2010年4月30日金曜日

『認知症にならないための決定的予防法:アルツハイマーはなぜ増えつづけるのか』

「あの火山の名前、覚えている? エイヤフィヤトラヨークトルだよ!」
 先日、うちの母が突然こんなことを言いだした。頭の体操だと思って、三日もかけて覚えたのだそうだ。 昨年から私がアルツハイマーの本を翻訳しており、会うたびにいろいろと吹き込んだためか、母も予防策を講じているらしい。なにしろ、アルツハイマーの危険因子の一つは遺伝、つまり家族歴であり、私の祖母は、アルツハイマーと診断されることはついになかったけれども、最晩年、認知症をわずらっていたからだ。 

 祖母は七十代なかばまで英語の添削の仕事をし、趣味で彫金をやるなど、元気に老後を送っていたが、八十を過ぎたころからデパートに通っては同じような服を何枚も買い、やたらに長電話をかけてくるなど、言動がおかしくなり始めた。やがて台所に焦げた鍋がいくつも放置されるようになり、一人暮らしが危険になったため、ケアハウスに移ることになった。そこは親切なスタッフに囲まれ、狭いながらも個室があり、食堂に行けば三食がでてくる快適な生活だったが、それも長くはつづかなかった。 

 ある年のクリスマス・イブに、ケアハウスから呼びだしを食らった。駆けつけてみると、祖母はすぐ前の建物からライオンが跳びだしてくるなどと訴え、完全に錯乱していた。その晩は、バスルームの床を這い回っては、見えない虫をたたきつぶそうとする祖母を、幼い子をなだめるように抱き締め、ようやくベッドに連れ戻した。すると今度は、ベッドが水浸しで眠れないと頑なに言い張る。こうなるともうケアハウスでは暮らせない。 

 年末年始で行き場がなかったため、祖母はしばらく遠くの病院の精神病棟に預けられた。出入口が施錠されているその大部屋にはベッドがずらりと並んでおり、ぶつぶつ言いながら徘徊する人もいれば、床に転がっている人もいた。なかにはまだ五十代と思われる患者もいた。強烈なアンモニア臭に圧倒されたが、認知症になるとまず嗅覚をやられるので、祖母は気にも留めていなかった。錯乱状態はそのうち治まったが、その後は六人いる子供の誰それが浮気をしているとか、アフリカに探検に行ってしまったとか、見舞いに行くたびにおかしな話をするようになった。やがて、饒舌だった祖母もどんどん無表情に、無口になっていった。   
 
 一人娘で甘やかされて育った祖母だったけれども、好奇心旺盛でユーモアもあり、孫たちのことはかわいがり、よく面倒を見てくれた。祖母との思い出はいくらでもあるはずなのに、最晩年の豹変ぶりがあまりにも強烈で、その姿ばかりが浮かんでくるのは悲しい。  

 自分も老いたら祖母のようになるのだろうか? なぜ認知症になるのだろう? このたび刊行された私の訳書、『認知症にならないための決定的予防法――アルツハイマーはなぜ増えつづけるのか』(ヴィンセント・フォーテネイス著、河出書房新社)は、そんな長年の疑問に答えてくれる本だった。衝撃的だったのは、睡眠不足と慢性ストレスがアルツハイマーの引き金になる、という著者の指摘だ。しかも、アメリカでは八十五歳以上の人の半数はアルツハイマー病なのだという。自分の晩節を汚さないためにも、家族や社会に負担をかけないためにも、いまからできる限りの予防策をとりたいものだ。 

 著者はこんなことを書いている。「簡単な読書をすれば、脳の刺激になると考えている年配者もいますが、脳の予備力を高めるためには、もっと多くの精神的活動が必要かもしれません」。本書をはじめ、私の訳書はどれも分厚くて小難しいと、いつも周囲に不評だが、頭を使う本は認知症の予防策にもなるようだ。みなさんも、どうぞご活用ください! 

 祖母が子供のころ使っていた「舶来」のリボン

『認知症にならないための決定的予防法:アルツハイマー病はなぜ増えつづけるのか?』 ヴィンセント・フォーテネイス著 (河出書房新社)