2023年11月9日木曜日

絶望感

 昨春にリーディングをし、今年初めから翻訳に取り組んできた国境問題を広く扱った本については、これまでも何度か関連の記事を思いつくままに書いてきた。この9月からその本の校正に入ったところ、10月7日にガザ地区を実行支配するハマスがイスラエルを奇襲攻撃したために、本に書かれていたパレスチナ人の惨状が急に現実として迫ってくるようになった。本作には、「ウォールド・オフ、壁を築く」という章がある。ガザ地区ではなく、ヨルダン川西岸地区の歴史と現状に焦点を当てたものだが、この一世紀ほどのあいだパレスチナ人が置かれてきた状況を知るうえでは、非常に有意義な章だと思う。章題そのものは、ベツレヘムにあるバンクシー経営のホテル名を借用しており、このホテル名そのものも、ニューヨークの老舗ウォルドーフホテルをもじったものである。 

 私自身は恥ずかしながら、パレスチナ問題はかなり疎い。日々の報道を適当に追うだけでは、とうてい理解できないことだからだ。中東に行った経験も、学生時代にパキスタン航空でヨーロッパに旅をした際に、ドバイを経由した数時間しかない。タラップから降り立った地面が、目玉焼きができそうなほど熱かったことや、民族衣装を着て黒いコウモリ傘を日傘にする男性たちの奇妙な光景くらいしか覚えていない。  

 パレスチナ問題を多少なりとも知るようになったのは、学生時代に緒方貞子先生の講義を受けたときのことだった。当時はまだ難民高等弁務官に就任される前だったが、ゴラン高原について語っておられたことだけを記憶している。その後、チョムスキーの『覇権か、生存か』という本の下訳をすることがあり、「憎悪の大釜」という章で2002年以降に建てられた分離壁について知り、その唖然とする実態に驚いた。だが、当時の私には知らないことだらけで、翻訳するのに精一杯で終わってしまった。  

 今回の作品でも、パレスチナ人が置かれた惨状はよく理解できたものの、地図で詳しく図解されるような作品ではないため、あまりにも複雑な経緯をたどった歴史や、いたるところに分離壁がぐねぐねと立ち並ぶ地理は、文章からはどうにも理解できなかった。再校正に入って、翻訳上の直しが減って読めるようになったゲラを前に、少しばかり背景を整理してみた。  

 まずは高校時代の世界史で覚えさせられたバルフォア宣言が、イギリスの「国王陛下の政府はユダヤ人のためのナショナル・ホーム(民族的郷土)をパレスチナに創設することを好意的に見ている」という、非常に両儀的な表現で書かれていたことをようやく知った。当初、私はこれを安易に「祖国」と訳していたのだが、バルフォア宣言の現物画像をウィキペディアで見て、待てよと考え直し、それについて言及しておられた「世界史の窓」というサイトを参考にさせていただいた。

 その後、1948年に地図上に緑の色鉛筆で引かれたグリーンラインでヨルダン領に編入されたヨルダン川西岸地区が、1967年の第三次中東戦争以降、イスラエルに実効支配された「占領地」となり、戦争は公式には終わっていないので、いまもその状態なのだという。1993年のオスロ合意のときにはすでに、その土地の60%以上は「C地区」として区分され、そこからパレスチナ人は一掃されていることを、遅まきながら理解した。よく見聞きする「パレスチナ自治区」という名称は、残りの「A地区」(17.2%)と「B地区」(23.8%)、およびガザ地区をかき集めたものだったのだ。「B地区」は、行政はパレスチナ人によるが、治安はイスラエルという混合の地区だ。したがって西岸地区では、残りの3割強の虫食いのような場所だけが「パレスチナ自治区」ということになる。国連は2012年からそれらの寄せ集めにたいし「パレスチナ国」という呼称を使い、EUは「占領されたパレスチナ地域」などと呼んでいるという。パレスチナ自治政府を率いるアッバース大統領は、「私にとって(東エルサレムを含む)ヨルダン川西岸とガザがパレスチナであり、それ以外はイスラエルだ」と2012年に主張しているそうだ(彼のウィキペディアのページより)。グリーンラインが引かれた当時、エジプト領となったところがガザ地区で、ここも1967年以降、イスラエルが実効支配し、2007年からは軍事封鎖されていた。ガザの状況は、この10月以前も西岸地区に輪をかけて悲惨であったわけだ。  

 グリーンラインで東西に真っ二つに分断されたエルサレムは、現在も基本的にはそのままで、旧市街は東エルサレム側にある。旧市街の51%はムスリム地区で、21%がキリスト教徒地区、残りはアルメニア人とユダヤ人が14%ずつ住むという。しかし、旧市街を含む東エルサレムは、西岸地区のなかでも特殊な位置付けとされ、イスラエルはここを西岸地区とは見なしていないのだそうだ。こうなると、たとえ地図で示されても、誰がその土地を支配しているのかもさっぱりわからない。  

 こうした背景が頭に入ると、強引に、なし崩し的に土地を買収し、法律を変えて入植地を広げていったイスラエルに、住んでいた村を追われて移住させられ、周囲を高い壁で囲まれた暮らしを強いられてきたパレスチナ人の状況がより切実に感じられる。  

 西岸地区について書いたこの章を訳して何よりも強く印象に残ったのは、いまや70年以上にわたって、世代を超えて抑圧されてきた人びとのあいだにある圧倒的な絶望感だった。引用されているパレスチナ人作家の作品の一つは、10代の若者が自分を殺すことでしか、本物の世界には到達できないと思いつめ、どんどん自死する近未来を描くものだった。  

 同様の絶望感は、中南米からアメリカへ密入国する移民を描いた章や、サハラ以南の国々から地中海沿岸にあるスペインの飛び地メリリャへの侵入を試みたり、地中海を小船で横断したりする移民や難民の章でもひしひしと感じられた。分離壁の向こうで贅沢に自由に暮らすイスラエル人がかいま見え、インターネットを使えば豊かな国の情報がいくらでも入ってくる現代において、自分たちの日常とのあまりの格差を見せつけられたとき、人は何を思うのか。もちろん、ネットにも接続できず、明日の食べ物もないほど困窮していれば、その行動にすら出られないだろう。でも、ジリ貧となり、この先も決して展望は開けないと悟ったとき、座して死を待つよりは、もはや失うものは何もないと、一か八かの賭けに出る人も出てくる。「靖国で会おう」は戦後のつくり話という説も出てきているようだが、死後の世界を信じる人びとにとっては、討ち死にはどうしても美化されがちだ。そこまで追い詰められた人びとには、自分の刃の矛先が「敵側」の幼い子どもに向けられたとしても、その子が敵の子であるという理由だけで、正当化されてしまうのかもしれない。  

 平和な日本から見れば理解不能な行動に出るこれらの人びとの、こうした底知れぬ絶望感を知ると、一連の事態を単に善悪で語る政治家たちの言葉は虚しく響く。誰が彼らをそこまで追い詰めたのか、歴史を振り返り、胸に手を当てて自問してから発言してくれよと言いたくなるのだ。

Wikipedia「ベツレヘム県」のページより。この地図はUnited Nations OCHA oPtをもとに作成されている。 
ベツレヘムは拡大したエルサレムの郊外と接する南に位置するパレスチナ自治区で、その境界には分離壁(地図の赤い線)が立ちはだかる。1949年のグリーンライン(緑の線)と分離壁のあいだの地帯には、1970年以降に増えたギロなどのイスラエルの入植地がある。