2018年1月31日水曜日

幕末のオランダ商人

 海外から仲間が一時帰国するのに合わせてほぼ例年、和食の飲み屋やレストランで学生時代のサークルの同期会を開いているのだが、今年は私の勝手なお願いで銀座のポルトガル料理屋にしてもらった。お目当てはポートワインとマデイラワイン。先月の「コウモリ通信」にも書いた幕末のオランダ商人の本に、こうしたワインの話が度々でてくるからだ。それをただカタカナして済ませてしまうのは簡単だ。でも、「イギリス人たちは食事と一緒に飲んだ大量のポートワインの影響がまだ抜けていない」などと訳していると、幕末の日本まで船で運んできたワインがどんなものであったか、つい気になる。ポルトガル・ワイン専門店に気軽に行ければよいのだが、そんな気持ちの余裕もなく、昔の仲間の好意に甘えることにした。どちらも飲み放題プランには含まれておらず、今回は私だけこの甘いワインをアプリティフに飲ませてもらった。初めて食べるポルトガル料理は、魚介類たっぷりで素晴らしくおいしく、その他のワインやビールも飲み過ぎたので、食後のマデイラは諦めたが、ほんの一杯でも飲んでみると、居留地で酔っ払った外国人たちのことがより身近に感じられるから不思議だ。  

 ワインにはまるで詳しくないが、大阪日本ポルトガル協会によれば、ポルトガルのワインの歴史は紀元前5世紀にフェニキア人によって始まり、マデイラワインは17世紀から、ポートは18世紀には登場し、スペインのシェリー酒と並んで、世界3大酒精強化ワイン、つまりアルコール度を高めたワインとして知られているそうだ。ウィキペディアによると日本に最初にもたらされたワインはポートワインらしい。  

 この本はおもに横浜について書かれているのだが、1章だけ開国前の長崎の出島について割かれた章がある。一昨年に佐賀と長崎に旅行した際、夕方に駆け足ではあったが出島跡も見学したので、およその雰囲気はわかったが、水門や一番船船頭部屋、涼所などがどう再現されていたかは記憶にない。著者のオランダ商人デ・コーニングは、1851年に若い船長として出島に3カ月間滞在したことがあった。上陸した初日、家具一つない部屋で呆然としていたところへ、買弁が歓迎の意を込めてMoscovisch gebakなるお菓子を届けてくれた。これはマデイラケーキらしいが、オランダ語で検索するとやや異なるものがでてくる。そこへ通詞の吉雄作之烝と目付がやってきたため、携帯用フラスクに詰めたコニャックを分け合い、ちょっとした宴会を開いた。「二人の紳士が菓子数切れを食べ、コニャック数杯を飲み干したところで、作之烝は──まずは〈ジュール・ロバン・コニャック〉の名前を手帳に書き込んだあと──知り合えてよかったと述べ、それから暇乞いをした」。想像するとなんともおかしい。 「1782年創業のこの会社は今日でもコニャックを製造している」という英訳者の註を読み、私がネット検索したのは言うまでもない。作之烝もただの飲兵衛ではなく、仕事熱心だったのだと考えたい。当時と同じものかどうかはわからないが、ヤフオクにそれと思しきものがいくつか出品されていたので、木箱入りの、いかにも舶来品風のコニャックをつい購入してみた。無事に本になった暁に封を開けようと、こちらはまだ手を付けていない。  

 ジュール・ロバンが幕末にどれだけ輸入されていたかはわからないが、1862年9月13日付の『ジャパン・ヘラルド』紙に掲載された別のオランダ商人ヘフトの広告では、ドルフィン号で到着したばかりの「ジュール・ロバン社コニャックの積み荷」が、砂糖やボローニャ・ソーセージなどともに宣伝されていた。ついでながら、同じ紙面に10月1日・2日に開催予定の競馬の予告があるほか、乗客欄には、ランスフィールド号で上海から到着したイギリス公使館のロバートソンとサトウの名前がある。この船は薩摩藩が買って壬戌丸となった。  

 一読者として本書を読んだときには、調べたかった情報を手っ取り早く知ることに重きを置いてしまうので、こうした些細な事柄は読み飛ばしていた。とくにネット上で、知りたいキーワードを検索して、該当ページの前後だけを拾い読みした場合には、こうした「味わい」は得られない。本書には歴史的な「新事実」がかなり含まれており、史料としての価値がかなりあると思われる。だが、それ以外の、ページの端々に書かれていたちょっとした描写にも、別の意味の発見がある。幕末に来日した多くの外国人は、江戸湾に近づくにつれて見えてくる富士山の圧倒的な美しさに言及しているが、デ・コーニングも例外ではない。9月初旬に彼が来日した際に、すでに冠雪があったのかどうか定かではないが、彼の見事な描写は、冬に東南アジア方面から早朝に成田に着く便で帰国した際に、日本列島の上にそびえる富士山を見たときの感動を思いだす。いつか長い航海のあとに、海上から眺めてみたいものだ。  

 やはり多くの外国人が書いているのは、日本の冬の野山に咲く椿だ。私には垣根のイメージしかなく、身近過ぎて意識に上らない花だったが、17世紀にケンペルが紹介して以来、東洋の神秘と結びついてきたのか、「椿姫」のオペラが上演されたばかりだったのか、彼らは椿に日本の美を感じていた。近所の公園に珍しく大木があったので、「椿が咲き乱れる森」はこんな感じだろうかと想像してみた。本は読み方しだいで、いかようにも楽しめる。

 ポートワイン

 ジュール・ロバン・コニャック

 出島の「カピタン部屋」のダイニング

 大木になった椿

2018年1月4日木曜日

A Pioneer in Yokohama

 この数年、毎年恒例のように締切りに追われた仕事をかかえての年越しとなっている。昨夏は3カ月間も仕事のない状態がつづいたので、それを考えれば、たとえ時間に追われていても、仕事があることはありがたい。しかも、いま取り組んでいる本は、失業中に読んであまりにもおもしろかったために、翻訳企画をもちかけて、とんとん拍子に決まったものなので、正月返上などとぼやいたら、罰が当たりそうだ。年末も必死に見直しをして過ごし、頭のなかがこの本のことでいっぱいなので、年始のエッセイながらちっとも新年らしくない話題で恐縮だが、どうぞご勘弁を。  

 今回の本は、じつは開港当初の横浜に住んでいたオランダ商人によって140年ほど前に書かれた、事実にもとづく冒険譚だが、原書がオランダ語だったせいかいままで邦訳されていなかった。6年ほど前にこの本がアメリカで英訳されたおかげで私の目に留まることになった。史料も少ない幕末の横浜・長崎について、アメリカの研究者があれこれ調べ抜いて訳してくれたのに、とうの日本の読者がそれを知らずにいるのはあまりにももったいない。そう思って、重訳にはなるが、翻訳すべき作品と考えた。  

 本書には、日本の歴史家が見落としてきた驚くべき事実がいろいろ書かれている。その一つに、コウモリ通信でも何度か触れた日本最初のホテルであるヨコハマ・ホテルに関する話があった。英訳者があげていた参考文献のリストには、澤護の『横浜外国人居留地ホテル史』も含まれていた。澤先生には大学時代に教わっているのだが、フランス文化史だったか文学史だったのかも覚えていない情けなさだ。のちに横浜の歴史に興味をもつようになり、ご著書を何冊か読んだ矢先に、先生は急逝されてしまい、横浜の歴史について直接お聞きする機会は永久に失われてしまった。それでも、ネット上に残された数々の論文を見つけるたびに、初期の横浜で活躍しながら誰からも忘れられた人びとを、一人ずつ丹念に調べあげておられた澤先生の熱意に感服したものだ。  

 ヨコハマ・ホテルは、ここが当初唯一のホテルであり社交場でもあったため、数多くのエピソードを生む舞台となったのだが、ここがそもそも開港期に幕府が建てた御貸長屋の一隅であったことを、先生は気づいておられただろうか。しかも、まだ商館用の土地すら整備されていないのに、遊郭だけは用意しなければならないと考えた幕府が、太田屋新田の沼地の埋め立てが間に合わなかったために、唯一の役場であり、税関であった運上所の目と鼻の先に、急遽、臨時の遊郭を開業させたのだという。数カ月後に遊郭が現在の横浜公園の場所に移転すると、この長屋が空いて、そこをオランダ船ナッサウ号の船長だったフフナーゲルが買い取り、ホテルに改装したのだという。  

 この一件に関する著者デ・コーニングの解説がじつにおもしろい。「東洋人はみなそうだが、日本人は非常に好色な民族だ。ヨーロッパ人との接触がなかったため、われわれの潔癖な習慣のことは知らず、外国人にも自分と同様の欠点は見られるに違いないと彼らは考えていた。外国人が日本を訪れたがるのは、ひとえに日本女性と知り合いになる下心があるためだという間違った観念を、非常に多くの日本人がいだいていたのである。荒海を航海してきたあと、横浜の桟橋に晴れ晴れと上陸した多くのまっとうな外国人は、礼儀正しい日本人がする無作法な仕草に直面することになった。彼らは歓迎のつもりで、遠路やってきた外国人がついに極楽に到着したことを知らせようとしていた」。遊郭の仮宅を改造したヨコハマ・ホテルについては、こう書いている。「これは日本の不道徳にたいして上品な文明が収めた最初の勝利であり、しかも数カ月前まで堕落した信奉者のいるお茶屋が放置されていた、まさにその場所で遂げられた勝利であった」  

 日本の歴史家は通常、遊郭は一般の日本女性に外国人が手出ししないようにするために講じられた対策だったと説明する。実際、初期に単身で横浜にきた外国人の相当数が、「らしゃめん」を一人ないし二人囲っていた。しかし、こうした女性たちは実際には大半が女郎ではなく、町娘だったようで、日本通で知られた人びとの多くにはこのような日本人の内妻がいた。彼女たちはかならずしも、『ふるあめりかに袖はぬらさじ』に登場する亀遊のような、喧伝された悲劇の主人公であったわけではないのだ。デ・コーニングによれば、開港当初の横浜には金貿易目当てのならず者の外国人も大勢いたので、幕府の対策がまったくの杞憂だったとは言えない。それでも、純粋に自由貿易のために来日した大多数の外国人にとっては、幕府によるこの過剰な手配は余計なもの、もしくは滑稽なものだったに違いない。今年は明治維新150周年でもあり、開国とはなんだったのかを振り返るよい機会でもある。なるべく春には刊行できるよう努力したい。
 
 現在、翻訳中の A Pioneer in Yokohama
 
『横浜外国人居留地ホテル史』 澤護著(白桃書房)