2023年4月29日土曜日

母の死

 火曜日の晩に、母が1カ月余りの入院の末、逝ってしまった。入院当初は、誤嚥性肺炎と診断され、それなら1、2週間もすれば退院できるだろうと、誰もが思っていた。実際、母も数日後にはかなり回復して、デイルームまで自分で歩いて面会にきては、病院の食事がまずいので、姪っ子が庭の梅でつくった梅干しをもってきてくれとか、新聞を読んでいると痛みを忘れるから届けてくれとか、見舞いに行く前日にはメールを送ってきた。

 ところが、入院3週間を過ぎたころに病棟を移って主治医が呼吸器科の先生に代わる旨の連絡があり、その後、母と一緒にその主治医に初めて面談することになった。そろそろ退院の話かと思って意気揚々と出かけたのだが、そこで見せられたレントゲンやCTの画像は、入院当初よりも状態が悪化しているという衝撃的なものだった。たくさん投与された抗生剤は効いておらず、現代の医学では決定的な治療法のない自己免疫疾患の間質性肺炎だろうとの診断だった。対処療法としてステロイドを使うしかないと言われ、回復の見込みがないときはどうするかと質問された。予想外の展開に私は大いに動揺したが、母は「もうこの年まで生きたから十分です」と自分で医師に告げ、延命治療の同意書にはすべて「希望しない」にチェックを入れ、自筆できちんと署名していた。  

 面談後は容体がどんどん悪化し、酸素マスクに導尿管になってしまったと自分でメールを打って知らせてきた。病院からも連絡があり、姉と一緒に船橋まで駆けつけた。その日はもともと姉が面会に行く予定で、前夜遅くにつくったという雪の下ニンジンでポタージュを持参しており、酸素マスク姿の母に絶句していた。だが、母はまだ少しばかり元気があったのか、酸素マスクをさっさと外して、姉手製のポタージュを何口も飲んで、おいしいと喜んでくれた。母が口にした食べ物は、それが最後となった。  

 その日、母の家の玄関先に、近所の人からオミナエシの苗が届いていたので、その旨をメールであとから知らせると、「花の会」でつくっている花壇のいちばん右側に植えてくれと返事が返ってきた。いまメールを読み返してみると、その翌朝、もう一通、夜明けから息苦しくほとんど眠れなかったという旨の返信があり、それが母からの最後のメールになった。  

 その真夜中過ぎ、姉のところに病院から電話があり、翌日は面会時間にかかわらず、早めにきてくれと言われたため、私が横浜から始発で駆けつけた。母はナースステーション前の部屋に移され、人工呼吸器を付けられていた。主治医との面談で、ステロイド以外の免疫抑制剤も使えないかと質問してみたが、すでに良好だった左の肺にも症状が広がっていて手遅れで、あと2、3日もてばよいだろうと宣告されてしまった。非常に苦しんでいるので、一両日中に緩和剤を投与せざるをえず、そうなれば意識がなくなるので話はできなくなると伝えられた。  

 あまりの急展開に、すぐに姉や娘、甥・姪に一斉メールしたところ、その午後早くに全員が仕事を切り上げて駆けつけてくれた。コロナ期間中のような厳格さはないとはいえ、まだ病院の面会は制限されており、本来は1日1組、3名まで、12歳以下は面会禁止となっている。だが、最後の機会ということで、母が入院直前まで面倒を見ていた4歳のひ孫は特別に従業員通用口から入れてもらえることになった。籠原に住む姪がさらに幼い息子2人を連れて車を飛ばしてやってくると、病院のスタッフも諦め顔で、目をつぶってやはり面会させてくれた。今年2月下旬に生まれたばかりのひ孫だけは、動画での対面になった。ベッドの周囲に全員集合したのを眺めて、母は「何だかお葬式みたいだねえ」とぽつり。笑うべきか、泣くべきか、困ってしまった。その後、母の弟夫婦がきてくれたときも、まだ意識はあったが、ひどく苦しんだその夜から緩和剤の投与を始め、付き添えるように個室に移った。  

 姉と交代で横浜から通い、個室で付き添う日々が始まり、簡易ベッドで母の苦しそうな呼吸音と方々から聞こえてくるさまざまな電子音に聞き耳を立てながら、細切れの睡眠を取った。夜間に何度も痰の吸引はしてもらったものの、母は酸素の流量を減らしても、取り込み量は安定した数値を保ち、血圧その他も正常値でありつづけた。しかし、これでは母の意思とは裏腹に、意識のないままチューブにつながれた状態が何カ月もつづくのではないかと逆に心配になり、その旨を主治医に伝えると、じつは悪かった右肺の症状に改善が見られるのだという。ただし、血小板の値は下がっているので、多臓器不全になる可能性も高いと。回復の見込みは数%と言われたが、それに望みを託して長期戦を覚悟した。個室で付き添いつづけたら、こちらの身も懐ももたないと考えて、ナースステーション前の部屋に戻すことにした。  

 その翌日、通常の面会時間に母に会いに行ってみると、呼吸数が減り、酸素の取り込み量が大幅に下がっていた。看護師にその旨を伝え、血圧を測ってもらったが、手足で4回測ってもエラーになった。面会時間は20分なので、いったん母の家に戻って早めに夕食を済ませて待機していたところ、案の定、容体が思わしくないからきてくれと電話があった。付き添いたいのであれば、個室に移るようにと言われ、またもや慌ただしく部屋を移った。横浜から姉と姪が到着するまで、母が生きていてくれと念じながら、どんどん数値の下がる母を見守った。一度、大きくむせながら痰を吐きだしたほか、心臓発作が3度もあり、そのたびに私は慌てふためいてナースコールをした。入院期間を通じて、看護師や介護士の方々はじつにこまめに母の世話をしてくれ、緊急時にも冷静に手際よく対応してくれた。

 夜になって姉と姪が到着し、その後、仕事帰りの私のいとこも3度目の見舞いにきてくれ、4人で見守るなか、母の心拍数はどんどん下がり、ついに0となったが、それでも呼吸はつづき、逆に呼吸が止まっても心拍数が復活するなどしていたが、最後はついにどちらの数値もなくなった。ナースステーションでモニターを見ていた看護師たちはその後すぐにきてくれたが、臨終のときを私たち家族だけにしてくれた配慮はとてもありがたかった。  

 余命2、3日と宣告されたときに、近所の葬儀屋に連絡を入れてあったので、母の亡骸は個室代が新たに追加される真夜中ちょうどに、病院から搬送されていった。湯灌・美症は頼まなかったので、化粧の得意な姪が、その前に母のやつれた顔をごく自然な形できれいにしてくれた。孫に死化粧してもらえた母は幸せ者だ。私も母の口を懸命に閉じて少しは手伝い、髪を整えてやり、そうする過程で死がさほど怖いものではなくなった。  

 子育て真っ最中で、臨終の場に駆けつけられなかったほかの孫たちは、この間ずっと、母の古い写真から近影までを使って、毎晩、子どもを寝かしつけたあとの時間を使って母の生涯を動画にまとめてくれた。会葬者に手渡す挨拶文も、母らしい自由な形式のものを自分たちで製作したので、この2週間ほどの私たちのメールは膨大なものとなった。 

 母はお墓も決めていなかったので、並行して疎遠になっていた親戚と散々やりとりをした結果、実家である門倉家のお寺に入れてもらうことになった。祖父母や叔父など近親者だけでなく、私がこの10年近く調べてきた門倉伝次郎も眠る墓なので、私としてはそこが母の墓所にもなることはたいへん嬉しい。 

 葬儀には、親族が、はるばる大阪からも駆けつけてくれたほか、母が長年お世話になった高根台近隣の人びとが30人ほど集まってくださり、87歳のお婆さんにしては、盛大なお葬式となった。娘が体調不良のなか制作してくれた挨拶文が、印刷屋から当日夕方まで届かず、会葬者には姪っ子が原稿をコンビニのコピー機で両面コピーしたものを最後にお渡しするというハプニングはあったものの、電子ピアノを運び込んで姉が伴奏をし、会葬者一同で歌を歌って、母を見送ることができた。BGMは姉が弾いたピアノ演奏のCDを、異母弟が上手に操作して流してくれ、お棺には、母が咲くのを楽しみにしていたベランダのレモンの一枝と、花壇で育てていたネモフィラを一株入れてやり、母の長年の友人が庭の花を切ってもってきてくれた大きな花束を蓋の上に載せた。

 頭骨が丸々出てきた祖父ほどではなかったが、母も顔面の骨がしっかりそれとわかる形で出てきた。私の孫はそれをしげしげと眺め、すぐさま「絵描く!」と言いだしたが、姪っ子の長男は怖くて抱っこされたまま後ろを振り返れなかった。私たちそれぞれに貴重な体験をさせてくれ、母は旅立っていった。母には生き方も、死に方も学んだ。本当にありがとう。 

 最晩年に『アマルティア・セン回顧録』を喜んで読んでくれたことが、私にはよい思い出となった。

母が他界した翌朝、ようやく一輪の花が咲いたベランダのレモン

最初は恐々だったが、頰に手を当てて、「ヒーバー冷たいね」という言う私の孫

習志野の茜浜の斎場からは海が見えた