2021年12月28日火曜日

不定時法

 今年も残すところあとわずかとなったのに、またもや見込み違いで、年末にはとうてい仕事が終わらず、締め切りを1カ月ほど延ばしていただいた。まだ年賀状にも取りかかれないまま、訳し終えた部分から見直しを進めて小出しに提出する、「三枚のお札」作戦の真っ最中というところだ。いろいろ考えていること、書きたいことはあるのだけれど、如何せん時間も気持ちの余裕もないため、目下の近況だけ、年末のご挨拶代わりに書いておくことにした。  

 今年の前半は、以前にも書いたように、時間と時計に関する面白い本を訳しており、少し前に訳者あとがきを書きながら改めて明治初めまで、日本で使われていた不定時法について少しばかり調べてみた。高緯度の地域ほどではないにしろ、冬と夏では日の出、日の入り時刻に数時間のずれがある日本では、年間を通して空が白んできたら起床できるように時間のほうを変えていたというのは、何やら逆転の発想のようで、とても新鮮だった。

 時間を変えるのは年間24回、二十四節気に合わせていて、その点では太陽暦であったことなどを知ると、実際に試してみたくなる。巧妙な仕組みになっていた和時計を1台欲しいところだが、うちは東向きでもあるので、取り敢えずは日々の日の出時刻の変化を1年間おおよそ(起きられる限り)追ってみようと思い立ち、冬至の少し前から始めてみた。  

 街灯や門灯の明かりが入るので、真夜中でも完全な暗闇ではないが、夜明け前にほんの少し空が明るくなると、ものが見えるようになる。最初の光はカーテンの上の隙間から射し込むので、欄間が高い位置にあったのはそのためでもあったのではないだろうか。つまり目覚まし代わりとして。電気のない時代であれば、日の出前のこの30分ほどの時間、明け六つは、とても貴重だったに違いない。  

 私がいつも利用させていただいているKe!sanサイトによると、冬至の明け六つは6時11分だが、春分・秋分は4時54分、夏至は3時49分と変化していた。横浜の冬至の日の出時刻は6時47分だったが、やや内陸部に住んでいるので、うちの近所の小高いところから実際に太陽が見えたのはその7分後ほどだった。周囲に民家が密集するうちのアパートでは40分ほどあとでなければ太陽は見えない。  

 冬至前の12月18日には、横浜の日の出時刻は6時45分だったので、そこから少しずつ遅くなったわけだが、実際には日の出時刻は冬至後もどんどん遅くなり、いちばん遅いのは1月7日ごろらしい! これは地軸が傾いているからだという。かたや日の入り時刻はいちばん早いのが12月6日ごろで、冬至のころには実際にはどんどん日が暮れるのが遅くなっていたのだ。確かに晩秋にいちばん日暮れが早く感じるし、クリスマスを過ぎるとすでにだいぶ日が長くなったような気がする。ただし、日の出・日の入りで厳密に計算すると、冬至の日はいちばん昼の時間が短くなるそうだ。そんなことも知らずに、ただ柚のお風呂に入って満足していたのかと思うと情けない。  

 冬至の日の出を見に行った朝、周囲の色がどんどん鮮やかになるにつれて、近くの木で眠っていたらしいヒヨドリが一羽、また一羽とけたたましい声をあげて飛び立っていった。

「たいようがでるまえに、さいごの ねぼすけも とびたった」という、娘の新しい絵本『ハクセキレイのよる』(福音館 ちいさなかがくのとも 2月号)の最後の一文がふと浮かんだ。冬季には街路樹などをねぐらとするハクセキレイの一夜を追っただけの静かな物語だが、小さな読者が自分の知らない夜の時間の話にどんな反応を示すのか楽しみだ。月刊誌なので店頭に並ぶ期間は短いため、ご興味のある方は早めに探してみてほしい。  

冬至の日の出

『ハクセキレイのよる』とうごうなりさ作 
 福音館、ちいさなかがくのとも2022年2月号

2021年12月14日火曜日

ブリジェンス追記

 昨日、たまたま別件で検索中にたいへん詳しい面白いサイトを見つけ、ついあれこれ読んでしまった。建築史家の泉田英雄氏のサイトと思われる。『埋もれた歴史』を書いた際に、私もイギリスの公使館や領事館について少しばかり調べたのだが、このサイトには明治以降のものを中心に、建築学的な観点からかなり詳しい経緯が綴られていた。  

 目下多忙なので、このサイトから判明した新たな事実をメモだけしておく。まずは、御殿山に建設され、高杉晋作らに焼き討ちされた公使館の設計者はラザフォード・オールコック自身だった!  

 横浜の山手に1867年に建設された公使館は、ブリジェンスの設計で始まったものの、工兵クロスマン少佐(Major William Crossman)が極東に派遣されたあと、その機能に相応しいように設計変更されたのだという。  

 さらに、現在の横浜開港資料館の場所に1870年に建設された領事館では、新たな図面が作成されたのだそうだ! 不恰好と不評だったこの領事館は、ブリジェンスのその他の建築物と似ていないと思ったが、そういうわけだったのか。泉田氏の説明を引用させてもらうと、「構造は木造軸組に石貼り(Stone Casing)で、長方形平面の三つのコーナーに塔屋が備えられ、特異な外観をしている。政情不安な時期にあって、監視塔が必要であったのだと思われる」。そうだったのだ、あの奇妙な塔は、クロスマンの発案だったのだ。  

 そこで思いだしたのが、『ジャパンパンチ』のワーグマンの滑稽な記事だ(1869年8月号)。見張る必要のあった方角だけ機能面重視で塔を設けていたのだ。以下、手書き文字を和紙に木版刷りしたものを読み取った限りだが、こんな内容である。後半部分はとくに、どういう構文なのかさっぱりわからないので、かなり推測混じりだ。正確に読み取れる方がいらしたら、ぜひご教示いただきたい。

 “Illustrious Sir” said a distinguished military officer to General Punch when will your next “heaven inspired” number appear
 “Sir” replied Punch Sama “when you have added the fourth tower to your Consulate building” 
Punch Sama is however merciful and having administered this well merited rebuke should condemn the Public to wait until the arrival of the Japanese Kalends he repents and produces his new and ever fresh Punch. 
 「高名なお方」と、威厳のある将校がパンチ将軍に言った。「『天の啓示』による次の数字はいつ現われるのでしょうか?」〔八卦のことか〕 
「士官殿」とパンチ様は答えた。「貴国の領事館に四つ目の塔が付け足されたらだ」 
しかし、パンチ様は慈悲深く、この当然なる批難によって、大衆が糾弾する事態になるのを、彼が悔い改めつねに新鮮で新しいパンチを生みだす日本の朔日〔新暦のことか〕がめぐってくるまで待つように処置した。  

 日本の彫り師がカンマやピリオド、クォーテーションマークなどを見落としていたりするのかもしれない。後半部分のパンチが、『ジャパンパンチ』の新号という単純な意味なのか、日本でしょっちょう年号が変わっていたことへの揶揄なのかも不明だ。『ジャパンパンチ』を老後の楽しみで翻訳してみたいと、ひそかに思っているのだが、多くの人のお知恵を借りなければ難しそうだ。

『復刻版ジャパンパンチ』2巻(雄松堂)より、
 1869年8月号

『Far East』1871年7月17日号