2021年8月24日火曜日

『お順』

 1年ほど前、勝海舟の伯父である男谷彦四郎(思孝)の名前を拙著で誤記していたことに気づき、少しばかり検索した際に、作家の諸田玲子が勝海舟の妹で、佐久間象山の妻となった順子(1836-1908年)を主人公にした『お順:勝海舟の妹と五人の男』(毎日新聞社、2010年)という小説があることを知った。たまたま村上俊五郎(この小説で言えば、五人目の男)について確認したいことがあって、文春文庫版(2014年刊)を図書館から借りて、とくに期待もせずに読み始めたところ、思いの外よく書けていて最後まで読み通してしまった。 

「五人の男」のうち、二人は父の小吉と兄の麟太郎(海舟)なので、お順のパートナーとなったのは実際には島田虎之助、佐久間象山、村上俊五郎(政忠)の三人である。ちなみに文庫版には、ちょっと誤解されかねないこの副題はもうない。  

 以前にも書いたように、男谷彦四郎の娘婿の誠一郎(信友)は直心影流の「剣聖」で、島田虎之助は麻布狸穴のその道場で免許皆伝、師範代となった。中津藩士の四男だった島田は剣豪として知られ、海舟も彼から剣術を習った。だが、お順にしてみれば島田は父親ほどの年齢で、彼が本当に初恋の相手で、許嫁であったのか、それともその部分は著者の創作なのかは、少しばかり調べたくらいでは確認できなかった。いずれにせよ、小説のなかでお順が生涯で最も愛した島田は、嘉永5(1852)年9月に病死してしまい、お順はその年12月に、よく知られるように、母の信からの絶大なる後押しもあって、島田よりさらに年上の41歳の佐久間象山の正妻となった。この母は、勝家の一人娘だが両親に早く死なれ、家を残すためにわずか4歳で、男谷家の妾腹の三男でわずか7歳の小吉と結婚させられたのだという。

 島田については史料が少ない分、小説の登場人物として自由に書けたようだが、象山に関する描写はそれに比べてややぎこちなく、これまで象山について数多く書かれてきた偏見をそのまま引きずっている印象を受けた。とはいえ、象山に嫁いだお順が、40人、50人の門弟が出入りする木挽町の塾で、姑のまんや側妻のお蝶、別の側妻菊の子である恪二郎などと暮らしていたのであれば、こんな雰囲気だったかもしれないと思う描写にはなっていた。私の高祖父は嘉永4年8月に象山塾に入門しているので、新妻だったころのお順に会っていたかもしれない。

 元治元(1864)年7月に象山が暗殺され、松代藩によって佐久間家がお取り潰しとなったことに憤慨して、お順が自殺未遂したという話はほかにもどこかで読んだことはあるが、出処は何だろうか? 子供のころから気が強く、父の小吉そっくりの跳ねっ返りのお順と対比して、この小説ではとことん殺生嫌いで、斬りつけられても刀が抜けないように、鍔を紙縒りで縛っているという兄の海舟の性格を巧みに描写する。典拠は『海舟座談』のようだ。それにたいし、象山の仇を討ちたいお順は「兄さまは臆病なのだわ」と思う。

 最後の男である村上俊五郎とお順が初めて会うのは、小説によると慶応4(1868)年3月5日、山岡鉄舟に連れられて赤坂の勝家を訪ねてきたときのことだった。この日、山岡がやってきたのは、その3日前に勝が益満休之助ら3人の薩摩藩士を、いざというときの切り札に使おうと、自宅に連れ帰っていたためだ。3人は前年暮れの薩摩藩邸焼き討ち事件で逃げ遅れて、小伝馬町の牢に収監されていた。一方の山岡もまた、西郷隆盛に「討伐の中止を談判する使者の役を、慶喜から直々に賜った」ため、益満を交渉の切り札にしようと考えていたという。「山岡が選ばれたのは、慶喜の身辺警護をつとめている義兄の高橋伊勢守(泥舟)の推挙によるものだという」とも、この小説には書かれている。そして、初対面の山岡にひと目で惚れ込んだ勝は日記に、「一見、その人となりに感ず」と書き、その場で西郷宛の書状を認め、山岡に託したという。海舟日記は『勝海舟全集』18の慶応3年までしかもっていないので、次の巻を借りてみよう。

 私はもともと幕末の外国人殺傷事件をかなり調べたので、勝海舟がヒュースケン暗殺犯の1人と言われる益満を西郷との交渉に使ったと初めて読んだときは、信じられない思いがした。慶応4年の上野戦争の際に負傷して、戸板に乗せられて横浜の軍陣病院に入院したが、病院の採光が悪いため病室の移転を希望したところ、たまたま大雨の日で、傷口が化膿して死亡したと、ウィリアム・ウィリス関係の鮫島近二氏の講演録で読んだこともあった。

 その益満と山岡、そして山岡の愛弟子という村上は、いずれも清河八郎の虎尾の会のメンバーだった。尊皇攘夷を掲げたテロ組織である。象山が暗殺されたあと、お順が再婚した相手が村上であると知ったときには、私には益満以上の衝撃があった。当時、私が村上ついて調べられた唯一の資料は、海音寺潮五郎の『幕末動乱の男たち』のなかの清河八郎だったが、今回、その元となったのが虎尾の会の一員だった石坂周造の『石坂翁小伝』(1900年)であることに気づいた。

 国会図書館のデジコレで読んでみると、下総「神崎に居ります中に村上新五郎と云ふ者が武者修行で私の所に尋ねて来ました。是れは身体も大きし如何にも豪勇」などと書かれていた。なぜか俊五郎ではなく、新五郎となっているが、同一人物だろう。この村上と石坂が、「浪士を騙って商人から金子を強奪した男たちを捕らえ、即刻、首を刎ねて両国橋にさらしたというおぞましい噂」について小説に書かれており、その件も、この『石坂翁小伝』に詳述されていた。しかも、その事件を調べた町奉行は井上信濃守(清直)だったという! ハリスとヒュースケンと度重なる交渉をつづけて日米通商条約を締結させ、その後、外国奉行を務めた井上は安政の大獄で左遷されたあと、南町奉行になっていた。  

 この石坂は何度目かの入牢中に戊辰戦争が勃発して情勢が変わり、やはり慶応4年3月15日に突然釈放され、山岡鉄舟預かりとなった。このあと、勝にも会うのだが、石坂は「勝と云ふ者は私共とは大に反対家であって彼れは西洋の心酔家であって」などと述べている。  

 4月11日に江戸城が明け渡され、慶喜は水戸にて謹慎という前夜、慶喜から贈られた銘刀を抱き、人知れず主君のために号泣する兄の後ろ姿をお順がひそかに見守る場面がある。長州征討時に勝が密使に立てられた際には、「慶喜公も、麟太郎が嫌いだ」と書かれ、「徳川より国を優先する」という勝の信念にも触れられていたが、お順はこのときの海舟の姿を見て、「もう、兄を臆病だとは思わなかった」。  

 そんな勝海舟の妹のお順の相手として、およそふさわしくないのがこの村上俊五郎なのだが、2人を強く結びつけた時代背景として、著者は5月15日の彰義隊の戦いの日に、海舟の留守のあいだに官軍が勝家に押し入った際に、村上が用心棒となってお順や家族を守ったときのことを描く。『氷川清話』に、このとき官軍200人ばかりに取り囲まれ、武器などを一切運び去ったことや、官軍からも旧幕臣からも命を狙われていた勝が、都合20回ほど敵の襲撃に遭ったとも書かれていた。このときのお順の武勇伝は知られているようだが、村上との一件はまだ確認できていない。小説では、お順は剣の達人である村上に兄の護衛を頼み、さらには象山の敵討ちも依頼したことになっている。  

 しかし、村上はアル中の疫病神のような人物で、何をやらせてもつづかず、どこでも問題を起こし、そのたびに山岡が次の勤め先を見つけ、勝家が当面の生活費を恵むというパターンが読んでいて呆れるほどつづく。明治元年9月に、旧幕臣のうち1万5000人が移住を希望し、家族を含めると総勢10万人近い人間が移住したという駿府へ、勝家も転居する。まだ婚姻届もだしておらず、祝言も挙げていない村上とお順がつかの間、同居した時期があった。勝に反感をいだく旧幕臣から詮索されないようにと、駿河国小鹿村(おじかむら)の出島竹斎という、父小吉の知己で、以前に海舟も金銭面で助けられた恩人が、お順たちの住む場所を提供してくれたのだ。海舟は竹斎への恩から、長男に「小鹿」(ころく)と名づけていたそうだ!   

 作者の諸田氏は、もともと2007年に半藤一利と対談した折に、勝海舟の妹のお順がおもしろいと勧められ、そこから調査を始めたそうだが、偶然にも実家の裏手に蓮永寺という、静岡時代に永眠した勝の母の信とお順の墓があるお寺があり、しかも父方の祖先が出島竹斎その人で、親族の蔵から未読の海舟の手紙なども見つかったのだという。したがって、お順と村上に関する新事実が、この小説を機に明らかになったわけなのだ。  

 しかも、『お順』によると、村上はその後、三方原の開墾事業を請け負って、またもや一揆を引き起こすなどの問題を生じさせ、その間におちよという若い娘に手をつけて、欣(きん)という娘を産ませたほか、別の愛人もつくっていた。村上に見捨てられたこの母娘の面倒を当初見たのが出島竹斎だった。お順は結局、村上と結婚することなく、ただちよと欣を引き取って、欣をわが子として育てたのだという。欣はのちに勝家の書生の熊倉操と結婚した。  

 横浜市歴史博物館には「熊倉家伝来 佐久間象山関係資料」があり、私もいくつか参照させてもらったが、そこでも「象山の死後、順子は実家の勝家へ戻り、後に村上政忠へ嫁いだ。政忠との間に生まれた欣子は、政忠の死後、勝家へ引き取られ、熊倉家へ嫁いだ」と説明されていたが、事情は違ったようだ。村上とお順に関する私の諸々の疑問は、この小説を読んで解けた気がする。  

 村上俊五郎は明治17年になって、頼みの綱だった山岡からもついに出入りを差し止められ、同21年に山岡が病死したことで取り乱した挙句に、勝家にお金の無心にきた。明治31年3月、「我が苦心三十年」と勝が日記に記したように、徳川慶喜が初めて参内して、天皇と将軍の和解が成立した。「これこそ麟太郎の悲願だった」と書いたあと、諸田氏は海舟からお順へのこんなせりふを付け加える。「ついでにもうひとつ……村上に絶縁状を送った。近年の無心は目に余る。おまえにとっても、幸多き年になるはずだ」。勝は翌年他界した。みずからの死を予期しての後始末だったのだろう。  

 お順は兄の死後10年ばかり生きて、明治41(1908)年に亡くなった。ネット上で見た彼女の墓は、母の信の墓標の片隅に小さく戒名だけ刻んだものだった。京都の妙心寺塔頭の大法院にある亡夫佐久間象山の墓には入らず、静岡の地で母とともに埋葬して欲しいと本人が希望したという。

『佐久間象山と横浜:海防、開港、そして人間・象山」横浜市歴史博物館、2014年より。真田宝物館所蔵。「象山自らが恪二郎と順子の写真を撮影したと伝えられる」とある。象山の写真はどうやらお順がシャッターを押したようで、同じときに撮影されたと思われる写真がもう1カットある

2021年8月17日火曜日

ブリジェンス設計の町会所

 謎の建築家ブリジェンスについてだらだらと書いてきたが、ようやく本題とも言える町会所に関して、隙間時間に在宅で調べられる限りのことをかき集めてまとめてみた。これは町会所というより、「時計台」の愛称で親しまれていた建物という。現在はこの跡地に、1917(大正6)年竣工の横浜市開港記念会館、通称ジャックの塔が立ち、これが国の重要文化財である歴史的建造物なので、それ以前にこの地にあった町会所のことはあまり知られていない。 

 きっかけは、このところずっと訳していた時間・時計の歴史に関する本に、公共の時計台に秘められた、とてつもない意味が書かれていたことだった。時間など、いまでは誰もが空気や湯水のように当たり前の存在として接しているが、これは改めて時間とは何か、それを可視化した時計とは何かを考えさせられた本だった。大まかに言えば、時計はローマの昔から支配者によって秩序を保つために使われてきたものであり、いまでは人工衛星に搭載された原子時計によって、私たちの暮らしのあらゆる側面が管理されているという驚くべき内容の本だ。

 これまでにも『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で、時間や時計に関連して深く考えさせられたことはあったし、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)には、スイスから開港当初にやってきた時計職人フランソワ・ペルゴの店に所狭しと並べられた時計を見に、日本の商人たちが群がったことが書かれていた。だから、文明開化と時計は密接に結びついていたんだろうと漠然とは思っていたが、改めて調べてみると、これは思っていた以上に重大な出来事だった。

 1932(昭和7)年刊の『横浜市史稿』地理編には、「町会所址」という項目があり、町会所が1874(明治7)年4月に改築されたことや、その建物が「石造で、屋上の高塔に大時計が据付けられ、本建物は時計台の名で通っていて、当時の横浜一名所となって居た」と書かれている。同風俗編でも、「石造二階の洋式建築」とあり、「其宏壮雄渾な誇姿には、其名も懐しい時計台と呼称が付せられて、明治初期の時代的雰囲気を語る記念の建築物であったので、其保存方法が慎重に考案されて居た最中の明治三十九〔1906〕年十二月に、可惜〔あたら、残念ながら〕、類焼の災厄に罹って灰土となった」と記されている。町会所の写真や銅版画を見ると、ブリジェンスのその他の作品とよく似た造りで、石造にしては華奢に見える。老朽化が進み、高塔は焼失する前年に撤去されていたというし、そもそも石造であれば「灰土」とならなかったように思うので、町会所も彼のその他の作品同様、木骨石張りだったのではないだろうか。 

『横浜市史稿』政治編三には、「之に要した建築費約八万円は、歩合金から支出した。此金は、明治六年五月、皇居が炎上して、直に造営に著手せられた時、横浜の貿易商人等が、歩合金の内を献金して、其費用の一部に充てんことを出願したけれど、遂に聞届けられなかったので、当時の神奈川県令陸奥宗光の発意を以て、其金を町会所建築費に転用したのであった」と、その由来が書かれている。  

 しかし、『横浜市史稿』の説明には、これがブリジェンスの設計だとは一言も書かれていない。それどころか、全11巻のどこにも、彼に関する言及はない。昭和の初めには、「横浜一名所」の設計者は、すでに完全に忘れ去られていたのだ。近年、彼の功績がいくらかでも知られているのは、先述の1907年の『横浜貿易新報』の記事に、1983年に掘勇良氏が目を留めて以来なのではなかろうか。この記事には「過般、火災の為めに一朝烏有(うゆう)に帰したる横浜会館、即ち時計台なるものは、氏等夫婦の設計に成りし唯一の記念物なりしと云ふ」と、書かれていたという。  

 設計者については早々に忘れ去られたようだが、町会所は「時計台」と呼ばれて親しまれたという。そのためか、町会所はむしろ、ここに時計を設置したジェームズ・ファーヴル=ブラントとの関連で記憶されつづけたようだ。以前は、そのことが不思議でならなかったが、時計台に込められた意味を考えれば、当然のことに思える。  

 なにしろ、日本ではそのわずか1年数カ月前まで十二辰刻制で時を刻んでおり、庶民が時間を知るすべは、ほぼ2時間置きに鳴らされる時の鐘の回数を数えるしかなかったのだ。横浜の時の鐘は、うちの近所の境木の鐘が野毛山に移されたそうで、もちろん人手で撞くものだった。江戸時代までは基本的に昼と夜の時間をそれぞれ6等分する方法が取られており、そのため夏には昼の一刻は長く、夜の一刻は短くなり、冬はその逆になった。日の出とともに起きて活動し、行灯しかない夜間は基本的に寝て過ごす暮らしだっただろうから、生物時計に従った健康的な生き方だったとも言える。  

 夜間、誰もが寝静まったあいだも起きて鐘を打たねばならない人は、おそらく和時計を頼りに、時の経過ばかりを気にしながら当番をこなしていたのだろう。ウィキペディアの和時計の項やセイコーミュージアムの説明を参照すると、江戸時代に開発された和時計は、もともと昼と夜の時間の変化を、棒状のテンプの分銅の位置を明け六つ(卯の正刻)と暮れ六つ(酉の正刻)で変えることで調整していたが、のちに2本のテンプが昼夜の境で自動切り替えできる二挺天符が開発され、二十四節気に合わせて15日毎に分銅をずらし、一刻の長さを調整すれば済むようになった。文字盤の時刻の間隔を15日ごとに変えて表示する「割駒式文字盤」型というのもあったようだ。  

 いずれにせよ、和時計は厳密に日毎の日の出と日没の時刻を追っていたわけではなく、その30分ほど前後の薄明を明け六つと暮れ六つとしていた。東西に長い日本列島では、実際には場所によって日の出、日没の時刻に2時間近いずれがあるためだろうか。和時計がどれだけ普及していたかわからないが、同じ仕様でほぼ各地で違和感なく使うためには、厳密でないほうがよかったのかもしれない。  

 そうした暮らしが唐突に終わりを告げたのは、明治5(1872)年11月9日に詔書が発表され、そのわずか23日後の12月3日が明治6(1873)年1月1日となり、それまでの太陰太陽暦が太陽暦に改められ、不定時法だった十二辰刻制が24時間の定刻制に変わったためだった。12月がほぼ1カ月なくなってしまったことは確かにショックだっただろうが、急に24時間制になり、何時何分という細かい単位で時間を決められるようになった時代の変化は、じわじわとストレスになっただろう。明治5年10月14日に鉄道が開通したのも、この変化と無縁ではなかったはずだ。半刻(1時間)という認識まではあったとはいえ、横浜–新橋間を1日9往復とはいえ、単線で列車を走らせるうえで、より正確な時刻を運行者も乗客も知る必要があっただろう。  

 幕末に長州や薩摩からひそかに留学した若者たちが、まだ13、14歳の子供まで、これ見よがしに懐中時計の鎖を胸に垂らしていたのは、24時間制で正確な時刻がわかることが、文明化した人間の証のように感じられたからではなかろうか。彼らにとって断髪して洋装したあと、最初に手に入れるべきものは懐中時計だったに違いない。明治7年にもなれば、横浜では懐中時計をもつ日本人はかなりいただろうが、そんなものを買えない庶民にとっては、見上げれば時間が一目瞭然でわかる町会所の大時計は、1日に何度でも見てしまう画期的な存在だっただろう。4階の高さでそびえ、てっぺんに4方向から見える大時計を搭載した時計台は、当時すでに2階建て建物が増えていたとはいえ、居留地や日本人町のかなりの場所から見えて、ランドマークとなるとともに時刻を伝えていたのである。  

 残念ながら、町会所の時計台は日本初のものではない。TIMEKEEPER古時計ドットコムというサイトによると、明治4年に現在の北の丸公園にあった近衛歩兵隊衛所竹橋陣営の時計塔が第1号という。同サイトによると、明治6年には工部大学校時計と並んで、なんと横浜岩亀楼にも時計塔が誕生したことになっている。後者は高島町遊郭に移転した岩亀楼の明治8年ごろ写真に確かに時計塔が確認できる。高島町に移転してから、3度焼失しているようなので、時計塔のある建物が何年に建設されたか正確に知るのは難しそうだ。町会所と同年同月に東京の江戸橋付近にあった駅逓察新庁舎にも時計塔があり、これもファーヴル=ブラント商会が納入していた。京屋の外神田本店と銀座支店もその後、同商会からの機械式四方塔時計が設置されている。本邦初ではないにしろ、町会所は5本指には入る日本で最も初期の時計台だった。  

 ジェームズ・ファーヴル=ブラントは1863年にエメ・アンベール率いるスイスの使節団に加わって来日した時計職人兼貿易商で、前述の同郷のペルゴとも交流があったが、一方で武器も扱っており、西郷隆盛や大山巌と親しく、長岡藩ともやりとりがあったようだ。長岡藩士の先祖を探すうちに、ファーヴル=ブラントを調べたという人のブログ等によると、松野久子という日本人配偶者がいて、彼女の死後はその姪の松野くま子を後添えにもらったらしい。いつもながら豊富な情報を提供してくれるMeiji-Portraitsは、この日本人妻をMatsouno Shisaとしており、横浜外国人墓地に眠る夫妻の墓には、確かにこの綴りで彼女の名前が刻まれていた。フランス語読みならシサ・マツノとなる。江戸っ子だったに違いない。彼女は有名なMitsuno clan(水野氏か?)の出身と同サイトには書かれていた。  

 いろいろ読むとファーヴル=ブラントも探り甲斐のある人物のようだが、とりあえずここでひとまず、ブリジェンスに関する報告はおしまいとしよう。幕末・明治期の時間や時計に関連したことでは、ほかにもいくつか調べたことがあるので、いずれ翻訳書が刊行されたときにでも書き足すことにしたい。

町会所の写る絵葉書。元の所有者の筆跡から、焼失する直前の写真と思われる

『神奈川の写真誌』(確か明治中期、有隣堂)に掲載されていた町会所の全容

横浜外国人墓地22区にあるフランソワ・ペルゴの墓。2018年10月撮影。誰かが花を供えていた

同墓地9区にあるジェームズ・ファーヴル=ブラントと松野久の墓。2018年10月撮影

2021年8月10日火曜日

グランド・ホテルはブリジェンスの設計か?

 しばらく中断していた建築家ブリジェンスの続きで、彼が設計したと言われるグランド・ホテルについて、メモ程度に書いておきたい。 横浜のホテル史については、私も学生時代にお世話になった故澤護先生が、それは綿密に調べ、論文やご著書を残されているので、詳しくはそれを読んでいただくのがいちばんなのだが、ブリジェンスとの関連に絞って、判明している限りのことをまとめておく。  

 グランド・ホテルはもちろん、明治時代の横浜を代表するホテルだったのだが、このホテルがあった居留地20番は、1862年から1867年までイギリスの公使館が置かれていた場所だった。公使館付騎馬護衛隊隊長から馬術を習った私の祖先もそこを訪ねたかもしれないと思い、現在は横浜人形の家が立つこの付近を、何度もうろついてみた。  

 横浜開港資料館で買った絵葉書のうち、上のパノラマ写真はフェリチェ・ベアトが山手から撮影したもので、1864年10月29日号の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に木口木版で紹介された。ここは海岸通りの南東端に当たり、画面手前には1860年に掘削された堀川があり、海に注いでいる。撮影されたのは下関戦争の直前だったため、横浜港の沖合にたくさんの軍艦が商船に交じって錨泊している。  

 下の絵葉書は、明治10年代撮影とのみ判明しているグランド・ホテルの写真だ。ブリジェンスが設計したとすれば、これがその建物なのだが、実際にはこの場所に建設された二代目のグランド・ホテルだという。1867年にイギリス公使館が山手に移り、同年11月に事務室等が売り立てられた(澤譲「横浜居留地のホテル史(1)」)。居留地20番はヘンリー・ホウイがイギリス公使館に貸していた土地で、公使館が移ったあとここに初代グランド・ホテルを建設した。ところが、まだ完成しないうちに、ホウイは1869年12月末に暗殺されてしまい、ウィリアム・H・スミスやジョージ・M・デアなどが共同で買い取り、1870年にメアリー・E・グリーンの経営で開業した。『ファー・イースト』の同年9月1日号に掲載された写真に、この当初の3階建てのグランド・ホテルが写っている。W・H・スミスは1862年にイギリス海兵隊の少尉として来日し、その後、実業家に転身してさまざまな事業を手がけ、「公共心にあふれたスミス」と呼ばれ、国籍にとらわれず居留民をまとめた横浜ユナイテッド・クラブの支配人を務めた。J・F・ラウダーもこのクラブの前身の発起人の一人である。  

 その後、スミスや写真家のフェリチェ・ベアトらが出資してこの初代のホテルを改装もしくは再建し、スミスを総支配人として1873年8月16日に二代目グランド・ホテルが開業した。こちらは、絵葉書にあるように2階建ての建物で、『日本ホテル略史』(昭和21年刊)によれば、「建物は木造二階建、一階に食堂、読書室、料理場があり、二階に客室三〇室を有す」というものだった。澤先生は、この書の間違いを多々指摘し、「建物の〈木造二階建〉も、〈石造二階建〉とした方が正鵠を得ている」としている。1890年に、隣接する居留地18番・19番に、フランスの建築家ポール・サルダ設計の新館が建てられると、20番の二階建てのほうは旧館と呼ばれるようになる。  この旧館がブリジェンス設計とされている旨には澤先生も言及し、こう評している。「ブリジェンスの作風は華麗さとか優雅さに欠け、どちらかと言えばずんぐりした単調な建築が多いので、この平面的で変化に乏しい〈グランド・ホテル〉旧館の設計も、彼の手になった可能性は大いにあり得るが、その確証はつかんでいない」(ホテル史(2))  

 ところで、この「旧館」にイギリスの工芸デザイナー、クリストファー・ドレッサーが1876年に滞在し、当時の様子を書き残している。その2年前、日本がウィーン万博で買い集めた美術品が海難事故ですべて失われたことに同情したイギリスのサウス・ケンジントン博物館が、1200点もの美術品・工芸品を寄贈してくれ、その選定にもかかわったドレッサーが、寄贈品とともに来日したときのことだった。ドレッサーの著作『Traditional Arts and Crafts of Japan』には、1876年末にサンフランシスコ経由で横浜に到着し、グランド・ホテルに滞在した日々が綴られている。第一印象では、さながらパリのグラン・ドテルのようだと思った場所を、翌朝、じっくり眺めたところ、「驚いたことに、昨日は堅固な石造りの建物として眺めていたものが、単に木造の骨組みの表面が、薄い石の平板で覆われていたのだ。それぞれの石は貫通しない程度に孔が開けられ、二本の普通の釘で吊るされているのである」。  

 城の石垣は別として、大量の石材を切りだし、輸送することも、その石を積みあげた建造物をつくることも一般的でなかった当時の日本で考案された苦肉の策だったのだろうか。見た目の西洋建築らしさもさながら、たびたび火事に見舞われた居留地では、耐火性という意味でも、石造りやレンガ造りの建物が求められていた。私が買った絵葉書のグランド・ホテルは、レンガ造りにも見えるのだが、少なくとも角部分は石造りに見える。そうした部分をドレッサーはしげしげと眺めたのだろう。  

 この「旧館」はブリジェンスの設計だろうか? 現地で手に入る素材で折衷案を考えだしたという点では、なまこ壁を採用した彼の他の作品に通ずるものを感じる。横浜税関として建てられ、二代目神奈川県庁舎となった建物は、外観石造、木造三階建てと書かれており、窓が等間隔に並ぶ中央棟などはとくに、この「旧館」に似ている。初代の横浜駅と新橋駅はいずれも木骨石張りで、伊豆斑石という凝灰岩が使われていた。少なくとも、技法という点では、グランド・ホテルの「旧館」はブリジェンス設計の可能性大と言えそうだ。  

 横浜には、現在は県立歴史博物館となっている旧横浜正金銀行本店など、石積みの本物の石造建築もあるが、建設されたのは1904年で、明治末期のものだ。現代の石造りに見える壮大な建築物は、いずれも石積みではなく、ごく薄い板石で外壁を覆っていることを考えれば、これはむしろ時代の最先端を行っていたのかもしれない。木造の民家で外壁の一部を石張りにした建物などは、近所でも見かける。木骨石張りというアイデアが、どこから生まれたのか、探ってみたら面白そうだ。

横浜開港資料館で買った絵葉書 
(上)「山手から見た居留地 1864(元治元年)7月」

(下)「海岸通り 20番グランドホテル(現在の〈人形の家〉付近)明治10年代」

2021年8月7日土曜日

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を読んで

 保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー:オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』を、細切れ時間をかき集めて読んだ。拙訳書『FOOTPRINTS未来から見た私たちの痕跡』について、北海道新聞に素晴らしい書評を書いてくださった地理学者の小野有五氏と、その後、多岐にわたる話題について何度もメールをやりとりさせていただくなかで勧められたのがこの本だった。  

 私が読んだのは岩波文庫から2018年に刊行されたものだったが、もともとは御茶ノ水書房から2004年9月に刊行された。著者の保苅氏が32歳で病死してから4カ月弱のちのことだ。本書は、保苅氏が1996年から2001年までオーストラリア国立大学に留学中に、ノーザンテリトリー準州に住むオーストラリア先住民の一氏族であるグリンジの、ダグラグ村を中心に現地調査をした結果をまとめた彼の博士論文をもとに、余命2カ月の末期がんとの宣告を受けてから、書籍として刊行するために多くの人の手も借りながら完成させたものという。  

 決して読みやすい本ではない。「幻のブック・ラウンチ会場より」として始まる第1章はとくに、「ども、はじめまして」という砕けた口語体の割には、オーラル・ヒストリーとは何なのかの説明もないまま、自分はインタビューも録音もせず、相手が自然に語ってくれるのを待つのだと読者は知らされる。エスノグラフィー(行動観察調査、保苅氏は参与観察とする)との違いを説明するのに、「事実確認的」(constative)、「行為遂行的」(performative)といった、やたら難しい用語が使われ、一般の読者には理解しづらいカタカナ語や、「歴史実践」(historical practice)、「歴史する(doing history)」など耳慣れない表現が多出する。最初のページのブック・ラウンチは出版記念会ではダメだったのか、なぜ「ローンチ」(launch)ではないのか等々、いちいち気になって、しばらく先に進めなかった。  

 それでも我慢して拾い読みしていくうちに、「僕たちは、歴史というものを、歴史学者によって発見されたり生産されたりするものだと思い込みすぎていないでしょうか。[……]学者以外がおこなう歴史実践は、せいぜいで歴史の授業に出席することくらいだと、思い込んでいないでしょうか」というくだりまできて、興味が湧いてきた。 

「〈われわれ〉歴史学者が、〈かれら〉インフォーマントの話を聞くという態度」にも疑問をいだいた著者は、歴史の語り手は人間に限らず、「場合によっては、石だって歴史を語りだす」、「いろんなモノや場所から歴史物語りが聞こえてくる」と述べ、それゆえに「過激で極端なオーラル・ヒストリー」という題名を考えたのだという。大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)を訳した私としては、石が語るのは、何ら不思議なことではない。もともとは、「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー」(通文化化する歴史)という題名を考えていたそうで、そうしなかったのは賢明だった。これではただ舌を噛んで終わりそうだ。 

「キャプテン・クックより以前に」オーストラリアにやってきたとグリンジの長老たちが主張する西洋人について、保苅氏が師と仰ぐジミー・マンガヤリ老人は「白人(カリヤ)は奴をキーン・ルイスと呼び、我々はジャッキー・バンダマラと呼ぶ」と説明した。「キーン・ルイスはこの土地にグロッグ[アルコール]をもたらした」、「バンダマラは、奴はライフルをもっていなかった。奴は長いあいだ、あれで暮らしていたんだ。……あのシャンハイを知っているかい?」などとも語った。  

 グロッグは、1730年代からイギリス海軍で支給されたラム酒の水割りを指す言葉だろうか。クック船長が第1回航海でシドニーのボタニー湾に上陸し、グウィーガルという先住民の一氏族と遭遇したのは1770年のことだ。クックの一行は突然の来訪者に敵意を見せた現地民の足元を狙ってマスケット銃を撃ち、現場に残された樹皮製の盾をもち帰り、のちにこれは大英博物館の収蔵品となって、100のモノの1つとして歴史を語った。クックの一行もグロッグは持参していただろうが、このときの出会いは非友好的に終わっているので、それを先住民に分け与えたのはもう少しのちの出来事だろう。  

 シャンハイはスリングショット、つまりパチンコとも呼ばれる小さな武器のことだ。これは意外にも、加硫した天然ゴムが1839年に発明されて以降に普及した武器のようで、シャンハイはそれが大量に生産された上海にちなんだ名称に違いない。興味深いことに、オーストラリアなどではこれをパチューンガと呼ぶらしい。ライフルは1849年ミニエー銃が開発されて以降、普及したので、キーン・ルイスあるいはジャッキー・バンダマラは、クックよりのちの19世紀なかばごろの人物だったかもしれない。保苅氏はジミーじいさんの言葉が、諸々の史実とは異なることを充分に理解しながら、聞き役に徹したようで、そのことに関して「歴史経験への真摯さ(experiential historical truthfulness)とはつまり、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったという歴史を真剣に考える歴史学のことです」と述べている。私ならば、客観的な証拠を示し、ジミーじいさんの記憶違いを正したくなるだろう。  

 グリンジの暮らす地域では1880年代から白人入植者が牧場開発に乗りだした。多くの人が働き手として雇われていたウェーブヒル牧場で1924年2月に大洪水が起こり、年間降水量が4インチ(1016ミリ)という地域であるため、ほとんどの牛はヴィクトリア川沿いに集まっており、何千頭もが溺死した。オーストラリアの国土の8割は年間降水量が600ミリ未満なので、グリンジの地域はそのなかでは湿潤ということになる。この出来事は人びとのあいだでは、日照りつづきであっため、ダグラグ村の長老が雨を司る虹蛇に雨乞いをした結果、数日間、雨が降りつづけたと語り継がれ、なかには洪水で白人を押し流すのが目的だったと主張する人もいたという。  

 この虹蛇を、保苅氏は「レインボウ・サーペント」、「レインボウ・スネーク」、あるいはただ大蛇などと表記していたため、小野有五氏は私が前述の訳書で使用した「虹蛇」という表記に疑問をもたれたようだが、現在ではこの訳語でウィキペディアの項目が立つほど、よく知られたものになっている。グリンジの人びとは蛇をJurntakalと呼んでおり、保苅氏はジミーじいさんとの対話のなかで、「ジュンダガル」について相当なページを割いているが、これが虹蛇かどうか言及していない。このあたりの用語の統一、定義がなされないまま本書は刊行されてしまったように思う。  

 ちなみに、先住民の言語はもともと250以上あり、現在ではそのうちわずか13言語のみが若い世代にも使われており、100言語ほどはもう高齢者のみが話すものとなり、残りは失われてしまったようだ。それほど多様であるため、「虹蛇」の現地語もボルルン、ダッカン、カジュラ等々何種類もあり、結局、共通語として英語表記が定着したのだと思われる。  

 ヘビと川は、ヤマタノオロチやインドや東南アジアのナーガを考えればわかるように、世界の多くの文化で密接に結びついている。極端に乾燥した広大なオーストラリアで、移動手段は自分の足しかなかった先住民について書いたブライアン・フェイガンは、『水と人類の1万年史』(河出書房新社)のなかで、「代々の狩人に知られてきた水場の在り処」が「〈ドリーミング〉行路、もしくは〈ソングライン〉と呼ばれるものであり」、「ソングラインの歌詞を繰り返すことで広大な土地を歩くことができる」と書いていた。こうした環境では、降雨の有無は生死を左右するものだ。恵みの雨をもたらしたあと空に浮かぶ虹を、天に昇る大蛇と考えたのか、などとも想像してみた。  

 もっとも、保苅氏が記録したジミーじいさんの説明はもっと断片的で、「見回してごらん、太陽はあっち(西)に沈む、そしてあっち(東)から起き上がる。これが正しい道だよ」といった調子だ。季節ごとに太陽が昇る位置も沈む位置も大きく変わるので、こんな大雑把な方角の把握で、水場が見つかるのだろうかと、心配になった。  

 ウェーブヒル牧場で暮らしていたグリンジの人びとは、劣悪な労働条件に抗議して1966年に牧場を退去し、1975年にはその一部である3300平方キロの土地を返還させたのだという。ジミーじいさんは1998年ごろ保苅氏が初めて会ったとき、すでに80歳前後のダグラグ村の最長老だったという。とすると、大洪水があった当時はまだ子供で、牧場の返還運動をしていたころは30代の働き盛りだったことになる。日本からきた若者を相手に、多くを語ってくれたジミーじいさんは、「尊重しなければいけないけど、今さら頼るには年をとりすぎ知恵いる人物」だったようだが、彼の記憶はその時点でどのくらい確かだったのだろうか? 

 私自身、祖先の足跡をたどるために、高齢の親族から聞き取り調査をするなかで、同じ出来事でもその当時の年齢や各人の性格によって、記憶された内容がまるで違うという経験を何度もした。数年後にもう一度問い直したときには、その記憶すら失われていることもあった。同じ事件の目撃記録でも、人によって、立場によってまるで異なることも知った。歴史は勝者によって書かれるという言葉の意味も、嫌というほど味わわされた。  

 歴史とは何かを問うのであれば、わざわざノーザンテリトリーまででかけなくとも、身近な老人との対話からでも充分にわかりそうな気がする。保苅氏は、周囲の世界を知るための最善の方法は、静かに注意を傾け、平原の向こうに飛ぶ鳥や、南方の山火事や、新しい轍に目を留めることだと教えてくれたジミーじいさんに大いに感銘を受けたようだ。だがそれとて、大半のバードウォッチャーや自然観察者は日本のどこにいても、日々どんな時間でもやっていることではなかろうか。オーストラリアン・クリーオルというクレオール言語で語るジミーじいさんと、英語を母語としない保苅氏がどれだけ先住民の思考を理解できたのかも、やや疑問が残った。  

 いまではオーストラリア先住民はほかのどの民族にも先駆けて7万2000年ほど前にアフリカをでた可能性が遺伝学から判明しているようだ。それでもヨーロッパや南アフリカ、南アメリカなど世界各地の洞窟で見つかっているのと同様の壁画を残すなど、人類共通の特徴が見られる。先住民が語る歴史の最も貴重な点は、そのとてつもなく長期にわたる時代の記憶であるはずだが、保苅氏はその最後の数百年の植民地時代の歴史をもっぱら研究した。私にはそれが残念に思われるが、世紀の変わり目はまだポストコロニアル理論にどっぷり浸かっていた時代だったのだろう。  

 なお、本書では白人にカリヤ、アボリジニにグンビンとルビが振られているが、白人を意味する先住民の言葉はカーティヤ(Kartiya)またはガバ(Gubbah)しかネット上で検索されない。グンビンはグリンジを含む言語族ンガンビン(Ngumbin/Ngumpin)のことと思われ、彼らはンガンピット(Ngumpit)と自称するようだ。さらに言えば、アボリジニ(Aborigine)という用語がいまでは差別用語と広く認識されているので、文庫化に際してはそうした旨の注記が必要だったのではないだろうか。私も昨年のサイニーの訳書でようやく気づいたのだが、読み返してみると『100のモノが語る世界の歴史』の原書(2010年刊)はAboriginalという形容詞は使っても、Aborigineは使っていなかった。オーストラリア先住民についてたびたび書いたブライアン・フェイガンは、2012年の原書でもまだAborigineを使っていた。

 ついでに言えば、「歴史とはそもそもナラティブである」などと唐突に書き、「物語り」(ナラティブ)と「物語」(ストーリー)とそれぞれルビを振り、注意散漫な読者には表記の不統一と誤解されるのがオチの書き方をする辺りも、編集サイドでもう少し補うべきではなかっただろうか。  

 かなり辛口の評になってしまったが、私よりも10歳近く若く、これだけの才能の持ち主だった保苅氏の命が、研究者としての第一歩を踏みだしたところで尽きてしまったことは、返す返す残念だ。