2015年7月31日金曜日

山本五十六

「五十六さんは本当に戦争に反対だったのよね」。先月、高齢の親戚を訪ねた折に、そのおばあさんのつぶやいた一言がずっと気になっていた。そこで私にしては珍しく、映画『聯合艦隊司令長官 山本五十六-太平洋戦争70年目の真実-』を観たり、半藤一利氏の『山本五十六』を読んだりしてみた。長年、山本五十六のことは日本をアメリカとの戦争に巻き込んだ張本人だと思っていたが、彼が真珠湾攻撃を思い立った背景や、自分の意図に反して結果的に騙し討ちになったことに山本自身が苦しんだことなどがわかった。山本五十六にミッドウェイ海戦を決断させたのは、1942年4月18日のドゥーリットル中佐指揮のB-25による日本初空襲だったと言われる。半藤氏によれば、「本土空襲を誰よりも危惧していた山本には、大きな衝撃であった。宇垣参謀長に敵艦隊の迫撃を任せると、色青ざめた山本は長官室に引き蘢り、出てこなかった」。  

 すでに前年12月から遠方で日米戦争が始まっていたとはいえ、これは日本の本土が突如として敵襲にさらされた実例であり、いまの安保法案をめぐる問題で取り沙汰されている悪夢そのものだろう。真っ昼間に太平洋から飛んできた16機の爆撃機B-25は、ウィキペディアによると、水戸の上空で偶然にも東条英機を乗せた専用機とたがいの顔が見えるほどの20kmの距離ですれ違った。その後、16機は各地の軍事設備を空襲し、87人の民間人死者をだし、病院を含む262戸の家屋を焼いた、と日本語のウィキペディアにはある。日本側は太平洋上で5隻の監視艇を沈没させられたほか、戦闘機など4機を失っているので、死者には軍人が含まれると思われるが。米軍の16機は当初の計画どおり同盟国であった中華民国の浙江省を目指して日本を去った。一部は燃料不足からソ連領や日本軍の支配地域に不時着して捕虜となるか死亡したが、ドゥーリットル本人は堆肥の山にパラシュート降下して生き延び、ほかの隊員も現地の中国人の協力で生還し、アメリカに凱旋して英雄となった。昭和天皇は防衛総司令官の東久邇稔彦王から「敵機は一機も迎撃できませんでした。また今のような体制では国内防衛は不可能です」と報告を受けたそうだ。もちろん、大本営発表では「敵機9機を撃墜。損害軽微」と修整された。国民の疑念を晴らすために、大陸に不時着したB-25の残骸を運んで靖国神社に展示したそうだ。  

 日本側は、波間すれすれを飛んで忽然と現われた米軍爆撃機にあわてふためくばかりで失態を演じたようだが、この攻撃はアメリカ側にとっても途方もない賭けであったようだ。16機のパイロットはいずれもそれまで空母から飛び立った経験もなく、しかも作戦当日の早朝に、銚子沖1200kmの海域で哨戒艇に見つかってしまったため、計画より10時間早く、310kmも遠い地点から飛ばざるをえなかった。こんなふうに意表を突いた方法で不意に攻めてくる敵にたいし、つねに万全の防備を固めることははたして可能なのか。相手の裏をかくのが戦争であり、戦争中に技術は思いがけない大躍進を遂げるものでもある。後知恵で批判するのは簡単だが、想像を超える事態には対処しようがない。  

 ドゥーリットル空襲についてはわずかに調べた限りなので不確かだが、それでも非常に気になる点がいくつかあった。日本語の資料には「葛飾区にある水元国民学校高等科生徒石出巳之助が機銃掃射を受け死亡した」ほか、無関係の場所を爆撃したため、「早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂と他1名が死亡」などとあるが、英語版ウィキペディアには「死者約50人、負傷者約400人(民間人を含む)」と書かれているだけで、その他の英語資料も空襲による実害は少なく、むしろ心理的に大きな損害を与えたと書かれているものが大半だ。B-25は爆撃機だが、爆弾を落とすだけでなく機関銃も搭載されていた模様だ。民間人が機銃掃射されたのであれば、「損害軽微」どころではない。日本側はなぜその事実を世界にすぐに公表して、米軍の戦時国際法違反として追及しなかったのだろうか? 代わりに東京で軍律裁判を開き、捕虜にした8人のうち3人をそそくさと処刑したために、のちに東京裁判で裁き返されたようだ。  

 ネット検索するうちに、処刑された6番機の機長だったディーン・E・ホールマークという28歳の若者に関する記事を見つけた。アメリカの現役軍人アダム・ホールマーク少佐が映画『東京上空三十秒』を偶然に観て、同姓であることに興味をもち調べた結果、遠縁に当たることを知り、その後、生存する元隊員を訪ね歩き、何年もかけてつぶさに調査した結果をまとめたものだ。2011年に書かれたこの記事には、ディーンが日本軍から受けた拷問の様子や、日本語しか書かれていない供述書に署名を強要されたこと、処刑の知らせに遺族が打ちのめされた様子などが綴られている。存命の元隊員たちは2013年まで、この空襲の成功を刻んだ銀杯をもち寄り、記念行事をつづけたようだ。  

 同じ空襲の歴史認識になぜこうも多くの齟齬が、戦後70年を経てなお、日本政府が全幅の信頼を寄せる米国とのあいだにあるのだろうか。アジアの国々とのあいだとなれば、誤解はうずたかく積もっているに違いない。国際情勢の雲行きが怪しくなってきたいま、急ぐべきことは、無駄に終わるどころか、やぶ蛇になりかねない再軍備ではなく、相互の古傷の正確な診断と治療だろう。

『山本五十六』半藤一利著 (平凡社ライブラリー)