2005年1月31日月曜日

スマトラ地震とインド洋大津波

 スマトラ沖地震とインド洋大津波で何十万もの人が犠牲になったあの日から、1ヵ月以上がたった。タイで被災した子供たちが描いた津波の絵は、10メートルの高さの波に襲われた恐怖がどれほどのものかをよく表わしていた。アチェではなんと、津波の高さが34.9メートルにも達した場所があったという。日本でも1896年の三陸地震津波では、最高波高38.2メートルが記録されているそうだ。想像するだけで、水圧に押しつぶされそうだ。これではどんな堤防をつくってもかなわないし、第一、いつ襲ってくるともわからない津波のために、海岸線沿いに万里の長城のようなものを張り巡らされるのもたまらない。やはり、つねづね警戒を怠らず、いざとなったらすぐに避難するしかないのだろう。  

 これほどの規模の津波は予期していなかったとしても、スマトラ沖で地震が発生した段階で、近隣諸国がなんの警戒態勢もとっていなかったというのは、どうしたことだろう。タイのバンド、カラパオが津波の犠牲者への鎮魂歌をつくり、「ツナミ・クー・アライ、ルーチャック・テー・サシミ(ツナミってなんだ? サシミなら知っているけど)」と歌っている。まさに寝耳に水だった人も大勢いたようだ。 

 インドネシアは日本と同様、プレート境界に近く、世界的な火山地帯であると同時に、地震多発地域でもある。津波をともなった大地震は、過去に何度も起きていたはずだ。その証拠に、震源地の近くで津波の大被害を受けながら、奇跡的にほとんど死者をださなかったシムル島や、タイのスリン諸島では、海が急に引いたら、すぐに高台へ逃げろという昔からの言い伝えを島民が守り、そのおかげで命拾いをしたのだという。  

 タイの被災地では死臭がたちこめ、住民はピー(霊)におびえているらしい。タイでは、不幸な死に方をすると成仏せず、ピーになってこの世をさまようと多くの人が信じている。肉親を亡くした人や、いまも行方がわからない人にとっては、やりきれないものがあるだろう。この目で遺体を見るまでは、死が信じられず、きっとどこかで生きていると思いつづけるに違いない。心身ともに傷を負い、近親者を亡くし、家も仕事もなくし、援助に頼って最低限の衣食住を確保している人たちは、この先どうなるのだろう? 

 被災地では復興事業が始まっているようだが、被害にあった地域の多くが、それぞれの国の中心地から遠く離れた地方にあり、しかも以前から反政府運動が盛んな場所だったりするので、今後、さまざまな問題が生じそうな悪い予感がする。プーケットやカオラックのようなリゾート地は、しばらくは苦しい年がつづいたとしても、いずれまたもとのようなにぎわいを見せるかもしれない。でも、全滅したアチェの貧しい漁村などは、もう手の施しようがない。生き残った人たちは、悪夢を封じ込め、うつろな心をかかえてほかの町へ、都会へと離散していくしかない。  

 今回の大津波ほどの被害がでれば、この先は自然の恐ろしさが後世まで語り継がれるだろうか? それともいまだに海中に漂い、土中に埋もれて、行方知れずとなっている何万もの人びとともに、いずれ忘れ去られてしまうのか? おそらく、これだけの大災害も、100年もの歳月がたてばただの歴史上の出来事となり、その恐怖の記憶は消えてしまうだろう。そのころにきっとまた、災いは訪れるのだ。