2021年2月21日日曜日

『東亰異聞』

 ふだん小説を読まず、ましてホラー的な推理小説などは苦手である私が、珍しく小野不由美の『東亰異聞』(新潮社)を図書館から借りてみた。跡見花蹊に関して調べた際に、たまたま鷹司煕通から引っかかってきた一連の本の1冊がこれだった。本を手に取って、題名に京の異体字が使われていることにまず意表を突かれた。この字は、朝日新聞が東京朝日新聞時代に1940年まで題字にも使用されていて、元来はこちらが一般的だったらしい。 

 小説の出だしはちんぷんかんぷんで、我慢して読み進めると、序幕の後半で怪しげな黒衣が「浅草瓦町の万造」について語り始める。それを受けて娘姿の人形が、「『浅草茅町北、瓦町』」と返す。このように二重鉤括弧で表示された歌舞伎のセリフを挟みながらところどころに挿入される黒衣と人形のやりとりが、劇中の全能の語り手や解説者のような役割であることに気づくまでにしばらく時間がかかった。「『アレ、そんな上手をいまさら』」といった表現や、「くつくつ笑う」、「かつん」、「こつん」といった気になるオノマトペが多用され、時代がかった雰囲気を醸しだす。人力車などと書かずに、俥と表現したり、露天商や的屋などと言わず、香具師(やし)としたり、言葉が巧みだ。

 「そう。その借家だ。間口九尺の小さな家だが、低いながらも二階があって、狭いながらも庭がある」と、万造の借家について黒衣が説明をつづける箇所を読みながら、かつて瓦町にあった上田藩の瓦町藩邸、のちの徳川慶勝の屋敷を想像した。瓦町の一部は江戸時代から町屋で、上田藩邸の向かいには文久2(1862)年から佃煮屋の鮒佐があったし、明治2年には内田九一の写真館なども開業している。小説には菊枝という柳橋の芸者上がりの女性も登場する。柳橋の花街は、茅町と呼ばれていた一角から総武線の線路を越えて南に広がり、神田川に突き当るまでの一帯にあった。

 表紙画にも描かれている凌雲閣に夜間こっそり登る場面もある。この高層ビルは、「英吉利の技師、バルトンの設計によって明治二十三年に竣工した。煉瓦造りの十階の上に木造の二階があって、その眺望は信じられないほど広大なものだ」という説明のとおりの建物で、浅草寺の西にあったが、関東大震災で半壊し解体されたようだ。作中「麻布汐見坂」とされた鷹司邸は、実際には麻布本村町の、現在はフィンランド大使館がある場所にあった。麻布の潮見坂はもっと北寄りの旧岩崎庭園の近くにある。「上野戦争で廃墟と化したその聖域には、博物館が建ち、植物園が設けられ、勧業博覧会の会場が設置された。文明開化を象徴する広大な公園だが、そこには江戸がたわめられている」などという、考えさせられる一文もある。

 舞台は一応、明治29年という時代設定になっているのだが、祐宮、つまり明治天皇がその4月に崩御して新しい時代に入るというパラレルワールドなので、歴史をかじった人には頭が混乱するものがあるだろう。万造は新聞記者の平河新太郎とともに、話の中心的な役割をはたす。平河のほうは会津藩士の子孫という設定だ。

 私がもともと関心をもっていた実在の鷹司煕通は、明治天皇の大喪の礼で祭官長を、大正天皇の即位式でも大礼使長官を務め、1918(大正7)年まで生きたが、作中では10年前に50歳で死去していて、その息子たちが鷹司家の家督を巡って悶着を起こすという筋書きになっている。よく見ると鷲司だったり、異体字だったりするのかと虫眼鏡で拡大してみたが、そういうわけでもない。「煕通卿は同じく摂関家の九条家から養子に入った人だ」、「ともあれ、煕通卿はそういう人だったわけだね。進歩的な開国派、尊王攘夷を主張した祖父輔煕とはおりあいが悪かった。当時の公家のほとんどが攘夷を頑強に主張していたから、公家の中でも異端だったと言っていい」といったセリフは、おおむね正しい情報も伝えるので、余計に頭がこんがらがる。

 さらに誤解を招くのは、「堀田正睦の勅許工作に密かに協力して、それで輔煕卿の勘気をこうむったらしいね」、「煕通が最初に政治表の近くに姿を現したのは堀田正睦の勅許工作の折、次の井伊直弼のおりにも再び暗躍をおこない、勅許には結びつかなかったものの、港を持つ沿岸の諸藩の説得に成功」などという表現が、何度も繰り返されることだ。「神仏分離だよ。神と仏を分けろという。先代はあれに猛反対なさっていたからね。反対に父[煕通]はその推進派だった。あの人はいつものような西洋を睨んでの理屈でね」という下りなどは、どこから湧いてでたアイデアなのか。私に思い当たるのは唯一、煕通の兄で興福寺塔頭の大乗院の門跡となったものの、神仏分離で還俗した松園尚嘉くらいだ。一連の出来事で興福寺は廃寺寸前にまでなり、大乗院の跡地は奈良ホテルになった。実在の人物名を使って、論議の的となりやすく、かつ無関係の史実との関連をほのめかしながら、すべてフィクションだと言ってしまえば、それで済むのだろうか。  

 歴史上の鷹司煕通は、堀田正睦が安政5(1858)年に勅許を得るために上京した際に応対した関白、九条尚忠の息子で、そのわずか3年前に生まれている。鷹司輔煕は、文久3(1863)年に1年未満、関白を務めたのち謹慎処分となり、18歳になったばかりの息子の輔政も亡くしたため、九条家から煕通を養嗣子とした。したがって、輔煕は養祖父ではなく、養父に当たる。煕通には小説と同様に息子が4人いたが、長男の信輔は日本鳥学会の第2代会頭を務めた人であり、その息子で交通博物館調査役だった平通は愛人宅で変死を遂げた。小説のなかに登場する鷹司常煕、通称、常(ときわ)のモデルはこの親子なのだろうか。次男は軍人であり、3男、4男は小説の登場人物と同名だが、それぞれサボテンの研究家と水族館の館長だったようだ。煕通の妻も徳大寺家の出で、小説のように陰陽道の倉橋家の人ではない。 

「これは父が建てました建物です。[……]西洋の真似ではいけない。外国のお客さまは日本をご覧になりたいのだから、と生前よく申しておりました」)。あるいは、「父は迷信じみたことが本当に嫌いだったのです。占いやまじないも嫌いで」、「封建的なことや前時代的なことも嫌っておりましたし」などという煕通の性格描写は、実際がどうあれ、九条家の出であることを考えれば、あながち間違っていないかもしれない。  

 瓦町の万造は小説のなかで、こんなことを言う。「世の中には本当のことと噓のことがございます。[……]噓を規制すれば、誰もが本当の顔で嘘をつく。噓が本当としてまかり通ってしまうことと、ふたつが曖昧なことは同じようでまるで違う気がいたしますんです」。その前段には、「河童だの人魚だの、見世物があっても本物だったことはござんせん。それでも人が集まるのは、噓でもいっこうに構やしない、むしろ噓を観るために集まっていたからじゃァありますまいか」。これがフィクションにたいする著者の姿勢だろうか。そこに込められた真理を見抜いた読者が、現実の歴史の謎に目を向けてくれるならよいが、大半の人は空に浮かぶ生首や人魂売り、赤姫姿の闇御前、火炎魔人など、奇をてらった仕掛けに気を取られて、著者のつくりだす虚構の世界に浸って終わるのではないのか。そうなると、部分的に本物で大衆を惑わすフェイクニュースと大差なくなる。

 「農民を踏み台にして背伸びして、開化の猿芝居を続けるつもりか」、「まずは列強の搾取を排除しなければならない。関税自主権の回復は急務だ」、「重石を乗せてたわめたものは、重石を跳ねのけようとするもの」、「開化など、嘘だ。だれもが新しい時代がきたふりをしているだけだ。四民が平等ならなぜ華族がいるのだい」。あまりにも急激な変化に順応できない明治の社会を巧みに描いているようだが、瓦町の万造はこんなことも言う。「開国するべきではなかったのです。せっかく呪力で国を包んであったのに、そこに風穴を開けてどうします。開化などしてはならなかった。国を守ってきたものを、迷信だなんだのと切って捨ててどうするのです」

 小野不由美は私と同世代の作家で、トールキンとC・S・ルイスのみならず、私が大好きなアーサー・ランサムにも影響を受けているのだそうだ。出身地に怪奇伝説が多く、幼少期から両親にせがんで怪奇話を聞くとウィキペディアにはある。福沢諭吉を輩出した中津はそんな土地柄なのだろうか。『東亰異聞』は1993年に、まだ彼女が30台前半のときに第5回日本ファンタジーノベル大賞の最終候補作になった作品だという。かなりの才能の持ち主だとは思うけれど、私には実際の歴史の謎解きのほうがはるかに面白い。歴史の闇に葬られた謎はいくらでもあるのだから。

こちらが実在の鷹司煕通。「祭官長公爵鷹司護煕通鄕」(卿の字がなぜか、鄕になっています)

2021年2月14日日曜日

跡見花蹊

 少し前に跡見学園女子大学の創設者である跡見花蹊の日記が、同大のサイトで読めることを発見して、細切れ時間に少しずつ目を通し、ついでに伝記3冊も図書館で借りてざっと読んでみた。跡見花蹊その人に関心があったというよりは、彼女の弟子の一人について調べたかったのだが、かなり意外な事実がわかったので、とりあえずメモをしておく。 

 3冊の伝記のうち、『跡見花蹊先生実伝:花の下のみち』(藤井瑞枝編、1919年)と『跡見花蹊女史伝』(高橋勝介著、1932年)はともに、生誕150周年の1990年に「跡見花蹊伝」編集委員会が2冊をセットにして非売品として復刻刊行したもので、横浜市立図書館に寄贈されていたために読むことができた。3冊目の『跡見花蹊:女子教育の先駆者』(泉雅博ほか著、ミネルヴァ書房)は2018年の刊行で、当然ながら、いちばんよくまとまっており、とくに私が知りたかった京都時代の花蹊の驚くべき一面はこの本から初めてわかった。

 これらの伝記や「跡見花蹊日記」にある略歴によると、花蹊の生家は摂津国の木津村(いまの大阪市浪速区・西成区)という大きな村の庄屋だったが、花蹊が生まれたころには没落していた。高橋勝介氏は実家の事情をこう書く。父の重敬が「僅かに寺子屋の収入に依り一家の飢を支へて居つたが、一心に家運の再興を望み、郷土の農民と伍し空しく老い朽ちることを潔しとしなかった。機会だにあらば何とか世の中に躍進せんものと祈って居った。時恰も幕府の威令漸く衰へ尊王攘夷の思想全国に漲り来り、公卿の間にも傑出した人物が現れはるゝやうになった」。尊王攘夷運動の本質がここに垣間見えるようだ。そして、木津村の願泉寺に沢家の娘が嫁いできたことから、跡見家には再び運が向いてきたという。

 2018年の伝記は、この住職の妻を沢宣嘉の娘だとしており、彼が甥に当たる姉小路公知を跡見家に紹介したのだとする。日記には確かに沢主水という人物が度々登場する。となると、八月十八日の政変後に「七卿落ち」した一人で、のちに長崎府知事としてキリシタンの大弾圧をした公家のことだが、沢宣嘉は1836年生まれで、甥の姉小路公知と4歳しか違わず、遅くとも1850年代に、木津村の寺の住職に嫁ぐほどの年齢の娘がいたとは思えない。 

 2005年に跡見学園の130周年を記念した出版物の「第一部 跡見花蹊の創意」は、「その奥方は京の公卿石山家から入った方」としており、ネット検索すると、石山基文という姉小路家から養子に入った人物が見つかる。姉小路公知の父の公前と沢宣嘉を兄弟とする1827年生まれの人で、弟の沢宣嘉と甥の姉小路公知とともに九条関白に抗議した廷臣八十八卿列参事件に加わっていた。彼らよりやや年上とはいえ、石山基文でも住職の妻の父になるには年齢が若いので、住職の奥方はその養父の娘だろうか。

 いずれにせよ、跡見家はそれ以来、姉小路家と深くかかわるようになる。花蹊の姉藤野は、姉小路家の奥向きに入って公知とのあいだに一子をもうけ、その千重丸(公義)がのちに姉小路家の当主となる。姉小路家にはその後、花蹊の父と2人の弟も仕えるようになったが、姉小路公知その人は文久3(1863)年5月20日に御所の北東で刺客に襲われ、翌日、23歳で死去してしまう。三条実美とともに尊王攘夷派廷臣の中心人物と見なされていた公知は、その前月、摂海(大阪湾)を巡視した際に勝海舟に会い、強硬な攘夷論を軟化させていたうえに、長州と昵懇であったことが、薩摩の反感を買ったと推測されているようだ。公知の死後、花蹊は元服前だった千重丸とその妹の良子の教育係を務めることになった。

 跡見学園とは何ら関係がなく、女子教育の歴史に格別な関心があるわけでもない私が、突然このように跡見花蹊を調べ始めた理由は、以前に同大の学生便覧で「当時の門下生は関白九条幸経夫人をはじめ100人近くに及んだ」という一文を読んでいたからだ。九条幸経夫人というのは、姫路の酒井雅楽頭家の銉(いつ)姫(九条家に入って肫子、あつこ、となった)であり、上田の松平忠固の異母妹、もしくは従兄弟の娘という近親者であり、拙著『埋もれた歴史』のなかでも取りあげた謎の人物なのだ。 

 花蹊の存命中に書かれた『花の下のみち』では、門下生について説明するなかで「まづ時の関白九条幸経公の御簾中(酒井家より入輿の律君)を始とし」と述べる。『跡見花蹊女史伝』もそれを踏襲し、さらに「年猶若き一女子の身を以て関白家の師傅となったことは、女史に取っては、実に此の上もなき名誉であった」と解説していた。

 九条幸経は実際には、安政3(1856)年から文久2(1862)年まで関白を務めた九条尚忠の養嗣子で、実父は前関白の鷹司政通と言われる。跡見花蹊が幸経夫人を教え始めたのは慶応3(1867)年5月以降のことで、幸経は1859年に36歳で死去している。つまり、正確には肫子はすでに寡婦であり、かつ幸経自身は関白になったことはない。「跡見花蹊日記」の略歴は実際、「九条公より御後室に御稽古御頼みに相成」と書き、「九条幸経公御後室妙寿院様」ともなっていた。幕末から明治初めの姫路藩の記録では、彼女は妙寿院と呼ばれているが、肫子と署名した明治2年の書簡が残っており、九条邸で剃髪して暮らしていたのかどうかも、確かなところはわからない。

 九条尚忠は、「廷臣八十八卿」や薩長の尊王攘夷派が目の敵にした関白であり、辞任後、落飾して洛南の九条村に隠棲していた。だが、孝明天皇崩御後に状況が変わり、慶応3年の暮れには還俗している。姉小路家に出入りしていた花蹊が、どういう経緯で九条家の後室を教えるようになったのか、興味深い。略歴には、花蹊の漢学、詩文、書法の師であった宮原節庵(謙蔵)に芹田氏が頼んだとあり、その際、「花蹊は師の礼を以てなれは御請をするが、さなくは御請は致しませぬ」という条件で話がまとまり、「二、五、八の 御稽古日とす」という。当時、花蹊はまだ27歳だった。

 じつはその前年3月15日に、「千重丸様、准后様ぇ御児子惜みに御参り有て、 其節花蹊御供す。[……]御褒美として結構なる御 品々拝領」と、日記の略歴に書かれている。7歳の千重丸の元服前の儀式と思われ、准后は孝明天皇の女御で、九条尚忠の3女(または6女)とされる夙子、つまりのちの英照皇太后の可能性が高い。このとき花蹊がどんな役割をはたしたかわからないが、書画の話が弾んだのかもしれない。

 2018年刊行の伝記は、最初の稽古日の日記の内容を参照してこう書く。「慶応三年五月七日には、五摂家である九条家に招かれて花蹊は出掛けている。席画をし、九献の饗応を受けた花蹊は、その日宿泊までしている。当日、花蹊は九条家より後室の画の師を依頼されたものと思われる。後室とは先代九条幸経の未亡人であり、当代九条道孝の養母であった。名は九条肫子といい、播磨姫路藩一五万石の藩主酒井忠学の次女で、通称は銉といった。七月二三日の稽古始めからほぼ一〇日に二度ずつ九条邸へ出掛け、画の指南を花蹊が京にいた期間ずっと続けている」。九条家は幸経の死後、1839年生まれの尚忠の実子、道孝が、幸経の養嗣子になるという複雑な形で存続していた。道孝は、多くの資料によれば夙子の実弟で、慶応3年11月晦日には左大臣に昇進、戊辰戦争では沢為量(宣嘉の養父)に代わって奥羽鎮撫総督を務めた。

 花蹊の日記からは、このとき以降、明治3年10月7日まで3年にわたってかなりの頻度で九条家に稽古にでかけ、その都度、昼食や夕食がだされていたことがわかる。「此日昼後より九条殿ぇ上り、稽古いたし候。夕飯呼れ候て帰り候」(慶応3年11月13日の条)といった記述が最も一般的だが、「昼後、九条殿ぇ上り候。稽古致、七ッ時、姉御殿ぇ帰り候。一宿」(同4年2月28日)のように、稽古のあと「姉御殿」に宿泊することも多かった。

 これは姉藤野のいる姉小路家を指すものと思われるが、花蹊が訪れていたのは九条家のどの屋敷だったのだろうか。幕末の京都の地理に詳しくないが、ネット上で見る限り九条家は現在の御苑内にあった九条邸のほか、鴨川沿いの丸太町通り付近と、御所から東に進み鴨川を渡った先に下屋敷・別邸を構えていたようだ。どちらも御所の東北角にあった姉小路邸からは1キロほどだが、幕末の物騒な京都で日暮れに若い女性が歩きたい距離ではなさそうだ。となると御所の南の上屋敷だろうか。

 明治元年12月7日には、「此日、九条殿、九条村ぇ御引移りにて休」とあり、その一週間後に、「朝より九条村九条様ぇ上り候」とある。これ以降は、洛外の九条村まで通ったのだろうか。丸太町通りに面した九条家の別邸は、1872年に女紅場という民衆の女子教育の最初の学校ができた場所で、山本八重は新島襄と再婚する前、そこでしばらく教えていたという。  

 花蹊の日記には、姉小路公知の暗殺をはじめ、孝明天皇の崩御など、幕末のさまざまな出来事の記録がところどころにあり、そうした動乱の時代にも姉小路家や九条家をはじめ、さまざまな家に個人レッスンに出向いていたことなどがわかり、なかなか面白い。しかも、彼女はその合間に扇や団扇に書画を数十枚単位で認めたり、手本とする書画帖を作成したり、ときには幟や襖絵なども頼まれ、夜なべをして仕上げている。『跡見花蹊女史伝』によれば、「扇面一枚の料金三文から五文位で、百枚を描き僅かに四五百文に過ぎなかった」という。書画だけではない。輪講、つまり大学のゼミのようなこともしばしばやっていて、そのために読書にもかなりの時間を費やしている。九条家の後室という立場上、自由に世間にでられなかったであろう肫子にとっては、新時代の女性として、まばゆいばかりの存在だったかもしれない。 

 花蹊が東京に移った明治3年11月には、「九条様を御はしめ御弟子の御方々に東行之事申候えは、実に惜まれた」と、略歴は書くが、日記そのものは出発の慌ただしい時期にはつけられなかったと見えて、空白がつづく。明治4年7月10日にも、「終日、九条様法帖揮毫」とあり、テキストの作成を依頼された可能性がありそうだ。肫子はこの年に亡くなったと多くの資料が書いているが、墓所等はわからない。

 2005年の「跡見花蹊の創意」は九条家との関係については一切触れていない。代わりに、「花蹊──尊攘派女志士」というコラムを設けているほか、明治6年に「明治天皇の御従兄で天誅組の大将として挙兵、敗れて長州に落ちた[中山]忠光の遺児南加の入塾」に際して、花蹊の従兄二人がその挙に加わり落命している縁から、その仲子という生徒を明治天皇に引き合わせたエピソードが語られる。

 花蹊と九条家の関係は、明治25(1892)年になってまた始まるが、今回、弟子となったのは九条道孝の長男、道実の妻で、西本願寺の法主であり、探険家としても知られる大谷光瑞の妹の恵子(やすこ)だった。九条恵子は跡見の校友会名誉会長を務め、肫子のように、花蹊から個人レッスンを受けていたが、途中で画のほうはやめて、書のみの稽古にしてくれと依頼したようだ。画の稽古を熱心につづけた肫子のことを、花蹊は思いだしただろうか。尾形光琳を庇護し、酒井抱一を輩出した酒井雅楽頭家の人びとは、忠固本人も母の隆も、弟の西尾忠受もみな書画を嗜んでいた。写実的で繊細な花鳥画を描く花蹊から、これほど熱心に習った肫子の画作品はどこかに残っていないのだろうか。

 余談ながら、大谷家と九条家のあいだには3組の夫婦がいて、大正三大美人の1人とも言われる九条武子は道孝の五男、良致の妻であり、道孝の三女、籌子(かずこ)が大谷光瑞の妻となった。武子と籌子は親友で、やはり女子教育に尽力して京都女子大の創設にかかわったという。

『跡見花蹊:女子教育の先駆者』(泉雅博、植田恭代、大塚博著、ミネルヴァ書房)

左:『跡見花蹊女史伝』高橋勝介著、
右:跡見花蹊先生実伝:花のみち』藤井瑞枝編、「跡見花蹊伝」編集委員会

2021年2月7日日曜日

正字

 暮れからずっと諸々の校正作業をしてきたので、息切れ気味だ。翻訳ならまだ知らないことを調べる楽しみがあるけれど、ひたすら間違いを探す作業は何度やっても好きになれない。昨年、自分でDTP作業をやった際に、ちょっとした直しでもいかに面倒かが身に沁みてわかったので、少しでも校正者や編集者、あるいは膨大な直しを依頼される組版会社にかける迷惑を減らすために、見直しにかける時間を増やしたつもりだったが、今回も凡ミスが多出している。  

 一つは数字の間違いだ。単位の計算間違いから、桁の読み違いに始まり、twelveをtwentyと読んでいたりする視覚的な間違いまで、再校になっても自分でも呆れるほどまだ残っていた。何度も見直しているつもりでも、その他の箇所に気をとられると、一つひとつの数字のチェックはどうしても疎かになる。恐ろしくつまらない作業であっても、数字の確認だけを全編を通してすることの大切さを、今回思い知った。  

 だが、圧倒的に多いのは漢字の間違いだ。対象と対照、触覚と触角などは、偏在と遍在、加熱と過熱などは何度も間違えているのに、またやってしまった。極めつけは「発砲スチロール」と3回も変換していたことだ。どんな恐ろしい物体よ!と、3回目にチェックを入れながら校正者が呆れる声が聞こえるようだった。本当に赤面ものだ。  

 くじ引きの場合は、当選ではなく当籤なので、「当せん」にすることや、「うず高く」は「堆く」が正しいので、やはりひらいてしまうといったことは今回初めて覚えた。手のひら→掌、紅茶を入れる→紅茶を淹れるなどは、昔、注意された記憶がある。  

 それ以外の漢字の間違いの多くは、正字と異体字の違いだ。子供のころ漢字練習も書道も苦手だったので、多年にわたる怠慢をこの年齢になって取り戻すのは並大抵のことではない。漢字が大の不得意だという自覚はあるので、同じ読みで何種類もの漢字がある場合などはとくに、どれを使うべきかその都度確かめてはいるのだが。  

 しかし、ほんのわずかだけ棒の角度が違ったり、向きが逆だったり、長さが違ったり、点が多かったりする正字を選ぶ作業となると、老眼の私にはかなり厳しい。呑と吞、剥と剝、頬と頰、繋と繫、嘘と噓、掻と搔、靭と靱など、どこが違うのか、虫眼鏡を使わないとわからないような差だ。変換の際にでてくる候補から見分けようとすれば、余計な手間となる。 

 もちろん、一見して明らかに違う字もある。涛と濤、蝋と蠟、噛と嚙、鹸と鹼などは、なんだか黒っぽいぞと私の目にもわかる。だが、こうした難しい字は修正を赤で入れようとすれば、崩壊して一つの漢字にはとても見えなくなるのがオチだ。石鹸(鹼)の偏など、虫眼鏡で拡大して初めて、歯でないことを知った。こんな字を書ける人がどれだけいるのだろうか。中国の簡体字ほど大きく変える必要性は感じないし、昔の文献を読むために倍の努力が必要になりそうなので、むしろよくないと思うが、やたら難しい字をいつまでも正字として残さなければならない理由もよくわからない。  

 今回もう一つ発見したことは、私の原稿では正字に変換されていた漢字が、どこかの段階で略字に変換されてしまい、それがゲラに印字されているものが多数あったことだ。使用するソフトやフォント間の橋渡しに問題があるのだろうか。餌、飴、櫛、饗などの下が横棒2本の食偏やそれに似た部分、謎、迂、這などの二点しんにょう、廟、揃など横棒が斜めの月、煽、溺、摺などの2点とも左下がりの「羽」、箸、堵、賭などの点付きの者を含む漢字のほか、錆、騙、鞄、詮など、私が使っているWordソフトではどうやっても正字しか打てない字が、なぜか略字に変換されているのだ。こうなってくると、目を凝らして見たところで、相性しだいで変わってしまうことになる。  

 点がいくつあるか、横棒の角度がどうかなどと、老眼を酷使して漢字を確かめているうちに、重要な内容の間違いが見逃されてしまうのでは本末転倒だ。出版業界や印刷業界、報道関係者など、いったいどれだけ多くの人がこうした無駄な作業に貴重な時間とエネルギーを費やしているのだろうか。  

 國のように、すでに旧字とされたつくりを含みながら、「掴む」は「摑む」と訂正が入る。これなどは、手書きが廃れ、コンピューター入力が増えるなかで、戦後に広まった拡張新字体の見直しという新たな傾向のためらしい。新聞などが使用し始めたこれらの字体は、鶯(ウグイス)と鷽(ウソ)がともに鴬とされるなど、問題があったのだという。ちなみに、私の使っているワープロソフトでは、この拡張新字体は「うぐいす」と打たなければ表示されなかった。  

 本来は、同じ基本パーツを組み合わせればすべての漢字がつくれるほうが、子供の教育のためにもよいと思うが、すでに100年以上、中途半端な方針をつぎはぎして二進も三進も行かなくなっているのだろう。考えてみれば、江戸時代までは大半の人が簡字体をさらに簡略化したような崩し字を筆で書いていたのだ。楷書を目にする機会は、木製活字を使った印刷物を読むときくらいだったかもしれない。それとて、彫師の気まぐれで、棒の長さや角度は違っていたはずだ。活版印刷が普及した際に、あまりに黒々としてインクの目詰まりを起こしかねない文字は、簡略化しておけばよかったのに、漢字のルーツに詳しいごく少数の学者が正しい字にこだわったのだろうか。  

 いまでは難しい字を手書きしなければならない機会は、一般人にはまずないだろう。この際、中途半端な簡略字は廃止して、かつあまりにも複雑な漢字はお蔵入りにして、誰がどのパソコンで打っても、間違い探しのごとく似た文字がいくつも候補としてでてこないようにしてもらえないものだろうか。