2017年11月30日木曜日

「松平忠固公を語る講演会&トークセッション」

 だいぶ以前のことだが、高校の夏休みの宿題で娘が親戚に聞き取り調査をしたことがあった。そのとき、私の祖父が子供のころ父親に連れられて上田の旧藩主にご挨拶に伺っていたという話を聞いた。私の知る限り祖父は型通りの礼儀作法を重んじるタイプではなかったので、何やら意外な気がして、その話は印象深く残った。明治末期か大正初めのことだろうか。  

 そんなこともあり、このたびその旧藩主のご子孫から、上田で松平忠固に関する講演会があるので、その折にでもお会いしましょうという旨のお電話を頂戴したときは、心踊る気分になった。誰でも参加可能の講演会ではあったが、会場となった藤井松平家の菩提寺である願成寺へ向かいながら、藩主を片隅から眺めるしかなかったであろう祖先のことを考え、私も同じくらい緊張した。  

 日本が近代化に向かい始めた明治時代は、こうした封建時代の身分制度がなくなり、しがらみがなくなった輝かしい時代のように錯覚しがちだが、現実には版籍奉還という名目で各大名の所領が一気に取りあげられ、武士階級は士族という名ばかりの存在になり、その一方で明治維新の功労者や財閥の当主は大名や貴族と並んで華族になり、かつての大名屋敷跡を買いあげた時代でもあった。幕末の江戸の地図と明治の地図を見くらべれば、明治維新が実際には革命であったことが実感できる。 

「それは人間を〈生まれつきの上位者〉と結びつけていた雑多な封建的絆を容赦なく断ち切り、そのあとに残された人と人の結びつきと言えば、むきだしの私利追求、すなわち無情な〈現金支払い〉しかない」というのは、ブルジョワ社会について述べた『共産主義者宣言』(1848年)の一節で、昨年刊行されたトリストラム・ハントの『エンゲルス──マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)に引用されていたため、四苦八苦しながら訳したものだ。藩主が〈生まれつきの上位者〉であるかはさておき、それまで数百年にわたって築かれていた主従関係が崩れ、明治維新を境に多額の資本をもつ人が事実上の支配者となり、人と人の関係がただの〈現金支払いの結びつき〉、つまり義理も人情もなく、ひたすら経済関係になったことが、この政変の本質だったのではないのか、とこの本を訳しながらよく思った。ブルジョワ階級は、「あらゆる国の民を、滅亡したくなければ、ブルジョワ的生産様式を採用せざるをえない状況に追いやる。人びとはブルジョワ階級が文明と呼ぶものを自分らのなかに導入させられる。すなわち、彼らもまたブルジョワにならざるをえない」。私は訳者あとがきに、これは明治の日本を念頭に書かれたかと思うほどだと書いた。同宣言には、資本主義が生みだす「消費財の安い価格は重砲であり、万里の長城をもなし崩しにし、頑なに外国人を嫌う未開人たちをも降伏させる」ともあった。  

 上田藩主の松平忠固は、日米和親条約、日米修好条約の二度の条約締結時に、老中として強力に開国を推し進めた人だ。1840年のアヘン戦争に危機感を抱いた松代藩の佐久間象山が1842年に書いた「海防に関する藩主宛上書」を早期に目にする機会は、上田と松代の関係から考えて充分にあったに違いない。忠固は姫路城主の酒井家から藤井松平家に養子に入った人で、開国せざるをえない世界情勢であれば、それを逆手にとって貿易で利益を得て財政を立て直そうとする商才もあった。そんな彼が周囲の反対を押し切って開国を主張し、その衝撃を緩和するために開港を限定的、漸進的に進め、アヘンは禁輸するなど、諸々の対策を講じたはずであることは不自然なほど知られていない。封建時代の日本の開国には、電気も水道もなかった部族社会に突然、ソーラー発電とスマホが入るような混乱があったはずだ。産業革命を経た欧米諸国で量産された武器や弾薬、軍艦は、戊辰戦争で多くの人命を奪っただけでなく、それらを競って購入し、大枚をはたいた諸藩や徳川政権の財政も狂わせた。維新後、大名たちは華族となって特権を維持したものの、いち早くブルジョワになった資本家に借金をし、財産を処分して手にした一時金を、投資に使うすべを知らないまま浪費して、いつ間にか身ぐるみ剥がれていったのだろう。  

 地元の明倫会主催の今回の講演会では、忠固の末裔の方々だけでなく、上田高校のOBとして『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)を執筆された関良基氏や郷土史家の尾崎行也氏、貨幣史の研究から忠固に注目し脚本化なさった本野敦彦氏のお話も伺うことができた。忠固に関する史料は上田にもご子孫のもとにもわずかしか残されていないようだが、この祖先の実像を美化することなく、見極めたいという玄孫の浦辺信子さんの言葉には共感するものがあった。忠固が条約の締結を急いだ理由が、イギリス艦隊が来襲する前により穏当な交渉相手であるハリスと、日本に有利な条件で最恵国条約を結ぶことにあり、当初の関税率は20%であったのに、下関戦争の敗戦によって一律5%に減らされた、という関氏のご指摘は鋭かった。  

 講演会の前には上田市立博物館で開催されていた赤松小三郎企画展を覗き、上田城址にある戊辰戦争碑のかすれた文字に目を凝らし、上田市図書館や、うちの祖先の菩提寺だったという宗吽寺の墓地にも立ち寄った。私のこうした調査は考えてみれば、明治以降の日本では葬り去られた江戸時代までの、金銭上の損得とは違う次元の絆としがらみを探るものでもある。先祖探しを最初に始めた娘は、歴史にはその後ちっとも興味を示さないが、近刊の絵本『じょやのかね』(福音館書店)には、地域のまとめ役であり、時計代わりでもあった寺の役割を見直す意味も込めていた、と私は思っている。

 上田の三領主の紋

 上田城址公園

『赤松小三郎ともう一つの明治維新 ──テロに葬られた立憲主義の夢』 関 良基著、作品社