2013年5月31日金曜日

船体験

 ブライアン・フェイガンの『海を渡った人類の遥かな歴史』という本が河出書房新社から刊行された。私にとって彼の著書を訳すのはこれで5冊目になる。これほどの縁になった理由が、本書の序文を読んだとき初めてわかった。70年におよぶ彼の航海人生の原点に、子供のころ読んだアーサー・ランサムの本があったと書かれていたのだ。私も子供のころランサム全集にはまった一人で、昨年は小説の舞台の一つとなったコニストン湖まで行ってきたほどだ。彼の根底にある価値観に、私が共感してきたのは無理もない。  

 とはいえ、自分のヨットで世界の海を旅してまわるフェイガン氏とは異なり、私の海の経験と言えば、彼が嫌う大型クルーズ船やフェリーの旅くらいしかない。帆船に乗った経験は一度もないし、カヌーやボートも川や湖でしか漕いだことがない。5万年以上におよぶ人類と海の歴史を探ろうとする本書を訳すには、私はあまりにも力不足だった。関連書をあれこれ読んでみたが、なにしろ「海を解読する」と彼が表現するものは、スポーツや芸術分野の体で覚える感覚と同様に、文字では伝えきれないものだ。大海の真っ只中で波と風に翻弄される体験は、実際にそれと闘った人にしか理解しえないだろう。それでも、その感覚を少しでもつかめたらと思い、時間を見つけてはあちこちに足を運んだ。  

 数ヵ月前には、和船に乗れる場所があることを知り、江東区の横十間川親水公園まで行ってみた。江戸時代、この一帯は縦横に運河が張りめぐらされ、多数の船が行き交っていた。この文化をいまに伝えるために、和船友の会の人たちが伝馬船、網船などに無料で乗船体験をさせてくれる。少しだけ櫓も漕がせてもらった。  

 ここで知り合った人に勧められ、神奈川大学で開かれた国際常民文化研究機構主催の研究発表会にも行ってみた。ミクロネシアのカロリン諸島ポロワット島で、手に入る材料のみを使い、上半身裸の太めのおじさんたちが大勢でわいわいがやがや楽しげに、ひたすら人力だけで大型外洋カヌーを建造する過程を撮影した貴重な映像記録などを見ることができた。蔓を巻尺代わりに使い、中央の位置は蔓を半分に折って決める人びとに、生きる力を見た気がした。そのほかに、これまで素通りしていたみなとみらいの日本丸にも初めて乗ってみたし、御座船安宅丸に一人で乗って東京湾ミニクルーズもしてみた。  

 しかし、この本が追究するのは造船の歴史ではない。海図もコンパスもなかった時代、自分がいまどこにいるのか、どこへ向かっているのかも定かでない状況で、人はなぜ海に乗りだし、どうやってその海を読み解いたのかを探るものだ。最初はもちろん、陸地から離れず、目立つ陸標を頼りに航行した。地乗りとか、山あてと呼ばれる航法だ。簡単そうに思えるが、山並みだって見る方角によってまるで違うし、天候によっては見えないこともある。船乗りは空を眺めて天気を予測し、季節ごと、日ごと、時間ごとの風、潮流、干満の変化を知り、水深を測り、五感であらゆる兆候を察知しながら慎重に海にでていった。六分儀もない時代に、太平洋に点在する小島へ渡っていった人びとの知恵と勇気は私の理解を超える。それでも高所から遠方を眺め、太陽の位置で方角を推測し、風向きを肌で感じ、日没点の変化をたどるなど、ささやかな努力はしてみた。体で覚えるこういう感覚こそが、本当の生きる力になる。怖いけれど、いつか私も本物の海を味わってみたい。

 コニストン湖

 日本丸

 横十間川親水公園

 御座船安宅丸

『海を渡った人類の遥かな歴史』
ブライアン・フェイガン著、河出書房新社