であり、そこに姉妹は入っていなかった。私は男女雇用機会均等法が制定された年に、おそらくその恩恵を受けて就職したが、この法律の名称には「平等」ではなく「均等」が使われていた。このころには、「平等」はどこか道徳臭くなっていたのだろうか。 

 日本にいつequalityの概念が入ったのかは、ちょっと調べたくらいではわからなかったが、ヘンリー・ウィートンの『国際法原理』が1864年に中国語に翻訳されたとき、equalityに相当する中国語が見つからず、「平行」と訳されたというエピソードが本書で紹介されていた。この中国語版である『万国公法』は一年を経ずして日本にもたらされ、勝海舟や松平慶永、坂本龍馬らが読み、大いに感化されたという。その後まもなく、日本人は「平行」の代わりに古い仏教用語の「平等」を訳語として充てたようだ。空海が9世紀に一律に誰でも平等に扱う「悪平等」ではなく「善差別」を主張していたそうなので、仏教用語としての「平等」は当初から、数学的なイクォール「🟰」の意味の強い絶対的なequalityとはやや異なり、もう少し曖昧さを含む言葉だったのだろう。 

 西洋の厳密な意味の平等を掲げたアメリカの建国理念やフランス革命は、古代ギリシャ時代の民主主義を手本としていた。それは要するに、税金を支払い、兵役に就ける能力のある男性のみが対象で、奴隷や召使による労働にもとづく「メンズ・クラブ」的なものだった。古代のスパルタでは虚弱児や障害のある新生児は奴隷として売られるか、野垂れ死にさせられていた。従来の西洋の平等の理念は、能力があることを前提とした平等だったのである。だが、人の能力には当然ながら大きな幅がある。女性を含めるとなると、平等にしなければならない人数は一挙に倍になり、男性と同じ能力と義務を期待することも難しくなる。それでも、能力主義の理想を頑なに信じる人は、能力の多くは世代を超えた財力から生みだされるという事実には目を向けない。  

 占領軍が駐留していた敗戦後の7年弱の期間を除けば、他国の支配下に置かれたことのない日本では、「鬼畜米英」だった時代の記憶はすぐに忘れられ、明治以来、西洋社会はおおむねずっと追いつくべき理想でありつづけた。実際には、二度の大戦のあいだの時期に、日本は国際連盟規約の前文に人種的平等条項を入れる人種差別撤廃提案を出し、欧米諸国の二重基準にいち早く楯突いていたことを、恥ずかしながら本書で初めて知った。だが、その動議が握りつぶされると、日本政府は西洋を真似て、独自の民族的、人種的優位性を主張し始め、近隣諸国に侵略するという愚挙に出たことはよく知られる。 戦後は、国連憲章によって主権平等が謳われ、日本でも自由と民主主義が目指すべき理想となり、欧米社会をロールモデルに西側陣営につき、ひたすら先進国の仲間入りをすることが国是となってきた。

 数世紀にわたり植民地化されてきた国々は、名目上は独立したものの、安い労働力として原料生産や下請け産業を担わされた。これらの国々に工場を移転させた先進国が環境を改善する一方で、「開発途上国」と呼ばれた国は公害を押しつけられ、いくらかでも経済が上向けば、今度は消費者として購買力を期待される。 主権平等は結局のところ建前だけであり、現実にはさらに核保有国として認められた米英仏中露の戦勝五カ国と、その他の非保有国のあいだには歴然とした差があった。インド、パキスタン、イスラエルはいずれも表向きは民主主義国だが、核拡散防止条約は非加盟で、脱退した北朝鮮とともに、公然と核兵器を保有している。近視眼的に日本でも核武装をという声もあるようだが、イラクやリビア、あるいはいまのイランのような事態にはならないのか。それとも、こうした動きは危うい均衡を保ってきた戦後の核をめぐる体制が総崩れになることを意味するのか。 

 この数十年は、先進国に端を発する人為的気候変動によって、もともと人間が暮らすには脆弱な環境であった地域に住めなくなった人たちが、どんどん移民となって先進国に押し寄せている。先進国でも、安い労働力である移民と競合する低所得者層ほど排外主義に傾くため、いまやどの国も極右が台頭してきている。本書のファシズムを扱った章はとりわけ面白く、引用されていたナチスの法学者カール・シュミットの言葉、「民主主義は第一に同質性を必要とし、第二に——その必要が生じるとすれば——異質性を排除または根絶しなければならない」は、あまりにも的を射ており、訳しながら思わず唸っていた。ファシズムはもちろん、民主主義から生まれたものであり、表裏一体のものだ。 

 いまや、西洋の道徳的優位は崩れ、国連憲章などが謳ってきた世界の道徳的秩序も崩壊の瀬戸際だ。古くは公民権運動に始まり、アイデンティティ・ポリティクスや、昨今の気候変動絡みのグローバル・サウスの訴えは、当初の「平等」の枠組みから除外されていた人びとが、西洋の二重基準を糾弾するものだ。著者マクマホンはアメリカ人らしく、この現状にまだ希望を失わないが、道徳的・精神的秩序を失えば、弱肉強食が当たり前の世界になり、いっそう混沌とするだろう。世の中には弱者のほうが圧倒的に多く、その人口は増える一方だからだ。機械化、IT化が進み、大量生産・大量消費も不要になったうえに、AI時代が到来したいま、能力の劣る弱者は強者にとって労働者としても、消費者としても不要になってきた。すべての人が必要に応じたものを受けられる平等な社会など実現するのだろうか。 

 著者は将来に向けた明確な指針を示しはしないが、「想像上の平等の歴史を学ぶことで、その平等を新たに想像し始めることができる」と語りかける。そのための材料を、この分厚い一冊が提供してくれる。 

 日本国内でも不穏な動きは広がっているし、主食である米の値段は二倍になったまま一向に下がる気配がないが、世界の国々と比べたら、いまのところまだ平和と言えるだろう。日本にも被差別民は存在したし、明治になっても身分制度は残った。それでも、日本列島という、ほかに行き場がなく、鉱物資源も乏しい島国で、ひたすら人力に頼って地域が共同で水を管理して稲作をつづけきた日本では、早くから奴隷や畜力、機械力を利用してきた西洋諸国よりも、結果的に平等な社会で生きてきたのではないだろうか。万人どころか万物の平等を説いてきた仏教の教えも、社会の根底には残っているはずだ。現状を憂える人びとが、幕末の過激な攘夷論者のように、安直なヘイト思考に走るのではなく、本書を手にして、今後どんな社会に生きたいのかを真剣に想像し始めてくれることを切に願う。

【追記】
こちらで本書の序文を試し読みできます。執筆動機から、本書の概要までが語られています。用語の定義が多く含まれ、具体的な話でない分、多少読みづらいかもしれませんが、本書の言わんとすることはここに凝縮されています。
 

『〈平等〉の人類史』
(ダリン・マクマホン著、作品社)
 原書(左)のカバーの筆による二本線は🟰かと、ずいぶんあとから気づいた(苦笑)。
 邦訳版(右)は、平等にはつねに差異がつきまとい、一色に塗りつぶされるのではなく、同質と異質の相剋であることをデザイナーが表現してくださったもの。


 宇治の平等院鳳凰堂

2026年1月17日土曜日

人力車

 相変わらず、当初の締切り予定を大幅に過ぎてしまった物理本と格闘中だが、難関だった技術史の第2部が終わり、少しだけ峠を越えた感がある。本来、脇目も振らず先を急ぐべきなのだろうが、長年ずっと疑問に思ってきたことに答えらしきものが見つかったので、忘れないうちに書き留めておくことにした。  

 きっかけは、ハンサムキャブという元祖タクシーのような一頭立ての二輪馬車について訳した際に、その説明をあれこれ読んだことだった。ウィキペディアの日本語ページに、ナルニア国物語の『魔術師のおい』で魔女ジェイディスが乗っ取り、古代の二輪戦車チャリオットのように乗り回したのが、この馬車だと書かれていたのだ。その挿絵は朧げながら記憶にあり、母宅から引き上げてまだ床の上に積み上がっている本の山から探しだして確認してみた。瀬田貞治は辻馬車と訳していて、馬車屋のコックニー訛りはべらんめえ調になっていたので、何やらダサい馬車なのだと思っていた。もちろん、それがハンサムキャブであることも、二輪馬車を立って操縦する行為が古代の戦士を思わせることも、子どものころの私には理解できなかった。原書は姉宅に行ってしまったのか見つからず、正確な言い回しは確認できないが、いまさらながら、そういうことかと納得したのだった。  

 ポーリーン・ベインスの挿絵は細かいところまでじつによく描けているが、肝心の車軸はどこを通っているのかわからない。このところ、車輪の仕組みばかり訳していたので、つい気になってあれこれ検索すると、古い写真も、現存する馬車の写真もたくさん見つかった。ハンサムキャブは、フランスの二輪馬車キャブリオレを改良する形で1834年にイギリスでハンサム氏が考案した新型だった。小回りが効き、重心が低くて安定がよいため、たちまち人気を博し、1869年5月にはニューヨークでも利用が始まったようだ。いろいろ見た画像のうち、メトロポリタン美術館所蔵のイラストに目が釘付けになった。何と軽やかな乗り物であることか! 19世紀後半の欧米社会は、自転車技術が大きく発達したことから、馬車に関しても軽量かつ丈夫で実用的な乗り物が多数生産されたのだという。

 シンプルなデザインをしげしげと見ているうちに、この轅(ながえ)部分を人が引っ張れば人力車になると思い当たった。2017年に『馬・車輪・言語』を訳した折に、金貨チョコレートのフォイルを使ってチャリオットの模型をつくったあと、戯れに轅を逆にしてみたら人力車になることを発見して、一人で吹きだしたことがあったが、あながち間違いではなかったかもしれない。古代のチャリオットと車体を逆向きにし、乗客が座れるようにした軽量の二輪馬車がまずつくられ、それをヒントに馬の代わりに人間が引っ張る乗り物が考案されたのだろう。発明はあるとき突然生まれるものではないことは、今回の本でも随所で強調されていた。  

 人力車は日本で1869年か1870年に発明されたとされている。ウィキペディアの人力車のページには、1899年になってから「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出され、1870年に和泉要助が発案し、何人かの助けを得て製作したことが認定されたと書かれており、これが通説となっている。ただし、ウィキのページにもあるように、当初から異論もあり、とりわけ横浜にいたアメリカ人のバプティスト派宣教師ジョナサン・ゴーブルは自分が発明者だと主張しつづけたことで知られ、1909年発行の『ジャパン・ガゼット50年史』に寄稿した長年の横浜在住者も『横浜市史稿』もその説を伝える。  

 ゴーブルは海兵隊員としてペリー艦隊のミシシッピ号に乗って日本に最初にやってきて、そこで知り合った日本人漂流民のサム・パッチ(三八)こと仙太郎とともに、1860年4月に妻イライザと2歳の娘ドリンダとともに再来日し、一時期、神奈川の成仏寺にヘボンやブラウンなどの宣教師とともに住んでいた。ドリンダは1862年にコレラで亡くなってしまったが、ゴーブル夫妻にはほかに2人の娘が生まれている。1867年にはグラバー商会の依頼でしばらく長崎などに行き、後藤象二郎や坂本龍馬にも会う。ゴーブルと土佐藩の関係についてはこのブログを参考にさせてもらった。翌年、横浜に戻ったころから妻の病気が悪化し、歩行困難になり、移動手段として人力車を思いついたという。  

 ゴーブルの来日目的は布教で、日本語版マタイ伝を刊行したことでいちばん知られるが、性格にやや難があり、宣教師たちとの関係もぎくしゃくしていたようだ。しかし、多芸な人で、肥後のプリンス(熊本藩主か)のために天草に製材所を建てる依頼がきたと、1861年に隣人だったフランシス・ホールに語っているほか、靴職人として生計を立てていたとの記述も見つかった。  

 1990年にF・カルヴィン・パーカーがJonathan Goble of Japanという評伝を書き、人力車の発明をめぐる問題に一章を割き、さまざまな典拠を上げている。この本の一部は、2017年にアメリカのフォトヒストリアン、マーナ・ゴールドウェアと大量のメールをやりとりするなかで見せていただいていたが、まだ自分で確かめていない。上智大学図書館にあるので、暇になったら館内閲覧させてもらおう。  

 取り敢えずネット検索するうちに、ゴーブルが人力車の設計をアメリカの知人であるフランク・ポーレイに依頼していたという記述がいくつか見つかった。ニューヨーク州北部のキューカ湖畔のプトゥニー村のポーレイはペリー艦隊に乗り込んでいた大工だったらしい。店に残っていた「人が引く車」の原型の木型を、その鉄鋳物部品を担当した鍛冶屋の孫が見ており、1952年に新聞のインタビューに答えていたという。当時はまだ自転車の車輪も木製だったので、ポーレイは車輪と車体を製造し、車軸、ハブ、軸受等にのみ鉄製品が使われたのではないかと思う。人力車が誰の発明かを論じた「インベンション&テクノロジー」のサイトでは、ポーレイが製作した完成品を船で横浜まで輸送したと書いているが、根拠はすぐには確認できない。  

 開港後の横浜で大八車が使われている様子は、生麦事件の賠償金が支払われた際にワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に描いている。牛車のような巨大な車輪ではなく、それなりに実用的に見える木製のスポーク車輪がついたものだ。戊辰戦争時には砲車も使われたようだし、火消しの大八車も普及していただろう。大八車に病人を寝かせて運ぶこともあったかもしれない。実際、1871年1月号の『ジャパン・パンチ』にワーグマンが初めて描いた人力車は大八車の上に椅子を載せたような乗り物で、乗客の西洋人は仰向けにひっくり返り、車夫が梶棒に宙吊りになっている。 ちなみに、その下には「Suspension of Habeus Corpus」(人身保護の停止)と書かれている。サスペンションを「停止」と「吊り下げ」の両義で読ませて笑いを誘い、さらに乗り物のサスペンションも掛けたのかもしれない。

 余談ながら、筆記体の文字を読み取ったあとフェイスブックで見た動画が、アメリカの国土安全保障長官クリスティ・ノームが人身保護令状の意味を勘違いしていたうえに、その停止がアメリカ憲法第1条第9節で反乱などの非常時以外は禁じられていることも知らなかったことを皮肉る内容で、おかげでよく意味を理解することができた! 

 人力車に話を戻すと、『ジャパン・パンチ』の1871年9月号のイラストでも梶棒が車軸を越えて後部まで一直線につながり、その上に幌付きの椅子らしきものがあるが、乗客の西洋人は長い脚の置き場に困っている。1872年10月になると、梶棒と椅子の角度はやや狭まり、車夫が梶棒を小脇にかかえても乗客が後ろに倒れない、いわゆる人力車の形になっているうえに、板バネのサスペンションまで備えたイラストになっている。明治初期のベアト撮影とされる写真の人力車は、サスペンションはないが、まさにこのタイプの原型的な乗り物だ。注目すべき点は、乗客の足の高さが車軸よりやや低めで、重心を下げて安定性を高めてあったと思われることだ。ハンサムキャブとそっくりではないか。  

 明治、大正時代の人力車の写真を見ると、実際にはいろいろなタイプがあることがわかる。ゴーブルが「発明」した乗り物は、設計面だけでなくおそらく製造自体もポーレイに頼ったものだったのだろう。ゴーブルとほぼ同時期に大八車に椅子を載せただけの乗り物を、偶然にか、噂を聞いてか、和泉要助が考案した可能性も大いにある。何しろ、1871年以降日本全国に瞬く間に広まったのだ。明治初期にハンサムキャブが輸入され、それを和泉らが見たとも考えられなくはないが、横浜絵などを見る限り走っている馬車は四輪馬車が圧倒的に多い。通説で言われるように、馬車をヒントにしたのであれば、ハンサムキャブのイラストを見た可能性のほうが高そうだ。  

 最後に、ゴーブルが人力車を考案するきっかけとなった妻イライザについて書いておきたい。イライザは1882年に45歳で亡くなり、横浜外国人墓地に幼い娘の隣に埋葬されている。2017年に別の埋葬者の墓を訪ねるために許可を得て奥の区画に入らせてもらった際に、たまたま見つけて1枚だけ写真を撮っていた。墓碑には「イライザ・ウィークス、J・ゴーブル牧師の愛する妻」とあり、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから」と、欽定訳聖書の詩編23章4節が刻まれていた。ゴーブル自身は翌年帰国し、1896年にセントルイスで没している。  

 2017年に前述のフォトヒストリアンとやりとりするなかで、ピエール・ロシエが1861年刊行のネグレッティ&ザンブラ社のViews in Japanのために撮影したステレオ写真で、イギリスのヴァイス領事の使用人である日本人男女3名とともに写る若い西洋人女性のことがたびたび話題になった。ヴァイス領事は独身で、ブラウン牧師の娘ジュリアでもない。何年かのちにゴーブル夫人のイライザの後年の写真を見たとき、あの写真の女性は彼女だと直感したのだったが、そのことを件マーナに伝えたのだったかどうか。いつか暇になったら、鎌倉の八幡宮にでも行って人力車にも乗ってみよう。

ハンサムキャブをレゴでつくってみたあと、ほぼ同じパーツで人力車もつくれるのではないかと試してみた。梶棒の角度がうまくついていないため、ミニフィグが苦労している(苦笑)

ハンサムキャブを乗り回す魔女ジェィディス

メトロポリタン美術館のサイトで見つけたハンサムキャブのイラスト。パブリックドメイン

ベアト撮影とされる明治初期の写真。オークランド図書館のサイトにあり、パブリックドメイン

ワーグマンの『ジャパンパンチ』3巻より

横浜外国人墓地にあるイライザとドリンダ・ゴーブルの墓。2017年撮影

2025年12月31日水曜日

2026年元旦に

 年末年始に帰るべきところもなくなり、スープの冷めない距離にいた娘一家も、自転車で30分ほどのところへ引っ越してしまったが、とりあえず元気に新年を迎えることができた。昨夜は近くに住む姉夫婦が天ぷらと年越し蕎麦の夕食に誘ってくれたので、何年かぶりにテレビで紅白歌合戦も見ることになった。 

 その後、孫がどうしてもまた除夜の鐘を撞きに行きたいと言うので、夜中に駅で待ち合わせて、今年も近所のお寺にお参りすることができた。帰りの電車の時間があったので、ゆっくりはできなかったが、3年連続はちょっとした快挙だ。娘が絵本『じょやのかね』の舞台にした船橋の飯山満の光明寺には何度くらい詣でただろうか。初日の出を拝みに行くほどの気力はなかったので、今年は省略した。 

 昨秋は2冊の本の校正が見事に重なって、初校、再校が入れ替わり立ち替わりやってきて、紙に埋もれるような毎日だった。そのうちの1冊『〈平等〉の人類史』は500ページ超の思想史の大作だったので、なおさらだ。12月なかばからは年末が締め切りの「忠固研」史料集のための原稿をどうにか書き上げた。  

 そんななかで、孫の労作「わたしのイネかずかん」(イネ科図鑑)が木原記念こども科学賞の低学年の部で最優秀賞をいただいたため、先月なかばには横浜市役所のアトリウムで行なわれた表彰式には顔を出し、晴れ姿を目に焼きつけておいた。考えてみれば、私はこの年齢まで何かまともな賞を受賞した経験がない。翌週には姉のピアノ教室の発表会があったので、それも聴きに行った。ふだんちっとも練習しない孫は、今年は自分の力量をはるかに超えたブルクミュラーの「牧歌」と「バラード」をそれなりに弾き、「きょしこの夜」を娘と連弾をした。上手な生徒さんの演奏に刺激を受けたのか、終わってから急に「タランテラ」を自分で練習しているらしい。 

 太陽の位置が低いこの時期は、15年ほど前に建った隣家の大きな二階のせいで日中は家のなかが暗く、寒々としている。それでも、冬至を過ぎるころから、細い陽の光が「冷たい水の中の小さな太陽」さながらに入るようになり、冬の午後、家のなかに長く射し込む西陽をありがたがっていた母を思いだす。昨年の日本庭園の本の仕事で谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んだおかげで、暗いからこそわずかな光が大切に思えるのかとも思えるようになった。 

 一連の仕事が片づくと、休む間もなく、本来は年末に仕上がる予定だったはずが、まだ3分の1程度という次の仕事に必死に取り掛かった。当然ながら正月休みも返上で、残りの半分ほどまでにきたこの物理本を少しでも先に進めなければならない。遠心調速機の仕組みだの、太陽歯車と遊星歯車の動きだのを、動画を見たり、解説を読んだりしながら理解しようと努めている。 

 どこにも行けず、寒い家のなかでPCにかじりついていなければならない日々は、どうしてもストレスが溜まる。最近は、私のフェイスブックにやたらレゴの動画が流れてくるので、ストレス発散に眺めると、いろいろアイデアが浮かび、歯車の仕組みの勉強だとか、あれこれ言い訳をしつつ、何度もパーツを買い込んでしまった。娘には完全に呆れられ、使えなかったパーツを孫のレゴ箱に追加すると、「また撒菱が増える!」と怒られている。実際、私に似て整理整頓が苦手な孫は、床中にレゴを散らばしたままにしているので、抜き足差し足で歩かなければならない。 

 こんな調子で、何ともパッとしない毎日を送っておりますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本庭園の本に刺激され、この半年ほど育てていミニチュア苔庭と、長年集めた?馬たち。ステップの馬とチャリオットの10年前の紙工作もまだ健在。日本人形たちは結局、何にもならずに終わっているが、花と幸は上田紬の着物で正月を迎えることに。虫眼鏡でコケを観察するわが姿は、子どものころ苦手だったヘムレンさんにそっくり。「雑多な苔」は、フリント船長の書いている本のタイトルだったか

いつもに増してピンボケになったが、除夜の鐘の記念に

午後になると少しだけ差し込む陽射し

2025年12月18日木曜日

 橘、タチバナという名称を知らない人はまずいないと思うが、雛壇の下に飾られる「右近の橘」を思い浮かべる程度で、実際に橘を見たことや食べたことのある人は少ないのではないだろうか。 

 以前にも書いたように、母の実家の家紋は菱井桁に橘で、柑橘類は基本的に暖かい地方のものだし、何かしらルーツを知るヒントが得られるのではないかと漠然と思ってきた。墓地にある江戸時代前期の墓標に、線刻ながら、橘とわかる紋が彫られているのは以前から気づいていたし、幕末に書かれた史料に「家紋井桁菱之内橘」の文字を確認できたことで、その思いは強まった。 

 春に調べたときはすでに季節的に遅く、苗木の販売サイトしか見つからなかった。酸味が強くて生食用には向かないとの説明もあったので、12月になるのを待って、1900年をさかのぼる橘の歴史があるという和歌山県の橋本神社の橘の実を、その近所の果樹園のサイトから2個だけ(!)購入してみた。 一つはお供え用に綺麗にパッケージに入っており、もう一つは味見用となっていた。

 由緒書きによれば、11代目の垂仁天皇の家来の田道間守が不老長寿の妙薬を探して常世の国まで10年間旅をしてもち帰った「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)の種から芽生えた苗を、和歌山県海南市下津町に移植したのだという。橋本神社の近くには六本樹橘創植の地という碑があるそうだ。 垂仁天皇は、実在したとすれば3、4世紀ごろの人で、田道間守のほうは伝説上の人物らしい。内容からすると、不老長寿の薬という点が徐福伝説ともどこか被るものがあり、こちらも九州のほか、和歌山や三重、愛知などにも伝説が残る。右近の橘が京都御所の紫宸殿前に植えられたのは10世紀後半のことだった。 

 果物としてのタチバナ(ヤマトタチバナ)は、沖縄原産のタニブターとアジア大陸産のマンダリンオレンジの交配種で、日本産の柑橘類の親の一つと考えられている。九州、四国、和歌山、三重などに「自生地」が若干あり、北限は伊豆半島の戸田だという。戸田は幕末にロシア軍艦ディアナ号が沈没し、ヘダ号が建造された地でもあり、タチバナ狩りもできるらしいので、いつか行ってみたい。 

 橘の歴史からも、科学的研究からも、先祖のルーツ解明につながりそうなヒントは見つからなかったが、購入した貴重な2個の橘は、一つを孫にあげて、絵を描いて欲しいと頼み、もう一つを自分の試食用とした。木の上で完熟した実を送ってくれたのか、柔らかめで、酸味は強いものの、十分に生食にも耐える味だった。10個の種が入っていたので、植えてみることにしよう。うまく発芽して育ったら、姉宅に移植してみよう。京都でも育つなら、横浜でも十分にいけそうだ。 先日、娘宅に行ったら、孫だけでなく、娘も忙しいのにちゃんと絵を描いてくれ、しかも小さな額に入れてプレゼントしてくれた! 

 孫の絵は紙一枚だったので、母宅から引き上げてきた100均の額にとりあえず入れてみた。娘が毎年制作してきた孫のミニ版画を入れられるように私が買って渡した額で、裏を開けてみたら、そこにもう2枚赤ん坊のころからのミニ版画が入っていた。表に入っていたのは、幼稚園に入ってブランコを立ち漕ぎできるようになった孫の図柄で、それが母の最後に見た「ひ孫」の姿ということになる。 

 日常にはまず見ることのない果物となった橘だが、じつは十大家紋の一つらしい。柏、片喰、桐、蔦、藤、茗荷、木瓜、澤瀉と並ぶ植物の紋で、残る一つは鷹の羽紋だった。カシワやキリ、フジはわかるとしても、カタバミ、ミョウガ、オモダカなど、随分とささやかな植物を家紋に選んだものだ。酒井雅楽頭家は片喰紋で、前橋の龍海院の墓地でこの紋をたくさん見た。 

   うちの父方は木瓜紋(もっこうもん)であることを、先日ようやく画像検索機能で確認した。灌木のボケのことかとも思ったが、読んで字のごとく、本当にキュウリらしい! 瓜の輪切りや鳥の巣を図案化したもの……となれば、これまた孫に絵を描いてもらわねばならない。キュウリはどうか知らないが、鳥の巣は大好きだから、楽しい絵になりそうだ。

 そう言えば、橘もずいぶん小さな果物なので、もう少し大きな果物にすればよかったのにねと話していたら、孫が「ドリアンとかね!」とすかさず言うので大爆笑した。ドリアン紋、強そうでいいかも。でも、考えてみたら、桃や柿なども、昔はずっと小さな実だったに違いない。山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ」というのは、メロンの祖先のマクワウリのことらしい。若い実はカラスウリのような縞があって可愛いが、マクワウリは地面で実をつけるので、木瓜はやはりキュウリか(12月20日加筆)。
 

 左)娘作、右)孫作

10個の種のうち、発芽したのは2個だけ。いずれも一つの種から2本芽が出た(4月中旬)

本葉が出てきたところで、2本ずつの芽を分離し、それぞれに植え替えた(5月初旬)