2026年9月12日土曜日

『老中松平忠固史料集』

 昨年7月に刊行された論文集に次いで、「老中松平忠固と生糸貿易研究会」からこのたび『老中松平忠固史料集』(岩下哲典編、吉川弘文館)から刊行された。史料集は、研究会メンバーが4年にわたる活動のなかで掘りだした、これぞと思う史料を集めた第I部と、忠固の老中日記からの抜粋である第II部、および水戸・越前・彦根という雄藩の史料に描かれた忠固の比較検討表で構成されている。

 第II部の忠固日記は、この史料集の目玉と言ってよい部分で、これは鈴木乙都氏が中心となって実現した。東大史料編纂所データベースで写本の画像が見られるとはいえ、一コマずつ細切れに見ていく作業は見やすいとは言い難い。『昨夢紀事』の饒舌さとは対照的な忠固日記だが、そこに書かれたことも、書かれなかったことも、日本の開国史の重要な時期に忠固が幕政の中心にいたことを考えれば、重要な意味をもってくるはずだ。老中日記の翻刻という試み自体が、ほとんど類を見ないものだそうだ。

 第I・II部の多くは、史学者も知らない、またはよく調べたことのない史料であり、雄藩の公刊史料のほうは逆に、史学者なら一度は目にしているはずのものだ。ところが、そこでは忠固は「敵」や「悪者」や「無能な老中」とされていたために、史学者も彼の存在に気づかないか、興味が湧かないままに、歴史の脚注に葬り去っていたに違いないものだ。この比較表は、関良基先生の労作だ。論文集に輪をかけて高額の本となってしまったが、研究者の方々や全国の図書館が購入してくださることを願っている。

  研究会は通算47回にわたったとのことで、基本的には毎月1度のオンライン会議だった。メンバーはそれぞれ独自の仕事や研究をかかえた人ばかりで、皆勤賞は、なかでもとりわけご多忙な会長の岩下先生くらいだったのではないだろうか。この間、たいへんなご苦労があったと思う。

   研究会の活動で何よりも貴重な体験となったのは、上田市立博物館と上田市立上田図書館で史料調査をさせていただいたことだった。上田にはかなり大量の史料が残されている。なかには虫食いのひどい分厚い史料もあったが、細い筆で書き込まれた墨の文字は200年近く前のものとは思えないほど黒々とし、和紙はまだ十分に形状を保っていた。博物館に収蔵されるまでに、誰によってどこで保管されて、今日まで残ったのだろうかと、ページをめくるたびに、包み紙を開くたびに、どきどきした。そんな体験を少しでも伝えられたら、という思いもあって、私自身は史料集に3点(掲載した画像としては4枚)の絵図を選んだ。 

 そのうち2点は京都のもので、上田藩と京都とのかかわりが何かしら見えてくるのではと期待してのことだった。1枚は上田藩の京都藩邸、もう1点は黒谷金戒光明寺の塔頭、歓寿院の絵図で、どちらも現存はしない。しかし、いずれも上田の領主となった藤井松平家が、上田に移る以前から、幕末まで維持しつづけていたものだった。他藩と比較することはできないが、それなりに特殊なかかわりだったのではないだろうか。 

 残る1点は、江戸の中屋敷で、忠固の没後に上屋敷となった隅田川沿いの瓦町藩邸の複数の絵図だ。瓦町藩邸は、私の高祖父がいた場所でもあったため、これまでに何度かコウモリ通信にも書いている。今回、史料集に掲載するために改めて調べたところ、すぐ近くが浅草御蔵で、藩邸の敷地内に入り込む形で入っているのが、その関連の御書替役場であること、藩邸のある場所が富士見の渡し場であり、南隣りの茅町には浅草代地河岸があり、柳橋芸者でも知られた繁華街であったことなどがいろいろわかってきた。要は交通の要衝であり、浮世絵にもこの一帯は数多く描かれていた。 

 絵図といっても、通りに面した狭い2箇所の入り口の複数の門の図や、内部の居住空間の大まかな平面図しかない。だが、そこに書かれた細かい文字を読み取ると、門の間口が12メートルほどであることや、見張りが常駐していたはずの番所や、非常口と書かれたくぐり戸があること、表通りとのあいだには下水が流れていたことなどがわかる。平面図には長屋がずらりと並ぶ様子が描かれている。江戸詰めの藩士は「家族を国元に残し、江戸の藩邸内の割屋・長屋に住んでいました」という『上田市誌歴史編 城下町上田』に書かれていた説明どおりなのだ。少し小ぶりの建物があったので、共同の「厠」かと思い、写真を拡大してみたら、「厩」であることがわかり、嬉しかった。 

 あれこれ眺めるうちに、いつもの悪い癖で、その門をつくってみたくなった。紙工作に始まり、少し進化してアイスの棒細工に、最後はレゴにまで手を出して、タン色のブロックやタイルをいくつも購入してしまった。1作目では門を開け閉めてしては、番所の兵士との会話を楽しんでいた孫も、レゴの門ができたころには「好きだね」と呆れていた。紙細工の門の前に立つ菅笠に野袴姿のおじさんは「大坂入城行列図」の絵巻のなかに見つけた高祖父を模したものだ。これも、3年前の史料調査で閲覧させていただいた。今回の史料集では、忠固が大坂城代に就任した弘化2年の同じ行列のものだが、絵巻とは別の行列帳の史料が、宮崎航平氏によって翻刻・解説されている。 

 私は絵図のほかに、短い老中書簡も2通、掲載していただいた。1通は、私が忠固について調査を始めた当初、『幕末外国関係文書』で見つけたハリスへの見舞い状で、卵300個を贈ったという目録が強烈で覚えていたものだった。冷蔵庫のない時代に、300個の卵を一度にもらったのか? 毎食、巨大オムレツをヒュースケンと2人で食べても、食べきれないぞ、などと想像して笑ってしまったものだ。ハリスがアメリカにもち帰った老中書簡の現物が、彼が設立したニューヨーク市立大学シティ・カレッジに残っていることがわかり、研究会に決して安くはない費用を負担していただいて、海を渡った老中連署の書簡の画像を史料集に含めることができた。残念ながら、卵の目録のほうは見つからないようだった。いつか誰かが現地でもう一度、探してくれることを願っている。 

 もう1通の書簡は、堀田正睦宛の老中書簡で、国会図書館のマイクロフィルムで明治期の写本は確認できたが、現物はあいにく見つからなかった。それでも、将軍継嗣問題に言及した重要な内容のものなので、忠固の立場を理解するうえで、いま一度、しっかりと読み返していただきたいと思い、敢えて加えてもらった。この問題に関しては、4年を経たいまも、研究会のメンバー内で意見の一致を見ていない。お互い、「推し」の歴史上人物があり、どの立場に偏って眺めるかで、結局、「藪の中」状態になるのが歴史という学問の宿命なのかもしれない。 

  昨日、史料集の刊行を記念して、研究会の活動の集大成となるお披露目会があり、私も参加してきた。昨年刊行の論文集にたいする佐藤隆一先生による詳細にわたる書評会があったあと、忠固のご子孫の方や上田の方々、関係の深かった地方からの方々、史学者など、大勢の方が参加してくださった史料集の記念講演会があり、そのあと丸ビルの高層階にある高級フランス料理屋に場所を移して、コース料理をご馳走になった。松平忠固の研究会が発足するきっかけをつくり、研究資金をご提供くださった東方商館の本野敦彦社長の奢りだった。上田藩は忠固の老中時代は西の丸下の役宅を上屋敷としており、36階のレストランからは、皇居一帯が見下ろせるという粋な計らいだった。これまで上屋敷の正確な場所を確認したことがなかったが、嘉永5-6年の大名小路の絵図によると、いちばん坂下門寄りが松平伊賀守だったようだ。左手に見えるのが桜田門だ。私の高祖父は幕臣とトラブルになって馬で逃げた際に、「桜田門内に駆け付け役屋敷を三匝して塀を乗り超えて邸内に」入ったらしいので、その光景も想像してにやりとしてしまった。 

 本野氏は20年前に、歴史の闇に完全に埋もれていた松平忠固を貨幣史の研究中に見出し、それ以来、忠固を世に知らしめるためにドラマ化を目指して奮闘されてこられた。その熱い思いがついに映画化のプロジェクトとなり、来年末公開を目指して動きだしているという。昨日は映画の関係者の方も何人もこられて、夕食会も大盛会となった。  

 本業だけでもいつも締切りに追われているので、慣れないことばかりのこの4年間は私にとっても本当に苦しい日々だったが、途中で投げだすことなく、ひどく足手まといになることもなく、何とか役目をはたすことができて肩の荷が下りた気がする。研究会の活動を通じて学んだ多くのことを、今後は気ままに、自分の好きな研究活動に応用していきたい。
 
上田藩瓦町藩邸の表門外取締門の①紙工作物

②アイスクリームの棒工作物、冠木門に屋根を付けた図

③レゴ・バージョン

丸ビル高層階からの眺め
大名小路内桜田神田橋内京橋南北図」東京都都立図書館 https://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000013-00042225

2026年7月31日金曜日

『回転の科学』

   昨秋から取り組んできた拙訳書『回転の科学』(ローランド・エノス著、河出書房新社)の見本が送られてきた。この数年、何やかんや二年越しになる仕事が多かったなか、この作品はありがたいことに比較的順調に進んだ。原題はThe Science of Spin:How Rotational Forces Affect Everything from Your Body to Jet Engines to the Weatherという。著者は生体力学を学び、マンチェスター大学とハル大学で教えてきた人だが、邦訳出版された前著『「木」から辿る人類史』(水谷 淳訳、NHK出版)からもわかるように、研究範囲は驚くほど広い。 

   リーディングを依頼された際に、これは面白いかも!と直感したのだが、じつを言えば、本書のテーマである物理は私の苦手科目の一つだった。長らく、翻訳の仕事を引き受けるときも「数学と物理以外であれば」と、いつも条件をつけていたほどで、それが少しずつ変わったのはフェイガンの『水と人類の1万年史』(河出書房新社、2012)で水車の魅力を知り、ダートルネルの『この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた』(同、2015)で回転機械の仕組みをいくらか理解したころからだろうか。気象学、気候科学や物理学史の著作に携わった経験も、「物理は苦手」という私の意識を少しずつ変えてくれたかもしれない。幸い、本書の著者は、物理が過度に数学に依存してきた弊害があると考え、数式を避けて読者に直感でわかる物理的な説明を心がけてくれている。 

   とはいうものの、本書が扱う分野は工学分野にとどまらず、第1部は宇宙物理学、第3部はスポーツ科学という、私の未経験分野も含まれている。内向きの向心力のような目に見えない力や、歳差運動のような方向がどんどん変わる運動を、三次元空間で思い描く能力が私にはいちじるしく欠けており、宇宙空間の事象ともなれば、どっちを向いて、どの方向に回っているのかわからなくなる。 

 ありがたいことに、今回はChat GPTという強力な味方がいたので、何度も質問を繰り返し、図示してもらい、どうしてもわからない疑問点を一つひとつ解決していった。インターネットすらろくに使えなかった時代から考えれば、翻訳を取り巻く事情も何と変わったことか。AIのデータ処理に大量のエネルギーと水が使われ、それが人類の新たな深刻な脅威となっていることをこれまでいくつもの訳書で学んでいたので、少なからず後ろめたさはあった。それでも、私に可能な限り正確に訳し、本書を世に送りだすことには意義があると、自分を納得させることにした。はたしてうまく訳せたのかどうか自信はないが、通常はお茶を濁した説明で終わっているという猫捻り問題などもしつこく質問したので、AIも呆れたのか、「そこまで理解していれば、大学の物理学科に入学できます」と、最後にはお墨付き(?)を頂戴した。高校時代に本書を読む機会があったならば、私の人生の進路は変わっていたかもしれない。 

   回転技術・機械を扱った第2部は、多少馴染みがあったせいもあって、楽しく訳すことができた。ガーンディーがインドの独立運動の象徴として使いつづけた紡ぎ車チャルカが、産業革命前の時代の人力で動く装置の頂点だという本書の指摘を読んだあと、その簡易版のようなブック・チャルカを自作してみたほどだ。実際、人間がつくった機械の多くは繊維製品をつくるためのものであり、なかでも綿や絨毛のような短い繊維を撚り合わせて糸をつくる製糸技術に、人の知恵が凝縮されていることを本書でたびたび実感した。 

 綿花から種を取り除くために日本で古くから使われている綿繰り機は、本書で言及されている12世紀インドの発明品と同種のものであることを発見して驚いた。しかも、ペリー艦隊の再来航時、横浜に下見のための上陸した際に、通訳として同行したサミュエル・ウィリアムズがそれに注目していたのである。1854年1月21日(嘉永7年1月21日)、午後の3時15分になって突如、香山栄左衛門が応接場として横浜はどうかと言いだしたときのことだ。「木枠に二個のローラーを組み合わせ、それぞれの先端に短いスクリューを取り付けて、これを相接して回転させることにより、種子から綿をはじき出す機械を見つけた」と、『ペリー日本遠征随行記』には書かれていた(洞富雄訳)。二つのワームギアを組み合わせると、どういう動きになるのか実際に試してみたいのだが、これはまだ実行できていない。 綿の繊維を揃える作業では、日本では綿打ち弓が使われていたが、欧米の羊毛産業ではカーダーが長らく使われ、やがてこの作業も回転装置で機械化された。私は100均でペット用の毛梳き器を買って試してみたが、糸がスムーズに紡げるほどには上達していない。 

   本書を訳しながら、レゴで多数の作品をつくってみたことは、すでに「コウモリ通信」でも何度か書いた(たとえばこの回 やこちらの回)。ごく最近になって、レゴのボッチは定間隔なので、織機もつくれそうだと試してみたものの、綜絖(そうこう、ヘドル)にする手頃なパーツが思い当たらず、取り敢えず片道だけは綜絖を滑車で上下し、シャトルを許せる速度で動かせるものが出来上がった。せっかくタイルをはめて杼摺(ひずり)にしたのに、「飛び杼」ならぬ「這い杼」くらいの速度ではあるが、子どもが織物の原理を知るにはよさそうなものだ。 

 最も単純な作品は、世界初の機械だというはね釣瓶、シャドゥーフだ。このごくシンプルな装置でも、ピボットにどのパーツを使えばよいのか意外に悩まされた。しかも天秤となる短いほうの軸の先端に、汲み上げる水と同程度の錘をつけることが肝心であることは、つくってみてから理解した。 

 いちばん試行錯誤したのは、水車場と通常、私は訳している水力利用の工場、millだろうか。上斜式にすれば少量の水を流すだけで水車を回せるのではないかと思ったのだが、水の重力エネルギーが無駄な抵抗を受けずに推進力に使われるような仕組みをレゴで再現するのは、私には難しかった。かなり高い位置からそれなりの水量を流せば回るには回るのだが、水がもったいなので、諦めて手回しすることに。それでも、大きさの異なる歯車を組み合わせて回転速度を変え、ベベルギアやワームギアで回転方向を変え、カムやクランクで往復運動に変換させることなどは挑戦でき、若干のパーツをつけて石臼や蜂蜜用の遠心分離機、製材所、縮絨器(というより餅つき器)のようなものもつくった。 

「指南」という言葉の語源が、古代中国の指南車にあったことを本書で知り、差動歯車の仕組を理解しようとネット検索中にレゴで指南車をつくった人を見つけ、それを参考にして、上に仙人のようなミニフィグを乗せて、同じ方向を指しつづける装置をつくったこともある。

 人間の動きは歩く、走るを含め、多くが回転運動であるという本書の指摘から、坂道を自重でカタカタ歩く玩具なるものも挑戦してみたのだが、適度な重さが必要らしくレゴではうまく再現できず、ハンドルを回して歩くオウサマペンギンのようなものに改造した。ところが、足が回るだけで「歩いているようには見えない」と孫に一蹴され、上体を揺らす工夫をしてみたが、このプロジェクトはそこで頓挫している。

 ブーメラン、スリング、コース・フィッシング用の投げ棒、ブンブン独楽など、本書で言及されている道具も、その関連で思いついたヌンチャクや竹トンボとともに、紙工作などでお試し品をつくってみた。私もブルース・リーの真似をして遊んだ一人だったが、小学生のころにこうした遊びをもっと実体験していたら、違う世界が広がっていたのだろう。学生時代に一年ほどお遊びで通ったテニススクールで教わったことは、投げる、打つなど、私のあまり得意でないスポーツを訳すうえで、それなりに役立った。スポーツの専門家は、本書をどう読むだろうか。 

 だいぶ背伸びをして引き受けた仕事ではあったが、高校時代よりよほど勉強して取り組んだおかげで、多少は視野も広がった気がする。本書を手に取ってくださる方々が、私と同じくらい、いや、それ以上に、本書を活用してくださることを願ってやまない。

『回転の科学:宇宙・気象・エンジン・人体』ローランド・エノス著、河出書房新社、2026年 ペーパーバックのコンパクトな本です! 
自作のブック・チャルカ 実用性があるとは言えませんが……


レゴでつくってみた指南車


どんどん「機械」を付け足し、広がってしまった水車場

2026年7月11日土曜日

『英語病にご用心!』を読んで

 明け方、蒸し暑くて暗いうちに目が覚めてしまい、どうにも眠りに戻れないので、諦めて読みかけの弟の近刊、『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(東郷公德著、開文社出版)を最後まで読み通した。インタビュー本なので、すらすらと読めるのだが、何しろ合計13人もの、各界の第一線で活躍する人たちが登場する。厚さ2cm強の軽そうな見た目のペーパーバック版ながら、実際には480ページ近くあるのだ。その分、読み応えは十分にあった。  

 もとはコロナ禍で、新入生向けにオンライン配信したガイダンス動画がきっかけだったそうで、本を執筆中という話をだいぶ前に聞きながら、いつまで経っても刊行されないと思っていたところ、当初の企画がいったん完全に潰れて、大量の原稿を抱えて飛び込み営業した末に、5年の歳月を経てめでたく出版に漕ぎ着けた、という汗と涙の結晶らしい。インタビューに応じてくださった方々や、あいだを取りもってくださった方々など、大勢の人を巻き込んでの企画なので、その間、さぞかし胃の痛い思いをしたことと思う。  

 弟は上智大学の外国学部英語学科で教えているので、インタビューした人の多くは上智の関係者であり、なかでも英語学科というやや特殊な環境が背景にある。弟は日本で教育を受け、県立浦和高校から英語学科に入ったため、帰国子女がやたらと多く、「休み時間に周りでみんな英語で話している!」状況に怖気づいた一人だったらしい。 私が出たフランス語学科も、帰国子女が多いという点では似たり寄ったりかもしれないが、入学前からフランス語がペラペラの数人は「スペシアル」組になり、フランス語の初歩の発音練習や会話練習は免除されていた。私たちその他大勢は、幼稚園のお遊戯さながらに身振り付きで、フランス語特有のリズムを習う訓練を延々とやらされたので、「r」の発音をなかなか習得できない人など、多少の優劣はあったにせよ、どんぐりの背比べ状態だった。 

 弟はのちに一年間、家族連れでイギリスに留学しているが、オーラルな英語力にはいまだに劣等感をもっているらしい。それなのに、シェイクスピアの研究者となり、よりによって古巣の英語学科で、日本語より英語のほうが得意な学生を相手に教えている。英文学科で教えれば、もう少しましだったのでは、とひそかに思っている。そんな英語学科の学生のあいだに「英語病」と彼がみなす症状が散見されることにたいし、長年、違和感、危惧感を抱いたあげくの作品のようだ。 

 もっとも、「英語病」の命名者は弟ではなく、本書最後に登場する精神科医の山下悠毅氏なのだという。山下医師は2012年12月に自身のブログで、英語も仕事もできる人に劣等感を抱き、「自分だって〝英語さえ〟できれば」と信じて疑わない人がいることへの警鐘を鳴らしていた。こうした人びとは被害者意識が強く、自分が報われないのは「親の育て方が駄目だったから」、「英語ができないから」だと思い込むのだそうだ。それどころか、「英語病」になると、英語を学ぶことが宗教の教義のようになり、むしろ「英語教」に近いのだと。山下医師と弟の「英語病」の定義が若干異なるように思うのは、弟がその進化系の症例を見ていて、山下医師はより一般的な挫折組の患者を診ているからなのかもしれない。

   いずれにせよ、うちの近所でも、小学校の下校時に校門前で英語塾のバスが子どもを迎えにきていたりするので、私の子ども時代はもちろん、子育て時代とも異なる英語学習熱の背景は見えてきた。英語で何かしらのコンプレックスを抱いた親世代が、自分の苦労や失敗を繰り返させたくないから、または子どもに恨まれたくないからと、英語塾通いを何よりも優先させているのだろう。だが、実際には、本書で多くの方が指摘するように、英語は道具に過ぎず、目的にはならない。まして信仰対象にはなりえない。 

 本書は英語教育だけでなく、日本の国語教育の問題にも多く触れている。古文・漢文はわりと好きだったのに、現代国語はちっとも興味をもてず、最後まで苦手教科の一つだった私にとっては、「言語技術教育」の普及に尽力されている三森ゆりか氏のお話には、共感するものが多々あった。「主人公はどう思いましたか?」とか、「感動したところを書きなさい」などと試験で問われるのが、とにかく嫌いだった。日本では「なぜ?」が軽視されているという件では、孫が「なんで?」「どーして?」を連発していた時期を思いだした。答えに窮して、帰宅後に理由をググって調べたこともあった。うちの娘夫婦はどちらも辛抱強く教えるタイプだが、弟もそうであったことを知り、だから「この子はこんなに理屈っぽくなってしまった」と奥さんに怒られたと読んで、光景を思い浮かべて笑ってしまった。ちなみに弟のところは英語学科の同級生同士の夫婦だ。

  ついでながら、「言語技術教育」の専門家でおられる三森氏に、一読した程度でこんなことを書くのは非常におこがましいのだが、Language Artsの訳語と思われる「言語技術」は、人の脳のなかで言語化される前の世界共通の部分とのことらしいので、「技術」以外の訳語を当てはめたほうがよかったのではないかと思った。実際、「言語技術」は、近年のAIの大進化を裏で支えるlanguage technologyの訳語として、ウィキペディアではまず検索される。両者に共通する面もあるのだろうが、こちらはコンピューター関連の用語だ。そもそも、「技術」という訳語は定義がやたら広い。日本語はそれだけこの手の語彙が不足しているわけで、私はいつも訳し分けるのに苦労している。じつは、scienceとtechnologyを混同する日本人があまりにも多いため、私は最近、後者の定訳だった「科学技術」から「科学」を省いて、「技術」をもっぱらtechnologyの訳語に充てている。そうなると、skillやtechnique、artsをどう訳すかという問題になり、さらにはそれに近い言葉としてabilityやcapabilityとどう区別するかなど、考えればきりがなくなる。三森氏の「言語技術」に関しては、インタビューを読む限り、「技術」よりも「能力」が近いように思い、「能力」を使いたくなければ、「言語術」でもよかったのでは、などと読みながら感じた。

   もう一つ、ついでながら、critical readingやcritical thinkingに関する考察もたいへん興味深く拝読したのだが、「批判的読解」とか「批判的思考」と訳すことの弊害を恐れて、横文字やカタカナ語のまま使っていては、おそらくいつまで経っても日本社会には浸透しないだろうと思う。大半の人は批判を非難と混同しているので、まずはその区別をつける必要がある。文章を批判的に、客観的に、さまざまな角度から読む訓練ができていないからこそ、好きか嫌いか、敵か味方かの二項対立になって終わるのだ。

   NHKニュースキャスターの有馬嘉男氏との対談では、村井吉敬先生の話題が出てきた。私も一年のときに一般教養で履修したはずと思い、成績表を探したのだが、卒業証書もろともどこかにしまい込んだらしく、見当たらない。経歴詐称と言われないように、暇になったら家探しをせねば! 弟の奥さんが村井ゼミだったことも本書で初めて知った。それまで欧米に向いていた目をアジアに向けさせてくれた濃い内容の授業だった記憶はある。感化されて、東南アジアに関連の活動で赴いた同級生も何人もいたが、当時、私の関心はもっぱらスキーに向いていたので、授業に出る以上の成果はなかった。

   弟の教え子で、ダンサーや国際交流イベント企画運営で活躍している知夏七未氏が、ミス・コンテストとNGOという異なる体験をつづけるなかで、救世主としてではなく、対等な友達として支援することの重要性を語っていたのも、どこか村井先生に通ずるものを感じた。

   弟がシェイクスピア研究者になったのは、確か安西徹雄先生の影響が大きかったはずだ。ほぼ同時期に同じ四ツ谷のキャンパスにいたのだが、異母弟で一緒に育っておらず、会うとぎこちなく挨拶する程度の間柄だったので、学生時代のことはよく知らない。私は小6か中学に入りたてのころ、ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』のサントラ盤LPを買って、わからないなりに何度も聴いていたので、やはり同じ授業を受けていた。その後、こんにゃく座のお芝居などではシェイクスピア作品をいくつか観たが、翻訳のなかの引用文としてシェイクスピアを訳さなければならなくなると、その場凌ぎで対応するしかない。演出家で翻訳家の小川絵梨子氏との対談で、バルコニーのシーンの会話がいかに訳しにくいか、弟が力説していたのも印象的だった。「ひとつの作品に対して色々な人の訳があると補完される」という小川氏の言葉に、こういう考え方は素敵だなと思った。 

  英語の落語で日本文化を海外に発信している立川志の春氏との対談で、シェイクスピアの『冬物語』の話で盛り上がっているのを読むと、いつかこの作品に限らず、英語落語なるものを聴いてみたいと思った。ただし、落語の世界は師匠との同化が求められるそうだ! 

  同世代に近い人が多いせいか、FEN(米軍のラジオ極東放送網)に言及している人も散見された。私は中学生から高校初めまでの数年間、毎週土曜の夜の『全米トップ40』を聴いていた一人だし、FENもそれなりにBGMで聴いていた。先日、亡くなったボニー・タイラーのヒット曲「It’s a Heartache」などがヒットしていた時代だ。 

『J-MELO』のチーフ・プロデューサーだったという原田悦志氏との対談で、音楽は歌詞を聴くのか、サウンドとして聴いているのかという議論は、うちでもよくするので面白かった。私は圧倒的に後者で、音楽のほうは間奏や低音までよく覚えていたりするのに、歌詞の意味はずいぶんしてから気づくことが多い。娘と孫は歌詞派だ。孫にいたっては、『メトード・ローズ』というピアノ教本で出てくるフランスの曲(Marie trempe ton pain)の歌詞を教えると、意味もわからないのに、驚くほどの記憶力でそれらしく覚えて歌う。ときどき「パン・マリ」が「たまり」醤油のようになっているが、フランス語っぽいリズムで歌えるのだ。こうした言語脳が発達する時期の外国語教育に関する考察は、残念ながら本書にはない。

「トリ」はやはり、弟の高校時代の同級生という宇宙飛行士の若田光一さんだろうか。私は若田さんが搭乗したISSを眺めていたので、余計そう思うのかもしれない。インタビューはヒューストンに滞在中の若田さんと2021年4月にオンラインで行なわれた。ソユーズ宇宙船はいまもISSに向かい、カザフスタンの草原に帰還しているので、言われてみれば当然なのだが、「ロシア語は宇宙飛行士の必須言語」なのだそうだ。若田さんのロシア語習得までの涙ぐましい努力を読んだあと、インタビュー後に始まったロシアによるウクライ侵攻は、究極の国際空間である宇宙ステーション内にどんな影響をおよぼしているのか、ISSはこの先どうなるのか、気にせずにはいられなかった。
 
 本書のためのインタビューが実施された2021年から現在までに、世界情勢はコロナ禍の残響なのか、温暖化が一段と進んだためか、確実に悪化した。いまや世界はどこも危険そうに見え、円安ですべてが高くなり、オンライン情報だけが格段に豊富になった。「大部分の日本人が生きて行くのに、英語はほぼ不必要です」という弟の主張は、この時代に即しているのかもしれない。日本の若者は狭い日本を飛びだす代わりに、自分たちの居場所を奪いそうな在日外国人のみならず、訪日外国人客まで敵視し始めている。英語だけでなく、多様な言語を学ぶ機会を小学生に与えるという弟の提言は、どれもこれも中途半端になって終わりそうな予感がする。遊びの一環で少しばかり覚えるならいいけれど、外国語はある程度、継続して時間を割かない限り身にはつかない。あまりにも多くの選択肢を与えるのではなく、数カ国語のなかから一つ、または二つを自分で選ぶ、くらいが関の山ではなかろうか。

   日々、英語を使って儲からない仕事をつづけ、いまや瞬時に答えが出る機械翻訳に教えられることも増えた一翻訳者が、英語を学ぶ意味を付け加えるとすれば、英語というインターフェイスは、その他どの言語よりもそれによって得られる情報が多いことだ。それはビジネスで役立つとかいう実際的な側面以上に、批判的読解をするうえで重要なものになる。戦犯として絞首刑になった広田弘毅が巣鴨プリズンに面会にきた孫に、「自分に恥じない人間になりなさい。そして何か他国語を一つ覚えなさい」と言った言葉が忘れられない。外国語は自分を外から見つめ直す鏡なのだと思っている。

東郷公德著『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(開文社出版、2026年)

2026年6月1日月曜日

『ハヤ号セイ川をいく』Minnow on the Say

 このところ、就寝前のひとときを楽しく過ごしている。ほんの数十分ずつなのだが、3月に岩波文庫から原田勝氏による新訳で刊行されたフィリッパ・ピアスの『ハヤ号セイ川をいく』を図書館で借りて読んでいるのだ。ピアスは、アーサー・ランサムと並ぶくらい私が好きな児童文学作家で、なかでもデビュー作であるこの作品は、代表作の『トムは真夜中の庭で』にも増してお気に入りの一冊だった。 

 小学生のころ、地元の「どんぐり文庫」で借りて読んだピアス作品は『トムは真夜中の庭で』だけで、『ハヤ号セイ川をいく』は、『サティン入江のなぞ』や『まぼろしの小さい犬』などとともに子育て中に図書館で借りて読み、原書も入手して読んだものだった。 

 残念ながら、以前の講談社からの版は翻訳にかなり難があり、原書を手に入れて読んだところ、あきらかな誤訳も散見されたため、ならば自分で訳してみようと一念発起したことがあった。まだ会社勤めをしていたころか、失業中だったか、記憶が定かではないのだが、いずれにせよ1990年代にこの作品を全編翻訳し、製本テープで本の形にし、小学生だった娘に読み聞かせていたのだ。棚の奥を探してみたら、3.5インチのフロッピーも見つかり、古いフロッピーディスク・ドライブを探しだして入れてみたが、唸るばかりで開けなかった。あのころはプリンターがなく、ワープロ専用機でつくったような気もする。 

 のちに講談社の編集者と会う機会があり、一応、打診はしてみたものの、当時はまだ版権も切れていなかったのだろう。私の最初の翻訳作品は結局、娘が読んでくれただけで、何にもならずに終わった。転職した当初は、児童文学の翻訳者になりたかったのだが、いまや小学校高学年くらいの子どもたちは塾通いやゲーム等々に忙しく、そもそも子どもの人口が私たちの時代とは比べものにならない。児童書は、絵本以外はなかなか売れない時代になったらしい。出版業界全体が厳しい状況だが、このジャンルはますます狭き門となっており、私が入り込める隙は見つからない。岩波から新訳が出るというニュースを見たときは、正直言って残念だったが、まあ、こればかりは仕方がない。 

 そんなわけで、ここ数日は夜な夜な、岩波少年文庫の新訳を少し読んでは、自分の訳や原書と読み比べて、にんまりしたり、憤慨したり、付箋を貼ったりしていたのだ。インターネットも使えなかった時代の翻訳と比べれば、新訳は当然ながらはるかに読みやすくなっている。講談社版の訳では「殺人的落下物」という意味不明な言葉になっていた(と記憶している)箇所も、新訳では「いきおいあまって転落してしまうかもしれないと思ったからだ」(fearing some murderous drop from the roof-top might lie)と、きちんと訳されていた。前の訳者は私同様に老眼だったのか、急流下り(rapid shooting)がウサギ狩りと訳されている箇所もあったはずだ。 

 物語そのものは、2人の少年が詩を手がかりに先祖が隠したと伝わる宝探しをする話で、詩のなかの言葉に込められた意味を、あれこれと推測する。一般論として詩を訳すのは非常に難しい。しかも、この物語では詩が大きな意味をもち、何度も異なる状況で、異なる解釈で同じ詩が繰り返される。毎回訳して変えてしまっては、英語の原文を想像できない小学生の読者には、意味のわからない手がかりとなるだろう。残念ながら新訳でも、この詩は毎回、状況に即して違う言葉で訳し直されてしまっていた。

原詩は次のようなものだ。 
  Whan Philip came to the single Rose 
   Ouer the water 
  The tresor was taken where no one knows 
   None but my daughter.

新訳ではこうなっていた。
 フィリップはやってきた   
  一輪のバラのもとへ水の上をわたって  
 宝ははこばれていった   
  わたしの娘しか知らないところへ

30年ほど前の拙訳はこうだった。 
 フィリップが来たとき ひとつのバラへ   
  水をこえ  
 宝は運ばれた 人知れぬところへ   
  わがむすめよりほかは

 少年たちはこの詩をどこで区切るべきかをめぐって頭を悩ませるので、原詩の語順や改行はできる限り変えないほうが望ましい。和歌の掛け言葉のように、二重、三重の意味をもたせるには、「一輪のバラ」と誤解しようのない明確な表現を使うと、single roseがのちに「一重咲きのバラ」に意味を変えた場合に、たとえ漢字では「輪」と「重」の違いであっても、読みも違うので、ふりがなに頼る読者は混乱するのではないか。私も悩んだあげくに、「ひとえ(つ)のバラ」とし、シングルとルビを振ったり、多少の訳註を入れたりすることで誤魔化したが、ここはもう一工夫欲しかった。

  Ouer (over)という前置詞は、のちに宝の隠し場所が移されたときにunderに書き換えられ、謎解きに大きな意味をもつ言葉なので、この小さな一語を「水の上をわたって」と具体的に書いてしまうと、あとからなぜそれが「川にかかる」橋と読み替えられるのかわかりにくい。詩が後年、書き換えられたときも、なぜ「水の下へ」と大幅に書き換えられたのかと、幼い読者であれば疑問に思うだろう。読者対象は小学5・6年生から、ではあるが。 

   いまだったら、「水をこえ」と動詞にせずに、より前置詞的に「水の上へ」にしたかもしれない。この詩が言及されるすべての箇所が、この表現でうまく収まるかどうか確かめなければならないが、うまくいけば「上」と「下」の書き換えだけで済む。文末が「へ」ばかりになるのを避けるには、「ひとつのばらのもとに」、「人知れぬところに」と変える必要もある。「わがむすめをのぞいて」とすれば、一応、脚韻も踏める。  

   もう一つ、新訳で残念に思った重要なことがある。ネットでちらりと検索した限りでは誰もこの点に言及しておらず、著者のあとがき(1999年版)でも触れられていないので、単に深読みのし過ぎなのかもしれないが、この物語でピアスは言葉に裏の意味を込めているのだと私は思った。原題はMinnow on the Sayという。舞台はピアスが生まれ育ったケンブリッジ郊外で、セイ川のモデルとなったのはあのケム川だ。セイ(say)というやや風変わりな川の名称に、「言う」という意味を込めていたのではないのか。そして、ヒメハヤという小さな淡水魚の名前であるminnowには、me know「ぼくは知っている」という意味が込められていたのではないのか。

  船名の命名者は、カヌーの本来の持ち主ではなかった年下の少年デイヴィッドだ。下流のリトル・バーリー村に住む路線バス運転手の息子という設定である。デイヴィッドはふさわしい船名をあれこれ考えたあげくに、「I shall call her the Minnow」とひらめく。この箇所は新訳では、「ハヤだ。この船はハヤ号だ」となっていた。船名は別にして、雰囲気は出ている表現だ。私訳では「ミノウ号にしよう」とし、この船名で通すことにした。その後、上流のグレート・バーリー村の大地主の末裔で、カヌーのもともとの所有者であるアダムと一緒に再度、船名を考える場面があり、そこでもデイヴィッドが勇気を出してミノウ号という名前を提案し、最終的に年上のアダムもその考えを受け入れる。 

  アダムの伯母のミス・コドリング(新訳ではコドリングさん)はコドリング老人の娘なので、宝の隠し場所を知っているはずなのに、「もちろん、おばさんは自分が知っていることを知らない」(of course, she doesn’t know she knows)という、やたらknowが強調された箇所もあった。物語の後半で登場するスミス氏はデイヴィッドが自分の正体を見抜いていたことに感服し、‘I shall remember you as the boy who knows everything, except that he doesn’t know quite everything.’、「おまえのことは、すべてを知っていると思いこんでいるが、じつは知らないことがある男の子としておぼえておこう」と、またもやknowを強調した言い回しをする。私訳では「きみのことは、何もかも知っている少年として記憶にとどめておこう。とはいってもまったくすべてではないがな」としていた。 

 一族に伝わる家宝を探すことにミス・コドリングにたいし、少年たちが自分らの動機を打ち明け、説得する場面では、'No, it’s just so that we can have our say.’と、自分の意見を言うという表現でsayが強調されている。新訳では「ちがうよ。ぼくらの話をちゃんと聞いてもらいたいだけさ」となっている。意味としては通じるが、訳者は「セイ」に格別な意味を感じていなかったのだろう。私訳では「ううん、ただ、ぼくたちの言いたいことがちゃんと言えるようにさ」と、「言う」を強調していた。

 コドリング邸が売られてしまう切迫した場面で、デイヴィッドが大人たちを必死に止めようとした際には、ミス・コドリングが「デイヴィッド、言いたいことを言ってちょうだい。てみじかにね」(‘David, say what you have to say, quickly.’)というセリフもあった。もっとも、knowもsayも非常に使用頻度の高い、ごく一般的な動詞であり、私のピアス好きが高じて、余計な勘繰りをしているだけかもしれない。それでも、子どもが成長する過程で、大人にも負けない推理を働かせ、自分の意見をぶつけながら謎解きをするこの物語で、この二つの言葉がキーワードなのだと思って読むと、ピアスが本来描きたかったことが見えてくる気がする。

 あまりにも思い入れの多い作品なので、選ばれた訳語が随所で気にはなるが、30年ぶりに読み返すのはじつに楽しい。十数年前にほんの数日間ではあったがケム川沿いも歩いてみたし、娘が留学時代にこの物語そっくりにケム川で船遊びする様子なども写真で見てきた。グレート・バーリー村のモデルである高級地区グレート・シェルフォード村の水車場の所有者だったというピアスの実家が、コドリング家のモデルとなったであろうことや、第二次世界大戦で戦死した息子の死を受け入れられないコドリング氏がいまなら認知症と診断される症状になっていたこと、早くに夫を亡くし、娘を連れて実家に戻ったという著者ピアスが、ミス・コドリングに自分を重ねていたであろうことなども改めて認識した。アルマダ海戦の時代までさかのぼって共通の先祖がいる子孫同士がそっくりな顔立ちで、先祖の肖像画の前に立つ場面などを読んだことは、おそらく私がのちに先祖探しにはまる遠因となっただろう。キバナノクリンザクラ(カウスリップ)、アップルミント、スイカズラ、ニレ、サンザシ、イボタ等々、たくさんの植物も登場する。夜中にこっそり家を抜けだして、カヌーを漕いで石橋を探検するシーンは、いま読んでもわくわくする。 

 近所の書店の岩波少年文庫のコーナーには入れてくれそうにないので、孫が読むにはまだ少し早いが、新版は横浜市の生活応援クーポンを使って(!)購入してみた。いつか、私の昔の訳文や原書と読み比べて英語の勉強でもしてくれたら嬉しい。原書はいまではネット上で読むことができる。翻訳にはこのサイトと同じペーパーバック版を使ったはずなのに、狭い家のなかでその本は行方不明になっている。

岩波少年文庫からの新訳(右側)、水色の表紙のものが私の最初の翻訳作品! ハードカバー版はのちにカバー写真に惹かれてつい購入した。

娘に読み聞かせながら、わかりにくい箇所や、読みにくい部分を訂正していた痕跡が……。
 

2026年5月21日木曜日

『上田郷友会月報』

 先月から、校正に次ぐ校正で、なかなか自分のペースで仕事ができない。数日ばかり本来の翻訳作業に戻ったのを機に、原稿やレジュメ、企画書などに着手する傍ら、久々にグーグルで祖先探しにつながる新しい情報がないか検索したところ、珍しく曽祖父門倉安栗の名前で2件ヒットした。よく見るとどちらも同じネットオークション関係で、曽祖父の訃報記事が掲載された大正7年の『上田郷友会月報』の古本が売りにだされていた。出品者がその号の主要項目を書きだしてくれていたおかげで、検索エンジンに引っかかったようだ。

 記事そのものは何年も前に上田市立上田図書館で閲覧した際に見つけており、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも触れているが、現物の雑誌はもっていなかった。それどころか、これまでたびたび活用させてもらったこの雑誌を一冊も所有してなかったので、ゴミを増やすことになるかと迷いつつ入札し、めでたく落札した。せっかくの機会なので、すでにゲラ刷りも届いてしまったが、この数カ月間、見つけてはデスクトップのフォルダーに放り込んでいたいくつかの情報とともに、忘れないうちにまとめておく。 

 明治18年創刊の『上田郷友会月報』は現在もつづく長寿雑誌で、実質的には明治20年創刊の『中央公論』を超える雑誌と思うが、これまで広く公開されていなかったせいか、昭和23年6月から平成8年2月まで『郷友信濃』と名前が変わったせいか、世間の認知度は低い。現在は国会図書館デジタルコレクションで平成23年分まで読むことができ、このサイトにリンクがまとめられている。 

 郷友会の活動はよく知らないし、この雑誌の歴史もざっと読んだ限りだが、もともと上田藩の藩医の子どもなど、医学関係者が発起人となって始まった会とのことで、創設者の一人とされる山極勝三郎は世界で初めてがんを人工的に生成して原因究明に寄与し、日本人でノーベル賞候補となった最初の人だ。多分に政治絡みで受賞できなかったものの、著名な医学博士である。

 勝三郎氏に私の祖父がお世話になったことは親戚から聞いていたが、曽祖父のこの訃報記事を読んで初めて、曽祖父安栗が「十四、五歳の頃、医師山極吉哉氏(山極博士の養父)の書生として厄介になったのであるが当時は中々の腕白ものであった」ことがわかった。しかも、上田藩の藩医だった養父の「山極氏の意見で獣の医者よりは人間の医者の方がよかろうと云ふ説に伝次郎氏の未亡人も同意されたので、山極氏の薬局生となって始めて医者のいろはの手解きをして貰い傍ら、本郷の済生学舎へ通うて前期試験には山極氏の宅に居る頃に及第したのである」とも書かれていた。祖先は数百年にわたって馬役を務めてきたが、このとき馬との暮らしと決別したことになる。 

 曽祖父が日本医科大の前身となった済生学舎出身であることは叔母たちから聞いていたが、いつ医師免許を取得したのかは長らくわからなかった。当時はデジコレもなかの文字の検索機能がなかったため、何年分もの官報のケシ粒のような文字をひたすら追ってみたが諦めた経緯がある。この訃報記事に明治32年に医師になったと書かれていたので、格段に便利になったデジコレで検索すると、明治33年(1900)1月26日の官報の「医籍登録者」のリストに名前がすぐに見つかった。 
 
 山極吉哉が、私の高祖父の死後まもない明治22年の月報に「故門倉伝次郎先生小伝」と題した記事を寄稿してもいたことも、最近になってデジコレから判明した。高祖父は明治21年10月に没している。しかもそこには「門人 山極吉哉謹辞」と書かれていた。藩医であった吉哉氏に、馬役から馬医になっていた伝次郎が何を教えたのか思いつかないが、親しい間柄であったことは想像がついた。だからこそ、伝次郎の遺児が医者として独り立ちするまで面倒を見てくれたのだろう。 

 明治43年になって再度、伝次郎の略伝が月報に掲載されたが、その情報源の多くは吉哉氏のこの記事だった。吉哉氏の記事で新たな情報としてすぐに目に留まったのは、安政6年9月に藩主であった松平忠固が亡くなった際に「御遺物トシテ御紋付上下拝領」となっていたことと、横浜にいたイギリス公使館付き騎馬護衛隊隊長のアプリンに西洋馬術を習い始めたのが元治元年10月と明確に年月がわかったことなどだった。 

 今回私が入手した曽祖父安栗の訃報記事を書いてくれた「無濁生」が、郷友会の創設時から多年にわたって幹事を務めた宮下釚太郎であったことものちに判明した。この追悼文には、高祖父の伝次郎が幕臣とトラブルになって追われ、「桜田門内に駆け付け役屋敷(老中邸)を三匝して塀を乗り超えて邸内にはいられたと云う」というエピソードが紹介されていた。だが、さほど広くもない西の丸下の上屋敷に高祖父がいた可能性は少ないと思ったため、図書館で読んだときは半信半疑だった。少し前のコウモリ通信に書いたように、『象山全集』の頭注から佐久間象山が松代で蟄居となり江戸を発つに当たって、象山の甥から「松平伊賀守様 御上屋敷」の上田藩の弟子である伝次郎と桜井純蔵宛に、中山道に向かう途中の白山付近でひそかに会えればという内容の手紙が送られてきたことが判明したため、上屋敷のこの一件もまんざら嘘でもないかもしれないと思い直した。西の丸下からであれば、銀座の木挽町の象山塾まで通うのは訳なかっただろう。 

 宮下釚太郎はじつに多くの記事を書いているが、昭和3年の月報にも「名馬高砂に就て」というエッセイを寄稿している。当時、松平家の家令を務めていた宮下は、谷中の天王寺にあった松平家の墓地に行った帰りに立ち寄った古本屋で、『天下古今文苑奇観』に塩谷宕院の「記名馬今高砂」が収録されているのを見つけ、それが松平忠固の栗毛の愛馬のことだとわかったため、帝国図書館(いまの国会図書館)でその書を借りて読んでみた、という内容だ。 

 引用の原文は漢文で、「今高砂者奥之鍛澤所産也、其色栗毛、筋骨剛脛、眼清気深、胸下有施毛」と始まり、宮城県鍛沢産の栗毛の名馬を「嘉永三年、上田侯獲之」、つまり松平忠固が獲得したとする。「昔吾自姫路来先君賜良馬名高砂者」とつづき、姫路藩から養子にきた際に、当時の上田藩主松平忠学が高砂という良馬を与えてくれたようだ。「今此馬其流亜也、宜呼為今高砂、愛撫弗惜、出必従之」とあるので、おそらく新しい馬も仙台馬で似ているため、今高砂と呼ぶことにし、大切に飼いいつもこれに騎乗していたという。この今高砂もすでに老齢になりと書かれたあと、「如禄官吏乞骸骨者然、御藩士門倉信敏、介石野恒卿、請余為之記」とつづく。 

 古文は仮名交じり文でもなかなか読めないが、漢文となるとかなりお手上げ状態で、グーグル翻訳で中国語→日本語で変換してもよくはわからない。ただし、ここに名前の出てくる門倉信敏が高祖父伝次郎(諱が信敏)であることは間違いない。塩谷宕院(1809〜1867年)は遠江掛川藩に仕え、のちに昌平黌の教授となった儒学者とのことなので、石野恒卿を介して、伝次郎がこの馬について何か書いてくれと頼んだ、と推測してみた。うんと暇になったら、後半部分も頑張って読んでみるつもりだ。

 少なくともこの史料から、忠固は文政12年(1829)に養子入りした当初から仙台馬に乗っていて、最初の老中時代で西の丸下の上屋敷にいた嘉永3年時には新しい仙台馬を愛用していたことはわかり、伝次郎はその面倒を見る役目もあって上屋敷にいたとすれば、一応辻褄は合う。宮下釚太郎が借りたと思われる『天下古今文苑奇観』(2巻、明治12年)も、いまではデジコレで簡単に読める。便利な世の中になったものだ。この文章そのものは塩谷宕院が没する慶応3年以前に書かれたはずで、明治3年刊の『宕陰存稿』にも収録されていた。上田藩以外の古い文献に伝次郎(信敏)の名前が翻刻されていたのは、私としては画期的なことだった。 

 明治以降の伝次郎の経歴については、明治初期のものは動乱期のため史料が乏しく、私の知識がそれに輪をかけて乏しいため、長らく調べあぐねていた。だが、デジコレが進化したことと郷友会月報が公開されたおかげで、新たにいくつかのことがわかった。明治3年に伝次郎が「馬術局教頭」に任命されたなどと吉哉氏が書いているのは、明治維新後の上田藩内の組織改革に伴う組織のことで、曽祖父が生まれた翌年まで、一家は少なくとも上田に留まっていたようだ。明治5年9月に「軍医寮八等出仕拝命」、同6年3月に「允請軍医寮九等出仕拝命」、同7年1月「陸軍馬医副ニ任ス。同年三月横浜在勤被申付」とつづくので、明治5年以降は明治政府に出仕するようになったと考えられ、実際、官報などにも多少の記録が見つかる。明治8年6月には「叙従七位」ともあった。明治10年12月には、すでに57歳と当時にしては高齢だったのに、西南戦争に駆りだされた。その後も再び鹿児島へ「軍馬買弁」のために送られたりしていたため、鹿児島の馬関連でも多少の記録が残っている。  

 月報が『郷友信濃』と名称を変えていた時期の昭和35年の号には、これまた驚くべきことが書かれていた。時代もかなり経ているので、信憑性はかなり低そうだが、こう記されている。「明治天皇は乗馬が御好で馬をいたはられた。前に申上げた身長六尺余、体重三十貫の御身であるので馬に重みのかからぬ様かがみ腰でのられている天皇に、馬術の教官は馬政局長官、上田藩の門倉伝次郎先生である」。馬政局が設けられたのは伝次郎の死後の明治39(1906)年なので、長官云々は間違っているし、明治天皇も身長も167cm、体重92kg程度と考えられているので、やや大袈裟である。  

 明治天皇は、東京奠都後まもない明治5年(1872)に西洋式の出たちと馬具の騎乗姿を内田九一が撮った写真が残っている。幕末までは御所から外に出ることもままならなかったはずなので、多少の乗馬の心得はあったとしても、本格的に馬術を始めたのは東京に移ってからと思われる。『日本馬術史』(1941 年)等を参考にすると、明治天皇は西洋馬術を日本騎兵の開祖とされる大高坂正元(1850〜1924年)から学んだと言われているようだ。大高坂は土佐藩が明治初年に招聘したフランス人アントワンに西洋馬術を学んだ人らしく、明治4年に土佐藩からの御親兵のうち騎兵を率いたという。明治5年に明治天皇の馬術御指南役として宮内省出仕、6年、少尉に進み近衛騎兵隊付になるが、武技御教育をつづける等々が、ネット情報としてわかった。その後、明治10年にやはり西南戦争に行っている。明治天皇と年齢も近い現役将校なので、大高坂が実際の教官であった可能性は高い。

 もっとも、伝次郎が明治政府に出仕することになったのは、代々馬役の家で、嘉永4年に象山塾に入門して、そこである程度の西洋馬術を学び、その後、元治元年から少なくとも1年以上は横浜でアプリンから実際に訓練を受け、馬医としても活動していた経歴ゆえだろう。明治政府に出仕してまもなく叙位されたのも、明治天皇の西洋馬術と何かしら関係があるかもしれない。高祖父の戒名に「従七位」の文字が入っていたことは、最近になって一枚の古い写真から判明していた。となると、唐沢勇という人が昭和35年になって『郷友信濃』に書いた記事にも、何かしらの真実は含まれていたのかもしれない。  

 この記事は、伝次郎が「幕末東京愛宕山の石段を上り下りをして日本一の額を掲げられた人である」という、宮下釚太郎が曽祖父への追悼文に書いていたエピソードにも触れていた。上田の図書館でこの件を読んだあと、4年前に現場にも行ってみたが、女坂ならともかく、男坂はめまいがするような急坂で、この階段を馬で駆け上がったら、いまなら動物虐待と非難されること間違いなしの場所だった。神社でも「将軍梅」や「〈出世の石段〉のいわれ」も見ていたが、写真も古いPCに入れっぱなしで忘れかけていたが、本年1月に毎日新聞で講談「寛永三馬術の出世の春駒」の記事を読んだことで、この逸話を思いだした。寛永11年(1864)1月28日に将軍家光がお供の者たちに、愛宕山の急な石段を馬で駆け上がって梅の一枝を手折ってくるよう命じたところ、四国丸亀藩の曲垣平九郎が「馬を信じ、馬の気持ちを思いやりながら見事成功させ」たという内容だ。ついでにテリー・ベネットの写真集で、フェリーチェ・ベアトが1867年に撮影した愛宕神社の階段写真も見つけていた。  

 講談で長く語り継がれた話を真に受けて、高祖父がこの急階段に挑戦したのかどうかわからないが、宮下釚太郎が大正年に伝次郎の息子の訃報記事を書いたころまでは、少なくとも上田でそう語り継がれていたのだろう。愛宕山は、桜田門外の変の決起前の集合場所とも言われる。「愛宕山に参って、下谷に寄って、松坂通って〜」という遊び歌を母が子どものころに歌って聞かせたのは誰だったのだろう。気になるところだ。

 今回入手した『上田郷友会月報』第385号 
 大正7年11月25日発行

宕陰存稿』に収録された「記名馬今高砂」 
 画像は国会図書館デジタルコレクションより

 愛宕神社 2022年2月撮影

2026年4月20日月曜日

物理本から学ぶこと

 横浜の関内駅の近くに吉田橋というかつて関門が置かれていた橋、もしくはその名残がある。そこから港に向かってつづく大きな通りは馬車道と呼ばれる。幕末に横浜が開港してまもなく、この道を多くの馬車が行き交うようになったためと言われ、この通り沿いに最初に設置されたガス灯とともに、馬車はいわば、西洋の進んだ文明を象徴するものとなった。

 幕末の日本では、乗り物といえば駕籠、または馬しかなかった。当時、日本に滞在していたアメリカの弁理公使ハリスなどが、「ノリモン」がいかに窮屈で乗り心地の悪い代物であるか書いていたので、彼らの目には日本はさぞかし後進的な国に映っただろうと読みながら思っていた。だが、実際には、西洋でも19世紀にはまだセダンチェアという従僕が担ぐ一種の駕籠が使われていたことが、目下、校正中の回転をテーマにした物理本に書かれていた。日本でも床に座り慣れていない外国人用に、のちに椅子駕籠が開発され、人力車が普及するまでのあいだ短期間ながら使われたようだ。  

 この物理本には、車輪付きの乗り物の歴史を論じた章がある。車好きの人にしてみればいずれも当然のことなのかもしれないが、私などは、そうなのか!と驚くことがそこには多々書かれていた。その一つは、四輪の荷車や馬車が長らく角を曲がれない代物であったという事実だ。二輪馬車の場合、角を曲がることで内輪のスピードが自然に抑えられれば、何とか無事に曲がれたようだが、四輪ではそうはいかない。江戸時代までの日本で使用された数少ない車付き乗り物である牛車や大八車が不安定な二輪車であった理由が、ようやくわかった。  

 四輪の馬車が本当の意味で実用化されたのは、チャールズ・ダーウィンの祖父に当たる医師エラズマス・ダーウィンが、太り過ぎて馬に乗って診療に行けなくなり、操縦メカニズムを考案して以降のことなのだ。彼の没後の1818年にその特許がドイツ人によって取られ、アッカーマン式リンク機構として特許知られるようになったのだという。

 ということは、1866年1月(慶応元年12月)に、横浜に駐在していたイギリス公使館員のジョン・マクドナルドが自家用の馬車に老中松平伯耆守宗秀を乗せて東海道を走り、川崎の六郷の渡しまで送った一件は、イギリス人にとっても当時の最新技術を見せつけるチャンスだったに違いない。この馬車の後ろから、アプリン大尉率いる騎馬護衛隊が警護でついて行く様子を描いたワーグマンの絵を、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で見つけたときも驚いたが、いろいろ考えると本当に画期的な出来事だったわけだ。  

 この挿絵はあまりに印象的だったので、横浜開港資料館にある現物の新聞を撮影していただき、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス、2020年)で使わせてもらった。当時は、この馬車がそれほど最新鋭の乗り物とは思いもしなかったので、それ以上深く調べず、馬車のほうはおざなりに見て「老中一行を乗せた二輪馬車を御するマクドナルドや、その後ろにつづくアプリンら護衛隊の様子を」などと書いてしまったが、実際にはこれは四輪馬車だった。私が誤解したのは、大きな後輪に比べてステアリング機能のある前輪は車体の下に収まる小ぶりなサイズで、沿道で興奮する村人や子どもたちの陰になっていたためだった。当時の馬車には現代の自動車のように、型式によって名前がついていたこともわかったため、画像検索したところ、おそらくこれは大型のブレークではないかと思う。  

 今回の本で、アッカーマン式リンク機構も多少は理解したので、レゴでもそれらしきものを再現してみた。前輪を小さくしたいばかりに、古い型の車輪までヤフオクで入手したのだが、小さめのサイズでつくったこともあり、内輪と外輪がカーブに沿って別の角度になるような精巧なものではない。馬車の後ろには、当時の日本人が憧れたらしい紺地に白い一本線入りのズボンを履いたアプリン大尉も、アーネスト・サトウが揶揄した金ピカ帽を被らせて添えてみた。  

 この馬車の御者席に座っていたマクドナルドは、この数カ月後に医師ウィリスの治療の甲斐もなく、29歳で脳軟化症と卒中で亡くなり、横浜外国人墓地に埋葬された。彼が取り寄せたというこの馬車がその後どうなったのかは不明だが、明治2年、本町通りから神奈川宿まで通じる馬車道が開通し、2月ごろには乗合馬車が始まり、5月には下岡蓮杖らもその事業に乗りだしているので、ひょっとすると乗合馬車として使われていたかもしれない。実際、三代広重の「横浜海岸異人館之図」(明治3年)には、ブリジェンス設計のイギリス領事館の前に、よく似た馬車が描かれている。 

 馬車は曲がり角で横転しやすかったなどと訳していたせいなのか、だんじり(地車)祭りなどで、山車が横転する事故の映像が翻訳中たびたびフェイスブックのタイムラインに出てきた。気になってつい横転した画像を見てみると、岸和田の山車の車輪には、ステアリング機能は何もついていないようだった。梃子の原理で後輪を浮かせて、などという説明も見受けられ、ひたすらコース取りを人力で調整するものと思われる。ただでさえ高い重心の山車の上部に大勢が乗り込んでいるのも気になった。坂道で暴走し横転したという伊豆の国市の山車は、前輪が小さく、方向を変えられるようだった。この事故は曲がれなかったわけではなく、ブレーキ代わりの綱を後方で引く人がいなかったことによるらしい。 

 物理にも車にも疎い私が、車輪付きの乗り物についてこんなことを考えるようになっただけでも、ちょっとした進歩だと自分では思っている。いつもに増して、初校ゲラはかなり赤が入ってしまったが、通して見直したことでだいぶ頭のなかは整理された。ほかにも書きたいことは山ほどあるし、訳しながら「勉強」と称してつくったレゴ作品もまだまだあるので、追々また書くことにしよう。何はともあれ、まずは索引を終わらせねば!

レゴで再現してみた東海道を初めて馬車が通ったときの光景

拙著で使わせてもらった『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵

1885年のブレークの写真
By Thomas, John, The National Library of Wales Catalogue ウィキペディアより

一応、前輪が曲がれるようになっている。

横浜外国人墓地のマクドナルドの墓(右端)2016年4月撮影

孫が私の誕生日につくってくれた駕籠。雪の日に桜田門外の変を再現すべく外に出してみたものの……八甲田山のように。

2026年3月2日月曜日

レゴによるストレス発散

 6年ほど前、「コウモリ通信」をブログに移行するに当たって、1カ月に1本は最低投稿しようと思っていたのに、先月はあまりに多忙で、ついに一度も書く余裕がなかった。昨秋あたりから締め切りのオンパレードで、ベルトコンベアーを前にした作業員のごとく目の前の仕事を終わらせることに必死になってきた。昨日、本来の締め切りより2カ月以上遅れでようやく苦手な物理分野の本の翻訳原稿を提出した。一息つく間もなく、ようやく確定申告に取り掛かった。ところが、昨年まではマイナンバーカードを手動で入力する抜け道があったはずなのに、今年のe-tax画面ではどうにも見つからず、マイナポータルとやらを使用せざるをえなくなり、昨夜はそれを使って本人確認ができるまでにやたら手間取って終わってしまった。今朝、多少は頭の冴えた状態で、数年分の自分の乱筆メモとネット情報を頼りに難関の入力作業に取り組んだが、今年も同じところを何度もぐるぐる回るはめになった。それでも何とか迷路を抜けだしたのは、この先もいろいろ詰まっており、少しでも自由時間を確保したいからだ。  

 本来ならば、この数カ月間、少なくとも私のささやかなストレス発散の場となってくれたレゴについて、何かしらまとまったことを書きたかったのだが、頭が疲れ過ぎているので、取り敢えずひな祭りに関係するものだけ少しばかり書いておく。何しろ、今日は3月3日なので。  

 自分でもなぜこれほどお雛さまにこだわるのか不思議だが、たぶんそこに凝縮された職人のわざに惹かれるからであり、またこの数年、公家社会についていろいろ調べたためでもあるかもしれない。子どものころ家にあった古い段飾りのうち、私が何よりも好きだったのは、さほど大きくない木箱にすべてが収まっていて、箱そのものも使って七段飾りを魔法のようにつくれる仕組みだった。後年、何種類ものお雛さまをつくったが、そのたびに階段作りにいちばん工夫を凝らした。そのためか、フェイスブックのタイムラインに流れてくるさまざまなレゴサイトの投稿で、わずかなピースでつくった階段や、1×1の細かいピースを積み重ねた香水やお酒のボトル作品を見た瞬間から、頭のなかに小さな雛壇が浮かんでいた。  

 実際につくってみると、袖や裾などを側面につけると、たとえ1×1を基本としたものでもスペースが足らず、階段は当初予定した二倍の幅でつくらざるをえず、いろいろ失敗はあったが、おおむね頭に描いたとおりに、欄干と階のあるミニチュア段飾りが出来上がった。昨年3月に書いたように、「平等」の本を訳しながら、階段づくり励んでいる自分に苦笑せざるをえなかったが、「殿上人」の意味を知るうえでは階は欠かせない。  

 出来上がった段飾りを見せると、孫は「仕丁がいないから嫌」と言うし、姉は「うちのお雛さまでいちばん好きだったのは御殿だった」と言う。いまは姉宅にある昭和初めのうちの段飾りには、「源氏枠」という屋根のない「御殿飾り」が最上段にある。ネット情報による天保期ごろに始まり、その後、檜皮葺などの屋根がついた形に移行したらしく、実際、伯母の1歳時の写真と思われるものには、この段飾りの横に、屋根のついた別のセットも写っていた。どこで制作されたものなのか、調べてみたら面白そうだが、御簾のある御殿らしき頭上の飾りくらいなら、レゴで簡単につくれる。というわけで、まずそれを付け加えることにした。  

 階がある場合、地下人以下と思われる仕丁は、その下の砂利敷きにいたはずだ。真ん中に階があるので、その両側に並べざるをえないが、仕丁は3人が定番で、「十五人飾り」がフルセットらしい。そのうちの1人は下足番なので、その人を階の脇に置いて、あとの2人を両脇にするか、などと考え、仕丁も加えることにした。それによって本来、庭にあるはずの桜・橘も下に降りて、何とか五段飾りに見えるようになる点が何よりも重要だった。日本文化の奇数へのこだわりは、日本庭園の本で何度も読んでいたからだ。ちなみに、孫は、私が青いタイシルクの端切れでつくった布製の仕丁がツルツルしているため、赤ん坊のころから気に入っていた。私自身も子どものころから、足が見えて、血色のよい仕丁には親しみを覚えていた。よって、レゴでもクリップで足をつけてやった。  

 こうして入れ替えると、右大臣・左大臣の段が寂しくなるので、最後に菱餅も加えてみた。平安時代には三公として太政大臣に次ぐ地位にあったはずの大臣たちが、なぜ弓矢までもち番兵のような恰好をしているのか長年、疑問だった。今回、ちらりと調べてみた限りだが、実際にはこの2人は実際の大臣ではないとする記述も散見され、階の下に置かれているお雛さまの画像も見つかった。江戸時代には関白が朝廷を仕切るようになり、三公は位ばかり高く、実権のない役職であったことの名残なのかもしれない。 あとになって、ライトヌガー(いわゆる肌色)の1×1のオープンスタッドならあることに気づき、左大臣と仕丁のうちの2 人は赤い顔にした。レゴのピンクは、素敵な色がないので、この淡い色をもっぱら使い、御殿の桜はヤマザクラなので、中心部分が濃いオレンジ色なるようにして白い花にした。ヤマザクラの芽吹いたばかりの葉は、実際そのような色をしている。  

 段飾りとほぼ同時に、レゴで牛車もつくっていた。うちのお雛さまには残念ながら牛車はなく、娘にはフィルムケースの蓋を車輪にした牛車をつくってやったことがある。レゴでは、あの巨大な車輪をうまく再現できず、ずっと諦めていたのだが、馬車用の車輪を丸いプレートにバーで取りつけることを思いついたのだ。それでも、覗き窓のようなものを引き戸にするアイデアがなかなか浮かばず、溝付きブロックが使えることがわかってようやく乗りだすことができた。牛は、ネット上で見た黒い雄牛のアイデアを基本に、黒毛和牛のようなものを適当につくった。牛車のなかには、ちゃんと長い黒髪にミニフィグも乗っているが、簾はうまく上にめくれないので、出入りするときは取り外すしかない。  

 この数カ月、実際にはこのほかにも自作レゴが随分と増え、娘が使っていた机の上を占領するようになっている。飽きるまでもうしばらく飾って、いずれはバラバラにしてまた何かをつくり直すつもりだ。レゴのいいところは、完成しないところかもしれない。

 改良版がこちら

 当初の段飾り

 側面から見たところ

レゴの牛車ともに。後ろにあるのは、曽祖父から母がもらった内裏雛。木箱に「寶印けし親王」と書かれており、芥子親王は15-20cmほどの小さい雛人形のことらしい。宝印は久月の可能性もありそうだ。