取り敢えずはその前に、この品濃谷宿公園が新見家のお墓がある一角の隣にあったことから、新見家について調べたところ、次々に面白い事実が判明したので、そちらを先にまとめておくことにする。前回書いたように、品濃村は新見家の知行だ。幕末の当主新見正興は、万延元年遣米使節の正使に抜擢されてパウアタン(ポーハタン読みで知られる)号に乗って太平洋を渡った人なので、この近所でも比較的有名なようだ。新見家のお墓が残っていることは、私自身も自治会の回覧板で知ったと思うし、ネット上にもかなり多くの情報がある。ただし、大半は正興が立ち居振る舞いの美しい美男子ゆえに正使に選ばれ、実際には小栗忠順がアメリカ側との交渉に当たったという説明に終始するか、正興の孫娘が柳原白蓮であることに言及する程度だ。
品濃の白旗神社の由緒書きで、新見家のお墓が以前は神社脇にあったと読んだことを失念して、谷宿公園を再訪した折に公園の植栽を管理されていた方に、公園脇にお墓があるなら、この公園の場所が新見家のお屋敷だった可能性はないのかと尋ねてみたところ、お墓は東戸塚の駅ができたあと(1980年に)移設されたことを教えてもらった。となれば、新見氏の屋敷なり拠点があったとすれば、神社の付近だろう。
そんなところから国会図書館デジコレを少し検索すると、興味深い事実がいくつも出てきたのだ。まずは前回も引用させてもらった『ヨコハマ散歩 増補改訂3版』(森篤男著、横浜市観光協会、1973年)から。この書に移設前のお墓の写真とともにかなり詳しい説明があった。「斉藤孝二宅の近く、白旗神社の西横側の山裾に、新見家の墓所が梅樹に蓋われるように、ひっそりと丸形自然石の墓石二基が並んでいて、その後方に奥方らの墓碑が数基雑草のなかにある」。この二基は、品濃村を知行とした初代、新見正勝と、正興の養父、正路の墓だった。神社前の斉藤さんが「おやしき」という屋号の家であったことは近所の古い住民の方からも聞いていた。少し前に工事車両がそこの邸宅に入っているのを見ていたので、慌てて確認しに行ったら、すでに老人ホームに建て替わっていた。
『ヨコハマ散歩』にはさらに、うちがここ数年、除夜の鐘を撞きに行っている北天院所蔵の文書「御霊再興之由来」が引用されていた。品濃山と号する北天院の御霊屋に、新見家累代の位牌は安置されているそうだ。その由来によると、天明期まで御領主宗祖浄源院様(正勝、ただし墓碑は浄玄院)の御廟所は当村斉藤伝三良が墓守をしており、鎮守の白旗明神の傍らに御墓印の松のみあったところ、その松が枯れ、挙句の果てに倒れてしまったのだという。「御上え達し候処、其地鏧穿すべき旨おふせ渡され候間、壱丈計もほりうがち候処、霊骨厳然たり」と、遺骨を掘り返し、それを赤銅の壺に収めて桐棺に入れ、外は石棺にして葬り直したという。この文書では、改葬されたのが天明9年(1789)の正月のこととしているが、墓石は安永2年(1773)に当時の当主正恒が建てている。由来が書かれたころには、事実関係が多少曖昧になっていたのかもしれない。
同書が引用する『寛政重修諸家譜』によれば、新見家は徳川家康がまだ遠江国にいたころからの家臣だが、天正9年(1581)「ゆへありて相模国鎌倉品濃村に蟄居」していたが、12年の長久手の役で戦功を上げ、「弓銕炮おのおの百挺あづかり」尾張国小幡の城に籠ったりしたのち、また品濃村に戻り、采地(知行)250石を賜った。その後も各地で活躍したが、寛永17年(1640)に致仕して采地品濃村に住し、「十九年十二月二十日彼地において死す。年八十六。法名祐巴。品濃村に葬る」とされていた。
つまり、白旗神社の西側裾野に1642年から1980年まで正勝は眠っていたことになる。「横浜市内では数える程しかない領主の墓石が、小径のかたわらに現存するのも珍しいことである」と『ヨコハマ散歩』には書かれていた。白旗神社のある場所は、現在は頂上に富士講の石碑が立つ白旗山公園とともに、長方形の区画に収まった奇妙な残丘になっているため、古墳ではないかと長らく思っていたのだが、昭和38年の地図などを確認すると、実際には白旗山は高層ビルが並ぶオーロラシティを抜けて、その向こうのマンション街までつづく山だったようだ。東戸塚を開発した際に、この山を大幅に削ったために、人工の残丘となってこの一角が残っているようだ。姉一家が1990年代にこの近くに住んでいたころは高層ビルもまだ一棟しかなく、工事現場だった記憶があるが、山を削った場所とは思いもしなかった。
白旗神社横にあったもう一基の墓標は、新見正興の父、正確には養父の正路のもので、『ヨコハマ散歩』の著者は、正路は北天院にある位牌に「江戸牛籠葬願正寺」とあるので、白旗神社横の墓石は供養塔だと判断している。同書には正路が嘉永元戊申年(1848)6月25日58歳で逝去し、法名は正学院殿 従五位下 故伊賀守 釈徳厚御融大居士であること、大坂西町奉行時代に安治川の河口を浚渫して出入りの便をはかったほか、天保山の埠頭を造築したのち、江戸で悠々自適の余生を送ったことなどが記されている。
実際には、正路は将軍の御側御用取次としてその後も活躍していたことが、『神奈川県史』通史編3等からわかった。天保御江戸大絵図(天保14)では、田安御門の近くに「シンミイガ」の文字が見える。大坂にも赴任していた正路は品濃村を訪ねることはあっても、住んでいたことはないだろう。『神奈川県史』には天保14年に老中首座の水野忠邦が発令した上知令に関連する興味深い項がある。上知令の目的の一つは幕府財政の補強だったが、旗本領として細分化された江戸・大坂周辺の支配が不徹底であるため、幕府直轄地にして支配を強化することも重要な目的となった。上知の代償として代知が与えられたが、代知の祖率は知行高の3割5分以下と定められたため、上知該当者は減収となり、老中である土井利位や堀田正睦や紀州藩を含め、強い反発が生じたという。
品濃村と前山田村に知行があった新見正路も上知の対象となった一人だった。正路は御側御用取次で天保の改革の推進者でもあったが、上知令には反対し、この年の6月1日に鎌倉郡内の高241石の上知を仰せつける達書が出され、翌日、新見氏の用人新井兵右衛門が品濃村名主長谷川長次郎宛にその旨を翌日通知し、3日により詳しい通知が再度出されている。品濃村にはこの地での新見氏の初代である正勝の「御廟所茂有之、種々取調方有之ニ付而者」と、その理由が書かれていた。このとき上知の対象となったのは新見氏の本貫である品濃村で、隣の前山田村は除外されていた。該当者は、「十か年の年貢取立帳・寺社除地・村方巨細書上帳と絵図等を作成し勘定奉行所へ提出すること」と命じられていた。
村の絵図面は、こうした年貢絡みの書類として作成されることが多かったと思われ、品濃村でもこのとき何かしら作成された可能性もあるが、『神奈川県史』が書かれた昭和40年代にこれらの古文書を所蔵していた名主長谷川家のご子孫、昭一氏の文書リストに見つかる絵図は、安永8年のものしかない。現在の所在も不明である。
6月3日付けの書状には、水野忠邦自身を含め、江戸に近い領地はすべて上知の対象になっており、今回のこの沙汰は新見正路の「御首尾合不宜上知被仰渡候なとゝ申事聊無之」と、これは新見氏の落ち度などでは何らないので安心してくれと伝え、「長生きいたし候へハ種々之苦労有之候、扨々困入候事也」と嘆く言葉で締め括られている。
結局、上知令はあまりにも不評で、閏9月7日は撤廃され、13日に水野は罷免された。品濃村では農民が上知中止を祝って新見正路に「鮮鯛差上之」、そのことに満足した正路からも村へ酒二樽と肴一折が贈られ、ともに上知中止を祝ったという11日付の書簡が残っている。品濃村に、初代と並んで正路の供養塔が養子の正興の手で建てられた背景には、このときの村人との強い結びつきがあったかもしれない。
正路は渡辺崋山と親しかったらしく、井口木犀の『華山掃苔録』(1943)にも「温厚にして学識高く、書を愛好し、蔵書幾万巻賜藘文庫の名高く」と書かれていた。華山のこの伝記には、当然ながら松平忠固の異母兄で田原藩主となった三宅康直も登場する。
正路は克明な日記をつけていたことも、藤田覚氏の『幕藩制国家の政治史的研究』(校倉書房、1987)からわかった。この研究書は正路を高く評価していたという水戸藩の藤田東湖が、「伊賀守は越前守間柄に後座候間、伊賀守へ罷出候はゝ、越前守へ相分り候」として、正路の縁戚関係に言及していることに注目する。伊賀守は正路、越前守は水野忠邦である。藤田氏が引用する『事実文編』には、成島譲が書いたという「故伊賀守新見君墓碑銘」の全文が掲載されており、そこに「一男二女、初以無男、養姪正興為嗣」と書いたあとに、「後挙男正典、伋為孫嗣、女一配正興、一適跡部氏」と書かれている。これではさっぱりわからないが、正路には実際には三男二女がいたものの、長男、次男は早世し、三男はまだ幼年であったため、正路の弟に当たる三浦養韶の次男である正興を養子に迎えたのだという。姪と書かれているが、これは甥も意味する言葉だと、グーグルのAIに教わった! 正興は、さらに正路の娘といとこ同士で結婚したのだと思われる。問題はもう一人の娘で、この人の嫁ぎ先が跡部氏なのだという。家譜等未見と断りながら、藤田氏はこれが水野忠邦の弟の跡部良弼の関係者と推測する。ちなみに、正興は晩年、正路の末子、正典に家督を譲っているようだ。
『事実文編』に引用された正路の墓碑銘は相当な長文であり、こんな碑文がどこに刻まれていたのかと、後日、谷宿公園横のお墓を再訪し、失礼して墓石の裏側を覗かせていただいたら、自然石の裏側に二基ともびっしり碑文が刻まれていた。ただし、正勝のものはとくに250年の歳月のあいだに苔が生えて読みづらく、正路のものも私の老眼では現場ではかろうじて年号が読み取れる程度だった。翻刻されているなら敢えて読む必要もないかと、しばらく写真を放置していたが、それにしても文字数がずいぶん異なるのが気になり、写真を拡大しながら読み取ってみたら、まるで別文の銘が刻まれていた。墓碑銘を書いてもらったものの、あまりに長文で刻めなかったのではないだろうか。多分に想像を交えながら読み取れそうな文字を以下、並べてみた。拓本を取れば、まだ2基ともかなり読めるのではないだろうか。正勝の墓碑からも「安永元壬辰年」という没年や、碑が癸巳年に源朝臣新見正恒によって建てられたことなどは読み取れる。
先考諱正路字義郷 吉 師仕
宮 内樞事以功加 合二千石其在
以官栄単二其 倹守 夜不
上思 遇殊 以寛政三辛亥生
嘉永五戊年終于官享年五十有八 葬干
江都城北牛籠願正寺於戯叡哉先考功既
成 又得名而又傳名於子孫永世而血食
千不朽椰可譜能 盈満者笑於緊持 于
先 之側以表中興之功徳為手霊 所
頼篤
安政四丁巳二月養子新見豊前守源正興
秀之
私の判読した限りでは、正興は正路の没年を嘉永五年としているが干支は本来の嘉永元年なので、墓碑を建てた安政4年には記録が曖昧になって誤解したものと思われる。「養子」としていることなどもわかり、正興の人柄がわかる気がする。正興は外国奉行、神奈川奉行を兼帯し、遣米使節後は側衆になり、隠居後は品濃村ではなく狭山市で帰農し、明治2年に亡くなっている。彼が活躍した時代には、老中松平忠固についで板倉勝静が伊賀守であったためか、豊前守、のちに伊勢守を名乗っていたようだ。正興が正使に選ばれたのは、彼の端麗な容姿以上に、少なくとも正路以来の新見家の高い評価ゆえだったのではないかと、地元ならではの贔屓も少々加えて提言してみよう。
品濃谷宿公園。新見家のお墓は右奥の一角にある
品濃白旗神社の由緒書
白旗神社の西側山裾。このあたりにあったのだろうか
移設された新見家のお墓
新見正路の供養塔の背面






