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2026年10月15日木曜日

中居屋重兵衛その3

 唐突に中居屋重兵衛について調べ直すきっかけとなった本題について、今回はまとめてみる。長くなるがお読みいただけたら嬉しい。

 横浜は安政6年6月2日に開港した。西暦では1859年7月1日なのだが、横浜市の学校は毎年6月2日を開港記念日として休みにしている。開港前の数カ月間に、半農半漁の寒村であった横浜村が突貫工事で開港場につくり変えられていたころ、老中時代に開港を断行した藩主松平忠固のもと、貿易に活路を見出していた上田藩は、紀州藩、会津藩とともに輸出できる藩の産物のリストをつくり、藩専売の売込商として中居屋重兵衛を任命しており、幕府からも貿易の許可を得ていた。上田藩の産物としては、「白𥿻糸同織物類・木綿・真綿・麻苧[カラムシ]」などの繊維関連のほか、「うるし・紙類・生蝋・傘類・石炭あふら・松油・人参・麦粉・鉛・鋸並鉋・煙草」と多様な輸出品をリスト化していた(滝沢家文書、萩原進『炎の商人』に引用)。白𥿻糸は生糸であり、忠固は大坂城代時代に上田紬をみずから売り込んでもいたが、このリストにはのちに日本の主要な輸出品の一つになる蚕種、つまりカイコガの卵はまだ含まれていない。会津藩の産物にも「絹糸・同織物類」が含まれるが、紀州藩には木綿類以外の繊維製品はない。  

 上田藩では天保年間からあった産物改会所を刷新して、安政4年に上田と江戸に産物会所を設置して、着々と開港に備えていた。実際には文化年間(1804-18年)に上州から座繰り機を導入して製糸技術が向上していたことに、非常に重要な転換点があったと思われる。上田では古くから養蚕はしていたものの、繭は上州などに売り、製糸はしていなかったことを、遅まきながら『蚕都信州上田の近代』の井川克彦氏の論文「横浜開港前における上田小県地方の製糸業」を読んで知った。座繰り機にはベルトで駆動する奥州型と木製歯車を使う上州型があるらしく、どちらも開発の歴史を探ったら非常に面白そうなテーマだ。それまで品質がまちまちになる手繰りで行なわれていたものに、小さなものとはいえ機械が導入された過程には、きわめて重要な技術移転があったことになる。生糸の最大の産地は前橋であり、ここは酒井雅楽頭家の元領地であり、伊勢崎藩はその支藩だ。松平忠固が姫路の酒井家から上田藩に養子入りしたのは文政12年(1829)のことだが、経済活動まで積極的に目配りしていた姫路藩のことを考えれば、忠固の養子入りに先立って、何かしら政治力が働いてこの技術移転があった可能性も勘繰ってみたくなる。技術の伝播史は私の訳書の多くを占める分野なので、先祖探しを始める以前から、私の関心の的でもあった。  

 いずれにせよ、上田藩としては生糸と上田紬を柱に、城下町商人が運営する産物会所に出荷させて品質・量・形状等の統一を図り、「江戸産物会所へ差出、売捌ニ相成候金高ニ応じ、二分[2%]の割合を以て冥加可差出候事」となっていた(「江戸産物会所仕法触書」『長野県史 近世史料編 第1巻2』より)。  

 6月の開港に向けて準備を進めていた年の2月29日には、産物会所世話役を務める伊藤林之助と町田吉五郎が上田を発ち、横浜貿易交渉のために江戸上田藩邸(おそらく瓦町藩邸)の長屋に滞在していた。伊藤らは5月にいったん上田に報告に戻るが、開港前に再出府した(阿部勇「横浜開港期における小県上田の生糸輸出」『信濃』63-3-734)。  

 中居屋は豪華な店舗を建てたせいか、開港当日にはまだ準備ができておらず、6月19日に開店したことが伊藤林之助の「出府日記」から判明している。しかも、イギリス商人から取引をもちかけられ、やはり産物世話役を務めていた武蔵屋祐助がごく内々に中居屋から上田に向けて出立した旨が書かれていた。この経緯を解説した阿部勇氏の記事を『週間うえだ』で見つけ、イギリスのジャーディン・マセソンの記録にそれに明らかに該当する取引が言及されていたため、バーター取引とはいえ、これが実際には本邦初の生糸輸出と考え、拙著『埋もれた歴史』に書いた。現在は、こちらで上田側史料に関する阿部氏の解説は読める。  

 原町の『問屋日記』でも同じ取引の件は詳述されていた。「神奈川横浜貿易十九日相始、糸引合ニ相成候而、此方より御用掛りニ罷出居候武蔵屋祐助、廿二日暁海野宿まで罷越万屋平八江申遣対談致」。こちらは『長野県史 近世史料編』1-2に収録されているので、国会図書館デジタルコレクションで読める。上田の生糸貿易について詳しくないので、定かではないが、武蔵屋祐助は原町に店もつ人で、産物会所も原町にあったはずだが、秘密裏に上田に戻った産物世話役の武蔵屋祐助は、隣の海野町の万屋に相談に行ったと読めそうだ。「この行動は産物会所の許可を受けたものではなく、後日問題になり、処罰されている」と阿部勇氏は前述の解説で指摘する。  

 その後、7月1日の上田の城下町商人滝沢家の日記からもアメリカ人から45駄、オランダ人から7駄の生糸の注文があったことがわかり、かつ8月10日には「町田吉五郎、今未明、江戸より帰宅被致、右ニ付、産物会所へ罷越候処、此度ヲランタ人江糸四拾四箇売渡し、代金ハ壱歩銀ニて五百両受取候、外はトルラル銀壱ツ三分の通用と兼て厳重被仰出も有之義ニて受取候処」など、取引の様子が詳しく書かれている(「滝沢家文書」、西川武臣『横浜開港資料館紀要』9より)。  

 日本では天保期に財政難からそれまで重さで価値を決めていた銀を、額面で表わす表記貨幣に変えていたため、金銀比価が諸外国といちじるしく異なっていた。開港直前に安政二朱銀を発行して事態に対処しようとしたものの、外国人から猛反発を喰らい、6月23日に二朱銀の通用が停止されるというゴタゴタがあった。それゆえに通説では23日以前に生糸の取引はなかったとされてきた。その後も通貨をめぐる問題はすぐには解決しなかったと思われ、中居屋が洋銀(メキシコ・ドル、いわゆるピース・オヴ・エイト)で受け取り、交換できずに難儀していたことなどがライバルの三井の史料などからわかる。それでも、安政6年の半年間の生糸総輸出量は487,629斤とされ、1駄が150斤で90kgであることから考えると、開港後わずか数カ月間に驚くほどの量の生糸が輸出されていた。その大半を中居屋が扱っていると、三井側は苦々しい思いで見ていた(西川『横浜開港史料館紀要』9)。 

「その1」で触れた上田の飯沼村(岩村田藩領)の名主吉池家の記録からは、この年の10月6日に生糸集荷の第一報が入り、11日には20駄分を買い入れ、15日にも松代糸を10駄分買い取るなど、取引が始まっていたことが判明している(西川、『蚕都信州上田の近代』など)。ところが、11月16日の三井の書簡に「中居屋重兵衛と申方」に関して「先頃店預り支配人入牢被仰付、表〆切ニ相成、何共気之毒至」と書かれている(西川、『横浜開港資料館紀要』7、『蚕都信州上田の近代』)。おそらく、これが「その2」で触れた善助だろう。遅くともこの時点で中居屋には営業停止命令が下っていた。  

 これに呼応するように、翌万延元年(1860)4月に、上田藩が城下町商人の町田吉五郎と武蔵屋祐助を処罰し、産物世話役を罷免したうえで、押込を命じていた。上田市立博物館蔵の「宮下家文書」にあったという「抜け荷」に関する史料には、「彼是乗合ニて御用之合間ニ商内仕候」、「不正筋ニ付、御叱之上」といった言葉が並び、分析した西川武臣氏は、「処罰理由は、城下町商人が『産物会所』に集荷された生糸だけでなく、『御用』の合間に乗り合いで生糸を集荷し、多額の利益をあげたことであった」とする。上田藩は同年6月に、生糸出荷の窓口を中居屋から永喜屋に変更し、この店に城下町商人を常駐させて抜け荷を取り締まるようにしたという(『蚕都信州上田の近代』)。  

 実際には何が問題であったのか。幕末史をかじった人ならば、西陣織の関係者が開港による生糸価格の高騰に反発し、討幕を支援していたことはよくご存じだろう。錦の御旗に象徴されるものだ。中居屋のライバル三井はもともと呉服商だ。「織物を中心に扱った三井横浜店では、八月に入っても交易は極めて不調であり、中塚徳次郎は毎日二、三人の外国人が店に来るが、一日に六、七両の利益しか上らないと嘆いている」と状態だった。その状況下で、生糸ばかりが大量に売れていたのだ。この年、国内では蚕が凶作であるのに、「異人生糸被望候ニ付、益高直之品」など、価格が吊り上がっている様子も伺える(西川、『横浜開港資料館紀要』7)。  

 不満の声は江戸の生糸問屋からも上がった。江戸を素通りして生糸が横浜に向けて出荷されるため、江戸では生糸不足が問題になっていた。「取り締まろうとしても、『諸家様御差物之生糸荷物』(藩専売の生糸)には恐れ多くて手出しができないと記されている」と西川氏は解説する(『蚕都信州上田の近代』)。こうした国内の不満は、とくに「抜け荷」に向けられ、それが万延元年閏3月の「五品江戸廻送令」につながるのだが、本当の問題はそこにはない。というのも、前年7月22日の段階ですでに運上所から「外国人生糸ヲ多分相好候趣ニ在之、然ル処糸之侭ニて多分相渡候時ハ日本織物ニ差支、国々織元衰微之基ニ付、成丈ケ織物ニて相渡、生糸之方相渡ニ不申様」という命令が下っていたからだ(西川、『横浜開港資料館紀要』7)。  

 万延元年6月には、江戸町奉行の池田播磨守と石谷稲葉守から、全国の代官、大名、旗本に、領地で生産される生糸の量を調査し、輸出用にはその2、3割までを回し、生産地にて生糸に「荷印と送状」を添付して出荷先と数量を調査することなどを提案している(西川、『蚕都信州上田の近代』)。  

 つまり、中居屋が目をつけられた本当の理由は、銅瓦などではなく、生糸を大量に輸出していたことなのであり、上田藩や会津藩扱いの藩専売分については幕府の許可を得た行為であるため、問題視できない代わりに「抜け荷」が槍玉に挙げられたのではないか。上田藩にしてみれば、開港前に入念に準備していた販売ルートが、産物会所を通さない「抜け荷」も扱っていたことが判明し、関係者を処罰せざるをえなくなったのだ。中居屋の大番頭松田玄冲が飯沼村から集荷していた生糸も、岩村田藩が幕府の許可を得ていなかったとすれば、「抜け荷」だった言えるだろう。  

 欧米の列強が植民地とした地域から農産物や鉱物などの一次産品を大量に買いつけることが、その地域の経済を大きく撹乱してきたことは周知の事実だ。石油、ダイヤモンド、ウラン鉱石、綿花、サトウキビ、タバコ、トウモロコシ、南洋材、レアアース、アブラヤシなど、天然資源に恵まれた地域ほど、貧富の差が大きく、社会としては歪な形で発展するか、低開発のまま取り残されている。反物として輸出できれば、生糸の生産者のほか織物産業に携わる人も潤うので、経済的にはより広い恩恵がある。各農家で蚕を飼い、座繰り機で製糸して出荷した生糸であれば、それなりに大勢の人の懐を潤すものになったとは思う。だが、開港から数年後に始まった蚕種となると事情はだいぶ変わってくるし、富岡製糸場のような大資本による機械生産となれば、富は一握りの事業主のもとに集中する。開港と同時に、帝国主義のまっただ中の世界経済に巻き込まれて直面したこの事実こそが、より正確には、それに抵抗しようとした幕府の動きこそが、生糸貿易の創始者と言っても過言ではない中居屋重兵衛を、早々に廃業に追い込んだ真の原因ではないだろうか。  

 中居屋重兵衛にとって、幕府の役人や諸藩の対応はひたすら理不尽な締め付けに思えただろう。営業停止を命じられて身動きが取れなかった数カ月間に、彼が開港当初に現金を受け取れない代わりに入手した20丁の拳銃を水戸浪士に提供して、現状打破を画策したとすれば、十分な動機といえる。それが、当時の幕府を象徴した人物である井伊直弼に向かったことも、ある意味、当然の成り行きではなかったのか。後世の歴史家の多くは、明治政府側から歴史を振り返るか、少なくとも古臭い武士の世が終わり文明開花した自由貿易の時代を歓迎する視点から見てきたので、明治から戦前にいたるまで日本最大の輸出品でありつづけた輝かしい生糸を最初に世界に売りだしながら、非業の死を遂げた中居屋を、勤王の志士として描きつづけたのだろう。  

 日本を開国させ、開港前から着々と貿易の準備を進めていた上田藩主松平忠固は、安政6年9月12日に死去している。老中を罷免されたのち、貿易に賭けていたと思われる忠固は、体調を崩すなか、開港後のこうした展開の報告をどの程度受けていたのだろうか。生糸が藩の一押し産品であることは忠固もよく承知していただろうが、上田藩の産物リストは飽くまで「白𥿻糸同織物類」とし、会津藩も「絹糸・同織物類」と織物とセットにしていた。そこに大きな意味はなかったのだろうか。幕府がどう制限しようと、生糸の輸出量は伸びつづけ、一時的に横浜鎖港で落ち込んだものの、慶応3年(1867)には二倍以上の1,000,117 斤にもなった。その間に幕藩体制は崩れ、上田の産物会所も過去の遺物となり、以後は大商人や実業家が力をもつ世の中になった。  

 たまたま本業でアイルランドのジャガイモ飢饉の本に取り組んでいるところで、イギリスが保護貿易(重商主義)から自由貿易に変わる過程でたいへんな葛藤があり、それを一挙に推し進めたのがこの大飢饉のさなかに緊急措置としてアメリカから大量輸入されたトウモロコシの挽き粉であったことを知った。時期としては横浜開港とたいして変わらない時代の話だ。アメリカのモンロー主義は20世紀に入ってもつづいていた。封建時代からいきなり自由貿易の時代に入ったような日本の明治維新は、はたして望ましい展開だったのか。拙著『埋もれた歴史』を執筆したときに抱いたこうした疑問が、いままた沸々と湧き上がっている。

中居屋重兵衛の店の跡地に立つ看板(2016年撮影)

一分銀3枚を洋銀1枚と交換することになったと再読し、昔買った一分銀を計ってみた!

赤レンガ倉庫も、もとは主として輸出用の生糸の倉庫だったことをようやく知った。汽車道もおもに生糸を運ぶために引かれた線路だったとのこと(2018年撮影)

2026年10月13日火曜日

中居屋重兵衛その2

「中居屋重兵衛その1」で触れた佐佐木杜太郎の『中居屋重兵衛:開国の先覚者』(新人物往来社、1972)を、久々に本棚の奥から引っ張りだしたところ、2014年におそらく「日本の古本屋」のサイトから1,299円で購入したときの納品書が出てきた。祖先探しを始めて間もないころに神奈川県立図書館で見つけ、その後、古書が入手できることに気づいて購入したのだと思う。入手した当時は知らないことだらけで面食らって、半分も理解できなかったが、いま改めて読み直すと、幕末明治初期の生糸の輸出量統計数値なども詳しく出ていて、中居屋の大番頭だった松田玄冲の「日下恵」と「万日下恵帳面」の翻刻史料も収録されており、この書をいくつかの間違いをもとに切り捨てるのはもったいないと思う。今回は、本書を含むいくつかの中居屋関連の著作・論文をもとに、当時から私が疑問に思っていた件、「銅(あかがね)御殿」について再考してみる。

 横浜の本町4丁目に開港当初あった中居屋重兵衛の店は間口30間という大店舗で、屋根が銅瓦葺きであったことから「銅御殿」と呼ばれた、とどの歴史書にも書かれている。また、その記述とともにかならず、銅瓦が華美であることを神奈川奉行から咎められて、五日間閉店したとか、手代が入牢したとかいったエピソードが語られる。

 中居屋の店が豪華な造りであったことは間違いなく、すでに開店休業状態となって久しい1861年6月11日のフランシス・ホールの日記にも、店正面に間口の3分の2を占める、幅1.5mほどの石造りの池があって金魚が泳いでいることなどが描写されるとともに、「The building is conspicuous to one passing in the street by its dark heavy tiles, roof timbers…」(この建物は、その濃色で重厚な瓦、屋根の木材[中略]ゆえに、通りを行く者にもよく目につく)と書かれていた。F・ホールは神奈川の成仏寺にいた。ここで留意すべき点は、中居屋の店の屋根が黒っぽい色で、木材であるとホールが書いていることだ。  

 安政6年8月下旬、開港から2カ月あまりが経った時点で、中居屋のライバルであった三井の横浜店手代も「四丁目ニ中居屋重兵衛と申方、表間口三十間も有之、チャン流し之板屋根にて一際目立候普請」と書簡で書き送っていた。チャン流しとは、防水用に瀝青が塗られていることを意味する(三井文庫蔵『永書』、西川武臣『横浜開港資料館紀要』7に引用)。

 1889年に『横浜貿易新報』に野沢枕城という人が連載した記事(「原伝三郎伝」として『横浜どんたく』下巻に収録)には、横浜の古老の話として、「然れども銅を剥がしたる後なるか、銅にはあらずブリツキか、または板の上をコールタール様の物にて黒く塗り」と描写されていた。

 その1でも触れた中居屋の元手代の小林七郎次は談話のなかで、「邸宅は高壮で屋根は一寸板[厚さ3cm]を用い、麻を張り、その上にチャンで黒塗りされた。生麦の宿から眺められ、世人は〈浜の門跡様〉とよんでいた」と語っている。この談話は大正2年に小林が重兵衛の郷里の生家を訪れたときの思い出話だと、萩原進は『炎の生糸商』に書いている。  

 荻原氏、佐佐木氏双方の著者のカバーや函に使われた二代広重の「横浜風景一覧」は文久元年(1861)の作で、「同四丁目」に「中井」と書かれた立派なお屋敷を描いているが、屋根は黒々とし、むしろ壁がベンガラ壁のような赤茶色である。銅葺きなら緑青で薄緑色になるのではないかと思ったが、綺麗な緑青になるには10年以上はかかるようなので、開港から2年を経たころなら当初のあかがねの光沢は消え、目立たない茶褐色になっていたはずだ。銅瓦にはほぼ純銅が使われたようなので、合金である10円玉とは多少異なるだろうが、色味は似ているはずだ。  

 翌文久2年に刊行された横浜のガイドブック『横浜開港見聞誌』では、「また本町四丁目には中居という見世あり。座敷は異人のこのみにまかせ、中庭へ小鳥をはなち、金あみをもて天井四方をかこい、風流なるはびいどろにて壁の内をはりて、水をいれて金魚のここかしこに遊びてめずらかなり。この座敷に二尺余の四足台に横一尺七八寸、竪六七寸の箱をおきてあり。これはヲルゴルの大なる物にして、最もその音色美にして高し」と書くが、なぜか銅瓦については一切触れていない。  

 こうした傍証にたいし、銅瓦を葺いたために罰せられたとする記述も散見する。野史台隠士著『中居屋尊皇驚異記』は、西川武臣氏が問題視しておられた作品で、原文を読めていないが、ここに神奈川奉行の赤松左衛門尉範忠が「銅瓦で屋根を葺くなど分を越えた奢りである。五日間の閉店謹慎と早々に銅瓦を土瓦に改めることを申付け」たと書かれていた(荻原進『炎の商人』に引用)。萩原氏は1949年に群馬文化協会から刊行した『中居屋重兵衛:横浜開港の先駆者』で、この一件が安政6年7月27日だとするほか、『炎の商人』では銅製品が禁制の輸出品となったのは同年9月4日だったとする。野史台隠士の著書では、5日間の閉店の命令に中居屋が毅然と抗議したことも記されているようだ。ただし、問題は赤松左衛門尉のこの記録の出所が不確かで、赤松自身が神奈川奉行になったのは同年8月28日であるという齟齬があることだ。 

 佐佐木氏は、このとき主人の重兵衛の代わりに番頭の善助が入牢したと「日下恵」の記述から判断している。もっとも、「日下恵」は綴じる際に順番が滅茶苦茶になっているのか、日付順に並んでいないので何ともわかりづらい史料だ。表紙は「安政六年未六月吉日」で始まるのに、すぐに「二月五日六時半 和蘭陀五はんの人 弍人変死」と、安政7年のこの日に横浜居留地で起こったオランダ人船長殺害事件のことが記されている。そのあと12月27日夜と書かれた一連の記述があり、干鰯、銅、魚油、昆布、中物、水晶といった商品のあとに、「上田家中 長谷川宗次様 溝口喜三郎様/上田産物会所 江戸南新堀 支配人山崎由兵衛」と書かれている。長谷川と溝口の名前は、江戸詰めの上田藩士であることは、『上田藩松平家物語』から確認できる。南新堀におそらく何らかの事務所があったのだろう。 

「日下恵」では、そのあと一行置いて「中居親類之由 一 佐治治助様(悠輔) 二月四日御懸り」と書かれたあと、合原猪三郎と推定される人物を含む奉行所の役人が取り調べにきた記録があり、さらに一行おいてから「紀州御産物方」として人名および諸々の費用が並び、そこに「金壱分 牢屋小遣」「金壱両 善助 小遣ニ渡ス」などの記述が見られる。そのあとの日付は3月15日だ。ところが、しばらく行くと「安政七年正月四日」戻ってしまう。それでも、その先の3月4日にも「弍百文 牢屋小遣」、11日にも「金壱朱 牢屋」などとあり、さらに極月(12月)廿一日にまた「善助え牢見舞」と書かれている。諸々の情報を総合すると、安政6年12月27日に上田藩の産物会所の担当者が中居屋に赴き、同日、神奈川奉行所の役人もきて、善助が入牢し、牢屋で年を越して翌7年3月4日もまだ牢屋にいた、と考えると筋が通るが、どんなものだろうか。  

 中居屋の店の屋根に話を戻すが、屋根のほうも同じくらい情報は錯綜している。銅瓦だったのかチャン流しだったのか、横浜の歴史家たちは頭を悩ませたようで、『横浜市史』第2巻には「中居屋の建築は銅瓦の屋根で、『凡日本にはあるまじく』とうわさされたが、銅瓦はその筋から禁止され、檐口へのみ銅を張り、『其外はチャンを流し候由』」という折衷案を、大日本維新史料稿本が引用する『雑記』20からまた引きする。この『雑記』は見つけられていない。  

 悩ましいことに、万延元年(1860)正月5日に大番頭の松田玄冲が故郷の飯沼村名主、吉池文之助に書き送った書簡にも、「旧冬中ハ由之助様御出府之処、長々之御滞留御案事可被遊と存奉候、中居屋重兵衛義も張銅一条ニ付、閉店被仰付、夫故ニ由之助様江御勘定不埒ニ相成」などと書かれている。その1で言及した『蚕都信州上田の近代』のなかの西川氏の論文にこの書簡の全文が翻刻され、「手紙には、営業停止の理由が『張銅一条』にあったと記され、店の屋根を銅葺きにした店の普請が、あまりに華美であったことが幕府の怒りに触れたとある」と解説されている。  

 しかし、その他の史料から判断すると、中居屋は前年10月、遅くとも11月には営業停止命令を受けていた可能性が高く、重要な取引先である飯沼村に生糸代が未払いの状態のなか、とりあえず現状報告した書簡だという事情を考えると、なぜいまだに銅瓦なのかという疑問が湧く。銅瓦は葺き直したか、檐口だけではなかったのか。  

 一世紀以上にわたって、代々の歴史家が頭を悩ましてきたに違いない銅瓦問題だが、中居屋重兵衛が実際に幕府から咎められていた根本の問題を、関係者がひた隠しにし、「張銅一条」と誤魔化したための混乱だった可能性はないのだろうか。つまり、中居屋の店の屋根は、当初から三井の手代が書いたように、あるいは中居屋の手代が晩年に語ったように、3cm厚の板の上に麻を張ったチャン流しだったのであり、開店から数カ月で閉店させられるあいだに、屋根を張り替えるような大工事をする余裕はなかったのではないか、というのが私の素朴な疑問である。次回は中居屋が営業停止になった状況を整理し、中居屋をめぐる謎の本質にいくらかでも迫れれば、と思っている。

(左)『開国の先駆者:中居屋重兵衛』(佐佐木杜太郎著、新人物往来社、1972年)この本の表紙は、中居屋の紋である丸内に三本立算木という変わった紋と、実家の黒岩家の剣花菱の家紋がエンボスされた布貼りであることに、いまさらながら気づいた。
(右)『新版 炎の生糸商 中居屋重兵衛』(萩原進著、有隣新書、1994年)

2026年10月10日土曜日

中居屋重兵衛その1

 ようやく本業に専念できる状況になったはずなのに、少し前に横浜の歴史を見直したことをきっかけに、思いがけない発見や、ずっと引きずってきた疑問等が多々あり、結局、幕末史からなかなか抜け切れずにいる。先日、近所の歴史を調べるために久々に中央図書館に行った折に、ヨコハマ資料の書棚で『蚕都信州上田の近代』(阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年)を借りてしまったのが運の尽きで、そこから中居屋重兵衛について再々度調べ直したりしている。きちんと一つにまとめる余裕も気力もないので、頭のなかのメモリーを食っている問題を小出しに備忘録代わりにブログに書いておく。

  取り敢えずは、以前にブログに書いた桜田門外の変と中居屋重兵衛のかかわりについて。この問題について西川武臣氏が、中居屋が水戸浪士と一緒になって事件に深くかかわったとするのは、昭和初めに野史台隠士と中里機庵が書いた俗説に過ぎず、「確かな資料が新たに発見されない限り」事実ではないと断定しておられることへのささやかな反論だ。西川氏は、私がこの件について最初に読んだ佐佐木杜太郎の『開国の先覚者 中居屋重兵衛』(新人物往来社、1972年)を、「俗説に基づき記された部分も多く、間違いも多い」と評価しておられない。確かにこの時代に書かれた歴史書の多くは、出典が記されておらず、読者は真偽を確かめようがない。それでも、中居屋については当時日本にいた外国人も多く書き残しており、傍証はいくらでもあると私は考え、拙著『埋もれた歴史』(パレードブックス)でも多少触れたほか、残った疑問点は何度かブログにも書いた。

  また、近年、ネット上の情報も増えたし、国会図書館デジタルコレクションが拡充したおかげで、古い多くの史料を誰もが家にいながら検索できるようになったために、数日間調べただけでも、じつに多くのことが判明した。まず、西川氏が問題視した野史台隠士と中里機庵は同一人物であり、本名は中里右吉郎であることだ。明治29年の官報などで同名の人物が大分県士族としてヒットするので、中津藩士またはその子孫の可能性が高い。佐佐木氏の著書から私が信憑性の高い証拠と思った林鶴梁(1806-1878)と福井藩の村田氏寿(1821-1899)の対話は、明治10年までに両者が接する機会があれば不可能ではなく、中津藩士の中里氏が横浜開港期の福沢諭吉の足跡を調べるなかで中居屋に出会ったとすれば、村田氏寿から当時の秘話を聞きだすこともまったくありえない話ではないだろう。

  今回、中居屋について調べ直すなかで、上田市飯沼地区についての論考や史料を多数読むことができた。飯沼村は実際には上田藩領ではなく、岩村田藩領(藩主内藤正縄)であり、そこの名主である吉池家は、嘉永4年から信州糸を集荷し、上州商人に販売していたという。中居屋の大番頭だった松田玄冲は飯沼村の出身で、焔硝(硝石)の商売を通じて中居屋と知り合ったと考えられている(阿部勇『信濃』63-3-734、2011年)。

 吉池家当主、文之助の息子、由之助が父親宛に安政7年3月10日に桜田門外の変について実行犯をはじめ、事件の詳細を書き送っていることが、上田の歴史家阿部勇氏によって明らかになっている(詳しくはこちらで)。 3月3日に生じた事件については、閏3月晦日まで公表されずにいたことを考えれば、由之助がこれだけの情報を得ていたということは、中居屋が事前に水戸浪士と深い関係にあったことの十分な証左となる。

  佐佐木氏の著書には、桜田門外の変の知らせを受けて中居屋が歓喜した一件が綴られている。一人娘たかの初節句の祝いの席だったという描写で、肝心の情報源が書かれないまま、ドラマ仕立てになっていたが、これは長野県小県郡祢津村新張出身の中居屋の番頭、小林七次郎が昭和4年の『群馬県吾妻郡誌』で語っていたことは、萩原進の『炎の生糸商 中居屋重兵衛』からわかる。中居屋は前年10月中旬には幕府によって閉店させられたと思われ、上田藩が11月下旬には産物世話役を処罰していることは、本書および横浜開港資料館紀要9の西川氏論文から判明している。翌安政7年に、手持ち無沙汰の中居屋は雇人7、8人を連れて郷里の中居村に帰り、その後草津温泉でも数泊している。3月3日のお祝いの席に江戸から知らせが入ったのだとすれば、横浜で聞いた可能性が高いと思われる。ただし、『群馬県吾妻郡誌』は読めておらず、萩原氏の引用文からは、それ以上に詳しいことはわからない。 

 ついでに、『NHK歴史ドキュメント3』(1986)という書が国会図書館デジコレでヒットし、ざっと読んでみたところ、桜田門外の変で使われた拳銃、コルトM1851についての一応の分析が出ており、中居屋重兵衛の子孫の手元にある銃はそれをもとに日本でつくられた青銅製のもので、施条(ライフリング)されていないとしている。近年も桜の花が刻まれた日本製の拳銃が使われたという説をテレビ番組で報じていたようだが、私はこの説には懐疑的だ。中居屋に銃を売ったのはアメリカ人ホールと言われており、なかには「エッチ・ホール」とする記述もあったが、開港当初から横浜にいて、ウォルシュ商会にいたジョージ・ホール医師(ミドルネームはロジャース)と私は考えている。日記を残したことで有名なフランシス・ホール(ミドルネームはフランク)は、ジョージとも懇意だったが、神奈川に住んでおり、彼の日記も桜田門外の変について3月26日には書かれているが、拳銃の提供者とは考えにくい。

  取り止めのない記事になってしまったが、中居屋と桜田門外の変は関係があるはず、という私の従来の主張の裏付けとなれば幸いだ。中居屋に関する西川氏の論文には多くの貴重な情報が含まれており、それらを参考に、中居屋が拳銃を提供することになった動機という、より重要な点についても、追々まとめてみたい。

『蚕都信州上田の近代』
阿部勇・井川克彦・西川武臣編、岩田書院、2011年

2026年7月11日土曜日

『英語病にご用心!』を読んで

 明け方、蒸し暑くて暗いうちに目が覚めてしまい、どうにも眠りに戻れないので、諦めて読みかけの弟の近刊、『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(東郷公德著、開文社出版)を最後まで読み通した。インタビュー本なので、すらすらと読めるのだが、何しろ合計13人もの、各界の第一線で活躍する人たちが登場する。厚さ2cm強の軽そうな見た目のペーパーバック版ながら、実際には480ページ近くあるのだ。その分、読み応えは十分にあった。  

 もとはコロナ禍で、新入生向けにオンライン配信したガイダンス動画がきっかけだったそうで、本を執筆中という話をだいぶ前に聞きながら、いつまで経っても刊行されないと思っていたところ、当初の企画がいったん完全に潰れて、大量の原稿を抱えて飛び込み営業した末に、5年の歳月を経てめでたく出版に漕ぎ着けた、という汗と涙の結晶らしい。インタビューに応じてくださった方々や、あいだを取りもってくださった方々など、大勢の人を巻き込んでの企画なので、その間、さぞかし胃の痛い思いをしたことと思う。  

 弟は上智大学の外国学部英語学科で教えているので、インタビューした人の多くは上智の関係者であり、なかでも英語学科というやや特殊な環境が背景にある。弟は日本で教育を受け、県立浦和高校から英語学科に入ったため、帰国子女がやたらと多く、「休み時間に周りでみんな英語で話している!」状況に怖気づいた一人だったらしい。 私が出たフランス語学科も、帰国子女が多いという点では似たり寄ったりかもしれないが、入学前からフランス語がペラペラの数人は「スペシアル」組になり、フランス語の初歩の発音練習や会話練習は免除されていた。私たちその他大勢は、幼稚園のお遊戯さながらに身振り付きで、フランス語特有のリズムを習う訓練を延々とやらされたので、「r」の発音をなかなか習得できない人など、多少の優劣はあったにせよ、どんぐりの背比べ状態だった。 

 弟はのちに一年間、家族連れでイギリスに留学しているが、オーラルな英語力にはいまだに劣等感をもっているらしい。それなのに、シェイクスピアの研究者となり、よりによって古巣の英語学科で、日本語より英語のほうが得意な学生を相手に教えている。英文学科で教えれば、もう少しましだったのでは、とひそかに思っている。そんな英語学科の学生のあいだに「英語病」と彼がみなす症状が散見されることにたいし、長年、違和感、危惧感を抱いたあげくの作品のようだ。 

 もっとも、「英語病」の命名者は弟ではなく、本書最後に登場する精神科医の山下悠毅氏なのだという。山下医師は2012年12月に自身のブログで、英語も仕事もできる人に劣等感を抱き、「自分だって〝英語さえ〟できれば」と信じて疑わない人がいることへの警鐘を鳴らしていた。こうした人びとは被害者意識が強く、自分が報われないのは「親の育て方が駄目だったから」、「英語ができないから」だと思い込むのだそうだ。それどころか、「英語病」になると、英語を学ぶことが宗教の教義のようになり、むしろ「英語教」に近いのだと。山下医師と弟の「英語病」の定義が若干異なるように思うのは、弟がその進化系の症例を見ていて、山下医師はより一般的な挫折組の患者を診ているからなのかもしれない。

   いずれにせよ、うちの近所でも、小学校の下校時に校門前で英語塾のバスが子どもを迎えにきていたりするので、私の子ども時代はもちろん、子育て時代とも異なる英語学習熱の背景は見えてきた。英語で何かしらのコンプレックスを抱いた親世代が、自分の苦労や失敗を繰り返させたくないから、または子どもに恨まれたくないからと、英語塾通いを何よりも優先させているのだろう。だが、実際には、本書で多くの方が指摘するように、英語は道具に過ぎず、目的にはならない。まして信仰対象にはなりえない。 

 本書は英語教育だけでなく、日本の国語教育の問題にも多く触れている。古文・漢文はわりと好きだったのに、現代国語はちっとも興味をもてず、最後まで苦手教科の一つだった私にとっては、「言語技術教育」の普及に尽力されている三森ゆりか氏のお話には、共感するものが多々あった。「主人公はどう思いましたか?」とか、「感動したところを書きなさい」などと試験で問われるのが、とにかく嫌いだった。日本では「なぜ?」が軽視されているという件では、孫が「なんで?」「どーして?」を連発していた時期を思いだした。答えに窮して、帰宅後に理由をググって調べたこともあった。うちの娘夫婦はどちらも辛抱強く教えるタイプだが、弟もそうであったことを知り、だから「この子はこんなに理屈っぽくなってしまった」と奥さんに怒られたと読んで、光景を思い浮かべて笑ってしまった。ちなみに弟のところは英語学科の同級生同士の夫婦だ。

  ついでながら、「言語技術教育」の専門家でおられる三森氏に、一読した程度でこんなことを書くのは非常におこがましいのだが、Language Artsの訳語と思われる「言語技術」は、人の脳のなかで言語化される前の世界共通の部分とのことらしいので、「技術」以外の訳語を当てはめたほうがよかったのではないかと思った。実際、「言語技術」は、近年のAIの大進化を裏で支えるlanguage technologyの訳語として、ウィキペディアではまず検索される。両者に共通する面もあるのだろうが、こちらはコンピューター関連の用語だ。そもそも、「技術」という訳語は定義がやたら広い。日本語はそれだけこの手の語彙が不足しているわけで、私はいつも訳し分けるのに苦労している。じつは、scienceとtechnologyを混同する日本人があまりにも多いため、私は最近、後者の定訳だった「科学技術」から「科学」を省いて、「技術」をもっぱらtechnologyの訳語に充てている。そうなると、skillやtechnique、artsをどう訳すかという問題になり、さらにはそれに近い言葉としてabilityやcapabilityとどう区別するかなど、考えればきりがなくなる。三森氏の「言語技術」に関しては、インタビューを読む限り、「技術」よりも「能力」が近いように思い、「能力」を使いたくなければ、「言語術」でもよかったのでは、などと読みながら感じた。

   もう一つ、ついでながら、critical readingやcritical thinkingに関する考察もたいへん興味深く拝読したのだが、「批判的読解」とか「批判的思考」と訳すことの弊害を恐れて、横文字やカタカナ語のまま使っていては、おそらくいつまで経っても日本社会には浸透しないだろうと思う。大半の人は批判を非難と混同しているので、まずはその区別をつける必要がある。文章を批判的に、客観的に、さまざまな角度から読む訓練ができていないからこそ、好きか嫌いか、敵か味方かの二項対立になって終わるのだ。

   NHKニュースキャスターの有馬嘉男氏との対談では、村井吉敬先生の話題が出てきた。私も一年のときに一般教養で履修したはずと思い、成績表を探したのだが、卒業証書もろともどこかにしまい込んだらしく、見当たらない。経歴詐称と言われないように、暇になったら家探しをせねば! 弟の奥さんが村井ゼミだったことも本書で初めて知った。それまで欧米に向いていた目をアジアに向けさせてくれた濃い内容の授業だった記憶はある。感化されて、東南アジアに関連の活動で赴いた同級生も何人もいたが、当時、私の関心はもっぱらスキーに向いていたので、授業に出る以上の成果はなかった。

   弟の教え子で、ダンサーや国際交流イベント企画運営で活躍している知夏七未氏が、ミス・コンテストとNGOという異なる体験をつづけるなかで、救世主としてではなく、対等な友達として支援することの重要性を語っていたのも、どこか村井先生に通ずるものを感じた。

   弟がシェイクスピア研究者になったのは、確か安西徹雄先生の影響が大きかったはずだ。ほぼ同時期に同じ四ツ谷のキャンパスにいたのだが、異母弟で一緒に育っておらず、会うとぎこちなく挨拶する程度の間柄だったので、学生時代のことはよく知らない。私は小6か中学に入りたてのころ、ゼフィレッリ監督の『ロミオとジュリエット』のサントラ盤LPを買って、わからないなりに何度も聴いていたので、やはり同じ授業を受けていた。その後、こんにゃく座のお芝居などではシェイクスピア作品をいくつか観たが、翻訳のなかの引用文としてシェイクスピアを訳さなければならなくなると、その場凌ぎで対応するしかない。演出家で翻訳家の小川絵梨子氏との対談で、バルコニーのシーンの会話がいかに訳しにくいか、弟が力説していたのも印象的だった。「ひとつの作品に対して色々な人の訳があると補完される」という小川氏の言葉に、こういう考え方は素敵だなと思った。 

  英語の落語で日本文化を海外に発信している立川志の春氏との対談で、シェイクスピアの『冬物語』の話で盛り上がっているのを読むと、いつかこの作品に限らず、英語落語なるものを聴いてみたいと思った。ただし、落語の世界は師匠との同化が求められるそうだ! 

  同世代に近い人が多いせいか、FEN(米軍のラジオ極東放送網)に言及している人も散見された。私は中学生から高校初めまでの数年間、毎週土曜の夜の『全米トップ40』を聴いていた一人だし、FENもそれなりにBGMで聴いていた。先日、亡くなったボニー・タイラーのヒット曲「It’s a Heartache」などがヒットしていた時代だ。 

『J-MELO』のチーフ・プロデューサーだったという原田悦志氏との対談で、音楽は歌詞を聴くのか、サウンドとして聴いているのかという議論は、うちでもよくするので面白かった。私は圧倒的に後者で、音楽のほうは間奏や低音までよく覚えていたりするのに、歌詞の意味はずいぶんしてから気づくことが多い。娘と孫は歌詞派だ。孫にいたっては、『メトード・ローズ』というピアノ教本で出てくるフランスの曲(Marie trempe ton pain)の歌詞を教えると、意味もわからないのに、驚くほどの記憶力でそれらしく覚えて歌う。ときどき「パン・マリ」が「たまり」醤油のようになっているが、フランス語っぽいリズムで歌えるのだ。こうした言語脳が発達する時期の外国語教育に関する考察は、残念ながら本書にはない。

「トリ」はやはり、弟の高校時代の同級生という宇宙飛行士の若田光一さんだろうか。私は若田さんが搭乗したISSを眺めていたので、余計そう思うのかもしれない。インタビューはヒューストンに滞在中の若田さんと2021年4月にオンラインで行なわれた。ソユーズ宇宙船はいまもISSに向かい、カザフスタンの草原に帰還しているので、言われてみれば当然なのだが、「ロシア語は宇宙飛行士の必須言語」なのだそうだ。若田さんのロシア語習得までの涙ぐましい努力を読んだあと、インタビュー後に始まったロシアによるウクライ侵攻は、究極の国際空間である宇宙ステーション内にどんな影響をおよぼしているのか、ISSはこの先どうなるのか、気にせずにはいられなかった。
 
 本書のためのインタビューが実施された2021年から現在までに、世界情勢はコロナ禍の残響なのか、温暖化が一段と進んだためか、確実に悪化した。いまや世界はどこも危険そうに見え、円安ですべてが高くなり、オンライン情報だけが格段に豊富になった。「大部分の日本人が生きて行くのに、英語はほぼ不必要です」という弟の主張は、この時代に即しているのかもしれない。日本の若者は狭い日本を飛びだす代わりに、自分たちの居場所を奪いそうな在日外国人のみならず、訪日外国人客まで敵視し始めている。英語だけでなく、多様な言語を学ぶ機会を小学生に与えるという弟の提言は、どれもこれも中途半端になって終わりそうな予感がする。遊びの一環で少しばかり覚えるならいいけれど、外国語はある程度、継続して時間を割かない限り身にはつかない。あまりにも多くの選択肢を与えるのではなく、数カ国語のなかから一つ、または二つを自分で選ぶ、くらいが関の山ではなかろうか。

   日々、英語を使って儲からない仕事をつづけ、いまや瞬時に答えが出る機械翻訳に教えられることも増えた一翻訳者が、英語を学ぶ意味を付け加えるとすれば、英語というインターフェイスは、その他どの言語よりもそれによって得られる情報が多いことだ。それはビジネスで役立つとかいう実際的な側面以上に、批判的読解をするうえで重要なものになる。戦犯として絞首刑になった広田弘毅が巣鴨プリズンに面会にきた孫に、「自分に恥じない人間になりなさい。そして何か他国語を一つ覚えなさい」と言った言葉が忘れられない。外国語は自分を外から見つめ直す鏡なのだと思っている。

東郷公德著『英語病にご用心!:体験談から覗き見る語学の達人たちの舞台裏』(開文社出版、2026年)

2026年6月1日月曜日

『ハヤ号セイ川をいく』Minnow on the Say

 このところ、就寝前のひとときを楽しく過ごしている。ほんの数十分ずつなのだが、3月に岩波文庫から原田勝氏による新訳で刊行されたフィリッパ・ピアスの『ハヤ号セイ川をいく』を図書館で借りて読んでいるのだ。ピアスは、アーサー・ランサムと並ぶくらい私が好きな児童文学作家で、なかでもデビュー作であるこの作品は、代表作の『トムは真夜中の庭で』にも増してお気に入りの一冊だった。 

 小学生のころ、地元の「どんぐり文庫」で借りて読んだピアス作品は『トムは真夜中の庭で』だけで、『ハヤ号セイ川をいく』は、『サティン入江のなぞ』や『まぼろしの小さい犬』などとともに子育て中に図書館で借りて読み、原書も入手して読んだものだった。 

 残念ながら、以前の講談社からの版は翻訳にかなり難があり、原書を手に入れて読んだところ、あきらかな誤訳も散見されたため、ならば自分で訳してみようと一念発起したことがあった。まだ会社勤めをしていたころか、失業中だったか、記憶が定かではないのだが、いずれにせよ1990年代にこの作品を全編翻訳し、製本テープで本の形にし、小学生だった娘に読み聞かせていたのだ。棚の奥を探してみたら、3.5インチのフロッピーも見つかり、古いフロッピーディスク・ドライブを探しだして入れてみたが、唸るばかりで開けなかった。あのころはプリンターがなく、ワープロ専用機でつくったような気もする。 

 のちに講談社の編集者と会う機会があり、一応、打診はしてみたものの、当時はまだ版権も切れていなかったのだろう。私の最初の翻訳作品は結局、娘が読んでくれただけで、何にもならずに終わった。転職した当初は、児童文学の翻訳者になりたかったのだが、いまや小学校高学年くらいの子どもたちは塾通いやゲーム等々に忙しく、そもそも子どもの人口が私たちの時代とは比べものにならない。児童書は、絵本以外はなかなか売れない時代になったらしい。出版業界全体が厳しい状況だが、このジャンルはますます狭き門となっており、私が入り込める隙は見つからない。岩波から新訳が出るというニュースを見たときは、正直言って残念だったが、まあ、こればかりは仕方がない。 

 そんなわけで、ここ数日は夜な夜な、岩波少年文庫の新訳を少し読んでは、自分の訳や原書と読み比べて、にんまりしたり、憤慨したり、付箋を貼ったりしていたのだ。インターネットも使えなかった時代の翻訳と比べれば、新訳は当然ながらはるかに読みやすくなっている。講談社版の訳では「殺人的落下物」という意味不明な言葉になっていた(と記憶している)箇所も、新訳では「いきおいあまって転落してしまうかもしれないと思ったからだ」(fearing some murderous drop from the roof-top might lie)と、きちんと訳されていた。前の訳者は私同様に老眼だったのか、急流下り(rapid shooting)がウサギ狩りと訳されている箇所もあったはずだ。 

 物語そのものは、2人の少年が詩を手がかりに先祖が隠したと伝わる宝探しをする話で、詩のなかの言葉に込められた意味を、あれこれと推測する。一般論として詩を訳すのは非常に難しい。しかも、この物語では詩が大きな意味をもち、何度も異なる状況で、異なる解釈で同じ詩が繰り返される。毎回訳して変えてしまっては、英語の原文を想像できない小学生の読者には、意味のわからない手がかりとなるだろう。残念ながら新訳でも、この詩は毎回、状況に即して違う言葉で訳し直されてしまっていた。

原詩は次のようなものだ。 
  Whan Philip came to the single Rose 
   Ouer the water 
  The tresor was taken where no one knows 
   None but my daughter.

新訳ではこうなっていた。
 フィリップはやってきた   
  一輪のバラのもとへ水の上をわたって  
 宝ははこばれていった   
  わたしの娘しか知らないところへ

30年ほど前の拙訳はこうだった。 
 フィリップが来たとき ひとつのバラへ   
  水をこえ  
 宝は運ばれた 人知れぬところへ   
  わがむすめよりほかは

 少年たちはこの詩をどこで区切るべきかをめぐって頭を悩ませるので、原詩の語順や改行はできる限り変えないほうが望ましい。和歌の掛け言葉のように、二重、三重の意味をもたせるには、「一輪のバラ」と誤解しようのない明確な表現を使うと、single roseがのちに「一重咲きのバラ」に意味を変えた場合に、たとえ漢字では「輪」と「重」の違いであっても、読みも違うので、ふりがなに頼る読者は混乱するのではないか。私も悩んだあげくに、「ひとえ(つ)のバラ」とし、シングルとルビを振ったり、多少の訳註を入れたりすることで誤魔化したが、ここはもう一工夫欲しかった。

  Ouer (over)という前置詞は、のちに宝の隠し場所が移されたときにunderに書き換えられ、謎解きに大きな意味をもつ言葉なので、この小さな一語を「水の上をわたって」と具体的に書いてしまうと、あとからなぜそれが「川にかかる」橋と読み替えられるのかわかりにくい。詩が後年、書き換えられたときも、なぜ「水の下へ」と大幅に書き換えられたのかと、幼い読者であれば疑問に思うだろう。読者対象は小学5・6年生から、ではあるが。 

   いまだったら、「水をこえ」と動詞にせずに、より前置詞的に「水の上へ」にしたかもしれない。この詩が言及されるすべての箇所が、この表現でうまく収まるかどうか確かめなければならないが、うまくいけば「上」と「下」の書き換えだけで済む。文末が「へ」ばかりになるのを避けるには、「ひとつのばらのもとに」、「人知れぬところに」と変える必要もある。「わがむすめをのぞいて」とすれば、一応、脚韻も踏める。  

   もう一つ、新訳で残念に思った重要なことがある。ネットでちらりと検索した限りでは誰もこの点に言及しておらず、著者のあとがき(1999年版)でも触れられていないので、単に深読みのし過ぎなのかもしれないが、この物語でピアスは言葉に裏の意味を込めているのだと私は思った。原題はMinnow on the Sayという。舞台はピアスが生まれ育ったケンブリッジ郊外で、セイ川のモデルとなったのはあのケム川だ。セイ(say)というやや風変わりな川の名称に、「言う」という意味を込めていたのではないのか。そして、ヒメハヤという小さな淡水魚の名前であるminnowには、me know「ぼくは知っている」という意味が込められていたのではないのか。

  船名の命名者は、カヌーの本来の持ち主ではなかった年下の少年デイヴィッドだ。下流のリトル・バーリー村に住む路線バス運転手の息子という設定である。デイヴィッドはふさわしい船名をあれこれ考えたあげくに、「I shall call her the Minnow」とひらめく。この箇所は新訳では、「ハヤだ。この船はハヤ号だ」となっていた。船名は別にして、雰囲気は出ている表現だ。私訳では「ミノウ号にしよう」とし、この船名で通すことにした。その後、上流のグレート・バーリー村の大地主の末裔で、カヌーのもともとの所有者であるアダムと一緒に再度、船名を考える場面があり、そこでもデイヴィッドが勇気を出してミノウ号という名前を提案し、最終的に年上のアダムもその考えを受け入れる。 

  アダムの伯母のミス・コドリング(新訳ではコドリングさん)はコドリング老人の娘なので、宝の隠し場所を知っているはずなのに、「もちろん、おばさんは自分が知っていることを知らない」(of course, she doesn’t know she knows)という、やたらknowが強調された箇所もあった。物語の後半で登場するスミス氏はデイヴィッドが自分の正体を見抜いていたことに感服し、‘I shall remember you as the boy who knows everything, except that he doesn’t know quite everything.’、「おまえのことは、すべてを知っていると思いこんでいるが、じつは知らないことがある男の子としておぼえておこう」と、またもやknowを強調した言い回しをする。私訳では「きみのことは、何もかも知っている少年として記憶にとどめておこう。とはいってもまったくすべてではないがな」としていた。 

 一族に伝わる家宝を探すことにミス・コドリングにたいし、少年たちが自分らの動機を打ち明け、説得する場面では、'No, it’s just so that we can have our say.’と、自分の意見を言うという表現でsayが強調されている。新訳では「ちがうよ。ぼくらの話をちゃんと聞いてもらいたいだけさ」となっている。意味としては通じるが、訳者は「セイ」に格別な意味を感じていなかったのだろう。私訳では「ううん、ただ、ぼくたちの言いたいことがちゃんと言えるようにさ」と、「言う」を強調していた。

 コドリング邸が売られてしまう切迫した場面で、デイヴィッドが大人たちを必死に止めようとした際には、ミス・コドリングが「デイヴィッド、言いたいことを言ってちょうだい。てみじかにね」(‘David, say what you have to say, quickly.’)というセリフもあった。もっとも、knowもsayも非常に使用頻度の高い、ごく一般的な動詞であり、私のピアス好きが高じて、余計な勘繰りをしているだけかもしれない。それでも、子どもが成長する過程で、大人にも負けない推理を働かせ、自分の意見をぶつけながら謎解きをするこの物語で、この二つの言葉がキーワードなのだと思って読むと、ピアスが本来描きたかったことが見えてくる気がする。

 あまりにも思い入れの多い作品なので、選ばれた訳語が随所で気にはなるが、30年ぶりに読み返すのはじつに楽しい。十数年前にほんの数日間ではあったがケム川沿いも歩いてみたし、娘が留学時代にこの物語そっくりにケム川で船遊びする様子なども写真で見てきた。グレート・バーリー村のモデルである高級地区グレート・シェルフォード村の水車場の所有者だったというピアスの実家が、コドリング家のモデルとなったであろうことや、第二次世界大戦で戦死した息子の死を受け入れられないコドリング氏がいまなら認知症と診断される症状になっていたこと、早くに夫を亡くし、娘を連れて実家に戻ったという著者ピアスが、ミス・コドリングに自分を重ねていたであろうことなども改めて認識した。アルマダ海戦の時代までさかのぼって共通の先祖がいる子孫同士がそっくりな顔立ちで、先祖の肖像画の前に立つ場面などを読んだことは、おそらく私がのちに先祖探しにはまる遠因となっただろう。キバナノクリンザクラ(カウスリップ)、アップルミント、スイカズラ、ニレ、サンザシ、イボタ等々、たくさんの植物も登場する。夜中にこっそり家を抜けだして、カヌーを漕いで石橋を探検するシーンは、いま読んでもわくわくする。 

 近所の書店の岩波少年文庫のコーナーには入れてくれそうにないので、孫が読むにはまだ少し早いが、新版は横浜市の生活応援クーポンを使って(!)購入してみた。いつか、私の昔の訳文や原書と読み比べて英語の勉強でもしてくれたら嬉しい。原書はいまではネット上で読むことができる。翻訳にはこのサイトと同じペーパーバック版を使ったはずなのに、狭い家のなかでその本は行方不明になっている。

岩波少年文庫からの新訳(右側)、水色の表紙のものが私の最初の翻訳作品! ハードカバー版はのちにカバー写真に惹かれてつい購入した。

娘に読み聞かせながら、わかりにくい箇所や、読みにくい部分を訂正していた痕跡が……。
 

2025年10月5日日曜日

『軽井沢物語』

 前回のコウモリ通信をお読みくださった赤松小三郎研究会の方が、「故郷の地名がでてくるたびに懐かしさもヒトシオ」という感想とともに、研究会でご一緒だったノンフィクション作家の故宮原安春さんが『軽井沢物語』(講談社、1991年)のなかで、ダニエル・ノーマン(ノルマン)について書いておられたことを教えてくださった。研究会にお邪魔したてのころ、高祖父について判明していた若干のことを報告したところ、宮原さんからメールを頂戴し、何度かやりとりをしたことがあった。ただし、ご著書を読んだことはなかった。早速、図書館から借りてみると、軽井沢に外国人墓地を発見したのを機に、この避暑地の歴史を紐解いた力作だった。しかも、相当なページ数がノーマン一家に割かれていた。

  私自身は軽井沢には数度しか行ったことがなく、姪の結婚式に出席した2016年に訪ねたのが最後だ。式の前日だったか、母と旧碓氷峠まで足を伸ばし、そこでラビンドラナート・タゴールの碑を見つけて驚いたことがあった。タゴールはアマルティア・センの名づけ親でもあったからだ。1913年に詩集『ギタンジャリ』でアジア人として初めてノーベル賞(文学賞)を受賞している。軽井沢には日本の女子高等教育に尽力した日本女子大の成瀬仁蔵学長の招きできたことは認識していたが、現地の案内板の写真を読み返してみたら、1916年(大正5)、「当時インド綿花の輸入によって、日本は繊維工業の隆盛を得ていたこともあって、国賓としてタゴールを招待した」と書かれていた。ふむ、なるほど。

 『軽井沢物語』にはタゴールのことは書かれていなかったが、碓氷峠の変遷については詳しく説明されていた。当時、私はきちんと理解していなかったが、この旧碓氷峠こそが江戸時代からの中山道上の難所で、群馬県の坂本宿と軽井沢宿を結んでおり、幕末の戊辰戦争中にウィリアム・ウィリス医師が馬で越え、上田で私の高祖父に会ったあと、高田、新潟、新発田などを経て会津まで従軍した際に通った峠である。

 『軽井沢物語』によると、1883年(明治16)から翌年にかけてこの碓氷峠の南側に明治政府が勾配の緩い国道を、渓谷には橋を架けて建設したのだそうだ。国道とともにアプト式の鉄道も開通したために、軽井沢の宿場は一気に寂れたが、そこへ外国人がやってきて、避暑地として旧軽井沢が再発展したらしい。この国道18号旧道のほうは、私が子どものころ屋代の祖父母の家に行くために母の運転する車に乗って、184回のカーブを登った道だ。車酔いする私は後部座席に寝転がってひたすら耐えていたが、助手席の姉がカーブ数をかぞえて母を励ましていたのを覚えている。1971年には碓氷バイパスが開通している。私はいつか祖先やウィリスが通った中山道を歩いてみたいと思っているのだが、国道18号やバイパスですらサルやクマが出没するようなので、何やら難しくなってきた。 

 軽井沢の「発見者」であり、聖公会宣教師だったカナダ人のアレクサンダー・ショーゆかりの地も、このとき訪ねた。宮原さんはショーが最初に軽井沢にきて別荘第1号を構えたのは、1886年(明治19)の可能性が高いとしている。中山道沿いにあった旅籠を改築した家を買うか、借りるかしたもので、善光寺参りの旅行者が旅籠と間違えて、夜昼かまわずドアをノックするのでたまりかねたという逸話が紹介されていた。 

 同書によると、 1899年(明治32)8月になって文部省からキリスト教教育の禁止が発令された。その2年前に来日していたカナダ・メソジスト教会牧師のダニエル・ノーマンは、東洋英和学校(のちの麻布高校)が経営難からキリスト教教育を放棄したことを本国カナダに書き送っていた。ダニエル牧師は1902年に(明治35)長野に赴任すると、長野市で伝道を始める前に軽井沢に土地を買い、別荘を建てていた。長野市県町の宣教師館「ノルマン館」で暮らすようになってからも、夏は例年、軽井沢で過ごしていたという。1909年(明治42)9月1日に、末っ子のハーバートが軽井沢で誕生している。

 その日の信濃毎日新聞に軽井沢に別荘を構える内外人約150戸が会議を開き、「本邦人よりは二名すなわち新渡戸・青山両博士を、また外国人側よりは三名をいずれも委員にあげ」、年々増えつづける土地や資産にたいする県税に抗議をした記事が掲載されたという。外国人代表の名前は書かれていないが、「軽井沢の村長さん」と呼ばれたダニエル・ノーマンもその一人だろうと宮原さんは推測する。避暑外国人と現地の人のあいだにさまざまな摩擦があり、ノーマン牧師は20以上にわたって「軽井沢避暑団」の問題解決に尽力したのだという。 日本人代表2名については、東京帝国大学医科大(のちの東大医学部)学長の青山胤通、もう一人は新渡戸稲造だという。青山胤通は、その娘婿が祖父の恩師であったことを少し前に知った人で、新渡戸稲造のほうは、1984年から2007年まで五千円札だった人だ。同時期に一万円札になった福沢諭吉の陰になって認知度は低かったが、お札の顔になったころかその前か、祖母が得意げに新渡戸稲造のサインか何かを私に見せてくれた記憶がある。それが何だったのか、どこに行ってしまったのか、情けないことにまったく思いだせない。 

 祖母は1926年以降に東京女子大に入学しており、その時分には学長は新渡戸から安井てつに代わっていたはずだ。国際的に活躍していた新渡戸が学生一人ひとりに何か渡したりしただろうか。新渡戸は1917年(大正6)に拓殖大学の学監に就任しており、同時期に曽祖父が同大で教えていたため、曽祖父がもらったものだった可能性もある。いずれにせよ、私にとってはお札の人以上の存在ではあった。当時の軽井沢は政財界の大物や華族、知識人などが大勢集まっていたので、さほど驚くべきことではないのかもしれないが、世の中は狭いとつくづく思う。 

 1930年代後半になるとキリスト教私立校でも「御真影」が掲げられ、拝礼が義務づけられたことや、1940年になると学校長、部課長、学校を経営する財団法人の理事長および過半数の理事を日本人とし、学校財政の外国布教本部(ミッション)からの独立を定めたことなどが『軽井沢物語』には綴られる。同年末、ダニエル・ノーマン一家は離日したが、博士号を授与されたのちも日本史研究をしていたハーバートはこの年、軽井沢で羽仁五郎から著書『明治維新』を音読してもらう学究生活を送っていたそうだ。ハーバートはIPR(太平洋問題調査会)国際事務局の研究員であったため、高木八尺、丸山眞男、大窪愿二(『日本における近代国家の成立』翻訳者)らとも交流をもったともある。 

 羽仁五郎は桐生生まれだが、説子夫人が自由学園創設者の羽仁吉一・もと子夫妻の娘で、羽仁家の祖先は長州藩士である。ついでに言えば、成瀬仁蔵の祖先は代々、吉敷毛利家の祐筆だった。うちの母は、羽仁夫妻が1903年に創刊した『婦人之友』という雑誌をかなり長いこと定期購読していたのだが、ダニエル・ノーマンの妻キャサリンが1949年(昭和24)の第43巻第2月号に寄稿していることを知って、今春、古書を入手していた。戦争中、追われるように日本を去ったにもかかわらず、キャサリン夫人は「長野にいた殆ど四十年の歳月が、私の生涯の中でも一番幸福な時だった[……]息子が二人とも今日本に居りますことを喜んでいます」と書いていた。長男のハワードは当時、関西学院大学で教えていた。じつはこの春、絵本作家の娘のなりさに120年以上の歴史をもつこの『婦人之友』誌から野鳥観察についての座談会というお仕事が舞い込んでおり、不思議な縁を感じていたためでもあった。

 『軽井沢物語』には、1941年(昭和16)8月19日にダニエル牧師の追悼会が軽井沢で開かれたときの集合写真も掲載されていた。中央で遺影を掲げるのはハーバートで、この年まだ残っていた外国人宣教師や、軽井沢避暑団団長のウィリアム・ボーリス、羽仁五郎ら日本人関係者100人近くが、まだ国民服ではなく、スーツ姿で勢揃いしたと宮原さんは書く。 軽井沢では太平洋戦争中も終戦の年までテニスやゴルフに明け暮れていた特権階級がいたそうで、この地は外交の中心にもなっていた。松代大本営の準備が進むなかで皇室の人びとは日光や伊香保、塩原に疎開し、軽井沢には貞明皇后の疎開先が用意されたという。軽井沢の常連だった近衛文麿は、「華族のトップに位置するのだから天皇の地位を守ることを自分の任務と考えて」おり、「日米開戦を避ける努力を最後まで行い、軍部に対抗してきたという自負があった」ため、自分の立場を楽観視していた。「だが、マスコミの論調は逆転した。三国同盟を結んだ首相が、敗戦後も副首相格で活動しているのはおかしい。かつての関白政治と同じつもりではないか……」と書く宮原さんの分析は鋭い。近衛文麿の死は、特権階級のリゾート軽井沢の終焉を告げたのだという。

  終戦後は9月になると、軽井沢にもアメリカ兵が入ってきたが、なかには少年時代を軽井沢で過ごし日本語のできるアメリカ兵もいたらしい。長年、軽井沢に疎開していた仏文学者の朝吹登水子が「平和が戻ったんだわと目頭がじーんと熱くなりました」と書いている。「この時期に、軽井沢から国際的スターが出現した。画家のポール・ジャクレーである」とも、宮原さんは書く。4歳から日本に住み、浮世絵の手法で木版画を制作していたフランス人だという。あれっ、と思って確認したら案の定、赤松小三郎研究会の別の方から、少し前に頂戴した1957年刊の和綴本が、フローレンス・ウェルズが書いた『Paul Jacoulet Wood-block Artist 木版画』だった! ちらりと拝見しただけで仕舞い込んであったので、こちらもちゃんと読まねば。  

 アメリカ兵とともに、ハーバート・ノーマンも日本に駐日カナダ代表部首席として戻ってきて、途中、4カ月ほどはGHQにも勤務していた。「長野の人たちは、『ノルマンさんのせがれがえらくなって来た』と驚きの声で迎えたという」。ハーバートは1945年11月にGHQ政治顧問のJ・K・エマソンと長野視察旅行に短い旅行をしたあと、1947年6月に再び長野を訪れている。6月22日に父ダニエル追悼集会の席でハーバートが日本語で講演した冒頭部分が引用されていた。のちに彼がマッカーシズムの犠牲となり、カイロで不幸な最期を遂げたことについて、宮原さんはケンブリッジ留学中にマルクス主義に接近したことを唯一の原因として挙げていた。 

 しかし、兄ハワードが書いた『長野のノルマン』には、父ダニエルも若いころ社会主義に触れていたことを示唆する箇所があるし、そもそも原始キリスト教が共産主義とよく似ていたことを考えれば、ハーバートがマルクス主義に何かしら共感を抱いたとしても不思議ではない。しかしだからと言って、証拠もなくハーバートをソ連のスパイだと決めつけ、彼を死に追いやったのは冷戦時代の狂気としか言いようがない。『軽井沢物語』の執筆当時はベルリンの壁が崩れて間もなく、インターネットも普及していなかったので、まだその冷戦期を引きずっていたように思う。同じことは、同年に刊行された工藤美代子の『悲劇の外交官:ハーバート・ノーマンの生涯』(のちに加筆され、改題された)にも言える。

  執筆の契機になったという軽井沢の外国人墓地については、宮原さんはあまり触れておられない。カナダ・メソジスト派の宣教師として赴任していたキャンベル牧師夫妻が、1916年に就寝中に強盗に押し入られて殺害された事件について書いておられるが、この夫妻は東京の青山霊園に葬られたようだ。ダニエル牧師の後継者として長野に赴任してきたアルフレッド・ストーンは1954年青函連絡船の洞爺丸が転覆し、救命胴衣をつけていない日本人に自分が着ていたものを渡し、祈りながら波にさらわれたという。ウィキによれば、同行したYMCAの宣教師ディーン・リーパーとともに、日本人の子ども2人を救うためにみずからが犠牲になったようだ。ネット時代なら、こうした細々としたことは瞬時に検索できるが、1990年代には各地に散逸している史料を読みあさるしか、すべがなかっただろう。 

 速読した程度では、消化できない、じつに多くのことがこの本には書かれていた。宮原さんがお元気なうちに読んで、いろいろお尋ねしてみたかった。それでも、書物として残され、読むことができるのはたいへんありがたい。このような出会いを提供していただいた赤松小三郎研究会にも、大いに感謝している。
 
 宮原安春著『軽井沢物語』講談社、1991年

軽井沢旧碓氷峠見晴台のタゴール記念碑案内板(2016年撮影)

 軽井沢ショー記念礼拝堂前(2016年撮影)

(左)『婦人之友』昭和24年第43巻第2号
「開拓者精神の流れ」在カナダ カサリン・ノルマンの寄稿文が掲載されている
(右)木版画家ポール・ジャクレーの木版画という和綴本

なかに、浮世絵式に刷られた木版画のが一枚入っていた

2025年7月14日月曜日

『西洋の敗北:日本と世界に何が起きるのか』を読んで

 平等をテーマとする大部の校正がようやく始まったところに、タイミング悪く、図書館で長らくリクエスト待ちしていた本がまた回ってきてしまった。いま話題のエマニュエル・トッドの『西洋の敗北』(大野舞訳、文藝春秋、2024年)で、私のところに届いた図書館の本は、2025年3月の第8刷だった! 昨年11月に佐藤優の書評を読み、すぐにリクエストを入れたのにすでに200人以上待ちという凄まじい状況で、それを半年以上待ったからには読まねばと、読書時間をひねり出して目を通したので、備忘録を兼ねて書いておく。 

  トッドの著作は、はるか昔に『新ヨーロッパ大全』をやはり図書館で借りて読んで以来だ。イングランドやフランス、デンマークは平等主義的、個人主義的な絶対核家族型、日本やドイツは権威主義的な直系家族型などと、世界の民族を家族構成から分析したトッドの手法は斬新な視点を与えてはくれたが、上下2冊の大部のなかで繰り返しその類型がもちだされ、最後のほうは辟易した記憶がある。確かに、長子相続にたいする次男以下不満が、明治維新の原動力の一つではないかとこの数年とみに思うし、戦後、民法が改正されて子ども間で等分に相続することになっても、「長男の嫁」という言葉は、おおむね老親の介護や盆暮の義務などの否定的な意味ながら残りつづけ、二世帯住宅が決してなくならないことを考えれば、「直系家族型」は日本社会の本質的な側面を表わしているのだろう。とはいえ、世の中の雑多な人びとをいくつかの家族構造に分類して理解しようとする手法は、7つの性格タイプに人を当てはめるような性格診断と同じくらい、私にはどうも胡散臭く思えた。

   以来、新聞などでときおり彼の論評などを読むことはあり、ウクライナ戦争について彼が一般とは違う冷静な意見を発していることはそれなりに承知していても、『第三次世界大戦はもう始まっている』(文藝春秋、2022年)や『問題はむしろロシアよりも、アメリカだ』(池上彰との対談、朝日新聞、2023年)にも食指は動かなかった。それにもかかわらず今作に興味をもったのは、この10年ほど、アメリカは言うにおよばず、ヨーロッパの衰退を感じることが非常に増えたためだ。 

  従来の家族構成分類に加えて、宗教の崩壊が自身の分析モデルの中心にあると書く著者は、今作では宗教が「活動的状態」から「ゾンビ状態」に移行し、やがて「宗教のゼロ状態」になるという具合に時代ごとの分類も加えているので、なおさらややこしい。しかも、文脈によって微妙にその年代がずれているようでもあり、気になった。ちなみに、「ゼロ状態」になれば、社会が個人単位に解体され、国家機関が特別な重要性を担うようになる。いずれ宗教の絶対的虚無状態のなかで国民国家は解体され、グローバル化が勝利するのだともいう。

   原書が執筆されたのは2023年夏のあいだで、その年10月に始まったイスラエルとハマースのあいだの戦争に関する追記と、日本語版に寄せた2024年7月のあとがきはあるが、基本的にはウクライナとロシアの戦争にたいする分析を軸に、それを取り巻くアメリカとヨーロッパ諸国の近い未来の敗北を予測している。著者は大国に限定した場合の広義の西洋になぜか日本を含めており、日本がその他西洋諸国と運命を共にするのかについては、この先の進路しだいと言葉を濁している。

  2022年2月のロシアによるウクライナ侵攻直後に西欧諸国で言論の自由がなくなった事態に、私も非常に危機感を覚えた一人だったが、本書の日本語版刊行に際して書かれた序文に、フランスでも「およそ八カ月間、沈黙を保たなければならなかった」とトッドが書いていることは多くを語る。 

 ロシアとウクライナ問題で彼が指摘していることは、侵攻当初にマイダン革命のころのBBCの動画や、本書でも言及されているジョン・ミアシャイマーの動画、プーチンを悪魔化するなと訴えるフランスのジャーナリストの動画などをかなり視聴した私には、さほど目新しいものではなかった。それでも、人口統計学者でもあり、各国の統計に詳しいトッドならではと思う指摘はいくつもあった。たとえば、ロシアが2020年に近年で初めて農産物の純輸出国になったこと、ロシアの工学専攻率は23.4%にたいし、アメリカは7.2%、イギリスは8.9%、ドイツは24.2%(2020年)で、ロシアが多くの技術者を輩出しており、ゆえに製造業が健在であること、ロシアの女性一人当たりの出生率は1.5人であり、動員可能な男性人口が40%も縮小しているのに、国土は1700万平方キロもあり、「ロシアにとっては、新たな領土の征服などもってのほか」であり、ゆえにウクライナを倒したあとヨーロッパを侵略するというのは「単なる幻想かプロパガンダ以外の何物でもない」ことなどだ。 

 ついでながら、ルイス・ダートネルが『この身体がつくってきた文明の本質』(河出書房新社、2024年)でロシアの人口ピラミッドを提示しており、第2次世界大戦の大きな爪痕がほぼ25年おきにいちじるしく人口の少ない世代となって現われているため、10代後半から30歳以下の人口が極端に少ないことを指摘していた。ソ連の一員であったウクライナにも、同じことが言えるはずだ。 

 ウクライナについては、独立時の大都市はキーウを除けば、ロシア語話者が多かった南部と東部オデーサ、ドニプロ、ハルキウしかなく、西部にはある程度の規模のリヴィウがあるのみという。ウクライナの航空産業、軍事産業などの最先端産業は東部に位置し、ロシアと結びついていたが、ロシア語話者の中流階級は、ウクライナ語話者のナショナリストの敵意の対象となるなかでロシアへ移住してしまい、1989年から2010年にかけて人口の20%を失った東部の町が多いそうだ。 ナショナリズムの活発な西部は歴史的に長年ポーランド貴族に支配され、ウクライナ人は農奴として扱われていた土地で、確かに「ネオナチ」の拠点ではあったが、トッドによれば、それ以上に、侵攻前からウクライナ全土に広がっていた「ロシア嫌い」こそ解明が必要な現象という。

 フランス語で原書を読めるほどのフランス語能力がないので、確認していないが、「ロシア嫌い」は日本では「反露」と訳されることが多いrussophobieの訳語のはずだ。通常は高所恐怖症のように、「恐怖症」と訳されるフォビアという言葉は、ゼノフォビアやイスラムフォビアを含め、「〜嫌い」「反〜」と訳され、いまは意味的にも敵対心、反感を表わすようだが、語源的にはもっと心理的、歴史的な恐怖心があると思う。 

 ウクライナ社会では「〈ロシアに対するルサンチマン〉が最終的には指針となり、展望となり」、この戦争こそが、ウクライナにとっての「生きる意味」になり「生きる手段」となりうるとし、ウクライナは真の「国家」ではなく「ワシントンからの資金に依存する軍・警察組織」でしかないといった説明を読むと、「ロシア嫌い」にかろうじて国としてのアイデンティティを見出している、末期状態を感じさせた。アンチにしろ、フォビアにしろ、自分ではないもの、敵との区別や抵抗が自分の存在理由になるのは、哀れな状況だ。  

 トッド自身はカトリックの家庭出身らしいが、彼自身の宗教観は本書ではいま一つわからなかった。ただし、西洋の発展の中心と根源にある特殊な宗教、プロテスタント諸派に関しては面白い言及がいろいろあった。プロテスタントの教会はすべての国民が土着語で聖書を読むことを求めたため、大衆の識字化が進んだほか、「国民」も早くから誕生していた。「ある者は選ばれ、ある者は地獄に落ちる」とするカルヴァン派の予定説は、キリスト教本来の「人間はみな平等」という概念に戻ることはなく、トッドは「黒人排除こそがアメリカの自由民主主義を定義し、機能させていた」とし、「共産主義的普遍主義に道徳面で太刀打ちするために必要」となった「黒人の解放は、予期せぬ負の結果の一つとして、アメリカ民主主義の混乱をもたらした」などと書く。「共産主義は、正教会後のロシアの〈宗教〉となり、社会を結束させる集団的信念になっていた」という指摘も興味深い。 

 1957年のスプートニクの衝撃から科学面でソ連と対決しなければならなかったWASPエリートたちは、ハーヴァード、プリンストン、イェールという三大名門大学へのユダヤ人入学者数を限定する「ヌメルス・クラウズス」制度を実質的に廃止されたとも述べている。このあたりは、ちょうどマイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』で、マンハッタン計画の科学顧問だったコナントがSATを導入した経緯などを読んだばかりだったので、フムフムそういうことかと思いながら読んだ。  

 アメリカの「WASPの終焉」、「ユダヤ系知性の消滅?」といった小見出しで述べた状況や、東欧について書いた章に関連して、トッドは自身の出自についても言及しており、曽祖父がブダペスト出身のユダヤ人で、ブルターニュ人でもあり、イギリス系でもあるとする。そのことと多少関連するのか、彼の同性婚にたいする見解、とくにトランスジェンダーへの姿勢はかなり一方的だ。フェミニズムに関する近著、Où en sont-elles?もあり、ウクライナ戦争絡みで非常に好戦的な姿勢を見せた女性たちについて書いたものと思われる。大野舞訳で文芸春秋より近刊と書かれていたが、こちらはまだ刊行されていないようだ。ウィキペディアによると、トッドはポール・ニザンの孫で、父親はジャーナリスト、息子は歴史家で、最初の歴史書は一家の友人であったル・ロワ・ラデュリからもらったとのこと。 

 トッドのいくつかの主張にはほかにも疑問が残るものがあった。2012年開通と2021年に竣工した天然ガスパイプライン・ノルドストリーム1と2の破壊工作について、攻撃はアメリカによって決定され、ノルウェー人の協力を得て実行されたとするアメリカの著名ジャーナリスト、シーモア・ハーシュの見解を「唯一真実味のある説明」だとして受け入れているところなどだ。ただ、これだけの内容の本を数カ月で書き上げるのは超人技と思うので、自身の思い込みから抜けだせない部分や、読者におもねった部分なども、当然ながらあるのだろう。「西洋」の分析のなかで、自国のフランスにたいする批判が少ないのは、『シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧』(2016年、文春新書)であらかた述べてしまったからなのか。 

 「〈国家ゼロ〉に突き進む英国」という章は、翻訳の仕事や娘の留学を通じて、この20年余りの変遷をそれなりに見てきたので、興味深く読んだ。2016年のブレグジットは国民の復活ではなく、国民の崩壊の帰結であり、それによってイギリスはアメリカを選んで、みずからの独立を失いつつあるのだという。この章には「亡びよ、ブリタニア!」という強烈な副題がついている。原文はRule, BritanniaをもじったCroule Britanniaらしく、カンマがないのは気なるが、ChatGPTによれば、なくとも命令形と解釈してよいらしい。

 アメリカの国家安全保障局(NSA)がインターネットの普及とともに西洋のエリートたちを監視下に置いたという指摘や、そのもとコンピューター技術者であったエドワード・スノーデンがロシアに亡命したことが、アメリカ人がプーチンを許せない理由の一つだろうという推測もなるほどと思った。ウクライナが必要とする兵器をアメリカが生産できずにいる理由などは、アメリカの工業の衰退ぶりを明らかにし、GDPからは見えない経済の実体を明らかにする。アメリカは「世界通貨を最小限のコスト、あるいはコストゼロで生産できてしまうため、信用創造以外のすべての経済活動は採算の合わない、魅力的はないものになってしまう」とも書く。

 集中できない状態で読むには複雑極まりない本で、一読した程度では半分わかった程度でしかない。終章に時系列で追ったまとめがあり、一応の頭の整理にはなる。ブレジンスキーが1997年刊行の著書で「共産主義の崩壊によってアメリカが用なしになれば、日本、そしてドイツという二つの極がロシアと手を結ぶ可能性がある」と恐れていたこと、2004年のウクライナのオレンジ革命はアメリカが中心的役割をはたしたが、2013年末からのマイダン革命はドイツに率いられたEUが裏で操作していた、といった指摘が印象に残った。再読したくなるころには、古本の値段も下がるだろうから、そうなったら入手してみよう。

2025年6月29日日曜日

『孤城春たり』を読んで

 新聞の書評で面白そうだと思い、長らくリクエスト待ちしていた澤田瞳子の歴史小説『孤城春たり』を読み終えた。幕末の老中板倉勝静は生麦事件の後始末などでよく名前が登場する人なので、それなりに知っていたし、山田方谷も少なくとも名前だけは記憶にあった。だが、松山藩については、立派な城があることで有名な伊予松山藩だと思い込んでおり、読み始めてしばらくして「山間の小藩だけに、海がない」という記述に頭をひねり、そのうちに「あれっ、備中ということは岡山県??」と気づくという間抜けぶりでわれながら情けない。伊予のほうは親藩で、備中松山藩は当然ながら譜代藩だった。幕末の藩主の板倉勝静は桑名藩主の8男、松山藩に養子入りした人で、松平定信の孫に当たるとのこと。備中松山のほうの城は、「天空の山城」としてネット上でちらりと見たことのある城だった。 

 まったく知識のない方面の話で、登場人物もそれなりに多く、最初のうちは戸惑ったが、非常にわかりやすく、テンポよく書かれた小説なので、するすると読み進められた。歴史小説はよほどのことがないと読まないほうなので、澤田瞳子の著作も今作が初めてだったが、母親の澤田ふじ子がやはり歴史小説家だそうで、かなりの書き手であることは間違いない。何と言っても、明治維新でいちばん割を食った譜代の、それも小藩から見た幕末史など、これまでほとんど書かれていないし、いろいろな意味で私の祖先がいた上田藩の状況とも重なるものがあって参考になった。京都出身の著者が幕末の譜代藩について書いたということも、画期的ではなかろうか。京都は公家のほかは、職人、町人の町だったし、幕末には尊皇攘夷の中心地となった土地柄だからだ。  

 本書の中心となる人物は、備中松山藩の精神的指導者のような儒者、山田方谷である。当時の松山藩は5万石とはいえ、実際の石高が2万石に満たず、借金だけは大大名並みに10万両もあり、「貧乏板倉」と揶揄されていたらしい。その藩政を立て直したのが方谷で、無駄の多い大坂の蔵屋敷を廃止し、大名貸しを行なう豪商である銀主に藩の財政事情を包み隠さずに伝え、頭を下げて返済を数年待ってくれるように頼んで回ったという。本書では大坂屈指の両替商である加島屋久右衛門の名前が上がっていた。少し前にこの加島屋の親戚である銀商から、上田藩が借金をしていた記録を見ていたし、重い腰を上げて読み始めているE・H・ノーマンの『日本における近代国家の成立』にも、こうした問題に関する鋭い指摘があったので、興味深く読んだ。  

 山田方谷は藩の財政を建て直しただけではない。「義を明らかにして、利を計らず」と、正論を唱えつづけたそうだ。勝手不如意になると、利に聡い侍ばかりが増え、結果、世は衰微すると主張していたという。国のトップがことあるごとにディールだと言って憚らず、選挙民でなく資金源でもない人間など眼中になく、人の尊厳も幼い命もお構いなしで、損得がすべての判断基準のように振る舞ういまの世の中には、方谷のような人物は絶滅危惧種、いやすでに絶滅種なのかもしれない。道徳的、倫理的な説教が苦手な私ですら、「義はどこへ行ったのか」と言いたくなる昨今、本書を読むと、胸のつかえが下りるような感がある。 

 方谷は郷土の英雄として多少美化されてきたところもありそうだが、本書は方谷自身には多くを語らせず、教えを受けた藩士などの口から師の理念を代弁させて、いくらか客観性をもたせているので、さほど不自然なく受け入れられる。舞台を備中松山、江戸、京都、大坂と移動しながら、嘉永年間から戊辰戦争まで比較的長い年代を扱うので、時代ごとにそれぞれの登場人物の視点から物語を進め、大勢の口から方谷を語らせる手法が効いている。もっとも、それらの人物が語り手であるわけではなく、人数も枝葉も多く、一読したくらいでは、すべてのエピソードが頭のなかでしっくり収まらない。この書評を書くに当たって検索してみたら、山田方谷だけでなく、熊田恰のような印象的な藩士に関する情報もネット上にかなりあったので、全国的な知名度は低くとも、小説を書けるだけの十分な材料はそれなりに揃っていたのかもしれない。 

 いくつか印象に残ったことや気になった点を挙げておく。山田方谷が唯一の女の弟子、福西繁に陽明学について語る場面がある。「誰かを自らの思いのままに為さんとはすなわち、世を従わせ、己を傲岸に振る舞わせる行いです[……]それは同時に、人間とは究極的には、自らの声にのみ耳を傾けるべき存在であることを意味します」と語る方谷が、それが陽明学なのだと言う場面だ。ならば朱子学ではなく、陽明学を学ばせてくれとすがる繁に、方谷は「陽明学は優れた点も多いですが、これのみを学ぶと偏りが生じます」と答え、朱子学を理解してから学ぶようにと諭す。ちなみに、福西志計子は岡山の女子教育に大きく貢献した実在の人物で、ウィキペディアによれば、彼女が創設した順正女学校がのちに順正短期大学となったようだが、その創始者は加計学園グループ創始者だった! 

 方谷の名前を最初に知ったのは、記憶どおり、松本健一の『評伝 佐久間象山』からだった。象山と方谷は斎藤一斎の門下で学んでいる。一斎が陽明学に傾倒していることに納得できなかった象山が師に向かって「文章詩賦は学ぶけれども、経学の教授は受けない」と宣言したエピソードはよく知られている。象山は陽明学者であった大塩平八郎にも批判的で、陽明学の思想は治政を乱すと考えていた。象山はいち早く西洋の技術を取り込んだ人だったが、つねに為政者の立場に立つ元祖ナショナリストであり、保守本流的なところがある。ちなみに、ノーマンは大塩平八郎に関する注に陽明学は個人主義的、民主的思想だと書いていた。 象山より6歳年上だった方谷は、象山の覇気に辟易していたらしい。一応、象山の門人だった河井継之助に「佐久間に、温良恭謙(倹)の一字、何れ阿(有)ると」と漏らしたという『孤城春たり』に書かれたエピソードを、松本も引用していた。これは河井の全国遊歴の日記『塵壺』に書かれているようだ。河井もこの小説に少しばかり登場する。長岡にいた親戚が、長岡市街を火の海にしたので、地元では河井は人気がないと言っていたことなどを思いだす。象山とは意見が対立することの多かった方谷だが、京都・木屋町で象山が殺されたときは、丸二日間ものあいだ自室に籠り、家の者たちを心配させたと澤田は書いている。 

 この小説には、藩主が板倉家の分家だった安中藩の新島七五三太(新島襄)も登場し、藩の許し得ぬままおそらく万延元年に蘭方医杉田玄端のもとに勝手に入門し叱責を受けたと書かれていた。杉田玄端のもとに、嘉永6年か7年に私の祖先が蘭書の訳本を購入しに行った記録があるので、同じ譜代藩でも上田藩は早期から蘭学を奨励していたことなどがよくわかった。 

 同じころ江川太郎左衛門英敏の塾に入門した松山藩士2人の話が一つの章となっている。松本健一の評伝から、英敏の父である英龍によい印象のなかった私には、『孤城春たり』を読んで江川家の苦労がわかり、見直すものがあった。新島襄はのちに、松山藩が購入した洋式帆船に乗せてもらって箱館まで行き、そこから密航していた。この章は、英敏の後ろ盾となってきた初代外国奉行の一人、堀利煕の自害についても少々触れており、老中首座の安藤信正に叱責された程度で切腹するはずがないという台詞を、英敏に吐かせている。堀利煕はいとこの岩瀬忠震に比べて地味な人だが、はるかに芯の通った人物に思われ、彼の自害の理由について少しばかり調べたことがあった。

 同じ章に桜田門外の変に関する記述もあり、事件現場の地図を再び探しだしてみたら、松山藩邸は現場となった杵築藩邸前より、一本東の通りを入った先にあった。著者はこれまでおもに平安時代の作品を書いてきたらしく、桜田門外の変については全体的に、近年、判明してきた諸々の事実は考慮されない展開となっていた。とはいえ、個人的には小説ならではの、面白い箇所もあった。事件に出くわして慌てふためいた松山藩士の塩田虎尾が「長屋門の脇の番所へと駆け込んだ。[……]往来に面した出格子窓に顔を押し付ければ、様子見を決め込んだのは近隣の屋敷も同じらしい」という件で、向いに立つ長州藩上屋敷も表門を閉ざしていると描写されていた。ちょうど、上田藩の藩邸門の素人工作模型をつくったばかりで、番所の格子窓はどうなっているのかと繁々と眺めたあとだったので、なるほど、門を開けずにここから覗くわけだな、などとわかり、楽しくなった。ただし、古地図を見る限りでは、事件当時の松山藩邸は表通りに面していないので、梁受けで突きだした出格子窓からどれだけ覗いても、現場は見えなかっただろう。 

 鳥羽伏見後に佐幕派の藩が受けた扱いはさまざまだったと思われる。藩主の板倉勝静が老中首座を務め、徳川慶喜が大坂を脱出した際にも同行したとあっては、新政府軍として備中松山藩は見逃せない相手だったようだ。隣の岡山藩は外様の大藩で、幕末の9代藩主、池田茂政は水戸の徳川斉昭の子であり、「実父の影響から藩論を尊皇攘夷に傾け、長州とも誼を通じた男である」と、小説には書かれていた。こういうことを知るとますます、幕府を崩壊させた重大要因の一つは斉昭だと思わざるをえない。もっとも、兄である慶喜の東帰後はさすがに茂政は隠居したようで、ウィキペディアによれば、支藩から池田家の藩主を迎えるに当たって岡山藩は「倒幕の旗幟を鮮明にした」そうだ。この時期の松山藩の苦難は、やはり藩主が幕末に大老や老中を務めた姫路藩がくぐり抜けた事情と似ている。姫路城や松山城が日本を代表する城として現存するのは、当事者や関係者が衝突回避に尽力した結果の、奇跡のようなものだ。 

 岡山藩の矛先は備中松山藩に向けられ、京都・大坂に出向いていた松山藩士150名が、藩主の命令で帰国すると、国元ではすでに徹底抗戦を唱える主戦派を穏健派が抑えて城を明け渡すことが決まり、城下から立ち去る準備が進んでいた。折悪しくそこへ戻ってきた150名の恭順の意を示すために、その部隊を率いた熊田恰という藩士が切腹して首を差し出すことになった。上田藩は、若年の藩主が家臣の説得等もあって慶応4年3月という、それなり早い時期に上京して恭順したため、江戸屋敷こそ立ち退きさせられたが、こうした苛烈な扱いを受けることはなかった。 

 小説自体は、読者を泣かせるこのクライマックスで終わるが、ウィキペディアによれば、方谷は維新後の松山藩の再興にかなり尽力したようだ。榎本武揚らと蝦夷地で戦いつづける藩主板倉勝静を、プロイセン人を使ってなかば騙し討ちで引き戻し、自首させたらしい。このドラマも読んでみたかった。方谷は小説の最初から老人として登場していたが、晩年も陽明学を教えつづけ、明治10年に72歳で亡くなっていた。

澤田瞳子『孤城春たり』(徳間書店)
初出は「山陽新聞」2024年2月3日から12月10日号で、刊行にあたり大幅に加筆修正とのこと

サザエさんの家と同様の、紙工作版。格子そのものは開かず、その内側に雨・風避けで、油障子があったのではないかと推測中。極小サイズなので、番所の出格子窓があまり「出」ていない

アイスクリームの棒と竹ひごで、多少大きめにつくった裏門。『孤城春たり』を読んで、アイスの棒の見張り番も加えてみた。棒のストックがなくなり、残りはアイスを食べてからつづける予定

2025年5月24日土曜日

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』

 遅まきながら、マイケル・サンデルの『実力も運のうち:能力主義は正義か?』(早川書房、2021/2023年)を図書館で借りて読んでみた。じつは、初めてのサンデルの本だ。訳者の鬼澤忍さんは、鈴木主税先生のところで短期間ながら一緒に勉強した仲間であり、サンデルは何かと話題になるので興味はあったものの、ベストセラーは順番待ちが長く、そこまでして読まなくてもと後回しになっていた。また、コミュニティの一員というアイデンティティ(自己認識)をその構成員に押しつけがちなコミュニタリアニズム(共同体主義)に、アマルティア・センが非常に懐疑的であり、サンデルの著書も批判の対象として挙げていたために、二の足を踏んでいたこともある。  

 今回、長い順番待ちをして読んでみたのは、日本では能力主義とか実力主義と訳されるメリトクラシーについてサンデルが書いていることを、平等の思想史を翻訳中に知ったからだ。鬼澤さんとは違い、私は哲学も思想史も苦手なほうで、少しでも多く参考書を読んでおかねば、というのが正直なところだ。読んだと言っても、寝る前のわずかな時間に細切れに読んだので、どれほど理解できたかはなはだ怪しいが、文庫版巻末にあった本田由紀さんの解説なども参考にしながら、備忘録代わりに書評を書いてみた。  

 メリトクラシーという用語は、1959年にイギリスの社会学者マイケル・ヤングがよい意味ではなく、ディストピアを表わすために生みだした言葉なのだという。デモクラシー(民主主義)が定着してきたかのような20世紀なかばになって、この言葉が批判と警告を込めて生まれたわけだ。実際には旧来のアリストクラシー(貴族社会)が、メリトクラシーに取って代わっただけではないかと長年思ってきたので、今回、この本を読んだことで非常に得るものがあった。  

 解説でも指摘されていたように、英語のmeritは「能力」よりは「功績」に近い言葉なので、本来は「功績主義」という訳語が定着すべきだったのだろう。どれだけ手柄を立てたかという実力の結果主義、といったところだろうか。いずれにせよ、この言葉は旧来の家柄や血筋ではなく、本人の能力、実力しだいで出世が約束される社会を意味する。  

 一見、よさそうに聞こえるメリトクラシー、能力主義だが、その背景には旧世界のしがらみを断ち切って、誰もが平等に出世できる社会をつくったと自負するアメリカ人の建国理念が深くかかわっているのだろうと思う。もっとも、サンデルは「アメリカが偉大なのは、アメリカが善だから」とか、「われわれは歴史の正しい側にいる」といった近年、繰り返し聞かされてきた主張は、実際には20世紀後半以降に盛んに言われるようになったと指摘し、こうした言葉は国家に応用された能力主義的信仰なのだとする。 

「2016年、大学の学位を持たない白人の3分の2がドナルド・トランプに投票した。ヒラリー・クリントンは、学士号より上の学位を持つ有権者の70%超から票を得た」というような分析を引用し、学歴偏重が現代の政治におよぼしてきた影響と反動を鋭く指摘している点で本書は注目されてきた。再選されたトランプがハーバード大学を目の敵にしていることでも、いままた新たな読者を惹きつけているだろうと思う。反エリート的な傾向はアメリカに限らず、日本でもヨーロッパでも顕著になっており、先日も「韓国男性に被害者意識」と題した見出しが毎日新聞の一面を飾っていた(5月23日朝刊)。 

 では、能力主義のどこに問題があったのだろうか。本書は、1933〜53年にハーバード大学学長を務め、マンハッタン計画の科学顧問でもあった能力主義の推進役ジェームズ・ブライアント・コナントについて詳述する。戦前までハーバード、イェール、プリンストンの御三家には、プロテスタントの白人エリートの子弟で、プレップスクール出身の男子学生であれば、成績が悪くとも入学できていたそうだ。映画『ある愛の詩』(1970年)でライアン・オニールが演じたオリヴァーは確かにそんなプレッピーだった。原作者のエリック・シーガルはラビの息子で1958年にハーヴァードを卒業しているので、ユダヤ系アメリカ人としてハーヴァードを出た最初の世代だったと思われる。 

 プロテスタントの世襲エリートを打ち倒し、能力主義エリートに置き換えようと画策したコナントは、「既存の非民主的なアメリカ人エリートを退陣させ、代わりに頭脳明晰で、行き届いた教育を受け、公共精神を持つ新しいエリートをあらゆる分野と経歴の人材から集める」目標を立てたという。これはサンデルが引用していたニコラス・レマン(『ビッグ・テスト:アメリカの大学入試制度』)の言葉だ。このビッグ・テストがSAT(旧称:大学進学適正試験)であり、コナントがこだわったのは「測定するのは生まれつきの知能であり、学科の習熟度ではないことだった」。

  IQであれば、プロテスタント、白人、金持ちといった属性との相関関係はとくになく、それ以外の属性をもつ有能な学生に教育の機会を提供できるだろう。だが、IQも遺伝や幼少期の教育に影響されるのではないだろうか。出来の悪いエリートの子弟が、親から将来の成功を約束する狭き門に入れと強いプレッシャーをかけられれば、精神的に追い詰められることにもなる。アメリカでは「大学生の五人に一人が前年に自殺を考えたことがあり、四人に一人が精神的障害の診断あるいは治療を受けた」そうだ。私の知る1980年ごろのんびりしたアメリカ社会は様変わりしたようだ。 

 しかも、「成功すれば自分自身の手柄であり、失敗しても自分以外の誰も責められない」自己責任論が、人生の勝者には驕りを、敗者には屈辱を与える。「あなたは〜に値する」(you deserve)という言い回しは、レーガン時代から盛んに使われるようになり、ビル・クリントンはレーガンの2倍、オバマは3倍多く使っていたという。自分を主語に「I deserve〜」と言われると、正当化やおこがましさを感じ、どこかひっかかるものがあったのだが、本書の説明を読んで納得するものがあった。この言葉は失敗したときにも、自業自得という意味で使われる。 

   能力主義も万能ではなく、弊害のほうが大きくなった昨今は、脱落した人びとの不満や恨みを巧みに利用したポピュリストが台頭している。その構図は、20世紀前半にファシズムが台頭したときと、じつによく似ている。サンデルは能力主義の欠点を補う方法として、機会の平等ではなく条件の平等を、消費者的共通善ではなく市民的共通善を尊重すべきと主張しているが、一読したくらいでは、何やらよくわからない。解説も「何を善とみなすかについての議論の必要性を説くことに留まっており、曖昧さを含むことは否めない」と書いているので、私の理解力がいちじるしく劣るわけではなさそうだ。  

   そもそも、共通善(common good)などという言葉は日本人には非常に理解しにくい。以前にこの言葉については憲法絡みで調べたことがあるが、それでも具体的イメージはさっぱり浮かばない。こうした議論でよく思いだすのは、マルクスの『ゴータ綱領批判』(1875年)の有名な一節「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」だ。当面はまだそれぞれの能力に応じて報酬を受け取ったとしても、将来的には、各人が生きるのに必要なものを受け取れる社会を目指すべき、という見解だった。ようやく貴族社会から脱しつつあったこの時代に、よくそこまで見通せたなと思う。

  つまり、各人の必要に応じて分配できる社会にするには、共通善なり公共の福祉なり、公益、公共財等々として富をプールしなければならない。そのためには、能力の秀でた個人がどれだけ目覚ましい働きをしようが、国家予算に匹敵するような富を蓄積させてはいけない。経済的には何の貢献もせず、足を引っ張るだけの人にも何らかの存在意義があるのだから、生きるために必要な糧は社会として与えなければならない、ということだろう。  

 熟読せずに言うのも何だが、サンデルの場合、私にはどうも1950年代以前の、コミュニティや愛国心や労働の尊厳を取り戻せば、コナント以降の能力主義への間違った方向への進路は是正されると主張しているように感じられる。このところ、アメリカの建国史の影の部分に触れることの多かった私には、能力主義どころか、共和主義や民主主義ですら、その根底から揺らいでいるような気がしてならない。

『実力も運のうち:能力主義は正義か?』鬼澤忍訳、早川書房、2021/2023年

2024年7月28日日曜日

『天の笛』

 最近はだいぶ改善したようだが、暑さとともに自分の水筒から大量の水を飲むようになったせいか、孫がおねしょをする事態が頻発し、娘が参っていた。そこでふと思いだしたのが、子どものころ大好きだった『モチモチの木』の絵本だった。  

 私にとってこの絵本は、宇野重吉の朴訥とした語りと一体化して、記憶の底に定着している。母の家を整理した際に『天の笛』というソノシート入りの本はもち帰ってはおらず、どうも処分してしまったと思われ、そうなると無性に聴きたくなる。ネットで音源を探してみたが、簡単には見つからず、結局、ヤフオクで出品されていたものを購入した。  

 しかし、姉のところのレコード・プレーヤーも壊れているとのことで、ソノシートを聴くこともままならず、いろいろ検討したあげくに、ココナラというサイトでレコードをデジタル化してくれるところを見つけ、そこにお願いしてMP3のファイルに変換してもらった。久々に聴く宇野重吉の声は本当に懐かしく聴き入ってしまった。『天の笛:宇野重吉の語り聞かせ』というこの斎藤隆介の作品集は、初版が1967年で、うちにあった『モチモチの木』は1971年の初版だった。現物がないので確かではないが、『天の笛』収録の語りを絵本に先駆けて、何度も聴いていた可能性が高い。  

 滝平二郎の切り絵は、当時、購読していた朝日新聞にたぶん毎週、見事な作品が掲載されており、母がいつもそれを切り取っては黒い画用紙に切り込みを入れた簡易額に入れて飾るほどのファンだった。おそらくそのためか、うちには『八郎』という絵本もあった。  

 どうせなら、デジタル化してもらった音源に、絵本の絵を合わせて動画をつくろうと考え、図書館からいろいろ借りてみた。『ひばりの矢』は1985年刊、『ソメコとオニ』は1987年刊で、どちらも今回初めて絵本になっていることを知った。『ひばりの矢』の切り絵は非常に美しい。 

『モチモチの木』のおくびょうな豆太は何と五つ。孫も5歳なので、いま読まなくていつ読む!というタイミングだった。孫はとくに最後の一文がお気に入りだ。爺さまのほうは、ずいぶん年寄りだと思っていたが、64歳だった……。豆太のお父は、「クマとくみうちして、あたまをブッさかれて死んだほどのキモ助だった」。再びクマが身近な存在となりつつあるいま、まさに読むべき絵本だ。  

 トチ餅を買ってやりたいと思っているのだが、本格的なものは手に入りにくい。お話のなかでは簡単につくっているが、実際にはどんぐりと同様に水で長時間さらしてアク抜きをしなければならない、手間のかかる食べ物だ。娘が小学生のころ、トチノキを知らなかった私は、エゴの実を見つけてこれに違いないと早合点し、砕いて舐めてみてやめたことがある。エゴはサポニンが入っているので、団子にしなかったのは幸いだった。  

 ソメコも五つだった。忙しい大人たちに「あっちゃ行って遊べ」とたらい回しにされ、泥団子まで食べて遊んでくれる鬼に連れ去られるのだが、「カクレンボするべエ」と鬼を悩ますソメコは、まさにいまの孫の現状で、読みながら当の孫もニヤニヤしていた。 

『天の笛』に収録されていた『ベロ出しチョンマ』は、私の記憶のなかではキリシタンの迫害とごちゃ混ぜになっていたが、読み返してみると、年貢を納められずに直訴して、一家が磔刑になったという内容だった。三つのウメまでという設定に疑問が湧き、調べてみると、当時、斎藤隆介が住んでいた千葉県若葉区を舞台に選んだだけの、まったくの空想作品とのことだった。  

 やはり収録されていた『東・太郎と西・次郎』は、まるで記憶になかったが読み返してみたところ、水源をめぐる竜の出てくる話で、日照りつづきの東の国と、大雨つづきの西の国の境にいる竜を太郎と次郎が対峙する内容で、気候変動で水文学的な変化がいちじるしい現代を象徴するような話だった。長いお話で、滝平二郎の挿絵も数点しか見つからないが、宇野重吉の語りでぜひ孫に聴かせてやりたい。  

 となれば頑張るしかないと思い、iMovieなる動画編集ソフトが入っていることに気づき、試行錯誤でとりあえず『モチモチの木』と『ソメコとオニ』だけは動画をつくった。ただし、まだ著作権に引っかかるため公開はできないので、絵本好きの知り合いにだけ必要かどうか連絡しようと思っている。

宇野重吉の語りが入っている『天の笛』と図書館から借りた斎藤隆介作品

姉宅から借りてきた初版の『モチモチの木』

2024年4月9日火曜日

『江戸の憲法構想』

 このところずっと多忙で、読書時間は本当に細切れにしか取れない。そんな状態で読むにはかなり手強い本だったが、関良基先生の新著『江戸の憲法構想:日本近代史の“イフ”』(作品社)に目を通してみた。2016年の『赤松小三郎と明治維新』で書き切れなかった大きな問題に再び挑まれたような作品で、それをありがたくも献本して下さったためだ。 

 関先生は前著で薩土盟約とアーネスト・サトウに関連した鋭い分析をされており、拙著『埋もれた歴史』で引用させていただいたことがあった。今回の本では、一章を割いてサトウと長崎のイギリス商人グラバーがはたした役割を分析されている。そこで詳細に論じられるサトウの『英国策論』は、薩摩藩の松木弘安がイギリス側に出した「松木提案」とともに私も大いに興味をいだいた問題で、実際、拙著の原稿段階では「イギリスと薩長」と題した章を書いていたほどだった。かなり調べたあとで、当時の私の手には余ると判断し、「老後の楽しみ」に回してしまっていた。「サトウやグラバーの肩入れによって、薩長の武力討幕派が勝利したことによって、日本は大英帝国の極東の駒として、その世界戦略に組み入れられていくことになるのである」という関先生の言葉は、この歴史の大転換の実態を理解するうえで、非常に重要なことだ。薩土盟約の破棄と並行して起こった赤松小三郎の暗殺の真相についても、本書は説得力のある説をあげている。 

 この数年、幕末史の研究に片足を突っ込んでいるとはいえ、私は祖先の足跡をたどるまで日本史にはまるで興味がなかったので、本書で取り上げられている日本の史学者による歴史書は、恥ずかしながらいずれも未読だった。そのため、本書で多角的に論じられる「講座派」のマルクス主義の学者たちがおよぼした弊害については、これらの学説の来歴を概説する補論を読んでも、おおよそしか理解できなかった。尾佐竹猛の著作は、かろうじて生麦事件に関するものだけは読んだことはあったが、彼が講座派に対抗して憲政史研究をした人であることは、ついぞ知らなかった。講座派の影響を受けたという丸山眞男の著作も、本書で取り上げられている佐久間象山に課する講演録だけ、どうにか読んでいた程度だ。ちなみに、この講演録で丸山眞男が、過去の思想を現在の視点から気安く批判してはいけないと、プレゼンティズム(現代主義)にたいする牽制をしていたことは強く印象に残り、拙著でも引用している。丸山は松代藩士の子孫であるにもかかわらず、象山を公平な視点から見ていると思ったものだが、本書は丸山が結果的に「右派史観復活の後押しをした」と手厳しい。 

 サトウの『一外交官の見た明治維新』が講談社から新訳で出ていることも、本書で初めて知った。そのなかで訳者が、サトウが土佐の山内容堂と後藤象二郎と会談したあと、彼らの心底には明らかに、イギリスの憲法に似たものを制定しようという考えが深く根をおろしていた」という箇所を、「憲法」と訳さずに「コンスティテューション」とカナ書きし、「国家体系」といった意味の可能性があると注記している点に関先生は疑問を投げかけている。この当時、土佐藩側が何かしらの成文の法典を想定していたことは疑いないが、一方のサトウの頭のなかで「コンスティテューション」が何を意味していたかは、さほど定かではない。少なくとも、イギリスにはこの時代もいまも成文憲法は存在しない。ウィキペディアからざっと拾った限りだが、当時、成文憲法があったのは、アメリカ(1788年)、フランス(1791、1848年)、オランダ(1815、1848年)、ウルグアイ(1830年)、ベルギー(1831年)、プロイセン(1848年)、デンマーク(1849年)くらいしかない。翻訳者はその点を考慮したのではないだろうか。 

 独立当初のアメリカのように、文化的にも異なるさまざまな国からの移民で構成された共同体を、世襲制の国王のような存在なしに一つの国としてまとめるには、共通の理念や規則を定め、構成員の権利と義務を明確にし、それを書き留めておく必要があった。書き留められた結果だけが「憲法」ではなく、定めた「国家体系」そのものが重要だったのだろう。 

 幕末の危機は、帝国主義の列強が極東にまで進出してきたことによって引き起こされたものだ。その外敵を前に、為政者として何よりも避けたい事態は国内の分裂だった。「分割して統治」するのはイギリスが植民地を支配するうえでの常套手段であり、インドがそれによって手痛い目に遭ったことは、「鎖国」下の日本にも漏れ聞こえていたはずだし、アヘン戦争で中国がこうむった打撃は、海外事情に通じていた人には間違いなく大きな衝撃となった。徳川家の求心力が薄れ、朝廷を担ぎ上げる勢力が台頭するなかで、国内を一つにまとめる手段が必要となり、その一つが議会論であり、憲法構想だったのだろうが、もう一つは雄藩が離反しないよう将軍に代わって天皇を国家元首として担ぎ上げることだった。要するにナショナル・アイデンティティの創出、国民形成が必要だったのであり、それに関しては、国学者や水戸藩、藤田東湖らと交流のあった佐久間象山が、最も早くからナショナリズムを醸成する必要を認識していた人だった。 

「江戸の憲法構想」にかかわった山本覚馬と津田真道はともに象山弟子であり、赤松も象山と交流があったことが知られる。憲法を構想するということは、彼らが日本という国家単位で物事を考えていた証左であり、そう意味でのナショナリズムや、新たに国家体系をつくる必要性に迫られた背景に、もう少しページが割れていたらよかったかなと思った。ついでに言えば、本書で言及されている加藤弘之も象山弟子で、若いころ攘夷感情の強かった加藤を象山が諭したエピソードが知られている(攘夷にまつわる話は石黒忠悳の勘違いでした! 2024.6.9)。

 やはり本書で分析されている松平乗謨は、これまで私のよく知らなかった人物だが、信州佐久の田野口藩主で、母親が松平乗全の娘となると、少なくとも何かしら上田藩との関連はありそうだ。松平乗全は、上田の松平忠固と老中をともに務めた仲だからだ。 

 日本のマルクス主義史学者がどういう説を唱えてきたかを知らない私が言うのも何だが、マルクスの唯物史観そのものは、長年、考古学や人類学、生物学の分野から世界の歴史を見てきた私には、しごくまっとうな考え方に思える。本書で引用されている『経済学批判』の序文は、私も『エンゲルス』(トリストラム・ハント著、筑摩書房)で翻訳したことがあり、「人びとの存在を決定するのは、人間の意識ではなく、その逆に、社会的に存在していることが彼らの意識を決定するのである」と訳した。関先生の「バタフライ史観」は、人間の自由意志からバタフライ効果が生まれ、それが歴史を変えてきたという主張のようだが、これには全面的に賛成はできない。私たちが「自由意志」だと思っていることも、自分が置かれた状況や時代、親から受け継いだ遺伝や教育、経済状態に大きく左右されるからだ。 

 ハントは同じ箇所で、マルクスらが「英雄史観」を切り捨てた経緯にも言及している。何の脈絡もなく天才は生まれないし、その天才が活躍できたとすれば、それは時の運によるのだと私は思う。よって、歴史を知るにはやはりその背景となる社会を見る必要があり、定量化して把握しやすい生産手段や生産関係にマルクスが着目したことは間違っていなかっただろう。たまたまヒトとしての生物学的な制約が歴史をどう変えてきたか、という内容の本を翻訳中であり、参考文献として昨夜読んでいたE・O・ウィルソンも、「自由意志は、結局のところ生物的であるように思える」と書いていたので、思わず夜中に付箋を探した。 

 晩年にエンゲルスが、「マルクスの全体的な考え方は、学説というよりは手法なのだ。それは出来上がった教義を提供するよりは、むしろさらなる探求を手助けし、そのような探求のための手法を与えるものなのだ」と語ったことにもハントは触れていた。昭和の初めに講座派の学者たちがマルクスの理論を曲解したとすれば、それは多分にレーニン主義を通じて教義のようにそれを受け入れたためだろうし、一部には翻訳の問題もあったと考える。民主主義の根幹となる平等の概念を考えるうえで、人の能力の差をどう扱うか、という難題にたいし、マルクスが当面は能力主義を採用し、長期目標としてはそれぞれの人が生きるのに必要なニーズに合わせるべきだと述べた重要な箇所が、これまでかなり誤解されてきたことを、『アマルティア・セン回顧録』の翻訳中に発見したこともあった。 

 私自身は憲政史をまともに調べたこともないのだが、『エンゲルス』を訳した際に、1848年のプロイセンにおける流血の三月革命を経て、国王に憲法制定を迫った経緯などは少しばかり知ることもできた。フランスに端を発した1848年の革命で、ヨーロッパ大陸のいくつかの国で憲法制定が進んだが、それによって民主主義国家になったわけではなく、幕末に憲法構想が練られていた時代には、ヨーロッパの大半の国の主権者は国王や皇帝だった。しかも、早くから民主主義国になったとされるアメリカでも、市民権は1866年まで白人男性にしか与えられておらず、黒人男性が参政権を獲得したのは1870年、女性にいたっては1920年になるまで参政権がなかった。

 つまり、『江戸の憲法構想』で取り上げられているジョゼフ・ヒコや、オランダ留学組の西周や津田真道が参考にした欧米の初期の憲法は、それ自体が多くの制約や矛盾を含むものだったわけだ。それまで人びとを束縛していた身分を撤廃した自由も平等も、実際には納税し、兵役に就いて市民としての義務をはたせる有能な白人男性に限られた話だったのであり、女性や有色人などは、その他の社会的弱者とともに考慮されていなかったのである。 

 最近、いろいろ考えてきたことと重なり合ったため、随分だらだらと辛口の評を書いてしまったが、日本史の学説に疎い一読者の、わずか一読後の読後感として、少しでも皆さんのご参考になれば幸いだ。この本には間違いなく、多方面から歴史を振り返らせるものがぎっしりと詰まっている。

 関 良基著
『江戸の憲法構想:日本近代史の“イフ”』
(作品社)

2023年6月14日水曜日

ドゥーリットル空襲

 土曜日に母の納骨を何とか無事に終えることができた。母の遺品を整理するなかで、いろいろなことが新たに判明していたため、集まってくれた親族に途中経過の報告はしたのだが、まだ調べがつかないものもたくさんある。

 その一つが、以前に別件で少しばかり調べたドゥーリットル空襲のことだった。西大久保にあった祖母の実家が1945年4月13日の空襲で全焼したことは知っていたが、この日付を再確認するためにネット検索をした際に、この一帯が1942年4月18日のドゥーリットル空襲でも被害に遭っていたらしいことがわかったのだ。  

 祖母の実家があった場所は、2年前に母から聞きだして訪ねたことがあった。東京府淀橋区西大久保3丁目30番地という住所と、戦前の地図画像をメールで送って、どこだか具体的にわかるかと質問してみたら、「西大久保3丁目の西の字の下当たりかな? 少し上が32番だからね。四つ角の家だったよ」と即座に返事が返ってきた。母自身は子ども時代の大半を長野で過ごしているので、この家を訪ねた機会はわずかだったに違いないが、娘が高校生のころ家の間取りまで描いて説明してくれたこともあった。家の前で撮影された古い写真からも、少なくとも角地の家らしいことは確認できたので、私はその2カ月後に、いまはコリアンタウンになっている新大久保駅前を抜けた住宅街をうろついて、その場所を突き止めたつもりだった。 

 今回、『地図で見る新宿区の移り変わり』(東京都新宿区教育委員会発行、1984年)で1932年の地図が国会図書館デジコレの個人向け送信サービスで閲覧可能になっていることを発見し、改めて確認すると、30番地は私がこのとき訪ねた場所より180メートルほど北側だったようだ。もう一度、訪ねてみなければ。 

 その曾祖父母の家からわずか数十メートル南西の場所に焼夷弾が落とされていたことを、2021年4月18日の東京新聞のこの記事に掲載されていた地図から知った。記事からは詳しい状況がわからなかったので、『日米全調査ドーリットル空襲秘録』(柴田武彦・原勝洋著、PHP研究所)も入手して少しばかり読んでみた。  

 同書によると、この日、早稲田・大久保の住宅街を襲ったのは、16機からなるドゥーリットル隊の隊長で、フロリダ−カリフォルニア間を20時間30分無着陸飛行の新記録を達成していた操縦士ジェームズ・H・ドゥーリットル中佐を機長とする1番機だった。本来の目標は後楽園にある陸軍造兵廠東京工廠だったようだが、ここは関東大震災後に移転していたため、「軍に関係する施設がまったく無い地域を爆撃する結果となった」。午後12時25分ごろに早稲田鶴巻町や西大久保周辺の住宅街へ、「搭載していた焼夷弾四発のすべてを連続して投下した」。この焼夷弾は1発につき128発の焼夷弾子が束ねられており、この地域には合計で512発が投下され、早稲田中学の校庭にいた4年生の小島茂君と鶴巻町にいた通行人1名が死亡したほか、負傷者が15名、全焼家屋36棟44戸(1178坪)と、半焼家屋6棟20戸(125坪)の被害があったという。 

「南西から西向きに飛んでいた機は、下妻の北方で南へ針路を変え、江戸川上空から東京府内に達すると再び西方へと向きを変えた」という同書の説明と飛行ルート図、および早稲田鶴巻町が最初に空襲されたことから考えると、祖母の実家はほぼ飛行ルートの真下にあったものの、焼夷弾が投下されるのが1秒ほど遅れたおかげで、辛くも難を免れたことがわかった。祖母が幼児期までを過ごした長崎の家も、中島川にかかる眼鏡橋の袂付近にあり、長崎の原爆は当初そこから100メートル弱南の常盤橋と賑橋に投下するはずだったが、上空が曇っていたために急遽、変更になっていた。戦禍を免れるかどうかは、まったくの運でしかない。  

 1942年のこの空襲に興味をもったのは、その3年後の空襲で西大久保一帯が焼け野原となったにもかかわらず、拓殖大学で教えていたこの曾祖父、山口虎雄の遺品が、生活必需品でない大きなものまで、いくつか残されていたからだ。関東大震災で丸焼けになった祖父方の家では、金槌一本しか残らなかったのとは対照的だ。戦争早期にドゥーリットル空襲に遭ったために、曾祖父は貴重品を娘一家がいた信州へ早めに移動させていたのかもしれない。当時、祖父母一家は長野市内の南県町徳永町に住んでいたが、曾祖父母は焼けだされたあと、須坂の奥の仁礼村に間借りして疎開していた。 

 1945年8月13日、長野市内も空襲を受けたため、母たちは迎えにきてくれたこの曾祖父と一緒に徒歩で仁礼へ逃げたのだという。小学校5年生だった伯母は9カ月の弟を背負い、4年生だった母は、祖父が昼間につぶした鶏2羽を背負って行ったと、10年近く前に伯母に教えてもらった。仁礼にたどり着く前に「栃倉で皆へばって、そこで休み、虎雄さんが仁礼に行って大八車を借りてきて、そこに皆の荷物を積んで仁礼(湯河原温泉)まで行った」と、母からはメールで教えてもらった。学生時代、菅平にスキーに行ったきりのこの地域も、いつか訪ねてみたい。  

 ところで、ドゥーリットル隊のこの1番機は、強風の吹いた当日朝7時20分に、東京都心まで1200キロ弱の距離に位置していた空母ホーネットを発艦していた。正午に水戸市北東20キロ付近の監視哨に発見されたが、味方機と誤認され、その2分後に敵機として報告された。午後12時4分には、たまたま宇都宮から水戸へ視察で飛行途中だった東條英機首相の乗った飛行機の真正面を、わずか30キロほどの距離で横切ったのだという。ドゥーリットル機につづいて、東京まで同じルートを飛行した2番機が5分後に飛び立っており、東條機はこの両機とニアミスしていた。 

 ドゥーリットル隊は「日本の工業地区を爆撃する」ことを目的とし、「民間目標(特に寺院)への攻撃を避ける」よう指示されていたが、葛飾区の水本国民学校を軍事施設と見間違えたのか、機銃掃射して高等科1年の石出巳之助君を死亡させるなど、500人を超える非戦闘員の犠牲者(内死者88人)を出し、全壊・全焼家屋は112棟におよんだ。 

 爆撃を終えたドゥーリットル機は、九機からなる九七式戦闘機に追われたものの逃げ切り、12時40分ごろには茅ヶ崎から海上へ脱出し、着陸予定地だった中国浙江省内の衢州(くしゅう)北110キロほどの地点に午後8時15分ごろに疲労困憊して達し、乗員はパラシュートで脱出したらしい。日本側は一機も迎撃できなかったにもかかわらず「9機撃墜」と東部軍が速報したため、その辻褄合わせで、中国に不時着したB-25の残骸を運んで4月25日から靖国神社に展示したというのが、以前に私が調べたことの真相だった。中国で日本軍の捕虜となった6番機と16番機の生存者を日本側が処刑した顛末などは、いつかもう少しじっくり『秘録』を読んで勉強しておこう。

 1941年、西大久保の祖母の実家で

祖母の実家があった場所の現在の様子
(2024年5月撮影)

『日米全調査 ドーリットル空襲秘録』(PHP研究所)

 母がその昔、娘に描いてやった祖母の実家の見取り図

2023年1月29日日曜日

『人新世の「資本論」』を読んで

 何とも遅まきながら、ようやく斎藤幸平の『人新世の「資本論」』(集英社新書)を一通り読んだ。ベストセラーは図書館で借りる主義なので、仕事が一段落した折にリクエストを出そうと思ったら、あまりの待機者の多さに仰天してしまった。2021年新書大賞となり、75万部(2月1日付、毎日によると50万部に届く程度とのこと)を売り上げたらしい。あきらめて年末に古本を購入した。

 私にとっては子世代の若い研究者が、2020年の段階でここまで世界の状況を理解し、自説を掲げるほどまでにいたったことには、とにかく驚きしかない。この本で言及される研究者の多くは、グレタ・トゥーンベリ編著の『気候変動と環境危機』(河出書房新社)の寄稿者たちだ。こと気候問題、環境問題に関する限り、斎藤氏がこの本で書いたことは、彼の妄想でも誤解でもない。本書には科学面では、『地球の限界』の環境学者ヨハン・ロックストロームと、アメリカの環境活動家のビル・マッキベンくらいしか具体的に登場しないが、ここで述べられていることはいずれも最先端の科学者たちが到達した結論であり、気候問題に長らく翻訳を通じて携わってきた者として、何ら違和感なく受け入れられることだった。よって、その点を槍玉に挙げて本書を批判する人は、まず気候問題について勉強し直してほしい。  

 斎藤氏のもともとの専門は経済学のようなので、トマ・ピケティや、ドーナツ経済学のケイト・ラワースも登場するし、ショック・ドクトリン、公正な社会への移行、ケア労働の重要性等への言及などは、ナオミ・クラインなのだろうと思った。「ネガティブ・エミション・テクノロジーは、その副作用が地球を蝕むとしても、資本にとっての商機となる。いわゆる惨事便乗型資本主義だ」とも書いていた。「外部化される環境負荷」、「あらゆるものを海外にアウトソーシングしてきたせい」、「ブランド化と広告が生む相対的希少性」、政治学者のエリカ・チェノウェスの「3.5%の人々が非暴力的な方法で、本気で立ち上がると、社会が大きく変わる」といった問題にも触れているところなど、『気候変動と環境危機』の寄稿文と重なり合う部分がじつに多く、それをまだ30代なかばの日本の一研究者が2020年にはすべて把握していたということに、敬意を表したい。 

 もちろん、「学校ストライキで有名になった当時一五歳の高校生」についても、資本主義という無策の「システムそのものを変えるべきだ」と主張したことや、世界中の若者たちが彼女を熱狂的に支持したことに触れている。年末に斎藤氏が『現代ビジネス』に寄せた『気候変動と環境危機』の書評でも、グレタについて、「大人たちにもガツンと殴られるような衝撃を与えたのだ。何を隠そう私自身もその一人である」と書かれていた。 

 彼の経歴を見ると、東大には3カ月しか在籍せず、もっぱら欧米で勉強し研究してきたようだ。ガラパゴス化している日本社会でおもに書物とニュースでしか世界の情勢を知らず、大学や研究機関とのつながりもない私とでは雲泥の差になるのは当然か。 

 長年、細々と気候科学の行方を追うなかで、私も唯一可能で現実的な解決策は経済成長を遅らせることだとつねづね思っていたので、脱成長を掲げる点でも彼の主張には共感する。「生活の規模を一九七〇年代後半のレベルにまで落とすことである。その場合、日本人は、ニューヨークで三日間過ごすためだけに飛行機に乗ることはできない。解禁の日にボジョレヌーボーを飲むこともできなくなる」というくだりを読みながら、その時代をじかに知る人間の一人として、決して不可能ではないと思った。 

 コモンズに関する見解も、ブライアン・フェイガンがよく言及していたし、日本だって私の子供時代までは裏山の薪炭林などは誰もが入ってタケノコでも山菜でも採れるコモンズだったはずだ。イギリスの都市で実際に牛が草を食むコモンズを見て、私有地を突き抜けるパブリック・フットパスを歩いたことから、どこもかしこも立ち入り禁止の私有地になりはてた日本の現状を憂いてきた一人でもある。鉄道や水道、電気、ガス、電話、郵便などを民営化したのが間違いだったと、いまでも思う。 

 しかし、『人新世の「資本論」』のマルクス主義に関することでは、いくつか重要な疑問がある。マルクス研究者の彼に、マルクス主義なりコミュニズムに関して異を唱えるのは、釈迦に説法もいいところなのだが、私が翻訳で携わったわずかばかりの経験で得た知識との食い違いが気になったのだ。とくにマルクスが1881年に3度書き直したという「ザスーリチ宛の手紙」に関する相違は引っかかる。本書で斉藤氏がこれを何度も取り上げ、「人新世を私たちが生き延びるために欠かせないマルクスの遺言」とするからなおさらだ。ロシアのミールと呼ばれる農村共同体が、資本主義という段階を経ることなしに、ロシアをコミュニズムに移行できるとマルクスが認めたものだ。これは「最晩年のマルクスが、単線的な歴史観とヨーロッパ中心主義から決別していた」ことを明らかに示すものだと、本書は主張するのだが、「生産力至上主義」からの脱却の道筋だと解釈するあまり、晩年のマルクスのこの見解に力点を置きすぎてはいないだろうか。

 『エンゲルス:マルクスに将軍と呼ばれた男』(筑摩書房)を書いたトリストラム・ハントによると、エンゲルスは1875年の小論で同趣旨のことを述べつつ、一つの条件を加えていた。「しかしながら、これが起こりうるのは、共同所有の形態が完全に崩壊する前に、西欧でプロレタリア革命が成功して、ロシアの小作農がそのような移行をするために不可欠な前提条件が生みだされた場合のみである」と。マルクスは晩年に「資本主義による社会経済的進歩の統一過程がすべての民族に当てはまるという論点を、強調しなくなっていたのだ。しかし、エンゲルスはこうした考えを残念に思い、二人のあいだの哲学的相違が明らかになるわずかな例のなかで、当初のマルクス主義の理論的枠組みに立ち戻っている」と、ハントは説明していた。エンゲルスはロシアのプレハーノフにも「資本主義社会の矛盾が共産主義への変貌に必要な前提条件」であることを納得させ、プレハーノフは「レーニンの主張する前衛に立つエリートが引き起こすトップダウン方式の社会主義革命を心底から嫌っていた」ともハントは書く。こうした経緯を翻訳した当時、私なりに理解したのは、ロシア革命によってソ連に誕生した政権や、その後の中国や北朝鮮などに生まれた政権が社会主義や共産主義を名乗ることについて、マルクスはいざ知らず、エンゲルスはもし生きていたら、その行く末を危惧しただろうということだった。そして実際、その結果は恐ろしい社会となった。

  一方、斎藤氏は「『資本論』の第二巻、第三巻は、盟友エンゲルスがマルクスの没後に遺構を編集し、出版したものにすぎない。そのため、マルクスとエンゲルスの見解の相違から、編集過程で、晩年のマルクスの考えていたことが歪められ、見えにくくなっている箇所も少なくない」として、エンゲルスのはたした役割を過小評価、もしくは否定的に捉えているように感じた。近年、MEGAと呼ばれる新しい『マルクス・エンゲルス全集』刊行の国際プロジェクトが進んでおり、彼もその一員だそうだが、「E」はエンゲルスなのだ。マルクスが大英博物館にこもって研究に耽っているあいだ、資本主義の現場も労働者の置かれた悲惨な状況も嫌というほど目にしながら、20年近くマルクスに資金援助をつづけ、かつマルクスより長く生きて民主主義とは何かを少しは体験したエンゲルスの思想にこそ、むしろ現代に通ずるものがあるように私は思った。 

「脱成長コミュニズム」の理論的根拠として、斎藤氏は『ゴータ綱領批判』の一説を引用し、将来社会においては「協同的富」を共同で管理する生産に代わるというマルクスの言葉は「コモン」に通ずると述べる。この一説の最後は、「各人はその能力におうじて、各人にはその必要におうじて」である。コミュニズムの定義として有名らしいこの一文のドイツ語の原文(Jeder nach seinen Fähigkeiten, jedem nach seinen Bedürfnissen!)では、同じ表現が繰り返され、目的語に相当する能力とニーズだけが異なる構文のため、何を言わんとしているのか理解しづらい。そのせいか、このフレーズは、「無限の生産力と無限の潤沢さによって、不平等な分配の問題を解決すると」解釈されてきたのだが、実際は真逆なのだという。 

 しかし、この一文の英訳は「From each according to his ability, to each according to his needs!」なのだ。昨年末刊行された『アマルティア・セン回顧録』(勁草書房)には「マルクスをどう考えるのか」という面白い章がある。そのなかで、ゴータの町で開かれた労働党の会議と、それにたいするマルクスの批判の説明を読んだあと、私はこの一文を「各人の能力に応じたものから、各人の必要に応じたものへ」と、fromとtoを補った形で訳した。センの解説によれば、マルクスはこのとき最終的に必要原理を選んだが、「仕事に意欲をもたせるのに充分な制度とこの原理を結びつけるのは、非常に難しいかもしれないとも記した。どれだけ働いても稼ぎに結びつかなければ、勤勉に働く意欲を失うかもしれない。そこで、必要原理を強く支持したあとで、マルクスはそれをただ長期的な目標であるとした」。ドイツ語の原語と英語訳、あるいは日本語訳で、同じ文献の解釈にずれがあるのではないかという疑念は、『エンゲルス』を訳していた期間、私がずっと抱いていたものだった。マルクス主義への回帰を主張するならば、こうした基本的な問題も考慮すべきだ。

 ちなみに、ハントの原書はこの部分を、違う英訳版を使用したのか、何かの誤解だったのか、「From each according to his ability, from each ability according to his work.”としていたため、私もそのとおりに訳していたことにいまさらながら気づいた。  

 斎藤氏の書では労働者が生産自治管理・共同管理することを訴えるピケティの「参加型社会主義」や国境を越えて都市間で協力する自治体主義というミュニシパリズム、選挙ではなくくじ引きでメンバーが選ばれるフランスの「市民議会」、気候非常事態宣言をしたバルセロナ、「ワーカーズ・コープ(労働者協同組合)」といった実践例があれこれ挙げられている。これらの新しい概念や試みは魅力的だが、資本家を排除しても、それらの組織が民主的になり、環境に配慮した賢明なものになる保証はかならずしもない。センは回顧録のなかで、「政治組織にたいするマルクスの精査は奇妙なほど初歩的に思われた」とし、「プロレタリアートの独裁」において、「実際の政治的取り決めがどう機能するのかもほとんど説明されていない」と指摘していた。「マルクスによる民主主義の扱いにも重要な欠落がある」とも。共産主義と聞けば旧ソ連や中国を連想する多くの人にしてみれば、これらの左派的な新しい動きから、権威主義的な独裁政権が誕生して、自由など何一つなくなるのでは、という恐怖心も拭えないだろう。 

 女性参政権が認められ、普通選挙が行なわれるようになったのはおおむね20世紀以降なので、マルクスもエンゲルスも民主主義を実体験していない。マルクスの時代はまだ憲法でどうすれば王権を制限できるかという時代だ。実態すら不明な下々の民の意見をどう汲み上げ、誰がどう意思決定するのかまで、彼らも頭が回らなかったに違いない。民主主義国家を称する現代の国々でも、民主主義が機能しているとは言えない国が大半だ。戦後の束の間の平和な時代にやたら贅沢な暮らしに慣れてしまい、それが自分たちの権利であり日常だと信じ込んでいる大多数の人びとが、気候変動とともに環境が様変わりして右往左往するなかで、意思決定に時間のかかる民主主義をどうすれば貫けるのか。その難題にたいする答えを、19世紀の人間であるマルクスに過度に求めるのは、いささか無理があるのではないだろうか。  

 長々と書いてしまったが、政治家も経済人もまさしく「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」と言わんばかりの日本で、大半の人は目先の娯楽や用事にしか関心がない現状において、人類に迫る大問題を真剣に考えてくれる若い世代がいるというだけで頼もしく思う。斎藤幸平に建設的な論争を挑む若い人がどんどん出てきて、困難な時代にも耐えうる政治・経済システムを考えてくれることを切に願っている。

2023年1月9日月曜日

松平兄弟

 慌ただしい年末年始を過ごし、年が明けてから数日遅れでようやく物理学の歴史の翻訳原稿の残りを提出し、一息つく間もなく、柄にもなく引き受けてしまった月末の幕末史の講座のための資料づくりにかかっていたので、家のなかも、頭のなかも混乱しきっている。すでに開始が遅れている次の仕事に至急取り掛かるべきなのだが、まずは諸々の雑用を片づけて、忘れまいとして、頭のメモリーを食っていたことを細々としたことを書きだしておくことにする。

 昨年10月に拓殖大学の関良基先生から、同大の塩崎智先生が発見された松平忠礼・忠厚兄弟に関する史料コピーと、金井圓の「あるハタモトの生涯——私費米国留学生松平忠厚小伝」(1969年)という論考コピーを送っていただいていた。金井氏の論考は『トミーという名の日本人』(文一総合出版、1979年)にも収録されていたので、古本を入手してそれも読んでみた。  

 さらにそのずっと以前の昨年5月に、以前に祖先探しの調査で上田を訪ねた際にお世話になった長野大学の前川道博先生から、「みんなでつくる信州デジタルマップ」に拙著『埋もれた歴史』の紹介記事を掲載してくださった旨をご連絡いただいていた。そこには、私と同様に、上田藩士だった祖先探しをしておられた2人の方がすでに記事を投稿されていて、拙著の記事を読んで連絡を下さっていた。私にとって非常に嬉しいこれら諸々の進展を尻目に、翻訳の仕事に専念しなければならなかった日々は、何とも苦しかったが、赤松小三郎研究会主催の三谷博先生の講演会があった機会に、松平兄弟に随行してアメリカに渡った山口慎のご子孫の方が東京にお住まいだったのでお誘いしてみた。日比谷公園内の松本楼でランチをしながら、初めてお会いしたのに、まるで遠い親戚に再会したかのように、あれこれ尽きることのない話をしたあと、一緒に日比谷図書館の講演会場へ向かった。  

 前段が長くなったが、こうした経緯から、じつは新たな発見があったので、今回はそれを書いておきたい。上田藩の最後の藩主松平忠礼(拙著表紙の騎乗の人)と弟の忠厚は、山口慎とともに明治5(1872)7月に渡米し、兄の忠礼はラトガーズ大学を1879年に卒業して帰国したが、弟の忠厚は現地に残り、アメリカ人女性と初めて結婚した日本人となり、測量機器を発明して『サイエンティフィック・アメリカン』に日本人として初めて掲載された人なり、測量技師として活躍したが、1888年にデンヴァーで結核によって36歳で亡くなった。

 松平忠厚については、飯沼信子の『黄金のくさび』(1996年)という伝記があるが、インターネットの使えなかった当時の状況では仕方のないことだが、かなり間違いが多い。上田市立博物館発行の『赤松小三郎・松平忠厚』(2000年)は、その点、史料をもとに書かれているためより正確な情報が書かれている。この史料の多くを提供したのが、どうやら東大史料編纂所におられた金井圓氏(1927-2001年)だったようだ。1875年に一足先に帰国した山口慎が、明治14(1881)年9月に、生活費に苦労する忠厚に宛て「二白、金六十五円九十六銭にて(是は少々足し前あり、おまけなるべし)銀貨四十弗相求め、それに又金貨三十五弗七十銭相求め」送金したことを記した手紙が上田市博物館にあるが、これらも金井氏が収集・解読されたのではないだろうか。 

 私がお会いしたご子孫の方から、母上がまとめられた「祖父・山口慎」という論考も見せていただいたところ、母上が調査で上田市立博物館を訪ねた折に、奇しくもそれらの書簡3通が展示されていて、当時の寺島館長が山口家の「明細」等を見せてくださったのだそうだ。山口慎は帰国後に東京英語学校の同僚として高橋是清と出会い、1889年にペルー銀山の仕事にともに駆りだされ、断崖絶壁で落馬するなど危ない目に遭ったうえに、この事業そのものが詐欺に近いもので、たいへんな苦労を味わうことになった。是清とは生涯の友で、慎の葬儀も出してもらったという。高橋是清は、高校時代の親友の祖母に当たる方が是清邸に奉公されていたとのことで、私が歴史上の人物で身近に感じた最初の人だったので、祖先調査の折に『上田郷友会月報』で山口慎の追悼記事を見つけ、ペルーの一件を知ったときは驚いたものだった。 

 山口慎は「明治6年 新約克(ニューヨークと読む)にて」と書かれた1枚の写真を残していた。渡米した翌年撮影のウィキペディアにも掲載されたこの写真には、松平兄弟と山口慎が写っている。彼ら3人がどんな伝手で私費留学したのかについては不明な点が多く、そもそもどこで学んだのかもはっきりしていなかった。今回、塩崎先生からの史料で、忠厚がマサチューセッツ州のウースター・フリースクール(現ウースター工科大学)に、1874年から1877年まで在籍していたことがわかった。石附実「明治初期における日本人の海外留学」(『近代化の推進者たち』)によると、1866年からの10年間にニュージャージー州ニューブランズウィックで学んだ留学生は約40名いて、そのうちラトガーズ大学に入学したのは13名、卒業できたのは4名という。忠礼はその1人である。大半の留学生はラトガーズ・グラマー・スクールに2年ほど通ってから他校へ移ったり、帰国したりしていた。上田から渡米した3人も、おそらくは最初の2年ばかりグラマー・スクールに一緒に通い、忠礼はラトガーズ大学に進学し、忠厚は1874年からウースターに移り、山口は帰国したのだろう。福井出身の今立吐酔宛に忠厚が書いた1875年12月の3通の手紙に「学校モニトル選任」と書かれていたことが、今回、金井氏の論考から判明した。ということは、「生徒の風紀取締委員」と金井氏が説明する役に忠厚がついたのは、ウースーターの学校の話なのだ。 

 マサチューセッツとニュージャージーは300キロ近く離れているので、1874年以降、松平兄弟は頻繁には会っていなかったはずだ。金井氏の論考には、年次不明の年末に忠厚宛に名前不明の友人が書いた手紙もあり、そこには「今夜は阿兄公〔忠礼〕と談話の約束にて阿兄の尊居に参りたれ共、只彼美人の所に招かれ行くと耳(のみ)の書置にて、何如とも仕段なし」と書かれていた。書籍版のほうには、このあと忠礼がアメリカ女性などと並ぶ写真が2枚掲載されている。そのうちの1枚は裏書に、「Miss Cadie Sampson, Susie Powiston, Nettie Bentley, 南部英麿, 南部信方, 松平忠礼の名がある」とし、但し順不同でどれがカリー・サンプソンかわからないが、撮影日は1878年7月26日としている。 

 この説明を見てまず驚いたのが、南部英麿の名前だ。渡米したての1871年の有名な集合写真ではまだ初々しい美少年だった彼が、この写真では後方に立つ口髭の青年に成長していたからだ。英麿は1878年に帰国しているので、最後の記念撮影だったのだろうか。南部信方は彼の弟のようだ。この2枚の写真は私も何度も眺め、忠礼以外の男性は誰なのか、頭をひねったものだった。 

 カリー・サンプソンは忠厚の妻となった女性で、「Cadie Sampson」が確かにカリーなのだとすれば、これはいろいろ考えさせられる事実だ。ちなみに、もう1枚の写真についても金井氏はいろいろ書いておられるが、前列左端が忠礼である以外は、誰かはわからない。どちらの写真も現在は東京都写真美術館にあるので、いつか裏書を見てみたいものだ。

  しかも、同書にはこんなことも書かれていた。忠厚が友人の黒田長知(福岡藩主黒田長溥の世子)宛に、1878年と推測される手紙に「当秋末ニハ小生モ帰朝之心得ニ候」と書き、翌年夏の卒業式を待たずに出発する兄とともに1878年秋に帰国する予定だったという。実際には帰国間際になって忠厚はカリーと駆け落ちして姿をくらましてしまい、忠礼だけが帰ってきたことはよく知られる。忠厚も忠礼も日本に妻を残していたのだが、忠厚はカリーとの重婚に踏み切り、忠礼も、うろ覚えだが、「アメリカ人女性のように自立した人がいい」として最初の妻とは離縁し、その後、山内豊福の娘と再婚している。  

 忠厚が1874年以降、ニューブランズウィックにはいなかったことや、カリーが1859年生まれで、1878年秋にようやく19歳だった事実を考えると、もしやこれは帰国間際に2人のあいだに急に芽生えた恋だったのか、という疑問が湧いてくる。しかも、カリーとは忠礼が先に会っていたのかもしれない! だとすれば、帰国後も半年以上、弟に手紙を書かず、「男子の決心自由の存する処」と結局は受け入れるものの、「金銭の義は一切御構へ申さず、独立自弁の御事と、断然御承知成し下さるべく候也」と、絶縁状に近い手紙を送った忠礼の心情が少しわかるような気がする。まあ、いまさらこんなことを根掘り葉掘り詮索しても仕方がないのではあるが。  

 余談ながら、金井氏の書には、「明治期アメリカ留学の断面」という章もあり、そこにはラトガーズ大学に最初に留学し、結核で倒れて帰らぬ人となった日下部太郎の碑を囲む日本人留学生の写真も掲載されていた。『ザ・ファーイースト』紙1872年12月16日付に掲載されていたそうで、そこには「碑の右に立つのはスギウラコウゾウ氏、すなわち今の米国駐在公使館第三等書記官である。左に立つ二人の学生は、今ワシントンの日本公使館書記生のタカキ氏と、江戸の帝国大学の職員のひとりであるヤギモト氏である」という説明があるそうだ(まだ現物は確認していない)。  

 この写真も私が調査中に見つけていたもので、杉浦弘蔵(畠山義成)と高木三郎まではわかったのだが、左側の人物は吉田清成だと思っていた。金井氏によると、のちの名古屋市長の柳本直太郎だそうだ。ただし、金井氏はなぜか、墓碑のわきにうずくまるのが柳本だとするが、『ファーイースト』の記事に従えば、うずくまる人物はまだ不明だ。私はこの人物を碓氷峠列車逆走事故で息子とともに命を落とした長州の山本重輔と推測している。  少しも新年らしくない記事となったが、昨年からずっと気になっていたことなので、祝日の月曜日を利用して書きあげられてちょっと嬉しい。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 左から:松平忠厚、忠礼、山口慎
「明治6年 ニューヨークにて」撮影
 了承を得てウィキペディアからダウンロードした。 

『トミーという名の日本人:日米修好史話』金井圓著、
 文一総合出版、1979年

左側の写真に裏書があったようだ。後方の男性が南部英麿。前列左が松平忠礼、右は南部信方

カリー・サンプソンの写真として知られる2枚。左は上田市立博物館のパンフレット、右は『黄金のくさび』より

ラトガーズで1870年に結核で客死した日下部太郎の碑を囲む日本人留学生。1867年に松平慶永が送りだした最初の公式留学生だった。
左から:柳本直太郎、高木三郎、山本重輔?、畠山義成

日下部太郎の前に、ラトガーズでは1866年に密航した横井小楠の2人の甥が最初に学んでいたが、仕送りもない苦しい生活のなかで結核を患い、帰国後間もなく死去した。

2022年11月7日月曜日

マレーナ・エルンマン

 この記事のタイトルを見てすぐに誰のことかわかった人は、かなりのオペラ好きか、環境問題に深くかかわってきた人に違いない。翻訳中にどんな人だろうと興味本位で検索したところ、最初に見つけた動画が衝撃的で、それまで漠然といだいていた先入観がすべて吹き飛んだんだことを覚えている。

 2015年5月に来日して、N響の第1809回定期公演に出演したこともあるというこのメゾ・ソプラノのオペラ歌手は、2009年にはメロディーフェスティバーレンで優勝して同年のユーロビジョン・ソング・コンテストのスウェーデン代表となるなど、ポップ歌手としての側面も備えた歌姫だった。来日時には「東京からおはよう」と書いてセルフィーを投稿し、何万という「いいね」をもらったのだという。先日ようやく図書館から借りて読んだ『グレタ たったひとりのストライキ』(海と月社)で、このエピソードを知って改めて調べ直し、これは書いておかねば、と思ったしだいだ。そう、彼女の娘が、グレタ・トゥーンベリなのだ。

 来日時の情報が残っていないか検索してみると、何人かのオペラファンが書いた「マレーナ様」の記事が見つかった。そこに貼られたリンクを頼りに、いくつか彼女の動画を観て、さらに驚かされた。私が最初に見つけた動画は、ロッシーニのオペラ『チェネレントラ』からの「悲しみと涙のうちに生まれて」のアリアのコメディー版だったことが、彼女の本格的なオペラ公演の動画を観てわかったのだ。コメディー版では、ストラップレスドレスがずり落ちそうでうまく歌えず、観客の男性に後ろから引っ張り上げてもらうという設定で、満場の笑いを誘っていたが、オペラ公演では、映画『ミッドサマー』の登場人物のような北欧の美女姿で、この長いアリアを歌いきっていた。ABBAのチキチータを、本家に劣らず見事に歌う2009年と思われる映像もあった。

『グレタ たったひとりのストライキ』によると、マレーナはオペラの大衆化に尽力し、ヨーロッパ各地のオペラハウスと数年単位の契約を結ぶ一方で、スウェーデン国内ではオペラ文化の普及に努めた人だったようだ。彼女の多才ぶりに驚かされたのは、2014年1月(たぶん)にチューリッヒ歌劇場で上演されたヘンデルのオペラ『アルチーナ』で、ルッジェーロという騎士を演じた彼女の動画だった。ルッジェーロはもともとカストラートの歌手が演じていた役らしく、「ズボン役」となった彼女は、さほどメイクもしていないのに、宝塚ばり、いや、それ以上のカッコよさで、かなり低音の歌声ときびきびした踊りを披露していた。歌い終えたあとでハンドスプリング(前方転回)を難なく決めてみせたのを見たときは、唸ってしまった。15年前に投稿されたものだが、ヨハン・シュトラウス2世の『こうもり』の「私はお客を呼ぶのが好きだ」の動画でも、口髭をつけて気障なオルロフスキー公爵を好演していた。コミカルな持ち味を存分に発揮して観客を魅了する彼女を、「マレーナ様」と呼ぶファンがいるのもうなずける。

 だが、世界各地の舞台で彼女が華やかな公演を繰り広げていたこうした時期に、当時小学校の5年生だったという長女のグレタが摂食障害になっていた。もともとのきっかけは、学校の授業で見た太平洋のプラスチック汚染などのドキュメンタリー映画で、同書では時期が明確に記されていないが、8歳ごろのことだったのかもしれない。いずれにせよ、グレタは2014年秋に2カ月にわたってほとんど食事のできない状態がつづいて、10キロも体重が減ってしまい、アストリッド・リンドグレーン子ども病院で精密検査を受けることになった。リンドグレーンの作品を愛読していた私には、おさげ髪のグレタが、やかまし村のリーサと重なって見えた。 

 各地を飛び回らざるをえないマレーナに代わって、アスペルガー症候群で場面緘黙症と診断された彼女を支えたのは、父親のスヴァンテ・トゥーンベリだったようだ。舞台で活躍する声楽家が、本番に備えて自分の体調管理と練習にどれだけの神経を使っているかを考えれば、当時のこの一家の悲惨な状況がよくわかる。来月初めに日本でも刊行予定のグレタのThe Climate Book(『気候変動と環境危機:いま私たちにできること』河出書房新社)のなかに、スウェーデンの国民的歌手の母親はほとんど登場しないが、一緒に大西洋をヨットで横断したことでも知られる父親のスヴァンテのことは、アメリカのミネソタ州リンドストロームとサウスダコタ州を一緒に訪ねたエピソードで触れている。闘病中に父親と一緒に読んだ、ヴィルヘルム・ムーベリの『移住者』シリーズの舞台となった地を訪ねたときのことだ。
  
 グレタの名前を最初に聞いたころから、長崎の出島の植物学者ツンベリーと関係がないだろうかと思っていたが(実際あるとする情報もちらほら見つかるが)、驚くべきことに、彼女の父親はスヴァンテ・アレニウスの子孫だそうで、彼にちなんで名づけられていることも『グレタ たったひとりのストライキ』には書かれていた。人類が二酸化炭素を排出することによって地球を温暖化させる可能性をアレニウスが1895年末に最初に指摘したことは、いまでは多くの人が知っているだろう。父親のスヴァンテは舞台俳優だったが、グレタが生まれるに当たって、「世界トップクラス」の歌い手である妻の仕事を優先させ、そのときどきで彼女が公演をしている都市で同居をして、主夫となって育児を引き受けたのだという。

  だが、グレタの摂食障害をめぐる騒動が、グレタの3歳下の妹ベアタにも影響をおよぼし、ADHDやアスペルガーと診断されるにいたって、マレーナがこの下の娘の面倒をみなければならなくなった。このような時期にグレタに引きずられるようにして、一家は気候変動問題に関心をもつようになったようだ。2016年3月のウィーンでのコンサートを最後に、マレーナは飛行機に乗らない決心をし、地方紙に寄稿していた毎月のコラムでも気候問題について書くようになっていた。ただし、音楽活動をやめたわけではなく、やはり歌手として活動を始めた次女のベアタと一緒に、2021年には『フォレヴァー・ピアフ』というミュージカルに出演し、母娘でエディット・ピアフの生涯を演じたようだ。スヴァンテも2017年には飛行機に乗るのをやめたそうだ。

  一家はウプサラ大学の地球科学研究所にケヴィン・アンダーソンと同僚を訪ね、そこで衝撃的な現状を教えられる。アンダーソンは『気候変動と環境危機』でも、ひときわ鋭い論考を寄稿して異彩を放っていた研究者だ。学校ストライキの計画をグレタが彼に打ち明けた場面も、『たったひとりのストライキ』には書かれていた。この本の邦題にもなった、2018年8月にスウェーデンの総選挙前に3週間にわたって国会議事堂の前で彼女が始めた学校ストライキのことである。 

「スヴァンテは私と同じく、グレタには学校ストライキなんていう考えを捨ててほしかった。不愉快な結界になることは目に見えているからだ。だが、彼女がそのことを考え、話すときは生き生きとしている」と、マレーナは書く。父親と一緒にアビスコの極地研究所で講義に参加した際、環境問題を専門にする大学生たちも答えられないなかで、太陽電池の変換効率は16%だと、手を上げて英語ではっきりと答える娘の姿に、「家族や教師のアニータ以外の前で、自分から率先して話すグレタを見るのは数年ぶりだった」とスヴァンテは書いた。このときの講師キース・ラーソンも『気候変動と環境危機』の寄稿者で、北部のこの地まで電気自動車で向かう道中、父娘は、やはり寄稿者となったナオミ・クラインの『これがすべてを変える』(岩波書店)のオーディオブックを聴き、「ときどきそれを止めては内容を話し合った」そうだ。 

 スヴァンテは学校ストライキの前には、「何があっても必ず自分ひとりで対処しないといけないよ」と諭し、想定問答をして娘を鍛えた。娘の決心を変えられない以上、せめて娘が必要以上に傷つかないように親として精一杯の助言をしたのだろう。
「あなたのご両親がこうしなさいと言ったのです? この質問はしょっちゅうあるぞ」 
「それなら、ありのままを答える。両親を感化したのは私であって、その逆ではありません」 

『ひとりぼっちのストライキ』には、それでも娘が心配で、アーチの陰からスヴァンテが見守っていたことなども書かれている。おもにマレーナが執筆した断片的な文章を、闘病と気候運動に関連するものが入り組んだまま、時系列も曖昧な形でまとめられている本なので、決して読みやすくはないが、巻末にはグレタが行なってきたスピーチも収められている。『気候変動と環境危機』を訳す過程で、彼女の歯に衣着せぬ物言いにたびたび驚かされたが、グレタ節とでも言いたくなる鋭い見解を15歳のときにすでに身につけていたことがよくわかった。 

 2018年末にポーランドのカトヴィツェで開かれたCOP24で、アメリカの環境専門家のスチュアート・スコットが彼女の勇気ある行動に涙がでたと言い、ジャンヌ・ダルクだと思ったと語る動画を、少し前にたまたま観ていた。あいにくリンクを保存しておかなかったため、どうにも探せず、再確認できないのだが、どうやら彼がグレタを国連の場に引きだした当人のようで、惜しくも2021年7月に急逝しているようだった。捨て身の覚悟で人類最大の問題に挑み、直球を投げてくる若い世代が登場したことが、両親を皮切りに、世の中を動かしているのだと思った。

ミネソタ州リンドストロームを訪ねたエピソードに、赤いダーラナホースの看板のことが書かれていて、つい買ってしまったミニサイズの馬と、その昔、娘につくってやったおさげ髪のウォルドルフ人形。トチーちゃんと名づけられ、可愛がられたのでだいぶ汚れてしまったが。

『グレタ たったひとりのストライキ』
マレーナ&ベアタ・エルンマン、グレタ&スヴァンテ・トゥーンベリ著、羽根 由訳、海と月社