2023年3月31日金曜日

下田駆け足旅行

 春休み気分にはなれなかったが、予定どおり下田行きを決行してきた。なにしろ、一カ月前にサフィール踊り子号が大好きな孫のたっての願いを叶えるために、数室しかない個室を娘が発売日の10時にみどりの窓口まで行って予約してあったのだ。日米和親条約や日米修好通商条約の歴史を調べた身としては、下田は一度見ておかねばと何年も前から思っていた場所なので、私も娘一家の旅行に途中まで便乗させてもらうことにした。そんな話を関良基先生にしたところ、玉泉寺のご住職はお友達なので、連絡してあげましょうといつもの気軽さで、即座にアポを取りつけて下さったのだ! よく伺ってみると、同寺の村上文樹和尚は、『不平等ではなかった幕末の安政条約』(勉誠出版)を関先生、鈴木壮一氏とともに共著なさった歴史通のご住職なのだった。

 そんなわけで、学生時代以来のコンパートメントの旅を、はしゃぐ孫と一緒に楽しんだあと、桜が満開で新緑と相まってパステルカラーに染まる山をハイキングする娘一家と別れて、私は一路、柿崎の玉泉寺まで一キロ半ほどの道のりを急いだ。当時は豊福寺にあった下田奉行所まで、「道が未整備で満潮時には舟で渡るしかない」(前述書)と、ハリスが危惧した海岸通りであり、吉田松陰と金子重輔も「下田踏海」を企てるために歩いたはずの道だ。嘉永7/安政元(1854)年11月4日に安政東海地震の大津波が3段目まで押し寄せたという山門の石段を登って寺務所に行くと、すぐに村上和尚さまが出てきてくださった。15分ほどお話を伺えればとお願いしてあったのに、広い境内をあちこちご案内いただき、結局のところ2時間もお邪魔してしまった。 

 このお寺は幕末史の非常に重要な舞台であっただけでない。現ご住職のお祖父さまが玉泉寺の住職となられた大正期には、かつてハリスやヒュースケンが滞在した本堂も軒は傾き、根太が折れた状態になっていたそうだ。思い余った26歳の若い和尚が渋沢栄一に窮状を訴えたことがきっかけで、大修復に漕ぎ着けることができ、いまに至ったのだという。石段を登ってすぐのところに立つ渋沢栄一による巨大な碑は、太平洋戦争時に一時期、敵国との交流を称えたものでけしからんとして引き倒され、危うく破壊されそうになったのを、お祖母さまが身を投げだして守ったものなのだそうだ。当時、40代のご住職自身は徴兵されて戦死されたとのこと。 

 玉泉寺を訪ねたかった理由はいくつもあるのだが、いちばんのきっかけは、和親条約が批准されるまでに少なくとも1年はかかるので、下田港が利用されるのはそれ以降だとペリーが応接掛に請け合ったにもかかわらず、条約調印から1年も経たないうちにアメリカ商船キャロライン・E・フート号が来航したうえに、3人の女性と5歳と9歳の子どもの一行が玉泉寺に2カ月ほど滞在していたことを知ったからだった。日本人絵師が描いた絵(アメリカの議会図書館蔵なのでリンクを参照)によると、ワース船長の24歳の妻、商人のH・H・ドティの妻、ウィリアム・C・リードの32歳の妻と5歳の娘ルイーザが含まれていた(この船にはトマス・ドアティとH・H・ドティが乗船していたようだ)。

 ドアティとリードは安政2年にすでに交易としか言いようのない事業に乗りだしていた。このリードなる人物を、数年後に横浜で活躍したユージーン・ヴァン・リードと私は混同していたが、まったくの別人であったことが、今回少しばかり調べ直してわかった。いずれにせよ、日米和親条約の抜け穴と言われる「欠乏品」のやりとりを定めた条項は、ペリー帰国後の翌年には少なくとも大いに活用されていたことになる。 

 ペリー艦隊が最終的に日本を離れたあと、ロシアのプチャーチン一行が下田にきており、日露和親条約の締結に向けた交渉に入った途端、大津波に見舞われるという事態も発生していた。乗ってきたディアナ号は500人乗りの大型船だったが、30分間に42回転もして大きく損傷してしまった。下田では875戸中、841戸が全壊流亡、85人が溺死したという。修理のために戸田村に曳航されたものの、ディアナ号は11月19日に沈没した。この間の死者は3人だけで、残りは帰国する手段を失って伊豆半島にしばらく滞在することになった。玉泉寺には少なくともロシア将兵数名が滞在していたと考えられている。残り数百人のロシア人はどこに寝泊まりしていたのだろうか? 

 安政2年前半の下田のこうした事情に私が強く関心をもったのは、水戸藩の徳川斉昭がこの年の5月に老中にたいし、このままでは下田はキリスト教に支配されるし、将軍家との縁組だの、自分の娘の縁組だのと言いだされたら、どうするつもりなのかと詰め寄った一件があり、その当時の背景を知りたかったためだった。

 プチャーチンはこの災難にもめげずに日露和親条約の交渉を続行し、船を建造して帰国すると言いだして川路聖謨を感服させている。このときの船ヘダ号は実際、翌2年3月22日にはプチャーチンら48人を乗せて戸田村を出帆し、帰国したことなども、村上和尚のご著書からわかった。 

 しかし、ディアナ号の大半の乗組員はまだ下田に取り残されていた。そこへ下田開港の噂を聞きつけてハワイから早々にやってきたキャロライン・E・フート号が傭船契約結び、船長の家族らを下田に残して、ロシア将兵159人をカムチャッカまで送り届けたのだという。だが、それでもまだ250人が残されており、この第3陣は日本側からの要請でプロイセンの商人リュードルフが、その名もグレタ号という船で送り届けることになったが、クリミア戦争のさなかであったため、グレタ号は拿捕されてしまったようだ。リュードルフ自身はこの年の5月から11月まで8カ月、玉泉寺に滞在していたことが、ご住職から頂戴した山田千秋氏の『フランクフルトのビスマルクと下田のリュードルフ』という本や、山本有造氏の論考などからわかった。 

 玉泉寺にはペリー艦隊からの死者などアメリカ人の墓5基と、ディアナ号関係者のロシア人の墓3基が現存しており(もう1名の新しい追悼碑がある)、アメリカとロシアの外交官や政治家や、多くの研究者や観光客が訪れるという。ジミー・カーター元大統領も来訪したし、ウクライナ戦争が始まる前まではガルージン元駐日大使もたびたび訪れたとか。下田について勉強しようと買い込んだものの、まだほとんど積読状態の『下田物語』の著者スタットラーは、渋沢栄一の碑を守ったご住職のお祖母さまから多くのことを聞き取り、あの長編を書いたのだそうだ。 

 一般には航海中の死者は水葬が基本だったはずで、薩英戦争中に水葬に付されたイギリス人が鹿児島の海岸に流れついたことなども知られている。だが、ペリーは和親条約の交渉に先立って艦隊での最初の死者である海兵隊員ロバート・ウィリアムズの埋葬にこだわり、第1回目の交渉がその件でほぼ費やされていた。ウィリアムズはいったん横浜の増徳院で盛大に葬られたが、玉泉寺に改葬された。これは死者を日本の地に葬ることで、そこを何かしらの聖地または拠点とすることを意図したものだろうかと、私はご住職に伺ってみた。開港直後に横浜で殺されたロシア人のために「聖堂」を建てることをロシア側が強く主張したことなども知っていたからだ。玉泉寺の外国人の墓は大名クラスの仕様だそうで、ペリーの意図を知ってか知らでか、日本側は異国の地で死んでいった若者を悼む純粋な気持ちと、両国関係の今後を期待して誠意をもって尽くした結果と思われた。ご住職はすぐにその意味を察してくださったが、これまでそのように考えたことはなかったとのことだった。

 アメリカ人の墓は下田湾とはるか太平洋を望む場所にあるが、そのため風化が激しく、近年、屋根が構築されたため見た目が変わってしまったが、じつは1855年から1858年に撮影されたと考えられるダゲレオタイプの古写真がロチェスターのジョージ・イーストマン博物館に残されているとご住職から教えられた。年代が特定できるのは、その古写真には1858年に埋葬された5基目の墓がまだないことと、西洋人の子ども(おそらくルイーザ)と犬と思われる姿が写っているためなのだという。境内のハリス記念館でコピーを拝見したとき、どこかで見た写真だと思ったら、案の定、テリー・ベネットの『Photography in Japan1853-1912』に大きく掲載されていて、確かに犬の目まで光ってよく見えた。 

 下田開国博物館で、ディアナ号に乗り組んでいて津波のスケッチを残したモジャイスキーのカメラが展示されているのを見たので、撮影者は彼かとも思ったが、ヘダ号建設を指揮した彼は、第1陣ですでに帰国していた可能性が高いだろう。一般には当時、下田に来航していて、のちに咸臨丸に乗り組んだエドワード・メイヤー・カーン撮影とされるそうだが、ベネットはキャロライン・E・フート号に乗ってきたエドワード・E・エジャートンの可能性が高いと考えていた。ベネットの書には、モジャイスキーが1854年4月に玉泉寺の住職を撮影していて、そのダゲレオタイプは現存するとも書かれていた。どこにあるんだろうか?!(ご住職から頂戴した「玉泉寺」という冊子をようやく開封してみたら、この写真は同寺に現存と書かれていた!)

 ロシア人墓地のほうは、裏山の大木がよい木陰をつくっているために保存状態がよかった。見たことすらなかったであろうロシア文字を、一字の間違いもなく彫ってあったという碑文はまだ鮮明に残っていた。なぜか3基の墓にはロシア正教の八端十字架ではなく、普通の十字架が彫られていた。安政年間に、これほど堂々と十字架を示すものが彫られていた事実にも驚かされた。 

 墓地のあと、嘉永元年に柱や梁に硬材であるケヤキをふんだんに使って再建されたという本堂も見せていただいた。ご本尊を祀る両脇に和室があり、向かって左手が、ハリスが長い闘病生活を送った8畳間で、右手がヒュースケンの部屋だった。ヒュースケンの日記にあったベッドの置かれたあの部屋だ。彼は床間に座ってあのスケッチを描いたのだろう。ヒュースケンは、星がまだ31個の星条旗が玉泉寺境内に翻る、アメリカにとっては画期的な一枚も残している。下田の女性が羽二重で丁寧に縫ってつくった星条旗もアメリカに残されているのだという。 

 玉泉寺を失礼したあとは、了仙寺、泰平寺(何やら近代的な建物になっていた)や博物館などを回り、復路は普通列車を乗り継いで帰った。単線区間の下田から伊東まではいまでも時間がかかり、幕府が当初、開港場を下田ことで外国人をここにとどめておきたかったという地理的条件を再認識したような旅だった。いざこの日帰り旅行の記録を投稿する段になって、上田の次に下田に旅をしたことにようやく気づいて、われながら笑ってしまった。別に意図したわけではないのだが。

 いざサフィール踊り子号へ

時間が足らず下田踏海の現場までは行けなかったが、遠目に彫像は眺めた

玉泉寺の山門。この3段目まで波が押し寄せたという

玉泉寺本堂。渋沢栄一のおかげで銅葺きになった

下田湾を望むアメリカ人の墓所

ダゲレオタイプなので左右が反転している。
Terry Bennet, Photography in Japan 1853-1912より

ロシア人の墓所。側面の目立つところにも十字が刻まれていた

本堂内のケヤキの柱。左奥がハリスの部屋だったところ

ヒュースケンの部屋だった和室

ヒュースケンのスケッチ、
Henry Heusken, Japan Journal 1855-1861

2023年3月23日木曜日

上田旅行ほか

 先週初め、上田で史料調査に参加することがあり、現地の方から市内各所もご案内いただき、この旅行について書いておきたいと思いつつ、その後、多忙で今日にいたっている。大きな原因は、船橋で一人暮らしをしている高齢の母が入院してしまったことだ。母の長年の友人からの電話で、「お母さんが昨夜、誤嚥性肺炎で入院した」と知らされ、朝食もそこそこに駆けつけた。  

 上田に旅行中も、母はひ孫の面倒を見に横浜にきてくれていたので、まさに青天の霹靂だったが、この一年ほどいろいろな意味で衰えが目立ってはきていた。『気候変動と環境危機』の印税を、一部前払いしていただいていたため、いざというときに母宅に泊まり込めるようにと年末にラップトップを購入していたので、今回も一応それを持参した。ラップトップをもつのは20数年ぶりだ。翻訳のよい点は、何と言ってもどこでも仕事ができることだ。母のところはインターネット回線がないので、年末はテザリングする方法を娘から教わって凌いだが、今後の状況しだいで、モバイルWi-Fiを買うか、回線を引くか考えなければならない。

 上田で過ごした3日間はじつに多くの発見があったが、とりあえず簡単なものだけ、いくつかメモしておく。ちょうど「蔵出し! 新収蔵資料展」という企画展が上田市立博物館で開催されていて、そこに最後の上田藩主松平忠礼とともに、私の高祖父が写る写真も展示されていたので、ガラス越しながら初めて現物を見ることができた。上田藩関連の古写真のなかでも最も古い一枚だと思うのだが、画像は驚くほど鮮明だった。ただし、いかにも現代の写真らしい光沢が表面に見られた。今回、同じ幔幕前で撮影されたと思われる忠礼と鼓笛隊の写真は現物を手に取ることができたので、よく見てみたところ、やはり表面に光沢があり、素人目には鶏卵紙には見えなかった。アンブロタイプの古写真を写したものではないだろうか。この2枚は、東京都写真美術館が若林勅滋氏から買い取らなかった写真であり、当時もそう判断されたのではないだろうか。1975年刊の『庶民のアルバム明治・大正・昭和』にこの写真が初めて掲載されたときから、この写しが使用されており、オリジナルは行方不明なのだと思われた。 

 以前、「明細」という家別の記録の高祖父の項に「弘化四未七月御在坂中 大坂勝手被二仰付一」と書かれているのを、FB友の方に読んでいただいたことがあり、そのとき以来、見たかった「大坂入城行列図」という3巻ものの絵巻物を、今回、念願叶って閲覧することができた。想像していたよりはるかに小型で、ごく薄い和紙に描かれていたが、その長いこと、長いこと。調査の終了間際にトイレットペーパーのようなその巻物の1巻目を繰りつづけ、そのほぼ最後に徒歩で行列に加わる「馬役 門倉傳次郎」の小さな姿を発見したときは「あっ、いた!」と思わず声をあげた。巻物の3巻目は進み方が逆方向なので、ことによると復路かもしれないが、史料名どおりに入城時の様子だとすれば、25歳の高祖父だ。  

 今回は、上田藩の関係者がつくる明倫会や赤松小三郎顕彰会など、現地の方々とも交流する機会があった。小三郎記念館は以前も訪ねていたが、今回、説明を受けながら小三郎が島津久光に提出した建白書に、軍馬の改良とともに、畜産を奨励して「往々国民皆牛・豚・鶏等之美食を常とし、羊毛にて織り候美服を着候様改め候えば、器量も従て相増し、身体も健強に相成り、富国強兵の基にこれ有るべく候」と書かれていることに気づき、苦笑してしまった。何しろ、グレタ・トゥーンベリ編著の本で、畜産業がいかに地球の環境破壊の大きな一因となってきたかを昨年ずっと翻訳していたからだ。  

 明倫会の方々などが上田の主要産業だった養蚕の関係施設の訪問を手配してくださったおかげで、江戸時代に上田の蚕種業が始まった上塩尻の藤本養蚕歴史館から、現代の日本に残るわずか3社という蚕種会社の一つである上田蚕種株式会社や、信州大学繊維学部キャンパス、重要文化財に指定されている常田館製糸場まで、たいへん貴重な施設を見学させていただいた。詳しい説明を受けたおかげで、ようやく蚕種の仕組みを理解したのだが、狭いスペースで大量の蚕を孵化し飼育するためには、入念な温度調節から消毒、細菌検査、人工交配など、まさに産業としての畜産技術がなければ成り立たないことがよくわかった。養蚕はシルクロード文化の根幹にあり、日本では明治維新の原動力となった基幹産業であり、幕末から上田の養蚕業を支え、開国に結びつけたのが忠礼の父である松平忠固だった。養蚕業の衰退ぶりに、忠固が忘れ去られた一因を見る一方で、絹織物という人類の文化遺産の将来は、その他の畜産文化と同様に、厳しいものになりそうな予感がした。 

 個人的な収穫としてはほかにも、帰りの新幹線の時間間際に上田市立図書館まで走って行ったおかげで、以前に撮り損ねていた『上田郷友会月報』の何枚かの写真を資料室で撮影させていただくことができた。その1枚の、曾祖父の晩年の大正2(1913)年の郷友会の会合での集合写真には、山極勝三郎博士と忠礼の養子である松平忠正、それに5年後に没した曾祖父の追悼文を書いてくださった宮下釚太郎氏(無濁というペンネームでしかわからなかった方)が一緒に写っていた。 

 本業と孫守りの傍らで、ない時間を捻出してつづけてきた祖先探しと、関連の歴史調査だが、母が退院後にまた自立した生活に戻れるかどうかで、先行き不透明になってきた。連絡を受けて駆けつけても、横浜からではかれこれ2時間近くかかってしまう。 

 今回は数日前から頭痛がするという母を心配して、友人がお粥とおひたしをもって玄関先に「置き配」してくださり、連絡が取れないのを案じて夜間に助っ人を頼んで知人たちに行ってもらったところ、容体がかなり悪いことが判明して、なかば強引に入院させたのだそうだ。しかも、いろいろな話を総合すると、どうやら皆さん高齢者で、車ではなく、手持ちのショッピングカートに母を座らせて(見てみたかった!)、徒歩数分の場所にある病院まで夜中に連れて行ってくださったうえに、耳の遠い母と病院スタッフのあいだの「通訳」もしてくださったらしい。いまはもう完全に建て替えられて新しい街になっているが、昭和の団地仲間の、いまもつづく村の社会のような人の絆には、ただただ感謝するしかない。 

 駆けつけた病院では、まだコロナ禍の規制最終日であるうえ、母のPCRの結果が出ていないとのことで面会はできなかった。母が家に置き忘れた携帯・補聴器その他を取りに留守宅に入ったところ、差し入れとわかるお弁当箱や、自分でつくったと思われる土鍋のお粥、煮物等が食べかけのまま放置され、乱れたままの布団も敷きっぱなしで驚いた。母は極端に綺麗好きなので、入院した夜の慌しさが想像できた。  

 いずれこういう日がくることは覚悟していたとはいえ、あともう少しだけ時間が欲しい。母がまた煮物をもって横浜まできてくることはもうないのだろうか。せめて、近所をゆっくりとでも散歩をし、自宅で自分の食べたいものを料理できる日々が戻ってくることを願っている。食べるために生きているような母にとって、点滴と一日一食の重湯の食事は耐え難いようだ。

ようやく見ることができた高祖父と松平忠礼の写真

上田市立博物館で開催されていた企画展のチラシ

弘化2(1845)年、「大坂入城行列図」のなかにいた高祖父

赤松小三郎記念館にあった建白書のレプリカ

上塩尻の藤本養蚕歴史館の旧佐藤邸

信州大学繊維学部の旧貯繭庫に展示されていた繭のサンプル。建物はイギリス積みの古いレンガ造りだった。

上田城址公園の山極勝三郎の像

『上田郷友会月報』大正2年。曾祖父は扁額の右下。左隣りが宮下氏、山極勝三郎は後列左から7人目、その右隣りが忠正氏。

2023年3月3日金曜日

「未開人を待ちながら」

 ギリシャの詩人コンスタンディノス・カヴァフィスの詩の一部が翻訳中の本に引用されており、その意味深な言葉に惹かれて、前段の部分を少しばかり訳してみた。英訳は何通りかあるようで、そこからの重訳となってしまうが、なるべく忠実な訳を心がけてみた。 

 この作品の英語タイトルWaiting for the Barbarians(1904年)からして、野蛮人、夷狄、蛮族などと、訳者によってさまざまに和訳されてきた。ルイス・モーガンが人類の進歩をsavagery(野蛮)、barbarism(未開)、civilization (文明)の三段階に分け、それをエンゲルスが採用したことを知って以来、私はbarbarianを未開人と訳してきたので、今回もそれを踏襲したい。文明が恐れる敵としての他者は、石斧や吹き矢で戦うしかない野蛮人ではありえず、慣習や考え方、言語が異なるものの、武力面では侮れない「非文明的な未開人」に違いないと思うからだ。こうした言葉が日本に入ってきた当時、福沢諭吉が卑下したように日本を「半開」と呼んだことも忘れられない。題名は、この詩をもとに書かれたと言われるサミュエル・ベケットの戯曲の邦題『ゴドーを待ちながら』(1954年)がよく知られているので、それに合わせてみた。 

「未開人を待ちながら」

みな何を待っているのか、広場に集まって?   

    今日ここに未開人がやってくるはずなのだ。 

なぜ元老院ではこれほど無駄な時間が過ぎているのか? 
なぜ議員たちは法案を可決もせず座っているのか?   

    今日、未開人がやってくるからだ。   
    議員たちがまだ法律をつくる必要がどこにあるのか?   
    未開人たちが、ここへきたら、法を制定するだろう。 

なぜ皇帝はこれほど早起きしているのか? 
なぜ市の正門の前にいるのか?  
玉座に腰掛け、厳しく、冠をかぶって?   

    今日、未開人がやってくるからだ。   
    その指導者を迎えるために皇帝は待っているのだ。   
    彼に与える巻物すら用意している。   
    称号や立派な名前をいくつも書き連ねて。  
 
 [中略] 

この突然の落ち着きのなさは、この混乱はどうしたのか? 
(人びとの顔がいかに深刻になったことか。)
 通りも広場もこれほど急に人けがなくなったのはどうしたことか? 
誰もが思いに沈み家に戻っている。   

    夜になったのに未開人がやってこなかったからだ。   
    そして国境地帯から何人かがやってきて、   
    未開人はもうどこにもいないと言った。 

 いまや未開人もいなくなってわれわれはどうなるのか。
 あの連中が解決策みたいなものだったのに。  

 引用されていたのは、最後の四行で、ここがこの詩の要だ。この最初の行は、国境地帯から何人かがreturnedとなっている英訳もあるが、ギリシャ語の原詩をグーグル翻訳した限りでは、私が翻訳中の仕事で引用されていたように、arrivedが近そうだ。そうなると、これを「兵士が何人か前線から戻った」(中井久夫訳)とするのはおかしい。国境地帯からやってきたのは文明の慣習と言葉を身につけた「未開人」だと解釈することも可能だからだ。未開人は死に絶えたのではなく、文明化されたのだと考えたほうが、この詩のもつ意味がより鮮明になるのではないか。つまり、対峙すべき敵が、他者がいなくなったとき、解決策がなくなって、国としてのアイデンティティが崩壊するのだと。  

 以前にも書いたことがあるが、アメリカのナショナル・アイデンティティの崩壊を憂いたサミュエル・ハンチントンの『分断されるアメリカ』(集英社、2004年)に「他者と敵」という忘れ難いセクションがあった。「自らを定義するために、人は他者を必要とする。では、敵もやはり必要なのか? 一部の人は明らかにそうだ。『ああ、憎むというのは何とすばらしいことか』とヨーゼフ・ゲッベルスは言った。『おお、戦えるのは有難い。護りをかため身構えている敵と戦えるのは』と、アンドレ・マルローは言った」と始まる。  

 今回、カヴァフィスの詩で他者とは何かを改めて考えさせられたあと、世界の終わりに北方の地に封じ込められていたゴグとマゴグが解き放たれると信じられていたことを知った。ゴグとマゴグはイギリスではどういうわけかロンドンの2人の巨人の守護者となり、19世紀にジョン・ベネットが時計仕掛けの見せ物としてその人形を登場させていたことを、少し前に『世界を変えた12の時計』(デイヴィッド・ルーニー著、河出書房新社)で訳していた。最初に登場するのは旧約聖書のエゼキエル書だが、そこでは「マゴグの地のゴグ」であり、イスラエルの地を襲う「メシェクとトバルの総首長ゴグ」だった。ところが、新訳聖書が書かれた時代には、ゴグとマゴグはいつの間にか2人の巨人になり、アレクサンドロス大王の門によってローマの最果ての地の向こうに封じ込められているのだと考えられるようになった。のちにアレクサンドロスの門の話はクルアーンにも盛り込まれた。やがて既知の世界の範囲が広がるにつれて、この門の場所は遠方へと移動しつづけた。シルクロード西端の玉門関がその砦だという説も有力で、18世紀にいたるまでヨーロッパの地図の北東の隅にその領土が描かれていたことなども、今回初めて知った。  

 日本にも蝦夷は存在したが、坂上田村麻呂が討伐して久しく、北方からの脅威という感覚は根づかなかったようだ。他者も敵もとくに必要とせず、他国との接触は最小限にとどめても、さほど大きな内乱もなくやり過ごすことのできた江戸時代は、ひとえに蒸気船も飛行機もインターネットもなかった時代に、世界の果てを取り巻く大洋オーケアノスの、そのまた先に浮かぶ島国だから可能だったのか。「普通の国」では、他者や敵がいないと、自分たちをまとめる解決策がなくなるのか。 

 そんなことを考えながら、ゴグとマゴグ、プーチンと検索してみたら、案の定、昨年の春を中心に次々にそんな記述が次々に出てきた。ゴグがプーチンならマゴグは誰か、という滑稽な議論も盛んになされていた。聖典を通じて頭に叩き込まれたこうした考えは、身に染み付いてしまい、気候変動の脅威が迫り、終末がちらついてくるなかで、甦ってくるに違いない。

 厄介なのは、ゴグ扱いされているプーチンや、マゴグ候補の諸々の国の指導者たちもまた、終末は近づいていて、アメリカを筆頭とするサタンが解き放たれたと思っていることだ。彼らにとっては、欧米諸国が他者であり、敵なのだから。 

 マゴグと名指しされがちな中国では、さすがに「アブラハムの宗教」の影響は少ないかもしれないが、長年、万里の長城や玉門関を築いて、西からの夷狄に備えてきた民族だ。城壁の内と外の陣容が入れ替わっただけで、思考回路はよく似ている。  

 欧米諸国の目論見どおりにプーチン一派が一掃された暁には、どうなるのだろうか。かりにロシア人が一夜にして欧米と価値観を共有する民主主義者になったとしたら、それで世界は平和になるのか? それとも、未開人がもういなくなったら、各国をまとめていたたがが外れてしまうのか? 

イドリーシーの『ルッジェーロの書』(1154年)をもとに1929年にKonrad Millerが作成した写しの部分。画像はウィキメディア・コモンズより。
この地図は上が南で、この部分は北東端。「アレクサンドロスの門」らしきものが描かれている。

「蛮族を待ちながら」と訳した池澤夏樹訳も参考に読んでみた。最後の四行は、「何人かの者が国境から戻ってきて、/蛮族など一人もいないと伝えたから。/さて、蛮族が来ないとなると我々はどうすればいいのか。/彼らとて一種の解決には違いなかったのに」となっていた。
解説から察するに、池澤氏はこの詩を「覇気の徹底的欠除」を表わすものと解釈したようだが、それでは肝心の最後の文の意味が通じないのではないだろうか?