2017年8月31日木曜日

リチャード・P・ブリジェンス

 新橋駅銀座口から昭和通り沿いに少し行った先に、旧新橋停車場の遺構に再現された鉄道歴史展示室がある。汐留の再開発のときの発掘調査で駅舎やプラットフォームの礎石などが発見され、古い写真や残されていた平面図をもとに、1871(明治4)年に竣工したブリジェンス設計の駅舎をそこに再建したものだ。周囲に高層ビルが建ち並ぶなかで、ちょっと不思議な空間になっている。  

 リチャード・P・ブリジェンスにいつから興味をもったのか覚えていないが、私が横浜の歴史を調べだしたきっかけになったコータッツィの『ある英人医師の幕末維新』の表紙には、彼が設計したイギリス領事館の横浜絵が使われていた。新橋駅の対となった横浜駅の駅舎を設計したのもブリジェンスだった。のちに神奈川県庁となった横浜税関の建物や、「時計台」として知られた町会所、グランドホテルのほか、山手にあったイギリス公使館も彼の作品だった。1867年に建設されたこの公使館と築地ホテルは、レンガや石造りではなくナマコ壁を使っており、耐火性のある建築物を、地元で調達できる資材で手早く建設したものだった。二代広重の描いた「横浜高台英役館之全図」ではレンガ風に見えるが、『ファーイースト』紙に掲載された写真を見ると、ちゃんとナマコ壁になっている。このアイデアが、工事を請け負った高島嘉右衛門の発案なのか、建築家のものかはわからないが、トリニダード・トバゴで育ったブリジェンスには植民地の折衷建築物に馴染みがあったのだろう。  

 ネットでリチャード・ブリジェンスと検索すると、見つかるのはもっぱら建築家で家具職人かつ絵描きでもあった、ミドルネームだけが違う同名の父親の作品だ。『西インドの情景』と題された彼の本の生き生きとした挿絵が数多くヒットする。父親のほうはカリブ海の奴隷制度の実態をいまに伝える貴重な史料として、最近かなり話題になっているようだ。息子のほうも父親の才能を充分に受け継いだと見え、北米へ移住後、サンフランシスコの初期の市街図を作成したほか、フォート・ポイントの設計にもかかわった。  

 その彼が1865年3月に来日したのは、夫人の姉が横浜にいたためだと言われている。義姉のほうは開港後まもない1860年1月ごろに来日した。当時は居留地にほとんど西洋人女性がいなかったうえに、パリの最新流行のドレスを着た30歳前後の美人だったために、大評判になったそうだ。夫のショイヤー氏は60歳と高齢で、横浜最初の新聞『ジャパン・エキスプレス』を短期間発行した競売人で、競馬の世話役、居留地参事会の初代議長を務めた人だった。妻のアナは、橋本玉蘭斎の御開港横浜大絵図に「画ヲ能ス女シヨヤ住家」と書き込まれたことからもわかるように、絵が上手で、のちに明治天皇の肖像画などを描いた高橋由一に絵を教えたことでも知られる。  

 居留地の有力者ショイヤー氏のつてで、ブリジェンスは次々に大きな仕事を受注できたと言われるが、ショイヤー夫妻はアメリカ人であるうえに、ブリジェンスが来日した翌年には、夫のラファエルは急死している。横浜外国人墓地には、ラファエルだけが生麦事件の被害者の近くに眠っている。寡婦となったアナは、66年に来日したアメリカ公使ロバート・ヴァン・ヴァルケンバーグと翌年に再婚したため、その縁故で仕事を得られたという説もあるが、この夫婦は69年にはアメリカに帰国している。ちなみに、ヴァルケンバーグは幕府が発注した甲鉄艦ストーンウォール号の引き渡しを拒み、のちに薩長軍側に斡旋した人だ。これが箱館湾海戦で旗艦として使われ、勝敗を決した。  

 ブリジェンスがイギリス公使館と領事館の仕事を得られるようになったきっかけは、ほかにありそうだ。じつはそこにかかわってくるのは、宣教師としてヘボン博士らと来日したブラウン師の娘ジュリアと、当時横浜にいたウィルソンという写真家に下岡蓮杖、そしてイギリスのオールコック公使の再婚相手の連れ子で、17歳でイギリス領事館の通訳生として来日したフレデリック・ラウダーという、なんとも複雑な人間関係なのだ。フレデリック・ラウダーは生麦事件の前日に3歳年上のジュリアと、彼らの赤ん坊が生まれる48時間前に周囲の反対を押し切って結婚した。下岡蓮杖はそのジュリアを介して写真術を学んだと言われ、ブリジェンスのことは「ビジン」と呼んでいた。ラウダー夫妻はともに長く横浜に住み、横浜外国人墓地に葬られたとされる。だが、実際には夫の死後、ジュリアは亡夫の祖国イギリスへ永久に「帰国」したという記事がある。乗船した船はサンフランシスコ行きだったので、自分の母国アメリカに帰ったのかもしれない。草木に埋もれた夫の墓の縁石側面に、彼女の名前と生没年が刻まれていたので、分骨したのだろうか。  

 ブリジェンスは長らく消息不明になっていたらしいが、町会所が焼失した翌年まで生きた「ブライトゲン夫人」の古い新聞の死亡記事が1983年に見つかり、外国人墓地の19区に葬られていたことがわかったうえに、夫のリチャードも横浜で1891年に死去していたことが判明したという。狭い19区のなかを何度も歩き回ったが、ブリジェンス夫婦の墓は見つからなかった。先日、無理を頼んで詳しい地図を見せてもらい、その場所と思われるところへ行ってみた。1983年当時もかろうじて読める程度だったという大理石の墓標、と推測される石から文字は消え、墓には木が生い茂っていた。彼らの存在が日本人の記憶から消えてしまったことを象徴するようで、しばし呆然と見入った。  

 初代新橋駅の近くには、ブリジェンスが設計した後藤象二郎の蓬莱社の建物と蓬莱橋と呼ばれた石橋があったはずだ。いまやどちらも存在しないが、蓬莱橋という交差点に名が残っている。蓬莱社は横浜の北仲通の埋め立てを請け負ったというが、関内駅近くの蓬莱町も明治6年の埋め立て地なので、この会社の名が地名として残されたのだろうか。祇園精舎の鐘の声が聞こえてきそうだ。

 旧新橋停車場

『ファーイースト』に掲載された イギリス領事館





 山手のイギリス公使館

 フレデリック・ラウダーの墓
 
ブリジェンス夫妻の墓(牧人舎のHPのエッセイでは、違う墓碑を掲載してしまっていたが、のちに斎藤多喜夫さんのご著書から墓標の形がわかり、2018年2月に墓地を再訪してようやく見つけることができた)