2014年7月31日木曜日

神田小川町

「愛宕山に参って、下谷に寄って、松坂通って、目黒さんに参って、花坂下りて、お花を摘んで、お池のまわりをぐるっと回って、碁石を拾って、方々で叱られて、無念なことよ、お臍でお茶沸かせ」。こんな遊び歌をご存じだろうか? 頭、額、眉、目、鼻、小鼻、口、歯、頬、胸、臍と順番に触りながら歌う。 「東京市、日本橋、蠣殻町、パン屋のおツネさん」というのもあった。手の甲に、指一本、二本と線を引き、くすぐって、叩いて、つねる、という「一本橋こちょちょ」に似た遊びだ。いずれも母が、自分の祖母たちから教わった遊びで、母もよく孫たちにやって大受けしていた。  

 曾祖母のタケさんは神田の材木問屋の娘で、「松竹梅」ではないが、マスとウメという姉妹がいたというのが、私の聞かされていた話だった。目がぎょろりとして刈り上げ髪のモダン婆さんで、母は子供のころ一緒に住んでいたが、どうも苦手だったらしい。そのタケさんの生まれた場所が「神田区小川町一番地」であることがわかり、先日、梅雨の明けないうちにこの界隈を回ってみた。  

 私は長らく神田松永町に勤めていたので、須田町まではときどきでかけていたが、小川町はどこに位置するのか、いま一つ理解していなかった。娘の鳥グッズでお世話になっているバードウォッチング専門店ホビーズワールドが小川町なので、地下鉄の最寄り出口からお店までのほんの数メートルは知っていたが、私の頭のなかでその「点」はどこにもつながっていなかった。ネット上で明治時代の地図を見つけ、あれこれ調べるうちに、いまさらながらここが御茶ノ水駅から駿河台下まで下りた一帯、ちょうど学生時代にスキー用品を買いに足繁く通ったヴィクトリアやニッピンの店が並ぶ界隈であることを理解した。  

 曾祖母が生まれたのは1883年(明治16年)。江戸末期(1863年)の切絵図では、小川町絵図は内神田から飯田橋まで広がる広大な地域で、日本橋川沿いには騎兵当番所の馬場や洋学研究機関の蕃書調所があり、現在の小川町には老中だった稲葉長門守の上屋敷をはじめ、大名屋敷が並んでいた。小川町公式サイトによると、「明治5年(1872)、周辺の武家地を整理して小川町となり、明治11年、神田区に所属」したそうなので、曾祖母の家はその跡地に乗り込んだのだろう。明治時代には「東京を代表する繁華街」で、夏名漱石の『坊っちゃん』の主人公が「四畳半の安下宿に籠って」父の遺産である600円を投資して3年間学んだ東京物理学校や、「神田の西洋料理屋」がある学生街でもあった。  

 材木問屋は神田佐久間河岸にたくさんあったようだが、なぜ曾祖母の家は小川町にあったのだろうか。元禄時代に防火対策で、材木置場は深川猟師町や木場に移動させられたとのことなので、住む場所はどこでもよかったのかもしれない。佐久間河岸とどのくらい離れているのか確かめたいこともあり、浅草橋駅で下りて神田川沿いの通りを歩いてみた。見慣れた秋葉原周辺まではほんのわずかな距離で、そこから万世橋、須田町の交差点を通って靖国通りに入り、あっという間に小川町に着いた。なんと、ホビーズワールドの2軒先のビルが、漱石も訪ねたという金石舎のビルだった。美濃国の高木勘兵衛が1887年に創設した鉱物・宝石店らしい。表通りには昔を偲ばせるものは看板の文字くらいしかなかったが、裏通りに回ると、少なくとも昭和初期くらいの民家が二軒まだ残っていた。小川町界隈には以前にお世話になった編集者の事務所や神田医師会、白水社などがあった。稲葉家の屋敷神として祀られていた鍛冶屋稲荷は、幸徳稲荷神社と名を変え、ビルのなかにあった。この界隈はあちこちにお稲荷さんがあるが、開発の波のなかでどれも肩身が狭そうだ。  

 タケさんは、貧乏でも商売人ではなく医者と結婚したいと思ったそうだが、18歳で嫁いだあと、大勢の子供をかかえて早くに寡婦になったあげくに、関東大震災で焼けだされるという波瀾万丈の人生を送った。晩年の厳しい表情の写真からは、神田でニコライ堂の建設を眺めながら育ったであろう少女時代は想像がつかない。「洋画を観るのが好きな洒落た方だった」という親戚の言葉が、小川町の歴史を調べてようやく少し理解できた。

 佐久間河岸

 ニコライ堂