2021年12月28日火曜日

不定時法

 今年も残すところあとわずかとなったのに、またもや見込み違いで、年末にはとうてい仕事が終わらず、締め切りを1カ月ほど延ばしていただいた。まだ年賀状にも取りかかれないまま、訳し終えた部分から見直しを進めて小出しに提出する、「三枚のお札」作戦の真っ最中というところだ。いろいろ考えていること、書きたいことはあるのだけれど、如何せん時間も気持ちの余裕もないため、目下の近況だけ、年末のご挨拶代わりに書いておくことにした。  

 今年の前半は、以前にも書いたように、時間と時計に関する面白い本を訳しており、少し前に訳者あとがきを書きながら改めて明治初めまで、日本で使われていた不定時法について少しばかり調べてみた。高緯度の地域ほどではないにしろ、冬と夏では日の出、日の入り時刻に数時間のずれがある日本では、年間を通して空が白んできたら起床できるように時間のほうを変えていたというのは、何やら逆転の発想のようで、とても新鮮だった。

 時間を変えるのは年間24回、二十四節気に合わせていて、その点では太陽暦であったことなどを知ると、実際に試してみたくなる。巧妙な仕組みになっていた和時計を1台欲しいところだが、うちは東向きでもあるので、取り敢えずは日々の日の出時刻の変化を1年間おおよそ(起きられる限り)追ってみようと思い立ち、冬至の少し前から始めてみた。  

 街灯や門灯の明かりが入るので、真夜中でも完全な暗闇ではないが、夜明け前にほんの少し空が明るくなると、ものが見えるようになる。最初の光はカーテンの上の隙間から射し込むので、欄間が高い位置にあったのはそのためでもあったのではないだろうか。つまり目覚まし代わりとして。電気のない時代であれば、日の出前のこの30分ほどの時間、明け六つは、とても貴重だったに違いない。  

 私がいつも利用させていただいているKe!sanサイトによると、冬至の明け六つは6時11分だが、春分・秋分は4時54分、夏至は3時49分と変化していた。横浜の冬至の日の出時刻は6時47分だったが、やや内陸部に住んでいるので、うちの近所の小高いところから実際に太陽が見えたのはその7分後ほどだった。周囲に民家が密集するうちのアパートでは40分ほどあとでなければ太陽は見えない。  

 冬至前の12月18日には、横浜の日の出時刻は6時45分だったので、そこから少しずつ遅くなったわけだが、実際には日の出時刻は冬至後もどんどん遅くなり、いちばん遅いのは1月7日ごろらしい! これは地軸が傾いているからだという。かたや日の入り時刻はいちばん早いのが12月6日ごろで、冬至のころには実際にはどんどん日が暮れるのが遅くなっていたのだ。確かに晩秋にいちばん日暮れが早く感じるし、クリスマスを過ぎるとすでにだいぶ日が長くなったような気がする。ただし、日の出・日の入りで厳密に計算すると、冬至の日はいちばん昼の時間が短くなるそうだ。そんなことも知らずに、ただ柚のお風呂に入って満足していたのかと思うと情けない。  

 冬至の日の出を見に行った朝、周囲の色がどんどん鮮やかになるにつれて、近くの木で眠っていたらしいヒヨドリが一羽、また一羽とけたたましい声をあげて飛び立っていった。

「たいようがでるまえに、さいごの ねぼすけも とびたった」という、娘の新しい絵本『ハクセキレイのよる』(福音館 ちいさなかがくのとも 2月号)の最後の一文がふと浮かんだ。冬季には街路樹などをねぐらとするハクセキレイの一夜を追っただけの静かな物語だが、小さな読者が自分の知らない夜の時間の話にどんな反応を示すのか楽しみだ。月刊誌なので店頭に並ぶ期間は短いため、ご興味のある方は早めに探してみてほしい。  

冬至の日の出

『ハクセキレイのよる』とうごうなりさ作 
 福音館、ちいさなかがくのとも2022年2月号

2021年12月14日火曜日

ブリジェンス追記

 昨日、たまたま別件で検索中にたいへん詳しい面白いサイトを見つけ、ついあれこれ読んでしまった。建築史家の泉田英雄氏のサイトと思われる。『埋もれた歴史』を書いた際に、私もイギリスの公使館や領事館について少しばかり調べたのだが、このサイトには明治以降のものを中心に、建築学的な観点からかなり詳しい経緯が綴られていた。  

 目下多忙なので、このサイトから判明した新たな事実をメモだけしておく。まずは、御殿山に建設され、高杉晋作らに焼き討ちされた公使館の設計者はラザフォード・オールコック自身だった!  

 横浜の山手に1867年に建設された公使館は、ブリジェンスの設計で始まったものの、工兵クロスマン少佐(Major William Crossman)が極東に派遣されたあと、その機能に相応しいように設計変更されたのだという。  

 さらに、現在の横浜開港資料館の場所に1870年に建設された領事館では、新たな図面が作成されたのだそうだ! 不恰好と不評だったこの領事館は、ブリジェンスのその他の建築物と似ていないと思ったが、そういうわけだったのか。泉田氏の説明を引用させてもらうと、「構造は木造軸組に石貼り(Stone Casing)で、長方形平面の三つのコーナーに塔屋が備えられ、特異な外観をしている。政情不安な時期にあって、監視塔が必要であったのだと思われる」。そうだったのだ、あの奇妙な塔は、クロスマンの発案だったのだ。  

 そこで思いだしたのが、『ジャパンパンチ』のワーグマンの滑稽な記事だ(1869年8月号)。見張る必要のあった方角だけ機能面重視で塔を設けていたのだ。以下、手書き文字を和紙に木版刷りしたものを読み取った限りだが、こんな内容である。後半部分はとくに、どういう構文なのかさっぱりわからないので、かなり推測混じりだ。正確に読み取れる方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。

 “Illustrious Sir” said a distinguished military officer to General Punch when will your next “heaven inspired” number appear
 “Sir” replied Punch Sama “when you have added the fourth tower to your Consulate building” 
Punch Sama is however merciful and having administered this well merited rebuke should condemn the Public to wait until the arrival of the Japanese Kalends he repents and produces his new and ever fresh Punch. 
 「高名なお方」と、威厳のある将校がパンチ将軍に言った。「『天の啓示』による次の数字はいつ現われるのでしょうか?」〔八卦のことか〕 
「士官殿」とパンチ様は答えた。「貴国の領事館に四つ目の塔が付け足されたらだ」 
しかし、パンチ様は慈悲深く、この当然なる批難によって、大衆が糾弾する事態になるのを、彼が悔い改めつねに新鮮で新しいパンチを生みだす日本の朔日〔新暦のことか〕がめぐってくるまで待つように処置した。  

 日本の彫り師がカンマやピリオド、クォーテーションマークなどを見落としていたりするのかもしれない。後半部分のパンチが、『ジャパンパンチ』の新号という単純な意味なのか、日本でしょっちょう年号が変わっていたことへの揶揄なのかも不明だ。『ジャパンパンチ』を老後の楽しみで翻訳してみたいと、ひそかに思っているのだが、多くの人のお知恵を借りなければ難しそうだ。

『復刻版ジャパンパンチ』2巻(雄松堂)より、
 1869年8月号

『Far East』1871年7月17日号

2021年11月27日土曜日

『中村屋のボース』

 翻訳中の本の参考文献として、中島岳志の『中村屋のボース:インド独立運動と近代日本のアジア主義』(白水社)を再読した。単行本がでたころ、ちょうど『インドカレー伝』(コリンガム著、河出書房新社)を訳していたために、興味をそそられて一読したことがあった。若い研究者がこのような作品を書きあげたことに敬服した記憶はあるが、当時の私には時代背景がまるで理解できなかったので、玄洋社・黒龍会という怪しげな団体と新宿中村屋の関係どころか、この本の主人公であるラース・ビハーリー・ボースと、インドのもう一人の革命家チャンドラ・ボースとの関係も、いつのまにか頭のなかでごちゃごちゃになってしまった。  

 多少、当時の背景が飲み込めてきて、チャンドラ・ボースもやはり日本に葬られていることを知ったあとで、それでインドカリーのボースのほうは何だったんだ?と思い、もう一度、隙間時間に読み直してみた。  

 両ボース(チャンドラとR. B.)はともにイギリスによる植民地支配から抜けだそうと、インドの独立を模索したナショナリストの革命家だが、別に親戚ではなく、実際にはほとんど互いに接点がなかった。当時のインドでは、マハートマー・ガーンディーによる非暴力、不服従による独立運動が多くの支持を得ていたが、両ボースのように、「非暴力主義ではインドは独立できない」と考え、テロを辞さない活動家も大勢いた。  

 フランス東インド会社の領有地だったシャンデルナゴルで育ったR. B. ボースは、高等教育を受けていない非エリートで、彼が革命家として目覚めたきっかけに、『バガヴァッド・ギーター』で説かれた「自己犠牲の精神」(Atmasamarpana)があったという。神への服従という意味らしく、ガーンディーの抵抗運動の根底にもこの精神があったようだし、ジハードにも、特攻隊にも、通ずるものがあると思う。ボースは「近代の〈個人主義〉を〈己のために他を犠牲にする〉ものと措定し、それに対して〈他のために己を犠牲にする〉〈家族主義〉を人類の理想と捉えていた」という。 

 ハーディング・インド総督暗殺未遂事件や、ラホール兵営反乱事件を引き起こし、イギリス政府のお尋ね者となったR. B. ボースはラビンドラナート・タゴールの親戚と偽って日本に亡命した。1915年6月5日のことだ。その彼がまず頼ったのが当時、日本に滞在中だった孫文であり、その伝で玄洋社の頭山満と知り合い、頭山からの依頼で彼を匿ったのが中村屋の相馬愛蔵・黒光夫妻だった。日本は当時、日英同盟を結んでいたので、ボースには国外退去命令がだされた。  

 R. B. ボースを支えつづけた玄洋社は、1880年、西南戦争に呼応して決起し、敗北した福岡藩士を中心に結成された日本初の右翼団体だった。『中村屋のボース』によると、「彼らにとって重要なのは、思想やイデオロギー、知識の量などではなく、人間的力量やその人の精神性・行動力にこそあった」という。頭山らにとって、ボースの「政治的・思想的発言は一貫して重要なものではなかった。[……]彼らにとって重要だったのは、イギリスの植民地支配によって悲惨な状況におかれているインドの革命家が、日本に期待をかけている姿によって自尊心が満たされることであり、その人物を自分たちが劇的な形で保護したという美談によって、自らのアジア主義的行動が、意義あるものとして正当化されることであった」という著者の分析は鋭い。

 一方のボースは、人間存在の本質は宗教的「神性」にあり、それを欠いた人は「人間の形は備えて居ても、人間と認めることは出来ない」としていた。そこに頭山らと相通ずるものがあったのだろうか。彼はまたコミュニストの唯物論には賛同しないものの、ロシア革命については「侵略主義の人々のあとに自由主義の人々が政権を握るに到った」として高く評価しており、イギリスを主要な敵とする対外戦略を進めていたソ連は、彼にしてみれば戦略的な利害が一致していたという。冷戦時代に生まれ育った世代にとっては理解しにくいが、イデオロギーなど当時の人びとにとってはこの程度のことだったのだ。  

 ボースはやがて地下生活を支えてくれた相馬家の娘、俊子と結婚し、第一世界大戦後にはもはやイギリス政府からも追われなくなり、自由の身となって一男一女をもうけ、日本に帰化した。しかし、つかの間の幸せな暮らしは、1925年に俊子が肺炎で病死したことで終わりを遂げた。その後も、子供たちを育ててくれた相馬夫妻との縁は切れず、中村屋を支える意味でも、看板メニューとして売りだされたのがR. B. ボース直伝の「恋と革命の味」と言われた「インドカリー」だった。  

 コリンガムの『インドカレー伝』を訳して以来、カレールーもカレー粉も使わなくなった私だが、ちょうど多忙な折でもあり、新宿中村屋の「極めるインドカリー」を買って味見してみた。レトルトにしては具がたっぷりだったが、何かのスパイスが効きすぎて味が単調になり、自分でつくる自己流カレーのほうが、それぞれのスパイスの微妙な香りと素材の味が楽しめてよほど美味しいと思った。  

 それはさておき、祖国インドには帰れないまま、インドの独立のために日本を動かそうと働きかけるボースにとって、その後は歯がゆい日々がつづいた。1924年に日本を再訪した孫文は、アジア主義を掲げる頭山らすら、中国にたいする不平等条約である対華21カ条要求の撤廃に動かないことに業を煮やし、日本は「いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか」と迫った。孫文の死から1年後の1926年3月に、ボースは『月刊日本』で「声を大にしてアジアの解放、有色人種の大同団結を説く日本の有識階級諸公にして、猶中国人を侮蔑し、支那を侵略すべしと叫び、甚だしきに至りては、有色人種は性来、白人に劣るの素質を有するが如くに解する」と糾弾した。

「大東亜共栄圏」の胡散臭ささを見抜いていたにもかかわらず、ボースはインドの独立を達成するには武力が必要という信念から、日本政府と軍との関係をつづけ、東南アジアで日本が占領した地域のイギリス領インド軍捕虜のなかから、インド人の志願者を募ってインド国民軍を編成した。しかし、1943年にはすでに50代なかばで、健康状態も悪化していたボースは、日本の傀儡と見なされ、インド人からの信頼が得られず、代わりにインド国民軍を率いる指導者として招聘されたのが、チャンドラ・ボースだった。悪名高いインパール作戦では、このインド国民軍が日本軍と行動をともにしていたのだ。  

 R. B. ボースは1945年1月に58歳で病死し、多磨霊園に葬られたようだ。一方、チャンドラ・ボースは終戦後の8月18日、活動の場をソ連軍の占領下にある満州国に移そうとして台湾から飛び立ったが、飛行機事故死した。遺骨は日本に運ばれ、杉並区のお寺に埋葬された。 

 本書には大川周明も随所に登場し、R. B. ボースが大川の故郷の酒田に講師として招かれた際に、「広茫たる田野を見て、私は故国印度の光景を想起せざるを得なかった」と書いたことなどにも触れられている。大川周明は私にとって謎の人物だが、東京裁判で東條英機の頭を叩いただけの人でないことが、少しばかりわかった。いつかまた、読み直してみよう。

『中村屋のボース: インド独立運動と近代日本のアジア主義』(中島岳志著、白水Uブックス)
元ホスト・ファーザーが送ってくれたベンガル・スパイス・ティーを飲みながら、このところベンガル語の発音と格闘している。ボースも本来はボシュのほうが近い。

2021年11月14日日曜日

七五三

 10月に早めに済ませる予定が、天候その他の事情で延び延びになって、先日ようやく孫の3歳の七五三のお祝いをすることができた。この子が育った3年間は、その大半がコロナ禍に見舞われ、最初のうちは公園の遊具に触れることすらできない日々がつづいた。この3年間に親族や親しい人が何人も鬼籍に入ったし、施設に入所した人もいた。そんななか、ほぼ毎週、電車を乗り継いで横浜まで通ってきては子守をしてくれた老母が、無事にひ孫の晴れ姿を見ることができたのは何よりも嬉しかった。  

 この日、孫が着た濃いオレンジ色の着物は、年の離れた私のいとこたちが着たもので、私の娘も、姪たちも、それぞれ3歳の七五三をこの着物でお祝いをした。娘と姪っ子たちは体格がまるで違い、3歳にして10cmも身長差があったので、同じ着物姿の写真を見比べては、袖や被布の下から覗く着物の長さの違いを見てよく笑ったものだった。今回、叔父夫婦に頼んでいとこたちの古い写真を探しだして送ってもらったところ、全員の写真を娘が上手に並べてくれた。それぞれに違うけれど、同じ晴れ着姿の童女が6人も勢ぞろいして、何とも楽しい写真ができあがった。  

 最初の持ち主だったいとこは、赤っぽい着物とオレンジの着物のどちらがよいか聞かれたらしく、「自分が好きなものを選んだ!」という満足感とともに、この着物を買ってもらった3歳当時のことを、いまもよく覚えているそうだ。しかも、どうやら購入先は別の叔父が勤めていた大丸だったようなのだ。大丸はもともと大阪の呉服屋から始まった会社で、私にとっては大丸とのかかわりは二重に意味があった。  

 私の高祖父、門倉伝次郎が師事した佐久間象山は、吉田松陰の下田踏海事件に連座して8年間、松代で蟄居したのちに、元治元(1864)年春に一橋慶喜に招かれ、京都入りした。赴任先から妻のお順(勝海舟の妹)に宛てた手紙に「此地にて大丸店にて袴羽織肩衣用意致し候」ところ、30両もかかって肝をつぶしたと書き送っていたのだ。象山はこの手紙からわずか数カ月後に、尊王攘夷派テロリストに暗殺されてしまうのだが、明治の錦絵に描かれたように、洋装で西洋馬具を付けた白馬にまたがっていたわけではなく、「黒もじ肩衣、萌黄五泉平乗馬袴、騎射笠、めりやす、黒塗鞭、黒塗沓、西洋馬具」といういでたちだった。その着物が大丸で誂えたものかどうかは不明だが、可能性はあるのではないか。乗馬も都路という名の栗毛馬だった。

 一方、高祖父が仕えた上田藩主、松平忠優(のちに忠固)は、若くして正室を亡くしたのちに大坂城代を務め、産物会所をつくって上田の産品である紬織物「城代縞」の販路を開拓していたころに、おとしという側室を迎えた。おとしは少なくとも2男2女を産み、息子の1人が上田藩の最後の藩主、忠礼となった。そのおとしの出自については、上田藩士の娘という説と「呉服屋大丸の裁縫を引受る職人の娘」(『上田縞絲之筋書』)の2説あり、諸々の状況から後者の説に分があると私は見ている。ちなみに松平忠固は、日米和親条約と日米修好通商条約に老中としてかかわり、開国を断行した当人と言うべき人だ。  

 長年、大丸に勤めた叔父は、こうした経緯を何も知らないまま定年退職後まもなく難病を患い、苦しい闘病のあと他界した。祖先について調べた際に、2度も大丸の呉服に関する記述を目にし、そのたびに何かしら不思議な縁を感じていた。今回、その伝次郎の子孫たちが40年以上にわたって代わる代わる着てきた晴れ着が、大丸で購入したものだったと知り、亡叔父に伝える意味でも、どうしてもブログに書き留めておきたくなった。  

 七五三の準備をするために、姉が保管してくれていた着物をもらい受けに行ったところ、共布の巾着と、娘たちが付けたリボンが見当たらなかった。どうせなら、ゆらゆら揺れる「下がり」の付いた髪飾りにしたいし、10月なら色もオレンジの金木犀がいいと思って探したが、これぞと思うものがない。作り方サイトや動画などを見ると、つまみ細工は簡単そうに見えた。 

「下がり」にこだわったのは、以前に鮮卑の歩揺という飾りについて調べたことがあったためだ。本来は薄い金属片でできた飾りで、歩くと揺れて光るだけでなく、おそらくチリチリと金属音もしたのではないかと思う。歩揺に興味をもったのは、うちにある昭和初めのお雛様が、そんな垂飾の付いた冠をかぶっていたからだ。金属音を立てるという意味では、埴輪の馬が着ける馬鈴も、チャグチャグ馬コの鈴も、魔除けか、神への呼びかけか知らないが、何かしら意味があったはずだ。つまみの「下がり」では音が鳴らないので、昔買ったタイの山岳民族の刺繍入りのシャツについていた鈴も付けてみた。  

 ところが、予定以上に苦労してできあがった髪飾りを見せると、孫は顔を曇らせ、「オネンジはヤなの。青が好きなの」と、切々と訴えるのだ。どういう青がいいのかと聞くと、近所の果樹園のネットや、近所のスーパーBig Aの看板の、いかにも人工的な青がいいと言う。着物の濃いオレンジとはどう考えても合わないが、着る本人の希望を少しでも叶えようと、家にあったそれに近い色のリボンで大きめの花をこしらえ、お団子に結った髪に留めてやった。  

 当日の朝は、逃げ回る孫をなだめすかして椅子に座らせ、娘が慣れない手つきで髪を結うあいだ、可能な限り頭を動かさないように、あの手この手で釣り、何とか着物も着せて近所の神社に連れだした。11月に入ってさすがに金木犀の最後の花も散ったあとだったが、常緑樹や針葉樹の多い深緑の境内のなかでは、鮮やかなオレンジの着物がじつによく映えて、ちょこまか動く小柄な孫は、茶運び人形のようで何とも愛らしかった。この先、どんな世の中になるのか見当がつかないが、たくさんの人の思いを受け継いで、ちゃんとばあさんになるまで無事に生きてくれるようにと祈った。

同じ着物を着た代々の子供たち

老眼を酷使してつくった髪飾り。楽天ポイントを使ってほぼ無料でちりめん生地を10cmずつ買い、手持ちのビーズと合わせ、100均のコームに付けたので、制作費は300円以下!

孫の心を捉えているらしい近所のスーパーの看板

2021年11月3日水曜日

東京都立中央図書館

 広尾の有栖川宮記念公園内にある東京都立中央図書館に初めて行ってきた。父方の先祖をたどるために佐賀の歴史関連で調べたい本が何冊かあり、そのほぼすべてがこの図書館に揃っていることを発見したのだ。ところが、11月11日から年始まで工事等のため休館となるというので、遅れている仕事を挽回するための貴重な祝日だったが、頑張ってでかけてきた。時間がなかったので、他県の資料を見る暇もなかったが、地方史関連の蔵書はかなり充実しているのではないだろうか。嬉しいことに、私の『埋もれた歴史』もちゃんと明治維新関連の書籍のあいだに並んでいた!  

 じつは何年か前に『佐賀藩多久領の研究』(三木俊秋著、文献出版)という本を古書で手に入れていたが、そこでは祖先らしき人の名前は一カ所しか見つからなかった。「献金による身分獲得」という明治2年6月の記録で、「東郷初太郎」という名前が「梶原九郎左衛門被官」の一人として書かれ、その隣に「南里吉左衛門」という名前が並んでいた。この組み合わせにピンときたのは、父の家に残された記録では「東郷初五郎」の妻が南里千代で、その父が南里吉左衛門だったからだ。「五」と「太」の崩し字を読み違えたと考えれば、ここに並ぶ2人が私の祖先である可能性は非常に高い。  

 この本には被官は「大庄屋・小庄屋・横目・村山留・咾等の村役人、あるいは領主の艫方・舸子・天下荷物宰領役等の公的な役目について、領主より扶持米を貰っているばあいもある」などと書かれていたが、要は「被官=家来=召使」であるようだった。  

 こんなことを調べる気になったのは、曾祖母は「多久藩の家老の娘」と聞かされていたからであり、アルゼンチンの親戚からも祖先は侍なのかと質問されたためだ。まず、曾祖母だと明治以降の生まれで、すでに「家老」は存在しないので、少なくとも高祖母だろうと私は踏み、墓石に南里氏千代と刻ませていた人が、可能性としていちばん高そうだと考えた。その後、「多久藩」ではなく、「佐賀藩多久領」であることがわかり、多久邑の家臣団の家老は軒並み多久姓だったので、その時点で家老説は私のなかでは完全に否定されていた。  

 少し前に佐賀県立図書館データベースというサイトも見つけ、南里吉左衛門の名前では『佐賀藩多久領の研究』のページしか検索されないことが確認できたので、千代さんの父親は初五郎と同等の「被官」なりたて、という身分だったと言えそうだ。もっとも、南里姓なので、下級武士の次男や三男だったのかもしれない。そこまで判明したら、あとは2人の主人である「梶原九郎左衛門」がどういう人だったのか調べる以外にない。それが本日、都立中央図書館まで行った大きな目的だった。データベースのおかげで調べるべき書籍もページ数もわかっていたので、効率よく調査できた。  

 梶原九郎左衛門に関してはそれなりに記録があり、しかも慶応4年正月に大坂か京都、もしくは長崎で情報収集に走っていた人のようだ。慶喜の回天丸による東帰を含め、戊辰戦争の重要な出来事を随時、多久六郎左衛門宛に書き送っていて、史料として貴重であるという。多久邑の第11代領主多久茂族は官軍側で会津攻撃をした人で、松平容保父子と重臣5人を東京まで護送してもいた。そのなかに梶原九郎左衛門がいたかどうかは不明だ。いずれにせよ、私の祖先たちがこの梶原の家来になったのは明治2年のことなので、そうした活躍がすべて終わってのことだろう。  

 都立図書館には『多久の歴史』という昭和39年刊の非売品の書籍もあり、思いの外、多くの情報が得られた。親戚からは曾祖父が炭鉱に手をだして失敗し、痛い目に遭ったと教えられていた。多久では明治3年から石炭採掘が始まり、11年には19の炭鉱があり、「主として、現在の高木河内、莇原附近に集中していた」という。そのあとにつづくリストには確かに、小侍宿の西南端の観音山炭鉱や、同西の鼠喰ひ炭坑、莇原の柚の木原炭坑などは「出炭なし」と書かれているので、掘ってみたものの外れのところもあったようだ。だが、このリストの炭坑はいずれも明治11年までに開業で、曾祖父は同8年生まれで、34歳で早世している。となると、炭坑に手をだしたのは高祖父で「被官」の初五郎だったかもしれない。  

 佐賀の叔父の家で見せてもらった『多久市史』も、都立図書館に全巻揃っていた。1年ばかり多久市長を務めた祖父については、その「人物編」で読んでいたが、ほかにも「現代編」で若干触れられていた。昭和29(1954)年に多久の5つの町村が合併する際の協議会の会長に、当時北多久町長だった祖父が選ばれ、合併前の五町村の全議員100人で残る任期をまっとうすることになり、その第1回の市議会で、祖父が市長職務執行者として承認されたのだという。その3年前、終戦の翌年には、多久は「文化、芸術の分野では未開の土地柄」であるため、「文化、芸術活動における欲求」が芽吹いてきて「北多久町文化連盟」が結成され、祖父を初代会長にして公民館をつくる運動をしたようだが、「せっかくの試みも会員の確保など組織維持が困難になり、一年足らずで解散した」そうだ。  

 前述の『多久の歴史』にも、祖父の人物紹介のページがあり、昭和35(1960)年に市長に当選したあとの7月の定例市議会の演説の抜粋が掲載されていた。「第一に、市政を執行する心構えとして『正しい市政、明るい市政、誠実な市政』の三つをあげております」と、いかにも無難なスピーチをしたようだが、「すなわち『正しい市政』とは、公正であり、一方に偏しない妥当性のある市政の意味であり、『明るい市政』とは、市政について民主主義の趣旨にそい、あらゆることについて話し合いの場を作り」云々とつづく。当時の時代背景でそれが斬新なことだったのか、すでに耳にタコができそうな道徳のお話となっていたのかはわからない。さらに「昭和三十七年八月七日東郷市長は、激務のため久留米大学附属病院に入院加療中であったが、治療のかいもなくついに不帰の客となられた」と、締め括られる。 

 私の姉は、この祖父からもらったという、妙なオレンジ色の藁入りで重いクマのぬいぐるみをもっていて、私にはそれが『ももいろのキリン』の意地悪なオレンジのクマとも重なって、幼な心に近づき難い存在に感じられた。半世紀以上の年月を経て、会うことのなかった祖父について読むのは、なかなか不思議な感覚だ。  

 佐賀県立図書館データベ-スでは、曾祖母の名前も検索されていたので、かなり期待して『多久市史』のそのページを開いたのだが、下川内というところにある阿弥陀如来の石像の寄進者の一人だった。まだ残っているだろうか。  

 そんなわけで、2時間もかからずに無事にコピーも取り終え、「宮さん、宮さん」の有栖川宮像を見上げながら、元南部藩下屋敷という公園内を抜けて帰宅の途に就いた。周囲は何度か通ったことがあるけれど、公園内入ったのは今回が初めてだった。

 東京都立中央図書館

『埋もれた歴史』発見!

『多久の歴史』は安価な古本を見つけたので、購入した。

 宮さん、宮さん

2021年10月15日金曜日

カタカナ表記、再び

 こんなことを書いている暇があれば、1ページでも多く校正に精をだして、チャッチャッと仕事を片づけるべきなのだろうか、つい気になってあれこれ調べたりしてしまう。今回、つまずいたのは、またもやと言うべきか、カタカナ表記のことだ。  

 発端は、少し前の歴史の研究会で聞いた「カムチャツカ」だった。この表記を目で見ることはあっても、耳では「カムチャッカ」以外に聞いたことがなかったので驚いた。改めて調べてみたら、昨今は「ツ」表記が一般的に変わったのだという。舌を噛みそうな名称のほうが優勢になっていたのだ。ロシア語Камча́ткаの発音を聞いても、この地名の語尾はtkaであって、決してtskaではなく、大半の日本人の耳には小さなtの音は聞こえないので、促音で表記したほうが断然近い。  

 通常「ウォッカ」と表記されるводкаの語尾も発音は同じくtkaである。この飲み物を「ヴォトカ」と書く人はかなりいるが、「ウォツカ」や「ヴォツカ」は個人的には見たことも聞いたこともない。発音しづらいため、つい力が入る「ツ」よりは「ト」のほうが小さく聞こえ、そのためロシア語の発音にはこのほうが近い。ついでながら、語頭のв音は英語のvと同じ音なので、ウォではなくヴォが正しい。 

「カムチャツカ・ウォッカ」という飲み物も実在するようだが、これなどは耳で聞くと「カムチャーッカ・ヴォッカ」または「カムチャートゥカ・ヴォトゥカ」と聞こえる。同じ発音にたいし、違うカタカナ表記を普及させ、しかもわざわざ不自然なほうの表記に変えるというのは、いったいどういうわけなのか。  

 カムチャツカ/カムチャッカは頻出度の高い地名なので、これで決定と言われれば、「ベトナム」や「ロサンゼルス」や「ツバル」のように、たとえ変だと思っても従わざるをえない。そう思って諦めかけたところ、今度はラテン語名でつまずいた。Marcus Terentius Varroという古代ローマの学者だ。この人の苗字はウァロ、またはウァッロが一般的だというのだ。「ウァ」などというカタカナ表記は、通常は見かけない。なぜ「ワロ」や「ワッロ」ではいけないのか。古典ラテン語のv音は英語のw音と同じだが、英語のwhatやWashingtonを「ウァット」、「ウァシントン」と書く人はいない。古典ラテン語の発音を聞いても、「ウア」と二重母音に聞こえる訳でもない。「ウィ」、「ウェ」、「ウォ」は日常的に使われるが、「ウァ」は普段は決して見ないだけに抵抗がある。なぜ古典ラテン語の表記だけそれほどこだわるのか。  

 以前にロシア語の音写でも「ズィ」や「スィ」、「ルィ」などという表記をよく見て、ここまで言いだしたら「ケンズィントン」とか「スィンガポール」などと書かなければならなくなると思い、却下した覚えがある。  

 そんなことをブツクサ言いながら検索したら、ジャパンナレッジのページに、原則としてウ濁は使わないが、ラテン語の「ウァ」、およびドイツ語等の「ウィ」「ウェ」「ウォ」は使う旨が書かれていた。昨今の傾向は、この辺りに起因しそうだ。それもこれも、「ヰ」「ゑ」「を」の音を明治期になくしてしまったツケと思うが、「ワ」は残っているのになぜそれをわざわざと、つい思ってしまう。  

 今回、westの表記も「ウエスト」と「ウェスト」で揺れていると指摘された。これなども改めて考えてみると、二重母音ではないのだから「ウェスト」とすべきだろう。しかし、胴まわりのほうのwaistはどうすればよいのか。発音からすれば、本来ならウェイストと表記すべきなのに、これはもう絶対に「ウエスト」が定着している。しかも昨今は廃棄物のwasteの表記として「ウェイスト」が多用されているようだ。となればなおさら、西は「ウェスト」で統一するしかない。 

「クオーツ」、「クォーツ」でも悩まされた。英語のquartzの音からすると、「クウォーツ」と書きたいところだが、この表記は好まれないようだ。語頭のkwの二重子音はわずかながら二音に聞こえるので、「クオーツ」のほうがよさそうだ。そもそも「クォ」などという例外的な表記は使わないほうがいい。 

「ヱ」つまり「イェ」も、明治期に迫害された音の一つだ。そのせいで、イェール大学にすべきか、イエール大学か、エール大学なのかと、つまらないことに時間を使わされる。エール大学は、ビールのaleのように聞こえるので避けたい。小さい「ェ」を表示したくない人は「イエール」と書きたがるが、「イエ」と二重母音であるわけではないのため、これも好ましくない。やはり「イェール」がよさそうだ。  

 とりあえず、あれこれグタグタと考えたおかげで、自分の頭のなかだけは整理された。大原則は現地音に近い音を、アクセントや音節にも留意して表記するよう心がけ、かつやたら例外的な表記は避けることだ。カムチャツカとウァロは覆したいところだが、どうなることやら。

「カムチャツカ・ウォッカ」の画像でもあればよかったのだが、これは近所で見つけたミシオネス産グリーン・マテ茶。

2021年10月3日日曜日

サン・イグナシオ

 図書館から借りたアルゼンチン移民史の本の参考文献にあった書籍を、いくつか拾い読みするうちに、かなり意外な事実がわかったので書いておく。  

 1960年に当時、日本海外協会連合会(JICAの前身)が発行した『アルゼンチンは招く:ミシオーネス州と日本人』という冊子がPDFで公開されていたため読んでみたところ、私の大叔父が入植したミシオネス州サン・イグナシオは、「サンタ・アナより十五キロ離れ、国道十二番線に沿った歴史上有名なヘスイータ教徒の伝道の旧跡〈ルイナ〉のあるところである。ルイナとはサン・イグナシオの廃墟のことである」と書かれていたのだ。  

 ミシオネス(布教地域)という名前からも、イグアスの滝があるアルゼンチンの最北部にあってブラジルとパラグアイと国境を接していることからもある程度は想像がついていたが、この一帯は植民地時代を通じてポルトガルとスペインのあいだの紛争がつづいた場所で、1610年にイエズス会が「この係争地帯の土人の教化をスペイン王の名において委任を受け、大いに布教に務めた」土地だったという。レドゥクシオン(reduccíon)またはミシオン(ミシオネスの単数形)と呼ばれる先住民教化集落が、この数カ国にまたがる国境地帯のラ・プラタ地域に30カ所築かれ、サン・イグナシオに残る廃墟、サン・イグナシオ・ミニはその1つだった。この遺跡は保存状態のよさで抜きんでており、1984年にミシオネス州のサンタ・アナなど数カ所の遺跡とともに「グアラニーのイエズス会伝道所群」としてユネスコの世界遺産に登録されている。  

 いくつかの動画を見ると、広大な敷地に赤っぽい砂岩のブロックを積んで建てた教会と、修道院の回廊のような遺構が残っていた。興味深かったのは開口部の上部がアーチではなく、まぐさ石が使われていることだ。イペのような太い木材で代用されているところすらあった。設計者はイタリア人だが、恒久的な拠点にはならないと、どこか予期していたのかもしれない。 

「ラテンアメリカの先住民のキリスト教化のプロセスとその帰結を探る」(2015年)という早稲田大学の武田和久氏のインタビュー記事を参照させてもらうと、グアラニー族はラ・プラタ地域の先住民で、イエズス会士が17世紀初頭から150年にわたってこの現地民を教化する過程で、ブラジルのサンパウロ在住のポルトガル人の遠征部隊に対抗するために、グアラニー族にヨーロッパ式の軍事教練を施したのだそうだ! 

 グアラニー族はやがて、ポルトガルとスペイン双方の支配にたいする反乱を画策し始め、1756年にはグアラニー戦争と呼ばれる武力衝突が、ブラジル内の7つのレドゥクシオンと、ポルトガル–スペインの連合軍とのあいだに生じた。「一七五〇年に、ポルトガルとの紛争事件解決の条件として、その教化区域の一部を、スペイン政府がポルトガルに譲渡したことによって土人の反感を買い、その協定の実行を阻止せんとしてグヮラニー戦争となり」と、JICA(正確には海協連)の冊子は書く。 

「イエズス会士は、反乱の影の首謀者とみなされ、厳しい批判にさらされました。[……]こうしてついに1767-68年にかけて、スペイン領全域からのイエズス会士の追放令が、時のスペイン国王から公にされました。この時すでに、イエズス会士は、ポルトガルやフランスならびに両国の海外領土からも追放されていました」と、武田氏の記事は説明する。  

 イエズス会はもちろん、イグナチオ・デ・ロヨラやフランシスコ・ザビエルによって1534年に創設されたカトリック教会の男子修道会で、サン・イグナシオも、私の母校上智大学の隣にある(但し別組織の)聖イグナチオ教会もこの創始者の名前を冠している。1549年にザビエルが鹿児島にきて以来、イエズス会を意味する耶蘇教が、日本では長いあいだキリスト教の代名詞だった。長崎などで幅広く布教活動をし、織田信長や豊臣秀吉に謁見したルイス・フロイスも、天正遣欧使節を送ったアレッサンドロ・ヴァリニャーノも、イエズス会士だった。ヴァリニャーノは「武力による日本・明国の征服を主張する」考えで、「九州のキリシタン大名を糾合し、長崎を軍事拠点とする考えであった」と、ウィキペディアの「イエズス会」の項には書かれている。鉄砲の伝来が正確にいつだったのか、従来の定説が揺らいでいるようだが、日本で鉄砲が本格的に使われたのは1575年の長篠の合戦と言われるので、イエズス会がそこにどうかかわっていたのかは、調べてみたくなる問題だ。  

 ミシオネス州にあるサン・イグナシオ・ミニには、最盛期の1733年ごろには3000から4000人が暮らしており、その大半はキリスト教徒となったグアラニー族だった。イエズス会士が去ったのちも、現地民はここで暮らしつづけたという。まるで天草四郎の島原の乱のようだ。ここは1817年にポルトガル–ブラジル軍に破壊され、1897年に再発見されるまで、亜熱帯の密林のなかに埋もれて忘れられていた。1903年にアルゼンチンの詩人レオポルド・ルゴーネスが率いる探検隊がここを訪れたことで有名になったが、修復工事が始まったのは1940年代からという。何やらボロブドゥールの遺跡を発見したラッフルズのようだが、私の大叔父が入植した1927年にはまだこの遺跡は密林のなかにあったことになる。  

 ミシオネス州に最初に入植した日本人である帰山徳治について書かれた『原生林に賭けた生涯:ミシオネス移住の先駆者、帰山徳治』(帰山利子著、智書房、2002年)によると、1921年9月「当時、ミシオネスはまだ州ではなく、連邦政府が統括する直轄領」だったという。ちなみに私の大叔父の名前は、この書では間違って「不二夫」と記載され、JICAの冊子には「二夫」と正しく書かれており、どちらも1927年入植としていた。私の叔母は昭和2年に日本を発ったと記憶しており、叔父は昭和元年と聞いたそうだ。1926年末に出発して2カ月ほどかけてインド洋・大西洋経由でアルゼンチンまでたどり着いたのかもしれない。  

 JICAの冊子では、ミシオネス州ガルアペーに日本海外移住振興株式会社が3100ヘクタールの土地を買い、「八十家族を入植せしめる計画でありますが、現在僅かに二十六家族百三十九人が入植しているに過ぎない次第であります」と、外務省移住局長の高木公一氏が「序に代えて」として書いていた。『アルゼンチンは招く』というこの小冊子は、いわば宅地造成した不動産会社の入居者募集広告のようなものだったわけだ。私が生まれるわずか数年前の発行であることに驚かされる。  

 最後に、ウィキぺディアの「イエズス会」の項目によると、ナショナリズムのもとに王権が強化されたヨーロッパ諸国にとって、「教皇への忠誠を誓うイエズス会の存在は目障り」となり、最終的に諸国と教皇庁の力関係から、教皇クレメンス14世が1773年にイエズス会を禁止し、1814年にピウス7世によって復興が許可されたそうだ。  

 上智大学は1913年にイエズス会本部から215,000ドルを得て、これを元手に紀尾井町の校地を購入して創設された。ここは幕末まで尾張藩が中屋敷としてもっていた場所だ。私はイエズス会の神父さんたちから多くを学んだし、ピタウ学長がのちにイエズス会本部へ栄転になったこともよく覚えている。いまも上智大学に勤める弟からは、アルゼンチン出身の現在のフランシスコ・ローマ教皇がイエズス会出身であることを教えられた。史上初のイエズス会出身の教皇という。いろいろめぐりめぐって調べるべきことがまた山ほど増えた気がする。

サン・イグナシオ・ミニの遺跡
画像はウィキぺディアSan Ignacio Miníより拝借。

2021年9月24日金曜日

二夫さん追記

 アルゼンチンに渡った佐賀の親戚について調べていた際に、図書館にリクエストしていた『アルゼンチン日本人移民史』戦前編と戦後編(社団法人 在亜日系団体連合会、アルゼンチン日本人移民史編纂委員会刊、2002、2006年)が届いた。分厚い2巻ものなので、該当しそうな箇所だけを拾い読みした程度だが、「ミシオネスの日本人」という一節に私の大叔父の二夫さんと思われる人物に関する言及があった。  

 ミシオネス州「サン・イグナシオにおける日本人の発展をもたらしたのは山口喜代志である。山口は1910年に旅順丸でブラジルにわたり、1911年にアルゼンチンにやってきた。[……]山口は1925年にサン・イグナシオに入植し、養蚕用の桑を植え、ジェルバの栽培もはじめた。山口喜代志も日本人の入植者に協力を惜しまなかった。1926年ごろからサン・イグナシオに入植したのは以下の人々である」。このあとに13人の名前が列記され、そのうちの1人が「東郷不二夫」となっていた。次のページには1931年のアルゼンチン日本公使館の報告リストがあり、そこには入植年1927年の「東郷不二夫」、本人を含む家族数3、所有面積40ha、マテ樹木数8,000本と掲載されている。 

「原典で姓名の誤りとおもわれる部分は修正した」とあるので、不二夫は二夫だった可能性が高い。前述したように、二夫さんは1930年に入籍したが、妻はまだ日本に残っていた。長子は1934年生まれなので、入籍と同時に、同行した義弟の移民申請もだされ、それが公使館の記録となって「3人」世帯と認識されたのだろうか。  

 サン・イグナシオに最初に入植した山口喜代志は佐賀県出身なので、彼を頼ってのことだったかもしれない。公使館の報告書には、「日本人全員が永住の決意をいだき、異口同音に子孫百年の大計をたてると称して焦らず騒がず着実にその業務に従事していた。そして互いに助け合い、自家製の料理を持参しあっては農業の改善について話し合い、一獲千金を夢みる者はまったくいなかった」と書かれていたという。1931年時点で土地代を完納している人のなかに、二夫さんは含まれていないが、所有面積はかなり広いほうだ。  

 18世紀末にフンボルトとともにアルゼンチンと探検したエメ・ボンプランが、のちに入植してジェルバ(イェルバ)・マテという低木を栽培し、アルゼンチン現地民の飲料だったマテ茶を一躍有名にしたのは、サン・イグナシオのすぐ近くのサンタ・アナだった。私の娘はこの話を子供用の科学絵本で読んで以来、マテ茶を飲みつづけているのだが、二夫さんがアルゼンチンで生計を立てていたのが、このマテ茶だったようだ! 「マテ茶の原料となるジェルバ・マテは、〈オーロ・ベルデ(緑の金)〉と呼ばれた。[……]そしてこのジェルバ・マテを供給するのが、アルゼンチンの北部、パラグアイ、ブラジルとの国境がいりくむミシオネスである」と、移民史の本には書かれている。トラクターなどない時代、40ヘクタールもの土地を耕して、二夫さんが1人で8000本もの低木を植えたのか、それともその予定だったのか、いずれにせよたいへんな作業だったに違いない。  

 上下2巻のこの本に、二夫さんに関する情報はほかに見当たらなかったが、1939年5月9日付の『亜爾然丁時報』に掲載された〈サン・イグナシオ通信〉には、この地域の日本人会の名称を「アルトパナラ日本人会」と改称し、任期2年で幹事を5人選んだなかに二夫さんの名前があった。一緒に幹事を務めた土居祐緑、寺本芳雄の2氏の名前は1931年のリストにもあり、入植当初からの仲間だったようだ。1942年3月7日付の同紙には、「故三浦哲蔵氏葬儀及墓碑建造費寄付者芳名」のなかに、「拾五弗宛[ずつ]」を寄付したとして二夫さんの名前があった。移民して十数年が経ち、少し経済的に余裕がでてきたのだろうか。  

 戦前編には、初期の移民やその背景が書かれている。日本からの定着移民第1号は、1886年に入国したと言われる三浦の三崎出身の牧野金蔵だが、1989年に日本とアルゼンチンが正式に外交関係を結んだ2年後に最初に移民した2人のうち1人は佐賀県東択浦郡湊村(現在の唐津市湊)出身の16歳の若者、榛葉贇雄、もう1人は鳥海忠次郎という13歳の少年だった! 榛葉は少なくともかなり成功して、スペイン語の著作も数点残したようだ。その後、1904年に東京外語大出身の丸井三次郎と古川大斧が農商務省の海外実業練習生としてアルゼンチンに渡った。二夫さんがアルゼンチンを選んだ理由には、こうしたいくつかの前例があったからに違いない。1918年ごろのリストを見る限り、佐賀出身者はときおり見られる程度で、多くは沖縄、鹿児島、熊本、福島などからきていた。  

 二夫さんが移民を決意した理由が何だったかはわからないが、この時代に佐賀から東京の大学に進学していたとすれば、経済的に困窮した末ではなかっただろう。兄の嘉八は佐賀師範学校出なので、次男にはるかに教育費をかけたことになる。ただし、彼らの父親は炭鉱に手をだして痛い目に遭った挙句に、32歳(数えで34)で他界しているので、妹を含めた3人の子供たちは母親によって育てられている。アルゼンチンから私のもとに届いたメールには、この曾祖父母の名前が記されていて驚いたが、考えてみればそれが二夫さんの戸籍にあった唯一の日本の記録なのだろう。ちなみに曾祖父はなぜか戸籍では徳市なのに、墓標には徳一と記されている。曾祖母はスエというが、Sueを手書きした文字が判読しづらかったのかメールにはJueと書かれていた。前の記事に掲載した家族写真の前列のおばあさんがスエさんと思われる。  

 それにしても、南米大陸の大西洋側の南端にあるアルゼンチンは、日本からはおよそ行きづらい国だ。移民の多くはブラジルやペルーなどにいったん渡ったあと、アルゼンチンへ移動したという。インド洋周りで行く人もいたようだが、太平洋航路で移住した人びとは、1910年にアンデス山脈を抜ける鉄道トンネルが開通すると、チリのバルパライソから列車でアルゼンチンに入国したそうだ。ただし、冬季に積雪で汽車が突如、不通になり、雪のなかを徒歩でアンデス越えした人びともいた。  

 戦後編にもいろいろ興味深いことが書かれていた。戦後の日本人の海外移住は1947 年にアルゼンチンから始まったという。「戦後の日本人花嫁たち」という節には、「定住後に彼らが伴侶として求めたのが日本の女性だった。なんといっても価値観と生活勘を共有できる生活環境が整ったとき、多くの日本人男性は日本にいる親や親戚や知人に伴侶探しを依頼した。中には新聞広告で花嫁を募集した者もいた」と書かれていた。「いわゆる〈写真花嫁〉とか〈移住花嫁〉と呼ばれる女性の移住は、日本人移住者の間だけで行われたものではなく、アルゼンチンに大量移住したイタリア人をはじめ、スペイン人やポルトガル人などの社会でも実行されていた」ともある。 

「二世たちの歩み」という節には、私や弟がにわかにアルゼンチンの親戚探しを始めるきっかけとなった軍政時代のことも書かれていた。「軍事政権の前後に3万人の行方不明者が記録されていた。そのうち15名は日系人だった」。「ほとんどが戦前移住者の子供」だったという。こうした時代を親戚たちがどうくぐり抜けたのか、いつか話を聞けたらと思う。

『アルゼンチン日本人移民史』戦前編と戦後編(社団法人 在亜日系団体連合会、アルゼンチン日本人移民史編纂委員会刊、2002、2006年)

ミシオネス州のジェルバ・マテの大農園(画像は、WikipediaのYerba mateの項より拝借)
『亜爾然丁時報』1939年5月9日付(国際日本文化研究センターのサイトより拝借)

2021年9月20日月曜日

二夫さん

 私には会ったことがなく、その存在すらつい数年前まで知らなかった大叔父がいる。亡父と疎遠であったため、そもそも父方の親戚はあまりよく知らないのだが、この大叔父(二夫、つぎお)は1928年ごろにアルゼンチンに移民したきりとなっている。弟の話では、東京外国語学校(外大の前身)の西語学科をでて外務省に入り、その後、一念発起して海を越えたようだ。  

 たまたま弟と私は同じ時期にナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』を読んでいて、話は自然とこの二夫さん一家のことになった。弟は子供のころ、二夫さんの妻リンさんと末娘マリアが一時帰国した際に会ったことがあり、そのときの写真ももっていたが、詳しい事情は知らなかった。  

 アルゼンチンのミシオネス州にいたこの大叔父一家を頼って、父の姉も十数年間、地球の裏側にある彼の地に移住していたことがあったので、アルゼンチン生まれの子供たち、つまり私のいとこRaulたちなら詳しいだろうと久々に連絡してみた。だがあいにく、親世代が他界したあと、ミシオネスの一家とは言葉の問題もあって音信不通になってしまったとのことだった。  

 幸い、いとこの家には二夫さんが1969年1月に書いたという長い手紙が残されていた。明治生まれで、長年、日本を離れていた二夫さんの手書き文字は、古文書よろしく変体仮名が多く使われ、読むのにかなり苦労したものの、FB友たちの助けを借りて9割以上は判読することができた。そこには、アルゼンチンの日系人たちや家族の近況が事細かに綴られていた。  

 私の実家のアルバムには、アルゼンチンに渡った伯母夫婦の後ろに、日本人らしい若い男女が立つ写真が残されていた。いとこがもっている写真と見比べると、後ろの2人は二夫さん夫婦の上の子供たちである可能性が高い。だが、長女に関しては手紙のなかで言及がないので、ひょっとすると早世したのかもしれない。  

 いとこのラウルが子供のころ一緒に釣りに行ったという二夫さん次男のカルロスについては、「武州政府の水産局に席をおいて大学の方の研究室はムセオ〔博物館〕にあって」養殖に関連した研究をしていると手紙には書かれていた。カルロスに関しては、ラウルがネット上から彼の功績をたたえる小冊子(Ictiólogos de la Argentina, Carlos Togo, 2011)を見つけてくれた。そこには一目で親戚と思える顔立ちのおじさんの写真数点ともに、彼がラ・プラタ川流域で発見したらしいカラシン科淡水魚の新種、Hyphessobrycon togoiの写真が掲載されていた。ところが、書かれているスペイン語を自動翻訳してみると、家庭の事情で魚類の研究からは離れてしまい、そのためかつての同僚たちが2006年に彼の名を学名に付けて功績を顕彰したというもののようだった。

 二夫さん家族に関しては、祖父の除籍謄本にかなり詳しく記録が残っていたが、下のほうの子供たちは記録がない。ホセという名前だけが伝わっていた男の子は、どうやら考古学を専攻し、「昨年の休みは教授の供でサルタに古墳発掘に行って帰宅しなかったが、此度は年末に帰宅して一週間ばかり居て、又、休中はサルタ州」であることなどが、手紙から判明した。このホセに違いないと思われるDr. José Togoという考古学者が、昨年、日本の外務大臣表彰を受賞していたこともわかり、研究論文に書かれていたメールアドレスに連絡してみたのだが、いまのところまだ返答がない。  

 弟が子供のころに会ったというマリアについて、二夫さんは「これは宅での一番の才女だ。親が云ふのも変だけれ共(ども)、これは毛唐の中に押し出しても一歩もヒケをとらない。それに人気者で凡ての人に可愛がられる人徳もある」と一押しだった。マリアは法科で学んでいる。末娘が育つころには、現地社会にすっかり溶け込み、アルゼンチン人として互角に勝負できるようになったのだろう。  

 佐賀県多久市の父の実家で撮影された古い家族写真がある。初めてこの写真を見せてもらったときは、まるでフィリピンの一家のようで、さすが南国だと驚いた記憶がある。なかでもとくに目立つのが前列中央に、大正ロマン風の着物を着て座るつぶらな目の若い女性で、この人が二夫さんの妻リンさんではないかと気づいたのは何年か前のことだった。  

 この写真は子供たちの年齢から1933年ごろの撮影と推察されるのだが、二夫さんとリンさんの婚姻届は1930年にだされている。二夫さんが1969年の手紙のなかで、「アルゼンチンに来て此年で四壱年になる」と書いているため、彼が出国したのは1928年と逆算したのだが、リンさんと結婚するために一時帰国したのか、リンさんだけしばらく日本に残っていたのか等々、あれこれ頭を悩ませた。  

 しかし、いとこのラウルや弟と何度もメールをやりとりするなかで、驚くべき事実が見えてきた。二夫さんは1928年に日本を離れてからおそらく一度も帰国せず、数年後に、アルゼンチンから故郷出身のお嫁さんを探したのだろう。リンさんは、おそらく1933年ごろ、この写真が撮影されたのちにアルゼンチンへ渡ったに違いない。これはリンさんと、付き添いで渡った彼女の弟タケシ(のちにラウルらの父親となる)の壮行会の写真だったのだ。  

 手紙の最後に二夫さんはこう書く。「だが負けおしみで強がりでなくハッキリ言へる事は、俺にわ後悔はない。若き日の発願の眞念を一貫して遂行して来た現実をツクヅク眺めても一寸もミヂメな感慨わ起こらない[……]俺わ後幾年生があるか知れぬが一粒の麦となって此世を去って祖国日本の現状も豊かさの中の幸と不幸を見る。[……]現在の俺の只一つの希望わ、君達一家を中ツギにして故国日本にある目に見ぬ血縁の人々の[カ]俺達一家との、形にわ現われずとも、目にわ見へなくとも、強い一本の綱で結ばれて居る事と信ぢておる。又信ぢなければいけないと思ふ」  

 二夫さんやリンさんが存命のうちは叶わなかったが、いまはインターネットで地球の裏側も瞬時につながる時代だ。一粒の麦が見事に実を結んだような、アルゼンチンの親戚たちと、1世紀近い歳月を経て再びつながることができたらと願っている。そうしたらいつか、私もアルゼンチンまで行って、どことなく似た顔立ちながらスペイン語をしゃべる父のいとこたちや、私のはとこたちと会い、togoiと名前の付いた魚がラ・プラタ川で泳ぐのを見て、紀元前11,000年ごろとも言われるクエバ・デ・ラス・マノスの洞窟壁画を見て人類のグレート・ジャーニーを実感し、お土産には娘が愛飲するマテ茶を買い込もう。

追伸:ここまで書いた翌朝、ホセ東郷博士の娘さんからメールが入っていた!! 
 

多久にある父の実家の家族写真。画面中央の若い女性がリンさん。後列、左から2人目が弟のタケシさん、その右隣が私の祖父。祖母に抱かれているのが私の父

アルゼンチンに渡った伯母夫婦と、二夫さんの子供たち

2021年9月10日金曜日

益満休之助

 諸田玲子の『お順』を読んだ際に、『西郷を破滅させた男 益満休之助』(芳川泰久著、河出書房新社、2018年)という小説があることを知り、図書館から『山岡鐵舟先生正伝 おれの師匠』(小倉鉄樹著、島津書房、2001年復刻版)と、勝海舟の慶応4年から明治7年の日記である『勝海舟全集』19巻(勁草書房)と一緒に借りてみた。  

 益満休之助と山岡鉄舟は、先述したように過激な尊皇攘夷テロ組織、虎尾の会を結成していた仲間であり、この会のメンバーが幕末・維新史でどういう働きをしたのかは興味が尽きない。しかし、益満を主人公にした芳川氏の小説は、完全なフィクションで、構想を練るうえで著者が前提とした多くのことが、史実とされていることと食い違っていた。  

 江戸の無血開城に一役買ったと言われる益満は、その前年、西郷隆盛の命を受けて薩摩藩邸の焼き討ち事件という陽動作戦を実行して捕縛され、伝馬町牢屋敷に収監されていた。「処刑されるべきところを海舟が命乞いして自邸に預かっていたものである」と、勝部真長は海舟日記の解説に書く。実際の日記には3月2日の条にこう書かれていた。

「旧歳、薩州の藩邸焼討のおり、訴え出し所の家臣、南部弥八郎、肥後七左衛門、益満休之助等は、頭分なるを以て、その罪遁るべからず、死罪に所〔処〕せらる。早々の旨にて、所々へ御預け置かれしが、某[それがし]申す旨ありしを以て、此頃、此事 上聴に達し、御旨に叶う。右三人、某へ預け終わる」。徳川慶喜の許可を得て、という意味だろうか。  

 5日の条にはこうあった。「旗本・山岡鉄太郎に逢う。一見、その人となりに感ず。同人、申す旨あり、益満生を同伴して駿府へ行き、参謀西郷氏へ談ぜむと云う。我これを良しとし、言上を経て、その事を執せしむ。西郷氏へ一書を寄す」。3人の薩摩藩士のうち、旧知の間柄の益満を同行して西郷に会いに行きたいと言いだしたのは、山岡側と読める。  

 ところが、小説は勝が大久保一翁に推薦された山岡を呼び、勝邸で偶然、益満と鉢合わせたという呑気な設定で始まる。それでいて、山岡はその日、義兄の高橋泥舟に上野の寛永寺の大慈院に呼ばれ、慶喜から拳銃をもらったという筋なのだ。  

 勝海舟は後年、『氷川清話』で「山岡といふ男は、名前ばかりはかねて聞いて居たが、会ったのはこの時が初めてだった。それも大久保一翁などが、山岡はおれを殺す考へだから用心せよといって、ちっとも会はなかったのだが、この時の面会は、その後十数年間莫逆(ばくぎゃく)の交りを結ぶもとになった」と語っている。

 山岡鉄舟の内弟子だった小倉鉄樹が書いた『おれの師匠』(1937年刊)には確かに、「山岡が寛永寺閉居の慶喜公に謁見したのが慶長三年[慶応4年の間違いか]三月五日」とあるが、「山岡がどうして慶喜公に近づいたか、明かでない。おれも師匠からそれを聞きそくなった。『戊辰解難録』にもその辺の消息が記されてない」とつづく。

 山岡鉄舟が書いたとされるものの大半は、安倍正人という正体不明の人物が20代の2年間に7冊を立てつづけに出版した贋作なのだという(A. アンシン「山岡鉄舟の随筆と講和記録について」)。小倉もこの安倍による『鉄舟言行録』に関して、「此の書の出所が明かでないのと著者の安倍正人とかいふ男がどんな人か知らぬから信を置けない」と、疑問を呈している。山岡が実際に書いたと言われる2つの文書が収録されたのが『戊辰解難録』(1884年)で、そのうち「慶応戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(戊辰談判筆記)という文書が江戸無血開城の始末書を指す。  

 国会図書館デジコレで『戊辰解難録』を読んでみると、こんなことが書かれていた。「当時、軍事総裁勝安房は余、素より知己ならずと雖も、曽[かつ]て其肝略あるを聞く故に行て是を安房に計る。安房、余か粗暴の聞こえあるを以て少しく不信の色あり。安房、余に問曰く、足下如何なる手立を以て官軍営中へ行やと」。このときが両者の初対面であること、勝が最初は山岡を信用しかねて、意図や計画を問いただしたことなどがわかる。やがて、「安房、其精神不動の色を見て、断然同意し、余か望に任す。それより余、家に帰しとき薩人益満休之助来り。同行せん事を請う。依て同行を承諾す」とつづく。  

 『戊辰解難録』には、山岡が勝邸を訪ねた記述の前段に、「一点の曇なき赤心を一、二の重臣に計れども其事決して成難しとして肯せず」とあるため、一般には3月5日に上野で慶喜に謁見したあと、幕臣を何人か訪ねて交渉したあと勝を訪ねたと解釈されている。しかし、当時、大半の幕臣が番町や駿河台、神田小川町などに住んでいたことを考えれば、謁見と同日に、事情を説明しながら数軒を訪ねたあと赤坂の氷川の勝邸に向かって、夕暮れまでに着いたのかと疑問が湧く。身分証明書のない時代に、慶喜の命を受けて西郷の元に単身乗り込むならば、その旨を一筆書いてもらわなかったのか。慶喜の書があっても「一、二の重心」は協力しなかったのか、など腑に落ちないことは多々ある。  

 勝の記録と山岡の「戊辰談判筆記」は、このように微妙に食い違うので、当時の状況は詳らかにはわからないが、勝の「胆略」が益満らを預かっていることまで含み、それを事前に慶喜本人もしくは、側に仕えていた義兄の泥舟から山岡が聞いていた可能性は高いだろう。虎尾の会の仲間であることは、「余か粗暴の聞こえある」を気にしていた山岡にしてみれば、おおっぴらに自慢できる間柄ではない。益満は死刑囚であり、責任をもって自分の預かりとしたのに、その身柄を初対面の相手に委ねるうえで勝には相当な決心が必要だったはずだ。山岡の帰宅後、益満がふらりと一人で現われたと考えるのは非現実的だ。ここはやはり勝の日記が示すように、益満を同伴する策が山岡側からの提案であって、5日当日、彼が連れ帰ったのでなければ、山岡邸までは勝が誰か警護をつけて送りだしたと考えるべきだろう。2人が駿府に出立したのは翌6日なのだ。  

 この間の出来事を勝部氏は、益満という人物は「旧年中の西郷の挑発行動──火つけ、強盗、押込みによる江戸市内撹乱のリーダー格である。この益満を同行して西郷に逢いにゆく事は、西郷の意表を衝き、西郷の一番痛い所、権謀術数の汚い面を海舟がすべて知っているぞと匂わすことである」と、解説する。  

 益満の小説では、慶応3年に西郷から江戸を掻き回すように命じられた益満や伊牟田尚平、相楽総三らは、「お国のために死んでくれ」と頭を下げられていたとする。虎尾の会の仲間だった伊牟田は慶応4年6月15日に強盗事件を起こして収監され、翌年7月に判決が下され、京都二本松の薩摩藩邸で自刃させられた。相楽は虎尾の会とは無関係の下総相馬郡の郷士で、赤報隊の隊長として東山動軍の先鋒となって活動したのに、のちに官軍の手で殺された。小説では益満も上野の戦いで西郷の「撃て」の命令のもとに殺されたのだが、じつはそこで九死に一生を得て名前を変えて生きつづけていた、という設定になっている。  

 だが、先述したように、益満は上野で死んだのではなく、5月15日に黒門前で負傷して横浜の軍陣病院まで運ばれ、そこで雨の日に病室の移転を希望したために、濡れた傷口が化膿して5月22日夕方7時ごろに死去したことが、昭和なかばに東大医学部で偶然に発見された病院の日記から判明している。郷里の鹿児島の草牟田墓地に彼の遺髪墓があるらしく、ネット上で見る限り、その墓標にもこの命日が刻まれていた。勝海舟も5月24日の日記に「昨日、益満休之助死す。此程、上野にて砲疵を受けたりしが、終に死せり」と、1日ずれてはいるが、書いている。西郷に意図的に殺されたわけではない。また、フィクションとはいえ、幕末のこの時代に西郷が「お国のために」というナショナリスト的な言い方を実際にしたのかという点も気になった。  

 このように、肝心の益満休之助に関しては、芳川氏の小説は重要な点を見逃したまま、奇想天外な筋を考案した感が否めないが、江戸の無血開城に関連してイギリス側の圧力があった点を思いださせてくれたことはよかった。私が祖先探しを始めた当初に購入した萩原延壽の『遠い崖:江戸開城』7巻を久々に読み返してみたら、よく理解できるようになっていた。いずれ、この観点からも調べ直してみよう。  

 芳川氏の小説は、中江兆民が登場するあたりから、ルソーの『民約論』(『社会契約論』)が明治の日本でどう受け止められたのかが描かれ、この辺の事情にはまるで疎い私としては面白かった。明治になる前に死んだ益満とは切り離して、中江を主人公にした小説にすればよかったのではないかと思った。  

 一緒に借りた2冊の書からは、多くの発見があった。お順が夫、佐久間象山の死後、腐れ縁のように付き合った村上俊五郎に関する記載は、どちらの書にも多々あったので、諸田氏はこれらを参照して小説にしたのだろう。 『おれの師匠』には、「鐡門の三狂」であり「鐡門の四天王」の一人であった村上政忠(俊五郎)に関する、かなりまとまった項がある。「三狂」は村上のほか、松岡萬、中野信成で、「四天王」はそれに「師匠の義弟に当たる石坂周造」が加わるという。松岡と石坂は村上同様、虎尾の会以来の仲間で、石坂周造の妻、おけいは、山岡の妻英子(ふさこ)の実妹という。つまり双方の妻が高橋泥舟の姉妹ということになる。  

 松岡萬については調べたことがなかったが、1882年3月に書かれたという「戊辰談判筆記」は、松岡から大森方綱なる人物が借り受け、おそらく本人の了承を得ずに無断で同年6月に最初に『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』として出版されたもののようだ(A. アンシン、「山岡鉄舟が書いた江戸無血開城の始末書」)。

 この文書がどういう経緯で誰に向けて書かれたかは不明だが、明治という時代ゆえか、慶喜にたいする山岡の本音なのか、「旧主徳川慶喜」と呼び捨てで書かれている点が気になった。実際、山岡の死期が迫った際に、徳川家達は見舞いにきたものの、当時まだ静岡にいた慶喜が上京した形跡はない。勝海舟は何度かやってきて、臨終前は「前日来二階につめきって居た」という。虎尾の会が倒幕組織だったことを考えれば、実際、山岡の立場は複雑だったに違いない。「余は国家百万の生霊に代わり生を捨るは、素より余か欲する処なり」というその一節は、いかにも明治の作文と思うが、幕末の山岡にすでに徳川家ではなく、日本の国民全体を救うという思想があったとすれば、勝海舟との共通点はそこにあったのだろう。

 1881年に明治政府が維新勲功を調査した際、山岡が「おれか。おれは何にもない」とにべもなく自身の功績を否定したため、岩倉具視が山岡を呼び寄せて話を聞いたという一件があったという。それが何かしらこの文書を書いたことと関係するだろうか。山岡は10年間という条件で宮内省に勤めて、1882年6月に辞職している。ところが、山岡が辞職させられたと勘違いして腹を立てた松岡が、「短刀を懐にして、岩倉さんを訪れた。岩倉さんを刺し殺して自分も死ぬ覚悟なのである」と、小倉は書く。もっとも、岩倉のほうが数枚上手で、うまいこと言いくるめられて帰宅した松岡は、今度は自殺未遂をする。このように、いかにも「三狂」なのだが、松岡から原稿が漏れた経緯には何かこうした事情も関連するのだろう。  

 同年秋ごろ、徳川家達が山岡の維新時の功労をたたえて贈った武蔵正宗を、山岡が自分などそれに値しないので、「誰か廟堂の元勲に差上げるのが至当である」と考えて岩倉具視に贈呈した。このとき岩倉が書かせたのが「正宗鍛刀記」という。またもや岩倉である。

「四天王」の1人で、日本で最初に油田を開拓した石坂周造についても、三十万円の借財を山岡が背負わされ、最後まで苦しめられたが、「山岡の死後徳川さんと勝さんとで整理したのであった」と、書かれていた。  

 一方の海舟日記で村上の名前が最初に見られるのは、慶応4年4月4日で、ただ一言、「村上俊五郎来る」とあり、25日には「山岡来る。市中取り締まり、石坂、村上の事相談」などとある。諸田氏の小説のように、3月5日に山岡が同伴してきたのかどうかは不明だ。5月14日には、「多賀上総宅、官兵焼打ち、我が宅へ乱入。刀槍、雑物を掠奪し去る。夕刻、村上俊五郎、田安へ来りその転末を話す」と、ほぼ小説にあったようなことが記されている。だがその後は「織田、村上俊五郎、金子押貸し、妄行の旨、申し聞る」(明治3年12月25日)、「浅野、村上〔俊五郎〕乱防の事内話。切腹或いは入牢然るべしと云う」(明治4年4月13日)、「山岡、村上〔政忠、海舟の妹お順の旧夫〕、水戸辺脱〔走〕中、発狂の儀なりと」(明治5年8月29日)、「村上俊五郎へ二百両遣わす」(明治6年4月17日)などの記述が増え、明治初期からとんでもない人物であったことがよくわかる。 

 諸田氏の小説のなかで、お順が兄の海舟をもう臆病だと思わなくなった象徴的な一件は、その現場を彼女が見たかどうかは別として、慶応4年4月10日の条にこう書かれていた。「此夜 思召しを以て御刀拝領。仰せに云う。頃日よりの尽力、深く感じ思召す所[……]此上言のかたじけな気を承りて、覚えず汗背、亦(また)感泣、申す処を知らず。明日城地の御引き渡しは頗る難事、唯一死を以て此上意に報答し奉らむか」  

 益満休之助について少し調べるつもりが、ずいぶんと多くの新しい発見があり、これでまたさらに読むべき本が増えてしまった。

2021年9月4日土曜日

『ショック・ドクトリン』上巻を読んで

 以前から一度読んでおこうと思いつつ、上下2巻の大作で、なかなか手がでなかったナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』(岩波書店、2011年)の、とりあえず上巻だけ目を通すことができた。翻訳の大先輩である幾島幸子さんが、村上由見子さんと共訳なさった作品であり、昨年から「コロナ・ショック・ドクトリン」などと言われだし、再び注目を集めていたのはよく知っていたが、少し前にリーディングをした衝撃的な本で言及されていたために、ようやく読んでみる気になった。下巻が読めるのはいつのことやらなので、忘れないうちにメモ程度に書いておく。  

 政治・経済分野の本は、正直言って苦手なほうだが、下訳時代に9/11以降のネオコンの台頭に関連して、プレストウィッツやエモットの本を訳したことはあったし、本書で克明に綴られる中南米の凄まじい状況も、チョムスキーの『覇権か、生存か』で苦労しつつ訳したこともある。  

 とはいえ、いずれも20年近く前のことであり、よく理解しないままに終わっていたので、ナオミ・クラインの非常に明解な説明と、読みやすい訳文のおかげで、ようやく少しばかり全体像が見えてきた気がする。1970年生まれの著者が、1973年のチリ・クーデターの背景に、アメリカの経済学者ミルトン・フリードマンと、シカゴ大学で彼の教えを受けたチリ人留学生たち「シカゴ・ボーイズ」がいたことを見事に説明してみせたのは、画期的なことではないだろうか。  

 1957年から1970年までにアメリカ政府の資金で学んだ約100人のチリ人留学生たちは、帰国するころには、「フリードマン本人よりもフリードマン主義に徹していた」という。つまり、徹底的な自由市場経済体制に国家を改造すべく目論む思想だ。しかし、チリでは1970年には経済の主要な部分を国有化する政策を打ちだしたアジェンデが政権の座に就いており、この政権を阻止すべく動いたのが、前年アメリカ大統領になったばかりのニクソンだった。それによってピノチェト将軍による軍事政権が樹立し、アジェンデ政権中枢部が殺害・拘束されただけでなく、1万人以上の市民が逮捕され、大勢の人がサッカー場で見せしめに虐殺されるなど、「抵抗は死を意味する」ことがチリ全土に示された。  

 そんな野蛮な独裁制を、なぜ自由と民主主義を標榜するアメリカが支援するのか。その理解に苦しむ現象のからくりを、本書は解き明かす。衝撃的な出来事を巧妙に利用する政策を、著者クラインは「ショック・ドクトリン」と名づけている。 「つまり、深刻な危機が到来するのを待ち受けては、市民がまだそのショックにたじろいでいる間に公共の管轄事業をこまぎれに分割して民間に売り渡し、〈改革〉を一気に定着させてしまおうという戦略だ」という。

 フリードマンの教義が前提とするのは、「自由市場は完璧な科学システムであり、個々人が自己利益に基づく願望に従って行動することによって、万人にとって最大限の利益が生み出される」という考えだ。インフレ率や失業率が上昇するのは、市場が真に自由でなく、何らかの介入やシステムを歪める要因があるからだ、というわけだ。著者は自己完結したこの教義を資本原理主義と呼ぶ。  

 資本主義と自由はイコールだと信じるフリードマンの教義は、実際には自由の国ではなかなか受け入れられず、「自由市場主義を実行に移そうという気のあるのは、自由が著しく欠如した独裁政権だけだった」。そのため、シカゴ学派の学者たちは世界中の軍事政権を跳び回ったのだという。  

 ニクソンはのちに、フリードマンの助言に従わずに賃金・価格統制プログラムを実施してインフレ率を下げ、経済を成長に転じさせ、フリードマンを激怒させたという。しかも、それを実施したのが、フリードマンの教えを受けた一人で、当時、新人官僚だったラムズフェルドだったそうだ。意思決定が複雑な民主主義国家では、外部から適切なブレーキがかかるという意味だろうか。  

 本書によると、フリードマンとシカゴ・ボーイズがピノチェト政権下のチリで実現したのは、資本主義国家ではなく、コーポラティズム国家なのだという。この用語の説明部分は何度読んでも意味がわからず、ネット上の定義もあれこれ読んでみたものの、著者の意図がいま一つ飲み込めなかったので、ネットで原文を探して自分なりに訳してみた。

「コーポラティズムはもともとムッソリーニが目指した警察国家モデルで、そこでは社会の三つの勢力である政府、財界、労働組合が同盟を組み、ナショナリズムの名のもとに秩序を保つべく三者が協力し合うものだった。ピノチェト政権のチリが世界に先駆けて実行したのはコーポラティズムの進化だった(…was an evolution of corporatism)」。この箇所が訳書では、「チリが世界に先駆けて発展させたのは、まさにこのコーポラティズムだった」となっている(上巻、119ページ)。 

「すなわち、警察国家と大企業が互助同盟を組み、第三の勢力部門である労働者にたいする総力戦をするために手を結び、それによってこの二者の同盟による国富の取り分を大幅に増加させるものだ」と、つづけば意味が通るのではないか。つまり、著者がこの言葉を従来の意味ではなく、労働組合と労働者を除外して、国家と企業だけが手を結んだ形態として使ったのだと解釈すれば、である。非正規雇用が増えて、組合幹部だけが国家と企業と結託するという意味なのか等々、いろいろ考えてしまったが、そうではなさそうだ。  

 たとえば、サッチャーはイギリス版フリードマン主義を導入して、公営住宅を安価で購入できるようにして、のちに「オーナーシップ・ソサエティ」呼ばれる政策を掲げたものの、就任3年後に支持率は25%にまで落ち込んだ。ところが、「コーポレート作戦」という、コーポラティズムを示唆する軍事作戦というショック療法に着手して、フォークランド紛争に勝利したため、支持率は59%に急上昇した。アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが「二人の禿頭の男が櫛をめぐって争うようなもの」と揶揄した、この紛争によって生じた混乱と愛国的熱狂に乗じ、サッチャーは強権を行使して炭鉱労働者のストライキを潰した。こうして、「民主主義国家でもそれなりのショック療法は実施できることを、サッチャーは身をもって示した」のだという。  

 レーガンとサッチャーの時代を経ると、「真のグローバルな自由市場を邪魔する者はいっさいいなくなり、制約から解き放たれた企業は自国内のみならず、国境を越えて自由に活動し、世界中に富を拡散することになった」。

 上巻にはチリのほか、インドネシア、アルゼンチン、ボリビア、南ア、さらには天安門事件や、ポーランドの「連帯」、ソ連崩壊など多岐にわたる事例に触れている。新聞やテレビで知っただけの歴史的事件が、クラインの解説を読むことで初めて、「そういうことだったのか!」と、目から鱗が落ちるようにわかってきた。ボリビアとポーランドでフリードマンに代わって暗躍した経済学者は、ジェフリー・サックスだった! 話題作となった『貧困の終焉』を読んで少しも共感しなかった理由が、いまになってよくわかる。ハイパーインフレのニュースばかりが伝わっていたアルゼンチンで諸々の恐ろしい事件が起きていたことを知ったのが、個人的には大きな衝撃だった。なにしろ、1930年代にアルゼンチンに移民したまま音信不通の遠い親戚がいるからだ。いつかまとまった時間の取れるときに、下巻を読みつつ、もう一度、上巻もおさらいしよう。

2021年8月24日火曜日

『お順』

 1年ほど前、勝海舟の伯父である男谷彦四郎(思孝)の名前を拙著で誤記していたことに気づき、少しばかり検索した際に、作家の諸田玲子が勝海舟の妹で、佐久間象山の妻となった順子(1836-1908年)を主人公にした『お順:勝海舟の妹と五人の男』(毎日新聞社、2010年)という小説があることを知った。たまたま村上俊五郎(この小説で言えば、五人目の男)について確認したいことがあって、文春文庫版(2014年刊)を図書館から借りて、とくに期待もせずに読み始めたところ、思いの外よく書けていて最後まで読み通してしまった。 

「五人の男」のうち、二人は父の小吉と兄の麟太郎(海舟)なので、お順のパートナーとなったのは実際には島田虎之助、佐久間象山、村上俊五郎(政忠)の三人である。ちなみに文庫版には、ちょっと誤解されかねないこの副題はもうない。  

 以前にも書いたように、男谷彦四郎の娘婿の誠一郎(信友)は直心影流の「剣聖」で、島田虎之助は麻布狸穴のその道場で免許皆伝、師範代となった。中津藩士の四男だった島田は剣豪として知られ、海舟も彼から剣術を習った。だが、お順にしてみれば島田は父親ほどの年齢で、彼が本当に初恋の相手で、許嫁であったのか、それともその部分は著者の創作なのかは、少しばかり調べたくらいでは確認できなかった。いずれにせよ、小説のなかでお順が生涯で最も愛した島田は、嘉永5(1852)年9月に病死してしまい、お順はその年12月に、よく知られるように、母の信からの絶大なる後押しもあって、島田よりさらに年上の41歳の佐久間象山の正妻となった。この母は、勝家の一人娘だが両親に早く死なれ、家を残すためにわずか4歳で、男谷家の妾腹の三男でわずか7歳の小吉と結婚させられたのだという。

 島田については史料が少ない分、小説の登場人物として自由に書けたようだが、象山に関する描写はそれに比べてややぎこちなく、これまで象山について数多く書かれてきた偏見をそのまま引きずっている印象を受けた。とはいえ、象山に嫁いだお順が、40人、50人の門弟が出入りする木挽町の塾で、姑のまんや側妻のお蝶、別の側妻菊の子である恪二郎などと暮らしていたのであれば、こんな雰囲気だったかもしれないと思う描写にはなっていた。私の高祖父は嘉永4年8月に象山塾に入門しているので、新妻だったころのお順に会っていたかもしれない。

 元治元(1864)年7月に象山が暗殺され、松代藩によって佐久間家がお取り潰しとなったことに憤慨して、お順が自殺未遂したという話はほかにもどこかで読んだことはあるが、出処は何だろうか? 子供のころから気が強く、父の小吉そっくりの跳ねっ返りのお順と対比して、この小説ではとことん殺生嫌いで、斬りつけられても刀が抜けないように、鍔を紙縒りで縛っているという兄の海舟の性格を巧みに描写する。典拠は『海舟座談』のようだ。それにたいし、象山の仇を討ちたいお順は「兄さまは臆病なのだわ」と思う。

 最後の男である村上俊五郎とお順が初めて会うのは、小説によると慶応4(1868)年3月5日、山岡鉄舟に連れられて赤坂の勝家を訪ねてきたときのことだった。この日、山岡がやってきたのは、その3日前に勝が益満休之助ら3人の薩摩藩士を、いざというときの切り札に使おうと、自宅に連れ帰っていたためだ。3人は前年暮れの薩摩藩邸焼き討ち事件で逃げ遅れて、小伝馬町の牢に収監されていた。一方の山岡もまた、西郷隆盛に「討伐の中止を談判する使者の役を、慶喜から直々に賜った」ため、益満を交渉の切り札にしようと考えていたという。「山岡が選ばれたのは、慶喜の身辺警護をつとめている義兄の高橋伊勢守(泥舟)の推挙によるものだという」とも、この小説には書かれている。そして、初対面の山岡にひと目で惚れ込んだ勝は日記に、「一見、その人となりに感ず」と書き、その場で西郷宛の書状を認め、山岡に託したという。海舟日記は『勝海舟全集』18の慶応3年までしかもっていないので、次の巻を借りてみよう。

 私はもともと幕末の外国人殺傷事件をかなり調べたので、勝海舟がヒュースケン暗殺犯の1人と言われる益満を西郷との交渉に使ったと初めて読んだときは、信じられない思いがした。慶応4年の上野戦争の際に負傷して、戸板に乗せられて横浜の軍陣病院に入院したが、病院の採光が悪いため病室の移転を希望したところ、たまたま大雨の日で、傷口が化膿して死亡したと、ウィリアム・ウィリス関係の鮫島近二氏の講演録で読んだこともあった。

 その益満と山岡、そして山岡の愛弟子という村上は、いずれも清河八郎の虎尾の会のメンバーだった。尊皇攘夷を掲げたテロ組織である。象山が暗殺されたあと、お順が再婚した相手が村上であると知ったときには、私には益満以上の衝撃があった。当時、私が村上ついて調べられた唯一の資料は、海音寺潮五郎の『幕末動乱の男たち』のなかの清河八郎だったが、今回、その元となったのが虎尾の会の一員だった石坂周造の『石坂翁小伝』(1900年)であることに気づいた。

 国会図書館のデジコレで読んでみると、下総「神崎に居ります中に村上新五郎と云ふ者が武者修行で私の所に尋ねて来ました。是れは身体も大きし如何にも豪勇」などと書かれていた。なぜか俊五郎ではなく、新五郎となっているが、同一人物だろう。この村上と石坂が、「浪士を騙って商人から金子を強奪した男たちを捕らえ、即刻、首を刎ねて両国橋にさらしたというおぞましい噂」について小説に書かれており、その件も、この『石坂翁小伝』に詳述されていた。しかも、その事件を調べた町奉行は井上信濃守(清直)だったという! ハリスとヒュースケンと度重なる交渉をつづけて日米通商条約を締結させ、その後、外国奉行を務めた井上は安政の大獄で左遷されたあと、南町奉行になっていた。  

 この石坂は何度目かの入牢中に戊辰戦争が勃発して情勢が変わり、やはり慶応4年3月15日に突然釈放され、山岡鉄舟預かりとなった。このあと、勝にも会うのだが、石坂は「勝と云ふ者は私共とは大に反対家であって彼れは西洋の心酔家であって」などと述べている。  

 4月11日に江戸城が明け渡され、慶喜は水戸にて謹慎という前夜、慶喜から贈られた銘刀を抱き、人知れず主君のために号泣する兄の後ろ姿をお順がひそかに見守る場面がある。長州征討時に勝が密使に立てられた際には、「慶喜公も、麟太郎が嫌いだ」と書かれ、「徳川より国を優先する」という勝の信念にも触れられていたが、お順はこのときの海舟の姿を見て、「もう、兄を臆病だとは思わなかった」。  

 そんな勝海舟の妹のお順の相手として、およそふさわしくないのがこの村上俊五郎なのだが、2人を強く結びつけた時代背景として、著者は5月15日の彰義隊の戦いの日に、海舟の留守のあいだに官軍が勝家に押し入った際に、村上が用心棒となってお順や家族を守ったときのことを描く。『氷川清話』に、このとき官軍200人ばかりに取り囲まれ、武器などを一切運び去ったことや、官軍からも旧幕臣からも命を狙われていた勝が、都合20回ほど敵の襲撃に遭ったとも書かれていた。このときのお順の武勇伝は知られているようだが、村上との一件はまだ確認できていない。小説では、お順は剣の達人である村上に兄の護衛を頼み、さらには象山の敵討ちも依頼したことになっている。  

 しかし、村上はアル中の疫病神のような人物で、何をやらせてもつづかず、どこでも問題を起こし、そのたびに山岡が次の勤め先を見つけ、勝家が当面の生活費を恵むというパターンが読んでいて呆れるほどつづく。明治元年9月に、旧幕臣のうち1万5000人が移住を希望し、家族を含めると総勢10万人近い人間が移住したという駿府へ、勝家も転居する。まだ婚姻届もだしておらず、祝言も挙げていない村上とお順がつかの間、同居した時期があった。勝に反感をいだく旧幕臣から詮索されないようにと、駿河国小鹿村(おじかむら)の出島竹斎という、父小吉の知己で、以前に海舟も金銭面で助けられた恩人が、お順たちの住む場所を提供してくれたのだ。海舟は竹斎への恩から、長男に「小鹿」(ころく)と名づけていたそうだ!   

 作者の諸田氏は、もともと2007年に半藤一利と対談した折に、勝海舟の妹のお順がおもしろいと勧められ、そこから調査を始めたそうだが、偶然にも実家の裏手に蓮永寺という、静岡時代に永眠した勝の母の信とお順の墓があるお寺があり、しかも父方の祖先が出島竹斎その人で、親族の蔵から未読の海舟の手紙なども見つかったのだという。したがって、お順と村上に関する新事実が、この小説を機に明らかになったわけなのだ。  

 しかも、『お順』によると、村上はその後、三方原の開墾事業を請け負って、またもや一揆を引き起こすなどの問題を生じさせ、その間におちよという若い娘に手をつけて、欣(きん)という娘を産ませたほか、別の愛人もつくっていた。村上に見捨てられたこの母娘の面倒を当初見たのが出島竹斎だった。お順は結局、村上と結婚することなく、ただちよと欣を引き取って、欣をわが子として育てたのだという。欣はのちに勝家の書生の熊倉操と結婚した。  

 横浜市歴史博物館には「熊倉家伝来 佐久間象山関係資料」があり、私もいくつか参照させてもらったが、そこでも「象山の死後、順子は実家の勝家へ戻り、後に村上政忠へ嫁いだ。政忠との間に生まれた欣子は、政忠の死後、勝家へ引き取られ、熊倉家へ嫁いだ」と説明されていたが、事情は違ったようだ。村上とお順に関する私の諸々の疑問は、この小説を読んで解けた気がする。  

 村上俊五郎は明治17年になって、頼みの綱だった山岡からもついに出入りを差し止められ、同21年に山岡が病死したことで取り乱した挙句に、勝家にお金の無心にきた。明治31年3月、「我が苦心三十年」と勝が日記に記したように、徳川慶喜が初めて参内して、天皇と将軍の和解が成立した。「これこそ麟太郎の悲願だった」と書いたあと、諸田氏は海舟からお順へのこんなせりふを付け加える。「ついでにもうひとつ……村上に絶縁状を送った。近年の無心は目に余る。おまえにとっても、幸多き年になるはずだ」。勝は翌年他界した。みずからの死を予期しての後始末だったのだろう。  

 お順は兄の死後10年ばかり生きて、明治41(1908)年に亡くなった。ネット上で見た彼女の墓は、母の信の墓標の片隅に小さく戒名だけ刻んだものだった。京都の妙心寺塔頭の大法院にある亡夫佐久間象山の墓には入らず、静岡の地で母とともに埋葬して欲しいと本人が希望したという。

『佐久間象山と横浜:海防、開港、そして人間・象山」横浜市歴史博物館、2014年より。真田宝物館所蔵。「象山自らが恪二郎と順子の写真を撮影したと伝えられる」とある。象山の写真はどうやらお順がシャッターを押したようで、同じときに撮影されたと思われる写真がもう1カットある

2021年8月17日火曜日

ブリジェンス設計の町会所

 謎の建築家ブリジェンスについてだらだらと書いてきたが、ようやく本題とも言える町会所に関して、隙間時間に在宅で調べられる限りのことをかき集めてまとめてみた。これは町会所というより、「時計台」の愛称で親しまれていた建物という。現在はこの跡地に、1917(大正6)年竣工の横浜市開港記念会館、通称ジャックの塔が立ち、これが国の重要文化財である歴史的建造物なので、それ以前にこの地にあった町会所のことはあまり知られていない。 

 きっかけは、このところずっと訳していた時間・時計の歴史に関する本に、公共の時計台に秘められた、とてつもない意味が書かれていたことだった。時間など、いまでは誰もが空気や湯水のように当たり前の存在として接しているが、これは改めて時間とは何か、それを可視化した時計とは何かを考えさせられた本だった。大まかに言えば、時計はローマの昔から支配者によって秩序を保つために使われてきたものであり、いまでは人工衛星に搭載された原子時計によって、私たちの暮らしのあらゆる側面が管理されているという驚くべき内容の本だ。

 これまでにも『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)で、時間や時計に関連して深く考えさせられたことはあったし、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)には、スイスから開港当初にやってきた時計職人フランソワ・ペルゴの店に所狭しと並べられた時計を見に、日本の商人たちが群がったことが書かれていた。だから、文明開化と時計は密接に結びついていたんだろうと漠然とは思っていたが、改めて調べてみると、これは思っていた以上に重大な出来事だった。

 1932(昭和7)年刊の『横浜市史稿』地理編には、「町会所址」という項目があり、町会所が1874(明治7)年4月に改築されたことや、その建物が「石造で、屋上の高塔に大時計が据付けられ、本建物は時計台の名で通っていて、当時の横浜一名所となって居た」と書かれている。同風俗編でも、「石造二階の洋式建築」とあり、「其宏壮雄渾な誇姿には、其名も懐しい時計台と呼称が付せられて、明治初期の時代的雰囲気を語る記念の建築物であったので、其保存方法が慎重に考案されて居た最中の明治三十九〔1906〕年十二月に、可惜〔あたら、残念ながら〕、類焼の災厄に罹って灰土となった」と記されている。町会所の写真や銅版画を見ると、ブリジェンスのその他の作品とよく似た造りで、石造にしては華奢に見える。老朽化が進み、高塔は焼失する前年に撤去されていたというし、そもそも石造であれば「灰土」とならなかったように思うので、町会所も彼のその他の作品同様、木骨石張りだったのではないだろうか。 

『横浜市史稿』政治編三には、「之に要した建築費約八万円は、歩合金から支出した。此金は、明治六年五月、皇居が炎上して、直に造営に著手せられた時、横浜の貿易商人等が、歩合金の内を献金して、其費用の一部に充てんことを出願したけれど、遂に聞届けられなかったので、当時の神奈川県令陸奥宗光の発意を以て、其金を町会所建築費に転用したのであった」と、その由来が書かれている。  

 しかし、『横浜市史稿』の説明には、これがブリジェンスの設計だとは一言も書かれていない。それどころか、全11巻のどこにも、彼に関する言及はない。昭和の初めには、「横浜一名所」の設計者は、すでに完全に忘れ去られていたのだ。近年、彼の功績がいくらかでも知られているのは、先述の1907年の『横浜貿易新報』の記事に、1983年に掘勇良氏が目を留めて以来なのではなかろうか。この記事には「過般、火災の為めに一朝烏有(うゆう)に帰したる横浜会館、即ち時計台なるものは、氏等夫婦の設計に成りし唯一の記念物なりしと云ふ」と、書かれていたという。  

 設計者については早々に忘れ去られたようだが、町会所は「時計台」と呼ばれて親しまれたという。そのためか、町会所はむしろ、ここに時計を設置したジェームズ・ファーヴル=ブラントとの関連で記憶されつづけたようだ。以前は、そのことが不思議でならなかったが、時計台に込められた意味を考えれば、当然のことに思える。  

 なにしろ、日本ではそのわずか1年数カ月前まで十二辰刻制で時を刻んでおり、庶民が時間を知るすべは、ほぼ2時間置きに鳴らされる時の鐘の回数を数えるしかなかったのだ。横浜の時の鐘は、うちの近所の境木の鐘が野毛山に移されたそうで、もちろん人手で撞くものだった。江戸時代までは基本的に昼と夜の時間をそれぞれ6等分する方法が取られており、そのため夏には昼の一刻は長く、夜の一刻は短くなり、冬はその逆になった。日の出とともに起きて活動し、行灯しかない夜間は基本的に寝て過ごす暮らしだっただろうから、生物時計に従った健康的な生き方だったとも言える。  

 夜間、誰もが寝静まったあいだも起きて鐘を打たねばならない人は、おそらく和時計を頼りに、時の経過ばかりを気にしながら当番をこなしていたのだろう。ウィキペディアの和時計の項やセイコーミュージアムの説明を参照すると、江戸時代に開発された和時計は、もともと昼と夜の時間の変化を、棒状のテンプの分銅の位置を明け六つ(卯の正刻)と暮れ六つ(酉の正刻)で変えることで調整していたが、のちに2本のテンプが昼夜の境で自動切り替えできる二挺天符が開発され、二十四節気に合わせて15日毎に分銅をずらし、一刻の長さを調整すれば済むようになった。文字盤の時刻の間隔を15日ごとに変えて表示する「割駒式文字盤」型というのもあったようだ。  

 いずれにせよ、和時計は厳密に日毎の日の出と日没の時刻を追っていたわけではなく、その30分ほど前後の薄明を明け六つと暮れ六つとしていた。東西に長い日本列島では、実際には場所によって日の出、日没の時刻に2時間近いずれがあるためだろうか。和時計がどれだけ普及していたかわからないが、同じ仕様でほぼ各地で違和感なく使うためには、厳密でないほうがよかったのかもしれない。  

 そうした暮らしが唐突に終わりを告げたのは、明治5(1872)年11月9日に詔書が発表され、そのわずか23日後の12月3日が明治6(1873)年1月1日となり、それまでの太陰太陽暦が太陽暦に改められ、不定時法だった十二辰刻制が24時間の定刻制に変わったためだった。12月がほぼ1カ月なくなってしまったことは確かにショックだっただろうが、急に24時間制になり、何時何分という細かい単位で時間を決められるようになった時代の変化は、じわじわとストレスになっただろう。明治5年10月14日に鉄道が開通したのも、この変化と無縁ではなかったはずだ。半刻(1時間)という認識まではあったとはいえ、横浜–新橋間を1日9往復とはいえ、単線で列車を走らせるうえで、より正確な時刻を運行者も乗客も知る必要があっただろう。  

 幕末に長州や薩摩からひそかに留学した若者たちが、まだ13、14歳の子供まで、これ見よがしに懐中時計の鎖を胸に垂らしていたのは、24時間制で正確な時刻がわかることが、文明化した人間の証のように感じられたからではなかろうか。彼らにとって断髪して洋装したあと、最初に手に入れるべきものは懐中時計だったに違いない。明治7年にもなれば、横浜では懐中時計をもつ日本人はかなりいただろうが、そんなものを買えない庶民にとっては、見上げれば時間が一目瞭然でわかる町会所の大時計は、1日に何度でも見てしまう画期的な存在だっただろう。4階の高さでそびえ、てっぺんに4方向から見える大時計を搭載した時計台は、当時すでに2階建て建物が増えていたとはいえ、居留地や日本人町のかなりの場所から見えて、ランドマークとなるとともに時刻を伝えていたのである。  

 残念ながら、町会所の時計台は日本初のものではない。TIMEKEEPER古時計ドットコムというサイトによると、明治4年に現在の北の丸公園にあった近衛歩兵隊衛所竹橋陣営の時計塔が第1号という。同サイトによると、明治6年には工部大学校時計と並んで、なんと横浜岩亀楼にも時計塔が誕生したことになっている。後者は高島町遊郭に移転した岩亀楼の明治8年ごろ写真に確かに時計塔が確認できる。高島町に移転してから、3度焼失しているようなので、時計塔のある建物が何年に建設されたか正確に知るのは難しそうだ。町会所と同年同月に東京の江戸橋付近にあった駅逓察新庁舎にも時計塔があり、これもファーヴル=ブラント商会が納入していた。京屋の外神田本店と銀座支店もその後、同商会からの機械式四方塔時計が設置されている。本邦初ではないにしろ、町会所は5本指には入る日本で最も初期の時計台だった。  

 ジェームズ・ファーヴル=ブラントは1863年にエメ・アンベール率いるスイスの使節団に加わって来日した時計職人兼貿易商で、前述の同郷のペルゴとも交流があったが、一方で武器も扱っており、西郷隆盛や大山巌と親しく、長岡藩ともやりとりがあったようだ。長岡藩士の先祖を探すうちに、ファーヴル=ブラントを調べたという人のブログ等によると、松野久子という日本人配偶者がいて、彼女の死後はその姪の松野くま子を後添えにもらったらしい。いつもながら豊富な情報を提供してくれるMeiji-Portraitsは、この日本人妻をMatsouno Shisaとしており、横浜外国人墓地に眠る夫妻の墓には、確かにこの綴りで彼女の名前が刻まれていた。フランス語読みならシサ・マツノとなる。江戸っ子だったに違いない。彼女は有名なMitsuno clan(水野氏か?)の出身と同サイトには書かれていた。  

 いろいろ読むとファーヴル=ブラントも探り甲斐のある人物のようだが、とりあえずここでひとまず、ブリジェンスに関する報告はおしまいとしよう。幕末・明治期の時間や時計に関連したことでは、ほかにもいくつか調べたことがあるので、いずれ翻訳書が刊行されたときにでも書き足すことにしたい。

町会所の写る絵葉書。元の所有者の筆跡から、焼失する直前の写真と思われる

『神奈川の写真誌』(確か明治中期、有隣堂)に掲載されていた町会所の全容

横浜外国人墓地22区にあるフランソワ・ペルゴの墓。2018年10月撮影。誰かが花を供えていた

同墓地9区にあるジェームズ・ファーヴル=ブラントと松野久の墓。2018年10月撮影

2021年8月10日火曜日

グランド・ホテルはブリジェンスの設計か?

 しばらく中断していた建築家ブリジェンスの続きで、彼が設計したと言われるグランド・ホテルについて、メモ程度に書いておきたい。 横浜のホテル史については、私も学生時代にお世話になった故澤護先生が、それは綿密に調べ、論文やご著書を残されているので、詳しくはそれを読んでいただくのがいちばんなのだが、ブリジェンスとの関連に絞って、判明している限りのことをまとめておく。  

 グランド・ホテルはもちろん、明治時代の横浜を代表するホテルだったのだが、このホテルがあった居留地20番は、1862年から1867年までイギリスの公使館が置かれていた場所だった。公使館付騎馬護衛隊隊長から馬術を習った私の祖先もそこを訪ねたかもしれないと思い、現在は横浜人形の家が立つこの付近を、何度もうろついてみた。  

 横浜開港資料館で買った絵葉書のうち、上のパノラマ写真はフェリチェ・ベアトが山手から撮影したもので、1864年10月29日号の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に木口木版で紹介された。ここは海岸通りの南東端に当たり、画面手前には1860年に掘削された堀川があり、海に注いでいる。撮影されたのは下関戦争の直前だったため、横浜港の沖合にたくさんの軍艦が商船に交じって錨泊している。  

 下の絵葉書は、明治10年代撮影とのみ判明しているグランド・ホテルの写真だ。ブリジェンスが設計したとすれば、これがその建物なのだが、実際にはこの場所に建設された二代目のグランド・ホテルだという。1867年にイギリス公使館が山手に移り、同年11月に事務室等が売り立てられた(澤譲「横浜居留地のホテル史(1)」)。居留地20番はヘンリー・ホウイがイギリス公使館に貸していた土地で、公使館が移ったあとここに初代グランド・ホテルを建設した。ところが、まだ完成しないうちに、ホウイは1869年12月末に暗殺されてしまい、ウィリアム・H・スミスやジョージ・M・デアなどが共同で買い取り、1870年にメアリー・E・グリーンの経営で開業した。『ファー・イースト』の同年9月1日号に掲載された写真に、この当初の3階建てのグランド・ホテルが写っている。W・H・スミスは1862年にイギリス海兵隊の少尉として来日し、その後、実業家に転身してさまざまな事業を手がけ、「公共心にあふれたスミス」と呼ばれ、国籍にとらわれず居留民をまとめた横浜ユナイテッド・クラブの支配人を務めた。J・F・ラウダーもこのクラブの前身の発起人の一人である。  

 その後、スミスや写真家のフェリチェ・ベアトらが出資してこの初代のホテルを改装もしくは再建し、スミスを総支配人として1873年8月16日に二代目グランド・ホテルが開業した。こちらは、絵葉書にあるように2階建ての建物で、『日本ホテル略史』(昭和21年刊)によれば、「建物は木造二階建、一階に食堂、読書室、料理場があり、二階に客室三〇室を有す」というものだった。澤先生は、この書の間違いを多々指摘し、「建物の〈木造二階建〉も、〈石造二階建〉とした方が正鵠を得ている」としている。1890年に、隣接する居留地18番・19番に、フランスの建築家ポール・サルダ設計の新館が建てられると、20番の二階建てのほうは旧館と呼ばれるようになる。  この旧館がブリジェンス設計とされている旨には澤先生も言及し、こう評している。「ブリジェンスの作風は華麗さとか優雅さに欠け、どちらかと言えばずんぐりした単調な建築が多いので、この平面的で変化に乏しい〈グランド・ホテル〉旧館の設計も、彼の手になった可能性は大いにあり得るが、その確証はつかんでいない」(ホテル史(2))  

 ところで、この「旧館」にイギリスの工芸デザイナー、クリストファー・ドレッサーが1876年に滞在し、当時の様子を書き残している。その2年前、日本がウィーン万博で買い集めた美術品が海難事故ですべて失われたことに同情したイギリスのサウス・ケンジントン博物館が、1200点もの美術品・工芸品を寄贈してくれ、その選定にもかかわったドレッサーが、寄贈品とともに来日したときのことだった。ドレッサーの著作『Traditional Arts and Crafts of Japan』には、1876年末にサンフランシスコ経由で横浜に到着し、グランド・ホテルに滞在した日々が綴られている。第一印象では、さながらパリのグラン・ドテルのようだと思った場所を、翌朝、じっくり眺めたところ、「驚いたことに、昨日は堅固な石造りの建物として眺めていたものが、単に木造の骨組みの表面が、薄い石の平板で覆われていたのだ。それぞれの石は貫通しない程度に孔が開けられ、二本の普通の釘で吊るされているのである」。  

 城の石垣は別として、大量の石材を切りだし、輸送することも、その石を積みあげた建造物をつくることも一般的でなかった当時の日本で考案された苦肉の策だったのだろうか。見た目の西洋建築らしさもさながら、たびたび火事に見舞われた居留地では、耐火性という意味でも、石造りやレンガ造りの建物が求められていた。私が買った絵葉書のグランド・ホテルは、レンガ造りにも見えるのだが、少なくとも角部分は石造りに見える。そうした部分をドレッサーはしげしげと眺めたのだろう。  

 この「旧館」はブリジェンスの設計だろうか? 現地で手に入る素材で折衷案を考えだしたという点では、なまこ壁を採用した彼の他の作品に通ずるものを感じる。横浜税関として建てられ、二代目神奈川県庁舎となった建物は、外観石造、木造三階建てと書かれており、窓が等間隔に並ぶ中央棟などはとくに、この「旧館」に似ている。初代の横浜駅と新橋駅はいずれも木骨石張りで、伊豆斑石という凝灰岩が使われていた。少なくとも、技法という点では、グランド・ホテルの「旧館」はブリジェンス設計の可能性大と言えそうだ。  

 横浜には、現在は県立歴史博物館となっている旧横浜正金銀行本店など、石積みの本物の石造建築もあるが、建設されたのは1904年で、明治末期のものだ。現代の石造りに見える壮大な建築物は、いずれも石積みではなく、ごく薄い板石で外壁を覆っていることを考えれば、これはむしろ時代の最先端を行っていたのかもしれない。木造の民家で外壁の一部を石張りにした建物などは、近所でも見かける。木骨石張りというアイデアが、どこから生まれたのか、探ってみたら面白そうだ。

横浜開港資料館で買った絵葉書 
(上)「山手から見た居留地 1864(元治元年)7月」

(下)「海岸通り 20番グランドホテル(現在の〈人形の家〉付近)明治10年代」

2021年8月7日土曜日

『ラディカル・オーラル・ヒストリー』を読んで

 保苅実の『ラディカル・オーラル・ヒストリー:オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』を、細切れ時間をかき集めて読んだ。拙訳書『FOOTPRINTS未来から見た私たちの痕跡』について、北海道新聞に素晴らしい書評を書いてくださった地理学者の小野有五氏と、その後、多岐にわたる話題について何度もメールをやりとりさせていただくなかで勧められたのがこの本だった。  

 私が読んだのは岩波文庫から2018年に刊行されたものだったが、もともとは御茶ノ水書房から2004年9月に刊行された。著者の保苅氏が32歳で病死してから4カ月弱のちのことだ。本書は、保苅氏が1996年から2001年までオーストラリア国立大学に留学中に、ノーザンテリトリー準州に住むオーストラリア先住民の一氏族であるグリンジの、ダグラグ村を中心に現地調査をした結果をまとめた彼の博士論文をもとに、余命2カ月の末期がんとの宣告を受けてから、書籍として刊行するために多くの人の手も借りながら完成させたものという。  

 決して読みやすい本ではない。「幻のブック・ラウンチ会場より」として始まる第1章はとくに、「ども、はじめまして」という砕けた口語体の割には、オーラル・ヒストリーとは何なのかの説明もないまま、自分はインタビューも録音もせず、相手が自然に語ってくれるのを待つのだと読者は知らされる。エスノグラフィー(行動観察調査、保苅氏は参与観察とする)との違いを説明するのに、「事実確認的」(constative)、「行為遂行的」(performative)といった、やたら難しい用語が使われ、一般の読者には理解しづらいカタカナ語や、「歴史実践」(historical practice)、「歴史する(doing history)」など耳慣れない表現が多出する。最初のページのブック・ラウンチは出版記念会ではダメだったのか、なぜ「ローンチ」(launch)ではないのか等々、いちいち気になって、しばらく先に進めなかった。  

 それでも我慢して拾い読みしていくうちに、「僕たちは、歴史というものを、歴史学者によって発見されたり生産されたりするものだと思い込みすぎていないでしょうか。[……]学者以外がおこなう歴史実践は、せいぜいで歴史の授業に出席することくらいだと、思い込んでいないでしょうか」というくだりまできて、興味が湧いてきた。 

「〈われわれ〉歴史学者が、〈かれら〉インフォーマントの話を聞くという態度」にも疑問をいだいた著者は、歴史の語り手は人間に限らず、「場合によっては、石だって歴史を語りだす」、「いろんなモノや場所から歴史物語りが聞こえてくる」と述べ、それゆえに「過激で極端なオーラル・ヒストリー」という題名を考えたのだという。大英博物館の『100のモノが語る世界の歴史』(筑摩書房)を訳した私としては、石が語るのは、何ら不思議なことではない。もともとは、「クロス・カルチュラライジング・ヒストリー」(通文化化する歴史)という題名を考えていたそうで、そうしなかったのは賢明だった。これではただ舌を噛んで終わりそうだ。 

「キャプテン・クックより以前に」オーストラリアにやってきたとグリンジの長老たちが主張する西洋人について、保苅氏が師と仰ぐジミー・マンガヤリ老人は「白人(カリヤ)は奴をキーン・ルイスと呼び、我々はジャッキー・バンダマラと呼ぶ」と説明した。「キーン・ルイスはこの土地にグロッグ[アルコール]をもたらした」、「バンダマラは、奴はライフルをもっていなかった。奴は長いあいだ、あれで暮らしていたんだ。……あのシャンハイを知っているかい?」などとも語った。  

 グロッグは、1730年代からイギリス海軍で支給されたラム酒の水割りを指す言葉だろうか。クック船長が第1回航海でシドニーのボタニー湾に上陸し、グウィーガルという先住民の一氏族と遭遇したのは1770年のことだ。クックの一行は突然の来訪者に敵意を見せた現地民の足元を狙ってマスケット銃を撃ち、現場に残された樹皮製の盾をもち帰り、のちにこれは大英博物館の収蔵品となって、100のモノの1つとして歴史を語った。クックの一行もグロッグは持参していただろうが、このときの出会いは非友好的に終わっているので、それを先住民に分け与えたのはもう少しのちの出来事だろう。  

 シャンハイはスリングショット、つまりパチンコとも呼ばれる小さな武器のことだ。これは意外にも、加硫した天然ゴムが1839年に発明されて以降に普及した武器のようで、シャンハイはそれが大量に生産された上海にちなんだ名称に違いない。興味深いことに、オーストラリアなどではこれをパチューンガと呼ぶらしい。ライフルは1849年ミニエー銃が開発されて以降、普及したので、キーン・ルイスあるいはジャッキー・バンダマラは、クックよりのちの19世紀なかばごろの人物だったかもしれない。保苅氏はジミーじいさんの言葉が、諸々の史実とは異なることを充分に理解しながら、聞き役に徹したようで、そのことに関して「歴史経験への真摯さ(experiential historical truthfulness)とはつまり、ケネディ大統領がグリンジの長老に出会ったという歴史を真剣に考える歴史学のことです」と述べている。私ならば、客観的な証拠を示し、ジミーじいさんの記憶違いを正したくなるだろう。  

 グリンジの暮らす地域では1880年代から白人入植者が牧場開発に乗りだした。多くの人が働き手として雇われていたウェーブヒル牧場で1924年2月に大洪水が起こり、年間降水量が4インチ(1016ミリ)という地域であるため、ほとんどの牛はヴィクトリア川沿いに集まっており、何千頭もが溺死した。オーストラリアの国土の8割は年間降水量が600ミリ未満なので、グリンジの地域はそのなかでは湿潤ということになる。この出来事は人びとのあいだでは、日照りつづきであっため、ダグラグ村の長老が雨を司る虹蛇に雨乞いをした結果、数日間、雨が降りつづけたと語り継がれ、なかには洪水で白人を押し流すのが目的だったと主張する人もいたという。  

 この虹蛇を、保苅氏は「レインボウ・サーペント」、「レインボウ・スネーク」、あるいはただ大蛇などと表記していたため、小野有五氏は私が前述の訳書で使用した「虹蛇」という表記に疑問をもたれたようだが、現在ではこの訳語でウィキペディアの項目が立つほど、よく知られたものになっている。グリンジの人びとは蛇をJurntakalと呼んでおり、保苅氏はジミーじいさんとの対話のなかで、「ジュンダガル」について相当なページを割いているが、これが虹蛇かどうか言及していない。このあたりの用語の統一、定義がなされないまま本書は刊行されてしまったように思う。  

 ちなみに、先住民の言語はもともと250以上あり、現在ではそのうちわずか13言語のみが若い世代にも使われており、100言語ほどはもう高齢者のみが話すものとなり、残りは失われてしまったようだ。それほど多様であるため、「虹蛇」の現地語もボルルン、ダッカン、カジュラ等々何種類もあり、結局、共通語として英語表記が定着したのだと思われる。  

 ヘビと川は、ヤマタノオロチやインドや東南アジアのナーガを考えればわかるように、世界の多くの文化で密接に結びついている。極端に乾燥した広大なオーストラリアで、移動手段は自分の足しかなかった先住民について書いたブライアン・フェイガンは、『水と人類の1万年史』(河出書房新社)のなかで、「代々の狩人に知られてきた水場の在り処」が「〈ドリーミング〉行路、もしくは〈ソングライン〉と呼ばれるものであり」、「ソングラインの歌詞を繰り返すことで広大な土地を歩くことができる」と書いていた。こうした環境では、降雨の有無は生死を左右するものだ。恵みの雨をもたらしたあと空に浮かぶ虹を、天に昇る大蛇と考えたのか、などとも想像してみた。  

 もっとも、保苅氏が記録したジミーじいさんの説明はもっと断片的で、「見回してごらん、太陽はあっち(西)に沈む、そしてあっち(東)から起き上がる。これが正しい道だよ」といった調子だ。季節ごとに太陽が昇る位置も沈む位置も大きく変わるので、こんな大雑把な方角の把握で、水場が見つかるのだろうかと、心配になった。  

 ウェーブヒル牧場で暮らしていたグリンジの人びとは、劣悪な労働条件に抗議して1966年に牧場を退去し、1975年にはその一部である3300平方キロの土地を返還させたのだという。ジミーじいさんは1998年ごろ保苅氏が初めて会ったとき、すでに80歳前後のダグラグ村の最長老だったという。とすると、大洪水があった当時はまだ子供で、牧場の返還運動をしていたころは30代の働き盛りだったことになる。日本からきた若者を相手に、多くを語ってくれたジミーじいさんは、「尊重しなければいけないけど、今さら頼るには年をとりすぎ知恵いる人物」だったようだが、彼の記憶はその時点でどのくらい確かだったのだろうか? 

 私自身、祖先の足跡をたどるために、高齢の親族から聞き取り調査をするなかで、同じ出来事でもその当時の年齢や各人の性格によって、記憶された内容がまるで違うという経験を何度もした。数年後にもう一度問い直したときには、その記憶すら失われていることもあった。同じ事件の目撃記録でも、人によって、立場によってまるで異なることも知った。歴史は勝者によって書かれるという言葉の意味も、嫌というほど味わわされた。  

 歴史とは何かを問うのであれば、わざわざノーザンテリトリーまででかけなくとも、身近な老人との対話からでも充分にわかりそうな気がする。保苅氏は、周囲の世界を知るための最善の方法は、静かに注意を傾け、平原の向こうに飛ぶ鳥や、南方の山火事や、新しい轍に目を留めることだと教えてくれたジミーじいさんに大いに感銘を受けたようだ。だがそれとて、大半のバードウォッチャーや自然観察者は日本のどこにいても、日々どんな時間でもやっていることではなかろうか。オーストラリアン・クリーオルというクレオール言語で語るジミーじいさんと、英語を母語としない保苅氏がどれだけ先住民の思考を理解できたのかも、やや疑問が残った。  

 いまではオーストラリア先住民はほかのどの民族にも先駆けて7万2000年ほど前にアフリカをでた可能性が遺伝学から判明しているようだ。それでもヨーロッパや南アフリカ、南アメリカなど世界各地の洞窟で見つかっているのと同様の壁画を残すなど、人類共通の特徴が見られる。先住民が語る歴史の最も貴重な点は、そのとてつもなく長期にわたる時代の記憶であるはずだが、保苅氏はその最後の数百年の植民地時代の歴史をもっぱら研究した。私にはそれが残念に思われるが、世紀の変わり目はまだポストコロニアル理論にどっぷり浸かっていた時代だったのだろう。  

 なお、本書では白人にカリヤ、アボリジニにグンビンとルビが振られているが、白人を意味する先住民の言葉はカーティヤ(Kartiya)またはガバ(Gubbah)しかネット上で検索されない。グンビンはグリンジを含む言語族ンガンビン(Ngumbin/Ngumpin)のことと思われ、彼らはンガンピット(Ngumpit)と自称するようだ。さらに言えば、アボリジニ(Aborigine)という用語がいまでは差別用語と広く認識されているので、文庫化に際してはそうした旨の注記が必要だったのではないだろうか。私も昨年のサイニーの訳書でようやく気づいたのだが、読み返してみると『100のモノが語る世界の歴史』の原書(2010年刊)はAboriginalという形容詞は使っても、Aborigineは使っていなかった。オーストラリア先住民についてたびたび書いたブライアン・フェイガンは、2012年の原書でもまだAborigineを使っていた。

 ついでに言えば、「歴史とはそもそもナラティブである」などと唐突に書き、「物語り」(ナラティブ)と「物語」(ストーリー)とそれぞれルビを振り、注意散漫な読者には表記の不統一と誤解されるのがオチの書き方をする辺りも、編集サイドでもう少し補うべきではなかっただろうか。  

 かなり辛口の評になってしまったが、私よりも10歳近く若く、これだけの才能の持ち主だった保苅氏の命が、研究者としての第一歩を踏みだしたところで尽きてしまったことは、返す返す残念だ。

2021年7月25日日曜日

偽お龍写真の女性

 古写真関連の本を読み返した折に、「偽お龍写真」と言われる写真が内田九一のスタジオで撮影されていることに気づき、ウィキペディアに「お龍の写真」という項目までできていたので、読んでみて驚いた。なにしろ、この写真の裏に「土井奥方」と裏書きされたものが見つかったと書かれていたのだ。土井……土井忠直の奥方だったりするだろうか? 

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)に思い当たる写真があった。上田藩最後の藩主松平忠礼には実子がなかったため、弟で土井家に養子に入った忠直の次男、忠正を養子に迎えていた。その忠正が数えで5歳時の1890年に撮影された写真の隣にすらりとした美人が写っているのだ。養子入りしたのはその5年後の1895年のことらしいので、隣に立つ女性は実母の可能性が高い。  

 土井忠直は嘉永5(1852)5月年生まれで、上田の記録にもほとんど功績は残されていないが、明治3年から4年にかけて、末弟の忠孝とともに鹿児島藩に「留学」していたことが、彦根藩留学生の相馬永胤について調べた瀬戸口龍一氏の「明治初年における鹿児島藩の軍学教育」(『専修大学史紀要』、2009)から判明している。旧三河刈谷藩の土井家に養子に行ったのは、『人事興信録』データベースによると1873(明治6)年12月。結婚相手は刈谷藩7代藩主土井利祐の娘、良(または輿志、良子「よしこ」か)で、弘化3(1846)年7月生まれという、6歳も年上の女性だった。  

 譜代大名だった刈谷藩の土井家は、よほど運に恵まれなかったのか、6代目土井利行(1822–1838)のあとは養子を迎えつづけたようだ。良の父、利祐も、彼女がまだ1歳半にもならない弘化4年に26歳で死去しており、末期養子という形で家を継いだ8代目利善は、藩内から天誅組の変の中心人物を2人だした責任を取って隠居、家督は養子の9代目利教が継いだものの、この人も明治5(1872)年11月に26歳で死去。その1年後に忠直が21歳で、27歳の良と結婚し、家督を継いだことになる。ウィキペディアの土井利祐の項に、良は金森近明の正室だったとも書かれている。2人のあいだには1884年に長男利美が生まれ、1886年に次男利正が誕生、松平家の家督を継いだ際に忠正と改名している。ということは、1890年に幼い利正(忠正)と並ぶ女性が母の良だとすれば、43–44歳! 相当な美魔女だったことは間違いない。  

 この土井良が、「偽お龍」ということはありうるだろうか? 忠正と並ぶ写真は不鮮明なので、確実なことは言えないが、全体の印象と髪の生え際、耳の形は似ているし、7頭身に近いプロポーションで姿勢のよい点も似ている。「偽お龍」の顔は、松平忠正に似ていなくもない。  

 この写真がいつ撮られたかについては、長崎の上野彦馬のスタジオで撮影されたと言われる一連の松平兄弟の写真が、本当に彦馬撮影か疑問に思った際に、以前に参照させてもらった高橋信一氏の『古写真研究こぼれ話』(渡辺出版、2014)に詳しくでていた。彦馬のときも背景に使われている欄干の変遷を教えられたのだが、九一のスタジオでも置物は頻繁に変わっていたという。背景の腰板と敷物の組み合わせから、高橋氏はこれが、明治5年初めから明治6年と推定されていた。時期的にはぴったり符合する。  

 というのも、同じ組み合わせで九一のスタジオで撮影された、松平一家の写真があるからだ。松平忠礼・忠厚の兄弟がアメリカに留学したのは明治5年7月で、出発前に4人兄弟と姉の俊、母としで別の場所で撮影したと思われる写真も残っている。九一のスタジオで撮影された家族写真には忠礼・忠厚はおらず、下の弟2人、つまり忠直と忠孝、母とし、それに姉たちと言われる女性2人、および幼児を含む不明の人物が計3人写る。同じときに撮影された姉1人、母とし、忠孝のポートレートも残っている。堀直虎の未亡人だったは、1874(明治7)年に再婚しているので、その前の記念写真かと思っていたが、忠直の養子縁組が決まった記念だった可能性もある。末弟の忠孝はこの撮影直後に死去したと思われるので、いろんな意味で忘れ難い1枚だっただろう。  

 一応、調べるからには、もう少し詳しく知りたいと思い、「偽お龍」写真の真相を長年追いつづけた古写真研究家の森重和雄氏の論考を読むため、ワック出版(!)の『歴史通』の古書を2冊(2011年5月号、2014年5月号)も購入した。高橋信一氏はこの写真の女性を髪型や服装から「高貴な家柄の夫人」と判断されているが、森重氏は2011年の記事では芸妓と考えておられ、2014年の記事では華族にまで調査範囲を広げ、「土井家は子爵で、下総古河八万石の土井利与家、越前大野四万石の土井利恒家、三河刈谷二万三千石の土井忠直家の三つの家があることがわかった」という。一応、忠直は候補には入っているのだ。ただし、各家の「奥方」の写真が見つからず、「土井子爵の妾になった元新橋芸者」のおまさという女性を見つけ、その人が写真の女性と結論づけている。しかし、不鮮明な画像のその女性はかなり面長で、顔が大きめ、かつやや猫背気味で、どう見れば同一人物と言えるのかがわからなかった。  

 森重氏は、「偽お龍写真」が1982年に最初に発見されたのが薩摩藩士中井弘のアルバムであったことから、中井弘に関係のある女性だと考えている。忠直は前述のように鹿児島に「留学」しているので、瀬戸口氏の論文を読み返してみると、相馬永胤の日記に、「折節、西郷隆盛、桐野利秋、楢原[奈良原]繁、中井弘、伊知地[伊地知]正治、其他知名の士を訪い」と書かれていた。忠直、忠孝兄弟が現地で中井に会ったかどうかはわからないが、養子入りと結婚の報告を、美人の妻の写真付きで忠直が中井に送った可能性はありそうだ。ちなみに、桐野利秋は上田のヒーローである赤松小三郎の暗殺犯、奈良原繁は生麦事件でリチャードソン殺害に加わったとされる1人だ。  

 もちろん、ほかの土井家の奥方や、華族以外の裕福な土井さんの奥方である可能性もあるだろうが、もし写真の女性が土井忠直の年上妻だとすれば、ちょっと画期的なことだ。土井忠直・松平忠正の父子は何度か上田郷友会の会合に参加しており、私の曾祖父が同じ集合写真に写るものもあったからだ。龍馬ファンが40年あまり、妄想を逞しく眺めていた「お龍」さんが、じつは忠直の奥さんだったとすれば滑稽だ。父松平忠固の子のなかでいちばん幸せな人生を歩んだのは、案外、1897年には正四位に叙せられ、1909年、57歳まで生きたこの忠直だったのかもしれない。本家の藤井松平家を継いだ兄の忠礼は、藩主でも藩知事でもなくなったのち、従五位を唯一のタイトルとしてアメリカでも愛用していたが、44歳で病死したのちに正四位を追贈された。

森重和雄著、「龍馬が愛した〈おりょうさん〉」、『歴史通』2011年5月号より

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)より

『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)より

『上田郷友会月報』明治42年1月号より。前列中央の和服姿が土井忠直、隣が松平忠正。私の曾祖父は2列後ろの、2人の中間あたりにいる

2021年7月19日月曜日

皇族古写真関連の追記

 前の記事を書いた数日後に、図書館にリクエストしていた『英傑たちの肖像写真:幕末明治の真実』(渡辺出版、2010年)という本が届き、目を通してみたところ、疑問に思ったことが一つ解けていた。  

 この本は古写真研究家五人の共著で、今回取り上げるのは倉持基氏という、比較的若い研究者が書かれた「明治天皇写真秘録」である。明治天皇の束帯姿と小直衣姿の写真の撮影日を明治5年4月12・13日としていたのがこの論考だったのだ。その理由は、明治5年7月発行の新聞に「四月十二三日の頃、(甲斐国)巨摩郡高砂村の人与住巨川といふ者、東京滞在中、親族の需[もと]めによって、写真の為め浅草瓦町内田九一を尋ねたるに、其日は、皇上御写真に付、亭主不在の由にて」と断られ、諸外国に倣って、天皇の写真も国内外に頒布する必要がでてきた旨などが書かれていたためだった。どうやら私は3月に、日本カメラ財団のサイトにある「幕末明治の写真史列伝」第53回、「内田九一その18」に引用されていた同じ記事を参照させてもらったようだ。  

 倉持氏は「近代国家の元首らしい洋装姿の天皇像を望んだ大久保[利通]と伊藤[博文]は、出来上がった和装姿の天皇写真に難色を示した。宮内省は洋装姿の天皇を撮影することを約束したが、大久保、伊藤が再渡航する同年五月十七日」には間に合わなかったとする。彼らが実際に駄目出しをし、宮内省が即座に洋装姿で写真を撮り直すと応じた、というのはやや信じがたいが、若い天皇と元勲らとの関係は実際にはそんなものだったのだろうか。  

 4月12日は、以前にも書いたように、英照皇太后が赤坂離宮に到着した日だ。『明治天皇紀』を読むと、11日には明治天皇が「皇太后の東上を迎へたまはんがため、午後一時三十分騎馬にて御出門、品川に行幸あらせらる」、さらに「大森に於て皇后の出迎を受け」ともあり、品川泊まりだったこの日に明治天皇・皇后に丁重に出迎えられたことがわかる。12、13日の明治天皇に関する記述はないので、先述の新聞記事を信じるとすれば、撮影はこのいずれかの日に行なわれたのかもしれない。  

 また、倉持氏は大久保らが再渡航した数日後の5月20日ごろに内田九一が、燕尾型正服という洋装で明治天皇の上半身の肖像と乗馬姿を撮影したとも書いているが、典拠がない。この2枚の写真は、通常の写真集や図録などには掲載されていない。大礼服のようなこの洋服は4月7日に新調したもので、「この時点では明治天皇はまだ髷を結っていたため、髷を隠すかのように帽子を被っている」と興味深い指摘もされていた。  

 燕尾型正服が新調されたという4月7日の条には、実際にはこう書かれている。「横浜より洋服裁縫師(外国人)の宮内省に至れるを召し、内密に聖体を度らしめたまふ、天皇著御の洋服は其の寸法等大凡の木さんにして、之れを度らしめられしことかつて無しと伝ふるは誤なり。又是の月三日、服装の事にて逆鱗あらせらる、但し其の事情詳かならず」。つまりこの日、ようやく採寸されたのだ。金モール刺繍の施された服は、大久保らの出発までに仕上がらなかったのに違いない。 

『明治天皇紀』は燕尾型正服姿の写真に関しては8月5日の条にまとめて、「天皇又馬上の英姿を撮影したへることあり、其の日時は未だ明かならずと雖も、宮内少録日録によれば、明治六年二月六日以前の事に属するものの如し」とだけ書いている。5月23日から7月12日まで明治天皇は西国・九州巡幸にでており、内田九一が専属カメラマンとして随行した。49日におよぶ巡幸中に撮影された写真に天皇の姿が写るものは1枚もない。  

 こうした状況を考えると、いろいろ疑問が頭に浮かぶのだが、「内田九一その18」が指摘するように、巡幸の出発日に当たる23日の条に、『明治天皇紀』はこう書く。「午前四時、燕尾形ホック掛の正服(地質黒絨、金線を以て菊の花葉を胸部等に刺繍し、背面の腰部には鳳凰の刺繍あり、袴は同じく黒絨にして、幅一寸の金モール線一条あり、帽は船形[後略])を著御し、騎馬にて御出門あらせらる。天皇の該正服を著したまへるは是れを以て始とすと云ふ」。絨はラシャやサージなどの毛織物を指す。これはまさに新調した正服のことだ。出発前の慌ただしい時期ながら、その記念撮影を試みたと考えれば、さほど不思議ではないかもしれない。  

 巡幸中も頻繁に「騎馬にて」移動した旨が書かれており、洋装で馬に乗ったことでこれだけの巡幸が可能になったと考えられる。もっとも、6月2日、「暑気甚し、孝明天皇後月輪東山陵を拝せんとし、午前五時騎馬にて御出門」という京都での日程では、「神饌供進の儀畢[おわ]るや、洋装を束帯に更め、歩して坂路を陵前に進ませらる」と書かれている。 

『明治天皇紀』をざっとめくってみた限りのことなので定かではないが、明治元年10月13日に東京に移動した明治天皇は、早くも18日には、「御廐馬訓練の日次を定め、三・八の日を以て之れを禁庭に行ふ、御馬乗役目賀田雅周奉仕す」とある。その後たびたび乗馬訓練に励む様子が記されている。目賀田雅周はフランス軍人から西洋馬術を習い、明治天皇の別当を務め、金華山号を調教した人という。馬上姿の天皇の横にいるのが、目賀田だろうか。 

 明治天皇は、巡幸から帰還後の明治5年9月13日(1872年10月15日)、鉄道の開通式について報じた『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の挿絵では、束帯に見える和装で描かれている。和装へのこだわりは強かったのではと推察されるが、馬に乗る便宜上、洋装を受け入れたのをはじめとし、翌明治6年3月20日についに断髪し、新たにつくらせた肩章のある豪華絢爛な肋骨服姿の肖像写真を同年10月8日に再び内田九一に撮らせたのだろう。 

 こうして日本のナショナル・アイデンティティは急速に塗り替えられていったわけだ。その後、明治天皇が肖像写真の撮影に応じなかったのは、本来の自分の姿とは違うイメージを求められつづけたことへの抵抗だったのかもしれない。

2021年7月12日月曜日

皇太后古写真に見られる誤解

 以前、英照皇太后について調べた際にネット上で見つけたいくつかの論考に、鈴木真一撮影の肖像写真があると書かれていた。あれこれ検索するうちに、参考文献に上がっていた明治神宮発行の古い図録『五箇條の御誓文発布百三十年記念展 明治天皇の御肖像』に、その写真があるのだと勘違いをして古本を入手したところ、期待はずれで、すでに知っている写真しか掲載されておらず、そのまま放置していた。最近またいくつか古い史料を入手したこともあって、虫眼鏡を片手に着物の紋様やら、絨毯の模様を調べたりしたところ、件の図録から思いがけずいろいろな情報が得られたので、とりあえず古写真の件でブログ記事を書くことにした。  

 一つ目は、英照皇太后の写真として広く知られるものが、実際には明治天皇の美子妃の写真だと、より確信をもって主張するものだ。前回参照した写真集では、内田九一が明治5年に撮影したとされる明治天皇の束帯姿の肖像写真(明治神宮の図録では写真1)の周囲が切り取られていたため、下の絨毯の模様がわからなかったのだが、この図録では全体が見えたため、はっきりと確認することができた。そして、その模様は、英照皇太后の写真として、このカタログにも掲載されていた、釵子(さいし)をつけて眉毛のない女性の肖像写真(同図録の写真25)の絨毯とまったく同じだったのだ。同図録には明治天皇のこの写真が、湿板コロジオン法によるもので、ネガ硝子板が現存することや、岩倉使節団からの依頼で撮影されることになった経緯、およびそれらの情報の典拠が『明治天皇紀』であることなども書かれていた。幸い、図書館で貸し出し可能だったので、第1、2巻を借りてみると、2巻の明治5年8月5日の条にこう記されていた。 

「曩(さき)に天皇・皇后、写真師内田九一を召して各〻御撮影あり、是の日、宮内大輔万里小路博房を以て之れを皇太后に贈進したまふ、九月三日、皇太后、亦宮城に行啓せられ、九一を召して御撮影あり、十五日、九一、天皇・皇太后の御写真大小合せて七十二枚を上納す、当時の宸影、一は束帯にして、一は直衣を著御し金巾子を冠したまふ」

  図録に解説されていたように、8月5日に天皇・皇后の写真が皇太后に贈られたことから、9月3日に皇太后の写真も内田九一によって撮影されたことが確認できる。同日の条はさらにこうつづく。 

「是より先二月、特命全権副使大久保利通・同伊藤博文が書記官小松済治を随へて米国より帰朝するに際し、特命全権大使岩倉具視、済治をして御写真拝戴を宮内省に申請せしむ、宮内省は御写真出来せば直に外務省を経て之を送付せんとせしが、五月両副使再渡米の期に至りても未だ成らざりしが如し」 

 やはり図録の解説どおり、肖像写真の撮影の発端は岩倉使節団からの要請であり、5月にはまだ撮影されていなかったことがわかった。つまり、明治天皇の束帯姿の肖像写真の撮影日は明治5年5月14日以降、8月4日以前としかわからないことになる。内田九一に関する資料にはなぜ4月12・13日撮影と具体的な日にちまで書かれていたのだろうか。

 ちなみに、大久保利通と伊藤博文はこのとき、不平等条約を改正しようと意気込んで渡米したのに、「固より条約改正に関する全権委任状を携帯せず」、それを取りにもう一度日本に戻るという失態を演じており、そのことも第2巻の同年3月、5月の箇所に説明されていた。  

 ネット上では、「英照皇太后」とされる写真(25)の唐衣の文様が九条家の紋で、やはり九条家出身の貞明皇后が結婚の儀で着用した唐衣と同じと書いている記述も見られたが、九条家の紋は下がり藤らしく、昭憲皇太后の実家である一条家もよく似た下り藤なのにたいし、この唐衣の紋はどちらも五瓜に桔梗に見える。それが何を意味するのか私にはわからないが、いずれにせよ、この文様を理由に写真(25)を英照皇太后と決めることはできない。 

 明治神宮の図録には、掲載された写真の詳しい目録もあり、明治天皇の束帯姿の写真(1)は、寸法が「縦二七、横二一、五」(27×21.5cmか)、制作者が内田九一、年代は明治五年、所蔵・奉納者(年)は千葉胤茂(昭和四九)となっていた。一方、「英照皇太后」の写真(25)のほうは、「縦二七、八、横一九」(27.8×19cm)、制作者は空欄、明治時代、徳大寺米子(昭和四九)である。双方の写真の大きさはほぼ同じで、同じ明治5年に内田九一が撮影した明治天皇のもう1枚の肖像写真(2)の寸法は27×19.8cmで、さらに近い。寄贈・寄託されたのがどちらも昭和49年で、「英照皇太后」の写真に関してはとくに、明治神宮所蔵のこの1枚しか、少なくともネット上では確認できないことを考えると、この当時の誤解がいまにつづいていると考えるほうが自然だろう。図録の写真(25)は、内田九一が初めて皇居に呼ばれた明治5年に撮影された美子皇后の写真と考えるべきだ。  

 慶応2年末に崩御した孝明天皇の写真が残っていないことは周知の事実なのに、英照皇太后が東京に移る前に御所なり実家の九条邸なりに写真家を招いて写真を撮影したと考えるには、無理があるのではないか。  

 二つ目は、内田九一が9月3日に撮影した英照皇太后の写真が実際には何カットか残っていて、私が以前に入手した冊子と絵葉書に使われていた肖像写真が、いずれもこのときの作品であった可能性が非常に高いことだ。今回も特徴的な敷物がヒントになった。よく似た模様の敷物が、昭憲皇太后(美子妃)の肖像写真(13)として有名な内田九一撮影の写真にも写るが、こちらはどうやら少し厚手の絨毯のような敷物で、かたや英照皇太后の明治5年の肖像写真のものは薄手で皺が寄りやすい大きな布状のものに見える。その特徴的な敷物が、ほぼ同じ姿勢を保ちつつ、撮影の角度や表情が異なる皇太后の何種類かの写真に皺までほぼ同じ状態で写っているのだ。撮影のあいだ、皇太后は相当な忍耐力で、重い衣装を着て同じ姿勢を保ちつづけたものと思われる。よく見ると、大半のカットでは、後ろに椅子か、身体を支える器具の先端が覗いているが、私が入手した絵葉書ではそれが隠れている。  

 このときの写真として知られるものは、明治神宮の図録に収録された写真(26)を含め、大半はソフトフォーカスというか、露出過多でピントが甘い。ちなみに、写真(26)の寸法は27.81×19cmで、寄贈者・寄託者を含め、(25)と同様の情報が目録に書かれていた。 

 ところが、私が入手した『御大喪図会』第136号の写真と絵葉書(昭憲皇太后の肖像と間違えているもの)の写真は、いずれもピントがかなり合っており、とくに前者は目の窪みや、現代風にくっきりと整えられた眉までがはっきり見え、カメラのアングルが違うせいか、おすべらかしの頭頂部の窪みがなく見え、意志の強そうな大人の女性を感じさせる写真になっている。そのせいで、これは後日まったく同じ衣装で撮影されたものと思い込んでいたが、長袴の皺にいたるまでが同じなので、いずれも同日に撮影された一連の写真と考えるべきだ。『御大喪図会』には「小川一眞謹製」とクレジットが入っているが、遺影に使われたもう1枚の写真の撮影者と混同されたのではないか。若く優しく見えるソフトフォーカスのカットのほうが、英照皇太后はお気に入りだったのか、それらが名刺大の写真、カルト・ド・ヴィジットなどに焼き増しされた。  

 ここで重要なのは、ピントの合っている2枚のカットには、眉がはっきりと見えることだ。その数カ月前に撮影された美子妃と私が考える写真(25)には眉が見えないので、明治5年9月3日撮影の英照皇太后の写真が、本邦初の眉有り既婚女性写真ということになるのではないだろうか? 日本の近代化に向けてみずから行動で示した皇太后の強い意思の表われ、と私は思う。  

 三つ目に、明治神宮の図録は、内田九一撮影の昭憲皇太后(美子妃)の写真(13)を明治5年撮影としているが、これも間違いと思われる。この年の3月に明治天皇が断髪し、10月8日に新制軍服姿で撮影された有名な肖像写真と対にしてよく使われた、くっきりと眉の見える皇后の写真だ。この写真を、明治5年撮影の皇后の写真と思い込んだことからの誤解ではないか。  

 これと同じ写真に手彩色を施した写真が神奈川県立歴史博物館に所蔵されており、図録『王家の肖像──明治皇室アルバムの始まり』に写真10として掲載されている。寸法もほぼ同じだが、明治6年とされ、画像は明治神宮所蔵のものよりずっと鮮明だ。同図録には、『明治天皇紀』の明治6年10月14日の条が引用され、「皇后午前十時御出門、吹上御苑に行啓あり、先ず御梅茶屋に御小憩、尋いで写真場に入りたまひ、和装にて撮影あらせらる」とし、そのあとにこう付け足す。「この軍装の天皇と和装の皇后の写真は市中に出まわった。それらが現在もあちこちで確認できるということは、相当数が売られていたことになる」  

 まだ天皇髷のあった明治天皇の2枚の肖像写真に比べて、軍装の明治天皇の写真も格段に鮮明であり、皇后の写真と同じ絨毯の上で、同様のやや高めのアングルから撮影されている。宮内公文書館には洋装姿の明治天皇の写真とセットで保管された史料(32240)があり、皇后の写真は明治5年撮影としているが、神奈川県立歴史博物館の解説のほうが正しいと思われる。  

 明治6年に内田九一が撮影した軍装写真を最後に、写真嫌いだったと言われる明治天皇の肖像写真は撮られていない。御真影として全国の小学校などにも配られ、最敬礼が教育勅語で定められていたキヨッソーネによる肖像画は、『皇族・華族古写真帖』(新人物往来社)によれば、「天皇お食事の隣室控え襖を隔てて正面よりの御姿をスケッチさせた」もので、その後、キヨッソーネが「天皇の正装を借り受けて自らモデルになり、スケッチ画を元に精密なコンテ画を描き上げ」、写真師・丸木利陽が数十日かけて撮影したという。

 明治31年に失火により御真影を焼いてしまった上田の尋常高等小学校の校長で、作家の久米正雄の父は、責任を負って割腹自殺したと、ウィキペディアの御真影の項に書かれていた。天皇の肖像写真はそれほど神聖視されたのに、皇后や皇太后の写真は撮影当時こそスターのブロマイドのごとくありがたがられたものの、その後は宮内省すら長く顧みないものとなったのだろうか。敗戦後、御真影は焼却処分にされたとも、同じ項に書かれていた。

(左)昭憲皇太后の崩御時に発行された絵葉書(英照皇太后の写真が間違って使われている) 

(右)『御大喪図会』第136号に「小川一眞謹製」とされていた写真

明治5年、内田九一撮影の明治天皇・皇后の写真と思われるものの敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

「英照皇太后」と貞明皇后の唐衣の紋比較
(上)『天皇4代の肖像:明治・大正・昭和・平成』(毎日新聞社)に、「英照皇太后」として掲載された写真
(下)同書から、「結婚の儀 貞明皇后」の写真

英照皇太后と昭憲皇太后の写真の敷物比較。『五箇條の御誓文発布百三十年記念展』明治神宮刊より

2021年7月9日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その2

 ブリジェンスは、居留地の実力者ショイヤーとの縁故、あるいはヴァルケンバーグ弁理公使のつてで、主要な建築物の仕事を手がけることができたと一般には言われてきた。しかし、彼の仕事の多くがイギリス関連のものであったのに、この2人はどちらもアメリカ人で、接点となった期間も短いことを考えると、これらの縁故だけではなかったのではないか、という疑問が湧く。  

 リチャード・ブリジェンスの名前で検索すると、南米沖にあるトリニダード・トバゴの植民地を描いた絵が数多く見つかる。これらの絵の多くは、ブリジェンスの父で、建築家、家具職人、作家および画家であったリチャード・ヒックス・ブリジェンスが、自著『西インドの情景』のために描いた挿絵で、奴隷制の実態が描かれた作品として近年注目されている。ブリジェンスの母マリアが、イギリス植民地だったトリニダード島の砂糖きび農園を相続したため、1820年8月17日にロンドンで洗礼を受けた長男リチャード・パーキンスと、1825年生まれの男女の双子を連れて、一家はこの年に移住した。ブリジェンス家にはさらに3人の子供が生まれたことなども、ネット上の祖先探しのサイトなどからわかる。なお、横浜外国人墓地の墓標によれば、幕末の日本に来日したリチャードは1819年4月19日生まれである。 

 父同様に多才だった息子リチャードは、弟ヘンリー・フレデリックとともにアメリカでしばらく地図製作やリトグラフによる印刷業を営んでいた。リチャードは1854年にはサンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。その後、1865年になって妻子を追うように、彼もサンフランシスコから太平洋を渡って日本にやってくるのだが、不思議なことに彼の名前は1867年になってようやく在留外国人人名録である『ジャパン・ディレクトリー』に居留地124番、建築家および土木技師として見つかるという(Meiji-Portraitsの彼の項より)。ところが彼はその年の9月には山手120番地に完成したイギリス公使館と、翌年8月に竣工した築地ホテル館を設計しているのだ。どちらもオールコックに代わって1865年6月に赴任したイギリス公使のハリー・パークスと幕府間の取り決めで推進された建設プロジェクトで、前者は浅海を埋めて最初の鉄道を通した高島嘉右衛門が、後者は清水建設の創業者の婿養子の二代目清水喜助が施工している。  

 来日後1年やそこらで、まだ定職もないような時期にブリジェンスが大きな仕事を受注できた背景には、ショイヤーの急死後に遺言執行者に彼が指定され、ショイヤーが「今日流のいい方をすれば、土地ころがしで財を成していった」(澤譲著、『横浜外国人居留地ホテル史』)人物であったことは何かしから関係するだろう。また、1866年暮れに横浜の居留地では豚屋火事という大火事があって、ちょうど建設ラッシュであったことも無関係ではないはずだ。しかし、それだけではない。彼について書かれたわずかばかりの記述はなぜか写真史と関係するものが多い。

「その1」でも引用したように、『写真事歴』にはこんなことが書かれている。 「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして、石板の術を知る。蓮杖これと交を結び、其勧誘に従い、石板機械を購求し、且つ其術を伝習せり」。ここから、ブリジェンスが写真師の下岡蓮杖にリトグラフを教えたことがわかる。  

 この前段には、蓮杖がショイヤーの妻アナに日本画の手ほどきをしながら、油絵の描き方を教わっていたことや、写真術をどう習得したかが書かれている。「是より先き米国の写真師ウンシンなるもの始めて本邦に渡来し、ショーヤの家に寄寓せしかば」、蓮杖がこれ幸いにと写真術を習おうとしたことも書かれている。だが、「言語通ぜず、且つウンシン吝で秘して教えざること多く」、なかなか学べなかったという。このウンシンは、ジョン・ウィルソンという、プロイセンのオイレンブルク使節団に写真家として雇われたこともあるアメリカ人で、この使節団で通訳を務めた際に暗殺されたヘンリー・ヒュースケンの遺体写真を撮影したことで知られる。ウィルソンはその後、文久遣欧使節とともに1862年1月に離日した。 

『写真事歴』にはつづけて、「横浜在留の宣教師の女ラウダなるもの、亦ウンシンに就て写真術を学べるより、蓮杖これを拮頑してほぼ其術を窺うを得たり」とも書かれている。「拮頑」は強引に迫って、という意味だろうか。これより15年後に書かれた『横浜開港側面史』には、無名の一老翁談として、「米国婦人ラウダと云う人から写真術の秘法を教えて貰った」としていた。  

 宣教師の女ラウダは、横浜開港直後の1859年11月に来日し、成仏寺にいたアメリカ・オランダ改革派教会所属の宣教師、S・R・ブラウンの長女ジュリアのことだ。ブラウン師の家族はしばらく上海にいて、1860年になってから来日した。成仏寺の前にブラウン一家がヘボン夫妻らとともに写るステレオ写真が写真史家のテリー・ベネットの『PHOTOGRAPHY in Japan』に掲載されており、1840年マカオ生まれの若いジュリアも写っている。  

 このジュリアが1862年9月に結婚した相手がジョン・フレデリック・ラウダーだった。ウィルソンが離日した時点ではまだ結婚前なので、ブラウン姓だったはずだ。だが、父のブラウン師はフィリップ・ペルツ師に、「イギリス領事館勤務の英国紳士」である結婚相手のラウダーについてこんなことを書いている。「この人は前の江戸駐箚イギリス全権講師で、いまイギリスに帰任し、最近ナイトの位に列せられたラザフォード・オールコック卿の後妻ミセス・ラウダーの連れ子です。[……]なお、ラウダー氏は、上海の最初のイギリス領事館付牧師の息子です。この牧師は上海に赴任してから、一年後に、夫人と三人の息子と三人の娘とを残して、海で溺死しました」(『S・R・ブラウン書簡集』)。  

 なんとも複雑な関係だが、ベネットが成仏寺の写真に関連して、こんな逸話を紹介している。ラウダーは上海で牧師の父を亡くし、未亡人となった母がオールコックと再婚することになったため、イギリス外務省領事部門の通訳生として17歳で来日した。そこで第一次東漸寺事件に遭遇し、拳銃をもって継父となる公使の護衛に務めた。この若い通訳生が3歳年上のジュリアを妊娠させたため、居留地内で大スキャンダルになり、周囲は2人をそれぞれの祖国へ帰国させようと試みた。しかし、若い2人は結婚を決意して、赤ん坊が生まれるわずか48時間前に夫婦になった、というものだ(F・Parker、Jonathan Goble of Japanからの引用)。  

 そんな意外な事実が判明しても、下岡蓮杖がジュリアから写真術を習ったのがいつの話だったのかはっきりしないし、オールコックとジュリアの関係が見えてきても、それがブリジェンスにどうつながるのかは不明だ。ラウダーはその後、長崎の領事館で書記官となり、1868年1月には大坂の領事代理として、アメリカの海軍少将の海難事故についてヴァルケンバーグとやりとりしていたことなどが確認される。ラウダーは明治初期に横浜の領事代理もしばらく務めたが、1870年に土佐藩士5人の付き添いも兼ねて一時帰国し、法廷弁護士の資格を取って1872年に横浜に戻り、イギリス外務省を辞任して明治政府のお雇い外国人となり、横浜税関の法律顧問に就任した。1870年に、現在の横浜開港資料館がある場所に完成した横浜領事館や、1873年に竣工した横浜税関、および土佐の後藤象二郎の蓬莱社の建物などは、横浜ユナイテッド・クラブの会長なども務めたラウダーが何かしらかかわっていそうだ。  

 結局のところ、ブリジェンスがどうやって横浜で地歩を固めたのかは残されたわずかな証拠から推測するしかないが、イギリス公使館という大きな仕事を受注できたことは運の始まりだった。横浜の山手に建設されたイギリス公使館は、江戸の高輪接遇所と併用されたとはいえ、パークスが拠点とした場所であり、1868年の4月には江戸開城を前に勝海舟も西郷隆盛もここを訪れている(萩原延壽著、『遠い崖、江戸開城』)。  

 ブリジェンスがイギリス公使館と築地ホテル館で使ったナマコ壁は、「木造の壁体の表面に平瓦を張りつけ、目地──継ぎ目──に漆喰を盛り上げる」江戸時代からの左官技術で、「ふつうの土壁より風雨にも火にも強」い。「工費のかさむ木骨石造の代りにナマコ壁を使って火に強い木造西洋館を手早く作ってみせ」、その結果、「ナマコ壁の西洋館という和洋折衷スタイルを編み出した」(藤森照信著、『日本の近代建築──幕末・明治篇』)。蒸し暑い気候に適したベランダと鎧戸のあるコロニアル様式も、現地の建築を取り入れた折衷案も、トリニダードという西洋の通常の建築資材が容易に手に入らない植民地で育った彼の経歴が、何かしら影響したに違いない。  

 ミヒャエル・モーザーの写真で『ファー・イースト』の表紙を飾った山下町のイギリス領事館は、木骨石貼りという工法で、耐火性を高め、見た目は石造建築という工法で建設されたが、不恰好だとして不評だったらしい。私が祖先探しを始めて最初に読んだヒュー・コータッツィの著作『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、この建物を描いた歌川国政作とされる横浜絵が使われていた。 

「その2」を終えるに当たって最後に一言付け加えておく。ラウダーは1902年1月に死去して外国人墓地に葬られた。この年の11月22日付の『ジャパン・ウィークリーメイル』に、ジュリアが43年間、住みつづけた日本を永久に後にし、イギリスへ渡ったという記事あることを、ジュリアについて散々やりとりしたアメリカの歴史家から教えられた。彼女が乗船したイギリスの蒸気船ドーリック号はハワイ経由サンフランシスコ行きなので、アメリカへ帰国した可能性もある。ラウダーの墓は草木が生い茂ってしまっているが、四角く縁取りされた壁面にジュリアの名前と生没年が刻まれているので、1919年8月18日に死亡という通知だけがもたらされたのだろうか。  

 ブリジェンスに関しては、肝心の町会所をはじめ、いくつか書いていないことがあるので、また追い追い記事にしたい。

(上)Far East、1870年8月1日号に掲載された山手120番のイギリス公使館 
(下)『横浜浮世絵』(有隣堂)より。「横浜高台英役館之全図」喜斎立祥(二代広重)明治2年



Far East、1870年8月16日号に掲載された築地ホテル

1870年に建設された横浜のイギリス領事館。Far East、1871年7月11日号の表紙に使われた。

2021年7月2日金曜日

謎の建築家ブリジェンス その1

 横浜の開港史と深く関わった建築家リチャード・パーキンス・ブリジェンスについて、以前にもコウモリ通信に書いたことがあったが、少し前に現在の開港記念会館の場所にあった町会所の時計台について調べ直したこともあって、重い腰を上げてブリジェンスについてまとめることにした。かなり込み入っているので、すでに忘れかけている記憶をたどり、調べ直しながら数回に分けて書くことにする。  

 汐留に、ブリジェンス設計の初代新橋停車場を2003年に再建した建物があることは、多くの方がご存じのことと思う。当時の石段などを活かしながら復元され、鉄道歴史展示室とレストランになっている。汐留の再開発で見つかった新橋停車場の遺構の上に、古い写真をコンピューター分析して寸法などを割りだす先端技術を使ったものという。この初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社があり、蓬莱橋と呼ばれた石橋もあったはずだが、いまではその名を残す交差点しかない。ここにある陸橋から眺めると、ガラス張りの高層ビルに囲まれて、所在なさげな旧新橋停車場の全容がようやく見える。  

 ブリジェンス設計の建物で現存するものは残念ながらない。二代目神奈川県庁舎となった建物の門柱だけが、あじさいの里という瀬谷区の個人宅の門として残っている。ただし、上のランプは戦時中の金属供出で失われ、戦後につくり直したものという。『ファー・イースト』誌に掲載されたこの建物は、もともと1873年に横浜税関庁舎として建てられ、その後、税関がもっと港寄りに移転したため、前年に火災で庁舎(横浜役所と呼ばれていた)を失っていた神奈川県に1883年に譲渡された。  

 以前の記事でも書いたように、ブリジェンスが横浜にあったイギリスの公使館や領事館など、数多くの明治初期の西洋建築の設計を手がけることになった背景には、彼をめぐる複雑な人脈があった。初回は、横浜の競売人だったラファエル・ショイヤーとその妻アナとの、比較的よく知られた関係についてまとめたい。  

 ショイヤー夫妻ついて調べているうちに見つけた史料が開港直後に来日したオランダ商人デ・コーニングの書だった。これはあまりに面白かったので企画をもちかけ、『幕末横浜オランダ商人見聞録』(河出書房新社)として翻訳出版させていただいた。来日当時、アナは30歳前後の美人で、それまで居留地にほとんど西洋人女性がいなかったこともあって、パリの最新流行のドレスに身を包んだ彼女を一目見ようと、居留民も日本人も寄ってたかって眺めたという滑稽なエピソードが同書では紹介されていた。デ・コーニングは彼女のことを、「とびきり美しいスペイン系アメリカ人のクレオール」ではないかと思ったようだが、実際にはアナは1827年、アイルランドのロンドンデリー生まれだったことが、フロリダ州ジャクソンヴィルにある彼女の墓標からわかる。  

 開港当初、このショイヤー夫妻が住んでいたのは、ペリー上陸のハイネの絵に描かれた「玉楠」のすぐ裏手にあったアメリカ25番で、玉蘭斎(歌川貞秀)の大絵図には「画ヲ能ス女シヨヤ住家(ホイス)」と書かれていた。玉蘭斎は1860年に「玉板油絵・大胡弓・笛・二線」という題名の西洋美人の絵を描いているほか、『横浜開港見聞誌』(国会図書館では「横浜文庫」)でも、同一人物ではないかと思うアメリカ婦人の絵を複数描いており、いずれもモデルはショイヤー夫人のアナではないかと私は推測している。日本人画家たちと交流のあった女性だからだ。  

 この「米人ショーヤの妻の妹婿ビジンなる者製図師にして石板の術を知る」と、写真家の下岡蓮杖について『写真事歴』(山口才一郎著、1894年)に書かれていたことから、アナの妹が、ビジン、つまりブリジェンスの妻ジェニーだったと考えられている。ブリジェンスの名前は、耳で聞きとれる音と綴りが一致しなかったためか、表記が定まらず、彼が忘れ去られた一因はそこにもあったようだ。下岡蓮杖は、ハリス領事の通訳だったヘンリー・ヒュースケンに下田で写真の原理を習ったあと横浜にきて、このユダヤ系アメリカ人のショイヤーのもとに手代として住み込んでいた。  

 ブリジェンスが横浜にきたのはショイヤー夫妻の来日より数年後のことで、日本には、1864年4月30日に夫人のジェニーと子供がまずサンフランシスコからやってきたことが『ジャパン・ヘラルド』紙から判明している。同じ船でE・ショイヤーという人物も来日しているので、幼児連れで太平洋を横断する若い母親の付き添いだったのかもしれない。翌年の3月25日付の同紙の乗客リストに、ブリジェンスという名前があるため、彼自身は1年遅れて来日したようだ。  

 夫人のジェニーは町会所が焼失した翌年の1907年まで生き、亡くなった際に『横浜貿易新報』に「横浜開港以来女子建築家として夙に在留外人間に知られたるブライトゲン夫人」という死亡記事が掲載されていた。ブライトゲンは、もちろんブリジェンスである。姉のアナは高橋由一などに絵を教えたことで知られるが、妹のジェニーも「夫ブライトゲンに死別れたる後は健気にも女子の腕にて専ら夫の事業を引継ぎ家屋の築造設計の業を営」んだという。1983年にこの古い新聞記事をもとに墓を探し当てた横浜開港資料館の堀勇良氏が、「謎のアメリカ人建築家」という記事を『市民グラフヨコハマ』第46号に書いたときは、まだどうにか墓碑銘が読み取れ、そこには「R. P. BRIDGENS BORN 19TH APRIL 1819 DIED 9TH JUNE 1891」とあり、別の面には「JENNIE M. BRIDGENS」の刻字が読めた。しかし、私が何度も外国人墓地をうろついて2018年にようやく墓石を見つけたときには、表面はさらに風化してかろうじてRとBRIDGENS、DIEDの文字が読める程度になっており、上に立っていたはずの相輪のような突起物も落ちていた。  

 ブリジェンスが来日した年の8月21日に、ラファエル・ショイヤーは居留地三次会の初代議長に選出され、その席上で「大演説の終了直後に心臓発作で急死した。享年六十六歳であった」と、藤倉忠明氏の『写真伝来と下岡蓮杖』には書かれていた。ショイヤーは横浜外国人墓地の22区に葬られている。「ショイヤー夫人の館にショイヤーの遺産管財人として居留する建築家ブリジェンス」とも、同書には書かれており、ラファエル・ショイヤーの事業の処理を、ブリジェンスが引き受けていたことが窺われる。「建築絵画師のビギンと云ふ人から、始めて石板印刷術を習ひました」と、『横浜開港側面史』で蓮杖本人も語っている。

 翌1866年1月にアメリカの弁理公使として元北軍の将軍ロバート・ブルース・ヴァン・ヴァルケンバーグが赴任してきた。任期は短く、1869年11月には離日しているが、その間に幕府が発注した軍艦ストーンウォール(甲鉄艦、のちに東艦)を、戊辰戦争勃発による局外中立を理由に引き渡さず、1869年2月になって薩長軍側に斡旋したことで知られる。  

 幕府に対抗できるだけの軍艦を購入したいと焦る薩摩の五代友厚と寺島宗則に、「諸外国に局外中立を要求する通牒をすぐに発するよう助言した」のはサトウだった。「そうすれば、アメリカ公使が〈ストーンウォール・ジャクソン〉を徳川側に引き渡すのを防げるし、回航待ちのフランスからの二隻の甲鉄艦も食い止められるからだ」と、『一外交官の見た明治維新』には書かれた。同艦と対抗できるのは「この近海では英国の甲鉄艦オーシャン号あるのみ」という状況で、「大君がストーン=ウォール号を手に入れる場合、ただちに制海権を獲得するであろう」ことを危惧したと石井孝氏は『増訂明治維新の国際的環境』に書いていた。ストーンウォール号は、私の遠縁の若者が戦死した箱館湾海戦では旗艦となった。

 そのヴァルケンバーグの夫人アナの旧姓がショイヤーなのを発見したときは唖然とした。ネット上で見られる家系図調査のいくつかのサイトの情報からは、彼らが1867年11月25日に横浜で結婚したことがわかる。ヴァルケンバーグも最初の妻を1863年に亡くしていた。アナは夫ラファエルの死後、この弁理公使と再婚して、アメリカにともに帰国したのである。横浜の墓地にラファエルのみが眠っている理由がこれでわかった。  

 ここまでのことは、私が以前に調べ、当初は『埋もれた歴史』に書くつもりだったものの、大幅に削らざるを得なかった原稿の一部だった。しかし、ネット上の情報は歳月とともに驚くほど増える。今回、原稿を書くに当たって再度、典拠や文字、数字を確認するため検索をかけていたら、少々驚くべき新情報を見つけた。外国人に日本を教えるためのブログに、「米国と〈サツマみかん〉」と題して書かれていたなかに、ヴァルケンバーグ夫妻(記事ではヴォルケンバーグと記載)が九州を旅した際に日本の温州みかんを食べ、夫人のアナがそれを大いに気に入ったため、日本から帰国して9年後に苗を取り寄せて、サツマと名づけて1878年からフロリダ州で栽培を始め、それがアメリカ南部でこのみかんの栽培が始まった最初だというのだ。もう一説あることも紹介されており、それはなんと、横浜の開港当初にいた重要人物ジョージ・ホール医師が、1875年に日本を再訪した際に入手した温州みかんの苗を翌年から栽培しだしたというものだ。ジョージ・ホールがかなりの植物採集マニアだったのはよく知られているので、どちらも事実だろう。サツマの名称を誰がつけたかについては、イギリス編も書かれていたので、後日読んでみたい。もっとも、この記事を書いた方は、アナの驚くべき経歴は調べなかったようだ。  

 ネット上にはほかにも、1870年春にヴァルケンバーグ家の人びとが親族の金婚式に集まったときの集合写真も掲載されており、写真のなかのアナは、相応に年を取ってはいるが、まだ豊かな黒髪を結いあげ、玉蘭斎の絵にあるようなたくさんのフリルのついたドレスを着て写っていた。  

 次回はさらに複雑な人間関係を解さなければならないが、ブリジェンスについて知ることは、幕末・明治の過渡期の居留地をめぐる人間関係を知ることでもあるので、引きつづきお読みいただければありがたい。

 町会所、『横濱銅板畫』より

 新橋停車場、明治40–大正7年

横浜の三代目大江橋(1922年7月竣工)。奥に見えるのが横浜駅。翌年の関東大震災で大きく損傷する前の撮影。

 横浜税関、『FAR EAST』より

 あじさいの里、2017年9月撮影

『横浜開港見聞誌』国会デジタル図書館の「横浜文庫6編、[3](右)、[4](左)

横浜外国人墓地のブリジェンス夫妻の墓、2018年2月撮影

 同、ラファエル・ショイヤーの墓、2017年9月撮影