2024年3月22日金曜日

お彼岸に想う

 また3月が巡ってきて、1年前を思いだすことが増えている。辛くなるので読み返せなかった当時のメールを、先日少しばかり繰ってみた。忘れもしない春分の日の早朝に母の古い友人からかかってきた電話で、その前夜に母が緊急入院したことを知り、朝食もそこそこに電車に飛び乗ったのだった。  

 母のいない日々がもう1年近く経つとは、信じ難い。母が毎週、横浜まで通ってきて面倒を見てくれた孫は、その間に幼稚園の年中を終え、少しはピアノも練習するようになり、自転車の補助輪もとれた。先日は近所の書店で娘の近刊『あかちゃんの おさんぽ えほん』の発売記念イベントがあり、孫が代わりに絵本を読んで、カラスの羽繕いまでやって見せて拍手喝采を浴びていた。  

 昨夜は、少し前にコウモリ通信で宣伝させていただいた「懐かしい仲間、新しい響き」と題したコンサートがすみだトリフォニー小ホールで開かれた。昨年初めに姉が企画し、コロナ禍でお流れになってしまったニューヨーク在住の旧友大谷宗子さんを迎えての、いわばリベンジの催しだった。これまで姉のリサイタルや発表会のときは、いつも母が何かと支えていたので、大丈夫だろうかと一抹の不安を覚えていた。だが、そんな心配は杞憂に終わり、昨夜は大勢の観客が見守るなか、パワフルな宗子さんからエネルギーをもらったかのように、還暦を過ぎた音楽仲間たちが大熱演する会となった。 

 演奏会のあとで音楽通の古くからの知人が、宗子さんがバイオリンの小品にあまり知られていない女性作曲家の曲を選んで演奏していたことを高く評価しておられたので、彼女にそうお伝えしたら、「そうよ、ちょうど3月が国際女性デーでしょ」と即答されていた。なるほど、そうだったのか、と鈍い私はようやく気づいたしだいだ。アンコールには、クラリネットの野田祐介さん編曲でラヴェルの「マ・メール・ロワ」から妖精の庭を6人で演奏し、姉も最後のグリッサンドを格好よく決めていた!  

 コンサートに行く前に、せっかく都内に出るのだからと、年始にたまたま見つけていた曽祖母の妹の嫁ぎ先と思われる明治初期創業の会社を訪ねてみたのだが、金曜の夕方という忙しい時間に不意に訪ねたこともあって、ていよくあしらわれてしまった。地図で調べたときには気づかなかったのだが、何と薬研堀という立地にあり、すぐ近くの柳橋付近は屋形船が何隻も係留されており、隅田川の波間にはウミネコと思われる大型カモメが多数浮かんでいた。すぐ上流には上田藩の中(上)屋敷があったし、スカイツリーの方角には、母の眠るお寺がある。 

 錦糸町までは電車に乗るほどの距離でもないと思い、両国橋を渡ってそのまま14号線を直進した。出がけに思いついて1920年の本所区の地図を確認したところ、祖父一家が関東大震災時に住んでいた緑4丁目の一帯で45という番地を見つけていたからだ。この付近は焼け野原となっているので、区画がかなり変わり、現在は線路際に40という番地までしかないが、大正時代には14号線の南側に40番台があったようだ。曽祖父が存命のころは、そのすぐ南の菊川で開業していた。東に数十メートルも行けば大横川が流れており、大横川が小名木川とぶつかるところには高祖父が馬術を教えていたという上田藩抱屋敷があった。

 緑4丁目から総武線の線路を越え、大横川を渡った先に、すみだトリフォニーはある。直線距離で200メートルもない位置だ。そのホールで姉が古くは高校時代からの懐かしい仲間とともにお彼岸にコンサートを開いたというのは、亡き母にとって、先祖にとって、何よりもの供養になった。

 両国橋からの隅田川

大横川沿いの緑4丁目からすみだトリフォニーは目と鼻の先

3月上旬、娘が多忙だったため、私がピンチヒッターでおおよそ作成し、入稿前に娘に手直ししてもらったプログラム

 地元の書店で開かれた絵本のお披露目会

 赤ちゃん絵本を読み聞かせする5歳児!

2024年3月1日金曜日

タイ旅行2024

 本当に久々にタイへ行ってきた。昨秋ごろから、娘が留学時代の仲間とタイで会おうという夢物語のような計画を立て始め、孫守りと荷物持ちを兼ねて私も同行することにしたのだ。ところが、パスポートすら期限切れになって久しく、まとまった休みを取るには、それまでにいまの仕事を終わらせなければならない。コロナは収束したとはいえ、誰かがインフルエンザになっても、計画は台無しになる。集まってくる友人たちも、タイで迎えてくれる友人たちもみな多忙なので、本当に実現するのか最後の最後までわからなかった。

 この8年ほどのあいだに、世の中は様変わりしていた。最寄駅の緑の窓口がなくなったため、成田エクスプレスの予約はえきねっとを利用せざるをえなかった。いまでは飛行機も航空会社でネット予約するほうが安くなり、チェックインもオンラインなので、タイの滞在中、Wifiで乗り切るのは難しそうだと考え、滞在日数分だけSIMカードを購入した。円安とタイの物価が上がったせいで、昔は見たこともなかったような1000バーツ札がどんどん財布から消えていった。バンコクの中心部は、どこもかしこもガラス張りの高層ビルが立ち並ぶ林のようになっていた。  

 ニューヨークとバンガロールから別々の時間帯に到着する友人たちとうまく会えるかどうかが最初の難関だったが、1人は到着した旨の連絡がこないまま、到着しそうな時間にBTSスカイトレインの駅の改札で待つことで無事に会え、短い市内観光に出かけたあと、BTSで戻る途中の車内で、偶然にもサヤーム駅から乗り込んできた残りの2人とも出会うことができた。総勢6人で最初に宿泊したのは、寝室3室、バスルーム2つとトイレ1つというAirbnbの超豪華マンションだった。  

 翌日はタイからの留学生だった友人の案内で、バンルアン運河沿いのアーティスツ・ハウスへ出かけ、のんびりとスケッチを楽しんだ。タイの友人は、私たちのあらゆる望みを叶えようと奔走してくれ、簡単に拾えなくなったタクシーを「ラインマン」というタイ版ウーバーのようなアプリで手配することから、すぐに見つからないストリートフードのローティーサイマイやチャオクワイなどを差し入れ、新婚の友人たちのためのディナーにはケーキを手配してくれた。タイ土産に椰子の木細工の製品を買いたかったのに、見つからなかった友人には、ネットで注文して「ラインマン」を使って出発直前に配達させるなど、最後まで機転を効かせて面倒を見てくれた。  

 週末は、タイの鳥仲間がウタイタニー県のサケークラン川沿いの水上住宅を手配してくれ、そこでのんびりと絵を描き、鳥を見て過ごした。ちょうど万仏祭で三連休だったせいか、最初の晩は夜間にモーターボートの暴走族が何度も出現して、そのたびに家中が揺れて肝が冷えたが、夜明け前からオニカッコウの声が聞こえ、白み始める空に沈む月を眺め、贅沢な時間を過ごした。鳥仲間の友人は、女性全員に最近の流行というカンケーン・チャーンというゾウの絵柄のゆったりズボンまで用意してくれ、みんなでそれを穿いてワット・タースンというタイ版鏡の間のようなお寺にも行った。もちろん、フアイカーケン野生動物保護区にも行き、野生のトラこそ見られなかったが、そこで娘の鳥見と絵のお師匠であるアーチャン・カモンと奥さんにも会うことができた。  

 娘は1歳過ぎから何度も海外に出ていたが、コロナ世代の孫にとってはこれが初めての飛行機の旅であり、海外旅行だった。『気候変動と環境危機』を訳し、「飛び恥」についていろいろ学んだ私にとっては、「グレタ、勘弁ね」と思いながらの旅だった。タイでは例年になく早い時期から猛暑が始まり、PM2.5も深刻なレベルだという。孫は騒音や臭いに極端に敏感で、ふだんはバイクが通り過ぎるだけで両耳を手で塞いでその場で立ちすくんでしまう子なのだが、喧騒どころか大騒音の洪水と、下水や香辛料や香水、排ガスの充満するバンコクの通りや市場を数日間歩いたことは、かなりのショック療法になったようだった。友人たちはみな子ども好きで、手遊びや歌、絵の描き合い、紙飛行機飛ばし、花や実集めまで、いろんな方法で遊んでくれ、英語、タイ語、日本語が飛び交うなかで、孫は年中笑い転げて大はしゃぎだった。短い時間だったが、だいぶ記憶が曖昧になったタイのじいさんに会わせてやることができたのも大きな収穫だった。  

 娘の留学仲間がそれぞれの国に帰っていったあとの最後の晩は、2004年のインド洋大津波の年に鳥見のツアーで出会った仲間たちが夕食に招いてくれた。最高齢の友人は、コロナ以来、初めてこうした会食の場に出てきたのだそうで、二重にしたマスクがその覚悟の大きさを物語っていた。私たちに会うためにその決心をしてくれただけでなく、全員分の食事代まで払ってくれた彼女は、昔よりだいぶ痩せて、母の最晩年を思わせ、別れ際につい涙ぐんでしまった。  

 旅の途中で何人かは体調を崩したし、地球一周の旅をしたアメリカの友人は、最終目的地まで荷物が着かなかったし、私たちの帰国便も遅れて、真夜中過ぎに娘の夫に羽田まで迎えにきてもらうはめになったが、全体としては大成功・大収穫の旅だった。思い切って出かけて本当によかった。 

 さあ、これから出発前に終わらなかった巻末の参考文献の処理と、確定申告に取り掛からねば!

バンルアン運河のArtist's Houseにて、私も持参した水彩用紙の切れ端にスケッチをした

懐かしいセンセーブ運河船に少しばかり乗船

お揃いのゾウ柄パンツを穿いて「鏡の間」へ

水上住宅の東屋

ウタイタニーでの夕食