2026年1月21日水曜日

『〈平等〉の人類史』

 2年越しで取り組んできた仕事がようやく形になった。本文が450ページほど、膨大な原注を入れると結局500ページを超える分量となり、私の得意ではない思想史の本であったことや、出版社側の都合等で、なかなか刊行に漕ぎつけられなかった。  

 この間、ウクライナ戦争はつづき、ガザ侵攻も悪化の一途をたどり、第2次トランプ政権が発足して、世界中が振り回されてきた。長年、自由貿易を主張してきた民主主義国のアメリカが、幕末の「不平等条約」の関税率が穏当に見えるほどの高関税を一方的に課すようにもなったのだ。今年に入ってからは、年始よりベネズエラの大統領夫妻を拘束したうえに、石油利権を獲得して内政に干渉するという事件に次いで、トランプ政権は中国・ロシアに対抗するという名目でグリーンランドにも食指を伸ばし、国内では移民・関税執行局ICEがナチスのゲシュタポや戦前日本の特高警察まがいの一斉検挙や家宅捜査を強行している。 

 予測不能なこの2年余りを、それなりに心穏やかに客観視しながら過ごせたのは、『〈平等〉の人類史』(作品社)を訳す機会に恵まれたことが大きい。これまでの常識では考えられないこうした展開が、戦後の民主主義社会の当然の帰結ではないとしても、十分に予測しえた結果であることを理解したからだ。 本書の原題はEquality: The History of an Elusive Idea(『平等——捉えどころのない理念の歴史』)という。著者のダリン・M・マクマホンはダートマス大学の歴史学の教授である。書名を見ても、多くの人はさほどピンとこないだろうし、かく言う私もリーディングを依頼されたときはそうだった。近年は単なる平等(equality)ではなく、結果の平等を実現させるべく、ハンディキャップを考慮した衡平(equity)が主流ではなかったのか。そんなことを考えながら、500ページ以上におよぶPDFを読み始めたのだが、いつのまにか引き込まれていった。レジュメにはこう書いた。「平等という考えは想像上のもので、絶対的な平等など矛盾した言葉だという著者の主張は、とりわけ示唆に富む。しっかり読み込んだら、視野が一気に開けそうな気がする」 

 大和言葉は極端に抽象名詞の少ない言語であるため、哲学や思想関連の翻訳は、まるで辞書をつくる作業のように、一つひとつ言葉の定義を確かめながら、漢語やカタカナ語を織り交ぜた訳語を選ばなければならない。本書のテーマ「平等」にいたっては、著者によるequalityの説明と日本語の「平等」の意味がどうにも食い違う。本来は「同等」のほうが近かったのかもしれない。「平等」は最澄が唐で学び伝えた概念と言われ、日本人なら10円玉の裏側にある宇治の平等院鳳凰堂が真っ先に思い浮かぶのではないだろうか。 

 私などは平等と言えば、漫画『ベルサイユのばら』で学んだ「自由・平等・博愛」や、「男女平等」や「四民平等」が思い浮かぶが、後者は「士農工商」とともに、最近の歴史の教科書からは消えているらしい。後世の歴史家が明治維新を美化するためにつくった用語だったのだろうか。「博愛」はいまはもっぱら「友愛」と訳される。もっとも、この言葉の本来の意味は兄弟愛であり、そこに姉妹は入っていなかった。私は男女雇用機会均等法が制定された年に、おそらくその恩恵を受けて就職したが、この法律の名称には「平等」ではなく「均等」が使われていた。このころには、「平等」はどこか道徳臭くなっていたのだろうか。 

 日本にいつequalityの概念が入ったのかは、ちょっと調べたくらいではわからなかったが、ヘンリー・ウィートンの『国際法原理』が1864年に中国語に翻訳されたとき、equalityに相当する中国語が見つからず、「平行」と訳されたというエピソードが本書で紹介されていた。この中国語版である『万国公法』は一年を経ずして日本にもたらされ、勝海舟や松平慶永、坂本龍馬らが読み、大いに感化されたという。その後まもなく、日本人は「平行」の代わりに古い仏教用語の「平等」を訳語として充てたようだ。空海が9世紀に一律に誰でも平等に扱う「悪平等」ではなく「善差別」を主張していたそうなので、仏教用語としての「平等」は当初から、数学的なイクォール「🟰」の意味の強い絶対的なequalityとはやや異なり、もう少し曖昧さを含む言葉だったのだろう。 

 西洋の厳密な意味の平等を掲げたアメリカの建国理念やフランス革命は、古代ギリシャ時代の民主主義を手本としていた。それは要するに、税金を支払い、兵役に就ける能力のある男性のみが対象で、奴隷や召使による労働にもとづく「メンズ・クラブ」的なものだった。古代のスパルタでは虚弱児や障害のある新生児は奴隷として売られるか、野垂れ死にさせられていた。従来の西洋の平等の理念は、能力があることを前提とした平等だったのである。だが、人の能力には当然ながら大きな幅がある。女性を含めるとなると、平等にしなければならない人数は一挙に倍になり、男性と同じ能力と義務を期待することも難しくなる。それでも、能力主義の理想を頑なに信じる人は、能力の多くは世代を超えた財力から生みだされるという事実には目を向けない。  

 占領軍が駐留していた敗戦後の7年弱の期間を除けば、他国の支配下に置かれたことのない日本では、「鬼畜米英」だった時代の記憶はすぐに忘れられ、明治以来、西洋社会はおおむねずっと追いつくべき理想でありつづけた。実際には、二度の大戦のあいだの時期に、日本は国際連盟規約の前文に人種的平等条項を入れる人種差別撤廃提案を出し、欧米諸国の二重基準にいち早く楯突いていたことを、恥ずかしながら本書で初めて知った。だが、その動議が握りつぶされると、日本政府は西洋を真似て、独自の民族的、人種的優位性を主張し始め、近隣諸国に侵略するという愚挙に出たことはよく知られる。 戦後は、国連憲章によって主権平等が謳われ、日本でも自由と民主主義が目指すべき理想となり、欧米社会をロールモデルに西側陣営につき、ひたすら先進国の仲間入りをすることが国是となってきた。

 数世紀にわたり植民地化されてきた国々は、名目上は独立したものの、安い労働力として原料生産や下請け産業を担わされた。これらの国々に工場を移転させた先進国が環境を改善する一方で、「開発途上国」と呼ばれた国は公害を押しつけられ、いくらかでも経済が上向けば、今度は消費者として購買力を期待される。 主権平等は結局のところ建前だけであり、現実にはさらに核保有国として認められた米英仏中露の戦勝五カ国と、その他の非保有国のあいだには歴然とした差があった。インド、パキスタン、イスラエルはいずれも表向きは民主主義国だが、核拡散防止条約は非加盟で、脱退した北朝鮮とともに、公然と核兵器を保有している。近視眼的に日本でも核武装をという声もあるようだが、イラクやリビア、あるいはいまのイランのような事態にはならないのか。それとも、こうした動きは危うい均衡を保ってきた戦後の核をめぐる体制が総崩れになることを意味するのか。 

 この数十年は、先進国に端を発する人為的気候変動によって、もともと人間が暮らすには脆弱な環境であった地域に住めなくなった人たちが、どんどん移民となって先進国に押し寄せている。先進国でも、安い労働力である移民と競合する低所得者層ほど排外主義に傾くため、いまやどの国も極右が台頭してきている。本書のファシズムを扱った章はとりわけ面白く、引用されていたナチスの法学者カール・シュミットの言葉、「民主主義は第一に同質性を必要とし、第二に——その必要が生じるとすれば——異質性を排除または根絶しなければならない」は、あまりにも的を射ており、訳しながら思わず唸っていた。ファシズムはもちろん、民主主義から生まれたものであり、表裏一体のものだ。 

 いまや、西洋の道徳的優位は崩れ、国連憲章などが謳ってきた世界の道徳的秩序も崩壊の瀬戸際だ。古くは公民権運動に始まり、アイデンティティ・ポリティクスや、昨今の気候変動絡みのグローバル・サウスの訴えは、当初の「平等」の枠組みから除外されていた人びとが、西洋の二重基準を糾弾するものだ。著者マクマホンはアメリカ人らしく、この現状にまだ希望を失わないが、道徳的・精神的秩序を失えば、弱肉強食が当たり前の世界になり、いっそう混沌とするだろう。世の中には弱者のほうが圧倒的に多く、その人口は増える一方だからだ。機械化、IT化が進み、大量生産・大量消費も不要になったうえに、AI時代が到来したいま、能力の劣る弱者は強者にとって労働者としても、消費者としても不要になってきた。すべての人が必要に応じたものを受けられる平等な社会など実現するのだろうか。 

 著者は将来に向けた明確な指針を示しはしないが、「想像上の平等の歴史を学ぶことで、その平等を新たに想像し始めることができる」と語りかける。そのための材料を、この分厚い一冊が提供してくれる。 

 日本国内でも不穏な動きは広がっているし、主食である米の値段は二倍になったまま一向に下がる気配がないが、世界の国々と比べたら、いまのところまだ平和と言えるだろう。日本にも被差別民は存在したし、明治になっても身分制度は残った。それでも、日本列島という、ほかに行き場がなく、鉱物資源も乏しい島国で、ひたすら人力に頼って地域が共同で水を管理して稲作をつづけきた日本では、早くから奴隷や畜力、機械力を利用してきた西洋諸国よりも、結果的に平等な社会で生きてきたのではないだろうか。万人どころか万物の平等を説いてきた仏教の教えも、社会の根底には残っているはずだ。現状を憂える人びとが、幕末の過激な攘夷論者のように、安直なヘイト思考に走るのではなく、本書を手にして、今後どんな社会に生きたいのかを真剣に想像し始めてくれることを切に願う。

【追記】
こちらで本書の序文を試し読みできます。執筆動機から、本書の概要までが語られています。用語の定義が多く含まれ、具体的な話でない分、多少読みづらいかもしれませんが、本書の言わんとすることはここに凝縮されています。
 

『〈平等〉の人類史』
(ダリン・マクマホン著、作品社)
 原書(左)のカバーの筆による二本線は🟰かと、ずいぶんあとから気づいた(苦笑)。
 邦訳版(右)は、平等にはつねに差異がつきまとい、一色に塗りつぶされるのではなく、同質と異質の相剋であることをデザイナーが表現してくださったもの。


 宇治の平等院鳳凰堂

2026年1月17日土曜日

人力車

 相変わらず、当初の締切り予定を大幅に過ぎてしまった物理本と格闘中だが、難関だった技術史の第2部が終わり、少しだけ峠を越えた感がある。本来、脇目も振らず先を急ぐべきなのだろうが、長年ずっと疑問に思ってきたことに答えらしきものが見つかったので、忘れないうちに書き留めておくことにした。  

 きっかけは、ハンサムキャブという元祖タクシーのような一頭立ての二輪馬車について訳した際に、その説明をあれこれ読んだことだった。ウィキペディアの日本語ページに、ナルニア国物語の『魔術師のおい』で魔女ジェイディスが乗っ取り、古代の二輪戦車チャリオットのように乗り回したのが、この馬車だと書かれていたのだ。その挿絵は朧げながら記憶にあり、母宅から引き上げてまだ床の上に積み上がっている本の山から探しだして確認してみた。瀬田貞治は辻馬車と訳していて、馬車屋のコックニー訛りはべらんめえ調になっていたので、何やらダサい馬車なのだと思っていた。もちろん、それがハンサムキャブであることも、二輪馬車を立って操縦する行為が古代の戦士を思わせることも、子どものころの私には理解できなかった。原書は姉宅に行ってしまったのか見つからず、正確な言い回しは確認できないが、いまさらながら、そういうことかと納得したのだった。  

 ポーリーン・ベインスの挿絵は細かいところまでじつによく描けているが、肝心の車軸はどこを通っているのかわからない。このところ、車輪の仕組みばかり訳していたので、つい気になってあれこれ検索すると、古い写真も、現存する馬車の写真もたくさん見つかった。ハンサムキャブは、フランスの二輪馬車キャブリオレを改良する形で1834年にイギリスでハンサム氏が考案した新型だった。小回りが効き、重心が低くて安定がよいため、たちまち人気を博し、1869年5月にはニューヨークでも利用が始まったようだ。いろいろ見た画像のうち、メトロポリタン美術館所蔵のイラストに目が釘付けになった。何と軽やかな乗り物であることか! 19世紀後半の欧米社会は、自転車技術が大きく発達したことから、馬車に関しても軽量かつ丈夫で実用的な乗り物が多数生産されたのだという。

 シンプルなデザインをしげしげと見ているうちに、この轅(ながえ)部分を人が引っ張れば人力車になると思い当たった。2017年に『馬・車輪・言語』を訳した折に、金貨チョコレートのフォイルを使ってチャリオットの模型をつくったあと、戯れに轅を逆にしてみたら人力車になることを発見して、一人で吹きだしたことがあったが、あながち間違いではなかったかもしれない。古代のチャリオットと車体を逆向きにし、乗客が座れるようにした軽量の二輪馬車がまずつくられ、それをヒントに馬の代わりに人間が引っ張る乗り物が考案されたのだろう。発明はあるとき突然生まれるものではないことは、今回の本でも随所で強調されていた。  

 人力車は日本で1869年か1870年に発明されたとされている。ウィキペディアの人力車のページには、1899年になってから「人力車発明人ニ年金給与ノ建議案」が提出され、1870年に和泉要助が発案し、何人かの助けを得て製作したことが認定されたと書かれており、これが通説となっている。ただし、ウィキのページにもあるように、当初から異論もあり、とりわけ横浜にいたアメリカ人のバプティスト派宣教師ジョナサン・ゴーブルは自分が発明者だと主張しつづけたことで知られ、1909年発行の『ジャパン・ガゼット50年史』に寄稿した長年の横浜在住者も『横浜市史稿』もその説を伝える。  

 ゴーブルは海兵隊員としてペリー艦隊のミシシッピ号に乗って日本に最初にやってきて、そこで知り合った日本人漂流民のサム・パッチ(三八)こと仙太郎とともに、1860年4月に妻イライザと2歳の娘ドリンダとともに再来日し、一時期、神奈川の成仏寺にヘボンやブラウンなどの宣教師とともに住んでいた。ドリンダは1862年にコレラで亡くなってしまったが、ゴーブル夫妻にはほかに2人の娘が生まれている。1867年にはグラバー商会の依頼でしばらく長崎などに行き、後藤象二郎や坂本龍馬にも会う。ゴーブルと土佐藩の関係についてはこのブログを参考にさせてもらった。翌年、横浜に戻ったころから妻の病気が悪化し、歩行困難になり、移動手段として人力車を思いついたという。  

 ゴーブルの来日目的は布教で、日本語版マタイ伝を刊行したことでいちばん知られるが、性格にやや難があり、宣教師たちとの関係もぎくしゃくしていたようだ。しかし、多芸な人で、肥後のプリンス(熊本藩主か)のために天草に製材所を建てる依頼がきたと、1861年に隣人だったフランシス・ホールに語っているほか、靴職人として生計を立てていたとの記述も見つかった。  

 1990年にF・カルヴィン・パーカーがJonathan Goble of Japanという評伝を書き、人力車の発明をめぐる問題に一章を割き、さまざまな典拠を上げている。この本の一部は、2017年にアメリカのフォトヒストリアン、マーナ・ゴールドウェアと大量のメールをやりとりするなかで見せていただいていたが、まだ自分で確かめていない。上智大学図書館にあるので、暇になったら館内閲覧させてもらおう。  

 取り敢えずネット検索するうちに、ゴーブルが人力車の設計をアメリカの知人であるフランク・ポーレイに依頼していたという記述がいくつか見つかった。ニューヨーク州北部のキューカ湖畔のプトゥニー村のポーレイはペリー艦隊に乗り込んでいた大工だったらしい。店に残っていた「人が引く車」の原型の木型を、その鉄鋳物部品を担当した鍛冶屋の孫が見ており、1952年に新聞のインタビューに答えていたという。当時はまだ自転車の車輪も木製だったので、ポーレイは車輪と車体を製造し、車軸、ハブ、軸受等にのみ鉄製品が使われたのではないかと思う。人力車が誰の発明かを論じた「インベンション&テクノロジー」のサイトでは、ポーレイが製作した完成品を船で横浜まで輸送したと書いているが、根拠はすぐには確認できない。  

 開港後の横浜で大八車が使われている様子は、生麦事件の賠償金が支払われた際にワーグマンが『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に描いている。牛車のような巨大な車輪ではなく、それなりに実用的に見える木製のスポーク車輪がついたものだ。戊辰戦争時には砲車も使われたようだし、火消しの大八車も普及していただろう。大八車に病人を寝かせて運ぶこともあったかもしれない。実際、1871年1月号の『ジャパン・パンチ』にワーグマンが初めて描いた人力車は大八車の上に椅子を載せたような乗り物で、乗客の西洋人は仰向けにひっくり返り、車夫が梶棒に宙吊りになっている。 ちなみに、その下には「Suspension of Habeus Corpus」(人身保護の停止)と書かれている。サスペンションを「停止」と「吊り下げ」の両義で読ませて笑いを誘い、さらに乗り物のサスペンションも掛けたのかもしれない。

 余談ながら、筆記体の文字を読み取ったあとフェイスブックで見た動画が、アメリカの国土安全保障長官クリスティ・ノームが人身保護令状の意味を勘違いしていたうえに、その停止がアメリカ憲法第1条第9節で反乱などの非常時以外は禁じられていることも知らなかったことを皮肉る内容で、おかげでよく意味を理解することができた! 

 人力車に話を戻すと、『ジャパン・パンチ』の1871年9月号のイラストでも梶棒が車軸を越えて後部まで一直線につながり、その上に幌付きの椅子らしきものがあるが、乗客の西洋人は長い脚の置き場に困っている。1872年10月になると、梶棒と椅子の角度はやや狭まり、車夫が梶棒を小脇にかかえても乗客が後ろに倒れない、いわゆる人力車の形になっているうえに、板バネのサスペンションまで備えたイラストになっている。明治初期のベアト撮影とされる写真の人力車は、サスペンションはないが、まさにこのタイプの原型的な乗り物だ。注目すべき点は、乗客の足の高さが車軸よりやや低めで、重心を下げて安定性を高めてあったと思われることだ。ハンサムキャブとそっくりではないか。  

 明治、大正時代の人力車の写真を見ると、実際にはいろいろなタイプがあることがわかる。ゴーブルが「発明」した乗り物は、設計面だけでなくおそらく製造自体もポーレイに頼ったものだったのだろう。ゴーブルとほぼ同時期に大八車に椅子を載せただけの乗り物を、偶然にか、噂を聞いてか、和泉要助が考案した可能性も大いにある。何しろ、1871年以降日本全国に瞬く間に広まったのだ。明治初期にハンサムキャブが輸入され、それを和泉らが見たとも考えられなくはないが、横浜絵などを見る限り走っている馬車は四輪馬車が圧倒的に多い。通説で言われるように、馬車をヒントにしたのであれば、ハンサムキャブのイラストを見た可能性のほうが高そうだ。  

 最後に、ゴーブルが人力車を考案するきっかけとなった妻イライザについて書いておきたい。イライザは1882年に45歳で亡くなり、横浜外国人墓地に幼い娘の隣に埋葬されている。2017年に別の埋葬者の墓を訪ねるために許可を得て奥の区画に入らせてもらった際に、たまたま見つけて1枚だけ写真を撮っていた。墓碑には「イライザ・ウィークス、J・ゴーブル牧師の愛する妻」とあり、「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださるから」と、欽定訳聖書の詩編23章4節が刻まれていた。ゴーブル自身は翌年帰国し、1896年にセントルイスで没している。  

 2017年に前述のフォトヒストリアンとやりとりするなかで、ピエール・ロシエが1861年刊行のネグレッティ&ザンブラ社のViews in Japanのために撮影したステレオ写真で、イギリスのヴァイス領事の使用人である日本人男女3名とともに写る若い西洋人女性のことがたびたび話題になった。ヴァイス領事は独身で、ブラウン牧師の娘ジュリアでもない。何年かのちにゴーブル夫人のイライザの後年の写真を見たとき、あの写真の女性は彼女だと直感したのだったが、そのことを件マーナに伝えたのだったかどうか。いつか暇になったら、鎌倉の八幡宮にでも行って人力車にも乗ってみよう。

ハンサムキャブをレゴでつくってみたあと、ほぼ同じパーツで人力車もつくれるのではないかと試してみた。梶棒の角度がうまくついていないため、ミニフィグが苦労している(苦笑)

ハンサムキャブを乗り回す魔女ジェィディス

メトロポリタン美術館のサイトで見つけたハンサムキャブのイラスト。パブリックドメイン

ベアト撮影とされる明治初期の写真。オークランド図書館のサイトにあり、パブリックドメイン

ワーグマンの『ジャパンパンチ』3巻より

横浜外国人墓地にあるイライザとドリンダ・ゴーブルの墓。2017年撮影

2025年12月31日水曜日

2026年元旦に

 年末年始に帰るべきところもなくなり、スープの冷めない距離にいた娘一家も、自転車で30分ほどのところへ引っ越してしまったが、とりあえず元気に新年を迎えることができた。昨夜は近くに住む姉夫婦が天ぷらと年越し蕎麦の夕食に誘ってくれたので、何年かぶりにテレビで紅白歌合戦も見ることになった。 

 その後、孫がどうしてもまた除夜の鐘を撞きに行きたいと言うので、夜中に駅で待ち合わせて、今年も近所のお寺にお参りすることができた。帰りの電車の時間があったので、ゆっくりはできなかったが、3年連続はちょっとした快挙だ。娘が絵本『じょやのかね』の舞台にした船橋の飯山満の光明寺には何度くらい詣でただろうか。初日の出を拝みに行くほどの気力はなかったので、今年は省略した。 

 昨秋は2冊の本の校正が見事に重なって、初校、再校が入れ替わり立ち替わりやってきて、紙に埋もれるような毎日だった。そのうちの1冊『〈平等〉の人類史』は500ページ超の思想史の大作だったので、なおさらだ。12月なかばからは年末が締め切りの「忠固研」史料集のための原稿をどうにか書き上げた。  

 そんななかで、孫の労作「わたしのイネかずかん」(イネ科図鑑)が木原記念こども科学賞の低学年の部で最優秀賞をいただいたため、先月なかばには横浜市役所のアトリウムで行なわれた表彰式には顔を出し、晴れ姿を目に焼きつけておいた。考えてみれば、私はこの年齢まで何かまともな賞を受賞した経験がない。翌週には姉のピアノ教室の発表会があったので、それも聴きに行った。ふだんちっとも練習しない孫は、今年は自分の力量をはるかに超えたブルクミュラーの「牧歌」と「バラード」をそれなりに弾き、「きょしこの夜」を娘と連弾をした。上手な生徒さんの演奏に刺激を受けたのか、終わってから急に「タランテラ」を自分で練習しているらしい。 

 太陽の位置が低いこの時期は、15年ほど前に建った隣家の大きな二階のせいで日中は家のなかが暗く、寒々としている。それでも、冬至を過ぎるころから、細い陽の光が「冷たい水の中の小さな太陽」さながらに入るようになり、冬の午後、家のなかに長く射し込む西陽をありがたがっていた母を思いだす。昨年の日本庭園の本の仕事で谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』を読んだおかげで、暗いからこそわずかな光が大切に思えるのかとも思えるようになった。 

 一連の仕事が片づくと、休む間もなく、本来は年末に仕上がる予定だったはずが、まだ3分の1程度という次の仕事に必死に取り掛かった。当然ながら正月休みも返上で、残りの半分ほどまでにきたこの物理本を少しでも先に進めなければならない。遠心調速機の仕組みだの、太陽歯車と遊星歯車の動きだのを、動画を見たり、解説を読んだりしながら理解しようと努めている。 

 どこにも行けず、寒い家のなかでPCにかじりついていなければならない日々は、どうしてもストレスが溜まる。最近は、私のフェイスブックにやたらレゴの動画が流れてくるので、ストレス発散に眺めると、いろいろアイデアが浮かび、歯車の仕組みの勉強だとか、あれこれ言い訳をしつつ、何度もパーツを買い込んでしまった。娘には完全に呆れられ、使えなかったパーツを孫のレゴ箱に追加すると、「また撒菱が増える!」と怒られている。実際、私に似て整理整頓が苦手な孫は、床中にレゴを散らばしたままにしているので、抜き足差し足で歩かなければならない。 

 こんな調子で、何ともパッとしない毎日を送っておりますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。

日本庭園の本に刺激され、この半年ほど育てていミニチュア苔庭と、長年集めた?馬たち。ステップの馬とチャリオットの10年前の紙工作もまだ健在。日本人形たちは結局、何にもならずに終わっているが、花と幸は上田紬の着物で正月を迎えることに。虫眼鏡でコケを観察するわが姿は、子どものころ苦手だったヘムレンさんにそっくり。「雑多な苔」は、フリント船長の書いている本のタイトルだったか

いつもに増してピンボケになったが、除夜の鐘の記念に

午後になると少しだけ差し込む陽射し

2025年12月18日木曜日

 橘、タチバナという名称を知らない人はまずいないと思うが、雛壇の下に飾られる「右近の橘」を思い浮かべる程度で、実際に橘を見たことや食べたことのある人は少ないのではないだろうか。 

 以前にも書いたように、母の実家の家紋は菱井桁に橘で、柑橘類は基本的に暖かい地方のものだし、何かしらルーツを知るヒントが得られるのではないかと漠然と思ってきた。墓地にある江戸時代前期の墓標に、線刻ながら、橘とわかる紋が彫られているのは以前から気づいていたし、幕末に書かれた史料に「家紋井桁菱之内橘」の文字を確認できたことで、その思いは強まった。 

 春に調べたときはすでに季節的に遅く、苗木の販売サイトしか見つからなかった。酸味が強くて生食用には向かないとの説明もあったので、12月になるのを待って、1900年をさかのぼる橘の歴史があるという和歌山県の橋本神社の橘の実を、その近所の果樹園のサイトから2個だけ(!)購入してみた。 一つはお供え用に綺麗にパッケージに入っており、もう一つは味見用となっていた。

 由緒書きによれば、11代目の垂仁天皇の家来の田道間守が不老長寿の妙薬を探して常世の国まで10年間旅をしてもち帰った「非時香菓」(ときじくのかぐのこのみ)の種から芽生えた苗を、和歌山県海南市下津町に移植したのだという。橋本神社の近くには六本樹橘創植の地という碑があるそうだ。 垂仁天皇は、実在したとすれば3、4世紀ごろの人で、田道間守のほうは伝説上の人物らしい。内容からすると、不老長寿の薬という点が徐福伝説ともどこか被るものがあり、こちらも九州のほか、和歌山や三重、愛知などにも伝説が残る。右近の橘が京都御所の紫宸殿前に植えられたのは10世紀後半のことだった。 

 果物としてのタチバナ(ヤマトタチバナ)は、沖縄原産のタニブターとアジア大陸産のマンダリンオレンジの交配種で、日本産の柑橘類の親の一つと考えられている。九州、四国、和歌山、三重などに「自生地」が若干あり、北限は伊豆半島の戸田だという。戸田は幕末にロシア軍艦ディアナ号が沈没し、ヘダ号が建造された地でもあり、タチバナ狩りもできるらしいので、いつか行ってみたい。 

 橘の歴史からも、科学的研究からも、先祖のルーツ解明につながりそうなヒントは見つからなかったが、購入した貴重な2個の橘は、一つを孫にあげて、絵を描いて欲しいと頼み、もう一つを自分の試食用とした。木の上で完熟した実を送ってくれたのか、柔らかめで、酸味は強いものの、十分に生食にも耐える味だった。10個の種が入っていたので、植えてみることにしよう。うまく発芽して育ったら、姉宅に移植してみよう。京都でも育つなら、横浜でも十分にいけそうだ。 先日、娘宅に行ったら、孫だけでなく、娘も忙しいのにちゃんと絵を描いてくれ、しかも小さな額に入れてプレゼントしてくれた! 

 孫の絵は紙一枚だったので、母宅から引き上げてきた100均の額にとりあえず入れてみた。娘が毎年制作してきた孫のミニ版画を入れられるように私が買って渡した額で、裏を開けてみたら、そこにもう2枚赤ん坊のころからのミニ版画が入っていた。表に入っていたのは、幼稚園に入ってブランコを立ち漕ぎできるようになった孫の図柄で、それが母の最後に見た「ひ孫」の姿ということになる。 

 日常にはまず見ることのない果物となった橘だが、じつは十大家紋の一つらしい。柏、片喰、桐、蔦、藤、茗荷、木瓜、澤瀉と並ぶ植物の紋で、残る一つは鷹の羽紋だった。カシワやキリ、フジはわかるとしても、カタバミ、ミョウガ、オモダカなど、随分とささやかな植物を家紋に選んだものだ。酒井雅楽頭家は片喰紋で、前橋の龍海院の墓地でこの紋をたくさん見た。 

   うちの父方は木瓜紋(もっこうもん)であることを、先日ようやく画像検索機能で確認した。灌木のボケのことかとも思ったが、読んで字のごとく、本当にキュウリらしい! 瓜の輪切りや鳥の巣を図案化したもの……となれば、これまた孫に絵を描いてもらわねばならない。キュウリはどうか知らないが、鳥の巣は大好きだから、楽しい絵になりそうだ。

 そう言えば、橘もずいぶん小さな果物なので、もう少し大きな果物にすればよかったのにねと話していたら、孫が「ドリアンとかね!」とすかさず言うので大爆笑した。ドリアン紋、強そうでいいかも。でも、考えてみたら、桃や柿なども、昔はずっと小さな実だったに違いない。山上憶良の「瓜食めば子ども思ほゆ」というのは、メロンの祖先のマクワウリのことらしい。若い実はカラスウリのような縞があって可愛いが、マクワウリは地面で実をつけるので、木瓜はやはりキュウリか(12月20日加筆)。
 

 左)娘作、右)孫作

2025年12月4日木曜日

七五三 7歳

 今月朔日に、舞岡八幡宮という神社に七五三のお参りに行ってきた。三歳の七五三のときは一緒に祝ったじいちゃん、ばあちゃんたちが、この間に皆、鬼籍に入ってしまったことを思うと年月の経過を感じる。2年前の春に逝ってしまった母にはとりわけ、ひ孫の晴れ姿を見せたかった。というのも、孫が着た着物は、亡母のお宮参りのときの着物だからだ。 

 私たちのころは、ちょうど祖父が倒れたりして余裕がなかったのか、千歳飴をもらったくらいだった。年の離れたいとこの七五三のときになって、この古い着物があることを祖母が思いだしたらしく、いとこのおばあちゃんが子ども用に仕立て直してくれたのだそうだ。いとこ姉妹が着たあと、その着物は別のいとこの娘や、うちの娘、姪たちが代々着て、七歳の七五三を祝った。3歳のときの写真に加えて娘がまた、同じ着物姿で勢揃いした合成写真をつくってくれた。それぞれの成長ぶりが一目でわかって、何とも楽しい写真だ。 

 この秋は仕事が重なり、多忙になることが以前からわかっていたので、夏前から髪飾りを用意するなどして、少しずつ準備を始めた。といっても、お金をかける気はなかったので、ヤフオクやメルカリで中古品を探したあとで、自分でつくれるのではないかと考え、手持ちの木のビーズに拾った枝をつけて、家にあったセタカラーを塗って簪をこしらえ、着物の柄に併せて牡丹もどきを描いた。櫛は数百円の白木のものを買って色を塗り、絵付けは「絵師」の娘に任せた。孫の好きなカブトムシとエノコログサ、それにアオスジアゲハをえらく上手に描いてくれた。あとは娘の成人式のときに私がつくったホロホロチョウの羽付きのビーズの髪飾りに、孫がこれまで拾い集めたヤマシギなどの羽を付け足すことでよしとした(娘同様、孫にも羽収集癖があるので、羽はいくらでもある)。  

 着物類はこの四半世紀ほど姉宅で保管されていた。1か月ほど前にそれを受け取りに行き、恐る恐る着物の状態を確認したところ、小さな染みは随所にあるものの、90年前の着物とは思えないほど良好な状態だった。母よりも着物のほうが長生きしたなと感慨深い。母はいまの北朝鮮の興南で生まれており、お宮参りの写真が現地の写真館で撮影されていることは判明していたので、この着物は曽祖母が縫って、曽祖父が段飾りのお雛様とともに送ったのではないか、などと叔母とともに推測している。その後、日本にもち帰られた着物は、何度も引越しを繰り返すなかでも捨てられることなく、90年間、戦火にも災害にも遭うことなく保管されてきたわけで、子ども用の着物に仕立て直されてからは、合計7人の子の晴れの日に活用された。絹織物の伝播についてはたびたび訳す機会があったし、この数年は幕末の絹織物や生糸貿易について研究会で勉強してきたこともあって、絹地がこれほど長持ちすることに感嘆している。死んでいったカイコガたちも、少しは浮かばれるだろうか。 
 
 帯は3歳のときのお被布同様、大丸に勤めていた叔父の社員割引を使って、いとこの家が奮発して誂えたという立派な全通帯だ。小物類もおおよそ残っていた。娘の七五三のときは近所のおばあちゃんが着付けをしてくれ、髪は私が適当に結って済ませたのだが、いまはそんなことを頼める人も近くにいない。髪と着物を着せるのはともかく、袋帯を結ぶのは、どれだけ動画を見ても素人では難しいので、結局、美容院にお願いすることにした。  

 着付け動画から腰紐、帯枕、前板、三本仮紐等々、まだまだ細々としたものが必要であることがわかり、手持ちの端切れや椅子の張り替えの残りのウレタンフォームで手作りした。やはり超多忙な娘の代わりに、美容院の事前打ち合わせに行ってみると、先に用意した手作り小物類は無事に「合格」したものの、さらにまだ伊達帯と髪につける鹿の子が必要だという。伊達帯のほうは15分工作で出来上がったが、鹿の子なる髪飾りはどうするか悩んだ。「そんな変なもの本当にいるの?」と、娘は懐疑的だった。調べてみると、もともとは手絡という日本髪を結うのに使った布で、それに京鹿の子がよく使われたのが七五三の風習に残り、名前も鹿の子になってしまったことがわかった。ならば、別に絞りでなくても構わないわけだ。母の遺品に細かい青海波柄のついたオレンジ色の帛紗があったので、それを細く切ってつなぎ合わせ、なかに綿を詰めてヘビのぬいぐるみのような代物をつくった。 

 そんなこんなで迎えたお参りの日は、新嘗祭と兼ねて横濱水天宮から神主さんがきて祈祷をしてくださり、ありがたいことに穏やかな暖かい一日となった。周囲を田んぼに囲まれた鎮守の森のなかにひっそりと佇むような神社だが、境内の銀杏が見事に色づいていて、着物の色ともぴったり合い、これ以上は望めないほどの背景となっていた。創建は1302年と言われているが、千木や鰹木のある神社が明治期に多くつくられたようなので、そのころ再建されたのではないだろうか。拝殿は吹き抜けの舞台になっているので、嵐の日とかでなくて本当によかった。 

 この日、娘のママ友で写真家のなみちゃんが撮影にきてくださり、夢のような午後のひとときを、その空気まで見事に記録してくださった。孫は最後にはくたびれはてて、着物の裾をたくし上げて長い階段を降り、車に乗る前に帯揚げをむしり取ってしまったが、それもまたよい思い出となるだろう。 

 次にいつ誰が着るのか、それまでこの着物が原型を留めるのかどうかも怪しいが、取り敢えずクリーニングには出そうと思って干しておいた着物を畳む段になって、裏地の薄い絹が随所で破れかかっていることに気づいた。表地はいまのところまだ形状を保っているが、次に誰かが着るとすれば、裏地は一部仕立て直さなければならないだろう。

同じ着物で2度の七五三を祝った代々の子どもたち。これは、7歳の着物だけ着たもう一人の親戚の子も含めた勢揃い写真。













 Photo @なみちゃん

2025年11月4日火曜日

大宮さん その2

 先週、あいにくの小雨模様で神保町ブックフェスティバルは中止となってしまったが、ご先祖調査のほうは決行してきた。大宮さんの直接のご子孫はご旅行中とのことでお会いできなかったが、突然お訪ねしたにもかかわらず、ご年配のお嫁さんお二方とお話することができ、代々、皆さんお祭り好きだったことなどがわかり、心温まる一日となった。私が国会図書館デジタルコレクションでお名前を見つけていた方々(私の曽祖母の甥たち)も、実際まさにご本人たちであることが判明し、早速、心理学者だった録郎さんのご著書も図書館から借りてみた。同行してくださった母のいとこは、長年、下町のいろいろな活動に携わり、神田祭りはもちろん、「東京ビエンナーレ2025」というアートをテーマにした東京散策イベントですぐ近くの額縁屋優美堂をカフェに改装するプロジェクトなどにもかかわってこられたので、これもDNAのなせるわざなのかと不思議な気がした。 

 地図からはよくわからなかったが、現地を訪れた結果、高祖父が始めた材木店は、いまの靖国通りからお茶の水仲通りをわずかに入ったところにあったことが判明した。明治16年の「東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯島近傍」という地図(国際日本文化研究センター・所蔵地図データベース)では、この通りの突き当たりの甲賀町に「戸田邸」と書かれた大きな屋敷がある。明治32年の『東京名所図会』が高祖父の店を「戸田邸前通りにあり」と書いていたのは、お茶の水仲通りを指していたのだった。しかも、このお屋敷は戸田伯爵、つまり大垣藩の戸田氏共の邸宅だった! ラトガーズの留学生の古写真を調べるなかで、譜代藩主でありながら早々に新政府軍に恭順し、のちに鹿鳴館の華となった岩倉具視の三女を妻にした若者、戸田氏共は印象に残った一人だった。ウィキペディアの「戸田氏」によると、いわば維新の勝ち組であるこの家だけが、戸田氏のなかで伯爵に叙せられたという。靖国通り沿いの戸田忠行は足利藩主で、宇都宮藩戸田家の分家だった。曽祖母が嫁いだ門倉の家は上田藩に入る前、佐倉藩時代のこちらの戸田家に仕えていたことが判明している。 

 明治16年刊のこの非常に詳しい一連の地図は、2019年にこの高祖父が初め深川熊井町に住んでいたことがわかった際に、図書館で何枚かコピーしていたもので、いまはネット上でも簡単に見られる。「麹町区大手町及神田区錦町近傍」では、いまの靖国通り沿いに長屋のようなものがあり、「戸田邸前通り」に入った先に2軒ほど家がある。材木店はそのいずれかではないかと思われる。  

 図書館から『神田まちなみ沿革図集』(Kandaルネッサンス出版部編、1996年)という大型本を借りてみたところ、昭和10年ごろの小川町の再現地図のほか、明治20年ごろ、建設途中のニコライ堂から撮影された360度のパノラマ写真が掲載されていた。撮影者は写真師の田中武ではないかと同書は書く。ニコライ堂は、私の曽祖母が2歳のころに建設工事が始まり、高祖父が土蔵を建てたのはちょうど明治20年だった。13枚に分けて撮影されたパノラマ写真のうち、小川町のこの一角が写っているはずの写真は1枚しかなく、同書では第8葉がそれに当たる。このパノラマ写真は国会図書館デジコレの『明治二一年撮影全東京展望写真粘』(昭和7年)でもかなり鮮明な画像を拡大して見られ、こちらでは7葉となっている。 

 双方の書籍の説明からすると、手前にある広大な長屋門のある屋敷が甲賀町5番地の住友控邸で、その隣にわずかに戸田伯爵邸の庭が写っている。住友控邸はその後、「首相西園寺公望の邸宅となり、国木田独歩が居候していた時期も」あり、「ちなみに公望の秘書は同じ駿河台の原田熊雄男爵」だと『神田まちなみ沿革図集』は解説する。あれっ?確かこの人は、と思って調べると、記憶どおり蕃書調書や開成所で教えた原田敬策(一道)の孫だった。私の別の高祖父、門倉伝次郎は幕末に西洋馬術関連の「蘭書ネツテント」を訳したと言われていたが、実際にはこの原田敬策に依頼し、「翻訳せしめ」たらしいことが、拙著『埋もれた歴史』の刊行直前に判明していた。原田はその後、大いに出世している。この西園寺邸と戸田邸を譲り受けた場所に中央大学が大正13年から1980年代まであったが、現在は三井住友海上火災本社ビルとなっている。住友に戻ったということか。

 パノラマ写真の画面中央奥にある大きな建物は英吉利法律学校(創立時の中央大学)で、手前が小川町である。そのさらに先の広い敷地は学習院焼跡、霞んでよく見えないその先には、陸軍軍馬局や大蔵省、内務省、富士見三重櫓などがある。小川町と書かれた一帯へ、右下から斜めに通じる道が見え、それが「戸田邸前通り」だろう。いまの靖国通りに突き当たる辺りには、小ぶりながら黒っぽくて目立つ建物がある。その特徴的な建物は、『東京名所図会』の「神田小川町通りの図」のほぼ中央に描かれていた建物と同一と考えてよさそうだ。ということは、高祖父の材木店は「戸田邸前通り」を挟んだ左手の屋根のどれか、ということになる!  

 小川町北部2丁目町会のサイトによると、『東京名所図会』の絵図の右から3軒目の門柱のある建物は、明治2年創業の銭湯だという。山城淀藩、稲葉丹後守の重臣がお屋敷の一角を譲り受けて開業し、「稲」は稲葉から、「川」は小川町から取って命名したそうだ。稲川楼はのちに裏通りに移ったらしく、実際、1992年に閉店したころの稲川楼の写真の右隣には大宮ビルが写っていた。跡地は平和堂ビル駐車場となり、野田忍著・写真『銭湯へ行こう・旅情編』(TOTO出版、1993年)によると、「稲川楼の地主でもある平和堂靴店がビルを建設することになり、そのため稲川楼は廃業」したそうだ。この本では、平和堂の主人の佐宗家がこの地にもともといた武家となっており、一方、田村隆一著『ぼくの憂き世風呂』は、稲川楼の経営者は山田剛平氏と書いていて、どちらも淀藩士の子孫なのかはよくわからない。大正12年創業という平和堂靴店は、昭和10年ごろを再現した『神田まちなみ沿革図集』では靖国通りとお茶の水仲通りの角地にあった。この地図には、大宮さんの土蔵らしきものも描かれているが、材木店は廃業していたのか、跡地には喫茶、床屋、酒店が書き込まれている。ウェブ・マガジン『ミューゼオ・スクエア』によれば、平和堂靴店は1993年には10階建ての平和堂ビルに建て替えられたものの、お店は2006年に閉店し、いまはビル名も「いちご神田小川町ビル」と改名されている。 

 この記事を書くために、銭湯のエッセイなどを読んでいたら、小川町2-8という、大宮さんの隣のブロックに、1954年から1989年まで筑摩書房があったことなどもわかった。そのさらに隣のブロックには、以前にお世話になった別の編集者の事務所があったことは、十年以上前に小川町を最初に探検した際に気づいていた。夏目漱石のゆかりの地でもあるので、いずれ小説を読み返してみよう。 

 ついでながら、高祖父が小川町に引っ越す前に住んでいた深川熊井町という町名も、明治16年の地図の「日本橋区牡蠣殻町及深川区佐賀町西大工町近傍」に確認できる。番地が書かれていないので、正確にどこに住んでいたかは不明だが、2022年にこの付近は歩いてみたことがある。佃島のマンション群が目の前に見え、すぐ上流には永代橋が架かる。運河が張り巡らされたこの一帯なら、材木問屋業にはお誂え向きだ。

  最後に、大宮さんの土蔵から千代田区に寄贈された古い食器類については、日比谷図書文化館の常設展を見てみたが、もっと古い発掘品のようなものばかりで、それはそれで面白かったが、案の定、見られなかった。日を改めて文化財事務室を訪ねてみることにしよう。

「東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍」(部分)明治16年
平和堂靴店があった角。現在はいちごビルがあり、隣が大宮ビル

「東京府武蔵国日本橋区牡蠣殻町及深川区佐賀町西大工町近傍」(部分)明治16年

熊井町だった付近 撮影2022年3月

佃島を望む 撮影2022年3月

2025年10月12日日曜日

大宮さん

 数日前、校正作業への集中力が切れてしまい、眠気覚ましに久々に国会図書館デジコレで高祖父の大宮萬吉の名前で検索したところ、1996年に千代田区教育委員会が発行した『千代田区の民具 3』という一見、無関係のような書籍が新たに公開されているのに気づいた。そこには大宮家が寄贈したいくつかの古い食器類の画像のほかに、「大宮家土蔵調査報告」という詳しい報告書があり、驚くべき事実が次々に判明した。眠気が吹き飛んだのは言うまでもない。 

 報告書によれば、明治20年に高祖父が神田小川町に建てた大宮家の土蔵・文庫蔵が、昭和63年(1988)に調査が実施されるまで残っていて、「新たに重層の建物を建築すること」となって解体されたというのだ。当時の間取りの記録は残されていないものの、関東大震災でも「この土蔵のみ辛うじて災害から免かれた。大火災によって破損した土蔵を大修理改造してこれに現存の住宅が再建されたのは、大震災後の昭和3年のことであった。その再建の後、16年を過ぎた昭和19年から20年におよぶ、今次対戦[ママ]における数次にわたる東京大空襲に際しては、幸いにして難を免れたのであった」と、報告書はつづく。 

 しかも、調査時の所有者は大宮たづ子、正義ほか共有となっており、「大宮材木店の初代から数えて4代目にあたる」という。俄然、興味が湧いて大宮正義氏の名前で検索すると、自民党選出の千代田区議会議員を長年務めたあと、2004年に亡くなっていたことが判明した。大宮さんは、てっきり小川町を離れて材木を扱うのに適した木場へ移ったのだと思っていたが、少なくとも20年前まで子孫の誰かがこの地に住みつづけて、千代田区議などになっていたのだ。30年ほど前の情報では、職業は材木関連ではなく飲食店経営となっていた。祖先探しで小川町は何度か歩いたことがあるのに、なぜこの事実にもっと早く気づかなかったのか。 

 翌日も気になって、2019年に千代田区役所でもらった除籍謄本を引っ張りだし、萬吉さん長男の徳太郎氏をはじめ、そこに書かれている大勢の名前を検索してみた。昭和4年刊の『神田区人物誌』には、これまた神田区会議員だったという徳太郎氏の項に、「代々和泉屋と号して木材商を営めり。此の度、復興事業に際会して、木材の需要頗る増大せり。氏は生粋の神田っ児にして、意地と張りを有し、義侠心に富み、公共事業の為には何ものをも惜まず[中略]氏は特に一宗派を信仰する者に非ざるも、社会人として道徳を根底に置き、久遠なる宇宙に思を寄せ」と大いに誉めそやしたあと、「和泉屋の門戸は牢として動かざる地盤と、顧客を有し、都下斯業界の重鎮たりしが、現在は廃業の状態に在り」などと書かれていた。関東大震災のあと、一時的に材木業も盛んになったが、小川町のような街中ではやはりつづけにくかったのだろう。 

 このページに掲載された徳太郎氏の写真は40代くらいに見えるが、2年前に同氏の長男精一氏のご子孫を探り当て、訪ねた際に見せていただいた白い長い鬚を生やした写真の人物と同一であることは疑いない。昭和11年刊の『土木建築業並関係業者信用録』の大宮精一氏の項には、「当家は先代大宮萬吉氏が愛知県下より上京し、神田丸太河岸佐藤由兵衛氏経営の材木店にて修業後、現業を以て独立せしに始り」とある。大一木材の大宮巨統さんからは、深川の材木屋で丁稚奉公と伺っていたので、下積み生活が長かったのかもしれない。 

 昭和2年刊の『国民自治総覧』の徳太郎氏の項には、「抑も同家は維新前愛知県海原郡より上京、多年材木業界に刻苦精励して独立、今日の基礎を築ける大宮萬吉氏の苦闘苦心の結晶なり」と書かれていたほか、萬吉さんは「八十歳の高齢を保ちて今尚矍鑠たり。老来益々勇躍淋凛[ママ]町内の夜警衛生等に尽瘁して殊功あり」と絶賛されていた。祖父母のアルバムに残された葬儀の写真に、神田公友会などと読める花輪が所狭しと並んでいた理由がわかる気がした。 

「海原郡」は正確には海東郡だろう。除籍謄本によれば、私の高祖父に当たる萬吉さんは尾張国海東郡勝幡村で弘化4年に生まれている。その後、深川熊井町に住んだのち、明治8年3月に神田小川町1番地に越し、徳太郎氏はその1カ月後に生まれていた。徳太郎氏の生母は産後まもなく亡くなったと思われ、翌9年に私の高祖母に当たる志げさんを後妻に迎えている。昭和3年に志げさんが先に中野で死去していたので、てっきり小川町は引き払ったものと思っていたため、今回の発見はまったく意外だった。

  100年にわたって存在した土蔵があったのであれば、萬吉さんの店がそこにあったと考えてよいだろう。萬吉さんの次女である私の曽祖母タケさんは「神田区小川町壱番地」生まれだが、この「1番地」は、山城淀藩の稲葉丹後守正邦の上屋敷跡で、かなり広大な一画すべてに「1番地」の番号が振られていた。明治32年ごろに作成された『東京名所図会』では、大宮萬吉木材店は「一番地の西方即ち戸田邸前通りにあり」となっているが、いまの靖国通りの南側にあった戸田忠行邸は、小川町一番地の向かいではなく、いまの小川町3丁目(幕末にはただ「御用屋敷」)の向かいに位置していた。私の学生時代には、3丁目付近までスキー用品店がびっしり並んでおり、記憶が正しければニッピンの神田店などもあった。 

 明治9年の「明治東京全図」では、「壱番」はまだ「稲葉正邦」となっているが、その前年に高祖父がその一角に店を構えていることから、淀藩のこの屋敷も没収され、分割されて新たに台頭してきた大宮さんのような庶民に売られていたのだろう。土蔵は「大宮材木店の東側に隣接する同一敷地内」だという『千代田区の民具』の記述と図から、場所を特定すると、その名も大宮ビルという2棟の建物がグーグルマップ等から確認できた。これらが新たな「重層の建物」に違いない。 

「明治東京全図」には、小川町の「壱番」と通りを挟んだ向い側の錦町に、「九條道孝 区務所」と書かれたかなり大きな区画がある。この数年、九条家について散々調べて論文まで書いた身としては、興味を抱かずにはいられない。大正天皇妃となった九条節子はこの別宅で明治17年に誕生したらしい。私の曽祖母タケさんはその前年に生まれている。 

   明治の小川町界隈は、仏文会(現法政大)の跡地に東京物理学校(現理科大)が入るなど、新しい東京の文化の中心地のような場所であったことは、以前に調べた際に知っていたが、改めて地図を見ると、東京英語学校や開成学校があるし、神田川方面に坂を上った先には「魯国公使附属ニコライス」の文字も見える。いまのニコライ堂(1891年竣工)の場所だろう。少し右手の筋違橋門の手前には、上田藩が1世紀以上にわたって上屋敷をもっていたが、幕末にその地にあったはずの青山下野守の屋敷なども、明治9年の地図では跡形もない。 

『神田区人物誌』はタケさんの異母兄である徳太郎さんが、「子福長者にして家庭には九人の子女あり」とも書く。除籍謄本では7男4女の名前が確認できるが、息子のうち2名は早世したのかもしれない。長男が精一氏で、『木材総覧』(1976年)などから、小川町の店は3男の松三氏が継いだものと思われる。残る3人の息子と思しき人物は、それぞれ関東逓信病院の医師、電電公社の職員、茨城大学の心理学教授に見つかった。娘たちの行方は、残念ながらたどれない。大宮さんは材木問屋と思い込んできたが、それぞれに多様な道を歩んでいたこともわかり驚いた。 

 折しも、10月25・26日に神保町ブックフェスティバルの「本の得々市」で、拙著『埋もれた歴史』(2020年刊)の版元であるパレードブックスさんが出店し、在庫が減らずに困っている拙著も売ってくださるというお知らせをいただいていたところなので、校正中で気持ちの余裕はまったくないが、現地調査を兼ねて小川町・神保町を大急ぎで歩き回ってみようかと思っている。うちの親族はみなそれぞれに忙しく、一族の歴史などにほとんど興味を示さないのだが、母のいとこがお付き合いくださるとのことなので、雨天でない限り、いずれかの日に決行しようと思っている。何か新たに判明したら、この記事に付け足すなり、改めて報告を書くなりしよう。

   なお、土蔵に保存されていた「数々の貴重な民俗資料」は、1995年創立の千代田区立四番町歴史民俗資料館に寄贈されたと報告書には書かれていたが、調べてみると、市ヶ谷にあったこの資料館は早くも2011年には閉館し、日比谷図書文化館に機能移転していた! 日比谷公園内のこの三角の建物は、ここ数年、毎秋、赤松小三郎研究会の講演会の会場となっており、考えてみれば、展示室のようなものを見たことがある。大宮さんからの器などは、おそらく倉庫に仕舞い込まれているだろうが、この11月3日にも河合敦氏の講演会「赤松小三郎に影響を与えた人々〜最新の幕末史研究を踏まえて〜」(14:00開演)に行く予定にしているので、ダメ元で一応覗いてみることにしよう。私の曽祖母タケさんが使っていたかもしれない器であれば、ぜひ見てみたいものだ。