2004年6月29日火曜日

「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」

 先日、母が実家の前にあるクチナシを何本かもってきてくれた。何年も昔に引っ越していった人から譲り受けたこの木は、伸び放題に伸びて、いまでは見上げるような大木になっており、毎年、この時期に強い甘い香りを楽しませてくれる。  

 昨年、近所の人がご主人を亡くされたときも、母はこのクチナシをもって行ったらしい。花が終わったあと、その奥さんは枝を挿し木にし、それがうまく根づいたことを、とても喜んでくださったそうだ。何年か経てばきっと、毎年、命日が近づくたびに、甘い香りを漂わせるようになるだろう。  

 私のちっぽけな庭でも、一昨年の冬に近所の人からいただいた千両がうまく根づき、今年はもう花が咲いている。姪のかりんが生まれたときに植えた花梨の種は、すくすくと伸びて、今年初めて実を6個ほどつけた。強風の日、姪は実が落ちやしないかと心配したらしい。  
 庭中をみごとな配色の花で飾り、いつ見てもきれいな花が咲き乱れている家をよく見かけるが、花の咲いた苗を大量に購入し、咲き終わったら引き抜いて次の苗を植える、という園芸はどうも私の性には合わない。もちろん、私の場合は単に不精なうえに、庭の手入れをする時間がないせいもあるけれど、つねに花を絶やさないようにする必要があるのだろうかと、ときおり疑問に思う。それより、もう枯れたかと思った木から新芽が出てきたり、去年こぼれた種から、いつの間にかまた芽が出てきているのを見つけたりするほうが、よほど楽しい。  

 ペットにしても、同じではないだろうか。きれいに着飾った犬を、これみよがしに散歩している人がいるが、あのような人は飼い犬が老衰したら、最期まで面倒を見るのだろうかと、ふと心配になる。  

 以前の職場に、愛犬が老衰死し、悲しみのあまり有給休暇をとった先輩がいた。しょげかえった様子を心配した課長が、「おばあさんでも亡くなったのかな?」と、私にひそかに尋ねてきた。「いえ、そのう、いっ、犬なんです」と、私は答えに窮してしまったが、あれだけ家族同様に最期まで愛された犬は、幸せだったろう。  

「花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは」と、吉田兼好も言っている。生物はみな、生まれ、育ち、花開き、やがては老いて死んでいく。その途中だけを切り取って鑑賞するのではなく、変化を楽しみ、老いも死も受け入れることが、本当は重要なのだと思う。そうやって普段から生と死を身近に見てくれば、命の尊さが実感できるのではないか。  

 自分の理想からはずれれば、別のものと簡単に取替える。そういう考え方が、ひいては身勝手な殺人事件を起こすことつながるのだと、このところの一連の事件を見て思う。おそらく、人間はどんどん他の生物と接しなくなり、自分も生物なのだということを忘れてきているのだろう。