2020年11月27日金曜日

虎雄さん調査再開

 先日、1週間ほどまとまった時間が取れたので、以前に購入した熊本県の『玉名市史 通史編上下』と『岱明町地方史』を読み返し始めた。牧人舎のコウモリ通信に何度か触れたことがある、長崎出身の曾祖父山口虎雄の調査を再開したのだ。すでに貴重な自由時間は終わってしまい、これからは片手間に細々とつづけるしかないので、何年がかりになるかわからないが、ともかく再開したことだけは記しておきたい。  

 この曾祖父の訳書『嗚呼 此の一戦』については以前に書いたことがあったが、この訳書と同年の明治45年に同じ博文館から刊行され、数年後に重版された『新式実用 露語独習』増訂版も古書店で見つけて購入した。数年前から国会図書館のデジタルコレクションで公開されていて、実用とするにはあまりも古めかしいことは知っていたが、開いてみたら以前の所有者があちこちに丁寧な書き込みをしていて、学習に使ってくれていたらしいことがわかった。  

 4年前の九州旅行の際に長崎の市役所の人が2時間もかけて調べてくださった除籍謄本から、養子に行ったこの曾祖父の実家が玉名郡大野村大字野口だったことが、番地にいたるまで判明していた。通常ならそれで終わるところだが、曾祖父の旧姓は大野なのだ。大野村だから大野さんだったのかと、軽い気持ちで調べ始めたところ、『姓氏家系大辞典』に玉名郡大野荘や大野別府に関する長い記述があり、資産家だったのに、一家を離散させた放蕩親父として子孫には伝わっていた虎雄の実父は、調べるに価する興味深い人物であった可能性がでてきたのだ。そこで、玉名の地元史の本を大枚をはたいて購入してみたものの、長いこと本棚に鎮座したままになっていた。  

 この1週間余り、これらの地元史を読んで知ったことは驚きの連続だった。大野という名が記された最古の記録は、『肥前国風土記』の高来郡の項に、景行天皇が肥後国玉名郡長渚浜の行宮に滞在していたとき、「神大野宿祢」に島原方面を視察させたという記述らしいが、玉名には江田船山古墳をはじめ多数の古墳があり、大野氏の故地と考えられている築地の南から、長さ6m超と5m超の巨大木棺が二基出土しているほか、菊池川の対岸ではあるが、やはり玉名市の斎藤山遺跡からは、日本最古といわれる弥生時代の鉄斧が出土していることを、『歴史玉名』に掲載された講演録から知った。ネット上で読めた論文から、この鉄斧が中国北東部にあった燕国の鋳造品と考えられていることなどもわかり、船山古墳から私が想像したことが的中したようなのだ。この古墳から出土した金銅製飾履には亀甲繋ぎ文が刻まれているが、大野氏一族には幕紋として亀甲を使用していた家や、のちに亀甲氏を名乗った家があり、何らかの関連がありそうだ。なにしろ、『玉名市史』はかつてここに吉野ヶ里のような「大野国」が存在したに違いないと推察しているのだ。「野口という大字名は大野の入口という意味であろう」とも。大野別府と呼ばれていた時代は250町だった領地が、どんどん失われ、大野氏が最後までいた場所の一つが野口らしい。  

 驚くべきは古代史だけではない。高瀬はおそらく自由港津のような発展を遂げたと考えられており、歴史を通じて近隣諸国の人びとが出入りしてきた場所だった。元寇、日明貿易、ポルトガルの宣教師による布教活動など、地方史とは思えないほど国際色豊かな歴史が繰り広げられたあと、この地も戦国時代に突入し、大野氏は小代氏によって滅亡させられたのだという。悲運の大野氏を慰霊した四十九池神社まであるようだが、大野一族は死に絶えたわけではなく、歴史の舞台からは姿を消した、ということらしい。祖先が滅亡してしまっては、私にはちょっと都合が悪い。  

 もちろん、私の高祖父に当たる「放蕩親父」が明治になって適当に大野と名乗ることにした可能性は皆無ではないが、これだけの歴史的背景のある大野村で、まるで関係もなくその名字を名乗ることは、通常では考えにくい。コロナ禍でなければ、1週間の調査旅行にでかけたいところだが、こんなときにひょっこり訪ねてくるよそ者が歓迎されることはないと思い、とにかくまずは下調べをすることにした。滅亡の年も、説によって30年の隔たりがあるようなので、小代氏文書などが収載されている『玉名市史 資料編5』をさらに古本で買ってしまった。玉名に行ったこともないのに、これほど市史を読んでいるのは私くらいではないだろうか。  

 一方、曾祖父の虎雄自身については、拓殖大学の百年史関連の書物からいくらか情報が得られた。名称も教育機関として位置づけもたびたび変わっているので当時何と呼ばれていたか、まだ確かめていないが、のちに拓大となった学校でロシア語が開講されたのは、ロシア革命の年、1917年で、曾祖父がロシア語の講師として雇われたのはその3年後にロシア語が同大の主要3言語に認定された年だった。同僚の多くは学士や博士であるなか、曾祖父の学歴欄は空白になっていたが、「出身地長崎県の長崎露語研究会、後には清国旅順でロシア語を学んだ。桜井[又男]と同じく陸軍通訳を経て、大正4年には参謀本部の嘱託としてロシア語業務を担当した」と『拓殖大学百年史 大正編』に書かれていた。どこでロシア語を学んだのか、ずっと疑問に思っていたが、私が想像したとおり大陸に渡っていたのだ! 娘が昔、叔父から聞いたところでは、曾祖父は1906年4月、まだ21歳のときに勲六等単光旭日章をもらっているので、おそらく旅順にいたころに日露戦争が勃発して現地採用の通訳として雇われ、何らかの功績があったのだろう。第一次世界大戦が大正3年に始まっているので、そのころ再び陸軍で仕事をしたのだろうか。拓大には、似たような経歴の同僚が何人かいるので、正規の大学教育は受けていなかったが、教員として採用してもらえたようだ。拓大関連の論文には「明治45年二松学舎卒業」とも書かれていた。二松学舎は当時まだ大学ではなく、漢学塾だったようだ。  

 1924年から1943年にかけて書かれた論文が数本確認されたほか、『レーニンの帝国』という訳書が1924年にでているようだが、これは未確認だ。百年史の昭和編には、拓大のロシア語研究会の会長を務め、昼休み時間に作文、翻訳の課外授業を行なったほか、週一回の研究論文発表会の指導にも当たったと書かれていた。1933年7月には満州産業建設学徒研究団の団長に、拓大の永田秀次郎学長が団長として就任し、そのころには教授になっていた曾祖父が研究団員として参加した写真が、100周年記念のアルバム『雄飛』のなかにあった。1938年ごろには学生主事を務めていたこと、1944年に鉱山科新設の申請がだされた際には、専任の教授として70時間の受持時間となっていたことなども、いくつかの論文からわかった。  

 百年史には「1947年まで、実に27年にわたり本学でロシア語を教えた」と書かれていたが、叔父からは48年6月24日に在職中、肺炎で死亡したと聞いていた。ペニシリンが手に入っていたら助かったと言われ、娘は高校時代にペニシリンについてあれこれ調べたようだ。東京大空襲で西大久保の家が全焼し、長野県の仁礼村に疎開していたが、曾祖父は単身、東京に戻り、学内の一室に寝泊まりしていたという。母の一家が戦後、松代に引っ越したのが1947年秋以降で、引っ越してすぐに虎雄と孫たちだけで象山に登ったそうなので、本当に急死だったのだろう。電話連絡を受けて動転した祖母が、たまたまその場にいた実母に向かって「お母さん」と呼んだことが子供にとって印象深かったことや、病弱な赤ん坊だった末っ子の世話で、葬儀にでられなかった祖母の代わりに、母たち姉妹が3人だけで汽車に乗って上京したこと、葬儀の場で虎雄の弟に会い、そこでコッペパンをたくさんもらったことなどは、私が何度も母から聞かされた話だった。この弟はコッペパンを土産にもってきたばかりに、本名は忘れられ、「コッペパンの叔父さん」としてしか記憶されていない。伯母によると、その後に学葬があったのか、参列した祖母が泣き崩れていたという。  

 一人っ子だった祖母は父親に甘やかされて育ったのだろう。晩年になるまで子供のころに買ってもらった幅広のリボンを大切にもっていて、まるで形見分けのように、すでにボロボロになったその一部を切って私にくれたことがあった。当時の私に、祖母の話をもっと聞いてあげる気持ちの余裕がなかったことが惜しまれる。

西大久保の家で盆栽を育て、九官鳥を飼っていた虎雄

 祖母からもらったリボンの切れ端

2020年11月16日月曜日

横浜市中央図書館

「宇宙(人はこれを図書館と呼ぶ)は、不定数の、おそらくは無限の数の六角形の閲覧室で成り立っている。真ん中には巨大な通風孔があり、ごく低い手すりで囲まれている。どの六角形からも、上のほうの階や下のほうの階がはてしなく見える。閲覧室の造りはつねに同じだ。書棚は20段あり、2辺を除いた各辺に5段ずつ長い棚が並ぶ。書棚の高さは、各階の天井高に等しく、平均的な司書の背丈とほとんど変わらない。書棚のない空いている辺の一方は狭い出入り口に面し、別の閲覧室へとつづいている。最初の閲覧室や、その他すべての閲覧室とそっくりの部屋だ。出入り口の左右には二つの小部屋がある。一方は立ったまま眠るための部屋で、もう一方は生理的欲求を満たすためのものだ。この部分は螺旋階段に通じており、下は奈落の底まで、上は高みにまでつづいている」(アンソニー・ケリンガン英訳から重訳)  

 これはアルゼンチンの作家、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『バベルの図書館』の冒頭部分で、現在、取り組んでいる本のなかで言及されていた。建築物の描写の翻訳は非常に厄介で、文面から正確にその光景を頭に描けることはまずない。実在する建物であれば、私はひたすら画像を探し、著者が何を言わんとしているのかを確かめる。だが、ボルヘスのこの図書館は架空のものであり、しかもスペイン語の原文からの英訳は何種類かあるようで、少しずつ内容が異なる。岩波文庫の『伝奇集』にある鼓直氏による邦訳も読んでみたのだが、どんな構造かまるで思い描けない。  

 六角形が無限につづくと言えば、誰もがハニカム構造なり、亀甲繋ぎなりを連想するだろう。この文様を多用していた鮮卑について調べたことがあったので、その意味でも興味を引かれたのだが、ボルヘスはこれを際限なく広がりうるパターンとして思いついたに違いない。だが、八角形と四角形でやはり連綿とつながる蜀江文や、タイルによくあるその変形版ならば、隣の閲覧室とのあいだの「出入り口」(英訳ではentrance way)の両側に小部屋を配することもできるが、亀甲繋ぎの場合、一つの六角形の辺は隣り合う六角形の一辺と完全に接していなければならない。壁の厚みがかなりあると考えれば、不可能ではないとしても、螺旋階段はいったいどこにあるのか。などと、あれこれ頭を悩ませながら画像検索をすると、この図書館を描こうと試みた人が大勢いることがわかったが、当然ながらすべての条件を満たした作品は見つからなかった。  

 私がとくに悩んだのは、英語では複数になっていた通風孔だ。中央に位置する通風孔の周囲に六角形の部屋が6つ配置されたある想像図を見て、これを1ユニットと考えるのかなどと納得した。そこでふと思い浮かんだものがあった。実際にそんな光景を見たことがあるのだ。しかも図書館で。そう、横浜市の中央図書館だ。それまであまり意識したことがなかったが、建物の中央に吹き抜け部分がある。そのなかで、かなりの重量と思われる金属の塊がガラス越しにゆらゆらと揺れている。私は館内閲覧の本のコピーを取るために、その光景をぼんやり眺めながらコピー機の前でこれまでかなりの時間を過ごしてきた。  

 次に図書館に行った際に確かめてみたら、「光庭」と呼ばれているこの吹き抜けは実際に六角形だった。司書に教えてもらった図書館建設に関する資料にあったフロアプランからは、この建物が亀甲繋ぎのように、「六角形を基調としたユニットを組み合わせた」ものであったことがわかった。この図書館には、螺旋階段すらある! 地下3階、地上5階なので、バベルの図書館とは比べものにならないが、最上階から見下ろせばそれなりに迫力がある。「光庭」は地下3階までつづいていた。書庫の本の貸し出しや閲覧をお願いしても、それを取りに行く係員は穴倉のような倉庫を這い回るのではなく、自然光の入る閲覧室のようなところで本を捜す作業ができるようだ。  

 設計は前川建築設計事務所ということしかわからない。このアイデアを思いついた人が、ボルヘスの作品を読んだことがあるのかどうかもわからなかった。1987年に中央図書館の基本構想が立てられた時代は、横浜もいろいろな意味で文化的に豊かだった、ということだろうか。決して広いとは言えないこの図書館はいまでも大勢の市民に日々利用されている。小さな子供から老人まで、館内でそれぞれ自分の世界に浸っている。

「光庭」

 オブジェ「光のまい」は望月菊麿作

 中央図書館のフロアプラン

 螺旋階段

 横浜市中央図書館外観

2020年11月11日水曜日

井戸対馬守覚弘

 相変わらず調べ物がつづいている。オランダ通詞の森山栄之助に関連して、井戸対馬守覚弘(さとひろ)について意外な事実を知ったので、書き留めておきたい。井戸覚弘は、私にとってはペリー来航時の応接掛の一人であり、吉田松陰や佐久間象山を収監した人だったが、彼は江戸の北町奉行になる前は、長崎奉行であり、そこでアメリカ人ラナルド・マクドナルドから森山らが英語を学ぶ機会をつくった人物なのだった。しかも、長崎奉行としての彼の前任者は高島秋帆を逮捕した伊澤政義で、鳥居耀蔵の姻戚というこの伊澤は、井戸とともに応接掛の5人のメンバーの1人となっていたのだ。なんとも込み入った狭い世界で、どういう人間関係なのか、私の頭のなかではまだ整理がつかないが、ラナルド・マクドナルドの手記を斜め読みして、井戸の人物像は朧げながらわかった気がする。  

 この手記は『マクドナルド「日本回想録」:インディアンの見た幕末の日本』という邦題で、立教大学文学部教授の富田虎男訳訂で1979年に刀水書房から邦訳出版されている。原書も村山直次郎という「近世日本対外関係史研究の草わけ」の人が編集に加わっているが、邦訳版はさらに訳者が研究を重ねて長い解説を書いたものになっていた。マクドナルドの手記そのものは、本人の生前には出版が叶わず、1923年にようやく1000部限定で出版された。私がワシントン州立図書館のサイトで見つけてダウンロードした原書には、461番と連番が振られており、訳者の富田氏が刊行から50年後にオレンゴン州アストリアの市立図書館を訪ねた際に、まだ数冊残っているからと言われて買い取ったのが、460番だったという。

 マクドナルドが捕鯨船プリマス号に乗り込んで日本への密航を企てた顛末は、地図を広げてたどりたくなる冒険物語なのだが、ここでは幕末の長崎での日々について書きたい。彼は1848年10月11日に、北前船天神丸で長崎に護送されてきて森山に会った。「彼は、私が日本で出会った人のなかで群を抜いて知能の高い人だった。[……]その眼は、魂のなかまで探り出し、あらゆる感情の動きを読みとるように思われた」と、マクドナルドは森山について書く。  

 印象的な場面は、マクドナルドが長崎奉行の井戸対馬守の前に連れだされるところだ。森山は事前にやってきて自分が通訳するからと励まし、お白州に入る前に「前戸のところにある金属板の上の像(イメージ)」を足で踏まなければならないと教える。プロテスタントの彼は、偶像など信じていないので踏み絵をためらうことはなかった。だが、お白州で粗末なゴザに座らされると、その扱いに腹を立て、奉行の井戸が入ってきて、森山が頭を下げろと何度伝えても、叩頭などするものかと顔をまっすぐ上げて井戸を直視する。その他の人びとがみな平伏し、静まり返ったなかで、マクドナルドと井戸は10秒か15秒か互いを見つめ合った。しまいに井戸は身を乗りだすようにして、太く低い声で何やら話しかけた。彼はあとから森山に「奉行様は、肝っ玉が太い奴だとおっしゃられた」と教えられる。原文ではこの場所は「you must have a big heart」となっていた。実際には井戸はなんと言ったのだろうか。その後、奉行は「どうやら森山に堅く誓わせているようだった」とも書かれていた。 

 この初対面のあとで、信仰についての尋問がつづいた。質問の一つは、天の神を信じているかで、イエスと答えると、天の神に関して何を信じているのかと森山が質問を重ねた。そこで、マクドナルドが自分の監督派教会の祈祷書の「使徒信条」を唱え始めて、「処女メアリーから生まれた神の唯一の息子ジーザス・クライスト」と言った途端、「森山は突然私の言葉をさえぎり、口早に『それで結構、もうたくさん』とささやいた。そのあと、私の答えを、少なくとも彼が必要と考えただけに限って、奉行に通訳しつづけ、私が思うに『処女メアリー』ないし『クライスト』という言葉にはまったくふれなかったようだ。その点、彼は本当に私の友だった!」と、マクドナルドは回想した。その後、奉行とその他の役人、森山のあいだで話し合いが行なわれ、最終的に住まいが用意され、問題を起こさなければ、待遇は改善されるという、井戸の言葉が伝えられる。  

 こうして、以前にも書いたような、森山をはじめとするオランダ通詞たち14人に、座敷牢のなかから英語を教える日々が始まったのだった。「奉行が約束したように、外出の自由を除き、欲しいものはなんでも、ほんとうに手に入った。彼らは私の聖書をかえしてくれさえした」と、マクドナルドは書く。日曜日の食事には豚肉とパン、バターも供され、それはマクドナルドだけでなく、監禁されていた外国人はみな同様の待遇であったと富田氏が書いている。 「なぜ国法を犯した罪人が、教師になれたのか、あるいは罪人を教師にしたのか」と、富田氏は問いかけるが、実際、目付から長崎奉行になった当時30代なかばとされる井戸覚弘と、28歳の小通詞助であった森山栄之助の2人による、この時代の日本では考えにくい、臨機応変な対応によって実現したことだったのである。それはまた、古代から大陸との行き来が盛んで、江戸時代も門戸が閉じられることのなかった長崎という土地柄ゆえでもあったかもしれない。森山らがマクドナルドから英語を学んでいなかったら、ペリー来航に始まるその後の外交交渉ははるかに困難なものになっただろう。  

 マクドナルドは長崎で7カ月間、監禁生活を送ったのち、ラゴダ号の漂流者15人を引き取りにきたアメリカの軍艦プレブル号に同乗して帰国したのだが、その際にも仲介役に立ったオランダ商館長と、井戸と森山が柔軟な対応を見せたようだ。1849年4月17日(嘉永2年3月25日)にプレブル号が長崎沖に現われた日は、ちょうど井戸と交代する新しい奉行、大屋遠江戸守明啓が着任した日だったが、お膳立ては井戸によるようだ。プレブル号艦長から書面で「自国のもの一五人なお追って一人都合一六人」と書いた漂流民引き渡しの要請をもらい、「漂流の者ども始末箇条書」を作成し、体裁も整えた形で送りだしたのである。ラゴダ号の漂流者は仲間割れして1人が縊死し、もう1人が病死していたため、帰国したのはマクドナルドを含め14人だったという。  

 井戸覚弘はその後、江戸北町奉行に栄転し、5年後にはペリーの応接掛に選ばれ、再び森山と仕事をすることになった。森山がペリーの再来航時に長崎から呼び寄せられたのは、井戸の発案だろうか。井戸の転任は、前述のように、プレブル号来航時にはすでに決まっていたので、「これらの覚弘の手腕を買われ、時の老中阿部正弘の推挙により」というウィキペディアの彼の項目の説明は、もう少し調べる必要がありそうだ。むしろ、外国人を杓子定規に取り締まるのではなく、適切に処遇し、英語を学ぶ機会までつくったことへの評価だったのではないか。井戸も森山も、相手の目をまっすぐ見つめ、お互いの信頼関係を築くことのできる人だったのではないかと思う。  

 先日書いた森山の誤訳説が生まれた背景には、森山が信教の自由を尊重したこの一件があったのだろうか。当時の日本に、忠実に通訳することを誓わせる習慣があったかどうかはわからないが、森山が処罰を受けることを覚悟のうえで自分の信念を貫き、マクドナルドを救ったことは間違いない。長崎で生まれ育ち、外国人と接してきた彼は、より広い世界があることを知っていたはずであり、日本という島国の狭量な国法を厳守すべきか、それとも良心の赴くままに行動すべきか葛藤したのだろう。  

 ペリー艦隊とともに中国語通訳として来日した宣教師ウィリアムズは、1858年に行なった講演で森山のこんな言葉を引用している。「もっと猶予をいただかねばなりません。あなた方にはすべてが明白でしょうが、われわれは暗室からまばゆい太陽のもとにでてきた人間のようなものであり、まだどの方向に物事があるのかはっきりわからないのです」(『ペリー日本遠征随行記』息子のF. W. ウィリアムズによる序文。拙訳)。圧倒的な力で迫る外国人に迎合するのではなく、当時の日本の苦しい状況を代弁しながらこうして切々と訴えた通詞がいて、対外交渉が心の通うものになったことは、日本が中国の二の舞を演じることなく済んだ大きな要因だったのではないか。