2006年5月31日水曜日

子離れ

 昼下がりの眠くて能率があがらない時間帯に、私はよく買い物にでる。最近このくらいの時間になると、近所のお母さんたちが腕章をつけて道路脇に立っている。小学生の下校時間だからだ。  

 自分たちの手で子供を守らなければ、という風潮が高まったのは、あの宮崎勤事件からだろう。幼い子に性的なはけ口を求め、自分の欲求を満たすためなら、この世にまだ数年しか生きていない者の命を奪うこともためらわず、それどころか子供を殺すことに快感すら覚える人間が、善人そうな顔して普通に暮らしているという現実を知って、それまでかろうじて保たれていた社会の信頼関係が一気に崩れてしまったのだ。当時、新米の母親だった私は、あんなむごいやり方で子供を奪われた親の心境を思い、自分でも息が苦しくなるほどだった。  

 子供が巻き込まれる事件があるたびに、私はよくレイモンド・カーヴァーの短編『ささやかだけれど、役にたつこと』を思いだす。誕生日のケーキを注文して待っていたのに、その当日、子供が事故死し、そこへ奇妙な電話がかかってくる話だ。殺人事件ではないけれど、日常生活がある瞬間から残酷に崩されるという点がよく似ている。ずいぶん以前に一度読んだきりなので記憶が定かでないが、病院に運ばれてどんどん容態が悪くなる子供を前にして、こんなことが起こるはずがない、事故の起きる前に戻りたい、と必死で願うくだりがあったと思う。ほんの数時間前、いやほんの数十分前に戻れれば、あの角さえ曲がらなければ、といったわずかな願いですら、現実にはかなわない。いったん起きてしまったことは、もう取り返しがつかないのだ。  

 だから、子供の帰りを待つ親は、いまこの瞬間にも魔の手が迫っているのではないかと不安に駆られてしまう。子供に携帯電話をもたせ、たびたび居場所を確認し、早く帰ってこいと念を押す。世界のほとんどの国は日本よりも治安が悪いから、集団登下校どころか、保護者による送り迎えがすでに日常となっているところも多い。 

 しかし、子供にしてみれば、さぞかしうっとうしいことだろう。四六時中、親や大人の監視下にあったら息が詰まる。過干渉の親のもとで育った子は、自分の自立が脅かされると感じて、他人と距離をおく孤立型タイプになるそうだ。逆に放任主義の親のもとで育てば、年中、人と一緒にいないと不安になり、べったり型になるらしい。親子のあいだの適度な距離は、子供が将来、良好な人間関係を築いていくうえで欠かせないものだが、こういうご時勢では、どうしても過干渉に偏りがちだ。  

 夕方のパトロールや登下校の監視役に駆りだされる親の負担も大きい。これでは、働く母親はPTAで肩身が狭いにちがいない。送り迎えが必要となれば、専業主婦になるか、代わりの人を頼むしかない。仕事と子育ての両立が難しくなれば、少子化は進む一方だ。  

 では、どうすればいいのか。名案は浮かばない。おそらく、社会で子供たちを守るという意識を高めるしかないのだろう。防犯パトロールでなくてもいい。犬の散歩でも、道端での立ち話でも、要は人目があることが肝心なのだから。そう考えれば、たまたま下校時に買い物にでている私の行動も、本当にささやかだけれど、近所の子供たちの役に立っているかもしれない。