カルガモ親子とともに川を下っていくうちに、連絡を下さった娘の「お友達」にもついにお会いし、一緒に少し下流まで行った。そこには別のカルガモが数羽いて、なぜか親子連れをいじめはじめた。すると、母ガモは血相を変えて羽根をばたつかせ、猛禽のごとく果敢に相手を追い払い、また9羽の雛をしたがえて悠然と泳いでいった。母は強し。鳥の世界もなかなか大変だ。久々に感動を覚えながら、小雨のなか家路についた。
それから一週間ほどたった先日、図書館へ行きがてら、また川をのぞいた。すると、暗渠の近くに親子連れが見えた。雛はもうムクドリ大に成長している。ところが、どう見ても雛が3羽しかいない。たった数日間で、こんなに減ってしまったのだろうか。敵はカラスか猫か、スッポンか。それとも、川の水がひどく濁っているせいか。自然の厳しさを思い知らされ、暗澹とした思いで図書館へ向かった。
考えてみれば、人間だって少し前まで同じような状況だった。バッハは20人の子供のうち10人を幼少時に、1人を成人してから亡くしているし、私の親や祖父母の世代でも、子供の死は珍しいことではなかった。それどころか、アフリカやインドなどでは、いまも同じような状況にある。次々に子を産んで育て、その多くを亡くす母親の負担は、肉体的にも精神的にも、想像もつかないほどのものだろう。
だからこそいまは産児制限をし、少なく産んで確実に育てるわけだが、それが中国の一人っ子政策のように、国からの規制というかたちになれば、どうしても弊害がでるだろう。一人っ子と大勢の兄弟に囲まれて育った子とでは、性格に大きな違いがでる。いまの30歳くらいまでの中国人の多くは一人っ子らしいが、そういったことが最近の中国の寛容のなさと関係していないだろうか。さすがの中国政府も、すでにこの規制を緩和しはじめているようだが、人間の知恵などしょせん自然の力には勝てないのだから、不自然な決まりはつくらないほうがいい。人工中絶の是非を含め、生殖に関する問題はとくに、法律でやたらと規制するのではなく、人びとの理性と道徳に訴えて各人に判断させながら、周囲の環境に合わせて徐々に適切な方向へもっていくほうが、結果的にいい方向にいくに違いない。