2023年1月29日日曜日

『人新世の「資本論」』を読んで

 何とも遅まきながら、ようやく斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)を一通り読んだ。ベストセラーは図書館で借りる主義なので、仕事が一段落した折にリクエストを出そうと思ったら、あまりの待機者の多さに仰天してしまった。2021年新書大賞となり、75万部(2月1日付、毎日によると50万部に届く程度とのこと)を売り上げたらしい。あきらめて年末に古本を購入した。

 私にとっては子世代の若い研究者が、2020年の段階でここまで世界の状況を理解し、自説を掲げるほどまでにいたったことには、とにかく驚きしかない。この本で言及される研究者の多くは、グレタ・トゥーンベリ編著の『気候変動と環境危機』(河出書房新社)の寄稿者たちだ。こと気候問題、環境問題に関する限り、斎藤氏がこの本で書いたことは、彼の妄想でも誤解でもない。本書には科学面では、『地球の限界』の環境学者ヨハン・ロックストロームと、アメリカの環境活動家のビル・マッキベンくらいしか具体的に登場しないが、ここで述べられていることはいずれも最先端の科学者たちが到達した結論であり、気候問題に長らく翻訳を通じて携わってきた者として、何ら違和感なく受け入れられることだった。よって、その点を槍玉に挙げて本書を批判する人は、まず気候問題について勉強し直してほしい。  

 斎藤氏のもともとの専門は経済学のようなので、トマ・ピケティや、ドーナツ経済学のケイト・ラワースも登場するし、ショック・ドクトリン、公正な社会への移行、ケア労働の重要性等への言及などは、ナオミ・クラインなのだろうと思った。「ネガティブ・エミション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ」とも書いていた。「外部化される環境負荷」、「あらゆるものを海外にアウトソーシングしてきたせい」、「ブランド化と広告が生む相対的希少性」、政治学者のエリカ・チェノウェスの「3.5%の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる」といった問題にも触れているところなど、『気候変動と環境危機』の寄稿文と重なり合う部分がじつに多く、それをまだ30代なかばの日本の一研究者が2020年にはすべて把握していたということに、敬意を表したい。 

 もちろん、「学校ストライキで有名になった当時一五歳の高校生」についても、資本主義という無策の「システムそのものを変えるべきだ」と主張したことや、世界中の若者たちが彼女を熱狂的に支持したことに触れている。年末に斎藤氏が『現代ビジネス』に寄せた『気候変動と環境危機』の書評でも、グレタについて、「大人たちにもガツンと殴られるような衝撃を与えたのだ。何を隠そう私自身もその一人である」と書かれていた。 

 彼の経歴を見ると、東大には3カ月しか在籍せず、もっぱら欧米で勉強し研究してきたようだ。ガラパゴス化している日本社会でおもに書物とニュースでしか世界の情勢を知らず、大学や研究機関とのつながりもない私とでは雲泥の差になるのは当然か。 

 長年、細々と気候科学の行方を追うなかで、私も唯一可能で現実的な解決策は経済成長を遅らせることだとつねづね思っていたので、脱成長を掲げる点でも彼の主張には共感する。「生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである。その場合、日本人は、ニューヨークで三日間過ごすためだけに飛行機に乗ることはできない。解禁の日にボジョレヌーボーを飲むこともできなくなる」というくだりを読みながら、その時代をじかに知る人間の一人として、決して不可能ではないと思った。 

 コモンズに関する見解も、ブライアン・フェイガンがよく言及していたし、日本だって私の子供時代までは裏山の薪炭林などは誰もが入ってタケノコでも山菜でも採れるコモンズだったはずだ。イギリスの都市で実際に牛が草を食むコモンズを見て、私有地を突き抜けるパブリック・フットパスを歩いたことから、どこもかしこも立ち入り禁止の私有地になりはてた日本の現状を憂いてきた一人でもある。鉄道や水道、電気、ガス、電話、郵便などを民営化したのが間違いだったと、いまでも思う。 

 しかし、『人新世の「資本論」』のマルクス主義に関することでは、いくつか重要な疑問がある。マルクス研究者の彼に、マルクス主義なりコミュニズムに関して異を唱えるのは、釈迦に説法もいいところなのだが、私が翻訳で携わったわずかばかりの経験で得た知識との食い違いが気になったのだ。とくにマルクスが1881年に3度書き直したという「ザスーリチ宛の手紙」に関する相違は引っかかる。本書で斉藤氏がこれを何度も取り上げ、「人新世を私たちが生き延びるために欠かせないマルクスの遺言」とするからなおさらだ。ロシアのミールと呼ばれる農村共同体が、資本主義という段階を経ることなしに、ロシアをコミュニズムに移行できるとマルクスが認めたものだ。これは「最晩年のマルクスが、単線的な歴史観とヨーロッパ中心主義から決別していた」ことを明らかに示すものだと、本書は主張するのだが、「生産力至上主義」からの脱却の道筋だと解釈するあまり、晩年のマルクスのこの見解に力点を置きすぎてはいないだろうか。

 『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)を書いたトリストラム・ハントによると、エンゲルスは1875年の小論で同趣旨のことを述べつつ、一つの条件を加えていた。「しかしながら、これが起こりうるのは、共同所有の形態が完全に崩壊する前に、西欧でプロレタリア革命が成功して、ロシアの小作農がそのような移行をするために不可欠な前提条件が生みだされた場合のみである」と。マルクスは晩年に「資本主義による社会経済的進歩の統一過程がすべての民族に当てはまるという論点を、強調しなくなっていたのだ。しかし、エンゲルスはこうした考えを残念に思い、二人のあいだの哲学的相違が明らかになるわずかな例のなかで、当初のマルクス主義の理論的枠組みに立ち戻っている」と、ハントは説明していた。エンゲルスはロシアのプレハーノフにも「資本主義社会の矛盾が共産主義への変貌に必要な前提条件」であることを納得させ、プレハーノフは「レーニンの主張する前衛に立つエリートが引き起こすトップダウン方式の社会主義革命を心底から嫌っていた」ともハントは書く。こうした経緯を翻訳した当時、私なりに理解したのは、ロシア革命によってソ連に誕生した政権や、その後の中国や北朝鮮などに生まれた政権が社会主義や共産主義を名乗ることについて、マルクスはいざ知らず、エンゲルスはもし生きていたら、その行く末を危惧しただろうということだった。そして実際、その結果は恐ろしい社会となった。

  一方、斎藤氏は「『資本論』の第二巻、第三巻は、盟友エンゲルスがマルクスの没後に遺構を編集し、出版したものにすぎない。そのため、マルクスとエンゲルスの見解の相違から、編集過程で、晩年のマルクスの考えていたことが歪められ、見えにくくなっている箇所も少なくない」として、エンゲルスのはたした役割を過小評価、もしくは否定的に捉えているように感じた。近年、MEGAと呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』刊行の国際プロジェクトが進んでおり、彼もその一員だそうだが、「E」はエンゲルスなのだ。マルクスが大英博物館にこもって研究に耽っているあいだ、資本主義の現場も労働者の置かれた悲惨な状況も嫌というほど目にしながら、20年近くマルクスに資金援助をつづけ、かつマルクスより長く生きて民主主義とは何かを少しは体験したエンゲルスの思想にこそ、むしろ現代に通ずるものがあるように私は思った。 

「脱成長コミュニズム」の理論的根拠として、斎藤氏は『ゴータ綱領批判』の一説を引用し、将来社会においては「協同的富」を共同で管理する生産に代わるというマルクスの言葉は「コモン」に通ずると述べる。この一説の最後は、「各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて」である。コミュニズムの定義として有名らしいこの一文のドイツ語の原文(Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seinen Bedürfnissen!)では、同じ表現が繰り返され、目的語に相当する能力とニーズだけが異なる構文のため、何を言わんとしているのか理解しづらい。そのせいか、このフレーズは、「無限の生産力と無限の潤沢さによって、不平等な分配の問題を解決すると」解釈されてきたのだが、実際は真逆なのだという。 

 しかし、この一文の英訳は「From each according to his ability, to each according to his needs!」なのだ。昨年末刊行された『アマルティア・セン回顧録』(勁草書房)には「マルクスをどう考えるのか」という面白い章がある。そのなかで、ゴータの町で開かれた労働党の会議と、それにたいするマルクスの批判の説明を読んだあと、私はこの一文を「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」と、fromとtoを補った形で訳した。センの解説によれば、マルクスはこのとき最終的に必要原理を選んだが、「仕事に意欲をもたせるのに充分な制度とこの原理を結びつけるのは、非常に難しいかもしれないとも記した。どれだけ働いても稼ぎに結びつかなければ、勤勉に働く意欲を失うかもしれない。そこで、必要原理を強く支持したあとで、マルクスはそれをただ長期的な目標であるとした」。ドイツ語の原語と英語訳、あるいは日本語訳で、同じ文献の解釈にずれがあるのではないかという疑念は、『エンゲルス』を訳していた期間、私がずっと抱いていたものだった。マルクス主義への回帰を主張するならば、こうした基本的な問題も考慮すべきだ。

 ちなみに、ハントの原書はこの部分を、違う英訳版を使用したのか、何かの誤解だったのか、「From each according to his ability, from each ability according to his work.”としていたため、私もそのとおりに訳していたことにいまさらながら気づいた。  

 斎藤氏の書では労働者が生産自治管理・共同管理することを訴えるピケティの「参加型社会主義」や国境を越えて都市間で協力する自治体主義というミュニシパリズム、選挙ではなくくじ引きでメンバーが選ばれるフランスの「市民議会」、気候非常事態宣言をしたバルセロナ、「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」といった実践例があれこれ挙げられている。これらの新しい概念や試みは魅力的だが、資本家を排除しても、それらの組織が民主的になり、環境に配慮した賢明なものになる保証はかならずしもない。センは回顧録のなかで、「政治組織にたいするマルクスの精査は奇妙なほど初歩的に思われた」とし、「プロレタリアートの独裁」において、「実際の政治的取り決めがどう機能するのかもほとんど説明されていない」と指摘していた。「マルクスによる民主主義の扱いにも重要な欠落がある」とも。共産主義と聞けば旧ソ連や中国を連想する多くの人にしてみれば、これらの左派的な新しい動きから、権威主義的な独裁政権が誕生して、自由など何一つなくなるのでは、という恐怖心も拭えないだろう。 

 女性参政権が認められ、普通選挙が行なわれるようになったのはおおむね20世紀以降なので、マルクスもエンゲルスも民主主義を実体験していない。マルクスの時代はまだ憲法でどうすれば王権を制限できるかという時代だ。実態すら不明な下々の民の意見をどう汲み上げ、誰がどう意思決定するのかまで、彼らも頭が回らなかったに違いない。民主主義国家を称する現代の国々でも、民主主義が機能しているとは言えない国が大半だ。戦後の束の間の平和な時代にやたら贅沢な暮らしに慣れてしまい、それが自分たちの権利であり日常だと信じ込んでいる大多数の人びとが、気候変動とともに環境が様変わりして右往左往するなかで、意思決定に時間のかかる民主主義をどうすれば貫けるのか。その難題にたいする答えを、19世紀の人間であるマルクスに過度に求めるのは、いささか無理があるのではないだろうか。  

 長々と書いてしまったが、政治家も経済人もまさしく「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」と言わんばかりの日本で、大半の人は目先の娯楽や用事にしか関心がない現状において、人類に迫る大問題を真剣に考えてくれる若い世代がいるというだけで頼もしく思う。斎藤幸平に建設的な論争を挑む若い人がどんどん出てきて、困難な時代にも耐えうる政治・経済システムを考えてくれることを切に願っている。

2023年1月26日木曜日

横須賀開国史研究会

 昨日、横須賀開国史研究会主催の連続講座のうちの1回分として、「日米和親条約締結の舞台裏」という大それたテーマで発表をしてきた。寒波の影響で冷え込んだ一日だったにもかかわらず、ヴェルクよこすかの会場がほぼ満室状態になるほど、大勢の方にご参加いただいた。正月明けから、本業の傍ら、この不慣れな大役のために、図書館から大量の本を借り直して資料を作成し、4年ぶりにパワーポイントを立ち上げ、時間オーバーしないように、発表する内容を大幅に減らして調整を重ね、当日に挑んだ。それでも、何分、複雑きわまるテーマであるうえに、準備不足やら、人前で話し慣れていことやらで、どれだけご理解いただけたかはわからない。  

 今回、このお題をいただいて調べ直した際に、たくさんの新しい史料を見つけてしまい、「舞台裏」は当初思っていたより、はるかに深淵であることが判明したが、とりあえずこのような講座を担当するきっかけとなった日米和親条約第11条の誤訳問題に関して、少々まとめたので、ご興味があれば、お時間のあるときにお読みいただきたい。これまでもブログに「森山栄之助の弁護を試みる」をはじめ、平山謙二郎、井戸覚弘など、関連人物について何度か書いてきている。  

 今回はハリスの日記の原書(pp. 208-210)から始めたい。 1856年8月27日(前日の書き忘れとする条)で、上席の通訳(森山)についてまず「優秀な通訳で、非常に気持ちのよい態度の、真の廷臣(courtier)」と評したあと、トラブルをこう書いた。日本側は「領事は何らかの不都合が生じた場合にのみ派遣されるものだが、そんな事態にはなっていない。[中略]条約では領事は両国[原文both]がそれを望んだ場合に来日することになっており、アメリカ合衆国政府の意思だけに任せられているのではないと述べた(注275)」とつづく。注275は第11条の「和文条文はあいにく、両[同both]政府が領事の任命を必要とみなした場合としていた」と書き、その典拠にJ. H. GubbinsのThe Progress of Japan、pp. 68-69を挙げる。1911年刊のこの書が誤訳説の始まりとなった。  

 ハリスはさらに8月27日当日のことを記した条(この日付の条が2回ある)に、再び日本側との交渉についてこう書く。「追加の条項がまだ批准のために送付されていない(注277)。彼らはアメリカ政府が批准された条項を携えた大使を特派し、そのあと領事を送ることについての交渉に入るものと考えていた」。注277は、「Additional Regulations[下田追加条約と呼ばれるもの]は1854年6月17日に下田でペリー代将と日本の委員[応接掛]とのあいだで締結された」と書く。  

 これに相当する日本側の記録が『幕末外国関係文書』14の〔181〕と〔183〕にある。対応したのは支配組頭の若菜三男三郎と、調役並勤方に昇進した森山栄之助らである。領事駐在については条約に定めたのでこちらも承知しているが、「右は往々両国おいて差支えの筋これ有りの節は、尚談判の上差置き候積もり」(p. 522)と26日に言い、翌日も「去春条約本書取替せの節、条約付録差越されず候につき、その節応対の役々より掛合いに及び候ところ、追って持渡るべしの趣につき」(p. 535)と述べている。  

 ハリスのオランダ語通訳のヒュースケンは8月21日(27日の読み間違いか)の日記に、日本側はアメリカ領事をこの地に置く必要性を感じていないと記し、理由として在日日本領事が任命されるのは「either of the two governments deemed it necessary」と条約に書かれていたからだと書く。ところが、原書(英訳板)にはこのeither ofのあとに[sic]と書かれ、「ヒュースケンはここで間違っている。日本側の主張ではペリー条約は、両国がそれを望んだ場合(if both nations wished it)領事が派遣されると規定していた」と注がある。しかし、通訳に当たったヒュースケンは、森山が「両国おいて差支えの筋これ有りの節は」と言った言葉の、「差支えの筋」つまり、「必要と見なした場合には」という条文の但し書き部分にこだわっていたことを、正確に理解していた可能性が高い。  

 というのも、ハリスは最初、領事駐在は「既に治定の事」と言い切ったあと、「自国において余儀無き次第これ有りに付き、此度差越し候事」と言い直しているのだ。それにたいし、日本側は「其政府おいて差支えの義は、素より当方にて知るべき謂れこれ無く」と言い返している(pp. 530-531)。当時は、両国間に連絡を取る手段がなかったことを考えれば、そうだろうなと読んでいて笑いたくなるようなやりとりである。

   ハリスはおそらく当初、第11条英文条約の最後に書かれた、provided that either of the two governments deem such arrangement necessaryの但し書き部分が重要だと認識していなかったのだろう。彼が赴任した安政3年7月21日(1856年8月21日)は、日米和親条約が批准された安政2年1月5日(1855年2月21日)からちょうど1年半後で、その日を狙って来航した可能性がある。条約の条文では、調印日である嘉永7年3月3日(1854年3月31日)から18カ月後なら任命可能と読めるのだが、アメリカ側が日本の事情を配慮して、批准書が交わされた日から1年半後まで待ったのではないか。ハリスは満を持して意気揚々と下田にやってきたのに、冷遇されたため、憤慨したのではなかろうか。  

 日米和親条約の第2条では「下田港は本条約調印のうえで即時開港」と定めているが、ペリーは口頭で、条約が批准されてから、早くとも10カ月ないし1年以上先でなければ、アメリカからの船が下田に来航することはなく、領事も今後1、2年は派遣されないと請け合い、日本側はそれを記した書面を求めていた(『遠征記』下巻、pp.228-229)。ペリーとの交渉では、正式の交渉でない事務方との協議で土壇場に決まったと思われる第9条の件をはじめ、口約束や双方の暗黙の了解がかなりあったようだ。『墨夷応接録』という日本側の公式記録で、応接掛の林大学頭らが領事駐在は18カ月後に再度「ご談判に及び申すべく候」と述べたことは、この公式記録に見られる改竄と解釈されることが多かったが、これはペリーの口約束だったと考えるほうが自然ではないだろうか。  

 また、ハリスが来日当初に言及した「追加の条項」は、日記の注釈にあるような下田追加条約のことではなく、森山が「条約付録」と述べたものであり、ペリーに随行していたウィリアムズが言及していた「付属文書」のことだったと思われる。『ペリー日本遠征随行記』に、「その他いくつかの点が付属文書(supplementary letter)に加えられることになり、そのうちの一つは下田が実際には来秋(next autumn)まで開港されないことで、もう一つは領事に関するものである」(拙訳、邦訳書p. 252)と書かれているものだ。「付属文書」に関しては今津浩一氏が『開国史研究』第11号で指摘しておられた。 

 付属文書を交わす話は、結局のところ口頭でのやりとりでうやむやになったに違いない。アメリカ側は下田追加条約でこれは解決済みと考えたのにたいし、日本側は領事駐在という重大な案件に釘を刺す頼みの綱として、ハリス来日までずっとすがっていたのだ。反故にされたこれらの口約束こそ、ハリス来日時のトラブルの原因だった。そうした一連のトラブルをハリスがbothという言葉を使って日記に書いたのを、1911年にJ. H. Gubbinsという研究者が条文の相違に端を発するトラブルと解釈したことから、その後の誤訳説が生まれたと私は考える。 

 ハリスの日記の原書は1930年に刊行された。翌年には、Treaties and Other international Acts of the United States of AmericaのVol. 6が刊行され、そのなかで第11条の和・英の条文に違いがあることが言及されていた。当時、アメリカ議会図書館に勤務していた坂西志保氏が和文条約を英訳した際に、「両国政府に於いてよんどころなき儀これ有り候模様により」という部分を、「After the two Governments think it necessary and desirable」と英訳したものが、この箇所に引用されている。これらのことから和文版はboth であるのに、英文版はeither ofで、これは誤訳だ!という短絡的な誤訳説が広まったと、私は推測している。今津氏の前述の論文によると、最も古い誤訳説は、竹村覚著『日本英学発達史』(1933年)だそうだ。日米和親条約の条文が掲載された1931年刊の書はGoogleブックスで全文が読める。

 「両国政府において」という日本語は曖昧な表現であり、「両国政府共に」と言っているわけではない。かたや英文条約のeither ofは両国政府のいずれでも、という意味であり、いずれか一方のみが、という意味ではない。オランダ語条文のeen van beideは、森山が「両国政府の一方より」と訳したように、英文より明確に意味を伝えていた。よって、彼が誤訳したわけではない。 条約交渉前に老中が五年後の交易開始に前向きであったことや、応接掛に全権委任をし、後日にお咎めがあれば、自分が受けると責任を取ったと内藤耻叟が後年『開国起源安政紀事』(pp. 60-61)に書いたことを考えれば、「ご談判」に関する誤解が森山の通訳の不手際だとか、応接掛による隠蔽工作だという説明は腑に落ちない。森山と応接掛は当時、松平忠固をはじめとする大半の老中からは交易に向けて平和の談判をするようにと指示され、水戸の徳川斉昭からは交易は絶対にならんと命じられ、そのあいだに立って言葉を失う阿部正弘の苦渋をよく承知していたのだ。  

 以上が、第11条の誤訳問題に関する付け足しだが、本当に解明しなければならない問題はもっとずっと複雑かつ広範囲にまたがる。日米和親条約の締結(1854年3月31日)から5年と数カ月後の1859年7月1日に横浜は開港された。日米修好通商条約の締結に最後の一押しを加えたあと、老中を解任された松平忠固は、ペリー来航時に日米双方で交わされた5年後に交易開始という条文外の約束を守ったのだろうと私は想像している。そして、森山栄之助はその双方の条約の締結に向けて、現場で誰よりも身を粉にして働いた人だ。誤訳問題が解決することで、日本開国の真の功労者が正当に評価される一助となれば嬉しい。

 会場となったヴェルクよこすか

2023年1月9日月曜日

松平兄弟

 慌ただしい年末年始を過ごし、年が明けてから数日遅れでようやく物理学の歴史の翻訳原稿の残りを提出し、一息つく間もなく、柄にもなく引き受けてしまった月末の幕末史の講座のための資料づくりにかかっていたので、家のなかも、頭のなかも混乱しきっている。すでに開始が遅れている次の仕事に至急取り掛かるべきなのだが、まずは諸々の雑用を片づけて、忘れまいとして、頭のメモリーを食っていたことを細々としたことを書きだしておくことにする。

 昨年10月に拓殖大学の関良基先生から、同大の塩崎智先生が発見された松平忠礼・忠厚兄弟に関する史料コピーと、金井圓の「あるハタモトの生涯——私費米国留学生松平忠厚小伝」(1969年)という論考コピーを送っていただいていた。金井氏の論考は『トミーという名の日本人』(文一総合出版、1979年)にも収録されていたので、古本を入手してそれも読んでみた。  

 さらにそのずっと以前の昨年5月に、以前に祖先探しの調査で上田を訪ねた際にお世話になった長野大学の前川道博先生から、「みんなでつくる信州デジタルマップ」に拙著『埋もれた歴史』の紹介記事を掲載してくださった旨をご連絡いただいていた。そこには、私と同様に、上田藩士だった祖先探しをしておられた2人の方がすでに記事を投稿されていて、拙著の記事を読んで連絡を下さっていた。私にとって非常に嬉しいこれら諸々の進展を尻目に、翻訳の仕事に専念しなければならなかった日々は、何とも苦しかったが、赤松小三郎研究会主催の三谷博先生の講演会があった機会に、松平兄弟に随行してアメリカに渡った山口慎のご子孫の方が東京にお住まいだったのでお誘いしてみた。日比谷公園内の松本楼でランチをしながら、初めてお会いしたのに、まるで遠い親戚に再会したかのように、あれこれ尽きることのない話をしたあと、一緒に日比谷図書館の講演会場へ向かった。  

 前段が長くなったが、こうした経緯から、じつは新たな発見があったので、今回はそれを書いておきたい。上田藩の最後の藩主松平忠礼(拙著表紙の騎乗の人)と弟の忠厚は、山口慎とともに明治5(1872)7月に渡米し、兄の忠礼はラトガーズ大学を1879年に卒業して帰国したが、弟の忠厚は現地に残り、アメリカ人女性と初めて結婚した日本人となり、測量機器を発明して『サイエンティフィック・アメリカン』に日本人として初めて掲載された人なり、測量技師として活躍したが、1888年にデンヴァーで結核によって36歳で亡くなった。

 松平忠厚については、飯沼信子の『黄金のくさび』(1996年)という伝記があるが、インターネットの使えなかった当時の状況では仕方のないことだが、かなり間違いが多い。上田市立博物館発行の『赤松小三郎・松平忠厚』(2000年)は、その点、史料をもとに書かれているためより正確な情報が書かれている。この史料の多くを提供したのが、どうやら東大史料編纂所におられた金井圓氏(1927-2001年)だったようだ。1875年に一足先に帰国した山口慎が、明治14(1881)年9月に、生活費に苦労する忠厚に宛て「二白、金六十五円九十六銭にて(是は少々足し前あり、おまけなるべし)銀貨四十弗相求め、それに又金貨三十五弗七十銭相求め」送金したことを記した手紙が上田市博物館にあるが、これらも金井氏が収集・解読されたのではないだろうか。 

 私がお会いしたご子孫の方から、母上がまとめられた「祖父・山口慎」という論考も見せていただいたところ、母上が調査で上田市立博物館を訪ねた折に、奇しくもそれらの書簡3通が展示されていて、当時の寺島館長が山口家の「明細」等を見せてくださったのだそうだ。山口慎は帰国後に東京英語学校の同僚として高橋是清と出会い、1889年にペルー銀山の仕事にともに駆りだされ、断崖絶壁で落馬するなど危ない目に遭ったうえに、この事業そのものが詐欺に近いもので、たいへんな苦労を味わうことになった。是清とは生涯の友で、慎の葬儀も出してもらったという。高橋是清は、高校時代の親友の祖母に当たる方が是清邸に奉公されていたとのことで、私が歴史上の人物で身近に感じた最初の人だったので、祖先調査の折に『上田郷友会月報』で山口慎の追悼記事を見つけ、ペルーの一件を知ったときは驚いたものだった。 

 山口慎は「明治6年 新約克(ニューヨークと読む)にて」と書かれた1枚の写真を残していた。渡米した翌年撮影のウィキペディアにも掲載されたこの写真には、松平兄弟と山口慎が写っている。彼ら3人がどんな伝手で私費留学したのかについては不明な点が多く、そもそもどこで学んだのかもはっきりしていなかった。今回、塩崎先生からの史料で、忠厚がマサチューセッツ州のウースター・フリースクール(現ウースター工科大学)に、1874年から1877年まで在籍していたことがわかった。石附実「明治初期における日本人の海外留学」(『近代化の推進者たち』)によると、1866年からの10年間にニュージャージー州ニューブランズウィックで学んだ留学生は約40名いて、そのうちラトガーズ大学に入学したのは13名、卒業できたのは4名という。忠礼はその1人である。大半の留学生はラトガーズ・グラマー・スクールに2年ほど通ってから他校へ移ったり、帰国したりしていた。上田から渡米した3人も、おそらくは最初の2年ばかりグラマー・スクールに一緒に通い、忠礼はラトガーズ大学に進学し、忠厚は1874年からウースターに移り、山口は帰国したのだろう。福井出身の今立吐酔宛に忠厚が書いた1875年12月の3通の手紙に「学校モニトル選任」と書かれていたことが、今回、金井氏の論考から判明した。ということは、「生徒の風紀取締委員」と金井氏が説明する役に忠厚がついたのは、ウースーターの学校の話なのだ。 

 マサチューセッツとニュージャージーは300キロ近く離れているので、1874年以降、松平兄弟は頻繁には会っていなかったはずだ。金井氏の論考には、年次不明の年末に忠厚宛に名前不明の友人が書いた手紙もあり、そこには「今夜は阿兄公〔忠礼〕と談話の約束にて阿兄の尊居に参りたれ共、只彼美人の所に招かれ行くと耳(のみ)の書置にて、何如とも仕段なし」と書かれていた。書籍版のほうには、このあと忠礼がアメリカ女性などと並ぶ写真が2枚掲載されている。そのうちの1枚は裏書に、「Miss Cadie Sampson, Susie Powiston, Nettie Bentley, 南部英麿, 南部信方, 松平忠礼の名がある」とし、但し順不同でどれがカリー・サンプソンかわからないが、撮影日は1878年7月26日としている。 

 この説明を見てまず驚いたのが、南部英麿の名前だ。渡米したての1871年の有名な集合写真ではまだ初々しい美少年だった彼が、この写真では後方に立つ口髭の青年に成長していたからだ。英麿は1878年に帰国しているので、最後の記念撮影だったのだろうか。南部信方は彼の弟のようだ。この2枚の写真は私も何度も眺め、忠礼以外の男性は誰なのか、頭をひねったものだった。 

 カリー・サンプソンは忠厚の妻となった女性で、「Cadie Sampson」が確かにカリーなのだとすれば、これはいろいろ考えさせられる事実だ。ちなみに、もう1枚の写真についても金井氏はいろいろ書いておられるが、前列左端が忠礼である以外は、誰かはわからない。どちらの写真も現在は東京都写真美術館にあるので、いつか裏書を見てみたいものだ。

  しかも、同書にはこんなことも書かれていた。忠厚が友人の黒田長知(福岡藩主黒田長溥の世子)宛に、1878年と推測される手紙に「当秋末ニハ小生モ帰朝之心得ニ候」と書き、翌年夏の卒業式を待たずに出発する兄とともに1878年秋に帰国する予定だったという。実際には帰国間際になって忠厚はカリーと駆け落ちして姿をくらましてしまい、忠礼だけが帰ってきたことはよく知られる。忠厚も忠礼も日本に妻を残していたのだが、忠厚はカリーとの重婚に踏み切り、忠礼も、うろ覚えだが、「アメリカ人女性のように自立した人がいい」として最初の妻とは離縁し、その後、山内豊福の娘と再婚している。  

 忠厚が1874年以降、ニューブランズウィックにはいなかったことや、カリーが1859年生まれで、1878年秋にようやく19歳だった事実を考えると、もしやこれは帰国間際に2人のあいだに急に芽生えた恋だったのか、という疑問が湧いてくる。しかも、カリーとは忠礼が先に会っていたのかもしれない! だとすれば、帰国後も半年以上、弟に手紙を書かず、「男子の決心自由の存する処」と結局は受け入れるものの、「金銭の義は一切御構へ申さず、独立自弁の御事と、断然御承知成し下さるべく候也」と、絶縁状に近い手紙を送った忠礼の心情が少しわかるような気がする。まあ、いまさらこんなことを根掘り葉掘り詮索しても仕方がないのではあるが。  

 余談ながら、金井氏の書には、「明治期アメリカ留学の断面」という章もあり、そこにはラトガーズ大学に最初に留学し、結核で倒れて帰らぬ人となった日下部太郎の碑を囲む日本人留学生の写真も掲載されていた。『ザ・ファーイースト』紙1872年12月16日付に掲載されていたそうで、そこには「碑の右に立つのはスギウラコウゾウ氏、すなわち今の米国駐在公使館第三等書記官である。左に立つ二人の学生は、今ワシントンの日本公使館書記生のタカキ氏と、江戸の帝国大学の職員のひとりであるヤギモト氏である」という説明があるそうだ(まだ現物は確認していない)。  

 この写真も私が調査中に見つけていたもので、杉浦弘蔵(畠山義成)と高木三郎まではわかったのだが、左側の人物は吉田清成だと思っていた。金井氏によると、のちの名古屋市長の柳本直太郎だそうだ。ただし、金井氏はなぜか、墓碑のわきにうずくまるのが柳本だとするが、『ファーイースト』の記事に従えば、うずくまる人物はまだ不明だ。私はこの人物を碓氷峠列車逆走事故で息子とともに命を落とした長州の山本重輔と推測している。  少しも新年らしくない記事となったが、昨年からずっと気になっていたことなので、祝日の月曜日を利用して書きあげられてちょっと嬉しい。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 左から:松平忠厚、忠礼、山口慎
「明治6年 ニューヨークにて」撮影
 了承を得てウィキペディアからダウンロードした。 

『トミーという名の日本人:日米修好史話』金井圓著、
 文一総合出版、1979年

左側の写真に裏書があったようだ。後方の男性が南部英麿。前列左が松平忠礼、右は南部信方

カリー・サンプソンの写真として知られる2枚。左は上田市立博物館のパンフレット、右は『黄金のくさび』より

ラトガーズで1870年に結核で客死した日下部太郎の碑を囲む日本人留学生。1867年に松平慶永が送りだした最初の公式留学生だった。
左から:柳本直太郎、高木三郎、山本重輔?、畠山義成

日下部太郎の前に、ラトガーズでは1866年に密航した横井小楠の2人の甥が最初に学んでいたが、仕送りもない苦しい生活のなかで結核を患い、帰国後間もなく死去した。